自由確率論入門

自由確率論入門
植田 好道 (2012 年 5 月 21–24 日)
概要
依頼により自由確率論の入門講義を行います.と言っても理論の誕生から既に30年弱経ってい
ますのですべてを入門講義に盛り込むのは不可能です.ここでは作用素環への応用を念頭に基礎
的な事柄になんらかの形で触れ,引き続き自由エントロピー理論の入り口までを説明します.
集中講義ではないので少なくとも作用素環論研究の入り口にいる人程度を念頭に話をします
が,作用素環論をあまり知らなくても理解可能な形で説明を与えるように努力します.すなわち
本格的な作用素環の知識は不要です.現在の自由確率論の裾野は大変広いのですが,今回の内容
のほとんどは過去の私の研究で使ったもの/研究したもので作用素環論の深い知識(III 型因子
環に関係するものなど)が不要のものに限られています.しかしながら,理論の本質の多くには
おそらく触れますし,時間が許せば現在行われている研究動向の私が把握している範囲での簡単
な概説も与えます.
なお,ランダム行列というと色々と勘違いが起こりがちなのですが,自由確率論ではランダ
ム行列の平均固有値分布のサイズ無限大の分布収束極限を取り扱います.
(すなわち,ランダム行
列自体が作用素として何か意味ある無限次元の作用素に収束するわけではありません.
)自由確率
論の枠組みではさらに最大固有値分布のサイズ無限大の「極限」も作用素ノルムの極限として取
り扱えますが(Haagerup らの貢献),今回は扱いません.それは基礎というよりは発展的話題と
いうべきでしょう.
講義の予定
1. Free Gaussian Functor
2. Free 2 projections and S-transform
3. Random matrices and asymptotic freeness
4. Free cumulants and more on random matrices
5. Applications to free group factors
6. Large deviation for random matrices
7. Free entropy (very sketchy)
8. Overview of recent progress (時間が許せば)
項目 1, 2 および項目 5 のみ作用素環の知識(巡回分離ベクトルの基礎知識, GNS 構成法,群フォ
ンノイマン環の定義,II1 型因子環の定義(無限次元の因子環で有限正則トレイスを持つと理解
すれば十分),程度)を使います.また項目 1 で Hilbert 空間のテンソル積を使いますが大した
ことはありません.ほとんどすべての話は私がお話しできる内容ですから初等的(なはず)です.
もしわかりにくければそれは私の説明が悪いだけですから内容自体に恐れることはありません.
他の重要な作用素環論の話題とは異なり何かを完全に分類するという深い話は一切無縁な話題で
すので,そういう意味でも初等的です.しかし逆に言えば普通の作用素環とは趣がずいぶんと異
なるので作用素環だけを勉強してきた人にはちょっと難しく感じるかもしれません.
1
文献
さらに勉強するときに入り口を与えてくれると思われる文献を列挙します.思いついたものを挙
(以下敬称略)
げました.また,私の独断による コメントが書いてあります.
[VDN] D. Voiculescu, K.J. Dykema and A. Nica, Free Random Variables, CRM Monograph
Series 1, Amer. Math. Soc., 1992.(私は 1994–96 年頃に Voiculescu の最初の論文から順に勉
強したが,10 年強昔はこれで勉強したのではないでしょうか? Non-crossing partitions, Free
entropy 以前の技術の本質はここにほぼ出そろっている.
)
[V00] D. Voiculescu, Lectures on free probability theory, Lecture Notes in Mathematics, 1738,
2000. (1998 年に確率論の人に向けて行った集中講義録.証明が書いていないところが沢山ある
がよい文献.作用素環の側面はほとんど書いていない.
)
[V02] D. Voiculescu, Free entropy, Bull. LMS, 34 (2002), 257–278.(自由エントロピーの概
説論文.さらに同じ著者の Free probability and the von Neumann algebras of free groups,
Rep. Math. Phys, 55 (2005), 127–133 に補完する内容が書いてある.
)
[HP] F. Hiai and D. Petz, The Semicircle Law, Free Random Variables and Entropy, Amer. Math.
Soc., 2000.(1個のランダム行列の(レベル2)大偏差原理を勉強するのに便利な本.よく整理
された証明が与えられている.と言っても,やはりその部分を読むのは何も知らないと簡単じゃ
ない?)
[G] A. Guionnet, Lecture Notes on Random Matrices, Macroscopic Asymptotics, Lecture Notes
in Mathmatics, 1957, 2009. (そもそも定義にすら誤植と思えるものがあって後半は素人には読
めないところもあるように思われるが,複数個のランダム行列に対する大偏差原理を目指した研
究は Guionnet を中心に行われていてその一連の研究がまとまって書いてあるのはこれしかない.
また新しい切り口で既知の結果を説明するところがあり面白い.しかし,自由確率論の枠組みの
確率解析をほとんど書いてない.
)
[AS] A. Nica and R. Speicher, Lectures on the Combinatorics of Free Probability, LMS Lecture
Notes Series, 335, 2006.(最近の定番教科書.組み合わせ論的方面に詳しく解析的な方面はほ
とんど書いていない.Speicher は自由確率論の組み合わせ論的取り扱いを始めた人.この本は
1999–2000 年頃にパリで行われた彼らの講義録を拡充したもの.講義録自体は Speicher や Nica
のホームページにある.そちらの方がコンパクトにまとまっている.いずれにしろ作用素環の側
面はほとんど書いていない.
)
自由確率論を牽引した3人(Voiculescu, Speicher, Ph. Biane)のうち Biane によるまとまっ
た文献はありません.しかしながら Biane のまいた種が現在もっとも多くの有能な若手を引き
つけ発展しているように思う(と思っていたが,よく考えたら少し発展が鈍化してきた感じもあ
る).例えば,Vershik–Kerov に始まる漸近表現論での自由確率論の役割などは Biane の大きな
功績ですがそれぞれの論文もしくは最近の研究論文に当たるしかありません.ごく最近 P. Śniady
が書いた arXiv:1203.6509v1 が入り口になるでしょうか.また,私は既に当該分野では(すべて
の分野で?)‘old-fashioned’ であり,最近の若い人たちの自由確率論の見方は Speicher の元弟子
の J. Novak が書いた arXiv:1205.2097v1 で触れることができると思うので自由確率論に興味を
もたれた方にお勧めします.拡大解釈ではありますが「自由」量子群の確率論的研究も自由確率
論の一部と見なせます.これは T. Banica や我々の馴染みの Benoit Collins さんらが精力的に研
究していますが,そういう方向を垣間みるにはとりあえず Banica が書いた arXiv:1109.4888 を
見ればよさそうです. (Banica のものを見る前に簡単に量子群の定義などの基礎を学んでおく必
要があります.私は量子群の定義程度しか知らないので,詳しくは例えば戸松さんに聞いてくだ
さい.
)
2