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平成 27 年朝倉市社会教育委員の会自主研修資料
杷木地域における文化遺産
平成 27 年 5 月 22 日 (金)
於
行
程
杷木志波 普門院 国重文本堂 国重文十一面観音立像
杷木志波 円清寺 黒田 24 騎栗山備後利安創建
国指定重文 朝鮮鐘
柿畑
志波の富有柿
紙漉
志波紙
高山
香山(?) 斉明天皇と朝倉の宮
中世秋月氏と原鶴合戦
道の駅
ファームステーション バサロ
夕月神社 中世山城の跡と桜並木
文字社
国天記 久喜宮のキンメイチク
杷木神社 上座郡鎮守社 杷木地名の由来
朝倉市内各所
1.広大山 普門院
普門院は、天平19年聖武天皇の勅願により僧行基が筑後川畔に創建したと伝え
られています。福岡県下では最古の木造建築物(九州では2番目)で、最初は広大
山普門寺と号していましたが天和年中普門寺の号を改め、普門院と称したと伝えら
れます。もともと寺は筑後川畔の中島にあったといわれていますが、度々の水害に
より、現在地に移築されたとのことです。移転の時期がいつ頃かは現存する資料が
ないので不明なのですが、現存の建築様式が鎌倉時代と認められているので、その
頃であろうと考えられています。創建より現在に至るまで幾度か改修がなされてお
り、現在の本堂は、3間四方の建物ですが、以前は5間×4間の建物であった事も
確認されています。昭和13年までは、現在のおおいぶき(ビャクシン~県指定天
然記念物~)の横に立っていましたが、建物の損壊が著しく抜本的修理の必要性に
迫られ、福岡県の監督のもと改修工事が行われています。それと同時に、存在して
いた場所が湿気の多い所だったため、現在の地に移築されています。
2.普門院本尊~十一面観音像(国指定重要文化財)
十一面観音像は、本面一と、頂上十を加えて十一面の場合と、頂上が十一で本面
一を加える場合があります。普門院のものは後者の属するもので、高さ1.76メ
ートルの漆箔の立像です。髪髻は瓜状の簡素なもので、白毫は水晶を嵌入、顔は豊
頬ですが、眉・ 眼・口などの彫りは一様に浅くなっています。わずかに腰をひねり
右足を遊ばせて立ち、
手は豊満で長く右手は垂下して数珠をもち、左手は掌を前
にして華瓶をもっています。 大腿部の張り出しはつよく、またきわめて長いが膝
以下は短小です。ただ、天衣は下裳 をまとうのみですが、下裳は前に薄く後ろに
厚く、姿勢は極めて美しく、古い形姿を残しているものの、彫りは一般に浅く、穏
やかで鋭さがなく衣文の線も流麗であり、こと
に天衣の刻みは様式化がすすんでい
ます。この普門院本尊十一面観音像は寺伝によると、行基菩薩一刀三礼の作で聖武天
皇等身大の仏像と言われていますが、調査の結果、弘仁期(810~823)の作と
いうことです。
3.龍光山 円清寺
龍光山円清寺は江戸時代の始め頃当地を治めていた筑前国黒田藩の家老であっ
た栗山備後利安(栗山大膳の父)が慶長9年に没した黒田高孝(如水)
《黒田長政の
父》の菩提を弔うために建立したものですので、同寺の山号・寺号もその法名「龍
光院如水円清居士」からとられたものになっています。そのため円清寺には黒田高
孝(如水)や黒田長政の位牌やその縁の品が保存されており、その多くは貴重な文
化財として当時の華やかなりし文化の一端を今に伝えてくれています。とくに、同
寺の銅鐘は国指定の文化財として多くの人々の注目を集めています。この銅鐘は黒
田長政が円清寺に寄贈したもので、伝来については諸説あるものの、高麗時代初期
(10世紀初頭)の朝鮮鐘として当時の様式美をよく伝えてくれます。
また、昔、
干ばつが続いた時はこの鐘を筑後川に運び水につけると雨が降ったという非常に興
味深い説話が残っています。この説話の他にも同寺の本尊であるおしどり観音を題
材とした説話など赴き深いお話しが伝わっています。
円清寺は栗山氏の菩提寺であり、その故か円清寺からは麻天良城がよく見えます。
特に建物の中にある庭の景色は、麻天良城が借景として使用されており、なんとも
いえない幽玄の美しさを持ち、四季折々の鮮やかな風景を愛でることができます。
優美で美しいと云われる鐘の音と、いまに伝わる文化の数々、麻天良城を中心と
した風景など失われつつある日本の美がここにはあるようなきがしませんか。
4.杷木地域における柿栽培の開始
明治の初めまでは、柿といえば渋柿の事で、家の庭先や、山に植えられ栽培管
理はされていませんでした。農家の縁側を彩る吊るし柿(干柿)は秋の風物詩で
したが、現在は、その風景は見られず、紅葉した柿畑が秋を代表する風景と言え
そうです。これは、富有柿を代表とする甘柿が増えたためと言われています。
志波の甘柿栽培の起源は、山鹿氏によるものと言われています。元々山鹿氏は
画家一家として知られていましたが、医者としても有名になっていました。
その、山鹿昌文氏の長男である秀実氏が志波での甘柿栽培の草分けと言われて
います。農家の収入を上げようと言う目的で始め、当初は試行錯誤を繰返してい
ましたが、やがて岐阜から仕入れた甘柿の生産に成功し、これが起源となったと
言われています
5.中世秋月と原鶴合戦
原鶴の合戦は天正九年(西暦 1581 年)の秋に、筑前国の秋月種実の軍勢が筑後国
・井上城主・門注所治部少輔鑑景(もんちゅうしょ あきかげ)を案内者として、筑後
国・生葉(いくは)郡に進入したことに始まります。
筑後国・長岩の城に門注所刑部少輔統景、町場興兵衛が立て篭もって大友氏の味
方をしますが、多勢に無勢なので、なかなか秋月氏の軍勢を防ぎ返す事は出来ませ
んでした。
そこで、飛脚を立てて豊後国(大友氏)に急を告げます。これにより、大友宗麟は
生葉に軍勢を向かわせました。
以前から、日田郡・玖珠郡の警備に配置していた朽網(たくみ)宗暦を大将とし、
三千余人を日田より直ぐに筑後国・生葉郡に向かわせたのです。
十一月四日、大聖寺の援軍・朽網宗暦は大聖寺の城攻めに取り掛かり、門注所治
部少輔鑑景、森播麿守実方(秋月種実の家人)を攻めました。
秋月種実は是を聞いて、大聖寺の援軍には自分自身が行かなくては敵わないだろ
うと、内田善兵衛、長谷山民部少輔を先陣に決め、秋月の城を出て麻底良(までら)
の城に入りました。
ここに三日間逗留し、旗本の軍勢を集め、八千余人で香山に陣を置きました。
大友方も、朽網宗暦が大聖寺の城を攻めれば、秋月方の援軍が来るだろうと用心
していたので、一萬田氏の五千余人が豊府を出発して生葉に向かい、朽網軍と合流
して大聖寺を取り巻き、筑後川の長瀬を渡って針目の城に陣を築きました。
秋月方は是を見て、原鶴に陣を張って待ち受け、戦いが始まりました。
秋月氏は事前に豊前の高橋元種(秋月種実の弟で、高橋家の養子となる)にも
出陣するように言い衝けておいたので、高橋元種は夜を日についで十一月七日の夜、
生葉郡の池田という処に着きました。そして、じっと潜伏して合戦が始まるのを待
っていました。
豊後勢(大友勢)は、この事にまったく気づきませんでした。
翌、十一月八日に八千余人の軍勢が、原鶴に到着して矢戦を始め、敵味方入り
乱れての戦いとなりました。このような最中に豊後勢(大友軍)の中から、野上
上野入道一閑と名乗る荒武者が、三尺五寸(116cm 位)で白柄の長刀で、草を刈
るように秋月勢を薙ぎ倒しました。
秋月方の軍兵は、この勢いに辟易して、三町ばかり後退した。そこに秋月方の
武士・三奈木弥左衛門の子で弥平次という二十二歳の若武者が、秋月種実の前に
進み出て、
「それでは、野上の首を取って、味方の兵を安心させて戦を致させま
しょう」と云い、
「自分も討たれるかも知れないので、最後の盃を頂戴致したい」
と言いました。武士に二言は無いので、止めても止めないだろうと、最後の盃を
さそうと土器を取り寄せ、秋月種実自らが三奈木弥平次に二度酌をした。弥平次
は大いに悦んで、三度の酌で盃を置いて、馬を引き寄せて打ち跨り、山の下に
撃って出ました。
秋月種実も弥平次を死なすのは惜しいと、木所(きど)玄蕃、横内七郎左衛
門、曾我平右衛門を差添えました。弥平次は敵が近くないので、
「秋月が士、三
奈木弥兵次と云う者なり。高名したりと伺い給う野上殿に見参せん」と懸け向
かいました。
それで、野上上野入道一閑が出合い、大長刀を以って山王の森を南北に馳廻
り、弥平次と戦いました。暫く勝負がつきませんでしたが、二人は騎乗したま
まで取っ組み合いとなり、両馬の間に二人とも落ち
ました。この時、三奈木に
添っていた秋月の武士・木所、横内も下馬し、終に上野の首を討ち取りました。
是を見た豊後(大友軍)の大勢が、槍先を揃えて、三奈木弥平次を始め、木所
(きど)玄蕃、横内七郎左衛門を討ち取りました。
その後は、敵味方入り乱れての戦闘となり。戦の最中に高橋元種の伏兵(秋
月方)が池田の大きな竹薮の中から一斉に立ち上がり、豊後勢(大友軍)の背後
より、囲いを作って進んで来ました。豊後勢は前の秋月勢のみと戦えば良く、後
ろは味方なので安心していたところに、不意に後ろから伏兵が起こったので、慌て
騒いで山王の森長瀬方面に逃げ始めました。
秋月、高橋、両家の軍勢は勝ちに乗って、囲いを作って敵を追いました。豊後
勢はと云えば、敵に追われて千年川(筑後川)の水に溺れ、死ぬ者が後を絶たな
かったと伝えられます。 秋月方に討ち取られた首の数は七百五十であったと言
われています。
秋月軍は、原鶴に集結して勝鬨を挙げて、麻底良(までら)の城に引き上げ、
豊後勢は、この戦で能士が多く討死にしたので、筑後国に在陣することも出来な
くなり、皆、日田郡や玖珠郡まで、引き返したと伝えられます。
美奈宜神社は、下座郡の式内社です。式内社とは「延喜式」(平安時代の法律書)の
神名帳に載っている神社の事です。美奈宜神社は貞観元年(859)に従五位上という
神階が与えられたという事以外は資料が少なく不明です。
伝承によれば、神功皇后が羽白熊鷲を討伐する際に、喰那尾山に陣地を布いた事
に始まるとされます。無事戦に勝つことができたので、山麓の川の辺にヒモロギを
建て、後に仁徳天皇の勅願によって神社を創建したと伝えられます。天正二年(1574)
に秋月種実によって現在の場所に社殿が建てられたと言われます。
三奈木地域に 12000 石を与えられた。黒田一成は、神職、社僧 36 人を有し、村民
の心のよりどころであった美奈宜神社が、秀吉の九州征伐のとき、ことごとく破壊
され、数十年間、放置されていた事を嘆き、寛永 16 年(1639 年)に再建し、記念
に銀杏を植えたと伝えられます。銀杏は現在、大樹となり、神木として、夏は緑、
秋は黄葉となり、歴史を秘めて美しい景色を醸しだし、三奈木のシンボルになって
います。
6.あさくらの宮と斉明天皇
朝倉市では朝倉の宮が俄然注目されています。もちろんそれなしに朝倉の古代を語る
ことはできませんが、その他にも古代山城である杷木神籠石や、奈良時代の役所跡であ
る井出野遺跡、それにともなう倉庫と比定される八並遺跡など興味の対象はつきません。
古代寺院の存在も指摘され華やかな文化が花開いていたことが想定されます
①杷木神籠石
②朝倉の宮
斉明天皇の出兵
斉明天皇の足跡
斉明天皇と朝倉の宮 木の丸殿
白村江の戦い
その後の日朝関係
綾の鼓
EX 神宮皇后の足跡 (朝倉地域に残る神宮皇后伝承)
7.久喜宮のキンメイチク
金明竹の種類は様々で、竹の種類と同じように、孟宗竹・淡竹・真竹とあります
が、杷木の金明竹はその中でも真竹のものに分類されます。孟宗竹や淡竹のもの
は例が多いと報告されますが、真竹のものは特に珍しいといわれています。
金明竹の特徴は金色の竹肌に緑の従線が入っていることです。
昭和初期に国の天然記念物として指定されたときはかなり立派なものであったと
報告されていますが、まわりの環境に押され次第に衰微しています。
後日、指定地が拡大され、よく管理されている文字社の境内のものが追加指定と
なりました。
8.杷木神社
杷木神社は、上座郡一帯の総鎮守社で、その創建は古く、第二十六代継体天皇の
頃といわれていますが、昔杷木一帯が大友氏の所領であったころ戦火により寺社仏
閣ことごとく焼き払われたためにその縁起を伺いしることはできません。
この神社には、泥打ちまつりおしろいまつり程ではありませんが、「杷木神社鎮
祭という変わったお祭りが伝わっています。このまつりは、約300年程続いてい
る行事で春・秋二回行われます。
(新暦の三月・十二月)この祭りの期間中杷木神
社の氏子は、一切の音を立てることを禁じられ静粛に過ごすことになっています。
さらに、汚物の汲み上げ等も禁じられているのです。以前は子どもが学校に行くと
きに履いていた下駄の音がうるさいと神社の前を通るときは下駄を脱いで通りすぎ
たそうです。このようなお祭りが行われる訳は、普通の神様ならば10月(神無月)
には出雲に神集いに行くために神社は空き家になりますが、杷木神社の神様は一年
中地元にいて氏子の安全と豊作のために働き続けているために、年に2回お休みを
するそうです。そのためにせめてお休みの間だけでもゆっくりしてもらおうという
ことで騒がしくしないのです。これが鎮祭のいわれだといわれています。 他にも杷木神
社には福岡県指定の天然記念物であるけやきの大木があります。樹齢約400年というこ
とですから戦国時代から杷木の地をみていたのでしょうね。
杷木神社縁起より
陰陽二つの馬杷をもって、日子の峯(彦山)に天降られた天忍穂耳命が陽の馬杷を大
己貴命に授け賜い、
「汝、これより南の国を豊かにせよ」と仰せられた、大己貴命は勅を
奉じ、早速豊後と筑前の境の山に来たり、大きな檜野枝にその馬杷をかけ、そこに鎮ま
り給うたのでそこを把の来た山(把来山)と呼んでいたが、その山裾が二つに分かれて
いたのでいつの頃からか把岐と呼ぶようになったと言われています。