歴史概要

歴史概要
原 始 バ ス ク 人 は、 ア ラ
バ県側リオハにあるラ・
チャボラ・デ・ラエチセ
ラのような巨石墳に死者
を埋葬しました。またそ
の近くの原始時代の村ラ
オヤでは下写真のような
青銅のペンダントを使っ
ていました。
エ
ウスカディの歴史は、その政治制度の進展に
よって節目がつけられてきました。カスティー
リャ王国と結んでいるときには、議会フンタス・ヘ
ネラレスによって、その特権と体制が維持されてい
ました。カルリスタ戦争後、特権制度が崩壊し、そ
の後近代ナショナリズムが誕生します。内戦のため
に、初代バスク政府は道を閉ざされ、後にバスク政
府は、自治憲章であるゲルニカ憲章によって新局面
を迎えます。
バスクの地に早い時期から人類が存在したことは、
数々の原始時代の遺跡から明らかです。そして原始
バスク人は、
独自の言語であるエウスカラ(バスク語)
を発展させました。バスク語は、インド・ヨーロッ
パ語より古い言語と考えられています。ローマ帝国
の領土拡張が始まったとき、住民は、バスク族、ア
キタニア族、バールドゥロ族、カリスティ
オ族、アウトリゴン族という、いくつかの
部族にまとまっていました。しかしそれぞ
れの部族は、お互いにあるいは他の人々と、
わずかに接触を保っていただけでした。
エウスカディの北部が、多少孤立してい
たのは、山がちで樹木が生い茂っている
地形によるものでした。一方南部のアラバには、ロー
マ人が定住しました。この地域は、後に西ゴート族
の通り道となり、またイスラム人の領土拡張に歯止
めをかけたところでもあります。
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バスク領はナバラ王国に属していたものの、実際に
牛耳っていたのは塔の館の主ヤウンチョと呼ばれる
封建領主でした。
特権に対する宣誓
エウスカディの孤立を防いでいたのは、サンティア
ゴへの巡礼の道を往来していた巡礼者たちでした。
13世紀から14世紀にわたってバスク領は、ナバラと
の伝統ある関係を破棄し、カスティーリャ王国と結
びます。しかし歴代のカスティーリャ王は特権の保
証を宣誓しなければならず、自治権はそのまま保
持されたのです。各地方はそれぞれのフンタス・ヘ
ネラレスの下、自らの責任によって治められ、カス
ティーリャ領との税関はエブロ川に設けられました。
カスティーリャ王から出された町を形成する認可の
おかげで、いくつかの町が、農村地域を支配してい
た領主に左右されず形成されていきます。一方これ
らのヤウンチョ(領主)の中でオニャシノ派とガン
ボイノ派は、特に折り合いが悪く、対立は途切れる
ことがありませんでした。
漁労とともに造船に長けていたバスク人は、アメリ
カでのスペイン領土拡大で、重要な役割を果たしま
す。16 世紀、海運業や鉄採掘、漁業は、経済の発展
を促しました。しかしながら海賊行為や疫病が、ア
メリカの資源を過剰搾取する前に、経済危機をもた
らします。
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石の時代から
チタンの時代へ
10 万年前 最初のバスク人は、遠くの
チャンとパサ
地から来たという多くの学
実 際、 カ ス
説は、今では研究によって
ティーリャの
退けられています。バスク
代々の王は、それら
人の祖先は、10万年前から
の特権を尊重すること
ここに存在し、おそらく 7
を誓約しなくてはならず、
ドへ移転してしまったこと
千年前には、すでに現在の
また議会はパセ・フォラル
と、その後のビスカイアの
バスク語に似た言語を話し
( 地方特権 ) と呼ばれる王
工業発展により、次の世紀
ていたのですから、大した
命令に対する拒否権を持っ
にビルバオが、より重要な
ものです。石器時代のバス
ていました。しかし一方で、
港になったのです。
ク人は、メンヒル(立石)
、
議会による協定は、君主に
巨石墳、環状列石、またビ
よって承認されなければな
スカイアのサンティマミー
りませんでした。 この特殊
ニェやベンタラペラ洞窟、
な 自 治 形 態 は、19 世 紀 の
その他の航海者や征服者として知られるバスク人は、アンド
レス・デウルダネタ、ミゲル・ロペス デレガスピ、アントニオ・
19 世 紀 後 半 の 工 業 化 は、 デオケンド、コスメ ダミアン・チュルカ、フアン・デガライな
エウスカディに大きな転機 どです。
ギプスコアのエカイン、ア
終わりまで続けられます。
をもたらしました。初めて
ルチェリ洞窟に壁画を残し
ています。鉄の時代までに
は、ラオヤのような集落が
海外貿易
船乗りの土地であるエウス
イアに繁栄をもた
らしました。しかしな
がら、この会社がマドリッ
世界一周をした最初 の 人
カ ル ロ ス 5 世 か ら、 バ ス ク 人 フ ア ン セ バ ス チ ャ ン・ エ
ル カ ノ に 授 与 さ れ た 盾 紋 章 に は、 地 球 儀 と と も に Primus
circundedisti me と記されていました。ゲタリア出身のこの船
乗りは、マゼラン遠征隊の士官で、最後にはビクトリア号の船長
となりました。このビクトリア号は、初の世界一周後にバラメダ
のサンルーカルに戻った、たった一隻の船でした。エルカノの生
まれたゲタリアでは、彼の像と、4年ごとに彼の下船・上陸を再
現して、その偉業を称えています。
まさに改革そのもの
の高炉の導入、つまりボル
こうして農業の衰退が始ま
カ デ ィ で は、 技 術 と 社 会
エタのサンタアナの高炉
りました。また移住者の到
発 展、 ま た 産 業 基 盤 や 設
来により、50 年 も経たない
備刷新の時期となりまし
うちに、ビスカイアの人口
た。 チ タ ン で で き た ビ ル
は 2 倍に増加したのです。
バオのグッゲンハイム美
(1849 年)から、産業改革
すでに形成されており、現
在アラバ県側リオハにある
術館は、21 世 紀の新しい
その遺跡を見ることができ
新しいエウスカディ
ます。
エウスカディの最良のイ
産 業 危 機 の 影 響 を 克 服 し、
メージと言えるでしょう。
20 世紀末の数年は、エウス
地方特権の承認 特権は、時とともに合法化
された古い社会慣習です。
それまでナバラ王国と結び
ついていたバスク領は、カ
スティーリャ王国と合併さ
れるまで
(ギプスコアとア
ラバは 1200年、ビスカイア
は 1379年 )
、フンタス・ヘ
ネラレスによって、特権と
体制を維持していました。
カ デ ィ は、18 世 紀 終 わ り
と経済発展は、ビルバオと
までアメリカとの海上貿易
その周辺の景観、またギプ
で、非常に重要な役割を果
スコアの多くの地域を変え
た し ま す。50 の 大 型 船 舶
ることとなりました。ビス
を備えるまでに至り、ベネ
カイアは、製鉄と造船業を
ズエラとの独占権をもつカ
得意とし、ギプスコアは製
ラカス・ギプスコア会社は
紙と工作機械産業が中心に
ドノスティア - サンセバス
なっていきます。
© グッゲンハイム ビルバオ
写真 エリカ・バラオナ
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この木の下で、ビスカ
イアのフンタス・ヘネ
ラレスが開かれていま
した。この木は、もと
もとの樫の子孫で、こ
の場所は、バスク人に
とって非常に象徴的な
ところです。
18 世紀、ビダソア川両側で、バスク人を分離した国
境が引かれます。新しい経済繁栄と啓蒙精神は、カ
ラカス・ギプスコア会社やバスク友好協会といった
会社や組織の設立を促しました。またマチナダ(民
衆蜂起)も起こり、フェリペ 5 世のエブロ川税関廃
止の試みをつぶすことになったものも、その一つで
した。
2 つの対立する見解
19 世紀エウスカディは、カルリスタ戦争に巻き込ま
れます。これは王位継承の対立をめぐって、貴族と
旧体制の農民階級が支持した特権を守ろうとする地
方主義と、新しい進歩的ブルジョワ階級が支持した
初期の国家主義が対立したものでした。1876 年の第
3 次カルリスタ戦争の終わりに、地方特権は廃止さ
れてしまい、税関は沿岸部とフランスとの国境に移
されました。自治権の廃止にもかかわらず、それぞ
れの議会と国家の間には、クーポと呼ばれる経済合
意が結ばれます。
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これは議会が、税の徴収といくつかの権限を確保し
国の業務に対して割当金を国に支払うものです。 産業革命によって経済の自由化と大量の移住者は、
急速にエウスカディ景観を変えていきます。
19 世紀の終わりには近代のナショナリズムが生ま
れ、第二共和制では、内戦がすでに勃発したときに
承認されていた自治憲章を進展させることに成功し
ます。しかしその内戦は、新たなる希望を台無しに
するものでした。独裁者のフランコは経済合意を廃
止し、バスク人の独自性が現れるものすべてを抑圧
したのです。
フランコの死後、1979 年、ゲルニカ憲章が承認され、
基本的項目に権限をもつバスク自治州自らの議会と
政府が認められました。アラバ、ビスカイアおよび
ギプスコアは県議会を通して徴税の権限を維持し、
フンタス・ヘネラレスを復活させたのです。
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塔の館と城
厚い石壁と小さい窓をもつ高い塔。こうした家に、中
世の領主たちが住んでいました。このような塔のある
館のほとんどは、破壊されて しまいましたが、今でも
離れたところから、魅力的な城や宮殿と同じように、いく
つかの典型的な中世石造りのシルエットを見つけることが
できるでしょう。
ガウテギス・アルテアガ城
カサ・デ・
フンタス(議会場)
防衛建造物
エウスカディに残る塔の
館(C A S A S - T O R R E )は、
さまざまな対立や中世の
時代にこの国が直面した
戦争ゲラス・バンデリサ
スについて思い起こさせ
ます。領地は、パリエン
テス・マヨーレスと呼ば
れる数人の領主間に、分
割されていました。戦士
は、オニャシノ派とガン
ボイノ派という 2 つの大
きな派に分かれ、死ぬま
で対立していたのです。
そういった背景のために、
塔の館は、防衛建造物で
あると同時に経済的、組
織的単位でもありました。
ゲラス・バンデリサスの
ために、エンリケ 4 世は、
そ の 建 築 を 禁 止 し ま す。
多くの塔の館は全壊ある
いは一部が壊され、防衛
のための要素が剥奪され
ていきました。高くて正
方形や長方形の平面形式
の、厚い壁をもつ塔の館
のいくつかは、現在も目
にすることができます。
以下は、保存されている
美しい塔の館です。
背後の飾り衝立のレプリ
カがあります。この衝立
のオリジナルはシカゴに
展示されています。 5 エルシーリャの塔 ベルメオ(ビスカイア県)
にあります。アロンソ・デ
エルシーリャの旧家。
9 エウスカディには、分
1 メンドサの塔の館
ビトリア - ガステイス郊
外にあります。メンドサ
のオニャシノ派が、この
角にやぐらを持つ城壁に
囲まれた高い堅固の塔に
住んでいました。後に刑
務所として使用され、現
在は紋章博物館になって
います。
3 ムニャトネス城
ムスキス(ビスカイア県)
にあります。現在修復中
ですが、堀や二重の城壁
などから、中世の城がど
ういうものだったのかを
知 る こ と が で き ま す。
2 アヤラの要塞館 その名が谷全域の名前と
なっているケハナ ( アラ
バ県 ) にあるアヤラ一族
の館。ビルヘン・デ・ル・
カベリーョの礼拝堂があ
る塔は見事で、本物の雪
花石膏でできた墓、祭壇
現在は漁師博物館ムセ
オ・デル・ペスカドール
であり、先細開口部と小
さなひさしがついた望楼
があります。
6 ガウテギス
アルテアガの城
( ビスカイア県 ) エウヘニ
ア・デ モンティホ皇后は、
古い様式を復活させる当
時の流行にのって19 世紀
にこの城を建てました。
7 ムンチャラツの塔
3
4
5
10
9
6
アバディニョ(ビスカイ
ア県)にあります。
ルネッサンス様式の窓が、
後に付け加えられた非常
に美しい塔です。
8
8 ルセアの塔
7
4
2
1
ブトロン城
ガ テ ィ カ( ビ ス カ イ ア
県)にあります。19 世紀
に、14 世紀の塔の館を、
45m の高さといくつかの
小さな塔をもつ壮大な城
に修復したものです。中
世 の 世 界 が 広 が り ま す。
サラウツ(ギプスコア県)
にあります。サラウツの
カレナグシア(中央通り)
にあり、ギプスコア県で
もっともよい状態で保た
れている塔の館で、外観
の美しさだけでなく内部
には、すばらしい階段も
あります。
裂を象徴する塔がいく
つかある一方、力の融合
を彷彿させる塔もありま
す。 ソ プ エ ル タ( ビ ス
カイア県)にあるカサ・
デ・フンタス・デ・アベ
リャネーダ は、エンカル
タシオネス地域を構成し
た 10 の共和国の総会が
おこなわれていた塔の館
です。
中世の建造物全体は、何
世紀にもわたって修復さ
れていますが、その象徴
的な価値は今も変わって
いません。また中には、
エンカルタシオネス博物
館もあります。
10 よく知られているゲル
ニカのカサ・デ・フンタ
ス 。そこには、全ビスカ
イア領からそれぞれ代表
議会員が集まっていまし
た。これは 19 世紀の新
古典様式の建物ですが、
中世の教会サンタマリア・
デ・ラアンティグアを基
にその上に建設されたも
のです。この建物を見る
だけでなく、歴史をもつ
バスクの象徴ゲルニカの
木の立っているところへ
も、足を運ぶことができ
ます。
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