第七章 古代天皇と実年代 第七章 古代天皇と実年代 ▲ 藤白皇大神社(海南市藤白)に祀られた饒速日大王 -1- 第七章 古代天皇と実年代 ( 国 と大 王 の起 こり 中国は漢の時代 ~ 年 の) 史 書 漢[ 書 ・ 列 伝 ・地 歳 時を以て来た り献見すという」と あり、また、 もと ~ お ほき み 記[紀 は]、大王や天皇を神格化しようとする意図から、 「 天 孫 降臨 神 話」 を創 作し 、皇 祖神 に繋 がる 血 族大 王の 子 孫に よ って 万 世一 系の 天皇 系譜 を創 作し てい る。 これ は 、 皇位 を 簒奪 し ようと する 勢 力を 排除 する ため の対 策 だったと考えられる。 大 王や 天 皇は 初 めから 特別 な 存在 の人 物か ら生 まれ た がそ の 地 位に つい たも ので 、 勿論 それ には 人格 や技 量の も の では な く、 血 縁や 地縁 の強 固な まと まり 集団 の代 表 紀 元前 後 の日 本列 島に は、 そ れぞ れの 地域 、地 方に あ 秀 でた 人 物 が推 され たか 、武 力・ 腕力 で地 位 を勝 ち取 っ そ の小 国 は、 族 長の 権力 増大 にと もな って 部下 を増 や や 暴 力団 の 組長 と同 質と みら れ 、そ の集 団が 国と なる 。 した が っ て、 大王 の始 まり は基 本的 には ヤ クザ の親 分 た者もあったであろう。 して領域を拡大、 「国」と呼ばれる地縁集団が出来上がっ ごう そ し て 逐次 、 和国 や初 期大 和国 王家 の子 族が 地方 に送 おおざと 馬台 国)を支え、国と呼ばれるものになったとみられる。 県を単位とする下部組織に纏まったものと思われる。 よ り 多 くの 土 地と食 糧資 源 等を 掌握 し、 配下 を擁 した なか に は、 領 地争 いで 命を 落と した 者や 消滅 した 小国 お ほ きみ も少な からずあ ったこ とは 記[ 紀 や] 旧[ 事紀 の] 記述にもそ 集団 が 権 力・ 支 配力 を伸 ばし 、そ の首 長が 大王 と呼 ばれ り 出さ れ れて 政 権 の 下部 組 織と なり 、和 倭( 国) ・大 和 邪( た。 集団の 組織 が幾 歳月 を経 て 邑 や 郷 と なり、 郡や府 に存在したのであろう。 っ て 利害 を 共有 す る血 族や 同族 集団 、つ まり 小国 が多 数 今、使訳の通ずる所は三十余国なり」と、でている。 依りて国邑をなす。旧百余国、漢の時に朝見する者あり、 こくゆう 年頃 の歴 史を 書い た 三[ 国志 ・魏志 に] は 、「倭人は 山島に AD 220 280 理 誌 に] 、「 楽 浪 海 中 に 倭 人 あ り 、 別 れ て 百 余 国 を な し 、 AD 8 るようになったものと思われる。 -2- BC 206 第七章 古代天皇と実年代 いつ し の片鱗がみえる。 かい ざん 世紀に かけ て 大和 政権 を 前 ・ 越 中 ・ 越 後 ・ 加 賀 ・ 能 登 、) 穴 門 後( に長 門 等) の 日 本 す さ の お ちく し とよ ひ うが 海 側 の 小諸 国 が同 盟し て成 立し たも のだ った 。 その 後、 須佐之男尊は、筑紫 筑( 前・筑後 、)豊 豊(前・豊後 ・)日向 年 の 乙 巳の 変に 始ま り、 完 全に 乗 っ取 っ た百 済族 は、 和国 ・大 和国 の歴 史を 改竄 等 の 熊 襲 を 除 く 九 州 島 、 そ れ に 紀 伊 半 島 の 木 紀( 国) を 加 き し た 日[ 本 書 紀 や] 古[ 事 記 を] 編 纂 し た 。 記[ 紀 は] 万 世 一 系 そう し えて拡大した。これが日本列島で最初の連合和国だった。 作し、正統性を強調したものであった。 「雍熈元年、日本國の僧奝 然、其の徒五、六人と海に浮 ちようねん 中国の史書 宋[史 卷四九一・外國伝・日本國 の ] 条に 、 そ の 上、 饒 速日 大王 の大 和 建国 の史 実を消 す ため に、 かん で 至 り、 銅器 十事 并び に 本國 職員 令・ 王年 代紀 各一 ようげん 神武天皇の婿入り東遷を、 「神武東征」とし、武力で大和 卷 を獻 ず 」 とあ り、 王年 代紀 の第 一に 天御 中 主尊 ・・ ・ ( 年 さ) か の ぼ ら せ 、 とうせい を 平定 し た よう に書 いた 。さ らに 、神 武天 皇 の王 位継 承 第 十 八 に は 素 戔 嗚 尊 須( 佐 之 男 尊 が) 記 さ れ 、 二 十 四 代 に の お の お 写して持参したものであろう。 よ うげん ( 年)、 代王を「素戔嗚尊」と書いているところをみれば、書[ 代花山天皇が即位した年にあたる。 か ざん 中国は北宋時代の雍熈元年は、日本では永観二 えいかん こ の 王 年 代 紀 は 、 僧 奝 然 が 当 時 の 日[ 本 紀 書( 紀 を )] 書 ちよ うね ん 磐 余 彦 尊 が 名 前 を 連 ね て い る 。 磐 余 彦 尊 は 記[ 紀 で] は 初 さ す こし 世紀 中葉に 須 佐之 男大 王 し 984 て日本の建国史が曖昧になってしまっている。 す 須佐 之男 大王 の 和国 創建 第三 章 で 述べ たよ うに 、 こ が建てた和国の版図は、出雲・隠岐をはじめ、高志=越 越( 65 18 さ 建国 歴 史 の古 さ を内 外に 強調 した 。だ から 、い まだ に古 BC 600 代神武天皇である。 600 代 の 大王 や 天皇 の実 年代 が確 定 出来 ず、 諸説 が飛 び交 っ 年を干支十運 年の こ とと し て にぎ はや ひ 55),225) の王 統 系譜 を 偽作 し、 自身 の 出自 を大 和政権 に 繋い で創 8 BC 2 -3- 645 第七章 古代天皇と実年代 紀 の] 系 図 を 書 写 し た も の で あ ろ う 。 古[ 事 記 な] ら 「 須 佐 の お ちようねん 天八重雲尊_ おお とし 天弥聞尊 _ 万魂尊_ 伊奘諾尊_ 利々魂尊 _ 素戔烏尊_ 国狭槌尊_ 角 龔魂 と も あ れ 、 こ の 当 時 に は こ の 王 年 代 紀 系( 図 が) 実 在 し 贍波尊 _ たことを証明している一級史料である。 天忍勝尊_ さ 沫名杵尊_ す さ させた。詳細は第四章で論証したとおりである。 ぬ め お ほやま と にぎ はや ひ ひ む か み とし い す け よ り いわ れ ひこ ひ お め 磐余彦尊の磐余が地名となったのかは不明である。 いわ れ ひこ 桜井市南西部一帯あたりの地名をとって名前としたのか、 大 和 国の 王 位を 継 承した 。磐 余 彦は 、現 橿原 市東 部か ら いわ れ ひこ 筑紫 九(州嶋の古名 の)日向から東遷して磐余彦と名乗り、 ち く し 名 御 歳 比 売 = 大 和 神 社 の 祭 神 御 歳 大 神 の) 婿 養 子 と し て み とし ひ 孫狭野命は、大和の饒速日大王の娘伊須氣余理比賣命 本( さ すで に 第 五章 で詳 述し たよ うに 、和 国王 須佐 之男 尊の の 天照大神尊_ _ 磐余彦尊_ 中 、と続く。 (略 ) 守平天皇 円(融天皇) 天万尊_ す 彦瀲尊_ 天鑑尊_ にぎはやひ ひの (10) 之男命」とする筈である。 さ ひのもとのくに 炎 尊_ 国常立尊_ 天彦尊_ 面垂見尊_ 天村雲 尊_ 汲津丹尊_ 天御中 主_ お は り ま (9) (19) 日本國の僧奝 然が中国の宋朝に伝えた「王年代紀」 の もと 各国 ・ 瀬 戸内 湾岸 諸国 ・播 磨 ・河 内・ 大和 に東 遷し て日 本 国と 命 名 し、 三輪 山麓 に政 庁 を置い た。 唐 古鍵 遺跡 か (16) (8) (18) (6) 1),93) '15) (5) 之 男 尊に 従 って 和 国建 国に 活躍 した 後、 筑紫 から 四国 の す 大歳 改(名饒速日 大)王が創建した日本国 に ぎ は や ひ (14) 須 佐 之 男 大 王 の 三 男 大 歳 改( 名 し て 饒 速 日 尊) は 、 須 佐 おおとし (13) 世紀 初頭 のこ と で、そ の後 、伊 勢・ 尾張 ・ 纏向遺跡辺りとみられる。 時代 は (17) (7) (64) 尊_ (12) 正哉吾勝速日天押穂耳尊_ (11) 三 河 等の 東 海諸 国、 及び 南関 東 あた りま での 諸国 を提 携 -4- (23) (2) BC 2 (24) (4) (22) (3) (21) (1) (20) 第七章 古代天皇と実年代 り ちゆう いわれのわかざくらのみや せいね い 書[紀 に]は、履 中 天皇の「磐余稚 桜 宮 」 ・清寧天皇の ようめい なる。 し か し 、解 読 され たと する 墓誌 は、 画像 処理 によ って いわれの たまほの みや 「磐余甕 栗 宮」・継体天皇の「磐余玉穂宮」・用明天皇の 得 られ た 不明 瞭 な文 字情 報を 人の 目に よっ て判 読し てい けいたい 「 磐余 池 辺 雙 槻 宮 」 が み え、 古 代 天皇 の 館 が 営ま れた る の であ る から 、 そのま ま、 す べて 信頼 でき るも ので な いわれのみかくりのみや 地 で ある 。 また 、 桜井市 南部 付 近に 築造 され たと いわ れ いことも判った。 即 位 元年 か ら崩 年 迄の 出来 事や 事績 を編 年的 に書 いて い 書[紀 は]、各天皇について即位前の事績や系譜を載せ、 に目 を 配 りな がら 、史 料と 不 整合 がな いか を確 かめ ねば は 、 同時 代 の人 物 や親 子関 係等 を十 分参 酌し 、前 後左 右 つ まり 、 墓誌 の 干支判 読と 実 年代 への 比定 にあ たっ て はに やす いわ れの いけの へ の なみ つきの み や る磐余池 別(名 埴 /安の池 の)名残もある。 る。 書[ 紀 は] 、 古 代 の 王 年 代 を 故 意 に 引 き 延 ば し て い る こ ならない。 時 代 は 推定 でき る が、 ○○ 天皇 ○年 と云 われ て も、い っ とは 、 す でに 多 くの 識者 が指 摘し 、そ の実 年代 に迫 ろう 2),30) 43),57) 127) いる。 もと に して 実 年代 を特 定し 、 独自 の歴史 年表 を 整理 して 年 代 の記 録 を、 古 墳や宮 跡近 傍 から 解読 され た墓 誌等 を 著者は 、 記[ 紀 や] 旧[ 事紀 、] 他国 の史書に 書かれた各王 も推測の域を出ていない。 142) -5- 書 かれ た 内容 の 真偽 は別 とし て、 他の 史料 から 大凡 の たい 、 い つ頃 を さし てい るの か、 実年 代は 推測 もで きな とし た工夫等 がなされてい るものの、それらは 何れ い 。 古[ 事 記 に] い た っ て は 人 物 本 位 の 記 述 だ か ら 、 そ れ だけでは実年代を類推することさえも出来ない。 た だ 、 記[ 紀 と] も に 王 年 代 順 の 記 述 に な っ て い る の が 唯一の救いで、両者はその順番は符合している。 おほ きみ 古 代 天 皇 大( 王 の) 生 存 実 年 代 は 、 何 と 云 っ て も 古 墳 や 宮 跡 等 に 残 こ さ れ た 墓 誌 等 の 考 古 史 料 が 唯 一 の証 拠 と 31),59) 第七章 古代天皇と実年代 したがって、墓誌 にみられる崩年の干支と没年齢、 書[ 紀 に]書かれた即位年の干支によって、生存実年代、及び つ ま り、 紀元 前 三世 紀以 降の 歴史 人物 の生 存 年代 と、 各 時 代 の史 料 や主 な出 来事 を、 西暦 年・ 干支 年 ・和 暦年 大 王と し ての 在 位年 数は すべ て、 根拠 をも って 再現 でき 千 かのゑ ね つく。 以 下 、 本 章 で は 記[ 紀 の] 初 代 神 武 天 皇 か ら かのと と り む か つ ひ め 年 い は れ ひ こ ぶ れつ 代武烈天 国の初代天皇としている。しかし史実ではない。 やまと 神とし、その孫磐余彦尊 記(は伊波礼毘古命 を)、 倭 大(和 いわれひこ 記[ 紀 と] も に 、 伊 弉 諾 尊 の 娘 向 津 毘 売 尊 を 皇 祖 天 照 大 い ざ な ぎ 神武 天 皇即 位の 辛 酉は 皇の生存実年代と在位について考証する。 じん む 従 兄弟 ら の 墓誌 から 得ら れた 生存 年代 から 大 凡の 推測 は 墓誌 の 得ら れ てい ない 人物 につ いて は、 その 子や 孫、 た。 百年 間を 一覧 表に した 。新 たに 発見 を 指標 に して さ れ た記 録 や考 古 史料が 手に 入 り次 第、 次々 と追 加編 集 し、その出典を付記して置くことにしている。 こ んな 作 業を 繰 り返し やっ て いる うち に、 新し い発 見 が 得 ら れ た 。 書[ 紀 は] 、 先 に も 指 摘 し た よ う に 古 代 天 皇 こ とし の崩 年 齢 を、 やた らと 引き 延 ばし ては いる もの の、 即位 と 元年 条には 、例え ば「是 歳、太歳 庚 子 」というふう に、 え 必ずその年の干支を書いていることに気付いた。 これ は 、 おそ らく 史実 を書 いた 原史 料が あ って のこ と で あ ろう 。 これ が信 用で きる か どう かも 、他 の史 料で 検 証しながら実年代を考証していくこととしたい。 たぶら い ざ な ぎ さ の お す し た と思 わ れる も のもあ る。 ま た、 崩年 条に は「 是歳 の と お す 伊 弉 諾 尊は 日 向の一 豪族 で あり 、日 本建 国に つな がる え の む か つ ひ め 和国 建 国 に汗 を 流し た初 代王 は、 前項 に書 いた よう に須 さ 干支 」 は一 切 書い てい ない 。 ウソ の年齢 を書 い てい るの と 佐 之 男大 王 で、 向津 毘売 尊は 須 佐之 男大 王の 妃で ある 。 え ) -6- 31),59) だ から 、 干 支を 書く わけ には いか なか った の であ ろう 。 こ とし 25 2 書[ 紀 に] 書 か れ た 即 位 元 年 も 、 一 部 に は 干 支 年 を 誑 か BC 60 2 第七章 古代天皇と実年代 やま と にぎはやひ す さ す の け お にぎはやひ よ り ひ め か む や ま と い わ れ び こ とあり、その在世は ~ いみな 年と比定 されている。 墓誌は、「神倭伊波礼毘古命 丙子三月十一日 年六十三」 か む や ま と い わ れ び こ 十 有 六年 の 春三 月十 一日 、御 年 百二 十七 歳」 とし 、次 に おお とし お いわれひこ ま た 、 日 本 大( 和 国) を 建 国 し た の は 須 佐 之 男 大 王 の 三 の み る 墓 誌の 月 日だ けは 符合 して いる のも 不思 議 であ る。 さ 男 大 歳 改( 名 し て 饒 速 日 尊) だ っ た 。 そ し て 、 饒 速 日 大 王 す い の 没後 、 須佐 之 男大 王の 孫磐 余彦 尊が 王権 を継 承す るま み とし 年 間 、家 督 相続人 だっ た 末子 の伊 須氣 余理 比賣 命 おほやまと で約 う ま し ま お じ さ 代めとなる。 の ち く し い す け よ り ひ さ ぬ 名乗ったものである。 か む や ま と い わ れ び こ かのととり ひ こ かのえたつ ついたち 年 したがって、王位継承の辛 酉年が史実とすれば、 か のととり 「神倭伊 波礼毘 古命 」は亡く なられた後の 諡 で 、日向に にぎはやひ いわれひこ さ れるから、磐余彦尊は す ず ひめ れ 神 倭 伊波 礼 毘 古 命の 在 世中 に ある 辛 酉年 、 つま り す は の 日向 か ら 大和 に東 遷し て饒 速日 大王 の娘 伊 須氣 余理 比 ひめ た たら い い の こ とと なり 、太 陰暦 の正 月庚 辰 の 朔 は 太 陽暦 に換 算 め いわ れ ひ こ 年と計算、二月二十一日を明治五 た 書[ 紀 の] 天 皇 年 紀 の 記 述 を そ の ま ま 信 じ 、 辛 酉 年 を かのととり 賣 命 書( 紀 は 媛 蹈 鞴 五 十 鈴 媛 尊 と 書 く と) 婚 儀 を 済 ま せ 、 かのえたつ と定めた。 ( 年) 、「建国記念の日」と改め、 ( 年) に 「 紀 元 節 」 BC BC 60 ともあれ、和暦年号のなかった古代は、 「○○天皇○年」 今も国民の祝日となっている。 その後、昭和 四十一 1872 を継承した」 。 かのととり このときを 書[ 紀 は] 、「辛 酉年の春正月庚 辰の 朔 」と かのととり 年毎 に 巡っ てく るか ら、 いつ の し てい る 。 神武 天皇 の 即位 元年 で ある 。し か し辛 酉 の年 と 云 われ て も、 干 支は かのととり 辛 酉やら見当も付かない。 書[ 紀 は] 、 神 武 天 皇 の 崩 年 月 日 と 崩 年 齢 を 、 即 位 「 七 1966 ついたち する と 二 月二 十 一日 であ る。 明治 政府 は、 引き 延ば され わ の く に ぬ 大( 和神社の祭神名には御歳大神とある が)成人するまで、 31),59) 居 たと き は 狭野 と呼 ばれ 、大 和に 来て から 伊 波礼 毘古 と 45 饒 速日 大 王 の次 男宇 摩志 麻冶 尊が 大王 役を 務 めた とみ ら BC 107 「 橿 原 に 宮 を 建 て 磐 余 彦 記( は 伊 波 礼 毘 古 と) 名 乗 り 王 位 にぎはやひ 和国建国の始祖須佐之男大王の孫狭野命は、筑紫 九(州 ) 4 60 660 33) -7- 20 第七章 古代天皇と実年代 に示 と し て時 代 を表 す場 合が 多い の で、 その 実年 代を 明ら か にし、西暦年を比定しておくことが重要である。 お ほ き み すめらみこと 世紀初頭までの大王 天( 皇 の)墓誌を表 古代 天皇 の墓 誌 と在 位の 実 年代 まず、 ただ 年 紀 ・崩 年齢 を 引き 延ば した 書紀 の偽 作を 糺 すに は、 そ れ ぞ れ天 皇 の墓 誌に 書か れた 崩年 干支 と崩 年 齢が 唯一 の確証となる。 生 物 とし て の人 間の 寿命 は、 一定 の法 則と い うか 特性 の範囲にあるものである。 し わ け たてまつ おう じん わ の人 に 付 けて 貢 進り き」 とあ るこ とを 根拠 に、 日本 に漢 にの き け て全 国 各 地の 古墳 や大 王の 宮跡 等か ら碑 石 や石 棺ら し しん ( がなかったと勘違いしているのである。 字 の 入っ た のは 応神 天皇 時代 の こと で、 それ 以前 は漢 字 されたものである。 しん じ 中 国 で の 漢 字 の 起こ り はは る か 秦 さかのぼ 年に日本に渡来した徐福は、「始皇帝に文書を 遡 り 、当時 は 秦字と 呼ば れて いる が漢 文字 の起原 とさ 紀元前 日 ・ 崩 年齢 の 順に 書か れて いる 。人 名表 記は 、 書紀 に書 BC 256 207 れている。 墓 誌は す べて 正 確な 漢字 によ って 故人 名・ 崩年 干支 月 - 年 の) 時 代に い も のを 探 して 写 真撮 影し 、そ の画 像解 析に よっ て解 読 邇 吉 師 、即 ち論 語 十巻 ・千 文字 一巻 、併 せて 十 一巻を こ と おほ せ た まひ き。 故、 命を 受け て貢 上り し 人、 名は 和 たて まつ ほむ た し かし 、 漢字 で 書かれ た墓 誌 は後 世の 贋作 では ない か すめらみこと おほきみ 世紀に編纂された 書[ と 疑 う 説 も あ る 。 そ れ は 、 古[ 事 記 に] 「 品 陀 和 気 命 応( 神 した。ただ、 「天 皇」と云う表記は 紀 に]書かれたのが初出で、古代はすべて大王であった。 天皇 の)御代に、百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』 すめらみこと ここでは 書[ 紀 に] 準じて天 皇と表記することにした。現 1 かれ た も のと は 異な り、 古事 記の それ と同 じか 、ま たは 類似している。 210 -8- てんのう 在の天皇と同義である。 59) これ らの 墓誌 は 、井 上赳 夫 氏 や池 田仁三氏 が長年か 31) 8 6 第七章 古代天皇と実年代 ち ようけん 以て進言した」と『史記始皇帝本紀』 にみえ、 『後漢書』 かん に は 、「 漢 の 時 代 に 朝 献 す る 者 あ り 。 い ま 使 訳 の 通 ず る 所 は 三 十 国 な り 」 と あ る よ う に 、 漢 字 が 使 われ て いな かったなどと云うのは大間違いである。 女王 卑 弥呼 の 時代 にも 、魏 王と の間 で文 書が 交わ され たことが 魏[志 の]記録からみて明らかである。 年 年 で 巡っ てく るか ら、 これ を西 暦何 年 に比 定す な い 。た だ 、和 年号 のな かっ た 古代 に、 年を 表し た干 支 は一運 る かは 慎 重に 検 討す る必 要が ある 。干 支一 運違 えば の誤差をきたすことになる。 した が って 、 親子 ・兄 弟・ 世代 等の 系譜 を勘 案し なが ら 、明 確 に 判明 して いる 新し い時 代の 人物 の 生存 実年 代 から、順次さかのぼって比定していく必要がある。 それぞれ大王 天(皇 の)在位年は、井上赳夫氏 や池田仁 げんふう てい る 漢 時代 の銅 鏡に は、 た いて い漢 文字 が書 かれ てい ぜんかん ( 三 氏 が 画 像 解 析に よ っ て 判 読 さ れ た 墓 誌 か ら 比 定 し た さかのぼ しん の歴史は可成り 溯 る としている。 せんぎよくれき ている と云う。 た 後 漢 か ら 魏 の 時 代 に は 四 分 暦 太( 陰 太 陽 暦 が) 使 用 さ れ しぷんれき 年 ま)では顓 頊 暦が使われ、当時から太陰太陽暦が、ま BC て 倭人 が そ れを 読み こな して いた とす れば 日 本で の漢 字 考古学の専門家 森/浩一氏によれば、古墳から発掘され 60 60 125) また、 暦法の 起こり も古く 、秦 から前漢 の元 封六年 139) し ら ぎ ぼ ひ ぎ も、 態 々海 外 の新 羅や 魏に 外 交し ていた と考 え られ る。 か ん し 31) え と 歳干 支 」 と、 墓 誌に みる 崩年 干支 から 比定 した もの を表 実年代に基づき、それぞれ 書[紀 の]即位元年における「太 59) また、画像解析で得られた墓誌 の崩年干支から比定 られ、これは誤記とみて修正した。 が 、 墓 誌で み る当 該天 皇の 在世 中に 存在 しな い もの もみ に示した。しかし、 書[紀 が]記す天皇の即位元年の干支 2 した 西 暦年 、 ある いは 没年 の 干支 が親子 等の 関 係か らみ て整合しないものもある。 -9- 60) 邪 馬 台国 王 家の 人々 は、 そう した 文明 を導 入 する 為に 108) 干 支で 書 かれ た 墓碑に もこ れ が応 用さ れて いた に違 い 31),59) 105 第七章 古代天皇と実年代 表 1 古代の大王(天皇)の墓誌 31),59) 大王(天皇)名 崩年干支・崩年齢 (歳) 比定西暦年 須佐之男大王 丁巳 年六十五(推定) BC124 年 饒速日大王 庚子 年六十六(推定) BC 81 年 宇摩志麻冶大王代 庚申(推定) ①神武天皇 神倭伊波禮毘古命 丙子三月十一日 年六十三 BC 45 年 ②綏靖天皇 神沼河耳命 壬子五月十日 年五十 ③安寧天皇 玉手見命 庚寅十二月六日 年四十九 ④懿徳天皇 鉏友命 甲子九月八日 年六十五 AD64 年 ⑤孝昭天皇 訶惠志泥命 戊子八月八日 年六十七 AD88 年 ⑥孝安天皇 國押人命 戊午一月九日 年七十七 AD118 年 ⑦孝霊天皇 賦斗迩命 丙子二月八日 年五十五 AD136 年 ⑧孝元天皇 國玖琉命 癸巳九月三日 年四十六 AD153 年 ⑨開化天皇 大毘毘命 癸卯四月九日 年四十 AD163 年 倭母母曾毘賣命墓 女王(卑弥呼) 戊寅年十月二十日薨 御年八十四歳 AD198 年 豊鉏入日賣命 戊辰七月十四日薨 年六十四歳 AD248 年 ⑩崇神天皇 印惠命 庚寅十二月七日 年四十二 AD198 年 ⑪垂仁天皇 伊久米入日子 庚午七月一日 年七十一 AD250 年 ⑫景行天皇 大帶日子命 戊午十一月七日 年八十六 AD298 年 ⑬成務天皇 若帶日子命 庚午六月十一日 年四十五 AD310 年 ⑭仲哀天皇 帶中日子命 己卯三月十五日 AD319 年 BC 41 年 年六十一 BC 9 年 AD 30 年 (親魏倭王卑弥呼) 五十二 息長帶比賣命(神功皇后) 己丑四月十七日 年佰壱歳 AD389 年 ⑮応神天皇 品陀和氣命 AD394 年 ⑯仁徳天皇 大雀命 ⑰履中天皇 伊邪本和氣命 ⑱反正天皇 蝮水歯別命 戊寅七月五日 年五十九 AD438 年 ⑲允恭天皇 若子宿禰命 癸巳一月十四日 年六十一 AD453 年 ⑳安康天皇 穴穂命 ㉑雄略天皇 大長谷若建命 ㉒清寧天皇 白髪命 甲子一月十六日 年四十一 AD484 年 ㉓顕宗天皇 袁祁石巣別命 戊辰九月二十五日 年三十八 AD488 年 ㉔仁賢天皇 祁命 AD498 年 ㉕武烈天皇 長谷若雀命 甲午九月九日 年七十五 己未八月十五日 年八十三 壬申一月五日 年六十四 丙申八月九日 年四十一 己未八月七日 年六十二 戊寅八月八日 年五十二 丙戌十二月八日 年十八 - 10 - AD419 年 AD432 年 AD456 年 AD479 年 AD506 年 第七章 古代天皇と実年代 表 2 古代和国・大和国の大王(天皇)の生存年代と在位 大王/天皇名 須佐之男大王 在世実年代(崩年齢)-(書紀 在位(年間)-(書紀在位年 崩年齢) 歳 間)年 BC188-BC124(65)-(-) 饒速日(大歳)大王 BC146-BC 81(66)-(-) 宇摩志麻冶大王代 BC101-BC 41(61)-(-) ①神武天皇 BC107-BC 45(63)-(127) ②綏靖天皇 ③安寧天皇 ④懿徳天皇 ⑤孝昭天皇 ⑥孝安天皇 ⑦孝霊天皇 ⑧孝元天皇 ⑨開化天皇 倭母母曾毘賣命 (女王卑弥呼) BC 58-BC 9(50) -(84) BC 19-AD 30(49)-(57) AD 1 AD 22 - 64(65)-(-) 88(67)-(-) AD 42 - 118(77)-(-) AD 82 - 136(55)-(-) AD108 - 153(46)-(-) AD124 - 163(40)-(115) AD115 -198(84)- (-) BC154-BC124(30) -(-) BC103-BC 81(22) -(-) BC 80-BC 61(20) -(-) BC 60-BC 45(16) -(76) BC 41-BC 9(33) -(33) AD 6 -AD 30(38) -(38) AD31 64(34) -(34) AD65 AD89 - 88(23) -(83) 118(30) -(102) AD131 - 136(6) - (76) AD137 - 153(17) -(57) AD144 - 163(10) -(60) AD171 - 198(28) - (-) 豊鉏入日賣命 AD185 - 248(64)-(-) (親魏倭王卑弥呼) AD198 - 248(50) - (-) ⑩崇神天皇 AD180 - 198(19) -(68) AD212 - 250(39) -(99) AD251 - 298(48) -(60) AD299 - 310(12) -(60) ⑪垂仁天皇 ⑫景行天皇 ⑬成務天皇 ⑭仲哀天皇 神功皇后女王 ⑮応神天皇 ⑯仁徳天皇 ⑰履中天皇 ⑱反正天皇 ⑲允恭天皇 ⑳安康天皇 ㉑雄略天皇 ㉒清寧天皇 ㉓顕宗天皇 ㉔仁賢天皇 ㉕武烈天皇 AD157 - 198(42)-(120) AD180 - 250(71)-(140) AD213 - 298(86)-(106) AD266 - 310(45)-(107) AD268 - 319(52)-(52) AD290- 389(100)-(100) AD320 - 394(75)-(111) AD337 - 419(83)- (-) AD369 - 432(64)-(70) AD380 - 438(59)-(-) AD393 - 453(61)-(-) AD416 - 456(41)-(-) AD312 - 319(8) -(9) AD321 - 389(69) -(69) AD390 - 394(5) - (41) AD395 - 399(4) - (87) AD400 - 405(6) -(6) AD406 - 411(6) - (5) AD412 - 453(42) -(42) AD418 - 479(62)-(-) AD444 - 484(41)-(-) AD451 - 488(38)-(-) AD454 - 456(3) - (3) AD457 - 479(23) -(23) AD480 - 484(5) - (5) AD485 - 487(3) - (3) AD447 - 498(52)-(-) AD489 - 506(18)-(-) AD488 - 498(11) -(11) AD499 - 506(8) - (8) - 11 - 第七章 古代天皇と実年代 こ れ は、 墓誌 の 画像 解析 時に おけ る類 字の 誤 判読 とみ そ の 根 拠 は 、 ① 記[ 紀 に] は 系 譜 が 書 か れ て い る が 治 績 在 せ ず、 後 に創 作さ れた 架空 の 天皇 だと する 説で ある 。 に かい か 代開 化 天皇 以 前は、 考古 学 的に 見て 後世 にな って 築 に過ぎない。 す じ ん したが 代崇神天皇 も すい ぜい いへいへ つ 代 綏靖 天皇 から かい か た 代開 化天 在 を否 定 す る有 力な 史料 が無 いば かり か、 墓 誌が 解読 さ 皇 は 、 記[ 紀 に] 業 績 が 書 か れ て い な い だ け で あ っ て 、 実 筆 者 の見 解 は全 く違 う。 の後に付け加えられたものであろうと云うのである。 天 皇 が 初代 天 皇と され たも ので 、そ れ以 前の 天 皇は 、そ こ と を名 称 で語 って いる 。こ れ は、 本来 の系 図で は崇 神 す」 と あ るの を 根拠 に、 初め て天 下を 治め た天 皇で ある り て天 下大 きに平な り。故、 称して御 肇 国 天 皇 と まう ハ ツク ニシ ラスス メラミコ ト して、風雨の時に 順 ひ、百穀用て成りぬ。 家 給 ぎ人足 そして、③ 年条に、「天神地祇ともに和 る と云 う 薄 弱な もの であ る。 しか し、 これ は 単な る臆 測 造さ れ た古 墳 か、 ある いは 自 然丘 陵が 存在す る だけ であ り の 記載 は なく 、 ②陵 墓に つい ても 矛盾 があ るこ と、 つま な し て 修正 し 、そ れに よっ て生 存実 年代 を比 定 し直 した ぶ れ つ 代 武烈天 皇 すいぜい 9 ものもある。 なお、天皇名に付けた①~ ㉕の番号は、 書[紀 の]天皇在 は西 は西 暦紀 元後 の年 次を 示 した もの で 位順 で ある 。 また 、生 存実 年 代・ 在位 年にお け る 暦 紀元 前 の 略称 、 あ る。 かい か 代開 化天 皇の 時代 を さす 。こ れら の天 皇は 実 - 12 - そ れ ぞ れ 墓 誌 か ら 計 算 し た も の と 、 書[ 紀 が] 記 し た 崩 ( 内)に併記して対比した。 に 「古代の大王 天( 皇 の) 墓誌」、及び表 年齢・在位年数を 前出の表 すい ぜい 代 綏靖 天皇 以降 、 「古代の大王 天(皇 の)生存年代と在位」を示した。 こ れ にも とづ い て、 までの実年代と在位について説明していこう。 欠史 八代 説批 判 2 史学界で支配的になっている欠史八代説とは、 代綏靖 天 皇 から 9 25 10 AD BC 2 2 12 2 1 9 第七章 古代天皇と実年代 れ て おり 、 親子 ・兄 弟・ 后や 妃 の系 譜が はっ きり と存 在 とういれつでん わ こ く いんじゆ わ こ く 称 し た 。倭 國 の 極 南 界 な り 。 光 武 は 印 綬 を以 て す」 と 記録されている。 年に あ たる 。こ れが 倭国 の献 使 60) かん ゆだね じ ん べ え なこくおう ( 年) に 博 多湾 沖 の 志賀 島 の田 で、 農夫 の甚 兵衛 が水 路の 付け 替え し 記[ 紀 の] 孝 安 天 皇 条 に 、 こ う し た 記 載 が な い だ け で あ す つ ひ こ か し た ま て み と こ ね づ ひ こ 代安寧 3 21) あんねい 常 根津 日 子命 は 大和朝 廷の 安 寧天 皇に よっ て、 北九 州 と こ ね づ ひ こ とが金印の画像解析で判明 した。 天 皇 師( 木 津 日 子 玉 手 見 命 の) 王 子 常 根 津 日 子 命 だ っ た こ き ] 「漢委奴國王」は、「漢が 委 る奴國王」 と読める。 とういれつでん し 「倭国王の使いの帥升等」と読んでいるくらいで、 記[紀 123) この時、金印を下賜されたのは、 記[紀 が]記す ごかんじよ ちようが 59) あるが、そのことに気付かなかったのであろう。 みつぎ さ か の ぼ る こ と 、 同 じ く 後[ 漢 書 東 夷 列 傳 に] 、「 建 武 わの な こく 中元 二年、倭 奴國 が 貢 を 奉りて朝賀。 使人は自ら大夫 と あんねい 工事中に見つけ 、今も福岡市博物館に展示されている。 し が し ま 王」と鋳 造された金印が、江戸時代の天明 ちゆうぞう と ころ が 、こ の 時に 下賜 され たと みら れる 「漢 委奴 國 るが倭奴國王は特定できなかった。 わの な こく 州 に あっ た 一小 国 であ ろう と云 うこ とだ けは 一致 して い 史 学界 で も、 こ の記事 に関 し て色 々と 論証 され 、北 九 る。 に つ いて 中 国の 正 史に具 体的 に 記さ れた 最初 の記 録で あ 建 武中 元 二年 は西 暦 57 す る 。 その 後 裔も 実在 して いる ので 架空 とす る のは あた 代孝 安天 皇は 、後 ら ない 。 欠史 八 代説 を否 定す る大 きな 史実 、つ まり 実在 を証す重要な史料を紹介しよう。 ごかんじよ ( 年) 、「 倭 国 王 師 升 等 、 生 口 百 六 十 人を 「欠 史 八代 」 天皇 の一 人と され る 漢 東( 漢 永) 初 元 貢じ、請見を願う」 後[ 漢書 東夷列傳 と ] みえ、「倭国王 わのくにおしひと 師升等」は倭国押人命 であって、まさに 書[ 記 に] 云う 代 孝安 天 皇 であ る。 孝安 天皇 は、 早く も後 漢 朝に 使者 を 6 の 編 纂 に あ た っ た 編 者 ら は 後[ 漢 書 に] は 目 を 通 し た 筈 で 60) - 13 - 6 る。これを訓読した古代史学者の鳥越憲三郎 でさえも、 送って国交した記録である。 4 1784 21) 60) 107 第七章 古代天皇と実年代 は な いか 。 詳細 は第 五章 でも 紹 介し たが 金印 の解 析画 像 な こ く に 在 った 奴 国王 とし て派 遣さ れ 、統 治を 任さ れて いた と 代 安寧 天皇 は実 在し な あんねい も載せておいた。 しっ 確りしてもらいたい。 すい ぜい 代 綏 靖天 皇 から こ に や す ひ す じん こ 代 孝元 天皇 の 代崇神天皇、 代 崇神 天皇 の実 年代 は、 前出 の表 2を参照してもらいたい。 み 女王 卑弥 呼 は天 皇だ っ た 代開化天皇の没後には、 たけ は 代開 化天 皇の 没後 、 たけはにやすひこ たけ は に や す ひ こ 九日 年四十」 椿( 井大塚山古墳出土の石棺蓋 と) あり、建 たけ れ て い る 。 そ の 墓 誌 は 、「 建 波 邇 夜 須 毘 古 命 丁 未 四 月 ひのと ひつじ 妻 の 吾 田媛 に よる 内乱 があ り、 建波 邇夜 須毘 古 命が 討た あ た ひ め 妃 埴 安 媛 の 王 子 武 埴 安 彦 記( は 建 波 邇 夜 須 毘 古 と 書 く と) はにやすひめ しか し 、 実際 は 代垂仁天皇の即位を続けて書いている。 すいにん 書[ 紀 は] 、 ひ す じん あって、研究不足の恥をさらしているようなものである。 か っ たな ど と云 う のは一 部史 学 者の 勝手 な言 いが かり で こ うし た 史実 を精 査も せず 、 3 みられる。 と こ ね づ ひ こ そ して 、 常根 津日 子の 没後 、 身内 か側 近が 金印 の側 面 いみな 発見された金印は後世 がんさく むきもある。しかし、 な こ く 古代に奴国の在った範囲 ちようし とみられる福岡県糸島郡 い き さ ん 二丈町の一貴山銚子 つかこふん 塚古墳の近傍から「常根 津日子命墓 丙寅三月十 六日 年四十七」の墓誌 こ が解読され、生存年は西 と こ ね つ ひ 歳に 9 - 14 - 10 9 10 8 2 11 82) の贋作ではないかと疑う 左下と右(拡大)は解読された金印に記された銘 に 諡 を書き込んだものであろう。 福岡市博物館蔵(池田仁三氏原図)59) 左上は解読前、 後漢 朝 に献 使 を送 った 常根 津日 子命 は、 その 年 37 ▲ 博多湾の志賀島で発見された金印 あ た り 、 後[ 漢 書 の] 記 述 と 生 存 年 代 は ぴ た り 一 致 す る で 暦 59) -年と比定 されている。 20 66 第七章 古代天皇と実年代 は に や す ひ こ ひのとひつじ 波邇 夜須毘 古命の 没年 丁 未 は わ おう ひ み こ 「親魏倭王卑弥呼」 の称号を贈られている 魏[ 志 。] した しん ぎ がって、あわせて 年 と比定 されている 。 年 条に 書い てい るが、 崇 神 天 皇 印( 恵 命 が) 生 ま れ た の は 、 墓 誌 か ら 計 算 す る と 代開 化天 皇は 代 孝元 天皇 の在 世中 に立 年で、事件当時はまだ生まれてもいない。 とこ ろ で、 こ と こく 年近く女王の時代が続いたが、 書[紀 し らぎ こ らい へい ぎ しよ 年条には「五月、倭の女王 に は 天 皇 と し て の 記 載 は な い 。 記[ 紀 は] 意 図 的 に こ れ を み 三[ 国 史 記 の] 新 羅 本 紀 隠したのである。 ひ や く ひ も み そ ひ み こ し ん ぎ わ お う ひ み こ こ ひ み め こ と よ とよすき いり ひ め え や く とよすき いり ひ し め め め し らぎ ひ ひ せ み き こ 倭 母 母曾 毘賣命 や豊 鉏入日賣命は、 ともに独身で終わ やまと も った。 り、二代め卑弥呼 台( 与 は) 、女王豊鉏入日賣命 の時代だ ひ 初代の 女王卑 弥呼 は、紛れ もなく 倭 母母 曾毘賣命であ ぎ ( 年)十二月、詔書して倭の女王に報 しら ・ 掖邪 狗 等 八人 を遣 使し 云々 。掖 邪狗 等は 率 善中 郎将 の え て 帯(方 郡)に詣り、天子に詣りて朝献を求め大夫の伊声耆 い ( 年) 六月、倭女王、大夫難升米等を遣わし な っ てお り 、 二朝 並立 状態 にあ った とみ られ る 。建 波邇 夜 ひ であろう。 ま め そ 印綬を給わる。その や ひ も き 込 ん で、 かな り 長く 続い たと みら れ、 この 事 件をさ し め やまと も せて云う。 『親魏倭王卑彌呼』に制詔する」と、女王卑弥乎 い たとみられる。 「邪馬台国はもと男王を立てて七、八十年 こ ・ 倭 王卑 弥 呼と して 二代 にわ た って 韓半 島の 新羅 や中 国 み そ 年間 の空 間 統 治し た が、 その 後内 乱が 起 こり 暦年 相争 った 。最 終 魏[ 志 が] 書 い た 「 倭 国 大 乱 」 は 、 孝 元 ・ 開 化 両 派 を 巻 239 の魏王朝に使者を送り国交した事実を伝えている。 ひ 名付けて卑弥呼と曰ふ」 と書いている。 も こ う した 内 乱も あっ て、 開化 天皇 の没 後は やまと も とよ すき いり ひ 年 に 倭 母 母曾 毘賣 命が 女王 卑( 弥 呼 と) し て立 7 的 に 一 女子 を 擁立 して 王と する こと で内 乱が 治 まっ た。 239 す 卑 弥 乎 、 使 い を 遣 わ し 来 聘 す 」 と み え 、 三[ 国 志 の 魏 書 や 25) は 、「景初三 に 80 須 毘 古命 の 叛乱 は 、お そら く皇 位を 争っ て起 こし たも の たけ は 173 10 8 169 こ の事 件を 書 紀は 崇神 天皇 59) 167 80) 60) ] ] - 15 - 9 ち 、そ の 後 も豊鉏 入日 賣命 が 女王 とし て魏 に献 使を 送り 位を 経 て 171 第七章 古代天皇と実年代 ひよう ぼ う ら れ た の で 万 世 一 系 の 皇 統 を 標 榜 し た 書[ 紀 と] し て は 都 合 が 悪 かっ た ので あろ う。 女王 卑弥 呼の 詳細 は 、す でに 算すると やまと も 歳 で)女王に就いた年でもある。 も そ ひ め ひ み こ し た が っ て 、 記[ 紀 の] 崇 神 天 皇 条 に 書 か れ た 治 績 の 殆 ど は 倭 母 母 曾 毘賣 命 女( 王卑 弥呼 や) 、 二代 め卑 弥呼 の女 め 王 豊 鉏入 日 賣命 の治 績と みな け ればな らな い 。だ から 、 とよ すき いり ひ と ころ で 、 崇神天皇が即位したのは同天皇元年紀に、「是 女 王 卑 弥 呼 は 、 こ の 時 代 の ま さ に 大 王 天( 皇 で) あ り 、 単 きのゑ さ る つか たけぬながわわけ き び つ ひこ 書[ 紀 は] 、崇 神天 皇十年九 月九日 条に 、「大彦命を 以て おほひこ いた 記[紀 の]記述は疑ってかかる必要がある。 年、太歳 甲 申 」とある 。しかし 、崇神天皇の陵墓と され あんどんやま きのゑ さ る きのゑ さ る 年 の 甲 申 は崇 神 天 皇は とよ すき いり ひ め ひ め 歳 で即位し、 そ つちのえ と ら ( 歳 墓( 誌 で 計 おほひこ 大彦命は せり ひこ あ れ め こう れい い さ せり ひこ やまと く に か ひ め やまと も お も ほ そ き ひこ や ひ び ま め い つ ひこ と さ く 代 孝 霊 天 皇 と 妃 の 倭 国 香 媛 記( は 意 富 夜 麻 登 玖 ひ 王卑弥呼 の)実弟である。この系譜だけみても、 代孝 元 邇阿 礼 比売 命 と書 く の) 王 子で あり 、 倭 母 母曾 毘賣 命 女( に 芹彦は は 後の 呼 び名 で 、本 名は 彦五 十狭 芹彦 であ る。 彦五 十狭 ひこ 天皇である。 また、 武渟川別は大彦命の子、そして吉備津彦 たけぬながわわけ 代 孝 元 天 皇 の 長 男 で 、 次 男 が 大 日 日 開( 化 たに はの みちぬし 北 陸に 遣 わ す。 武渟 川別 を以 て東 海に 遣わ す 。吉 備津 彦 たぶら まだ生まれていない。したがって、 「即位元年 甲 申」は、 かのえ さ る い。 かのえ さ る (年 の)誤記とみると、 やまと も も 果 た して 、崇 神 天皇 はい つ即 位し たと 云う の であろ う きのゑ さ る か 。 甲 申は 庚 申 年間となる。 よ 8 としている。 を 以 て 西道 に遣 わ す。 丹波 道主 命を 以て 丹波 に 遣わす 」 きのゑ さ る 戊 寅 十二 月七 日 年四十二」 とあり、崇神天皇 な る神 祀 り の斎 王で はな かっ たの であ る。 男 王中 心に 書 恵命 ている行灯山古墳近傍から解読された墓誌でみると、 「印 第六章で詳しく論証した。 14 「 庚 申」の誤記か、あるいは 書[紀 の] 誑 かしとみる他な の 在世 中 に は 甲 申 年 は な く 、 31),59) だ健在である。そして、崇神天皇が亡くなられた 戊 寅 と 198 ) - 16 - 144 し か し、 こ の時 代は 女王 卑弥 呼 倭 ( 母 母曾 毘賣 命 が) ま 在位は 180 年 は) 、 魏[ 志 に] い う 台 与 豊( 鉏 入 日 賣 命 が) 8 24 13 7 19 第七章 古代天皇と実年代 天 皇は 架 空と は 云え まい 。 やまと も も そ ひ め 墓 誌 や在 位は 前 掲の 表1 、表 2の とお りで あ る。 ただ し、表2に天皇として示した在位は、あくまで 書[紀 や] 旧[ こ 書[紀 は]、この記事を崇神天皇十年条に書いているが、 み ぎ し はいかない。 事紀 の]記すものであって、これはそのまま受け取る訳に ひ す じ ん つか 魏[ 志 に] は 、 正 始 七 つか ( 年) 頃 の こ と と し て 、「 卑 弥 呼 、 す べて 女 王卑 弥 呼 倭 ( 母 母曾 毘賣 命 の) 差配 によ るも ので あ ろう 。 記[ 紀 に] 書 か れ た 崇 神 天 皇 の 事 績 を 、 そ の 在 世 や 在 位 じゆんそう 以 て 死 す 。 大 き な 冢 墓( が) 作 ら れ た 。 冢 の 径 は 百 余 歩 で ひ の実年代を検証もせずに信じたのでは史実を見誤る。 ぬ よ 百 人 以 上の 奴婢 が 殉 葬 され た 。代 わっ て男 王 を立 てた が は つく にし らす すめら みこと さとし め も そ ひ め やまと も と も そ 年の女王 倭 母母曾 つまり 、女王 倭 母 母曾 毘賣命がなくなっ た後、崇神天 やまと も く位置を間違えたものである。 毘 賣 命 の 亡 く な っ た 時 の こ と を さ し て お り 、 魏[ 志 は] 書 ひ に 諭 告 げ た」 とあ り、この 文節 は を立て、遂に国中の争いは治まった。政等は檄を以て臺与 げき 合った。再び女王として卑弥呼の宗女十三歳の臺与 台(与 と 「 御 肇 国 天 皇」 という 崇神紀の 記述も怪 しいもので あ め そうじよ 国内 は 治 らず 、互 いに 争い が 続き 千人 以上 の人 々を 殺し とよすきいり ひ あまつひつぎしろしめ よ 代崇 神天 る。 欠 史 八代 ばか りか 、誰 も 実在 を疑 わな い よ ) 皇 こそ 、 そ の治 績は 大き く膨 らま され てい る こと を知 る べきである。 と 垂仁天皇と女王台与 豊(鉏入日賣命 す いに ん みずのえ た つ 代垂仁天皇は、同天皇元年紀に「元年に即 天 皇 位す。 このとし 皇 か 垂仁 天 皇が 立 ったが 、国 内 は治 まら ず、 代わ って め 争いが治まったと云うのである。 歳 の) 豊 鉏 入 日 賣 を 女 王 と し て 立 て 、 つ い に とよ すき いり ひ 仁 天皇 元年 歳次 壬 辰 の春 正月 の丁 丑の 朔戊 寅に皇 太子 是年、太歳 壬 辰」。とあり、 旧[事紀天皇本紀 に]も、「垂 198 ) - 17 - 248 歳 実( 際 は あまつひつぎしろしめ 年と比定される。 14 みずのえ た つ 60) 10 活( 目入彦五十狭茅 尊) 、即 天 皇 位す 」とあって、両書の みずのえ た つ 記 述は 符 合し 、 壬 辰 は 212 13 11 第七章 古代天皇と実年代 み こ と よ 前 項 で書 いた よ うに 、垂 仁天 皇の 在位 ひ め ~ め 年の 殆ど とよすきいり ひ しん ぎ わ おう ひ み こ は、 魏[ 志 に] 記された女王卑弥呼 台( 与=豊鉏入日賣命 の) 治世である。 と よすき いり ひ こ の間 、 魏王朝から女王豊鉏入日賣は「親魏倭王卑弥呼」 め 年から垂 年足 らず が垂 仁天 皇の 治世 と め の称 号 と印 綬 や銅 鏡百 枚な ど 、数 々の 品が贈 ら れて いる とよ すき いり ひ と よ すき い り ひ 年 まで の か ら で あ る 。 豊 鉏 入 日 賣 命 が 亡 くな ら れた 仁 天 皇の 崩 年 す いに ん すい にん とよ すき いり ひ め なる。垂仁天皇と豊 入 鉏 日賣命は異母兄妹である。 て み -年 ま ま し ま し い し ま いく め いりひこ す じ ん み ま き 、)つまり 書[紀 に]云う崇神天皇と み いく め いりひこ い さ ち すいにん な く、 魏[ 志 は] 「官 」、つまり 朝廷の 役人、 とはっき り書 いている。 けいこう 代景行天皇 おほ たら しひこ お し ろ わ け おほたらしひこ お し ろ わ け 景行天皇は、活目入彦五十狭茅 垂(仁 天)皇の第三子で、 年に比定される。 歳で皇太子に立ち、同天皇元年は、「是年、太歳 本 名 大 足 彦 忍 代 別 尊 記( は 大 帯 日 子 淤 斯 呂 和 気 命 と) し て いる。 かのとひつじ 辛 未 」としているので、 同天皇紀に、「六十年の冬十一月七日に、高穴穂宮に崩 つちのえ う ま り ま し ぬ 。 時 に 年 一百 六 歳 」 と し て い る が 、 墓 誌 に は 戊 午十一月七日 年八十六」とある。 年で 、崩 年 は異例の長寿である。 つちのえ う ま 戊 午年は 歳サバを読ん 歳を 基準に 計 算する と誕生 そ れに して も、 八十 六歳 は この当 時の 男性 年 齢として だことになる。 が 不 思 議 で あ る 。 し た が っ て 、 書[ 紀 は] こ の 場合 も、 十 一月 七日 と、 月日 だけ は合 っ ている の 「大帶日子命 58) お そら く 、垂 仁 天皇 は女 王 豊鉏 入 日賣の も とで 、補 佐 か 的な役割を果たされたものと解すべきである。 魏[志 も]、 や ま と い し ま み ま し み ま か き 邪馬 台 国 の「 官 は伊 支馬 、次 は弥 馬升 、次 は弥 馬獲 支、 ぬ す じ ん 次は奴佳鞮と云う」と書いている。ここで云う「伊支馬」 ( し - 18 - 21 250 248 12 212 44) 垂仁天皇である。 「弥馬升」は、その音韻からみて御真木 い り ひ こ いにえのみこと 入日 子 印 恵 命 い 58) 20 2 は 、 書[ 紀 が] 第 代 崇 神 天 皇 の 太 子 と し て い る 活 目 入 彦 い さ ち の み こ と い く め い り ひ こ い さ ち 五十狭茅尊 記( は伊久米伊理毘古伊佐知命 で)、 書[紀 の] 10 157 198 251 86 33) 考えられる。 「伊支馬」や「弥馬升」は、男王とか大王で 298 250 11),60) 第七章 古代天皇と実年代 は 年となる。在世は ~ 年の ~ 年である。 年 と なる 。 生 前 譲 位の 記 述は ない ので 、天 皇在 位は 崩年 まで とす ると、 せい む おほたらしひこ お し ろ わ け は 年で 、 在世 は ~ 266 間となる。 代仲哀天皇 たらしなかつひこ ちゆうあい かのと ひつじ 年 で 、 後 に み る よ うに 、 こ の天 皇 が 年に比定できる。 歳を 基 点に 計算 する と、 誕生 年 こ ちゆう あ い 年 年で 崩年 ま あな と た らし なか つ ひこ と らのみや 年 に あ た り 、 前 成 務 天 皇が 亡 く なら れ た ひ いま し また筑紫の訶志比宮に坐して天の下治らしめき」とある。 か し ひ の み や 古[事記 に] 、「 帯 中津日子天皇 仲( 哀 、)穴門の豊浦宮、 たらし な か つ 翌年で、これは順当と云える。 壬 申は、 みずのえさる 天皇位す」とある。 年 、 太 歳 壬 申 」 と あ り 、 旧[ 事 紀 に] も 、「 仲 哀 天 皇 元 年 みずのえさる 歳次壬 申の春正月の庚寅の朔庚子に太子 足(仲彦 尊)、即 みずのえさる 仲哀天皇紀に、 「元年春正月十一日に、即天皇位す。是 尊を立てたとする。 子 小 碓 尊 日( 本 武 尊 の) 第 二 子 と し て い る 。 前 成 務 天 皇 は しかし 辛 未 は つちのと ひつじ た翌年の 己 未 年の 誤記とみられ、 年四十五」 年にあたる。この天皇の崩じた月日も、 墓 誌に み える 崩 年齢 45 墓誌と書紀の記述は合っている。 である。庚 午は かのえ う ま や、墓誌 は「若帶日子命 庚 午六月十一日 かのえ う ま ぬ 。 時 に年 一 百七 歳」 と、 これ も大 変な 長寿 か と思 いき 書[ 紀 は] 、 同 天 皇 「 六 十 年 の 夏 六 月 十 一 日 に 崩 り ま し 299 薨 去 さ れた 翌年 に あた る。 これ は、 前天 皇の 亡 くなら れ 311 310 312 かのと ひつじ の第四子稚 足 彦 尊で、年二十四で皇太子に為りたまふ」 代景行 天皇の 第二 けい こう 年の 足 かけ 299 男子が無く、やむなく成務天皇の異母兄弟の子足 仲 彦 やまとたける ~ 年と な る。 即位 が 310 で 在 位 した と する と、 在位 期間 は 266 を うす 12 298 と ある 。 そ し て 、 同 天 皇 即 位 元 年 は 辛 未 と し て い る。 わかたらしひこ 310 213 書[ 紀 は] 、足 仲 彦 仲( 哀 天) 皇 は 、 48 成務天皇紀に、成務天皇は 、「大 足 彦忍代別 景(行 天)皇 代成務天皇 298 14 58) - 19 - 251 299 12 213 13 第七章 古代天皇と実年代 つ ぬ が つ る が あ な と の と ゆ ら のみや けひのみや ところつのみや くま じん ぐう こう ごう る 。 そし て 、存 命中 の業 績を 称 え神 功皇 后の 尊号 を贈 っ と く つ 書[紀 に]も角鹿 敦(賀 の)笥飯宮・紀伊国の徳勒津宮 和(歌山 つちのと う し 年と 神功皇后 気( 長 足 姫尊 の) 墓誌 をみ ると 、「息長帶比賣 じ ん ぐ う こ う ご う お き な が たらし ひ め たと書いている。 ちく し かし ひの みや 市得津 ・) 穴門豊浦 宮 下( 関市長府町豊浦 、) そして自ら熊 そ 襲 を 討 つ た め に 筑 紫 の 橿 日 宮 福( 岡 市 東 区 香 椎 町 へ) と 、 つちのと う し 命 己 丑四月十七日 年佰壱」とあり、 己 丑は みられる。神功皇后紀には、「六十九年夏四月十七日、皇 在位中は転々と移動し、落ち着いていない。 そし て 、自 ら 熊襲 征伐 に出 かけ 、九 年春 二 月六日 、討 太后 息(長 帶 比賣命 、)稚桜宮に崩りましぬ」とあり、「時 記述は墓誌と珍しく整合している。 じんぐうこうごう これらから神功皇后の在世は、 ~ 年と比定される。 の年、太歳 己 丑」と、割注が添えられている。 書[紀 の] つちのと う し め た れた 傷 が もと で亡 くな った 。時 に、 年五 十 二歳 とし て に 年 百歳 。 冬十 月 十五 日に 狭城 盾列 陵に 葬り まつ る。 こ 歳を お き な が たらし ひ いる。 つちのとう 己 卯三 年 にあ たり 、 崩年 年五 十二 」と あり 、亡 くな られ た 年齢 だけ は そこで、墓誌 を調べてみると、「帶中日子命 月 十五 日 つちのとう そして神功皇后紀には、 「元年十月二日、群臣、皇后を な かのと み 年 間 も務 めら れ、 お き な が たらし ひ め 年 、 気長 足 姫 尊 は 歳 まで 生き た人 物は この 時代としては希だったことがわかる。 摂政 を 歳の年に摂政に就かれたのは確かなようである。 政 元 年 と為 す 」 と み え 、 辛 巳 は と 申す 」と あり 、 旧[ 事紀 に ] も、「 太歳 辛 巳 に改 めて摂 かのと み かのと み 年 とな る。 した がっ て、 389 尊び て皇太 后と申 す。こ の年、太歳 辛 巳 、即ち摂政 元年 ほむ た 年 間 も 摂 政 を執 っ たと し て い 32 墓 誌 と 合致 し てい る。 己 卯 は 年 、在 位は 年 から 崩年 まで 足か け お き な が たらし ひ め 8 基準 に 生 れ年 を 計算 する と、 ~ 52 年と 290 321 在世は なる。 ちゆう あ い 268 319 代 仲 哀 天 皇 の 没 後 、 そ の 皇后 気 長 足 姫 尊 は、 譽 田 おう じん 62) 58) 神功 皇后 と謎 多 い応 神天 皇 319 - 20 - 389 58) 100 268 尊 応( 神 天 皇 の) 即 位 ま で 69 312 69 14 第七章 古代天皇と実年代 お き な が たらし ひ め お き な が たらし ひ め と。次は神功天皇、開化天皇の曽孫女、また之を気長 足 姫 い 年 紀 引 き 延 ば し を 常 と し た 書[ 紀 に] し て は 、 気長 足 姫 天 皇 と 謂い 、 國人 言う 、今 、太 奈良 良姫 大神 と 爲す と」 じん ぐう こう ごう 代花 山 天 か ざん 尊 神( 功 皇 后 の) 年 紀 は 正 確 に 書 か れ て い る の に は 、 む し ようげん ちようねん えい かん としている。 しん ぎ 宋の雍熈元 ( 年) は 、 日 本 で は 永 觀 二 年 、 ろ異例である。 じん ぐう こう ごう ( 年) 、 す でに 歳の 年で亡 く そう し あた ご やま 歳のときだった という。 ちようねん ・徐 仁 満 の 船に 便乗 し、 中 国へ の渡 海 を果 たし た。 奝 然 じよじんまん 台 山 への 巡 礼を 企 図し 、こ の前 年、 呉越 の商 人の 陳仁 爽 ちんじんそう 皇の 即 位 年に あ たる 。奝 然 は 三論 宗 の東 大寺 僧 で、 平安 年も の長 い摂政 を 終え て他 拠 か ら み て 神 功 皇 后 は 実 質 の 女 王 天( 皇 だ) っ た と み ら れ じん ぐう こう ごう 神 功 皇后 紀 に書 かれ た内 容の 真偽 は別 とし て 、情 況証 65 京 の西 の 愛 宕山 に伽 藍を 建立 する ため 中国 の 天台 山・ 五 984 る。 じん ぐう こう ごう おう じん そ の 証拠 は 、神 功皇 后が ほむ た かのえ と ら 年とみて間違いない。 じん ぐう こう ごう 伝 に]もみえる。 ちゆう あ い し た が っ て 、 こ の 王 年 代 紀 は 、 当 時 の 書[ 紀 に] 書 か れ て い た も の と み ら れ 、 い ま 我 々 が 目 に す る 書[ 紀 は] 、 そ じんぐうこうごう 代仲哀天皇と皇后気長 足 姫尊 お き な が たらし ひ め の後にも改ざんされたことを証明するものである。 記[ 紀 は] 、 応 神 天 皇 は じんぐうこうごう 年間 も 摂政 を 続ける こと な く、 譽田 尊が 成人 した 頃 ほむ た 神(功皇后 の)御子としているが、本当の御子なら神功皇后 は には譲位した筈である。 こ れに は 何か 裏 事情が あり そ うで ある 。ひ ょっ とす る - 21 - 界 さ れ る ま で 、 譽 田 尊 応( 神 天 皇 が) 即 位 で き て い な い こ ほむ た と 。し か も 、譽 田尊 の即 位は 庚 寅 ほむ た 歳、 神 功皇后 摂 高 齢 に なっ てか ら で、 譽田 尊は 即位 後、 僅か ほむ た なられた計算になるからである。 かのえ と ら 干 支 一運 前の 庚 寅 71 年 に あ た る が 書[ 紀 に] は 何 の 記 載 も な い か ら 応 神 天 ( 年) は譽 田尊 は 5 390 ま た 、 神 功 皇 后 は 大王 天( 皇 だ) っ た こと は 、 宋[ 史 日 本 皇の即位は 政 11 55) 69 「 前( 略 仲 ) 哀 天 皇、國 人言 う 、今 鎮國 香椎 大神 と爲 す 14 330 47 69 390 10 第七章 古代天皇と実年代 と 、 二朝 併 存で はな かっ たか と 思わ せる が、 その 詮索 は 深入りしないことにする。 おうじん 代 応神 天 皇 とむるわう 書[ 紀 は] 、 神 功 皇 后 摂 政 「 六 十 四 く ゐ す わ う みまか あ く ゑ 即位は しつせき おうじん しん し 代 辰誌 王が 応神 天皇 に禮 を失 した しん し 年だったことは間違いない。 きの つの と も あ れ、 百 済の あ く ゑ しん し の で、 紀 角宿 禰 等を 遣っ て叱 責し た結 果、 百済 は辰 誌王 あやま おう じん を 殺して 謝 り 、阿花 を立てた と云う。辰誌王がどん な失 禮 を し た の か 書[ 紀 は] 語 ら な い が 、 応 神 天 皇 に と っ て 余 年 か) ら 計 算 す る と 、 こ の 年 は きのつの ( 年) に 百 済 国 の うば うが そ れに し ても 、 応神 天皇 は百 済王 に対 して 大き な権 限 おう じん 歳の高齢だから、これはどうもあやしい話である。 (~ ) 程、都合の悪い発言があったのであろう。ところで、紀角 し ん し は 宿禰はその在世 ( としわか 貴須王 薨 りぬ。王子枕流王、立ちて王と為る。六十五 と む る わ う みまか しんしわう 年に、百済枕流王 薨 りぬ。王子阿花、年少し。叔父辰斯、奪 この とし きの つの すく ね ( 年) 紀に、「是歳、百済の辰斯王立 ひて立ちて王と為る」と書いている。 おう じん いしかわ つ く の いや な おうじん を 持 っ てい たこ と にな る。 穿っ て見 れば 、百 済 王族の 一 たの や しろ し ん し あきらの み や かむあが ち て 、 貴国 の天 皇 のみ ため に失 禮し 。故 、紀 角 宿禰・ 羽 あ く ゑ 人で、大和にやってきた渡来人だったのではなかろうか。 ろ すで 田八 代 宿 禰・ 石 川宿 禰・ 木菟 宿禰 を遣 わし て、 その 禮无 こ きのつの じようとう きのえ う ま 応神天皇は、「即位四十一年の春二月十五日、一百一十 うべな おう じん の常 套手段による年紀引き延ばしである。 ほうぎよ 実 際の 崩年 は 墓誌 が証明 し 、「 品陀和 氣命 甲 午 九月 きのえ う ま ) 九日 年七十五」である。 甲 午は、 年に比定され、 歳で崩御されたとすると、 ] 71 き 状 を嘖 讓 はし む。 是に より て 、百 済国 は辰 斯王 を殺 し また、応神天皇三 390 歳 で 明 宮 に 崩 り ましぬ」としている。これは、 書[ 紀 いや な 15 395 59) ( 年) で は な く 、 神 か ( 392 れ り 」 とあ る 。 こ れ は 、 応 神 天 皇 三 功皇后摂政六十五 く だ ら あ ( 年)のことである。 三[国史記百済本紀 を]みると、 「百濟阿華王即位壬午 おう じん 75 392 年 」と あ り 、年 次は 一応 整合 して いる から 、 応神 天皇 の 394 385 - 22 - 384 て 謝 ひ にき 。紀角 宿禰等 は、便に阿花を王と し立てて帰 392 315 385 15 第七章 古代天皇と実年代 かのえ た つ 誕生 は 庚 辰 か た あ かのえ た つ ( 年 と) な る 。 同 天 皇 即 位 前 紀 に も 、「 庚 辰 の 冬 十 二月 を 以て 筑紫 の蚊 田に 生ま れま せり 」 とあ り、 誕生年は符合している。 同天皇の墓誌は、宮内庁が陵墓に治定している おほさざき う じのわきいらつこ とし、やむなく大鷦鷯尊が即位したとする。 おほさざき う じのわきいらつこ 太 子 の 菟道 稚 郎子 が皇 位を 譲っ て自 ら自 殺し たと 云う 年間近く争ったものであろう。 書[ のは動機として信じがたく、おそらく大鷦鷯と菟道稚郎子 が 皇位 継承 を巡 っ て 紀 は]、両者は異母兄弟のように書いているが真偽の程は こんだごびようやま こん だ はちまんぐう 誉 田 御 廟 山 古 墳 羽( 曳 野 市 誉 田 か) ら 掘 り 出 さ れ た と み ら ふた あまつひつぎしろしめ こ とし みずのと と り みずのと と り おほさざき 即 天 皇 位す。是年、太歳 癸 酉」としている。 みずのと と り お ほ ささき みずのと と り たぶら し か と思 い つつ も、 大鷦 鷯尊 大( 雀 命 の) 崩年 干支 を改 め おほさざき 年は存在しない 。「是年、太歳 癸 酉」は、 書[ 紀 の] 誑 か こ とし 誕 生か ら最 期ま での 干支を 隈な く調 べて みた が、 癸 酉 くま そ こ で 癸 酉 年 を 特 定 す る た め 、 大 鷦 鷯 尊 大( 雀 命 の) お ほ ささき と もあ れ、 書[ 紀 は] 、「 元年 の春正 月三日 に大鷦鷯 尊、 おほさざき わからない。 せつかん き だん れる石棺の蓋や、誉田八幡宮の境内等で解読されている。 にん とく 石棺の蓋とみられる石材は、 同八幡宮境内の多宝塔の基壇 に使用されている と云う。 おう じん 代仁徳天皇 おほさざき て 見 直 し て み た 。 す ると 、 池 田 仁 三 氏 の 解 読 さ れ た 墓 う じ のわ きいら つこ 皇位継承予定だった太子の菟道稚郎子が、 「位を大鷦鷯 誌に は「 大雀 命 己未 八月 十五 日 年八十 三」 と ある。ま ここ 己未八月六日 つちのとひつじ 年八十三」 尊 後( の 仁 徳 天 皇 に) 譲 る と し て 即 位 せ ず 、 爰 に 皇 位 空 し すなわ をは と、解読されており、日付が若干違うものの崩年は 己 未 わづらは 志を 奪 ふ べか ら ずこ とを 知れ り。 豈久 しく 生き て天 下を み と せ 59) の年のようである。 あに ひさ た、井上赳夫氏 は、 「大雀命 16 く し て 既 に 三 載 を 経 ぬ 。 中( 略 太) 子 の 曰 く 『 我 、 兄 王 の の即位年について次の様に記している。 書[ 紀 は] 、 応 神 天 皇 の 亡 く な ら れ た 後 の 仁徳 天皇 は 大々 王だ っ たか 59) 煩 さ むや』と、のたまひて、 乃 ち自ら死りたまひぬ」 31) - 23 - 3 320 第七章 古代天皇と実年代 年で、 みずのと と り ほ 歳の年 みずのと と り (年 が) 癸 酉となる。 ( 年 よ) り せん さく らち 年も前 とな り、御 子では ほ む た ( 年) に 即 位 し た と し て も 不 自 然 で は な け おほさざき お ほ ささき 代応神 天 り ちゆう 年間で 年迄と比定した。 ( 年)として整理し、在位末は みずのと と り きのとひつじ にん とく り ちゆう 代 仁 徳 天 皇 大( 鷦 鷯 尊 は) 、 在 位 わ はん ぜい わ く ご す く ね はん ぜい 年 で 弟 の 若 子 宿 禰 命 允( 恭 天 皇 に) 譲 位 おほさざき 人の 兄 弟が 大鷦 鷯尊 の 存命 中に次 々と 即 位し たこ い ざ ほ わ け 書[ 紀 は] 、 伊 邪 本 和氣 命 は り ちゆう みずはわけ 代允 恭 天皇と して い ん ぎよう 代履 中 天皇、水歯別命は わ く ご す く ね おほさざき にん とく にん とく みるように、薨年八十三歳と古代希な長寿であった。 はんぜい はん ぜい ㍍ もあ ると 云う 。同 地近 隣に はんぜい にん とく みささぎ にん とく 年紀 には、 「天皇は冬十月五日に、河内の石津原にいでまして → 履 中 天 皇→ 反 正 天皇 と なっ てお り、 仁徳 天皇 り ちゆう 書[ 紀 の] 記 述 や 墓 誌 か ら み る と 、 崩 年 順 は 、 仁 徳 天 皇 異なり大きな謎となっている。 墳 の) 順 に 築 造 さ れ た と 推 定 さ れ て お り 、 書[ 紀 の] 記 述 と 古墳 →)仁徳天皇陵 大( 仙陵古墳 →)反正天皇陵 田(出井山古 にんとく し か し 、 考 古 学 的 に は 履 中 天 皇 陵 上( 石 津 ミ サ ン ザ イ り ちゆう は、履 中 天皇陵や反正天皇陵も治定されている。 り ちゆう 円墳 で 、 墳長 はお およ そ 仙 陵 古 墳を治 定して いる。 これは、我が国最大の 前方後 せ ん りよう 宮 内庁 は 、仁 徳 天皇の 陵墓 は 堺市 堺区 大仙 町に 在る 大 だい 表に ( 代 仁 徳 天 皇 の) 生 存 中 に 即 位 し て い る 代 反正天 皇、 さらに若 子宿禰命 は おほさざき はんぜい 17 こ と に な る 。 し か も 、 大 鷦 鷯 尊 仁( 徳 天 皇 は) 、 第 お り 、 大鷦 鷯 尊 19 し た がっ て、 八 十三 歳ま で生 きた とし て計 算 する と、 誕生年が おうじん 尊 応( 神天皇 の)即位 ないことになる。 り ちゆう ざ みずはわけ 天皇は、これも 年 で 弟 の 水 歯 別 命 反( 正 天 皇 に) 生 前 譲 位 し 、 さ ら に 反 正 御子の伊邪本和氣命 履( 中 天皇 に)譲位し、履 中 天皇は い ところで、 代履 中 天皇の即位前年、つまり 皇 の薨去 した翌 年の 乙 未 この場合、 書[紀 が]云う「 癸 酉」は無視し、 があ か な いの で 、こ こで は大 鷦鷯 尊 大( 雀 命 の) 即位 年は おほさざき 記[ 紀 の] 偽 作 し た 親 子 関 係 を 、 あ れ こ れ 詮 索 し て も 埒 18 い。しかし、そうすれば 書[紀 や] 古[事記 が]父親とする譽田 歳の 癸 酉 373 395 15 5 399 - 24 - 373 18 陵地 を定 めた まふ 。十八 日に 、始 めて 陵 を 築 く」とみ 33) 37 390 1 67 6 16 6 16 337 とになる。 し、 3 486 37 17 第七章 古代天皇と実年代 にん とく の 権 威を 誇 示し たの であ ろう 。 この 古墳 は大 阪府 羽曳 野 おほさざき え 、 大 鷦 鷯 尊 仁( 徳 天 皇 は) 、 生 前 か ら 墳 墓 の 造 営 に 取 り ㍍を上回る。 市の誉田御廟山古墳 応(神天皇陵 の) 十六日に、 年の春正月 中 国 の秦 の 始皇 帝 陵より も大 き く、 世界 三大 墳墓 の一 つ そ の規 模 は、 エジ プト ・ギ ザ のク フ王 のピ ラミ ッド や ず 堺市 では、大 仙 陵 古 墳を含む百舌鳥古 墳群を、ユネス も に数えられている。 ましぬ。冬 た ち か な ぐ は れ つ ( 年) の 発 掘 調 査 の コの世界遺産に登録する計画が持ち上がっているという。 か つ ちゆうならびに が ら す は い 同 古墳 の 前 方 部 の 石 室 は 、 明 治 際に石棺の東側に「甲 冑 并 硝子坏、太刀金具ノ破裂等」 びよう ど め に葬りまつ か な ぐ そん たん こう かぶと が 、 石 棺の 北東 に 「金 具存 セザ ル鉄 刀二 十口 斗 」が発 見 ま ゆ ひさし つ き かぶと る」として かつ ちゆう されたと記録されている。 甲 冑は眉 庇 付 冑 と短甲で、 冑 には 鋲 留めされた金 よこはぎ ま ひさし が大仙 陵 こ ざ ね 銅 製の小 札と鉢 の胴巻 きに円形 の垂れ飾りを下げ、眉 庇 よろい 古 墳 で あ びよう ど め ちよう つがい 個 の 蝶 番 が 付け ら れ て お り 、 これ ら の組 合 せは、当時の流行を表したものであると云う。 ) うに 脇 に 板が 鋲 留 めに されて いる。ま た、右の前胴が開閉す るよ いた に透か し彫り が施 された豪 華なもの。 甲 は 金銅製の横矧 だ い せ ん りよう いる。これ 百舌鳥野陵 十月七日に だ い せ ん りよう 天皇、崩り 422 5 1872 る。 おほさざき 大鷦鷯尊 にん とく 仁( 徳 天 皇 2 - 25 - か か っ たこ と が記 され てい る。 そし て、 同天 皇 「八 十七 じ ゆ りよう は、 生前から 大規 模な寿 陵 を造営する ことで、内外に そ ▲ 仁徳天皇の陵墓とみられている大仙陵古墳(堺市大仙町) 規模はエジプト・ギザのフク王ピラミッドや秦始皇帝陵を上回る 第七章 古代天皇と実年代 つか さや 鉄 刀 二十 口は 、 把や 鞘に は金 属製 の装 具の な い簡 略な 外 装 の 刀。 ガ ラス 杯は 、緑 系の ガラ ス壺 と白 ガ ラス の皿 がセットになった品であったという。 は 歳台で他界している。 そう りよう 世紀 の中 国 は宋 の時 代か ら そう 世紀 初 歳 を 越え る長 寿 者も 一部 にみ られ るも のの 、 たい てい ~ 倭の 五王 時代 倭 の五 王 とは 、 りよう たものである。 ちん こ れら 倭 王は も ちろ ん、 、 わ おうさい こう さん りようしよ ぶ ちん せい こう 世 紀に 実在 した 大王 で かれたもので、史学界ではこれを倭の五王と呼んでいる。 その史書に、「倭王讃・珍・倭王済・興・武」として書 わ おうさん 貢献し、軍事的な地位を得た様子を 宋[書 や] 梁[ 書 が] 記し そうしよ 頭 の 梁 の 時 代 に か け て 、 倭 国 王 が 宋や 梁 王 朝 に対 し て 6 と こ ろで 、 同古 墳か ら出 土し たと され てい る 銅鏡 や環 にんとく 頭大 刀 など は 、不 思議 なこ と にア メリ カのボ ス トン 美術 館に収蔵されていると云う。 おほさざき 陵墓の規模や副葬品からみて、大鷦鷯尊 仁(徳天皇 は)、 いんきよ 5 60 70 ・ 武 と い う 名 前 は 、 記[ 紀 に] 云 う こ の 時 代 の 各 天 皇 の 実 ちん わ おうさい こう ぶ 王 天(皇 の)在世や在位から、倭王讃・珍・倭王済・興・武 わ おうさん それ に は 中国 の史 書に 書か れ た年 次と、 そ の時 代の 大 中国側が勝手に命名した呼び名である。 ぶ し たがっ て大 仙 陵 古 墳より も古いとされる上石津 ミサ 名とは音韻の類似点もなく、その謎は解明されていない。 り ちゆう 歳を 越え て活 躍で かも知れないが、その記録は見当たらない。 長寿 社 会と な った 現在 でも 、人 間 き る人 は 希 であ る。 まし て弥 生~ 古墳 時代 に あっ ては 、 100 - 26 - 生前 譲 位 した 隠居 大王 とは 考 えら れず 、後 代を 実質 的に 支配していた大々王だったものと解される。 り ちゆう 代履 中 天皇 、 代允 恭 天 皇が、それぞ れ臣下を駆り出し い ん ぎよう そ して、 この陵 墓の築 造はおそらく はんぜい 6 18 40 あ り 、 記[ 紀 に] 云 う 天 皇 で あ る が 、 倭 王 讃 ・ 珍 ・ 濟 ・ 興 5 17 ンザイ 古墳は 、履 中 天 皇も早くから陵 墓の造営を始めた だ い せ ん りよう 総動員して築造させたものであろう。 代反正 天皇、 19 第七章 古代天皇と実年代 そ つ ひ こ あし たの すく ね おしはのみこ い ひ とよのいらつ め いちのべ くろ み まの 天 下 治ら し めき 。葛 城の 曽都 比 古の 子葦 田宿 禰の 女・ 黒 みこ め を 類 推で き ると 考え られ るが 、 それ が本 項の 目的 では な 比 売 命 を娶 し て生 みま しし 御子 市辺 の忍 歯王 、 次に 御馬 ひ い 。 な にせ 、 後に 書く よう に生 前譲 位し た人 物 と在 位中 王、次に妹青海 郎 女、亦の名飯 豊 郎 女の三柱」とある。 り ちゆう 代履 中 天皇 り ちゆう あ お み の いらつ め の 人物 が 、入 れ 替わ り立 ち替 わり 中国 に使 者を 送っ てい る よ うに み られ る ので、 年次 だ けで は人 物の 特定 は困 難 である。 履 中 天 皇 の 即 位 に つ い て は 、「 元 年 春 二 月 の 壬 午 の 朔 つ こ こ い ざ みず ほ みずのえ さ る あまつひつぎしろしめ いるから、即位年は 庚 子とみられる。 い ざ かのえ ね ほ わけ ~ 年 と比 定さ れ、即 位 かのえ ね 年 と 比 定 さ れ 、即 位 した 庚 子 は 歳の年で、父親の仁徳天皇は生前譲位したことになる。 にんとく 元 年 の 庚 子 は、 西 暦 年 六十 四」 とあ り、 在世 は 履 中 天皇の墓誌には 、「伊邪本和氣命 壬 申 一月五日 り ちゆう かのえ ね こ れま で にも 倭 の五王 につ い て考 証し た文 献が 多く み い てき に 、 磐 余 稚 櫻 宮 に 即 位 す 。 是 年 、 太 歳 庚 子 」 履( 中 天 皇 し ら れ るが 決 定的 な 証拠 はな い。 恣意 的に 人物 を特 定し て そ の お かのえ ね 元年紀 と)し、 旧[事紀天皇本紀 に]も、「履中天皇元年歳次 かつらぎ おほ え たちひ のみず は わ け かのえ ね みて も 意 味が ない ので 、こ こ では その 時代 の天 皇の 実年 そ す み のえの なかつ み いわ の ひめ 代や在位年に力点をおいて立証することとしたい。 ほ わけ 代仁徳天皇が葛城の襲津彦の娘磐之媛命 ざ ま わくこのすく ね い つ ひこ 庚 子 中( 略 、) 皇太子 去( 來穂別 尊) 、即 天 皇 位す 」として 書[ 紀 は] 、 お あさ づ にんとく ひ を 后 とし て 生 ん だ の が 去 來 穂 別 天 皇 ・ 住 吉 仲 皇 子 ・瑞 は わけ め お ほ ささき 歯別天皇・雄朝津間稚子宿禰天皇であるとする。 ひ 古[ 事記 も] 、「 大 雀 命 仁( 徳天皇 、) 葛城の曽 都毘古 の女 いは の の なか つ みこ 石 之 日 売 大( 后 を) 娶 し て 生 み ま し し 御 子 ・ 大 江 之 伊 邪 本 わ け みこ い ざ ほ い わ は け みこ れ あめの し た し いま みずのえ さ る また、履 中 天 皇の崩年 壬 申は り ちゆう 年であるが、 代反 去 來 穂別 に 譲位 し て隠居 した か と思 いき や、 中々 そう で ほ ま わくごのすく ね ざ 18 あさ つ い き 。伊 邪 本 和気 王 履( 中 天 皇 、) 伊 波礼 の若 桜 宮に 坐し て り ちゆう 和 気 命 、 次 に 墨 江 之 中津 王 、 次 に 蝮 水 歯 別 命 、次 に 男 すみ え 432 432 はなかったことは前項でみた。 け 369 浅津間若 子宿禰 命、 四柱。伊 邪本和気王は 天 下 治らしめ わ 400 - 27 - 17 31 16 第七章 古代天皇と実年代 みず は わけ 年 に退 位し て ひのえ う ま 正 天 皇 瑞( 歯 別 命 の) 即 位 元 年 は 丙 午 り ちゆう ら 、 履 中 天 皇は げ ん か に皇位を譲ったことになる。 そうしよ 『宋書 倭国伝』 に、 「元嘉二 ( 年 と) し て い る か みず は わけ く だ ら し らぎ ちん 代反 正 天皇 瑞( 歯 別命 さん と とく ( 年)、讃死して、弟、珍 じ せつ わこくおう あ ん ど う しよう ぐ ん わ こ く お う あん とう さん ン が 死ん だ 」と 説明 した もの を 、宋 朝の 役人 が「 讃死 し (~ 年 ) て 」 と 記 し た も の が 宋[ 書 の] 史 料 に な っ た も の と 解 さ れ る。 そう りゆう ゆ う 宋 は 、 中 国 の 南 北 朝 時代 、 南朝 最 初 の 王朝 で東晋の部将 劉 裕 高(祖 が)建国した国名である。建康 南( し みことのり ぼ かん ろくこく し よ ぐ ん じ 立つ。使を遣し貢獻し、自ら使持節・都督倭・百済・新羅 じよ せい しん かん 京 に)都し、第三代文帝の治世が最盛期だったが、八世で みま な ・ 任那 ・ 秦 韓・ 慕韓 六国 諸軍 事・ 安東 大将 軍 ・倭 国王 と ふみ ろくこく じよ 斉 王 の武 将 蕭道 成 に帝 位を 譲り 滅ん だ。 建国 者の 姓を と ちん さん の安帝の時 お ほ ささき にんとく (年 、)倭王讃あり、使いを遣わして朝貢す」 さん 大 雀 命 仁( 徳 天皇 の) 健 在な お ほ ささき りゆう そ う 称し表にて除正を求む。 詔 して安東 將 軍倭國王に除 わこくおう そうしよ 年条の 南[ 史列 伝 に] 、「晋 って 劉 宋と称された と云う。 し よ ぐ ん じ あん とう わく こ 諸 軍事 安 東 大将 軍・ 倭国 王の 称号 を贈 って 欲 しい と文 書 い ん ぎよう で要求したとしている。 年 ほ わけ にん とく い ざ お ほ ささき 歳で健在である。 ほ わけ 年には り ちゆう い ざ 大 雀 命 仁( 徳 天 皇 の) 後 に 立 っ た の は 、 履 中 天 皇 去( 來 お ほ ささき 代允 恭 天皇 若(子宿禰 の)時代である。 宋[書 ] とみえ、讃は、明らかに大 雀 命 仁(徳天皇 を)さしている。 ちん さん 穂別 で)、 しかし 、去來 穂別 は大 雀 命 の弟でなく御 子であるが、 お ほ さざき 皇 の 本 名大 雀 命 を さ し た も のと み ら れ る。 大 雀 の 大は マ ー ジヤン ャン」と読んでいる。例えば「麻 雀 」がそれである。 い ざ ぼ わ き 履 中 天 皇 伊( 邪 本 和 気 命 の) 没 年 は 、 墓 誌 に 「 伊 邪 本 り ちゆう で書き違いもあるとみなければなるまい。 な ぜ 「弟 、 珍」 と 書いた のか は 不明 であ る。 他国 のこ と お ほ さざき ( 年 に) 仁 徳 天 皇 が 崩 じ て い る こ と か ら 、 讃 は 仁 徳 天 は 「 讃死 し て、 弟、 珍立 つ」 と して いる のは 、そ の 年は 、 にん とく す」 と 。 使者 の名 前は 出て い ない が、 珍は みず らを 六国 479 406 こ うし た こと か ら、宋 に遣 わ され た使 者が 「倭 王シ ャ 59) ) - 28 - 420 18 425 405 60) 美 称 で、 実 名は 雀 である 。古 訓 では これ を「 シャ ン・ ジ 前 413 16) 57 さん 19 413 425 6 425 419 第七章 古代天皇と実年代 和氣命 壬申 年 には 兄の ( ( 一) 月五日 年六十四」(上石津ミサンザイ みず は わけ 年 五十 九」 とあ るか ら、 この みず は わけ い ざ ぼ わ い ん ぎよう ) わ く ご す く ね みずのえ ね い んぎよう 年にあ 代 允 恭 若( 子 宿 禰 天) 皇 の 即 位 が 、「 允 恭 天 い ん ぎよう 年とみられる。 後 に 続く みずのえ ね みず は わけ はん ぜい 皇元年、是年、太歳 壬 子」とみえ、 壬 子は あん こう お あさ つ ま わく ご すく ね い ん ぎよう い ん ぎよう いずれも、仁徳 大( 雀 天)皇の在世中のことである。 に ん と く お ほ ささき わく こ すく ね た る 。し た が って 、瑞 歯別 反( 正 天) 皇も 、弟 の允 恭 天 皇 みず は わけ り ちゆう 去 來 穂 別 履( 中 天) 皇 や 次 兄 の 瑞 歯 別 反( 正 天) 皇 も 、 そ れ わく こ はんぜい 代 反 正天 皇 水( 歯別 命 の) いず れか で 天皇 若(子宿禰 の)時代であるが、 き 気 命 か) 、あ る い は あな ほ 穴 穂 命 安( 康 天 皇 は) 、 男 浅 津 間 若 子 宿 禰 命 允( 恭 天 皇 おお はつ せ ゆ う りやく お し さ か お お なかつ ひ め き なしの か る の 三 男 、 大 長 谷 命 雄( 略 天 皇 は) 四 男 允[ 恭 記 と] あ り 、 書[ い ん ぎよう さかひのくろひこ お ほ は つ せ わ か た け ひ こ ゆ う りやく あんこう ともあれ、倭王はこうして中国 宋(王朝 の)傘下に入り、 やつりのしろひこ な かたの お ほ いらつめ かるのおほいらつめ さかみの 軽 大 娘 皇 女 ・ 八釣 白彦 皇子 ・大 泊瀬 稚武彦 雄( 略 天) 皇 たじまのたちばなおほいらつめ 代安 康天 皇と 代雄 略天 皇は 、こ れまた ・ 但 馬 橘 大 娘 皇 女・ 酒見 皇女 を生んだ 」と してい る。 要す るに 、 同母兄弟だとしている。 あんこう 代安康天皇 21 あ ん ど う しよう ぐ ん わ こ く お う し ば かきの み や あ な ほ 紀 に]は、 「允 恭 天皇は忍坂大 中 姫を皇后として、木 梨 軽 ) 年と比定 され、 書[ 紀 に] は反 安 東 將 軍倭 國王の 位に叙 される ことで近隣の韓 半島諸国 ~ たち ひ ひのえ う ま す。冬十 月に河 内の 丹比に都 つくる。是を柴 籬 宮 と曰す ひのえ う ま 云 云 。 是 年、 太 歳 丙 午 」 と あ る。 即 位 元 年の 丙 午 年 は 20 代反正天皇 在世は、墓誌から 二 ( 日 59) 正 天 皇「 元 年春 正 月の丁 丑の 朔 戊寅 に皇 太子 、即 天皇 位 438 皇子・名 形 大 娘 皇女・境 黒 彦皇子・穴穂 安(康 天)皇・ そう に ん と く お ほ ささき 若( 子 宿 禰 命 に) 生 前 譲 位 し た と み ら れ る 。 こ れ は 、 親 の り ちゆう 19 ぞれ健在であるから、 年、宋に使者を送った「珍」は允 恭 ほ わけ 438 仁徳 大( 雀 天)皇以来、三兄弟の慣習になったのであろう。 ざ 425 代履 中 天皇 伊(邪本和 い 年 七月 五 日 古墳)また、 代反正天皇の墓誌 は、 「水歯別命 戊寅 18 432 との 外 交 や国 際 紛争 に優 位に 立と うと した ので あろ う。 あろう。 17 425 18 380 ) - 29 - 412 59) 406 20 18 第七章 古代天皇と実年代 あな ほ あん こう ひのえ さ る ひのえ さ る きのえ う ま 年と比定さ 代 穴 穂 命 安( 康 天 皇 の) 墓 誌 は 、「 穴 穂 命 丙 申 年 八 ひのと と り い 年 ざ ほ 年と な る。 没 年は り ちゆう そう なんせい りよう れ、 宋・南 斉・ 梁 の各 王朝との 国交や献使について は、 記[紀 に]は何の記載もない。 げ ん か あ ん ど う しよう ぐ ん わ こ く お う げ ん か 「倭國王、 ( 年)、 ( 年)夏、倭国王の珍を以て げ ん か あ ん ど う しよう ぐ ん わ こ く お う わ おう さい ( 年) 、河西国、高麗国、 か せいこく 重ねて安東 將 軍倭國王の称号を受けている。 そうしよ わ こく 宋[書 帝紀 に] も 、「元嘉二十 百 済国 、 倭 国、 並に 使い を遣 わし て方 物を 献 ず。 倭王 済 くだらこく こうらいこく 使を遣し奉獻す。復た以って安東 將 軍倭國王と爲す」と。 ま 同じく 宋[書 倭国伝 に]は、 「元嘉二十 そうしよ 安東将軍となす」 。 宋[書帝紀 に ] 、「元嘉十五 そうしよ その主な記録をみると次のようである。 実 際に も 配下 的 存在 だっ たの であ ろう 。参 考ま でに 、 ある。 い う より 、 配下 の よう な存 在と して 扱わ れて いる から で 慢 ので き る もの では なか った 。つ まり 、中 国 の同 盟国 と が、 あ えて 無 視し たの であ ろ う。 その 内容は 、 あま り自 りようしよ れる。そして、同天皇の即位は、元年紀に「是年 、太歳 甲 午」 年である。殺された事由はここでは省く。 ゆ う りやく ひのと と り お ほ さざき なんせいしよ 記[ 紀 の] 編 者 ら は 、 お そ ら く 遣 隋 使 や 遣 唐 使 が 持 ち 帰 は僅か ゆ う りやく 代雄 略 天皇 おお はつ せ ~ 年と比定 代大長谷命 雄( 略 天 皇 の) 墓誌 に「大長谷若建命 己 つちのと ひつじ 歳か ら計 算す ると 、在 世は 未 年 八 月 七 日 年 六 十 二 」 と み え、 己 未 は され て い る。 崩 年 と なる 。 479 同天皇の即位は、 「元年十一月十三日に、即 天 皇 位す。 あまつひつぎしろしめす 418 479 代 履 中 天 皇 伊( 邪 本 年間となる。 是 年 、 太歳 丁 酉 」 と あ る 。 丁 酉 は にん とく おほ はつ せ 代 仁 徳 天 皇 大( 雀 命 、) ゆうりやく 457 そうしよ っ た 宋[ 書 や] 南[ 斉 書 、] ま た 梁[ 書 も] 読 ん で い た で あ ろ う 年となり、「三 456 天皇、 眉輪 王 に 殺 しま つら れた まひぬ 」と あり 、在位 ま ゆ わ の おほきみ としているので 、 ( 年) 秋八月九日に、 こ とし 月 九日 年四十 一」とあ り、崩年 の 丙 申は 59) 代雄 略天皇 大( 長谷命 の) 生存中に、それぞ 443 59) 17 23 438 443 454 62 年とすれば、在位は足掛け け みこ 以上 の わ 和気王 か) ら 21 60) 3 16 - 30 - 456 20 21 21 479 第七章 古代天皇と実年代 あ ん ど う しよう ぐ ん わ こ く お う 帝 の 禅譲 に より 建国 した 国名 。 梁の 武帝 に国 を奪 われ 、 い ん ぎよう げん か りようしよ せいとう あんとう (~ 年 で) 、 ( 年) 、武の号を りよう わこくおう 安 保と 同 じ で、 宋倭 同盟 を倭 王側 から 要請 し たの であ ろ そう わ ) とし て 機能 さ せた い意 図が あ った であろ う。 今 日の 日米 そ れ は外 交 や軍 事等 、い ざと いう 時に 宋王 朝 を後 ろ楯 そう 文書で書いてくれと要求したものもみられる。 の よ う に自 ら 六国 諸軍 事・ 安東 大将 軍・ 倭国 王 の称 号を ろくこく し よ ぐ ん じ は、 また倭国王に配下としての称号を与えている。なお、珍 ちん れば 、 き りが な い程 に中 国に 使者 を送 って 朝貢 し、 中国 こ う し て、 人物 名の 記さ れ てい ない もの まで 数え 上げ にあたる。 倭王武が征 東大将軍 に昇進し たのは 梁 が建国された年 ぶ の最盛期を現出したが、六代で陳に滅ぼされた とある。 蕭 衍 武( 帝 が) 斉 の 禅 譲 を 受 け て 建 国 し た 国 名 。 南 朝 文 化 せい ぶ 允( 恭 天皇 、)宋に遣使し、安東 将 軍倭国王に任じる」と、 りよう 征東大将軍に進む」としている。 せいとう さらに 、 梁[ 書 列伝 に ] は 、「天監元 16) 梁 は 、 同 じく 中国 の 南北 朝第 三の 王朝 てんかん 七代で滅んだ と云う。 さい こう ろくこくしよ ( 年)、倭国王の世子の興を以 ぶ し らぎ ( 年) 、詔して武を六國諸 く だ ら ( 年) に み え る 百 済 ・ 新 羅 ・ ゆうりやく 60) 倭[ 国伝 と] 帝[ 紀 の] 両方に記 されて いる。ま た、元嘉二十 八 ( 年) 、 秋 七 月 甲 辰 、 安 東 将 軍 倭 王 、 倭 の 済 、 号 を 安 たいめい げ ん か わ ぶ ( 年) 、 倭 国 王 武 、 使 い ぶ 502 502 東 大 将 軍 に進 む 」 と 、 ここ で は 安 東 将 軍 か ら 安 東 大 将 軍に昇進している。 そうしよ ぼ かん しようめい 「 ] 昇 明二 あ ん と う だ い しよう ぐ ん けんげん 557 16) 宋[書 帝紀 の ] 「大明 六 わ おう しようめい て安東将軍となす」と。 そうしよ あ ん と う だ い しよう ぐ ん し んか ん そうしよ ま た 、 宋[ 書 帝 紀 なんせいしよ 年 ( 年) 、 武 雄( 略 天 皇 を) (~ 479 南[ 斉 書 列 伝 に ] は 、「 建 元 元 鎮東大将軍となす」とある。 斉は 、 中 国 は 南 北 朝 時 代 の 南 朝 の 第 二王 朝 せい 479 ぶ 478 任那・秦韓・慕韓、それに倭国とみられる。 みま な 六國とは、同史の元嘉二 軍事、安東大 將 軍、倭王に除す」とみえる。 ぐん じ 宋[ 書 倭国伝 に ] 、「昇 明二 462 425 を遣わし方物を献じ、武を安東大 將 軍となす」と。 60) の 国 で 、 通 称 は 南 斉 と 呼 ぶ 。 宋 の 蕭 道 成 高( 帝 が) 宋 の 順 502 60) 60) - 31 - 477 60) 60) 451 第七章 古代天皇と実年代 う。 せいねい ゆ う りやく ほ み から ひ め けんそう けんそう を け 代顕宗天皇 お け い いは す わけ ざ ほ わけ 顕宗 弘(計 天)皇は、去來穂別 つちのえ た つ (二十五日 ) ~ り ちゆう を け いは す わけ (代履 中 天)皇の孫で、 古[ かむあが 年 と すれ ば、 在位 僅か きのと う し 年と 比定 され 、即 位 は、 元年 の や つりの み や 事記 は]、袁祁の石巣別命と書いている。袁祁石巣別命の 代清寧天皇 せいねい こ お 墓 誌 は 、「 戊 辰 年 九月 二十 五日 年 三十 八」 で、 書[ 紀 ね ら 清寧天皇は即位前紀に、 代雄 略 天皇の第三子とある。 しらかのたけひろくにおしわかやま と ぶ ] も 、「三年 の庚 辰 に、 天 皇、 八 釣 宮 の 崩 り ましぬ 」と いみな つ 諱 を 白 髪 武 廣 国 押 稚 日 本 根 子 天 皇 と し て い る 。 古[ 事 記 ゆ う りやく せい ねい し てい る 。 在世 は おほ はつ せ わか たけ こ も 、大 長 谷 若建 命 雄( 略 天 皇 が) 都 夫良 意富 美 の娘 韓比 売 し ら か の お ほ やまと ね 春 正 月 の こ と と し て 、「 是 年 、 太 歳 乙 丑 」と し て い る か しら か け 年で を 娶 し て 白 髪 命 を 生 ん だ と し 、 白 髪 大 倭 根 子 命 清( 寧 天 に んけ ん にん けん 代仁賢天皇 つちのえ と ら ~ つちのえ と ら 年である。 戊 寅 年 八 月 八日 五 十 二」 か ら、 戊 寅 年、 ある か ら、 ( 年) に 歳で つちのえ た つ 年と す ると 、在 歳で薨去されたことになる。 年と 比定 され る 。崩 年が 即位は、元年の春正月五日で、「是年、太歳 戊 辰」と 他界されたとすれば、 ] 38 488 488 代 仁 賢 億( 計 天) 皇 の 在 世 年 代 は 、 墓 誌 「 意 祁 命 お 歳の短命である。 年 と なる 。崩 年が ら しら か い わ れ の み か くりの み や に な っ た よ う で 、 本 名 は 白 髪 だ っ た ら しく 、 墓誌 は 羽 しら が やま きのえ ね 曳 野 市 の 白 髪 山 古 墳 近 傍 や 磐 余 甕 栗 宮 跡 奈( 良 県 橿 原 市 東 池 尻 町 の 御 厨 子 神 社 か) ら 解 読 さ れ 、「 白 髪 命 甲 子 年 年と比定さ 年 3 52 きのえ ね このとし 年となる。 あまつひつぎしろしめ ~ 年の 年 と 比定 さ れる 。 ~ 59) 498 一月十 六日 年四 十一」とあ る。 甲 子 年は れている。したがって、生存年代は かのえ さ る 同天皇の元年紀に、 「春正月十五日、陟 天 皇 位す。是年、 かのえ さ る 歳で 他 界さ れた とす る と、 在位は 498 みぐし しろし 皇 と) ある 。生 まれ なが ら 白 髪 と もあ り、 その まま 名前 59) 485 位は 498 484 24 59) 5 447 484 484 太歳 庚 申」としている。 庚 申は 年に 間となる。 52 488 484 480 24 11 444 480 451 21 41 - 32 - 17 23 22 第七章 古代天皇と実年代 している 年と みら れ、 在位 ひのえ い ぬ 年の 丙 戌 ( 年) に 、 若 ところで、この天皇は、 「武烈」という漢風諡号に表徴 506 おほ との つちのと う 歳の若さで他界されたことになる。 己 卯は 8 古 代天 皇の 宮 であり、画期的成果であると自負している。 ただ し たが っ て、 我が 国の 古代 史 研究 史上 、初 めて の試 み 確定したものである。 基 づ き 、 書[ 紀 の] 年 紀 引 き 延 ば し の 絡 繰 り を 糺 し な が ら か ら く まで の 推 論と は 違っ て、 墓誌 とい う動 かし がた い証 拠に 本 表 の 古代 天皇 の生 存実 年 代と 在位 期間 の確 定は これ 以上を纏めたのが前掲の表1・2である。 索は本項の主旨ではないのでここでは割愛する。 こ れに は何 らか の裏 事情 が ある やに 思え るが 、その 詮 何故、このようなことが公然と残されたのであろうか。 されるように、 書[紀 の]記す所業は悪行の羅列である。 干 499 書[ 紀 も] 、「 十一年の 秋八月 八日に、 天皇、 正寝に崩 り は に ふ の さ か も と みささぎ 年とみられる。 つちのと う 18 ま しぬ 。冬 十月 五日 、埴生 坂 本 陵 に 葬 りま つる」 とし ており、崩年月日は墓誌 と符合している。 は に ふ の さ か も と みささぎ いそのかみ 埴生坂本 陵 は、大阪府南河内郡美陵町野中字ボケ山 き さ き に、 春日 娘子 を立 てて皇 后と す。 是年 、太 歳 己 卯 」と かすがのいらつめ 33) お はつ せ わか とみ ら れ てお り 、墓 誌は その 近 傍の 民家 の庭 石 や石 上 平 野山の宮跡から解読されている。 ぶ れつ お はつ せ わ か さ ざ き 代武烈 小( 泊瀬稚鷦鷯 天) 皇は、 古[ 事記 で] は小長谷若 ぶ れつ 代武烈天皇 ささき か たおか のいわつ きのお かのきたの みささぎ 雀 命と書かれている。その墓誌 は、香芝市今泉の ひのえ い ぬ ) 丙 戌 年 十 二 月 八 日 年 十 八 」 と あ る 。 書[ 紀 に] も 、「 八年 八 ( 日 ~ 506 冬 十 二 月壬 辰 の朔 己亥 に天 皇、 崩り まし ぬ」 と あり 、こ 年に比定され、在世は れも墓誌と符合している。 ひのえ い ぬ 丙 戌年は あ まつひつぎ しろしめ 489 また 、 即位 は 、「十二 月、 陟 天 皇 位す 。 元年 春三 月二 日 506 - 33 - 59) 傍 丘 磐 坏 丘 北 陵 近 傍か ら 解 読 され 、「小長 谷若 雀命 59) 25 25 第七章 古代天皇と実年代 ひ め と よ すき い りひ め ] ① ~ ㉕ 天 皇 宮 の 推 定 地 は 、 坂 本 太 郎 ら の 日[ 本 書 紀 の] 補注 による。 33) 古 代 天 皇 の 宮 は 、 記[ 紀 に] も 、 そ れ ぞ れ 書 か れ て い る が、一代ごとに皇居を替えている。 い た ぶ 宮 と云 え ば聞 こえ は良 いが 、 おそ らく 当時 は宮 と云 っ か や ぶ て も 簡素 な 茅葺 き か板葺 き掘 っ 建て 柱で 、規 模は 別と し あ ま も て野小屋程度の建物であろう。 一 代住 め ば老 朽 化して 雨漏 り する よう な代 物で あっ た ろ う から 、 場所 を 代え てそ れぞ れ造 り直 した のは 自然 の そ - 34 - 成り行きであろう。 ま た、 一 度建 て た宮 を棄 てて 、移 り住 んだ 記録 もあ る 代武烈天皇まで ぶ れつ が、活動に都合の良い場所に移るのも必定である。 こ こ に 、 書[ 紀 の] 記 述 を も と に し て も ま た 、 倭 母 母 曾 毘 賣 女 王 や 豊 鉏入 日 賣 女 王 は 、 記[ 紀 やまと も 種資料から推定したものである。 た だ し 、① 神 武天 皇よ り以 前の 大王 は、 神社 伝承 や各 の宮を一覧表 表(3~5 に)してみた。 25 に は 宮 の 記 載 は な い が 、宮 跡 碑 の 所 在 地 か ら 推 定 し た ものである。 59) 第七章 古代天皇と実年代 宇摩志麻冶大王代 大歳 饒(速日 大)王 須佐之男大王 大王・天皇名 橿原宮 三輪山麓周辺 三輪山麓周辺 宇佐宮、及び西都宮 宮 名 御所市森脇 橿原市畝傍町 桜井市纏向遺跡、及び田原本町唐子鍵遺跡 桜井市纏向遺跡、及び田原本町唐子鍵遺跡 お おと し に ぎ は や ひ う ま し ま ま じ じ ん む すい ぜい かしはらのみや かつらぎのたかおかのみや かたしおのうきあなのみや 推 定 地 ①神武天皇 葛城高丘宮 大和高田市三倉堂 あんねい かるのまがりをのみや 宇佐市安心院町妻垣、及び西都市西都原 ②綏靖天皇 片塩浮孔宮 橿原市大軽町 い とく わきかみのいけこころのみや むろのあきつしまのみや くろだのいおりとのみや さい と の み や ③安寧天皇 軽曲狭宮 御所市池之内 こ う しよう こうあん こうれい うさのみや ④懿徳天皇 掖上池心宮 御所市室 お ⑤孝 昭 天皇 室秋津島宮 奈良県磯城郡田原本町黒田 の ⑥孝安天皇 黒田廬戸宮 橿原市大軽町 かるのさかいはらのみや ) - 35 - さ ⑦孝霊天皇 軽境原宮 こうげん 桜井市箸中 箸(墓古墳西南 ㍍の神社 59) す ⑧孝元天皇 かすがのいざかわのみや まきむく ) 奈良市子守町 ひ こ 春日率川宮 かい か そ み ⑨開化天皇 も ひ 纏向 宮(名称不詳 やまと も め 倭 母母曾毘賣女王 卑(弥呼 ) 300 古代天皇の宮-1 表3 第七章 古代天皇と実年代 宮 名 高穴穂宮 高穴穂宮 纏向 之 日代 宮 纏向珠城宮 磯城瑞籬宮 下関市長府町豊浦 大津市坂本穴太町 大津市坂本穴太町 桜井市穴師 桜井市穴師 桜井市金屋 けいこう せい む ちゆう あ い をきながたらしひめ 気長 足姫女王 神(功皇后 ま き むくの ひ し ろのみや た か あ なほ の み や た か あ なほ の み や あ な と の と ゆ ら のみや か し ひ のみ や わ か わ か さくらのみや あけのみや なにはのおおすみのみや な には の た か つ のみ や 59) 推 定 地 大王・天皇名 まきむく 纏向 宮名称不詳 現(檜原神社 桜 ) 井市三輪(池田仁三氏解析の宮跡碑 ) とよすきいりひめ 豊鉏入日賣女王 親(魏倭王卑弥呼 ) ⑩崇神天皇 穴門豊浦 宮 福岡市東区香椎町 し き の み ず がき の み や ⑪垂仁天皇 橿日宮 桜井市池之内磐余池付近か す じん ⑫景行天皇 若 稚( 櫻) 宮 橿原市大軽町 おうじん ⑮応神天皇 まきむくのたまきのみや ⑬成務天皇 明宮 大阪市東区 すいにん ⑭ 仲 哀天皇 難波大隅宮 大阪市東区 ) 難波高津宮 にんとく ⑯仁徳天皇 - 36 - 古代天皇の宮-2 表4 第七章 古代天皇と実年代 ⑳安康天皇 ⑲允 恭 天皇 ⑱反正天皇 ⑰履 中 天皇 大王・天皇名 泊瀬朝倉宮 石上穴穂宮 遠飛 鳥宮 記( ) 丹比柴籬宮 磐余稚櫻宮 宮 名 橿原市東池尻町の御厨子神社の地 桜井市黒崎 天理市田町 奈良県明日香村 大阪府松原市上田町 桜井市池之内 推 定 地 はんぜい い ん ぎよう あんこう ゆ う りやく せいねい けんそう いそのかみひろたかのみや ち かつ あ す か や つり の み や いわれのみかくりのみや はつせのあさくらのみや いそのかみあなほのみや とほつあすかのみや たじひのしばかきのみや いわれのわかさくらのみや ㉑雄 略 天皇 磐余甕栗宮 奈良県明日香村八釣 り ちゆう ㉒清寧天皇 近飛鳥八釣宮 天理市石上町 にんけん し ㉓顕宗天皇 石上広高宮 桜井市出雲 は つ せ の な みき の み や ず ㉔仁賢天皇 泊瀬列城宮 ぶ れつ み ㉕武烈天皇 - 37 - 古代天皇の宮-3 表5
© Copyright 2024 ExpyDoc