(1)資料

2015年5月
22日(金)佐賀市内見学 夜 「佐賀徐福国際交流の集い」
23日(土)午前金立山へ。午後「徐福を語るフォーラム」参加。
24日(日)「佐賀徐福国際シンポジウム」参加。夕八女に移動
25日(月)八女市内見学 夕福岡から羽田へ
参加者:田島・津越・三田・小野寺・真井・勝俣・石山・伊藤 (敬称略)
(この他、フォーラムのみ参加:前田、 佐賀市内見学同行 池上)
2015年7月15日
神奈川徐福研究会定例会
報告者 伊藤健二
(写真提供者:池上、津越、石山、伊藤)
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佐賀平野は平原広沢?
佐賀市は、水
田地帯が広が
る「平原広沢」
であり、徐福の
時代にも存在し
ていた吉野ヶ里
遺跡もある。
北方は山岳
地帯であり、こ
こに徐福を祀る
金立神社があ
る。
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佐賀市内は、徐福関係の伝説が多く残る。
上陸地から始まり、徐福が堀った井戸、お
手植えの神木などがあり、さらには徐福を
慕った「お辰さん」が「お辰観音」として祀ら
れている。
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金立山麓の金立公園、徐福長寿館
佐賀市は広大な稲作地帯であるが、北側に、標高
約500mの金立山がそびえており、その山頂近く
に徐福を祀る金立神社の上社がある。麓の金立公
園には徐福像と徐福長寿館がある。
↑徐福長寿館
2,200年前に秦の始皇帝の命を受
け、不老不死の仙薬を求めて旅に
出た徐福は、薬草フロフキを佐賀
の地で発見したと伝えられていま
す。その徐福にちなんで「健康と長
寿」をテーマにした資料の展示や、
徐福伝説を紹介する施設です。園
内にはフロフキをはじめ、500種、5
万本の薬草木が植えられていて、
日曜日には花とみどりの講演会が
開催されています。
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(ホームページより)
徐福長寿館館内
5月22日は、佐賀県徐福会大串さんの案内で、市内を見学した。
神奈川徐福会8名と池上先生、石川幸子さん、中国江西省撫州市か
らの客人3名。中央は佐賀県徐福会会長の澤野さん。
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フロフキ(クロフキとも言う)
徐福が求めた
不老不死の霊
薬は、佐賀では
フロフキとされ
ている。根又は
全草を陰干しに
して煎じて飲め
ば、腹痛、頭痛、
のぼせに効くと
伝えられている。
「クロフキ(黒
蕗)」はフキに似
るが葉が黒味を
帯びることによ
る。「フロ
フキ」は「不老
不死」と「クロフ
キ」に由来する。
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佐賀の徐福2 徐福上陸地
↑徐福上陸地に建つ徐福
現地の案内看板→
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徐福お手植えの木(新北神社の「ビャクシン」)
↑新北神社
「ビャクシン」は、中国江南地方に多く自
生しており、ここのビャクシンは、寿令
2200年で、徐福が中国から種を持って
きて、ここを第二のふるさとと決めて蒔
いたという。
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お辰観音
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お辰観音のお堂
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金立山頂近くの金立神社
← 金立神社上社
平安時代の歴史書「三代実録」にも現れる古い神社
で、祭神は保食(うけもち)神、岡象売女命(みずはめ
のみこと)、徐福であり、穀物の神、水の神としてあが
められている。
金立神社と徐福を結びつける最古の文献は、当社に
伝わる江戸時代初期の「金立神社縁起図」で、徐福
上陸が描かれている。
この近くには、江戸時代まで「雲上寺」があり、三千
の坊や五重の塔、鐘楼もあり、神仏混合信仰で賑
わった。
金立神社上社後方の巨石群→
自然崇拝である原始神道の姿を残している。
佐賀県や福岡県西部の八女市一帯は古く
からの修験道の地である。全国の徐福伝承
地が修験道の聖地にあり、ここも修験と関
係がありそうだ。
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金立神社縁起図
金立神社縁起図は絹布3枚継ぎで、縦181セン
チメートル、横107センチメートル、軸装である。
画面は上・中・下の3段に分けられ上段は金立
神社上宮の景観、中段は金立神社下宮、下段
は徐福上陸の場と3部から構成されている。大
和絵に近い筆法であって細密に描かれ、多くの
人物を配して動的に画面を展開させている。
金立神社の祭神にちなむ徐福伝説を描き、金
立神社上宮の景観と信仰関係の遺跡を詳細に
描写している。箱書によれば正保5年(1648) この
縁起図の箱を新調しているが、絵の構図や色彩
等から見て、また現在金立神社下宮に移されて
いる「蓬來島本地弁才天」の石造から考えて、こ
の図は箱が新調された正保年間ごろの作成に
なるものと推定される。
一部に汚損の箇所があり、やや褐色がかって
いるが、神社や寺院などの縁起図としてはすぐ
れており、近世絵画としてもその価値は高く評価
されるものである。また、古い由緒を持った金立
神社の信仰を研究する歴史的資料としての価値
も高い。
(佐賀市ホームページより)
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佐賀徐福・国際交流の集い
↑22日夜は、「佐賀徐福・国際交流の集い」
が開催され、日中韓の交流を深めた。
地元の人たちによる琴の
演奏が行われた。
→
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参加した神奈川徐福研究会のメンバー
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全員で記念撮影
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「徐福を語るフォーラムin佐賀」
23日午後
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徐福国際シンポジウム(5月24日)
↑佐賀県徐福会は、「徐福」の学術研究に力を入れている。2200年前の徐福の時代。
大陸から人が渡ってきた考古学的な痕跡は多くある。例えば人骨の比較、稲作の伝
来ルート、当時の中国の造船技術など。
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徐福の東渡が、決してあり得ないことではないことを明らかにした。
24日夕、八女にレンタカーで八女に移動。
徐福研究家である赤崎さんにお世話になり、
市の宿泊施設に安く宿泊できた。
↑ふれあいの家南筑後と徐福象
↑八女の徐福象 童男童女を従えている。
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地元のご婦人による郷
土料理をごちそうになっ
た。
中国、韓国の客人とも交流→
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八女(福岡県)
童男山古墳
25日は、八女徐福会の案内で
市内を案内していただいた。
以下は童男山古墳の現地看板
の説明による。
寒い冬空の疲れ果てて、とう
とう病に倒れ、地域の人々の
手厚い看護もむなしく、病死し
てしまいました。私達の先祖の
人々は、この身も知らぬ他国
の人を、やさしく、温かく、てい
ねいにほうむってあげました。
そして徐福の安らかな眠りを念
じ、煙が絶えないように火をた
き続けたと伝えられています。
これが「童男山ふすべ」の由
来です。以来地域の人々は、こ
のうるわしい伝統を受け継ぎ毎
年1月20日に童男山ふすべを
行ってまいりました。
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童男山古墳内部
この古墳は6世
紀後半のものと
考えられ、長さ18
mの巨大な石室
がある。中の石
棺は、赤くベンガ
ラが塗られている。
徐福伝説は、石
棺が石化した秦
の舟と考えられて
徐福伝説が生ま
れたと考えられて
いる。(赤崎氏論
文より)
童山山古墳の伝説は、延宝3年(1675年)の久留米藩士
が書いた古文書に記載されている。
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八女古墳群
童男山古墳がある八女古墳群とは
東西約10数kmにわたる八女丘陵上には、5世紀から6世紀にかけての古墳が群集
しており、八女古墳群と呼ばれています。その数約300基と言われ、全国的にも有数
の埋蔵文化財の宝庫となっています。
この八女古墳群の中心的なものとして国指定史
跡 岩戸山古墳があり、北部九州では最大の前
方後円墳と言われています。岩戸山古墳は筑紫
君「磐井」が生前に築いたといわれており、築造
者が判明している極めて貴重な古墳となってい
ます。 八女古墳群からは多数の出土品があり、
特に岩戸山古墳並びにその周辺より出土したと
思われる石人・石馬等の石製品は学術的にも高
く評価され、大部分が国の重要文化財、福岡県
の有形文化財として指定されています。
←岩戸山古墳の石像。
磐井の乱のとき、大和軍により破壊された
磐井の乱とは
ヤマト軍は、527年(継体21年)に百済への援軍
のため朝鮮半島南部へ出兵しようとしたが、新羅
と同盟した筑紫君磐井がヤマト軍の進軍をはばみ、
翌528年(継体22年)11月、物部 麁鹿火(もののべ
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の あらかい)によって鎮圧された。
←八女の茶畑
卑弥呼人形(八女人形会館)→
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徐福研究の分類
1.徐福伝説の継承と掘り起こし
各地の徐福研究会各地の伝説、墓や絵巻などの徐福関連の遺物を研究、紹介する。
行政と協力し、街おこしにも利用する。
各地の徐福研究団体は、基本的にこのパターン
2.徐福の学術的研究
①民話研究(民俗学)
ある民族の伝統的な文化、信仰、風俗、習慣、思考の様式を解明することにある。
また、こうした対象の歴史的変遷とともに、時代をさかのぼりながらその原初形態を
明らかにしようとする。文献資料のほか、現代社会に残存する文化・風習・思考の様
式を重視する。このためフィールドワークによる材料収集を行う
②歴史学、考古学
弥生時代の渡来人の人骨、青銅器や稲作等の文化の伝達経路を研究し、徐福の時
代に大陸から人が渡ってきたことを研究。徐福はその象徴であるが、徐福個人が来
たことの証明とはならない。佐賀県徐福会が力を入れている。
3.歴史愛好家の研究
学術的には歴史研究の資料とはならない、偽書とされる古文書や伝説の中に真実の
歴史が含まれているとして、研究している。 学術的には無理があるものの、物語とし
ては興味が持てる。
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