知的財産の創生につながるトランスレーショナルリサーチ研究者に関する

平成26 年度 MIPペーパー
知的財産の創生につながる
トランスレーショナルリサーチ研究者に関する
一考察
他学部出身の TR 研究者に求められる要因の解析と
次世代研究者育成への応用
東京理科大学 専門職大学院
イノベーション研究科
知的財産戦略専攻
学籍番号 M313062 氏名 吉田 秀昭
指導教員 教員名
澤井 敬史
平成27年1月21日
知的財産の創生につながるトランスレーショナルリサーチ研究者に関する一考察
‐他学部出身の TR 研究者に求められる要因の解析と次世代研究者育成への応用‐
目
1.『明治の研究者に思うこと』
次
-研究に取り掛かるきっかけ-
医学研究者にとって医学とは医療とは/橋渡し研究・トランスレーショナルリサーチ/
医学部と他学部との間の壁/他学部出身の世界的な医学研究者/日本の科学者はいまだに一流
とは言い難い/TR 領域でいまだに燦然と輝く業績を残した日本人医学研究者/
その活力とは/若手、次世代の在り方を探る
2.知的財産と本研究との位置関係
知的財産とは何か/知的財産基本法/知的財産戦略大綱
3.『トランスレーショナルリサーチが抱える問題点』
-研究の背景-
3.1. わが国大学院生の進路志望状況
わが国における博士号取得者数/自然科学系における修士課程修了者の博士課程進学者数/
博士課程に進学しなかった理由/基礎医学研究に携わる医学部出身者数の減少/
他学部出身者が医学領域での研究者を目指す手段
3.2. 明治維新における西欧科学の導入
西欧科学とは 19 世紀の学問/17 世紀の創始近代科学「機械的技芸に基づく科学」/
技術が産業・社会を大きく変える/産業革命とドイツ/技術者との分業、科学の分科/
帝国大学令/パラダイム/科学者が従事する自己の研究の意味/機械論的世界観
4.対象と方法
4.1. 対象研究者と、その略歴及び主な業績
4.2. 対象の組分け
4.3. 方法の概要
4.3.1. 仮定
4.3.2. TR 研究を遂行する上で原動力となり得た出来事や与えられた助言等の抽出
4.3.3. TR に関連する要因の導出
⑴ TR 領域に進出するための主たる要因の導出
⑵ TR 領域に転進するための要因の導出
⑶ TR 領域での実践において出現する要因の導出
4.3.4. TR 遂行に関連する要因の検証
4.3.5. TRs-Ns 間の差異の比較
5.結果及び検討
5.1. TR 研究を遂行する上で原動力となり得た出来事や与えられた助言等の抽出と、TR 遂行に
必要な要因の導出
5.1.1. 高峰譲吉に関連して
5.1.1.1. TR 領域に進出するための主たる要因が形成された時期
父精一の背中/カイコの蛹から、火薬原料・硝酸カリを得る方法を考案/
化学的に探究すること/
ある材料から新しいものを化学的手法により産み出すこと/
政策的な仕組み/自分の生活を確保し自分自身を育ててゆくこと/
人々の生活を確保すること、多くの人々が救われることの尊さ/
他人を育てること/発想の転換/国を育てることの必要性
5.1.1.2. TR 領域に進出するための主たる要因の導出
⒜「探究子」及び「育成子」
精一の研究/何らかの応用・発展を見据えているという共通性/
「探究子」の定義/4つの育成素子/「育成子」の定義
日本固有の、少なくとも東洋固有の材料もしくは事業を研究せよ/
日本の発明的天才/日本人の通弊/純正理化学の研究という基礎
相互作用/自分のみならず他人や国をも含めた利他
⒝「作動子(operator)」=「探究子」+「育成子」
作動子の定義
5.1.1.3. TR 領域へ転進するための要因が意識された時期
英語学習が重要/オズボーンとリッテル/ダイアー/
実際の観察とか経験とかを無視しがちな日本人/エンジニアは真の革命家/
社会のために存在している
5.1.1.4. TR 領域への転進に必要な要因の導出
⒜「誘因子」及び「増幅子」
「誘因子(promoter)
」の定義/「増幅子(enhancer)」の定義
(b-1)「誘因子の3つの機能」
「同化(assimilation)」/「称賛(praise)」/「誘起(evocation)」/
ダイアーとはどのような人物か/ダイアーの関心/エンジニア思想
(b-2)「誘因子」の5つの素性
「簡要性(point)」/「真髄性(spirit)」/「鷹揚性(liberality)」/
「不壊性(indestructibility)」/「時宜性(timeliness)」
⒞「増幅子」
誘因子に類似した性質/作動子や誘因子の増強因子
5.1.1.5. TR 領域での実践において新たな要因が出現する時期
共同研究者・上中啓三/上中の貢献に対する謝意、共同研究者に対する敬意/
5.1.1.6. TR 領域で負に作用する要因の導出
⒜「抑制子」
探究子と育成子の抑制/負の連鎖/「抑制子(suppressor)」の定義
5.2. TR 遂行に必要な要因の検証、及び TRs-Ns 間の差異の比較
5.2.1. TR 遂行に必要な要因の検証(鈴木梅太郎に関連して)
5.2.1.1. 生い立ち(その1)
ⅰ)土地の者は大変な苦労/厚い信仰心/父庄蔵と母つた
ⅱ)松尾利七先生と兄捨蔵/松尾に感化された塾生たち/浴衣のシミ
ⅲ)東遠義塾と福沢諭吉/栄養雑炊/科学は、国の独立自存を守り社会の進歩に
役立つとともに、人間の命を守り生活を豊かにする
ⅳ)小学校の代用教員/農は日本の基、また我が家の仕事
5.2.1.2. 要因の検証
⒜「探究子」について
⒝「育成子」について
(b-1)「自分に対する育成素子」について
(b-2)「他人に対する育成素子」について
(b-3)「ものに対する育成素子」について
(b-4)「国に対する育成素子」について
⒞「増幅子」について
5.2.1.3. 生い立ち(その2)
ⅰ)空想/足尾鉱毒事件・古在研究室の一員として
ⅱ)文部省留学生として/フィッシャー/東洋に於ける特殊の問題/
オリザニン(ビタミン B)
5.2.1.4. 要因の検証
⒜「誘因子」について
⒝「増幅子」について
5.2.1.5. 生い立ち(その3)
ⅰ)米を材料として/動物実験と助っ人島村虎猪
ⅱ)加藤八千代
ⅲ)大河内君はえらい決心でやっている。なんとか盛り上げてやりたいなあ
ⅳ)みな同じ教え子
5.2.1.6. 要因の検証
5.2.2. TRs-Ns 間の差異の比較1(牧野富太郎に関連して)
5.2.2.1. 生い立ち(その1)
ⅰ)親の味というものを知らない/好きだった植物の採集、観察
ⅱ)コレラの流行/
ⅲ)永沼小一郎/植物の知識
5.2.2.2. 要因の検証
⒜「探究子」について
⒝「育成子」について
(b-2)「他人に対する育成素子」について
(b-3)「ものに対する育成素子」について
(b-4)「国に対する育成素子」について
⒞「誘因子」について
⒟「増幅子」について
⒠「抑制子」について
5.2.2.3. 生い立ち(その2)
ⅰ)書籍、顕微鏡の購入と、勧業博覧会見物/理学会という私設の会合
ⅱ)熱心な自由党員として/学問に専心して国に報ずるのが使命/
東京大学・矢田部良吉の研究室
ⅲ)教室への出入り禁止/牧野に敵意を示す者
ⅳ)天性好きな植物の研究をするのが唯一の楽しみであり、生涯の目的/
社会に役立つ有益な仕事/人間愛/思い遣りの心/関東大震災
5.2.2.4. 要因の検証
⒜「誘因子」と「増幅子」について
⒝「育成子」
(b-1)「他人に対する育成素子」と「自分に対する育成素子」について
(b-2)「ものに対する育成素子」について
(b-3)「国に対する育成素子」について
⒞「抑制子」について
5.2.3. TRs-Ns 間の差異の比較2(南方熊楠に関連して)
5.2.3.1. 生い立ち(その1)
ⅰ)粘菌に魅せられた理由/遊びの精神
ⅱ)南方の生家/異質な幼児
ⅲ)博物科教師鳥山啓/英国のリテラーティ(literati)
ⅳ)アマチュアの協力者、研究者を大勢育てた/個人の貢献に対する注意と敬意/
職業の人たちと付き合い、地域生活
5.2.3.2.要因の検証
⒜「探究子」について
⒝「育成子」について
(b-1)「自分に対する育成素子」について
(b-2)「他人に対する育成素子」について
⒞「抑制子」について
5.2.3.3. 生い立ち(その3)
実用向きの研究/模倣型技術発展一辺倒であることへの批判/研究の頓挫/
南方植物研究所
5.2.3.4. 要因の検証
⒜「探究子」と「ものに対する育成素子」について
⒝「国に対する育成素子」について
⒞「誘因子」について
5.2.4.
TRs-Ns 間の差異の検討
6.考察
6.1. 本研究における牧野富太郎と南方熊楠の位置づけ
6.2. TR 領域の解釈
6.3. 現代の研究者に対する本研究の適合性
6.3.1. 現代の他学部出身 TR 研究者に関する事例
抗寄生虫薬エバーメクチンの発見・開発者/大村智
⒜大村にとっての「探究子」と「ものに対する育成素子」
⒝大村にとっての「他人に対する育成素子」、
「自分に対する育成素子」及び「国に対する
育成素子」
⒞大村にとっての「誘因子」
6.3.2. 明治初期と現代における研究者環境の対比
6.3.2.1. 若手研究者を中心にみる現代科学界の環境
6.3.2.2. 明治初期と現代における若手研究者を取り巻く環境の異同
6.3.3 抑制子対策の必要性
6.4. TR の人材育成に関する公共事業の問題点と解決のためのヒント
6.4.1. TR の人材育成に関する経済産業省による事業の問題点
6.4.2. 文部科学省による事業の問題点
6.4.3. 解決のためのヒント
6.4.3.1. 大学院入学前の作動子形成
6.4.3.2. 誘因子及び増幅子として機能すべき大学院
6.5. 次世代 TR 研究者の育成への応用
6.5.1. 使命感を持つエリートであること
6.5.2. 身近な環境と題材から作動子を形成すること
6.5.2.1. バランスの良い作動子の形成
6.5.2.2. 「化学」
、
「ある材料」
、「新しいもの」
、及び「化学的手法」の解釈
6.5.3. 作動子に適した誘因子が出会うこと
6.5.4. 抑制子を可能な限り排除し続けること
6.5.4.1. 抑制子を増長させるおそれがある制度や組織
6.5.4.2. 抑制子の排除のための取組み
6.6. 知的財産とトランスレーショナルリサーチ研究者(結びにかえて)
6.6.1. 本研究にいう知的財産
6.6.2. 知的財産と本研究との位置関係
文献
謝辞
1.
『明治の研究者に思うこと』
-研究に取り掛かるきっかけ-
21 世紀は科学・技術、とりわけ生命科学の時代などといわれて久しい。確かに医学
分野に限ってみても、ノーベル賞受賞がまだ記憶に新しい iPS 細胞の研究成果を、い
ずれは臨床応用につなげることに代表されるように、夢の医療の実現が段々と現実味
を帯びてきているとも囁かれている。その一方で、種々のがんなど、依然として最新
医学をもってしても難治であるとの見解が一般に定着しているような疾病もまだ多く
ある。それでも、医学は、科学の粋を集めて形成された貴重な結晶であると誰もが疑
わない。だが、手術、診断などはわが国では特許の対象とされていないというように、
医学的技術は、他の科学・技術とは一線を画す特殊性も兼ね備えている。医学は、そ
の切り口によって多面的な様相を示す。では、医学あるいは医療とは一体何であるか、
医学研究者はこれをどのように捉えて、各々の研究を発展させようとしているのか。
医学の定義としては、例えば「健康や病気の予防・治療をする学問。」(1) などとす
るものが一般的であり、これをもう少し詳しくみれば「生体の構造・機能および疾病
を研究し、疾病の診断・治療・予防の方法を開発する学問。基礎医学・臨床医学・社
会医学・応用医学などに分けられる。」(2) ということになろう。このうち、基礎医学
とは、
「医学の研究・教育・実践上の専門分科のうち、直接患者の診療に携わらないも
のの総称。」(2) であり、臨床医学とは、「基礎医学に対して、病人を実地に診察・治
療する医学。」(2) という位置付けになる。
これに対し、医療とは、「医学の実践」を意味する(3)。医学研究者は、自己の研究
の範疇が基礎医学にあるか、臨床医学にあるかの如何にかかわらず、医療の実現を何
らかの形で意識しながら、日夜、研究に取り組むのが通常である。
それにもかかわらず、米国では「医学、生物学における基礎研究の投資が、新しい
診断、治療、予防に結実していないのではないか」という懸念が高まり、これを受け
2003 年に米国 National Institutes of Health (NIH) が、臨床研究・橋渡し研究の拠
点整備を発表したとされる (4)。橋渡し研究とは、
「基礎研究の成果を臨床現場での活
用へ橋渡しをするために実施する研究」をいい (4)、トランスレーショナルリサーチ
(TR)、すなわち、
「基礎研究で発見された新規発見を臨床に応用・発展するために必要
1
な一連の研究」(5) とほぼ同義である (4)。慢性骨髄性白血病治療における分子標的
薬イマニチブの登場が、TR に対するアカデミア及び産業界の意識を大きく変化させた
とされるが、その後、わが国 TR において所期の目標を達成したケースは少ないといわ
れている (6)。
基礎研究、TR のいずれも、その遂行は、医学部出身の研究者によるばかりでなく、
医学領域に乗り入れた他学部出身の研究員又は大学院生によるところも大きい。しか
し、日本では「医学部と他学部との間の壁がきわめて厚い」とされ、医師でない他学
部出身の研究者が、医学部ないし医学研究機関においてその待遇をはじめとする種々
の差別を受けているとみられている (7)。
こうした背景がある中で、わが国においてもこれまで、花房秀三郎、吉田光昭、谷
口維紹 (8) などに代表される他学部出身の世界的な医学研究者も多く輩出されてい
る。かつて個人的に世界から認められた日本人医学・生化学者の中には、北里柴三郎
(破傷風)、志賀潔(赤痢)、山極勝三郎(人工化学発癌)などの医学部出身者のみな
らず、高峰譲吉(アドレナリン等)、鈴木梅太郎(ビタミン B1等)など、他学部の出
身としてその大きな存在感を示す先人もいた。こうした巨星たちが歴史に光彩を放つ
にもかかわらず、日本の科学者はいまだに一流とは言い難いという指摘もある (9)。
このように、わが国においては、医学研究者の個人評価、TR の成果の両面で、世界
的には必ずしもまだ十分とは言い切れない現状にあると思われる。その一方で、高峰
や鈴木のように、TR 領域でいまだに燦然と輝く業績を残した他学部出身の日本人医学
研究者がいたということもまた歴史的事実である。
本研究では、これら先人が社会的にも極めて大きな利益をもたらす知的財産ともい
えるような素晴らしい成果をなぜ収めることができたのか、その活力とは何であった
のかについて検証し、得られた知見がこれから TR に挑もうとする現代の研究者、特に、
若手、次世代の在り方においてどのように活かせるかについて考察した。
2
2.知的財産と本研究との位置関係
筆者は、東京理科大学専門職大学院において知的財産を学ぶ者に過ぎず、教育論を
専攻する者でもない。それにもかかわらず、本研究において「TR 遂行のために必要な
次世代の在り方」というような教育論的なテーマにまで及ぼうとする場合、そのこと
が知的財産とどのように関係するのかというところから始める方が、核心に近づける
可能性は些か高くなると思われる。
そこで、まずは本研究にいう「知的財産」とは何かというところを手始めとし、一
連の研究作業の後にもう一度、知的財産を自分なりに捉え直してみたい。
「知的財産」が、「発明、考案、・・・その他の人間の創造的活動により生み出され
るもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性が
あるものを含む。
)
・・・」
(知的財産基本法2条 1 項)と法的に定義されていることは
よく知られている。さらに同法 21 条には、「教育の振興等」、同 22 条には「人材の確
保等」について規定され、国が主体となって、これらに関して必要な施策を講ずると
される。同法に先立つ知的財産戦略大綱(2002 年)でも、当然ながら教育論的な幾つ
かの記載があってそこに目が留まる。例えば「行政機関は、初等・中等教育を通じた
創造性ある人格の形成・・に努める」、「大学・公的研究機関等における研究者は、報
酬のみが目的で研究しているわけではないが、例えばノーベル賞などを受賞しない限
り、一般の人にはなかなか認知されない。多くの若者に、研究者がいかに素晴らしい
ものであるかということを知ってもらわなければ、将来の我が国を担う世代が研究者
になろうという夢を抱かない。」、
「小学校の早い段階から自由な発想、創意工夫の大切
さを涵養する教育を行い、その後、年齢に応じた知的財産教育を通じて、独創性・個
性を尊重する文化環境を構築していかねばならない。」「2002 年度以降、知的財産意識
の啓発、創造性の重要性に関する教材、副読本の提供など、初等・中等教育における
知的財産に関する教育の推進を図る」、「小中学生の発明・創意工夫への興味を高め、
独創的なアイデアを尊重する意識を育てるため、2002 年度以降も、広報等を通じて、
先人たちの優れた発明を学び、創造することを楽しむ機会や知的財産制度への理解を
深める機会を通じた知的財産意識の育成を図る。」などとある。
3
上記法による定義規定において本研究に関連すると思われることは「その他の人間
の創造的活動により生み出されるもの」という部分である。また、上記大綱の記載に
関し、TR 遂行のために必要な次世代の在り方を考える上で影響するように思われるの
は、
「涵養する教育」と「先人たちの優れた発明を学び」という部分だけである。寧ろ
「多くの若者に、研究者がいかに素晴らしいものであるかということを知ってもらわ
なければ・・・」などにあっては、その「研究者」の中に、少なくとも簡単に TR 研究
者を含めるべきではないだろうという感を強く抱く。そもそも「素晴らしい」とは何
を意味するのか。
上記大綱の内容は、産業をはじめとする人間社会において、一見すると役立ちそう
なものを創造するときの、単なる表面教養的知識を羅列しているに過ぎず、
「TR 遂行の
ために必要な次世代の在り方」と「知的財産」との関係を考える上で標識たり得るも
のはほとんど何もない。そこに並べられた提言をただ眺めていても、これらの位置関
係や在り方を見出すことにはつながらない。
したがって、この研究においては、知的財産とはここでは一先ず「人間の創造的活
動により生み出されるもの」として研究を進め、終局的には大綱や法定義には縛られ
ないで、知的財産とは何かを見つめながら、上記関係についても明示することとする。
4
3.
『トランスレーショナルリサーチが抱える問題点』
3.1.
-研究の背景-
わが国大学院生の進路志望状況
わが国における博士号取得者数は、理学、農学、工学、保健(医学、歯学、薬学及
び保健学)のいずれの分野でも 2006 年のおよそ計 18,000 人弱をピークに減少し続け
ている (10)。自然科学系における修士課程修了者の博士課程進学者数は 2004 年度を
ピークに減少して、2014 年には、ピーク時のおよそ 75%程度の進学率だった (11)。
博士課程に進学しなかった理由としては、いずれの分野でも「そもそも進学を考えな
かった」、「博士課程の教育研究が魅力的でない」、「将来への不安」とするものが併せ
て 80%以上を占め、制度や研究自体に対して否定的な理由が共通して多くみられた
(12)。他方、基礎医学研究に携わる医学部出身者数が減少し続けており、将来の医療
を考えると深刻な状況にあるという指摘がある (13, 14)。これらのことから、医学領
域の研究者を志望して他学部から乗り入れる大学院生の数も増加はしていないと考え
られる。
他学部出身者が医学領域での研究者を目指す手段としては、それぞれの学部の修士
課程(又は博士前期課程)を修了した後、博士課程(又は博士後期課程)として医学
研究科などに進む場合などの他、医学部学士入学制度を利用することも考えられる。
わが国の医学部においては、大阪大学が 1975 年に、4年制の他学部卒業生(学士)か
ら選抜された学生を医学部3年次に編入して医学教育を行う学士入学制度を最初に設
置し、その後全国 30 以上の大学で同制度が導入された。同制度は、人間性と人格の備
わった成熟した医師の育成、多様なプレメディカル教育を背景とした特色ある医師の
育成を目指して導入されたといわれる (15)。しかし、この制度によって選抜された医
学部生の大半は卒後臨床医としての道を歩んでいることが明らかとなり、このことか
ら、学士入学制度は多様性のある臨床医を養成するには優れた制度であっても、研究
者の養成には必ずしも適切な制度とはいえないことが指摘された (15)。
以上のように、他学部出身者が、大学院、特に博士課程において医学教育ないし医
学研究教育を受ける機会は寧ろ減少しているとみられ、さらに、自然科学の各分野に
おいても博士課程進学率の伸び悩みがあるという指摘を踏まえると、わが国の TR を担
5
う次世代研究者の育成は到底十分とは言えないと考えられる。
このような現況とは対照的に、高峰譲吉や鈴木梅太郎など先人の業績は、輝かしい
ばかりである。これらの先人は、幕末から明治時代にかけての、わが国現代科学の黎
明期に誕生している。その史実の幾つかを振り返る前提として、この時代に移植され
たわが国の科学及び技術について、先行の研究文献に基づき簡単に触れる。
3.2.
明治維新における西欧科学の導入
明治政府は富国強兵、殖産興業、文明開化の実現のために、早急に西欧科学を移植
しようとした。その西欧科学とは、ガリレオやニュートンの時代の 17 世紀の創始近代
科学とは異なり、第二の科学革命を経て発展した 19 世紀の学問であった。熱力学や電
磁気学の基礎が確立された時代のものである。
17 世紀の創始近代科学とは、第一の科学革命における「テクノロジー科学」、すなわ
ち「機械的技芸に基づく科学」と呼ばれるものである (16)。「機械的技芸」は、聖堂
建設、絵画制作等、種々の職人芸を意味する (16)。これに対し、こうした手仕事を軽
蔑していた大学の学者は技芸ではなく、「哲学」を担っていた (16)。やがてこれらが
接触し、高度な知識を持つ職人が登場するとともに、技芸に学びこれを哲学にする一
部の学者も登場したとされる (16)。この時代は、自然も生物も機械として捉え、専ら
分析の技法によって対象を実証し理解していったとみられる。探究は、学者や職人だ
けでなく、医者、商人、裕福な貴族などの階層によっても行われていた (17)。こうし
て 17 世紀には、科学は一定の方向性を示しつつあったものの、まだ科学に関する哲学
や技芸の専門化、分科はみられなかった。
18 世紀半ばから始まった産業革命によって、蒸気機関による紡績機や、運輸、鉄鋼
などの技術が次々と生み出され、技術が産業・社会を大きく変えることが人々に認識
された (18)。産業革命は、その後のフランス革命を経て生じた第二の科学革命に大き
な影響を及ぼした。産業革命では、ワットの熱効率向上に関する技術など数々の発明
が生まれたが、ドイツは、このような遺産を科学的、理論的に大学制度において研究
したと考えられている (18)。ここに科学者が職業専門家として確立され、技術者との
分業や、科学の分科が起こった。19 世紀の科学は、技術の効率を高めるということが
最大の関心事の一つであり、これ以後、科学と技術の結合 (18)、ないしは相互交流
6
(19)、が常に諸科学・技術の一般的性質として意識されるようになっていった。
わが国においては、1886 年(明治 19 年)に帝国大学令が公布された。その主たる目
的は、ドイツにおける科学・技術の発展を模範に追随するためであり、法科、医科、
工科、文科、理科の各分科大学を「学術技芸の理論及び応用を教授する所」、大学院を
「学術技芸の蘊奥を攻究する所」
(帝国大学令第2条)とした。明治初期の日本人科学
者は、19 世紀の西欧科学を一定の範型(パラダイム)として習得していったとの指摘
がある (20)。科学者を目指そうとする者は、パラダイムに対し、やみくもに批判した
り、懐疑的であることなく、いわば「学生実験」のように、予め知られている「得ら
れるべき結果」を実際に得ることができるようにトレーニングを積んでいったとする
ものである (20)。明治政府がパラダイムとした科学は、既に触れたように、科学と技
術の結合を意識しているものであり、科学の分科のみならず、科学者と技術者の分業
ということも意識されているものだったとはいえる。ただ、明治初期の、移植された
ばかりの科学に基づく研究は、概ねパラダイム取得の延長上にある、取得した手技、
手法を用いて何らかの分析を試みようとしたものが多かったようである。初期の長岡
半太郎(物理学)の研究は、何らかの新しい技術を産み出すものでなく、物質の原始
的構造を究めるものでもなかったし、牧野富太郎(植物学)の研究にしてもルーチン
ワーク的な色彩が強かったとされている (20)。だが、やがて分科した科学の専門熟成
化と、各学問の接触、融合が図られながら、徐々にオリジナリティーのある研究がわ
が国でも自発的に登場するようになっていった。そこに科学者間の熾烈な業績競争が
生じたのは当然である。殖産興業という名目のもと、技術のみならず、その土台とな
る科学そのものの発展に尽力することが国益であると広く考えられるようになったで
あろうことにも頷ける。但し、ドイツも日本も、科学者自身が従事する自己の研究の
意味をさして問わず、業績競争をしていたであろうとされる (21)。また、当時最新の
19 世紀の科学ではあってもその特徴は、依然としてニュートンやデカルトの流れをく
む「機械論的世界観」(22) に満ちていたものであり、その流れの大部分は、今日の、
現代科学においてさえも本質的に変わりないと捉えられている。
7
4.対象と方法
4.1.
対象研究者と、その略歴及び主な業績
対象とした明治時代における研究者は、高峰譲吉(以下、項目表記を除き、単に「高
峰」とする。)、鈴木梅太郎(以下、項目表記を除き、単に「鈴木」とする。)、牧野富
太郎(以下、項目表記を除き、単に「牧野」とする。)、南方熊楠(以下、項目表記を
除き、単に「南方」とする。)である。各人の略歴と主な業績については、表1に記載
した通りである。
表1.対象研究者と、その略歴及び主な業績
4.2.
対象の組分け
高峰と鈴木については、トランスレーショナルリサーチ領域における業績を残した
組(TRs)、牧野と南方については、非トランスレーショナルリサーチ領域における業
績を残した組(Ns)とした(表1)。
8
4.3.
方法の概要
4.3.1.
仮定
TRs(高峰及び鈴木:TR 領域において業績を残した組)は、TR 領域における幾つか
の業績が知られている(表1)。TRs には TR 遂行に必要な共通の要因があって、両者が
素晴らしい成果を出すことができたのは、この要因を完備していたためであると仮定
した。一方、Ns(牧野及び南方:非 TR 領域において業績を残した組)は、この要因を
完備していないため、TR 領域では大きな成果を出さなかったと仮定した。
4.3.2.
TR 研究を遂行する上で原動力となり得た出来事や与えられた助言等の抽出
今回対象とした TRs 及び Ns の各者は、いずれも明治時代に科学ないし技術の分野で
活躍した著名な研究者であり、今日においても自身の発言や書面による見解、その者
に関する他人の証言等の記録が多数残されている。
そこで、4.3.1.の仮定を検証するために、これらの記録に基づき、まず高峰(TRs)
の行動をその生い立ちに基づいて分析し、行動の変化に伴う信条や理念を継時的に観
察した。これにより、高峰が TR を遂行するに至る上で原動力となり得た出来事や与え
られた助言等、及び自己の信条等、TR に関与したであろう要素の抽出を試みた。
4.3.3.
⑴
TR に関連する要因の導出
TR 領域に進出するための主たる要因の導出
4.3.2 で抽出した出来事や助言等に基づき、高峰が TR 領域に進出する際に有
したであろう信条や思想との関係について検討した。その結果から、高峰が TR
領域に進出する主たる要因を導き出した。
⑵
TR 領域に転進するための要因の導出
4.3.2 で抽出した出来事や助言等に基づき、高峰が TR 領域に転進する際に有
したであろう信条や思想との関係について検討した。その結果から、高峰が TR
領域に転進するための要因を導き出した。
⑶
TR 領域での実践において出現する要因の導出
4.3.2 で抽出した出来事や助言等に基づき、高峰が TR 領域での実践において
上記⑴及び⑵以外の要因が出現するか否かについても検討した。
9
4.3.4.
TR 遂行に関連する要因の検証
4.3.3.で導出した各要因について検証するために、鈴木(TRs)の行動をその生い立
ちに基づいて分析し、行動の変化に伴う信条や理念を継時的に観察した。これにより、
高峰と同様に、鈴木が TR を遂行するに至る上で原動力となり得た出来事や与えられた
助言等を抽出することを試みた。抽出された要素が、4.3.3.で導出した各要因に該当
する否かについて検証した。
4.3.5.
TRs-Ns 間の差異の比較
Ns に関しても、その生い立ちに基づいて行動を観察し、その分析から Ns の研究にお
ける信条や思想との関係について検討した。その結果から得られた Ns における非 TR
での研究遂行に関与したであろう要素が、4.3.3.で導出した各要因に該当するか否か
について検証し、TRs と Ns の間の差異を比較考察した。
10
5.結果及び検討
5.1.
TR 研究を遂行する上で原動力となり得た出来事や与えられた助言等の抽出と、
TR 遂行に必要な要因の導出
5.1.1.
5.1.1.1.
高峰譲吉に関連して
TR 領域に進出するための主たる要因が形成された時期
ⅰ) 高峰は、医師である父精一の背中を見て育った。精一は、坪井信道に師事した蘭
方医であったが、坪井がわが国化学の開祖といわれる宇田川榕庵から医学と化学の手
ほどきを受けた関係で、精一は、坪井を介して医学のみならず舎密(せいみ;化学の
意)を学んだ (23)。精一は、その舎密に関する見識により、加賀藩の軍事機構創設所
である壮猶館(そうゆうかん)の火術方化学教授として登用された (24)。海外から襲
来する軍艦の脅威に対抗する弾薬の研究をするためだった。精一は、養蚕の廃棄物で
あるカイコの蛹から、火薬の原料である硝酸カリを得る方法を考案した。加賀の塩硝
は古くより伝統技術であったが、これを精一が創意工夫して、新技術を開発したもの
だった。
自宅一角に薬局があり、そこでも精一は実験していた。高峰は、このような環境下
で、父の後ろ姿を見つつ自身で実験したところから、人生の比較的早い段階で既に「化
学的に探究すること」のみならず、
「ある材料から新しいものを化学的手法により産み
出すこと」を自然と直接に学び取っていったであろうということができる。
ⅱ) 1858(安政5)年、金沢は 60 年ぶりの大地震に見舞われたとともに、雨続きで大
凶作に陥り、大飢饉と米価急騰のため泣き一揆が起こった。高峰4歳の時である (23)。
このような事態を解決するということが発端と思われるが、精一は、後に、藩への年
貢米の代わりに硝石を納めるという政策的な仕組みを導入した (24)。幕末に没落して
ゆく武家の中で、精一は計5回の転居の都度、確実に屋敷の規模を大きくし、財を築
いていった (23, 24)。
このような父の発想から、高峰は、
「自分の生活を確保し自分自身を育ててゆくこと」
と同じく、
「人々の生活を確保すること」あるいは「多くの人々が救われること」の尊
さを学んでいったと考えられる。さらに、そのような価値観は、ひいては他人の幸せ
11
を願いながら、
「他人を育てること」ということが大切であってこれに貢献しようとす
る信条につながるであろうということができる。
また、年貢米を納入するということに固執するのではなく、米に代わる財でも年貢
とすることが可能であるという発想の転換を知るとともに、様々な財を産み出すこと
の重要性も高峰は認識したと思われる。財は地域、国を潤すことを知り、
「国を育てる
こと」の必要性も学んだと考えることができる。そして、着実に財を成すことは、国
のみならず、当然ながら自身、家族を潤し、それによってさらに社会に大きく貢献で
きることを学んだと思われる。
5.1.1.2.
TR 領域に進出するための主たる要因の導出
⒜「探究子」及び「育成子」
TR とは、
「基礎研究で発見された新規発見を臨床に応用・発展するために必要な一連
の研究」であるという前出の定義に照らすと、上記に一例として挙げた精一の研究は、
その対象を「臨床」に限定せず、
「社会全般」に拡げたものといえる。双方は、その研
究が有する性格として、基礎研究に留まらず、何らかの応用・発展を見据えていると
いう点で共通する。このことから、本研究では、高峰が、早期に認識した「化学的に
探究すること」、「ある材料から新しいものを化学的手法により産み出すこと」、「自分
を育てること」、
「他人を育てること」、及び「国を育てること」は、TR に取組むにおい
ても関与する因子であると考えられた。
図 1.作動子における探究子、育成子と、4つの育成素子の構成関係
12
そこで、化学的に探究することを「探究子」、ある材料から新しいものを化学的手法
により産み出すことを「ものに対する育成素子」、自分を育てることを「自分に対する
育成素子」、他人を育てることを「他人に対する育成素子」、国を育てることを「国に
対する育成素子」と定義するとともに、上記4つの各育成素子を合せて、
「育成子」と
定義した(図1)。
高峰は後年、この探究子と育成子に関連すると考えられる内容として、国民科学研
究所(後の理化学研究所)創設にあたり、以下のような概要の発言をしている。
「日本
固有の、少なくとも東洋固有の材料もしくは事業を研究し、発明して起こさなかった
ならば、本邦の産物を世界に広く売り広めて、世界の富を本邦に吸収することは覚束
ないと思われる。それゆえに何か新たな有益なる発明研究をしなければならぬ。国民
科学研究所の設置には莫大な予算が必要だが、いずれは必ず二、三の世界的大発明が
成立し、富を起こす基礎となる。研究所の運営にあたっては、実業界で工業に熟練し
た先輩諸君、化学その他の工芸学術に堪能な学者から評議員を選出して行う。」(25)。
さらに、別の機会には、
「自分(高峰)は、アメリカの研究所で日米両国の助手を多数
雇ったが、研究と発明に有能な若い日本人を知っている。天賦の才能にもかかわらず、
機会と資力がないために彼らは潜在能力が発揮できない。日本の発明的天才はその必
要に応ずるだけの規模の研究所を必要としている。ただ、日本人の通弊として、やや
もすれば成功を急ぎすぎ、ただちに応用の道をひらき、結果を得ようとする。それで
は理化学研究の目的を達成することはできない。どうしても純正理化学の研究という
基礎を固めねばならぬ。」と述べている (25)。
上記の信条、理念は、TR を含む応用研究において、
「ものに対する育成素子」、
「自分
に対する育成素子」、「他人に対する育成素子」、「国に対する育成素子」を合せた「育
成子」が重要であることを高峰が強く意識していたことを示す。すなわち、既にジア
スターゼ(消化酵素)やアドレナリンに関し TR 領域で大きな成果を収めていた高峰は、
一連の研究活動を通じて、育成子が一般的な応用研究と同様、TR においても研究に踏
み入れる初期のみならず、TR 遂行を持続する上で維持すべき重要な要件であるとの認
識を深め、それを上述のような言葉で示したと考えられる。そして、この育成子をも
って人の治療等に用いる材料を化学的に研究するための探究子が形成されること、あ
るいは逆に、強い探究子をもって育成子がともに形成されてゆくというような相互作
13
用によって、研究者は TR を遂行するものと捉えることができる。
⒝「作動子 (operator)」=「探究子」+「育成子」
以上のことから、TR 研究者の生涯において、比較的初期段階に形成され、もしくは
形成されてゆくものであって、TR 領域に踏み入れる際に主たる動機として働く要因で
あり、かつ、TR 遂行のためにその後も形成が継続する要因として、探究子と育成子を
合わせて「作動子(operator)」と定義した(図1)。
しかしながら、この探究子と育成子という2つの因子が TR 遂行に機能するためには、
研究者個人の内面で引き起こされる相互作用により両因子が独立に形成・成長してゆ
くことのみでは十分とはいえないであろう。TR 遂行にあたっては、自分のみならず他
人や国をも含めた利他を考量、企図しつつ、課題を統合的に解決できるための見識と
実践力がその研究者に十分兼備されることが必要といえるからである。つまり、何ら
かの外部刺激的な因子が、それまでに形成・成長した探究子と育成子を相乗的に成熟・
活性化させ、TR 遂行に必須の見識と実践力とが組織的、融合的に研究者個人の内部に
構築されることにより、いよいよその研究者を TR に臨ませるものと考えられる。この
ような活性化にはどのような因子が関与するか、以下に検討する。
5.1.1.3.
TR 領域へ転進するための要因が意識された時期
ⅰ) 高峰は、10 歳の時に長崎へ最初の留学をしている (24)。1913(大正2)年の講演
で、高峰は長崎時代を概ね次のように回顧している (23, 24)。
「長崎に来て初めて外国語(英語)を学んだ。当時は書物を得るのが難しく閉口し
た。毎日通弁(日本側の通訳官)の先生宅に通い、英単語を3つ、4つ習って、鬼の
首でもとったように思っていた」。
このことから、高峰は、少なくともこの時期に、自身の立身にとって英語学習が重
要であることを認識していたことがうかがえる。
ⅱ) 長崎を去った後の高峰は、京都、大阪、七尾と転々としながらも勉学を継続した。
七尾では外国人教師オズボーンから英語と理化学を学んだが、この時にオズボーンか
ら国の発展における工業の重要性を説かれている可能性が指摘されている (24)。その
影響か否かは不明であるが、その後高峰は、大阪舎密局に付設された医学校に入学し、
そこでドイツ人教師リッテルから英語による講義、及び化学の実験と分析法を本格的
に学んだ (24)。このリッテルとの出会いが、高峰の工部省工学寮への進学に影響を及
14
ぼしたと考えられる。
ⅲ) 英国人教師ダイアー率いる8名により工学寮が開設され、高峰は一期生として入
学した (26)。ダイアーは、「万事を書物からのみ学ぶことに憧れ、それよりはるかに
重要な、実際の観察とか経験とかを無視しがちな日本人に対しては、実地研修が大切
だ」と指摘し、学理の習得と実地研修とを等分に重視する教育方針を導入した (26)。
高峰ら一期生の卒業講演において、ダイアーは以下の祝辞を述べている。
「エンジニアは真の革命家でなければならない。諸君は自分自身のためだけに存在す
るのではなく、社会のために存在していることを忘れてはならない。諸君が文学、哲
学、芸術など、専門職には直接役立たない諸学問に対して、まったく門外漢であった
ならば、多くの専門的職業人につきまとう偏狭さ、偏見、激情から逃れることは不可
能である。」(26, 27)。この祝辞の内容は、高峰にとって特に大きな刺激になったと思
われる。高峰は、卒後まもなく、グラスゴーに留学するが、現地到着3か月後に日本
の知人に送った手紙には、製造工場の規模、稼働の状況、鉄道馬車、蒸気機関車、飲
料水の配水施設、造船、鉄鋼、機械工業、化学工場と材料等のことが記され、その内
容は、殆ど産業、技術的なもので終始している(28)。
5.1.1.4.
TR 領域への転進に必要な要因の導出
⒜「誘因子」及び「増幅子」
上述のことを踏まえると、以降、日本社会の将来を見据えた高峰の志を形成するに
おいて、恩師ダイアーは高峰に衝撃を与えた指導者であって、その存在、生き様、言
葉は巨大な影響力を有していたと考えられる。そこで、高峰の場合、工学寮における
ダイアーとの出会いと受けた教育、及び与えられた助言については、TR 領域に誘導さ
れるきっかけとなった外的要因と捉え、
「誘因子(promoter)」と定義した(図2)。作
動子は、誘因子により活性化されて TR 遂行に働くものと考えられる(図3)。
図2.誘因子(promoter)と増幅子(enhancer)の定義
15
一方、上記ⅰ及びⅱに示されるオズボーンやリッテルとの出会い、長崎、七尾にお
ける英語勉学の経験も、その後の高峰の TR 活動に大きな影響を及ぼしていると考えら
れる。これらの事象については、TR 領域に誘導されるきっかけを作る要因とまでは言
えないが、その経験や与えられた助言等が蓄積して、いずれ作動子や誘因子の働きを
増強するものと捉えられる。そこで、これらを「増幅子(enhancer)」と定義した(図
2、3、及び4)。
図3.作動子の成長・活性化と誘因子及び増幅子との関係
(b-1)「誘因子の3つの機能」
上述したように、高峰にとっては恩師ダイアーが強い衝撃を与えた指導者であると
してその存在、生き様、言葉の影響力に着目し、ダイアーとの出会い、受けた教育及
び思想的な助言が「誘因子」であると捉えた。他方、オズボーンやリッテルとの出会
い、長崎、七尾における英語勉学の経験は「増幅子」と捉え、誘因子と同様に、作動
子の活性化に関与するという性質は共通するものの、TR 領域に誘導されるきっかけを
作る要因とまでは言えないとした。では、誘因子と増幅子は、本質的にどのような相
違があるのか。
16
研究者が TR 領域に誘導され、持続的に TR を遂行するには作動子が主要因として必
須であると考えられることは既に示した。作動子は、探究子と、自分、他人、もの及
び国を育成する各素子からなり、その対象は広範多岐に亘る。このため、作動子を活
性化して研究者を TR 領域に導く誘因子は、この広範に及ぶ対象のすべてに、あるいは、
より広く働きかける機能を有していることが必要と考えられ、本研究では、誘因子の
機能として以下の3つに焦点を当てた。
まず、TR が「基礎研究に留まらず、何らかの応用・発展を見据えたもの」であるこ
とに着目すると、誘因子としては、「社会的意義や重要な価値観などを TR 研究者が外
部から取り入れて自身のものにすることを促す」という機能を有する必要がある。こ
の 機 能 は 、 主 と し て 他 人 及 び 国 に 対 す る 育 成 素 子 に 働 く も の で あ り 、「 同 化
(assimilation)」と定義した(表2)。
表2.誘因子の3つの機能と5つの素性、及び主な作用、効果
次に、作動子が、TR 領域に踏み入れる際に主たる動機として働く要因であるととも
に、TR 遂行のためにその後も形成が継続する要因であることを踏まえると、誘因子と
しては、
「TR 研究者の個性や能力を尊重、評価して、TR 研究者に自らを自発的、継続
17
的に開拓させる」という機能も有する必要がある。この機能は、主として自分に対す
る育成素子に働くものであり、「称賛(praise)」と定義した(表2)。
さらに、TR における応用とは、創薬に代表されるような臨床的活用であるから、誘
因子としては、探究すべき新たな化学的課題を TR 研究者自身に考えさせ、実行させる
機能も有している必要がある。TR 研究者に一種の発明的創作活動を惹起させるこの機
能は、主として探究子、ものに対する育成素子に働くものであり「誘起(evocation)」
と定義した(表2)。
本研究において、誘因子としてのその存在や言葉に注目したダイアーとはどのよう
な人物か。資料によれば、徒弟修業をしながらアンダーソン・カレッジに学び、さら
に世界最初の土木工学部(グラスゴー大学)に一期生として入学したとされ、ここで
の指導教授が「土木工学の父」と称えられるランキンであり、ダイアーはその秘蔵っ
子であった (29)。世界随一のエンジニア理論に基づく実践力を駆使するに至ったダイ
アーは、恩師ランキンによって工学寮の校長に推挙された。日本へ向かう船の中で、
新しく設立されるこのカレッジの講義内容や授業時間割等をまとめたカリキュラム
「講義題目一覧表」の草案作りに没頭したという (30)。後年になって自身が回想する
ように、ダイアーは、工学技術の移植のみならず、日本での教育と、それが国民生活
にもたらした直接の成果に対し、格別の関心を払った (30)。それは、ダイアーが、大
学時代に世界の様々な国の科学と工学の主だった学習方法について詳しく調査し、ま
た幾つかの有力な教育機関の組織を研究する機会があった (30) ということに端を発
すると考えられる。そうした研究の成果を日本で実地に試すとは思いがけなかったと
述べているが (30)、寧ろそのような宿命にあったとすら思われるような経歴である。
ダイアーが「エンジニアは真の革命家でなければならない。」と述べたのは、自己の
「エンジニア思想」に基づく。エンジニア思想とは、
「エンジニアは社会発展の原動力
であり、旧来の専門職である牧師、医師、法律家に並び得る新しい専門職である」と
するものである (29)。このダイアーの表現は、簡潔にして要点、本質が押さえられて
いるため、聞く者に印象深く入り込み、感銘を受けやすくする性質がある。また、こ
の発言は、上述のようなダイアー自身の研究や実践を含む経験に裏打ちされた信念に
基づいて示されたものと言える。さらにダイアーは、
「諸君は自分自身のためだけに存
在するのではなく、社会のために存在していることを忘れてはならない。」と続けた。
18
ここから、エンジニアは真の革命家であるべきとする真意が、エンジニアとして社会
貢献ないしは福祉向上 (29) に努めることの重要性を説くものであると解することが
できるため、このダイアーの祝辞における表現が主として「同化」の機能を有してお
り、さらには聞く者によっては「誘起」の機能にも及び得ると捉えることができる。
(b-2)「誘因子」の5つの素性
本研究では、誘因子の素性として、その発言における、
「簡潔にして要点、本質が押
さえられていること」を「簡要性(point)」、
「経験に裏打ちされた信念に基づいて示さ
れたもの」を「真髄性(spirit)」と定義した(表2)。
表に示すように、誘因子は、上記2つに加え、
「鷹揚性(liberality):悠然と構え寛
大であること」、
「不壊性(indestructibility):強固で壊れないものであること」、
「時
宜性(timeliness):その瞬間に見合う判断であること」の3つを合わせ、計5つの素
性からなると考えられる(表2)。真髄性は、誘因子自体が持つその性格を踏まえると、
必須の素性といえる。すなわち、誘因子が同化、称賛、誘起として強く機能するため
には、その素性として経験に裏打ちされた信念に基づく真髄性を有している必要があ
る(表2中の◎)。真髄性は、研究者を魅了し、夢中にさせるという主作用を有し、結
果として TR へ招待するという効果をもたらす(表2)。ダイアーの真髄性と簡要性に
満ちた祝辞は、それまでに高峰がダイアーの高い理念と実践の下で日々感化されなが
ら過ごしたであろう工学寮時代の集大成であって、高峰の中で形成されてきた作動子
を活性化させるに十分だったに相違ないと思われる。
「諸君は社会のために存在してい
ることを忘れてはならない」と続けた表現は、メッセージ性をさらに強固にするもの
であり、誘因子の一素性である不壊性に由来するものと考えられる。不壊性は、主と
して誘起の機能を有し、TR の具体化に作用して、研究者に課題発見と取組の機会を与
えるという効果を往々にしてもたらすと考えられる(表2)。高峰においてはこの不壊
性は、直ちに課題発見に至らせたというよりも、同化の機能により、社会的な課題に
取組む決意を強固にし、また称賛の機能により、自身を自発的に開拓してゆくように
働いたのではないかと思われる(表2中の〇)。高峰に対する誘因子として振る舞うダ
イアーの祝辞は、卒業記念という絶好の機会に添えられた。祝辞は、高峰の中に形成
されている作動子に対し、機が熟したとして与えられたものであり、誘因子の一素性
である時宜性がここに表れたと考えられる。時宜性は、研究者の様々な時期に機能し
19
て、誘因子がもたらす各作用及び効果を絶大なものにするという補強的性質を有する
(表2)。ダイアーはさらに、エンジニアとしての諸君が、偏狭さや激情から免れるた
めに、文学、哲学、芸術など専門以外の諸学問に対しても及べるように鍛錬すべき趣
旨の言葉も残している。この言葉自体も真髄性、簡要性、及び不壊性をもって発せら
れているものといえるが、そこには鷹揚性も兼備されている。偏見等、臨床の世界に
おいても負に働きかねない要素を排除する、悠然かつ寛大なる教えだと捉えることが
できる。鷹揚性は、主に称賛として機能し、研究者自身を見つめさせる主作用により、
新たな課題を発見し取組ませるという効果をもたらす(表2)。エンジニアは革命家で
あって、遍く良識を得て社会貢献に励み、質の高い仕事をすべきであることをダイア
ーがその大きな存在感をもって示したことにより、高峰は自身を見つめながら、志を
さらに深めるに至ったものと思われる。以上のように検討すると、ダイアーによる誘
因子の場合には、5つの素性により3つの機能が強く発揮され、高峰の作動子に働き
かけたと捉えることができる(表2)。
⒞「増幅子」
一方、上述したように、オズボーンの下において高峰は、国の発展における工業の
重要性を説かれている可能性がある。このことは、オズボーンの教えが高峰の「国に
対する育成素子」形成に影響する同化の機能を有していたと捉えることもできる。し
かし、オズボーンに学んだのは1年間であり、その後高峰は大阪の医学校に入学して
いる。まだこの時代の高峰は進路を模索していたとみられ、オズボーンが高峰に TR へ
の決定打を与えたとまでは捉えにくい。したがって、オズボーンの教えは、真髄性と
時宜性を素性とし、同化の機能を有するという誘因子に類似する性質がある因子だと
考えられたが、その他の機能については明確でないことも加味すると、誘因子のよう
に作動子の広範な対象に広く働きかける機能を有しているとまではいえない。また、
高峰は、リッテルから英語及び化学の手ほどきを多く受けているが、このことは、リ
ッテルの教えが、高峰の「探究子」や「ものに対する育成素子」の形成に影響する誘
起の機能を有していたと捉えることもできる。しかし、オズボーンの教えと同様に、
リッテルの教えについてもその他の機能については明確でなく、誘因子に類似する性
質があるに留まる因子だと考えられた。
20
ⅰ)で上述したように、高峰は 10 歳の時に既に英語に接している。その後、どのよ
うな思いで英語を学んでいったかについての詳細は必ずしも明らかでないが、少なく
ともその時々の英語学習自体が誘因子として働いたとまでは考えにくい。寧ろ、社会
貢献、社会的課題の発見のためにいずれ機能する作動子の形成や、作動子を活性化さ
せる誘因子の働きに対して、英語力の向上がその増強剤的役割として効果的に機能す
べく高峰の素養として蓄積したのではないかと考えられる。
図4.増幅子の蓄積と作動子の成長との関係
増幅子は何度も訪れて蓄積するが、増幅子のみでは、作動子の活性化は起こらない。
以上のように、オズボーンやリッテルの教えは、その誘因子に類似した性質により
作動子の働きを増強させ、また英語学習は、作動子や誘因子の増強因子として機能す
ると考えられた。いずれも、素養として高峰の中に蓄積し、その機能を逐次発揮した
と考えられた。このように、誘因子と増幅子は、その素性と機能の相違により、互い
に分別できる。
5.1.1.5.
TR 領域での実践において新たな要因が出現する時期
ⅰ) 1900 年に、高峰は、共同研究者である上中啓三とともにアドレナリンの抽出・結
晶化に成功した。これをもとにアドレナリンについて同年、米国に特許申請をし、翌
1901 年、英国にも特許出願をした (31)。日本国出願は 1901 年4月にし、3ヶ月弱で
21
特許となった。そもそも高峰がこの研究に従事するに至った経緯としては、その頃既
に米国で高峰のタカジアスターゼが爆発的に販売されており、その販売元であるデト
ロイトの製薬会社パーク・デイビス社が、高峰に副腎エキスからの生理活性物質抽出
を依頼したことによる (31, 32)。上中は、高峰に実験助手として招聘されたのである
が、既に日本薬学の租・長井長義のもとなどで修業を積み、その化学成分の抽出・分
析における知識、手技、発想等、いずれも卓越したものを有していた (31, 32)。上中
が研究に参画する以前の2年間に高峰は特別な成果を得ていなかったが (31)、上中参
画後の半年から1年以内にこの偉業が成し遂げられている。高峰と上中が討論をしな
がら試行錯誤を繰り返したこと (33)、及び、上中の詳細な実験ノートによる記録 (31,
32)に基づく研究の主体性を加味すると、上中が単なる実験助手に留まらず、共同研究
者であって、当代超一流の化学者だったゆえに偉業が達成されたといえる。
ⅱ) 高峰は、1901 年の全米薬業協会総会での講演謝辞において「この研究成果のクレ
ジットに関して、大きな部分を、私の仲間である上中と分かちあうものである。
・・こ
の研究の成就にあたって、彼は有能であり、かつ精力的に私を助けてくれた」と記し
ている (34)。
しかし、それ以後高峰は、上中の貢献に対する謝意、共同研究者に対する敬意を一
切示していない (34)。上記の特許出願に関しても、米国、英国のみならず (31)、日
本国出願も高峰単独で行い、単独の権利としている。これに対し上中は、一切不満ら
しきことを洩らしておらず、アドレナリンの成功のあとも、高峰の右腕として行動し
ている (34)。高峰の三共株式会社社長就任とともに、タカジアスターゼやアドレナリ
ンの国産化においては、上中が尽力した (34)。その一方で、高峰を支え続けた研究者
は多くなく、高峰の部下として働いた助手たちの多くの心のうちには憤りが燻り、研
究者の出入りも激しく、長く勤めようとする者は少なかったとされる (34)。
以上の事実から、右腕とも呼ぶべき優れた科学者と出会い、高峰本人のみではブレ
イクスルーできなかった課題を見事に解決したことは、TR 遂行において重要であった
といえる。このような事象も、作動子や誘因子の働きを増強する増幅子の一つに数え
られる。
22
5.1.1.6.
TR 領域で負に作用する要因の導出
⒜「抑制子」
一方、高峰は、共同研究者として極めて重要な位置にあった上中に対し、一度の謝
意を示したのみで、その後、研究貢献に対する敬意等、特別な意思を示さなかった。
このような姿勢は、上述のように他の関係研究者にも及び、強力な協力者、援助者を
確保し続けることが難しいという問題に陥ったものとみられる。それゆえ、探究子と
育成子は抑制されるとともに、新たな協力者を得るという増幅子の蓄積も抑えられた
と考えられる。これによって、さらなる TR の遂行も抑えられるという負の連鎖に至っ
たと考えられる。このことから、上記の「共同者の研究貢献に対する十分な敬意を示
さなかったこと」のような性質を有する因子を、作動子、誘因子、若しくは増幅子、
又はこれらの組み合わせを抑制する要因「抑制子(suppressor)」と定義した(図5)。
図5.抑制子(suppressor)の機能
抑制子は、作動子の形成、成長を阻害するとともに、誘因子や増幅子の機能も阻害する。
23
以上検討したように、TR 研究者においては、「作動子(operator)」、「誘因子
(promoter)」、
「増幅子(enhancer)」が、TR 遂行に必要な正の要因として働き、一方、
「抑制子(suppressor)」が負の要因として働くと考えられた。このことをさらに検証
するために、鈴木に関しても出来事や与えられた助言等を抽出し、TR 遂行に必要な要
因について検討するとともに、Ns に関しても上記の抽出を行い、TRs と Ns の差異を比
較検討した。
5.2.
TR 遂行に必要な要因の検証、及び TRs-Ns 間の差異の比較
5.2.1.
5.2.1.1.
TR 遂行に必要な要因の検証(鈴木梅太郎に関連して)
生い立ち(その1)
ⅰ) 鈴木は遠州堀野新田に生まれた。12 歳上に長男捨蔵がおり、鈴木にとって終生の
理解者であった。堀野新田はその名の通り、開墾地であり、肥沃とは言えず、何を植
えても育ちが悪く、土地の者は大変な苦労を強いられた (35)。鈴木の生家は、村では
最も大きな農家の一つではあったが、収入は知れており、鈴木ら兄弟に十分な教育を
施すだけの余裕はなかった (35)。鈴木家の先祖は愛知・岡崎の出であり、もとは今川
義元の家来であったが、この地に定着するにあたり、旧領地岡崎から往復半年もかけ
て岡崎八幡宮のご分身と、堀法淋坊という僧正を迎えて、以降、鈴木の父庄蔵で六代
目に至るまで、代々神仏に帰依し、厚い信仰心を家風としてきたようである (35)。
庄蔵は、いつも鈴木の祖母(庄蔵の母)に「親の無い子だといって人の物笑いにな
るような人間になるな。神様や仏様はいつも守ってござらっしゃる」と言われながら
厳格に育ち、鈴木ら兄弟にも厳しく接した (35)。鈴木の母はつた(あるいはつた子
(36))といい、しっかりした性格と非常に温かい感情を兼備した人だった (35)。鈴木
兄弟はたとえ物質的な不自由さを感じていたとしても、この母の尽きぬ愛情によりす
べての不満は解消したという (35)。鈴木は幼少の頃から母に連れられて頻繁に氏神様
やお寺に詣で、また、家では毎朝神棚に拝礼し、仏壇を拝んだ (35)。鈴木は母から「人
間は素直になってお互いに仲良く暮らさなければいけない。欲張ってはいけない。す
べての人や物に御恩を受けていることをよくわきまえること。人から後ろ指をさされ
るようなことをしてはいけない。人を押しのけて自分が偉くなろうと思うな。」などと
いつも教えられていた (35, 36)。鈴木は後に欧州に留学した際にも、母への土産とし
24
てセイロン島の数珠を持ち帰っている (35)。
ⅱ) 鈴木は満5歳のときに松尾(もとは鈴木姓)利七先生に勉強を習いたいと言い出
した (37)。規則では満6歳から就学できることになっていたが、鈴木の熱心さと素質
を見込んだ松尾の計らいで学べることになった (37)。夜に子供が勉強するなどはもっ
てのほかと、当初鈴木の入学に難色を示していた父庄蔵に対し、コメツキムシの跳ね
方などに興味を示して飽きることなく調べている鈴木をみた母つたが「なみの子と違
う」といい、
「私の分まで、梅には勉強させてやりたい」と兄捨蔵がかばってくれたお
かげだった (37)。こうして鈴木は、昼間は松尾が校長を務める隣村の新設小学校で、
夜は、松尾の自宅私塾で勉強することになった。松尾は、塾生に対し「一生に一度は
世間に知られるほどの者にならにゃいかん」などといって熱気溢れる指導をした (38)。
この松尾に感化された塾生は多く、鈴木の他、後に東京帝国大学法学部を卒業し、京
城大学総長などを歴任した篠田治策、篠田の弟で、陸軍中将、東京警備司令官などを
歴任した次助、東京帝国大学駒場農科大学を卒業し、農業経営で全国から注目された
松本喜作などが輩出された (38)。やがて松尾は鈴木卒業の年、他校へ転勤することに
なった。松尾を見送るために鈴木と出かけた義理の甥である菊は、良い浴衣を着てい
ったが、それに少しシミが付いていた。舐めると消えたので喜んでいたところ、鈴木
に「ただ喜んでいるヤツがあるか。シミがなぜできるか、なぜなめると消えるか、そ
の訳を考えにゃいかん」と言われた (35)。
ⅲ) 鈴木は、松尾の薦めで (39)、あるいは自らの意思で (40) 東遠義塾に進学するこ
とになった。慶応義塾で福沢諭吉の十分な教えを受け、海軍時代に脚気も経験した戸
塚国次郎がこの塾を開設した (39, 40)。塾では「自ら労して自ら食うは人生独立の本
源なり。独立自尊の人は自労自活の人たらざるべからず」という福沢諭吉の言葉が校
訓として、心においてのみならず、日常の実践で取り入れられた (40)。脚気の恐ろし
さを身をもって知った戸塚が、栄養雑炊を考案し、これを塾生が交代で炊いた (40)。
食材の調達はもちろん、掃除、風呂焚きに至るまでを交代で担当したという (40)。教
科書には、福沢諭吉の「訓蒙窮理図解」が使われていた (40)。これにより鈴木は、物
理と化学の基礎を徐々に学んでいった。後に鈴木は、福沢諭吉の言葉を借りて「科学
は、国の独立自存を守り社会の進歩に役立つとともに、人間の命を守り生活を豊かに
する」と述べている (40)。
25
ⅳ) 14 歳になった鈴木は、小学校の代用教員となった (41)。この頃鈴木は、人に教え
ることの難しさを痛感させられながら、指導方法を工夫して、生徒からの信頼を得た
(41)。教職の傍ら、東京でさらに勉強したいという思いを募らせていた (41)。その思
いは日増しに強くなるばかりで、とうとう鈴木は、1888(明治 21)年の5月下旬に、
仲間二人と時を前後する形で出奔するに至った。その後の鈴木らは、脚気の恐怖と戦
いながら、苦境を耐え忍んだ。しばらくして、
「許す」という庄蔵の手紙と、田畑を売
って工面したと思われる学資が鈴木の下に届き、涙したという (41)。父が許した背景
には、兄捨蔵の同情と理解があった。
「貯金をして家の財産を多少大きくするのも一つ
の考え方だが、4,5年梅太郎に金をかけて立派な人間に仕上げるのも一つの考えで
しょう」と両親を説得した (39)。鈴木は両親宛てに「・・・実は来年7月駒場農学校
を受験する積りにて候。農は日本の基、また我が家の仕事。この学問を修めて農事を
改良し、人々のお役にも立ち、御両親様の御苦労を軽減できればと存じて学校を選び
申し候・・・」との返事を送っている (41)。ともに上京した篠田治策は「農学なぞは、
百姓のする学問だ」と反対したが、鈴木は譲らなかった (41)。
5.2.1.2.
要因の検証
⒜「探究子」について
上記ⅱに示すように、鈴木は「虫の生態を詳細に調べること」に始まって、
「服のシ
ミについて化学的に洞察しようとする姿勢」等、生涯の比較的早い時期に「探究子」
を有していたといえる。
⒝「育成子」について
(b-1)「自分に対する育成素子」について
農作業に従事する家族の姿に接することや、鈴木自身が作業を手伝ったことに加え、
ⅱに示すように、松尾から「立身の指導を受けたこと」、さらにⅲに示すように、東遠
義塾時代、福沢の「自労自活の精神を学んだこと」などから、
「育成子」のうちの「自
分に対する育成素子」を獲得したと考えられる。
(b-2)「他人に対する育成素子」について
さらに、上記ⅰに示す「他人同士が労わり合いながら協力すること」
「他人を尊重す
ること」という鈴木の母の教えは、鈴木が「他人に対する育成素子」を獲得するにお
いて大きく影響したと考えられる。事実、ⅳで示すように、鈴木は、早い時期から教
26
育指導に対し真摯に取り組んでいる。
(b-3)「ものに対する育成素子」について
常に作物を育てる生活環境に身を置いたことのみならず、東遠義塾時代の日常生活
における栄養雑炊の炊飯などの実践の他、何より福沢の「訓蒙窮理図解」等によって、
窮理に造詣の深い戸塚から直接これを学んだことを通じて、「ものに対する育成素子」
を育ませたと考えられる。
(b-4)「国に対する育成素子」について
ⅳに示すように、鈴木が両親へ宛てた手紙にも、農業が父母、人々、地域、ひいて
は国を潤すことが示されている。後年になって鈴木が語った「科学は、国の独立自存
を守り社会の進歩に役立つとともに、人間の命を守り生活を豊かにする」ということ
からも、
「国に対する育成素子」が継続して鈴木の中に存在していたことが明確である。
⒞「増幅子」について
父母のみならず、鈴木の小学校入学、東京出奔のいずれの機会でも、兄が絶大な理
解、協力をしている。これは作動子や誘因子を強化する「増幅子」の一つに数えられ
る。松尾や戸塚が自己の経験に基づく信念により指導、助言を与えたことは、少年時
代の鈴木の作動子を増強させ、そのまま鈴木の中に蓄積し続けたと考えられるから、
これらも「増幅子」の一つとして捉えられる。
5.2.1.3.
生い立ち(その2)
ⅰ) 駒場農学校は、鈴木が入学した翌年、農科大学となった。鈴木はここに再入学し
ている。後年鈴木は、
「当初は農学を志したが、植物が土地と空気から簡単な養分を吸
収して、そこから澱粉や蛋白質などの複雑な物質を作るのはいかなる化学変化による
のかということに興味を持ち、米や麦を植物の力を借りないで作ることはできないか、
という空想をもって、植物栄養論を専攻し、ついに蛋白質の研究をするに至った」と
述べている (42)。ここで、鈴木は恩師である古在由直に出会った。古在は、専門を農
芸化学とし、鈴木に無機化学、分析化学の講義と実験を教授した他、足尾鉱毒事件で
は、農民に加担して奮闘した (42)。この足尾事件においては、鈴木は古在研究室の一
員として、土壌分析に懸命に取り組んだ (43)。
27
ⅱ) 鈴木は、1901(明治 34)年に文部省留学生として欧州に向け横浜を出発した。日
本を出発する当初、誰について学ぶかという目的は定まっていなかったが、鈴木は、
漠然とドイツで研究生活を送りたいと考えていたようである (44)。出発して1年半が
過ぎ、鈴木は著名なフィッシャーの門下となった。フィッシャーは、糖類、プリン属、
蛋白質及びアミノ酸で無類の業績を持つ大化学者であるが、鈴木が門下に入った頃は
蛋白質の研究をしていた。鈴木はここで多くの成果を出したため、フィッシャーの申
し出によって、留学期間が1年延長になった。しかしそれも期限となり、いよいよ帰
国しなければならなくなった。そこで鈴木は「日本ではどのような研究をしたらよい
か」とフィッシャーに相談したところ、フィッシャーは「欧州の学者と共通の問題を
捉えたところで、こちらは設備も完成し、人も沢山あって、堂々とやっているのだか
ら、とても競争は出来まい。それよりも東洋に於ける特殊の問題を見付けるがよかろ
う」と答えた (45)。それは至極尤と考えたから、鈴木は、差し当たり米の問題を研究
することにしたという (45)。ここに、米糠含有成分「オリザニン(ビタミン B)」の研
究が生まれた訳であるが、そもそも鈴木は、この研究の動機として、
「種々の空想もあ
ったが、外国に留学した時に日本人の体格の貧弱なことを痛感したのが主なものであ
る。」と語り (45)、さらに続けて「日本人が外国の学者と競争して勉強しても一時は
負けないが、どうしても永くは続かない。その原因はどこにあるかと、終始考えてい
た。」と述べている (45)。
5.2.1.4.
要因の検証
⒜「誘因子」について
鈴木は、上記ⅱで示すフィッシャーの助言を至極尤もであるとし、この助言により、
米の研究に取り掛かったと回想している。鈴木はその後の半生をビタミン研究に費や
した (45) としているから、この助言は、誘因子の「誘起」として機能したことを示
している。鈴木とフィッシャーとの共同研究による業績は、現在の蛋白化学の根幹を
なすものとされ、上記の留学期間延長の申し出は、鈴木がフィッシャーに重んじられ、
嘱望されていたことの現れであったとされる (44)。鈴木自身は後年(昭和6年)、御
講書始の儀(宮中の儀式)に参列した際の御進講において「エミール・フィッシャー
の業績と生物化學の發達」 (46) と題し、以下のようにその随所で述べている。
「フィ
ッシャーは、
・・生物化學の基礎を確立した人であります。」
「獨り時代の流行を追はず、
28
孜々として生體成分の研究に没頭したのがエミール・フィッシャーであります。」「フ
ィッシャーの研究によりまして、アミノ酸類の性質及びその蛋白分子中に於ける・・・
大に闡明せられまして、醫學、榮養學、或は醸造學の進歩を促したことは多大であり
ます。」「私が理化學研究所に於て案出せる合成日本酒、卽ち理研酒の如きも、この研
究に負ふ所が多いのであります。」。このように、フィッシャーは鈴木にとってかけが
えのない恩師であるとともに同志であって、鈴木はフィッシャーに絶大な敬意を常に
払ったことがわかる。留学期間延長を申し出るまでに鈴木を重んじたフィッシャーの
姿勢は、TR 研究者としての鈴木の個性や能力を尊重、評価したものといえるため、こ
のことは誘因子の一機能である「称賛」も存在したことを示す。
また鈴木は、上記の御進講において「私は多年我が日本國民の食物に就て調査し・・・
故に國民の保健上よりして一層水産と畜産を盛んにしなければならないと考へます。」
とも述べている。既に検討したように鈴木は、少年、青年時代より農学、化学による
日本の発展を見据えており、生涯の早い時期から自己の内部に他人、国に対する育成
素子を形成させ続けてきた。上記の発言は、そのような態度が後年になっても全く変
わらなかったことを示す。
「東洋に於ける特殊の問題を見付けるがよかろう」との助言
が、同化の機能をもって鈴木の作動子を強く刺激したと考えられる。鈴木の作動子が
留学段階において大きく成長していたところへ、この助言が時宜性をもって作用した
ものといえる。フィッシャーは信念をもって流行に左右されずに自己の研究に邁進し
た経験豊かな巨人であり、上記のメッセージには、時宜性のみならず、真髄性、簡要
性、鷹揚性、不壊性のいずれも満たされていたと捉えることができる。以上の検討か
ら、フィッシャーの助言及びその存在は、鈴木に対する「誘因子」として働いたと考
えられる。
⒝「増幅子」について
上記ⅰに示すように、駒場時代の古在から、種々の化学の講義(理論)に基づいて
実験(実地)の手ほどきを受けたことは、探究子や育成子を強化する「増幅子」とな
ったと考えられることに加え、化学実験は、鈴木にとって「探究子」や「ものに対す
る育成素子」そのものとして働いたともみることができる。さらに、古在が農民に加
担して奮闘する姿に接したことは、他人に対する育成素子や国に対する育成素子を強
化する「増幅子」として鈴木の中に蓄積したものと捉えることができる。
29
5.2.1.5.
生い立ち(その3)
ⅰ) 鈴木は、蛋白質の栄養価について、米を材料として研究した。栄養価の検討には
動物実験が不可欠と考え、島村虎猪と大嶽了という協力者を得ることにより、ついに
オリザニンを発見するに至った (45)。特に島村が動物実験のために2年間無休で働い
たことはこの研究において不可欠であった (45)。
ⅱ) 鯨油に関する研究においては、加藤八千代に動物実験への参加を継続させず、分
析実験と文献リストアップを担当させ、その才を見出した (47)。
ⅲ) 大河内正敏が理研所長に就任してから、各研究は活発化する一方で、研究費の膨
大が問題になった。このとき鈴木は「大河内君はえらい決心でやっている。なんとか
盛り上げてやりたいなあ」と漏らした (48)。
ⅳ) 不祥事を起こして鈴木に迷惑と心配をかけたとされる教え子に対し、鈴木は常に
気にかけていた (49)。他の教え子が、「農芸化学での恥さらしとなるような者のこと
は、構えつけない方がよい」と切り捨てたのに対し、鈴木は「みな同じ教え子で、不
幸な子供ほど哀れで可愛く、心配になるのだ」のように訥々と語ったという (49)。
5.2.1.6.
要因の検証
上記ⅰにおいて、鈴木が動物実験の有力な協力者を得たことは、強力な「増幅子」
を獲得したと考えられる。上記ⅱにおいて、助手の適所を見抜き指導したことは、
「他
人に対する育成素子」が成熟されていたことを示すとともに、いずれ自己の作動子や
誘因子を増強させる「増幅子」の獲得も意味すると考えられる。上記ⅲにおける鈴木
の発言は、
「もの、他人、ないしは国に対する育成素子」が継続して形成されていたこ
とを示すと考えられる。上記ⅳにおける鈴木の発言は「他人に対する育成素子」が強
く働いていたことを示すと考えられる。また、上記ⅲ及びⅳのような鈴木の姿勢は、
その後に新たな「増幅子」を獲得することにつながったと思われる。
以上のように、鈴木についても、
「作動子」、
「誘因子」、
「増幅子」が、TR 遂行に必要
な正の要因として働くものと考えられたが、
「抑制子」に関しては別段見出せなかった。
そこで「抑制子」についての検証も含めて、TRs と Ns との間の差異を、以下に比較
し検討した。
30
5.2.2.
5.2.2.1.
TRs-Ns 間の差異の比較1(牧野富太郎に関連して)
生い立ち(その1)
ⅰ) 牧野は、町の中では裕福な上流階級の一軒である造り酒屋兼雑貨屋(小間物屋)
の旧家に生まれた (50)。牧野4歳の時に父が、6歳の時に母が、それぞれ病死し、自
身「親の味というものを知らない」と述べている (50)。ある時に番頭が、その頃極め
て珍しかった時計を買ってきたため、幼少の牧野は好奇心からこれを分解して詳細に
中身を調べた (50)。町人でも是非学問をしなければいかんということで小学校に入学
したが、嫌になって退学し、それ以前から好きだった植物の採集、観察を繰り返した
(50)。16 歳になり、授業生という役名で小学校の先生になった (50)。この頃、英字を
習ったことが、新知識を開くのに極めて役立ったと述べている (50)。
ⅱ) その後学問を志し、小学校を辞して高知に出て、五松学舎という塾に入った (50)。
講義は主に漢文であり、興味が湧かず、植物、地理、天文などの本を読み漁っていた
が、コレラが流行り出したので、郷里にすぐに戻った。
ⅲ) 牧野 18 歳のときに、永沼小一郎に出会った。永沼は、科学、植物等に詳しい人物
であり、牧野は永沼と互いに啓発し合いながら、永沼から植物学の知識を得たと述べ
ている (50)。19 歳の頃は、牧野はよく裏山で友達と遊びながら、植物の知識を深めて
いった (50)。
5.2.2.2.
要因の検証
⒜「探究子」について
上記ⅰの「時計の分解」、
「植物の採集、観察」、ⅰからⅲに示す「植物に対する興味」
の記載からは、本研究に言う「探究子」、すなわち「化学的に探究すること」が強く存
在したとはいえない。
⒝「育成子」について
(b-1)「自分に対する育成素子」について
ⅰ及びⅱに示すように、幾度となく学問を志しており、
「自分に対する育成子」は強
かったと捉えられる。
(b-2)「他人に対する育成素子」について
ⅲに見るように、牧野は永沼と互いに啓発し合っていたことから、
「他人に対する育
成素子」も有していたと捉えられる一方で、それ以外には、取り立ててこの因子につ
31
いて特筆できる事実は認められなかった。むしろ、ⅱに示すように、コレラ流行の際
には、真っ先に回避し、例えばこれを撲滅するために行動したというようなことはな
く、「他人に対する育成素子」は相対的に弱かったと考えられる。
(b-3)「ものに対する育成素子」について
ある材料から新しいものを化学的手法により産み出すことを体験したり、興味を持
ったというような事実は見出せなかった。
(b-4)「国に対する育成素子」について
ⅲにみるように、牧野は 19 歳の頃であっても、友人と遊びながら、専ら植物の知識
を深めることに興味を持っていたという事実から、
「国に対する育成素子」についても
この時期において特別強かったとは言い難い。
⒞「誘因子」について
上記の、コレラ流行のような出来事は、場合によっては「誘因子」に働きうるが、
牧野の場合、このような事象に対し TR の対象として興味を示したような事実はなく、
誘因子に該当する人物に出会った事実も認められなかった。
⒟「増幅子」について
ⅰにみるように、牧野においても英字、英語の重要性を認識していたことが示され
るが、TR における「増幅子」としては機能しなかったといえる。
⒠「抑制子」について
上述の通り、コレラ流行に関しては、牧野は回避したのみで、その後も研究の対象
として着目した事実もない。このような単なる回避行動は、その後の TR における「探
究子」、「育成子」、「誘因子」、「増幅子」のいずれに対しても負に働く。したがって、
牧野においては、「抑制子」が強く作用していたと考えられる。
5.2.2.3.
生い立ち(その2)
ⅰ) 友人の父に医師が居り、牧野はその家で植物その他の書籍を乱読していたが、や
がて飽き足らなくなり、書籍、顕微鏡の購入と、勧業博覧会見物を兼ね、牧野 21 歳の
時に東京への旅行を企てた。当時東京に行くことは外国に行くようなものであり、盛
んな送別を受けながら、以前番頭だった者の息子と、会計係を同行させた (50)。二度
の上京の後、牧野は郷里に科学を広めたいと思いたち、理学会という私設の会合にお
いて、若者に牧野が集めた科学書を見せたり、討論会や演説会を開いた (50)。
32
ⅱ) 牧野は一時期、熱心な自由党員として政治活動をした (50)。しかし、学問に専心
して国に報ずるのが使命だと考え脱退し、再び2人の連れと共に上京した (50)。やが
て牧野は、東京大学・矢田部良吉の研究室に出入りするようになるが、東京の生活に
飽きると郷里に戻り、郷里が飽きると東京に出た (50)。郷里で植物誌を出版しようと
神田錦町で石版印刷の技術を習得したが、東京で印刷をする方が便利ということで、
郷里での印刷はやめた (50)。
ⅲ) 牧野は、矢田部から、突如一方的に教室への出入り禁止を命じられたとされる
(51)。牧野は「今日本には植物を研究する人は極めて少数であり、その中の一人でも
圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、
私に教室の本や標品を見せんということは撤回してくれ。また先輩は後進を引き立て
るのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部から強く拒絶されたという (51)。また
牧野は、情実で学問の進歩を抑える理屈はないと、たとえ先輩の研究と抵触すること
があっても、何躊躇することなく自説を発表し続けたので、矢田部以外にも牧野に敵
意を示す者がいた (52)。
ⅳ) 牧野は、天性好きな植物の研究をするのが唯一の楽しみであり、それが生涯の目
的だと述べている (53)。また牧野は、「人間は足腰の立つ間は社会に役立つ有益な仕
事をせねばならん天職を稟けている」(54)、さらに「植物と宗教」ということに関連
して、
「草木に愛を持つことによって人間愛を養うことが出来ると確信する」、
「皆の人
に思い遣りの心があれば、世の中は実に美しい。
・・・また世人がなお草木に関心を持
つべきは、これが国を富ます工業と大関係があるからだ」とも述べている (55)。結論
的には、工業原料として植物を重要視せよという主張である。そのような牧野も、関
東大震災の際には、妻子とともに自宅に居たが、自分だけ心ゆくまで揺れるのを味わ
い楽しんだという (56)。
5.2.2.4.
要因の検証
⒜「誘因子」と「増幅子」について
上記ⅰにおいて、書籍の乱読、書籍や顕微鏡の購入、勧業博覧会の見物、またⅱに
おける「学問に専念する意向」、
「大学研究室への入門」、
「植物誌の印刷、刊行」は、
「誘
因子」又は「増幅子」として働き得たが、牧野の場合、これらの事象が TR 活動に正の
因子として働くことはなかったといえる。
33
⒝「育成子」
(b-1)「他人に対する育成素子」と「自分に対する育成素子」について
理学会の設置は、主として「他人に対する育成素子」、付随的に「自分に対する育成
素子」を有していたと捉えられる。
(b-2)「ものに対する育成素子」について
ⅳに示すように、牧野は、植物が工業原料として重要であることを認識しているが、
具体的に「ある材料から新しいものを化学的手法により産み出す」ことを実践してお
らず、「ものに対する育成素子」が TR において機能できる状態にまで形成された事実
を見出すことはできなかった。
(b-3)「国に対する育成素子」について
ⅱに示すように、牧野は一時期であるにせよ政治に対する興味も持ち合わせていた
こと、また、ⅳに示すように「草木が国を富ます工業と関係がある」という主張から
「国に対する育成素子」は有していたといえる。
⒞「抑制子」について
ⅳにおいて、関東大震災の経験は、主として「他人に対する育成素子」又は「国に
対する育成素子」を強化する「増幅子」として機能し得たが、牧野の場合はこれを単
なる知的興味の対象として捉え、
「増幅子」とはならなかった。むしろ、負の因子であ
る「抑制子」として強く機能していたと考えられる。
以上の検討から、牧野においては、
「探究子」、
「ものに対する育成素子」は認められ
ず、「誘因子」、「増幅子」も相対的に強くなかったと考えられる。また、「抑制子」が
強く機能したと考えられる。
5.2.3.
5.2.3.1.
TRs-Ns 間の差異の比較2(南方熊楠に関連して)
生い立ち(その1)
ⅰ) 南方は、民族、民話、宗教、生物、環境など、多岐に渉る研究をしたことで知ら
れる。生物分野の研究としては、粘菌の研究が有名である。現在では、粘菌が記憶メ
カニズムの研究を進める上で重要な役割を担いつつあるが (57)、南方はこのような応
用研究を直接的に視野に入れていたわけではない。南方が粘菌に魅せられた理由とし
ては、
「粘菌が植物と動物の境界領域にある生物であること」、
「粘菌を調べることによ
34
って、生命の原初形態、遺伝、生死の現象などに手がかりがつかめるのではないかと
いうこと」などが挙げられ、そして何より、
「粘菌の研究がおもしろくてたまらないと
いう、遊びの精神から発せられている」からだという (58)。面白いからこそ粘菌の研
究に没頭したのであって、実地の観察をすることなく、単に洋書を翻読するような状
態では、そこから創見や実用も生まれないとのことである (58, 59)。
ⅱ) 南方の生家は、金物屋であり、南方 11 歳の頃、米屋を兼ね、後に金貸し業に転じ
るなど、裕福な家庭であった (60)。衣食住に困窮するということは、少年時代には無
縁であったといえる。南方の性質の一つである書物の愛重と筆写については、幼少時
代にその源流があった。近所の提燈屋や薬屋に国学などをかじった者らが居て、その
講話を 15、6 人と共に日曜ごとに聞きに行き、南方は、書籍を大切にすべきことなど
を学んだ。その内容を父母や叔父などに語り聞かすことが楽しみだったという (60)。
そもそも南方は、幼少時代から他の幼児と異なったところが多かったという (61)。第
一には女中の謡など、一度聞いたら忘れないこと、第二に、物を大切にすることで、
4歳の時、隣に住む荒物商から植物の図説をもらったが、生涯これを保存したこと、
第三に読書が好きで、殊に写すことが好きだったとされる (61)。中学校のころ、古本
屋で「太平記」を見つけ、毎日立ち読みをして、やがて全部を暗記で写し取った (61)。
ⅲ) 南方は、和歌山中学で博物科担当の教師鳥山啓の指導を受けた (61)。鳥山は、南
方の資質を知り、熱心に指導に努め、殊に物の(実地の)観察の重要性を説き、その
実行を勧めた (61)。南方はこれに多大の感化を受け、その生涯を決定的にしたとされ
る (61)。後に南方は「わしも親が一生食うだけの財産を遺してくれたから、一生学問
に没頭している」と述べ、英国のリテラーティ(literati)と呼ばれる生き方を実践し
たといわれている (60)。リテラーティとは、親の余光で何の職業にも就かずに、ひた
すらに学問に励み、専門学者を圧する者をいう (60)。また南方は、「生来事物を実地
に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ、
一向傾聴せざりし・・・」とも述べた(60, 62)。
ⅳ) 粘菌研究において、南方は、アマチュアの協力者、研究者を大勢育てたとされる
(58)。南方は、これらの研究仲間が発見したことなどについては、その個人の貢献に
対し、細心の注意と敬意を払っていたようである (58)。また南方は様々な職人を愛し
たが、その理由として、自身の粘菌その他の植物標本を作るための手技の必要性を熟
35
知していたためであろうとされる (63)。南方は、職人のみならず、様々な職業の人た
ちと付き合い、地域生活を共にした (64)。これらの人たちから話を聞いて、そこから
智識と智恵を受け取るという態度だった (63)。
5.2.3.2.要因の検証
⒜「探究子」について
ⅰにみるように、粘菌研究が、好奇な遊びに端を発したものだったとしても、
「粘菌
を調べることによって、生命の原初形態、遺伝、生死の現象などに手がかりがつかめ
るのではないか」ということにおいて、これを化学的な探究対象としたならば、南方
には強い探究子が存在していたことになる。しかし、粘菌研究の対象は、主として分
類・博物学を中心とするものであり、
「化学的に探究すること」については認められず、
少年時代及びこの研究において「探究子」は特に見出せなかった。
⒝「育成子」について
(b-1)「自分に対する育成素子」について
幼少期の早くからその後に至るまで、南方の研究者気質、向上心が観察され、自己
が興味を持つ研究活動を進めるという側面において、自分に対する育成素子は強かっ
たと捉えることができる。
(b-2)「他人に対する育成素子」について
上記ⅳにみるように、南方の粘菌研究において、
「他人に対する育成素子」について
は、共同研究者の獲得、維持に関する側面では、十分有されており、
「増幅子」を獲得
し得るにおいて本来的には有利だったとことがうかがえる。
⒞「抑制子」について
ⅲに示す「リテラーティの実践」、「師を特別必要とせず、専ら独学により実地観察
を行う」という南方の姿勢は、誘因子及び増幅子として機能せず、探究子と育成子の
形成を阻害し、増幅子の蓄積も抑制する。したがって、南方には、少なくとも上記に
みる限り、「抑制子」が強く働いていたと捉えられる。
5.2.3.3.
生い立ち(その3)
粘菌研究は、南方にとって、全く生活の糧をもたらさず、寧ろ出費だったとされる
(58) のに対し、空中から窒素を得るという研究は、実用向きだったといわれる (65)。
南方は、日本の近代化が、外国からの技術導入による模倣型技術発展一辺倒であるこ
36
とを批判し、自力更生型の技術発展をなすべく実験をしていたとされる (65)。すなわ
ち、当時の最新であるドイツの技術を輸入しようとしたことに反対して、南方が自宅
に一部で藻とバクテリアを用い、バイオテクノロジーを開発しようとした (65)。残念
ながら、隣の家屋に邪魔をされ、日照の問題により研究が頓挫したが、この研究を発
展させるべく南方植物研究所の計画が持ち上がった (65)。しかしそれも資金繰りがう
まくいかず、研究を成就させることができなかった (65)。
5.2.3.4.
要因の検証
⒜「探究子」と「ものに対する育成素子」について
ここでは、空中から窒素を得るという発想があったことから、
「ものに対する育成素
子」は南方にも十分に備わっていたと考えられる。この場合、
「化学的に探究する」と
いう「探究子」の要件も満たされていたことになる。
⒝「国に対する育成素子」について
上記の通り、日本の近代化における当時の傾向を問題視することから生じた研究で
あり、「国に対する育成素子」は存在していたとみることができる。
⒞「誘因子」について
外国からの技術導入による模倣型技術発展一辺倒であることに対する批判が、社会
に役立つ研究へと南方を向かわせたといえる。しかし、この事象が、臨床的な応用・
発展を見据えた研究のきっかけになったという事実は認められなかった。このことか
ら、この事象が南方にとって少なくとも「増幅子」の一つに数えられるということが
出来るが、「誘因子」となるには、さらに別の条件が必要であったと考えられる。
5.2.4.
TRs-Ns 間の差異の検討
表3に、TRs と Ns に関する TR 関連因子についてまとめた。Ns では、以下の点で TRs
と異なっていた。すなわち、①探究子およびものに対する育成素子が全く見出せない
か、少なくとも少年時代に見出せなかったこと(表中の×または▲)、②誘因子が接触・
機能されなかったこと(表中の△または×)、③抑制子が強く働いたこと(表中の◎)
であった。一方で、増幅子は TRs と Ns のいずれにも存在した。
これらのことから、抑制子が、作動子のうち、特に探究子及びものに対する育成素
子を阻害するとともに、作動子と誘因子との接触も阻害すると考えられた。しかし、
37
その他の育成素子との関係も含めて、作動子や、作動子と誘因子との結合がどのよう
に抑制されるのかについての機構ないし詳細なパターンまでは明らかにできず、今後
の検討を要する。
表3.TRs と Ns に関する TR 関連因子
38
6.考察
6.1.
本研究における牧野富太郎と南方熊楠の位置づけ
本研究の目的は、高峰譲吉と鈴木梅太郎という他学部出身の研究者が、TR 領域へ参
入して成功した要因を検証し、得られた知見をこれから TR に挑もうとする将来の研究
者の育成教育に応用できるか否かについて検討することにある。このため、牧野富太
郎と南方熊楠という高峰らとは好対照に位置する研究者と比較することで、上記の要
因を明確にしようとした。したがって、牧野と南方については、本研究では TR 領域に
おいては特別な業績が見当たらない研究者としたが、非 TR 領域における多くの世界的
な業績は、今日甚だ周知のことであって、本研究では当然ながらそのことを否定する
ものではないことをまずはこの項の冒頭で述べておく。
6.2.
TR 領域の解釈
既に述べたように、TR とは、①基礎研究で発見された新規発見を臨床に応用・発展
するために必要な一連の研究と定義されるほか、②医師主導の臨床試験かつ橋渡し研
究であるとするもの (66) や、③新しい医療を開発し、臨床の場で試用してその有効
性と安全性を確認していく、前臨床試験(動物実験等)から臨床試験第Ⅰ相(少数健
常者を対象とする安全性等試験)/Ⅱa 相(少数患者を対象とする用法用量等試験)を
いうとするもの (67) 等がある。上記②、③の定義は、その中心を臨床寄りに据え、
①の定義を狭めたものといえる。
一方、NIH によれば、TR には2つのステップがあり、ファーストステップは、実験
室や前臨床試験で得られた知見を臨床的な応用に発展させる段階、セカンドステップ
は、臨床試験で得られた成果を医療として公衆に最善の形で提供することを検討する
段階であるとし、TR とは、研究者のベンチ(実験室)から患者のベッドサイドないし
公衆への一方向に連続するアプローチであるとされる (68)。
本研究では、高峰と鈴木を TR 領域における業績(表1)を残した組(TRs)とした
が、その妥当性について以下に検討する。
鈴木は、動物実験を実施することでオリザニン(ビタミン B)の発見に至っているか
39
ら、上記③の定義に照らしてもその業績は TR 領域に位置するといえるが、②の定義に
は必ずしも合致しない。また、高峰の研究は、上記②及び③の定義からすると、TR 領
域から外れると解釈され兼ねない。しかし NIH の定義に照らせば、高峰や鈴木の業績
は、ファーストステップに位置するといえ、TR 領域にあるとすることに問題はない。
TR 領域の解釈にあたっては、TR が一方向に連続するアプローチであるという上記の
観点からすると、TR の中心をセカンドステップ寄りに据えて狭く解釈する必要はなく、
寧ろ TR とは、その領域を広く捉えるべきである。その研究が TR 領域に位置するか否
かを判断するにおいて重要なことは、各々の研究の中に前臨床試験ないし臨床試験第
1相/2相 a が一部分として含まれているかどうかではなく、その研究自体が臨床的応
用を見据えたところから出発しているか否かにある。
6.3.
現代の研究者に対する本研究の適合性
本研究では、幕末から明治時代にかけての研究者を対象として、TR 研究者が研究を
遂行するための資質を、研究者の内的及び外的な視点から各要素に分別し、抽出する
ことを試みた。その結果、作動子、誘因子、増幅子及び抑制子が、TR に関連する4つ
の因子であるとした。
現代社会では、高峰らが活躍した当時と比べて情報の量や質、社会変化のスピード
などをはじめとする様々な条件が異なっている。当然ながらどの時代においても社会
と科学、医学ないし研究者とを互いに分離した対象として捉えることはできない。TR
研究者としての使命は、その置かれた社会環境との相対的関係に依存することから、
本研究で得られた知見が、直ちにそのまま現代及び将来の研究者に当て嵌るのかが問
題となる。
そこで、以下に適合性について検討する。
6.3.1.
現代の他学部出身 TR 研究者に関する事例
現代の他学部出身 TR 研究者において、本研究で得られた知見を当て嵌めた一例を以
下に簡単に示す。
抗寄生虫薬エバーメクチンの発見・開発者である大村智は、1935(昭和 10)年、山
梨県韮崎市に生まれ、山梨大学、東京理科大学大学院を修了した世界的な他学部出身
医学研究者である。この薬が登場するまでは、世界で年間数千万人がオンコセルカ症
40
(重篤者は失明)に感染していたが、現在は年間2億人がこの薬を服用し、耐性線虫
も生じていない (69)。
⒜大村にとっての「探究子」と「ものに対する育成素子」
大村は少年時代、農作業、殊に堆肥作りから、微生物学やエコ等をはじめとする自
然科学を学んだという (70)。子ども時代のことを聞くと大村は「農作業の計画と実行
は、化学における実験や作業計画とよく似ている・・」と語っている (70)。これらの
ことから、大村は少年時代から「探究子」、「ものに対する育成素子」を形成させてい
たことがわかる。
⒝大村にとっての「他人に対する育成素子」、「自分に対する育成素子」及び「国に対
する育成素子」
夜間高校の教師時代に、大村は、昼間は働き、夜に真剣な姿で勉強する生徒たちを
みて、自分の責任の重さを感じないわけにはいかなかった (71)。このことは、大村に
強い「他人に対する育成素子」が存在することを示す。それを機に自ら化学を学び直
す決意をした (71) のであるから、大村は「自分に対する育成素子」も強く有する。
北里研究所時代の大村は、同所が医師中心の研究所であって、自身のような化学畑
には限界があると思っていたが、ヨーロッパ視察を機に、北里研究所を拠点として、
日本を代表する機関として守っていかなければならないと考えるようになった (72)。
このことから、大村には「国を対する育成素子」も存在するといえる。
⒞大村にとっての「誘因子」
大村は、北里研究所所長・秦藤樹と師弟関係を結び、化学療法に関する知識を一気
に修得している (72)。このことから、秦という存在が大村にとっての誘因子として働
いた可能性が考えられる。
以上のように、現代の世界的 TR 研究者においても、本研究で明らかにした研究者条
件を適用できる可能性は十分にある。
6.3.2.
明治初期と現代における研究者環境の対比
既に「明治維新における西欧科学の導入」の項でみたように、明治初期の日本人科
学者は、専ら分析の技法によって対象を実証し理解してゆく「機械論的世界観」に満
ちたものであり、現代科学もその基本的な流れをくむとされる。つまり、この分析技
法、機械論的世界観が科学の基調、主流であるということは、今も昔もそれほど大き
41
く変わらないといえる(表4)。
当時の科学においては、19 世紀の西欧科学をパラダイムとして習得し、その後次第
にオリジナリティーのある研究が登場するとともに、科学者間の熾烈な業績競争も生
じ、技術の土台となる科学そのものの発展に尽力することが国益とされるようになっ
たといわれる。但し、科学者自身が従事する自己の研究の意味をさして問わず、業績
競争をしていたとされている。上記「オリジナリティーのある研究」、「科学者間の熾
烈な業績競争」、
「科学そのものの発展に尽力することが国益」ということについても、
それら自体が少なくとも研究者にとって重要な意味をなすという点では現在の科学界
においても同様である(表4)。
そこで、残る「科学者自身が従事する自己の研究の意味をさして問わず、業績競争
をしていた」という点が、現在の科学界においても該当するのかということを含めて、
以下に現在の科学界、特に若手研究者を取り巻く環境において象徴的なことについて
考量する。
6.3.2.1.
若手研究者を中心にみる現代科学界の環境
第一に「流動性の世代間格差」が挙げられる。若手研究者は、任期のない安定した
テニュアポストを得ることが難しく、流動的な立場に置かれやすいのに対し、シニア
研究者には任期付任用が比較的少なく、流動性が低いことをいう (73)。この格差が、
若手研究者のポスト減少、過度の流動性をもたらす要因とされる。流動的な立場にい
る若手研究者は、必然的に短期間での研究成果を要求される。不安定な雇用制度の下、
短期のうちに研究到達地点が設定され成果を強いられる若手研究者の心身負担は過大
といえる。
第二に、ポストドクター等の若手研究者は、進展の速い先端分野に取組む研究チー
ムなどへ参加していることも多いことが指摘される (74)。現代の科学論文は、複数人
による共著とすることが一般的である (73)。上述した短期間での成果の要求、大型プ
ロジェクト研究での短期雇用などの理由から、若手自らが自由に発案した研究テーマ
に挑戦しにくいとされる一方で (74)、業績として最も重視されがちなことの一つであ
る「被引用数トップ1%論文の筆頭著者」にポストドクターが占める割合は高い (75)。
このような「大型共同研究チームの一員としての短期的な関与」、「テニュアポスト獲
得のための業績レース」もまた、現代の若手研究者環境を象徴する。
42
第三に、上記の大型プロジェクト研究及び共著論文に関連することであるが、若手
環境に限らず科学界全体として、研究動機そのものが「好奇心駆動型」の個人研究か
ら「プロジェクト達成型」の共同研究へ移行するとともに、共著ゆえの「オーサーシ
ップの衰退」が進行し、論文執筆に関わる自覚と自己責任が曖昧になっていることが
指摘されている (76)(表4)。
表4.明治初期と現代における研究者環境の対比
6.3.2.2.
明治初期と現代における若手研究者を取り巻く環境の異同
以上のように現代の科学界を特徴的に捉えるならば、次世代を担うべき研究者の多
くが、研究の社会的意義、研究材料等を十分検討するための機会が与えられぬまま、
既に流れ作業のように稼働しているプロジェクト研究に早急に関与してゆく作業員の
ような存在に陥るという問題に直面しているといえる。場合によっては、基本特許の
取得のために、極めて早期の成果発表及び論文作成が求められることもある。したが
って、
「研究の意味を問わぬまま、業績競争をする」という現象は、6.3.2.で述べた明
治期と同様に、現在でも当て嵌まるとすることができる。
しかしながら、明治期の研究は、個人研究スタイルから出発したものが中心となる
ため、高峰に協力した上中がそうであったように、研究者が各研究の全体像を比較的
把握しやすいのに対し、現代の若手研究者は、チームの一員としての参加であって研
究の全体像を把握しにくく、しかも自己の研究の意味を十分問う猶予もあまり与えら
43
れていないことが多いという違いがある。また、職務分担による責任感の低下、共著
によるオーサーシップの衰退も、明治期よりも顕著になっている可能性が高いという
違いがある(表4)。
上述した「研究の社会的意義や研究の全体像等の検討と把握が不十分であること」、
「職務分担による責任感の低下、共著によるオーサーシップの衰退」などは、作動子、
誘因子、及び増幅子の阻害をする抑制子と位置付けられ、表面化していることが特徴
的である。したがって、結論的にいうならば、現代の方が明治期に比べて抑制子とし
て働く因子が増加しているといえよう。
6.3.3
抑制子対策の必要性
上記で検討したように、明治初期と現代とでは、若手研究者の研究環境には大きな
違いもみられるが、研究の社会的意義及び責任の自覚や、研究の全体像の把握といっ
た、研究者に常に求められている使命と要請があるという事実には何ら違いはなく、
寧ろ現代の方がこれらはより強くなっているといえる。
したがって、本研究の知見は現代の研究者にも適合する。
しかし、現代の状況では、若手研究者にとっては抑制子がより働きやすくなってい
る点を考慮する必要がある。一流研究者として飛躍するために様々な経験を積むべき
青年時代には、それまでに育んできた作動子を誘因子によって開花させる好機の到来
が最も重要となるにもかかわらず、現状はその十分な機会が確保されにくい体制だか
らである。
そこで、本研究の知見から次項のような将来に向けた問題解決のヒントを提示する
ことができる。
6.4.
TR の人材育成に関する公共事業の問題点と解決のためのヒント
現代においては、過度に働く抑制子の作用を軽減するために、若手研究者に対する
抑制子を排除し、誘因子が提供される体制を構築することが重要である。以下に、TR
の人材育成に関する公共事業の問題点と解決のためのヒントについて詳述する。
44
6.4.1.
TR の人材育成に関する経済産業省による事業の問題点
TR の人材育成に関する先行例としては、経済産業省による平成 16 年度の事業報告が
ある (66)。この報告では、TR は、TR マネージャーを中心として、TR システムデザイ
ナー、生物統計者、データ管理者など、専門細分化された人材の組織集団(チーム)
により実施される (66)。TR マネージャーとは、TR チーム内のトップとしてすべての
業務及びメンバーを管理し総責任を負う者とされ、データ管理者や生物統計者などか
らキャリアアップした TR システムデザイナーが、さらにキャリアアップした最終形だ
としている (77)。TR システムデザイナーに求められるスキルとしては、TR に必要な
データベースの構築技能や、プロトコール作成法、臨床研究における倫理指針に関す
る知識などが挙げられている一方、TR マネージャーにキャリアアップするために求め
られるスキルとしては、プロトコールの立案や、研究のエンドポイントの設定、チー
ム構成人材の知識、TR 全般に関する知識、業務計画立案技能などが挙げられている。
すなわち、同報告によれば、上記のプロトコール立案など TR マネージャーに最も求め
られるべき能力については、遅くも前段階キャリアである TR システムデザイナーから
TR マネージャーにキャリアアップする間に獲得すれば足りると考えられていることが
わかる。
本研究の TR 研究者とは、上記の先行報告における TR マネージャーと同位又はそれ
以上の者であって、TR 遂行の中核を担う他学部出身研究者をいう。本研究では、TR 研
究者として確立されるには、その研究者の内部因子たる作動子が、その生涯の比較的
早い段階から形成され続ける必要があるとともに、外部因子たる誘因子の作用による
作動子の活性化も必須であるとした。TR におけるプロトコール立案などには、上記作
動子の形成及び活性化が不可欠であるとするため、本研究の知見を基に考えてみると、
同報告が示すキャリアアップ形式による TR マネージャーの育成モデルに対しては俄か
に賛同し難い。同報告にいうキャリアアップは、研究者における作動子と誘因子の重
要性を全く考慮していないため、根本的に想定することが困難だからである。ごく例
外的にキャリアアップできる場合があるとすれば、TR システムデザイナーに至るまで
において、その研究者内部に作動子が形成されており、さらに誘因子によりその後作
動子が活性化されるような場合である。
45
6.4.2.
文部科学省による事業の問題点
文部科学省では、平成 19 年度から 5 か年計画の「橋渡し研究支援推進プログラム(第
一期プログラム)」を経て、現在、平成 24 年度から 5 か年計画の「橋渡し研究加速ネ
ットワークプログラム(第二期プログラム)」が進行している。第一期及び二期を通じ
たプログラムによる人材確保、育成に関しては、各プログラム実施機関においてそれ
ぞれ工夫されたコース設定により、TR に携わる人材が一定に確保され始めている一方
で、プロジェクトマネジメント等、中核的人材の不足が顕著とされている (78)。
既に述べたように、博士課程進学率の低迷に伴い、次世代の TR 研究者育成が危ぶま
れている状況において、同省では、平成 23 年度から「博士課程教育リーディングプロ
グラム」を開始し、産学官にわたりグローバルに活躍するリーダーの養成を目指して
いる (79)。このプログラムでは、①オールラウンド型、②複合領域型、③オンリーワ
ン型という3つの支援類型があり、将来の TR 研究者が輩出される可能性があるのは主
として②又は③の類型と考えられる。これらの類型に位置する諸大学院の試みは各種
趣向を凝らし、今後の成果が期待される。
しかし、本研究の検討結果を踏まえると、上記事業においては、作動子(図1)や、
誘因子と増幅子(図2)への理解、そして抑制子(図5)の軽減についての配慮が欠
けたままであるので、こうした養成制度を単にそのまま実行しても TR 研究者が効率的
に輩出されるとは到底考えられず、活用には少なくとも以下の点に留意すべきである。
6.4.3.
解決のためのヒント
本研究の知見に基づけば、上記のような公共事業に関して、次のような観点を盛り
込むことが、解決のヒントになる。
6.4.3.1.
大学院入学前の作動子形成
十分な制度活用のためには、研究者を目指す若手が、大学院に入学する段階よりも
前に作動子を形成させておくことが重要である。
6.4.3.2.
誘因子及び増幅子として機能すべき大学院
大学院は、入学者に対し、特に他人や国に対する育成素子といった作動子を一から
形成するための機関としてではなく、主として誘因子及び増幅子として、各人の作動
子を成熟・活性化させるよう機能すべきである。
46
6.5.
次世代 TR 研究者の育成への応用
本研究では、作動子の特性及び作動子と誘因子との関係を踏まえると、TR 研究者の
育成においては、大学院又は大学での最高教育段階のみならず、初等理科や中高科学
の教育も視野に入れた包括的な教育が極めて重要であるとの見解に至った。次世代教
育では、第一に、社会に対する使命感の意識づけが根底において必要である。その上
で、第二に作動子をその早い段階からいかに形成させるか、第三に誘因子をいかに提
供するか、第四に種々の抑制子の存在を考慮して、これをいかに排除するかが大きな
課題である。以下に、作動子や誘因子等、諸因子の概念を整理しながら、次世代 TR 研
究者育成への応用について考える。
6.5.1.
使命感を持つエリートであること
本研究の知見を踏まえると、第一には、TR 研究者は、使命感のあるエリートでなけ
ればならない。無論、ここにいうエリートとは単なる学歴エリートを意味しない。学
力はもとより、確固たる倫理観と社会のために献身する義務感も持ち合わせた人間を
いう(80)。TR 研究者は、国、他人、もの、自分という極めて広範多岐の対象について
育成子を形成し続けなければならないから、エリートでなければならないのは自明で
ある。科学者は必ずしもエリートでなくてもよいということからすると、TR 研究者の
方が多面的である。エリートということに関しては些か思い出されることがある。北
海道大学大学院修士課程において、教官井上勝一は筆者に「エリートでなければなら
ない」と指導した。エリートの意味が後者であることを筆者は中学時代より知ってい
たが、その後の進学過程でいつのまにか前者の意味を強く意識するようになっていた。
真のエリートの意味をすっかり忘れてしまっていた当時、井上の発言に違和感を抱い
たことを記憶している。このような学生は、TR 研究者に成長すべく誘因子に活性化さ
れるよう作動子が準備できているとはいえない。
6.5.2.
6.5.2.1.
身近な環境と題材から作動子を形成すること
バランスの良い作動子の形成
では、エリートとなるにはどうしたらよいのか。探究子と広範多岐に亘る育成素子
のいずれを著しく欠いても TR 研究者にはなれない。エリートとなって TR 研究者とし
て活躍するためには、増幅子を蓄えながらなるべく探究子や育成子をバランスよく形
成する必要がある。
47
バランスを重視した作動子の形成には、日常生活において、人や動植物といった自
分以外の存在と密接に関わる状況の中で利他について学びながら、併せて探究子やも
のに対する育成素子を形成させることが最も効率的である。その意味において、莫大
な予算を投じて初、中等教育において探究子やものに対する育成素子を強化するため
の理科ないし科学教育を施すようなことは一義的でない。このような政策は、探究子
やものに対する育成素子の強化が過度となり、得てして国や他人に対する育成素子の
軽視につながる。すなわち、バランスの崩壊である。
統合的な作動子の形成につながる可能性がある教育として一つの事例を挙げる。そ
れは中学時代の担任である松渕曠が実践した「教室で多くの観葉植物を育てる」とい
うものである。公立中学校の教室というのはとかく殺風景になりがちである。松渕が
教育を実践するにおいてその原点となったのは常に「その子に何が必要か」というこ
とだったが、それは同時に「生徒間のつながりにおいて、集団において、あるいは教
室、学校、地域社会として、一人一人にとって何が必要か」ということを考えること
も意味した。松渕は生徒たちが入学して少しすると「教室には緑が必要である。緑は
やすらぎと新鮮な空気をもたらしてくれる。君たちは互いに優しい生徒たちでなけれ
ばならない。」といって、光が強く差し込む南の窓際に、幾つかのユーモラスな形をし
た観葉植物の鉢植えを上から吊るしたのである。生徒たちはその珍しい新たな仲間に
大変に癒された。やがて夏休みになる頃、この仲間をどうするかということになった。
「皆で手分けして持ち帰り、休みの間に枯らさないようにしよう」と申し合わせて、
筆者も一つ持ち帰って水やりをし、また 9 月に学校へ持って行った。松渕は鉢の一つ
一つに肥料を差してから「どうか忘れないで育ててほしい」といって生徒に手渡した。
上のような事例であっても、国、他人に対する育成素子を形成するための題材とし
て十分である。観葉植物を通じて他人、環境とのかかわりを学ぶことができる。さら
に、当時は筆者には出来なかったことであるが、このような題材でも、探究子やもの
に対する育成素子を成長させることも可能だった。例えば「肥料とは何か」、「癒しは
何によってもたらされたのか」ということを化学的に考えてみるきっかけとして活用
できる。このように、身近な環境と題材からバランスよく作動子を形成することは可
能であるばかりでなく、最も重要な次世代教育の視点の一つである。
48
身近な環境から学ぶということに関して付け加えるならば、仮に農作物の栽培や、
土木や建築、機械整備などの体験学習を教育の一環として直ちに導入できなくても、
そのような大人の作業を見て学ぶ機会が与えられることは、子供にとって極めて貴重
である。その場合に、大人による華麗な手技や成果に魅了されることよりも、いかに
泥臭い作業が大変であるか、どのような思いで作業に取組んでいるかということに感
応できる精神修養を主眼に置くことの方が重要である。このような観点こそ、TR の原
点だからである。
6.5.2.2.
「化学」、「ある材料」、「新しいもの」、及び「化学的手法」の解釈
TR 研究者の次世代教育においては「化学」が一つの鍵になるから、ここでは本研究
にいう「化学」に関連した語句について解釈を示す。
探究子とは、
「化学的に探究すること」、ものに対する育成素子とは、
「ある材料から
新しいものを化学的手法により産み出すこと」であると定義した。ここにいう化学は、
純粋化学における研究対象としての化学に留まらず、今日の工業化学、農芸化学、薬
化学、医化学など、応用化学的な研究対象としての化学を意味する。TR は創薬に代表
されるような臨床応用を見据えた研究であるため、化学物質研究はもとより、細胞医
薬など今日の先端医薬品の開発研究における生物学、生化学、分子生物学的アプロー
チにあっても、その基盤学問として化学的な探究力が問われる。
このことは、TR 研究において化学的な探究力を有することが少なくとも研究者にと
って不可欠であることを意味し、物理学や生物学的な探究を軽視するものでは当然に
ない。
そして、治療の概念としては、健常時に比したある因子の欠乏又は過剰状態を調節
することが主といえるため、TR では、ある材料から新しいものを化学的手法により産
み出すことが重要な課題となる。ある材料とは、合成化学物質のみならず、細胞自体
や生体内物質等をも含む広い概念であり、新しいものとは、生体反応を調節・制御す
るものをいう。
化学的手法とは、上述のような広く臨床活用を見込んだ応用化学的な見地からの手
法の意である。
49
6.5.3.
作動子に適した誘因子が出会うこと
外的環境からその研究者の作動子を活性化させるものとして誘因子という概念を導
出した。誘因子の素性は5つ、機能は3つある(表2)。TRs における誘因子は、これ
らの素性、機能をすべて有していたと考えられる。
ところで、高峰と鈴木における誘因子には、違いもみられた。高峰においてダイア
ーは、社会に根差した存在であることを前提として「エンジニアは真の革命家でなけ
ればならない」と表現した。そこには真髄性と簡要性がよく反映され、同化の機能が
強く呈されたようにも解することができる。一方、鈴木はその時期特に探究すべき課
題を欲しており、フィッシャーの「共通の問題ではとても競争できまい。それよりも
東洋に於ける特殊の問題を見付けるがよかろう」とう言葉が、真髄性、不壊性をもっ
て誘起としてより強く機能したと捉えることができる。
いずれにしても、今回対象とした TRs における誘因子、及び作動子と誘因子の組合
せは理想形であって、誘因子が常にこの理想形をとらなければならないとは思えない。
TRs の場合、誘因子に出会うまでに、探究子と育成子が十分成熟しており、作動子が誘
因子による活性化を待つ状態にあったといえる。作動子が成熟し活性化の準備ができ
ていれば、理想形の誘因子でなくとも、作動子を十分に活性化できると想定する。
例えば、
「大志を抱け」と並び有名なクラークの言葉「紳士たれ」とは、人間を育て
る意味での校訓を意味し、学生に大きく影響したといわれる (81)。このような言葉も、
誘因子として機能し得る性質を有していると考えられるが、抽象性が強く誘因子の3
つの機能全てをもって働くとは限らない。しかしこれが、才能ある若手の成熟した作
動子に組合せよく接触することで、若手を TR に向けることが可能であろう。もちろん
その場合、ある程度成熟した作動子を有する有能な学生と、普段は信念に基づいて細
やかに思想や行動論を説いたクラークのような、少なくとも真髄性が備わった指導者
との組み合わせであることが前提である。
誘因子が作動子に接触するにおいて重要なことは、作動子のどの部分を補うべきか
を考慮して、機能が決定されるべきであるということである。高峰の場合のように比
較的初期であれば同化の機能が強い誘因子が有効となり、鈴木のように比較的後期で
あって課題を欲するような場合には、誘起の機能が強い誘因子が有効となる。
50
6.5.4.
抑制子を可能な限り排除し続けること
抑制子は、Ns において強く存在し、高峰においてさえも認められた。抑制子を示し
た三者をみた場合、自分に対する育成素子が強くなると、抑制子も強くなる傾向があ
った。次世代研究者育成へ向けて、抑制子を少なくするにはどのようにすればよいか。
6.5.4.1.
抑制子を増強させるおそれがある制度や組織
既に述べたように、現代の研究環境は、特に若手研究者の抑制子を働きやすくして
いると考えられるため、専ら TR 研究者を目指す者に注意喚起をして抑制子の排除を促
すということでは何ら将来の改善は見込めない。
これまで TR リーダーと称する者の中には、実際は TR に対し特別深い思慮はなく、
ただインパクトファクターの高い学術雑誌に自己の論文を掲載することだけに囚われ
ているような者もいた。こうした価値観に支配される研究機関ないしチームは、ポス
トや研究費の獲得などの都合により便宜的に TR 領域に参入しようとする集団により構
成されるので、その研究の多くは、臨床的応用を見据えたものには発展しにくい。
6.5.4.2.
抑制子の排除のための取組み
TR 研究志願者個人が自ら抑制子を排除できる社会的な体制づくりが重要である。そ
のためには、例えば制度としての「単に論文や特許のみに頼らない TR 研究者の評価(ポ
スト付与及び予算配分)」が必要である。管理職ポストを選考する際に、TR 研究者が有
すべき国や他人に対する育成素子を最初に考査するだけでも、単に掲載論文による業
績評価よりはるかに正しくその者の適性を見極めることができる。さらには、TR を推
進する国や大学、各研究機関の組織自体が、真の TR 研究者を見極めるためのシステム
を構築し、その者が中心となる TR 研究集団を確立することも必要である。
その一方で、体制づくりとは別に、TR 研究者の個々の決意も当然に大切である。研
究者が時折「将来、この研究が誰かの役に立てばよい」と語ることがある。それはい
かにも、国や他人に対する育成素子の表れのようにもみえる。しかし、その言葉は反
面で、
「役に立つようにするのは他の人の仕事であって自分の役割ではない」という本
心を無意識のうちに示しているのかもしれない。この場合には、前者をより強く意識
し、自身がその主役たる決意を有する必要がある。
51
また、研究者はしばしば「この薬を世に広めなければならない。そのためには基本
特許を早く押さえなければならない」と漫然と語ることもある。しかしそこには、薬
の提供という公と、特許という私とが交差しながら並立する難しさがある。この場合
において TR 研究者は、公の観点をより強く意識しなければならないという宿命にある。
次世代 TR 研究者は、「将来誰かの役に立つべくこの研究を始めた。その道筋は自分
が作るという思いでやってきた」と、どうしても語り続けねばなるまい。
使命感の強い TR 研究者であること、そのような TR 研究者を一人でも多く輩出する
ための社会体制であること、その両方が次世代の育成において大切な視点である。
6.6.
知的財産とトランスレーショナルリサーチ研究者(結びにかえて)
6.6.1.
本研究にいう知的財産
本研究は、知的財産を「人間の創作的活動により生み出されるもの」としてスター
トした。しかし、実際に取り上げた知的財産は、専ら人財についてである。TR を担う
主役となる人財と、TR へ向かう後ろ盾となる人財とが、組合せよく出会うことで、知
的財産が TR の成果として産出される。
人財という場合、材料(人材)でなく財産だとする解釈があるが (82)、人財は、創
作的活動により生み出されるものという概念には馴染みにくい。その意味では、ここ
にいう人財は、知的財産というよりも、付加価値を生み出す生産財的な性質を有する
「知的資源」としておく方がふさわしいといえるもしれない。
6.6.2.
知的財産と本研究との位置関係
知的財産の一種である特許は、その発明が、既知の組合せにより創られた発明であ
る場合、発明全体として非自明性ないし進歩性を有していなければならない。
本研究の作動子と誘因子とは、その語句自体が新しいものであるが、概念としては
必ずしもこれまで全く存在しなかったといい切れるものでもない。また、一般的に、
人間が成長するにおいては、その者に影響を与える人物との出会いが極めて重要であ
ろうということも、比較的よくいわれることである。
52
しかしながら、有能な医師ないし医学者と、有能な科学者あるいは技術者をそれぞ
れ教育によって輩出し、これらが連携しさえすれば TR が成功するという程単純にはい
かないはずである。
TR の実践においては、上記のような既知の要素について再考した結果、概して作動
子と誘因子との結合、及び抑制子の排除の観点が重要だということが示唆された。そ
の中でも、特に誘因子が TR 研究者の生涯において大きな鍵を握る重要な因子と考えら
れたため、誘因子について5つの素性と3つの機能により詳細に区分し、各々がどの
ように作用しあいながら効果を発揮するのかについて解析した。この過程においては、
発明の必須構成要件を探り当てるような思考プロセスの分析を行っている。
このような思考プロセスを踏んで到達した本研究の知見には、いわゆる進歩性があ
るものとすることができる。
本研究で得られた知見を、次世代 TR 研究者の育成に応用すれば、人的資源としての
有用な人財が育つこと、及びその人財が TR の成果物たる知的財産を創生することを期
待できる。
53
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謝辞
本研究は、今から十数年前に『「科学者の楽園」をつくった男』(宮田親平)という
書籍を先輩研究者に紹介され、その内容が印象的だったところから発している。本研
究の重要なモデル人物である鈴木梅太郎の活躍には、今回は取り上げなかった大河内
正敏の存在も見逃せないのであるが、同書には大河内を中心とした古き良き時代の理
研の姿が描かれている。これからのトランスレーショナルリサーチを考える上で、本
研究のように様々な歴史を再考することは決して無駄ではないと確信している。この
ような書を紹介してくれた元三菱化学生命科学研究所・島村道夫氏には深く感謝する。
また、本研究は、指導教官である澤井敬史教授の「研究の 1 年間というのはあっと
いう間だけれども、必ず途中で苦しくなるときがある。それを乗り越えるためにも、
自分(筆者)の経験してきたところ、思い入れのあるところをテーマにした方がよい」
という一言がきっかけで取り掛かることにしたものである。研究を始めて間もない頃、
筆者がデータを持っていくと「人を TR に向かわせる何か引き金のようなものがあるの
ではないだろうか」と一目見てすぐにそう言われた。私が何日もかけてそのようなこ
とをおぼろげに思ってきたことを、一瞬にして教授からご指摘頂いたのである。その
他にも「誘因子と増幅子はどう違うのか」、「明治の事例を基にしたモデルが現代にど
のように適用できるのか」など、考察のきっかけを随所で教授から頂いた。澤井教授
の鋭い洞察から、毎回重要なご助言、ご指導を頂くことがなければ、本研究は、ひと
つの結果すら見出だせなかっただろう。澤井教授はまさに私にとっての誘因子であっ
た。
1年間を通して誠に多くのご指導を頂きました澤井敬史教授には、心より御礼申し
上げます。