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函館音楽協会セミナー
三澤寿喜:
『掟破りのベートーヴェン~その功罪~バロックの視点から見たベートーヴェン以降の音楽解釈』
2015 年 3 月 14 日(土曜日)13:00~15:30 北海道教育大学函館校多目的ホール
お断り:以下は当日のセミナーそのままの講義録ではありません。セミナー終了後、函館音楽協会ホームページに講義録を掲載す
るという有難い機会をいただきましたので、当日、話し足りなかった内容なども付加し、新たにまとめ直しました。当日は楽譜資
料を配布しましたが、ここでは省略しました。文章だけの説明では分かりづらい点も多々あると思いますが、ご了承ください。
2015 年 4 月 20 日
三澤寿喜
【ベートーヴェンの功罪】
ベートーヴェンは形式や和声、楽器法の改革者であったが、同時に、強弱に関しても偉大な改革者であった。
彼はバロックから古典派までの強弱の規則(音楽の「基本文法」と呼ぶこととする)に反する、言わば「掟破
り」のアクセント(>、sf、pf など)を使用した。それによってベートーヴェンは古典派の時代までとは比較に
ならないほど表現の幅を大きく拡大した。これは彼の偉大な功績のひとつである。
彼は、①「基本文法」に即した自然なアクセントと、②それから逸脱した斬新なアクセントを、表記上、区別
することなく、多用している。しかし、多用するからと言って、①「基本文法」に即した自然なアクセントの全
てを楽譜上に表記した訳ではない。つまり、彼の楽譜にはアクセントが表記されていなくとも、
「基本文法」に照
らせば、当然アクセントを付けるべき音は無数に残されている。
このようなベートーヴェンの楽譜は混乱を招き易い。アクセント表記のない音にはアクセントは不要であると
誤解したり、反対に、彼の斬新なアクセントに慣れ過ぎると、本来、
「基本文法」に照らせば不要な音にまで、誤
って過剰なアクセントを付けてしまうのである。
「このような混乱を生み出した元凶はベートーヴェンである」と私は彼を非難したい。と言いながら、ベート
ーヴェン自身に罪がある訳ではないことを、私はよく知っている。非難されるべきはベートーヴェンではなく、
彼の作品を正しく理解しない演奏者の側なのである。
【古楽の発展】
このような過ちはベートーヴェン作品に限らず、ベートーヴェン以前のバロック時代や古典派の時代の音楽、
ベートーヴェン以降のロマン派の音楽においても見られる。それは、過去の作品を後の時代の演奏者が演奏する
際、作品が誕生した時代様式に沿うのではなく、演奏者自身の時代様式に沿って解釈することに起因する。しか
も、そのような過った解釈は強弱に限らず、音楽様式全般に及んでいる。19 世紀以降、バロックや古典派の作品
が過ったロマン派的解釈で演奏されている例(あるいは、された例)は枚挙に暇がない。
A. スカルラッティの有名なアリア Sento nel core における'core'の歌詞組(音節配分)を変更したり、A. スカ
ルラッティのアリア Già il sole dal Gange や、ヘンデルのアリア Lascia ch’io pianga の拍子を書き換えたり(3/2
拍子を 3/4 拍子に:拍子記号は重要な表情記号であるにもかかわらず)
、モダン・オーケストラでベートーヴェン
の交響曲を演奏する際、第 3 番《英雄》の第1楽章において、原曲のナチュラルトランペットでは演奏不可能な
音をモダン・トランペットに演奏させたり、第 5 番《運命》の第 1 楽章、再現部において、原曲ではファゴット
が担っている第 2 主題の導入音形を、楽器法を勝手に変えて、モダン・ホルンに担わせたり、ベートーヴェンの
ピアノ・ソナタ第 7 番の第1楽章で原曲にはない(当時のピアノの音域を超えた)高音を使用したり、等々。ま
た、バロックの管弦楽作品を後期ロマン派並みの巨大編成で演奏するのもあまりに時代様式とかけ離れている。
このような様式外れの演奏への反省から、20 世紀半ばに、特にルネッサンスやバロックの音楽を中心に、作品
をそれが誕生した「当時の素顔のままに再現しよう」とする運動、すなわち「古楽」が始まった。
まず、基本とする楽譜は後の時代の解釈を加えない、当時のままの楽譜を使用し(原典主義)
、当時のままの楽
器や奏法、調律法を用い、装飾法を含む演奏解釈もその時代様式に則った演奏を目指した。20 世紀半ばの草創期
の古楽演奏は研究的側面が前面に出過ぎ、つまらないものであったが、1980 年代から、古楽を専門とする優れた
指揮者、演奏者、団体が続々と現れ、生き生きとした、劇的な演奏で聴衆を魅了するに至っている。
【
「音群」分析の重要性】
古楽演奏では、基本的に作曲家の自筆譜を最も重視するが、バロックの作曲家達は楽譜に強弱やアーティキュ
レーションをほとんど書いていない。しかし、何も書いていないからと言って、当時の演奏者達が強弱のまった
くない平板な演奏をしていた筈はない。むしろ、書かなくても通じる、最低限の共通の規則に則った、生き生き
とした演奏が繰り広げられていた筈である。この最低限の共通の規則が「基本文法」である。
何も書かれていない楽譜に強弱を設定する作業とはすなわち重心を設定する作業である。
そのためには先ず、抽象的な音の連続の中で、どこからどこまでが音楽的に意味をもつ最少のまとまり(以下
「音群」
)であるかを見定めなくてはならない。そして、
「音群」の集合体がフレーズとなる。文章における句読
点のように、演奏において、フレーズや「音群」はそれと分かるように表現される必要がある。
「音群」の終わり
には小さなコンマ( ,)を挿入し、フレーズの終わりにはピリオッド( .)を打つのである。
「音群」が決まると、初めて重心設定が可能となる。重心とは「音群」の中の最も重要な音であり、それは通
常、他の音より強く、すなわちアクセントを付けて表現される。ただし、重心はその音を強くすることによるだ
けではなく、場合によっては、その音を長めに演奏することによっても表現できる。これは強弱のないチェンバ
ロやオルガンにおいて有効であるし、楽器の種類を問わず、固い表現より、柔らかな、あるいは深い表現が求め
られる場面でも有効である。基本的に音楽はこの重心に向かってクレッシェンドし、重心を過ぎるとデクレシェ
ンドする。
「音群」の解釈によって重心の位置は変わり、クレシェンドやデクレシェンドの方向性も逆になる。こ
のように「音群」設定は演奏解釈の根幹に関わる、最も重要な作業なのである。
なお、作曲家によって既にフレージング・スラーが書き込まれたロマン派以降の作品では「音群」分析は不要
とするのは早計である。ロマン派以降の作品であろうと、フレーズは小さな「音群」の集合体であることに変わ
りはなく、きめ細かい表現のためには「音群」分析は絶対に必要なのである。
【重心(アクセント)の「基本文法」
】
音群の中に重心を見出す際の「基本文法」は以下のとおりである:
1 基本拍節構造によるアクセント
音楽は拍節構造によって最も基本的なアクセントを持っている。
1)小節単位:4拍子であれば、その4拍は順に「強・弱・中強・弱」となり、3拍子では「強・弱・弱」
となる。
2)拍単位:表拍は強となり、裏拍は弱となる。あまりに単純な原則であるため、見落とされがちであるが、
バロック作品では、この表と裏のコントラストを強調しただけで、十分劇的な演奏効果が得られる場合が
多い。
2 基本拍節構造より優位となって重心をもつもの。
これらは基本拍節構造によって得られるアクセントを補強することもあれば、基本拍節構造を逸脱したアク
セント移動を生み出し、生き生きとした表現を得る。
1)長音価:音群内で最も長い音価の音にアクセントがある。
2)スラーの開始音:2 音スラー、3 音スラーなどにおいては開始音がアクセントとなり、後続音は弱く、短
く、
「抜く」ような表現となる。
3)非和声音(単音単位)
:倚音や掛留音はアクセントを持つ。解決を要する音は緊張状態にあり、アクセント
を持つ。そして、解決すると脱力する。刺繍音、経過音は基本的にアクセントをもたない。しかし、音群
解釈によって、刺繍音や経過音は倚音にも変わる。
「音群」分析の重要性はここにある。
4)不協和音(和音単位)
:前項3)と同様、解決を要する和音は緊張状態にあり、アクセントを持ち、解決す
ると脱力する。
5)属七、減七など:属七も減七も解決を要する和音であるため、4)と同様の効果を持つ。なお、カデンツ
で現れるⅠ46 - V7 - Ⅰの和声進行において、Ⅰ46 もV7 への解決を要する和音であり、同様の効果を
持つ。
6)付点音符:音価の長短と関わらず、付点音符はアクセントを持つ。もちろん、アクセントの強さは音価と
関連して相対的である。
7)各種の装飾音(トリル、モルデントなど)
:本来、トリルはその音を強調するために付けられるものであり、
ほとんどアクセントと同義と捉えて良い。
以上の関わりは複合的であり、3)
、4)
、5)は、1)や2)と組み合わせると一層効果的である。ま
た、非和声音・不協和音・属七・減七の和音は長めに、解決音は短めにしても効果的である。付点音符の
アクセントを消したい場合は、付点音符をその先行音とスラーで結ぶと、2 音スラーの原則が優先されて、
先行音にアクセントが移動する。すなわち、以上の原則中、最も優位にあるのは2)のスラーなのである。
このため、3)
、4)
、5)が本来求める効果がスラー付けによって台無しになることもある。バロック作
品にスラーを付す場合は、この点に対する注意が必要である。
以上の原則に「旋律線の型による強弱」を加えることで、
「音群」の強弱は完成する。
「旋律線の型による強弱」の基本原則は以下の通りである。
1)上行=デクレシェンド
2)下行=デクレシェンド
3)山型=旋律の形のとおり、頂点に向かってクレシェンドし、その後デクレシェンド
4)谷型=山型と対称的に、谷底に向かってクレシェンドし、その後デクレシェンド
よくある誤解は、上行はクレシェンド、下行=デクレシェンドというものである。上行も下行も、
「昇りっきり」
、
「下りっきり」はデクレシェンドし、到達音は「抜く」のが原則である。ただし、両者ともその途中で一旦クレ
シェンドすることも可能である。また、到達音が長音価の場合、長音価アクセントの原則が優位となるため、到
達音に向かってクレシェンドし、到達音を最強音とすることになる。
以上は声楽・器楽を問わず、また楽器の種類も超えた、言わば普遍的「基本文法」である(ただし、声楽曲に
おいては、
「基本文法」に基づく「音群」や重心設定が、歌詞の句読点や文節、言葉のアクセントと一致しない場合
もある。この厄介な問題については別の機会に譲ることにする。
)
バロック作品を演奏する際、
「音群」分析ののち、
「基本文法」に照らして強弱を施すが、基本拍節構造に則っ
たアクセントだけでは音楽は平板なものになる。そこで、より生き生きとした、彫りの深い演奏を実現するため
に、リズムや和声を注意深く分析し、スラー付けを工夫することによって、演奏者自らが独創的なアクセント移
動の可能性を探るのである。これがバロック作品の演奏の醍醐味である。
【バロックの視点から見たベートーヴェン以降の作品~その検証例】
バロックの視点とは、すなわち「古楽」の視点のことであり、もっと端的に言えば「基本文法」のことである。
ベートーヴェンや、ショパン、シューマンの作品には強弱に関する情報が既に豊富に書き込まれている。しかし、
それらが「基本文法」に即したものなのか、それから外れた「斬新な表現」なのかなどについて、常に検証する
必要がある。
1 ベートーヴェン 交響曲第 6 番 へ長調 《田園》 第 2 楽章
第 17 小節では、3 音スラーの第2音にアクセントが付いている。これは「スラーは開始音にアクセント」の原
則から逸脱しているし、奏法上も不自然なアクセントである。そのため、極めて斬新な演奏効果をもつ。
2 ベートーヴェン 交響曲第 6 番 へ長調 《田園》 第 4 楽章
第 43 小節、第 47 小節などで、第1ヴァイオリンの 3 音スラーの最終音に sf が付いている。これも逸脱表現
であり、奏法上も極めて不自然。それだけに斬新。
3 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第 1 番 へ短調 第 3 楽章 Menuetto Allegretto
「メヌエット」とありながら、2 拍目や 3 拍目への強烈なアクセント移動が頻繁に起こっている。それらがも
たらす「おどけた」表情は既に完全な「スケルツォ」
。古典派の交響曲やソナタにおける典型となっていた優雅な
メヌエットを、刺激的なリズムをもつ「スケルツォ」に置き替えたのはベートーヴェンであるが、1793 年の本作
はその最初の例。
4 ベートーヴェン 交響曲第 1 番 ハ長調 第 3 楽章 Menuetto Allegro molto e vivace
1800 年作曲の交響曲第 1 番のメヌエットも速度指示と、2 拍目、3 拍目への強烈なアクセント移動により、実
質「スケルツォ」である。なお、ベートーヴェンが交響曲で「スケルツォ」と明記するのは第 2 番から。
5 ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ 第 5 番 へ長調 《春》 第1楽章 Allegro
第 25 小節では、2 拍目に sf が付いている。これは逸脱表現。このような表現を彼は好んで用いるようになる。
しかし、この表現に慣れ過ぎると、ベートーヴェンに限らず、他の作曲家の作品において、sf が表記されていな
くとも、過って 2 拍目にアクセントを置いて演奏してしまうことになる。
次はそのような演奏例である。
6 ケンプによるベートーヴェン ピアノ・ソナタ第 5 番 ハ短調 第 1 楽章 Allegro molto e con brio
ケンプは時折、楽譜に指示がないにもかかわらず、1 拍目より 2 拍目にアクセントを置いて演奏する。その結
果、彼の演奏は総じて重厚な印象を与えるものとなっている。これは、ケンプに限らず、20 世紀半ばに活躍した
大家達の共通の様式であるように思う。この背後には、長い受容史の中で形成された「ベートーヴェンは重厚で
力強い」という固定観念があるのでは? ベートーヴェンは年代とともにピアノを何台も取り替えた。初期のソ
ナタは、モーツァルトも使用していたのと同じ、ウィーン式の軽いアクション機構をもつピアノで作曲された。
この作品の「素顔」は、モーツァルトの延長線上の、案外もっと軽快なものなのでは?
7 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第 8 番 ハ短調 第 1 楽章 序奏 Grave
ベートーヴェンは sf や fp を豊富に書き込んでいる。にもかかわらず、この序奏全体には、表記がなくとも、
「基
本文法」に照らせばアクセントが必要な箇所はいくつもある。一例を挙げれば、冒頭 2 小節において、第1小節
の 1 拍目に fp がありながら、その小節の 3 拍目(減七)にも、次の小節の 3 拍目(不協和音)にもアクセント
はない。この序奏は、ベートーヴェンが必要なアクセントのすべてを書き込んだ訳ではないことを示す好例。
8 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第 8 番 ハ短調 第 1 楽章 主部 Allegro di molto e con brio
35、39、43 小節から現れる四分音符の連続には、常に裏拍から表拍にかけて「属七(減七)ー解決」という
和声進行が潜んでおり、和声進行を強調した音群解釈も成り立つ。つまり、裏拍から表拍へと連結した「音群」
であり、躍動感あるアクセント移動が得られる。
9 ショパン スケルツォ第 2 番 変ロ短調
この作品には様々な問題が含まれていて興味深い。
1)2 音スラー効果を台無しにするペダル:ベートーヴェンのスケルツォと異なり、ショパンのスケルツォは、
アクセント移動が目立たず、スケルツォ本来のおどけた表情に欠け、スケルツォらしく「流麗さ」が前面に出て
いるように思う。しかし、よく観察すると、随所で、3 拍目から 1 拍目にかけての 2 音スラーによる強烈なアク
セント移動が起こっている。ただ、ペダル指示に従うと、その効果は持続音の中に埋没する。
2)フレージング・スラーと和声上の「音群」の不一致:たとえば、647 小節以降、延々と続く流麗な旋律にお
いて、
「非和声音ー解決」という和声上の「音群」と、フレージング・スラーが一致しない。理解に苦しむこのパ
ターンは連続的に何回も発生している。
ピアニスト伊藤亜希子さんの協力を得て確認した限り、現在、一般に使用されている数種類の楽譜のいずれに
おいても、ここに指摘した「ぺダル指示」や「フレージング・スラー」は同様の表記となっている。それらがシ
ョパン自身の指示なのかついては要検証。
10 ショパン バラード第 4 番 ヘ短調
その終結部、263~237 小節の十六分音符の 3 連符の連続について、春秋社『井口基成版』
(1974)では基本的
に各小節の冒頭音にアクセント。これは単に基本拍節構造に依ったもので、いささか陳腐。しかし、この部分に
は 263 小節の 5 拍目の裏から 264 小節の 3 拍目の頭までで形成される、拍節構造からは逸脱した「音群」が潜ん
でいる。計 5 回現れるその「音群」の開始音にアクセントを付けると、アクセント移動が起こり、躍動感が生ま
れる。音群分析とは連続音の中からいかに「意味あるまとまり」を見出すかの作業である。
11 シューマン 《謝肉祭》より Coquette
5 小節以下、両手ユニゾンによる 2 度下行(もしくは同度下行)する 2 音が計 15 回現れる。それらを 2 音ス
ラーとするかどうか、スラーとする場合は、規則どおり、冒頭音にアクセントを置くかどうかについて、音楽之
友社『世界音楽全集』と『クララ・シューマン校訂譜』の間で大きく異なっている。
『クララ譜』の方が概ね納得
がいくが、版によってこれほどの相違があるのはなぜか、シューマンの自筆譜を検証する必要がある。
12 ショパン ワルツ 変ニ長調 《子犬のワルツ》
親しみ易い名曲ながら、強弱については厄介な問題が多い。
1)フレージング・スラーと音群:
確認した楽譜のいずれにおいても、
93~108 小節までは大きなひとつのフレージング・スラーで括られている。
しかし、それにもかかわらず、この 16 小節はそれぞれ 8 小節から成るフレーズ 2 つに分割でき、その 8 小節は
3 つの「音群」に分けられる。それぞれの「音群」を表現するためには、楽譜に書かれている大雑把な強弱以上
にきめ細かい強弱が必要。ロマン派の音楽においては、フレージング・スラーを構成する「音群」の存在がとか
く見落とされがち。
2)不必要な 2 拍目アクセント:
102 小節と、最終 214 小節では左手の 1 拍目と 2 拍目に四分音符がある。楽譜上、2 拍目にアクセントは付い
ていないが、2 拍目を強く演奏する例が多いように思われる。これはベートーヴェンの《春》に見られた「掟破
りの表現」に慣らされた結果であり、基本に照らせばアクセントは不要。
【まとめ】
バロック時代や古典派の時代までは楽譜上、表現に関する情報は皆無か限定的で、演奏解釈は演奏者に委ねら
れていた。一方、ベートーヴェンは楽譜に詳細な情報を豊富に書き込み、自分のアイデア通りの再現を強く望ん
だ恐らく最初の作曲家である。彼の姿勢は、後期のピアノ・ソナタにドイツ語で詳細な表情指示を書き込んだこ
とや、メトロノームによる速度指示をいち早く採用したことに象徴的に表れている。しかし、どんなに詳細であ
ろうと、所詮、音楽において完璧な表情指示は不可能である。べートーヴェン作品であろうと、それ以降の作品
であろうと、楽譜に書き込めなかった情報は山ほどあるし、書き込まれた情報についても、それがすべて正確な
ものかどうか、あるいは妥当なものかは疑問の場合もある。
「楽譜は疑ってかかるべきもの」なのであり、いかな
る時代の作品であろうと、バロック作品に対すると同様、真っ白な状態から「基本文法」に沿って解釈し直し、
楽譜に書かれた強弱やフレージング・スラー、ペダルなどの指示の妥当性を自ら判断することが求められると思
うのである。