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先週講壇
隠れたことを見ておられる神
2015年9月6日
松本雅弘牧師
イザヤ書 58 章 6~14 節
マタイによる福音書 6 章 16~18 節
Ⅰ.見てもらおうとして、人の前で善行をしない
ように注意する生き方
すること。これは周囲の人々から賞賛を受けるこ
とを目的としてなされた場合です。ここでイエス
さまは「断食するときには、あなたがたは偽善者
のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者
は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を
見苦しくする」と非常に具体的に、偽善者の断食
の様子を例に出してお語りになりました。この場
合、神さまからの報いを期待してはならない。何
故ならば、すでに周囲の人々から報いを受けてし
まっているのだから、とイエスさまは教えておら
れます。
これに対して、正しい断食とは神さまの前にな
される断食、神さまに向かってなされる断食です。
このような断食に対しては、隠れたことも含め
て全てをご存じの神さまが、その善行に対して祝
福をもって報いてくださることを覚えなさい、と
イエスさまは言われるわけです。
山上の説教は6章に入り、クリスチャン生活の
実際について語られていきます。冒頭の6章1節
に「見てもらおうとして、人の前で善行をしない
ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの
天の父のもとで報いをいただけないことになる」
とありますが、それを受けるようにして、当時の
ユダヤ社会で評価されていた代表的な3つの善
行が取り上げられていきます。1節からは「施し」、
Ⅳ.隠れたことを見ておられる神
5節からは「祈り」、16節からは「断食」です。
今日は3つ目の断食についてのイエスさまの教
ところで、牧師をしていてつくづく思うことが
えを学んでいきましょう。
あります。それは目に見える事柄を形作ることは、
大変ではあっても比較的たやすい。これに対して、
Ⅱ.聖書に見る「断食」について
目に見えないものを形作ることがいかに大変か
と思うのです。
現代の私たちにはあまり馴染みのないもので
「信仰生活の5つの基本」を例にして考えてみ
すが、そもそもこの断食とは何でしょう。聖書に
たいと思います。
「信仰生活の基本」は、ある意
おける断食とは、基本的に祈りに集中する目的で
味で目に見えない部分を形作るものです。
食を断つことです。これが基本ですが、さらに聖
「信仰告白」では、そうした1つひとつのこと
書を調べてみますとユダヤの人々は幾つか特別
を「恵みの手段」と呼びます。聖書の神さまは、
な理由で断食をし、神に近づいたことが分かりま
行いから入ろうとする私たちに対して、まず関係
す。その1つは、犯した罪を悲しむ経験から、人々
から入るようにと促しています。何故なら祈りの
は断食をしました。第2に、将来に向けての歩み
生活という目に見えない生活は、目に見えないお
に神さまの導きや憐れみを求める時にも断食を
方との関係において初めて可能になるからです。
しました。さらに、断食は、信仰者の霊的訓練の
結局のところイエスさまは、私たちが誰の目を
手段としても用いられてきましたし、また極めて
意識しているかを問いかけておられるように思
実際的な理由として、食べ物がなく困っている
います。イエスさまは、
「天に宝を積みなさい」
人々のために、自らの食を断つという意味でも行
と勧めます。それは、私たちが隠れて祈り、本来
われていました。
の意味において断食をする時に、隠れたことを見
ておられる神さまがふさわしく報いてくださる
Ⅲ.断食に関するイエスさまの教え(マタイ6章
からなのです。
16節から18節)
使徒言行録2章にはペンテコステの出来事の
さて、これらのことを踏まえて今日のイエスさ
結果、聖霊を受けた弟子たちの生活の様子が記さ
まの教えに耳を傾けていきたいと思います。ここ
れています。
でイエスさまは2つのタイプの断食の仕方につ
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを
いて触れています。
裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人
その1つは間違った断食で、善行として断食を
に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議
な業としるしが行われていたのである。信者たち
は皆一つになって、すべての物を共有にし、財産
や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆が
それを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一
つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂
き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛
美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一
つにされたのである。
」
(使徒2:42~47)
このように、エルサレム教会の活動が非常に活
発に機能していきました。彼らを通して多くの施
しがなされ、捧げ物が捧げられました。証しも盛
んになされていったのです。
しかし、そうした中で1つの出来事が心に浮か
びます。
教会という小さな社会の内に、ある種の競争が
始まったのです。それは仲間の教会員からそれな
りの称賛を勝ち得たいと考えたクリスチャン夫
婦が出て来たのです。アナニアとサフィラ夫婦で
した。
彼らが何をしたかと言えば、捧げ物をする時に、
自分たちはあたかも全てを捧げたかのように、た
くさんの献金をしたかのように振舞ったのです。
当たり前のことですが人の目はごまかせても、
神さまの目をごまかすことはできません。私たち
の神さまは、「隠れたことを見ておられる」父な
る神さまです。そのお方の目は節穴ではありませ
ん。しかも誰も見ていないところでなされた行為
についても、また行動となって外に現れる前に心
の中にある時からすでに、神さまの目にはそうし
たことも隠されてはいないのです。
詩編139編を見るとそれがよくわかります。
「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知って
おられる。座るのも立つのも知り 遠くからわた
しの計らいを悟っておられる。
」
(1 節)と書かれ
ています。
話を戻しますが、捧げていないのに、あたかも
捧げたかのように人々の目をごまかしたアナニ
アとサフィラ夫婦は裁かれていくのです。具体的
には、彼らの命はその場で取られます。その結果、
エルサレム教会を聖なる畏れが覆うことになっ
たのです。
今日の16節にも、「偽善者のように・・して
はならない」という表現が出て来ます。6章1節
からの、施しについての教えの時にも、この「偽
善者」という言葉をイエスさまはお使いになりま
した。「偽善者」、ギリシャ語で「ヒュポクリテ
ース」という言葉ですが「役者」とか「俳優」を
意味する言葉です。人に見られることを意識し役
を演じる人のことです。
アナニアとサフィラは、エルサレム教会の教会
員の前で、自分たちがいかに立派なクリスチャン
であるかを役者のように演じたのです。
こうした彼らに対するペトロの叱責の言葉が
残されています。「アナニア、なぜ、あなたはサ
タンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金を
ごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのも
のだったし、また、売っても、その代金は自分の
思いどおりになったではないか。どうして、こん
なことをする気になったのか。あなたは人間を欺
いたのではなく、神を欺いたのだ」とペトロは語
りました(使徒5:3~4)
。
ここでペトロは、隠れたことを見ておられる私
たちの神さまは、ありのままを好まれるお方であ
ることを前提に語っています。偽善者のように、
何者かの振りをして生きることを神さまは嫌わ
れるのです。何故でしょう。その振りとは、まさ
に、あの創世記に出てくる「いちじくの葉っぱ」
のようなものだからです。
聖書は賢い人の歩みと愚かな人の歩みを比較
して説いています。聖書が教える賢い人とは、一
言でいえば、隠れたことを見ておられる神さまの
御前に歩む人です。このお方を喜ばす歩みを求め
る人です。これに対して愚かな人の歩みとは、神
の目を意識するのではなく、周囲の人々の評価を
意識して生きる人です。
人と比べて知識や知恵が乏しいとか、地上での
生活において物事が達成できない人とかいうこ
とではないのです。
私たちはよく「神さまとの関係において」とい
う言い方をします。その通りです。神さまとの関
係において、隠れたことを見ておられる神さまを
悲しませない。むしろそのお方が喜ぶ生き方を選
び取って行くこと、このことこそが賢い生き方な
のです。
この後、19節からは「天に富を積みなさい」
という教えに入っていくわけですが、まさに、こ
の賢い者の生き方と愚かな者の生き方が、そこで
別れてくるのです。何よりも神さまの御前に生き
る私たちでありたいと願います。ただ形だけの信
仰ではなく、神さまとの関係を深める歩みをなし
ていきたいと願います。お祈りします。