2015 年コルプス・ドミニ大祭日ミサ聖祭の説教

2015 年コルプス・ドミニ大祭日ミサ聖祭の説教
フランシスコ‐ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ
至聖なるキリストの御体と御血の祭日ミサ聖祭と聖体行列
聖父フランシスコの説教
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂
2015 年 6 月 4 日木曜日
伝統に忠実に、パパ様のお膝元であるローマ教区ではコルプス・ドミニ--キリストの御聖体の祭日--は、至聖三位
一体の主日後すぐ次の木曜日に祝われる。ローマ司教たるパパ様は司教座聖堂のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラ
ーノのバジリカに赴き、聖堂前広場でミサ聖祭を捧げてから、サンタ・マリア・マッジョーレのバジリカへと通じる一本
道のメルラーナ通りを聖体行列される。フランシスコ・パパ様は徒歩で車上の御聖体の後に従われる。2015 年も1万
8千人以上の市民が繰り出し、パパ様と共に御聖体の秘蹟の内に現存される主への信仰と愛の証しを捧げた。
私達は聞きました、晩餐の間にイエスが、御自分の無限の愛の生贄の記念を私達にお残しになる
ために、パンと葡萄酒を介して御自分の御体と御血をお与えになるのを。そして、この恩寵に満
ち満ちた『旅路の糧』で弟子達は、歴史の流れに沿って神の王国を全ての人々へと広めるために
歩くのに必要な全てを持っていることになります。弟子達にとって、イエスが十字架上で自発的
に御自分を屠ることにより、御自身そのものを贈り物としてくださった事自体が光であり力と
なります。そして、この命のパンは私達にまで届きました!この現実を前に、教会の感嘆は尽き
ることがありません。常に観想、賛美、思い出を養ってくれる感嘆です。私達にそれを証しして、
きょうの典礼の大変美しい文面、読書課の第2朗読の答唱はこう述べています、
『このパンの中
に十字架に磔となった方を、カリスの中に彼の脇腹から噴き出した血を認識しなさい。キリスト
の体を取って食べ、その血を飲みなさい。今やあなたがたはキリストの肢体だからです。群れか
ら離れないように、このコムニオーネ(交わりと一致)の絆を食すがよい、自分の価値を失わな
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フランシスコ‐ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ
いように、あなたがたの贖いの代価を飲むがよい』
。
そこには危険があります、脅威があります、群れから離れるな、自分の価値を失うなとあります。
きょう、この『群れから離れるな』と『価値を失うな』とは何を意味しているのでしょうか?
私達が群れから離れるのは、主のみことばに素直に従わない時です、私達同士の間で兄弟愛を実
践して生きない時です、上座に着くために競り合う時――這い上がろうとする人達です――、真
愛を証しする勇気がない時、希望を与えることができない時です。このようにして私達は群れか
ら離れていきます。エウカリスチアは私達が群れから離れないようにしてくれます、なぜならコ
ムニオーネの絆であるからです、契約の成就だからです、私達が一致しているために御自身を卑
しめ、全く無となさったキリストの愛の生ける印だからです。エウカリスチアに与り、それで養
われながら、私達は群れからの離脱を許さない歩みに仲間入りさせてもらえます。私達の間で、
パンと葡萄酒の印の中におられるキリストは、愛の力があらゆる断裂を克服するように、それと
同時に、最も貧しい人々とのコムニオーネになるように、弱い人々の支えとなるようにと要求し
ます、日常生活の重みを支えるのに苦労している人々、それに信仰を失う危険の中にある人々に
対する兄弟的な注意となるようにと要求するのです。
それから、もうひとつの言葉、
『自分の価値を失うな』というのは、
きょう私達にとって何を意味するのでしょうか?それは、私達の
時代の偶像崇拝、つまり、目立つ事、消費する事ですし、全ての
中心にある自分の事ですし、また、競争力のある存在である事、
勝ち誇る態度の如き傲慢でもありますし、自分が間違ったことや
困っていることを決して認めてはならないという事でもありま
す。こういうことは全て、私達をつまらないものにします、平々
凡々で、生温くて、味も素っ気もない、異教徒的なキリスト者に
するのです。
イエスが御自分の御血を流してくださったのは代償としてです、洗い浄めとしてであり、私達が
一切の罪から浄化されるためでした。自分の価値をなくさないために、イエスを見つめましょう、
彼の泉で水を飲みましょう、腐敗の危険から守られるためにです。そうすれば、私達は変容の恵
みを体験します、私達は常に貧しい罪人のままですが、キリストの御血は私達を自分の罪から解
放し、私達に自分の尊厳を取り戻してくれます。私達を腐敗から解放してくれます。私達の手柄
なしに、誠実な謙遜を以て、私達は私達の主の愛を兄弟達に運べます。私達は、ザッケオやマグ
ダレナを探しに出かける彼の目となりますし、体や精神の病人を助けにいく彼の手となります
し、和解や憐れみや理解を必要としている人々を愛する彼の心となるのです。
2015 年コルプス・ドミニ大祭日ミサ聖祭の説教
フランシスコ‐ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ
このようにしてエウカリスチアは、私達を聖化し、私達を浄化し、神との素晴らしいコムニオー
ネにおいて私達をひとつにする契約を実現します。このようにして私達は、エウカリスチアは善
人達の御褒美ではなく、弱い人々にとっての、罪人にとっての力であるということを学びます。
エウカリスチアとは赦しです、私達が出かけていき、歩いていけるように助けてくれる旅路の糧
です。
きょう、コルプス・ドミニの祝日に、私達にはこの神秘を祝う喜びだけではなく、私達の町の通
りを歩きながら讃えて歌う喜びもあります。このミサの終わりに行う行列が、神が私達に自分の
貧しさという砂漠を通り抜けさせてくださり、御自分の御体と御血を介して御自分の愛そのも
ので私達を養ってくださることにより、私達を奴隷の身分から抜け出させてくださった、その歩
みの全てに対する私達の感謝を表現してくれるものでありますように。
間もなく、通りに沿って歩く間、主イエスへの信仰を表現する自由がない沢山の兄弟姉妹とのコ
ムニオーネを感じましょう。彼らとひとつに結ばれていると感じましょう、彼らと共に歌いまし
ょう、彼らと共に讃えましょう、彼らと共に崇めて賛美しましょう。そして、私達の心の中で、
キリストへの忠実さの故に命の犠牲を求められた兄弟姉妹達を崇敬しましょう。主の御血とひ
とつになった彼らの血が、全世界にとって平和と和解の担保となりますように。
そして、
『群れから離れないために、このコムニオーネの絆を食べ、自分の価値を失わないため
に、あなたがたの贖いの代価を飲むがよい』
、これを忘れないように致しましょう。
原文© Copyright 2005-2015 – Libreria Editrice Vaticana
邦訳© Copyright 2015 – Cooperatores Veritatis Organisation
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