想 随 文献にみる補償の精神【60】

随
想
文献にみる補償の精神
【60】
「この人になら私たち水没者の気持ちも
十分に理解していただけるものと
いうふうに確信したわけです」
(厳 木ダム・佐賀県)
きゅうら ぎ
古賀邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会 (元独立行政法人水資源機構職員)
1
がばいばあちゃん
幸せになるための準備運動たい 。
最近、シネマ「島田洋七の佐賀のがばいばあち
気があれば、働け 。
泥棒する元
頭がいい人も悪い人も、
ゃん」を観た。洋七は佐賀の貧乏な祖母に預けら
金持ちも貧乏も、五十年たてばみんな五十歳にな
れ、少年時代8年間を過ごした。農村情緒を背景
る。心配するな 。
に、その祖母との暮らしの中ですくすくと成長し
金持ちになったら、旅行に行ったり、寿司食った
ていく姿が、ユーモアと涙でスクリーンに描きだ
り、着物を仕立てたり、忙しか 。後述するが、
される。ときは、まだ日本が貧しかった昭和33年
これらのがばいばあちゃんの語録は補償業務にか
から高度成長にかかる昭和41年の8年間である。
かわる人たちにも勇気を与えてくれる。
今のうちに貧乏しておけ
佐賀弁で「がばい」とは、 すごい」という意味
このシネマのロケは、佐賀県武雄市、多久市で
である。祖母のすごさは、生きる知恵ととんちの
主に行われた。素朴な田園風景が心を和ませてく
きいた、とにかく人生にくよくよしない明るさで
れる。多久市に隣接する東松浦郡厳木町(現・唐
ある。例えば、おかずは家の前の川に流れてきた
津市)大字広瀬地点に、昭和62年3月厳木ダムが
胡瓜やなすび、かぼちゃを集め、街に出れば、ジ
完成している。また多久市は厳木ダムの水没移転
シャクを腰にひもでつるして歩いて釘類などを集
者6世帯の新生活の地でもある。以下、厳木ダム
め、それをくず屋に売る。洋七がおなかが空いた
の建設については、建設省厳木ダム工事事務所
と言えば、それは気のせいだと言う。おなかが空
編・発行
いて風呂に入った洋七が、軽いためどうしても湯
ダムパンフレット」に拠った。
船の中で浮いてしまうと、重石を抱いて入れと言
2 厳木ダムの建設
厳木ダム工事誌
(昭和62年)、 厳木
う。洋七も負けてはいない、仏様にあがっている
厳木ダムは、松浦川系厳木川に松浦川総合開発
お菓子ラッカンを半分に切って食べ、切ったとこ
の一環として、特定ダム法に基づき洪水調節、利
ろが正面から見えないように、また仏様にあげ
水目的として、建設省(現・国土交通省)によっ
る。このようなことをしても、ばあちゃんは洋七
て建設された多目的ダムである。松浦川は、佐賀
を叱ることは決してなかった。
県北西部を流れ、背振・天山山系の神六山にその
いくつかがばいばあちゃんの人生語録を挙げて
源を発し、唐津市相知町で厳木川を合流し、下流
みたい。 この世の中、拾う物はあっても、捨て
部は平野部に出て、唐津市で徳須惠川を合流し、
る物はない 。
さらに北流し玄海
悲しい話は夜するな。どんなつ
らい話も、昼したら大したことない 。
苦労は
用地ジャーナル
に注ぐ。その流域は武雄市、
伊万里市、唐津市、東松浦郡、杵島郡にまたが
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随想
文献にみる補償の精神【60】
事実施計画を策定。さらに、42年7月、47年7月
などの洪水により、厳木ダム等上流ダム群による
洪水調節を含めた工事実施基本計画が50年に改正
された。厳木ダムは昭和48年度より実施計画調査
に着手。50年度より建設工事が始まり、62年3月
に完成した。なお、天山上流に九州電力㈱によっ
て設けられた天山ダム(上池)と厳木ダム(下
▲厳木ダム
出典:「厳木ダムパンフレット」より
り、流路延長47㎞、流域面積446㎢である。
厳木川はこの松浦川右支川で、背振山地と筑紫
山地に挟まれた椿山(標高759.8ⅿ)に源を発し、
池)は地下導水路延長約3,500ⅿで結ばれており、
揚水発電を行っている。
3 厳木ダムの目的・諸元
厳木ダムは、5つの目的をもって造られた。
① 洪水調節
相知町で松浦川に合流する流路延長23.7㎞、流域
厳木ダム地点で計画高水流量660㎥/s を貯水
面積94.0㎢、河床勾配1/150∼1/40の山地河川で
池に貯留し、ダム放流量を140㎥/s とする。こ
ある。流域内の平
れにより松浦川上流群と合わせて、下流基準地
年降雨量は2,000㎜で、冬期
に少なく、大半が夏期に集中し、河川流況は不安
点松浦橋での基本高水流量3,800㎥/s を400㎥/
定で、豊水と渇水の差が極めて大きい。
s 調節して、計画高水流量3,400㎥/s とし水害
松浦川の改修事業は、大正14年より県営工事と
の減災を図る。
して進められてきたが、昭和24年から中小河川改
② 厳木ダムの不特定容量80万㎥を利用し、ダム
修事業として着手。その後、昭和28年6月の大洪
下流の厳木川沿川、松浦川沿川の既得用水の安
水を契機に、36年より直轄事業として改修を図っ
定取水や水質の保全を図るため、河川に必要な
てきた。42年に一級河川の指定を受け、43年に工
流量を確保する。
出典:「厳木ダムパンフレット」より
用地ジャーナル
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随想
③
水道用水
建を優先、地元の意思を無視した見
唐津市、多久市の水道用水として、厳木ダム
切り発車などはさせない、地元公共
施設運営費の基金の支出)を約束
利水容量560万㎥のうち137.1万㎥を利用し、下
付替県道、工事用道路の調査の了解
流取水地点において、32,000㎥/日の取水を可
能とする。
④
を得る
52年9月 厳木ダム工事事務所長から町長に
唐津市の工業用水として、厳木ダム利水容量
560万㎥のうち42.9万㎥を利用し、下流取水地
「第二次要望書」の回答を行う
53年5月 「厳木ダム損失補償基準」を広瀬特
別委員会に提示
点において、10,000㎥/日の取水を可能とする。
⑤
文献にみる補償の精神
【60】
6月 水没者6世帯、多久市集団移転地の
発電
土地取得契約締結
厳木ダムの貯水池から天山ダムの貯水池へ水
7月 「厳木ダム損失補償基準」を中島特
を汲み上げ、両ダムの落差を利用して、利水容
量560万㎥のうち300万㎥を利用して最大60万
別委員会に提示
54年10月 「厳木ダム建設事業に伴う協定書」
の締結
の揚水発電を行う。
「厳木ダム建設に伴う損失補償基準
厳木ダムの諸元を見てみると、堤高117.0ⅿ、
堤 頂 長390.4ⅿ、堤 体 積108.8万 ㎥、総 貯 水 容 量
書」の締結
55年3月 多久市集団移転地に6世帯移転完了
1,360万㎥、有効貯水容量1,180万㎥、型式は重力
58年8月 ダム本体コンクリート打設完了
式コンクリートダムである。事業費は614億円を
62年3月 厳木ダム完成
要した。
4
厳木ダムの補償
事業用地は厳木町広瀬地区と中島地区であり、
主なる補償は土地取得面積83.5 、移転世帯6
戸、公共補償として厳木町に行政需要の増大に伴
う補償、自然施設の損壊に対する補償(プール)
を行った。補償交渉経過を追ってみたい。
▲損失補償基準調印式
昭和48年4月 厳木ダム調査事務所の発足、地形・
地質調査の了解を得る
5 補償の精神
6月 広瀬地区総会に、説明会を開催
7月 「厳木ダム実地調査協定」締結
広瀬地区対策委員会から「ダム建設
に伴う要望書(第一次)」の提出
49年12月 水没地の用地測量、物件調査の開始
建設省厳木ダム工事事務所編・発行
―厳木ダム用地誌
(昭和62年)を開くと、その
内容は厳木ダム周辺の歴史と風土、厳木ダム完成
までの歩み、厳木ダムの思い出、そしてダムを造
50年6月 広瀬地区対策委員会から「農村環境
整備事業および無形補償等を要求す
る要望書(第二次)」の提出
この間、 代替地取得資金借入金利
子補給制度」の 設、事業推進の協
力に対し有形的な地元公共施設など
の運営費の基金支払いの確約を行う
51年3月 広瀬臨時総会で、福山町長は地元に
対し3つの条件(再建計画は生活再
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人とダム
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文献にみる補償の精神【60】
られる側、ダムを造る側、それにその仲立ちの
県、町の関係者の座談会が掲載されている。この
中から補償の精神が垣間見えてくる。
福山義信(厳木町長)
「農業と炭鉱で永く栄えた厳木町も石炭の火が消
え、追い打ちをかけたように米の生産調整を余
儀なくされ、特産物であるミカン価格の暴落に
加えて木材輸出の低迷、商店街は淋しさが増し
暗雲が町を包み、極めて深刻なものが続いた。
町の将来を
え町民の不安を打開すべく町議会
と諮り協議を重ね衆知を集めて「緑とオレンジ
の住みたくなる町」を目指して近代感覚を備え
た町政の指針とも言うべき「厳木町長期総合開
▲ダム建設記念碑に名刻された用地提供者
出典:「人とダム」より
発計画」を策定したのが昭和47年であった。幸
はしなかった。そして私達は多くの先進地に見
いこれと前後して九州電力の「天山揚水発電所
られるように、ダム建設絶対反対はしなかっ
建設計画」が決定され、引き続き建設省の「厳
た。これを見て大へん珍しい「ケース」だと不
木ダム建設実施計画」の発表となり、厳木町に
思議に思う人もあったという。私達は毎年のよ
とっては暗夜に燈火を得た明るいたしかに大き
うにやって来る松浦川や厳木川の大水害の惨状
な朗報であった。」
を目のあたりに見、そして地区内で傷ましい洪
帆足建
(初代厳木ダム工事事務所長)
水による犠牲者のあったことも知っていたの
「始めに福山町長さん、その後に戸川委員長さ
で、かねてからこの水系にダムは必要不可欠と
ん、並びに対策委員の方にお目にかかって仕事
えていた。…反対はしなかった。但しそれに
を始めたわけでございます。当時を振り返って
は私たちに条件があった。
」
みますと、条件によっては賛成するけれども、
その条件とは、水没者の移転、生活再建は勿論
態度いかんによっては反対しますよというよう
であるが、それに加えて前述の町長の
えと同様
な皆さんのご意見がありまして、いやぁこれは
に、みかんの価格が低迷しているのに対して、こ
大変なところにきたんだな」
の際ダムを大きな契機として生産基盤整備を断行
「職員に3つの方針を私は出して対応いたしまし
して農業の改善安定を図り、生活環境整備を併せ
た。一つは、ダム問題というのは、地元にとっ
行って、新しい人造り、町造りをすることをダム
ても大変な問題である。従って地元の方の気持
建設に対応する基本方針としたことであった。
ち、身になって
相島勤(厳木町開発課長)
えてほしいということ、それ
から業界に対しては、業者にたかるようなこと
「実際は、今言うような大きな反対運動には、盛
は決してしてはいけない。対等に付き合ってほ
り上がらなかったのは地元、広瀬、厳木町それ
しい。三番目には先輩諸氏に対しては、自分た
から建設省がよくまとまって行動しましたか
ちの先輩であるので大切にしてほしい。」
ら、反対運動には隙を与えなかったというのは
戸川真澄(厳木ダム建設特別対策委員長)
一つあると思います。やはり問題はダムという
「突然昭和48年になって実地調査を始めると発表
ものについての認識というものを十分させてい
された。やっぱり来たかという感じで特別驚き
かんと、相手は素人なんですからね、何かダム
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随想
文献にみる補償の精神
【60】
というのは恐ろしいもんだとしか思っていませ
れはすぐ決まったわけです。したがって生活再
ん。
」
建というよりも集団移転先の問題が一番重要で
岩村守夫(水没者代表)
はなかったかと、こういうふうに記憶していま
「当初はやはり私たちも諸手を挙げて賛成という
す。」
ことではなかったと思います。そういうことか
福山義信(厳木町長)
ら、調査事務所の開所式には、私たち水没者は
「実は西宇土の集団移転については厳木町内にと
出席しなかったという経緯もあるわけです。し
どまってもらいたいということでね。厳木も適
かし初代帆足所長の本当にその誠意に対して、
当な土地がないわけですよ。…しかし今振り返
この人になら私たち水没者の気持ちも十分に理
って
解していただけるものというふうに確信したわ
ざいましたけれども、今の移られました町外で
けです。と言いますのは、水没者はいろんなダ
はございますけれども、多久市の高木川内です
ムの研修をさせていただいたわけですが、その
か、あすこは立派な軒並ができまして、それか
途中に所長の実家(大分県九重町)に立ち寄ら
ら今建っております家の窓を開けますと、天山
せていただいたことがございます。そのとき所
と作礼山が見えます、そういうふうな絶好な永
長のお母さんの、所長に対する態度に私たちも
住の地を求められたということについては、非
感激をしました。またお母さんの方から「本当
常に私も感心をしておるわけです。
」
に御迷惑をかけます」と挨拶されました。そう
福井大和(厳木ダム工事事務所用地課長)
いう権威のある立派な方でした。やはりそうい
「第一にやるのは地元の中に入りこむのが一番大
う心と心というものが通じ合ってお互いに信頼
切ではなかろうか、それが一番の近道だろうと
し合ってこそ、このような大きな事業というも
いうことで、仕事はもちろんですけども、その
のができて行くんではなかろうかというふうに
前にコミュニケーションということを重点的に
思います。…また私たちは建設省の方々、ある
えたわけでございます。例えば水没者の方た
えてみますと、いろいろないきさつはご
いは厳木町の指導者の方、いわゆる人に大変恵
まれていたんだなというふうに今でも思ってお
ります。」
「私たちの農地がダムだけでなく、上流の方は九
州電力にも関係したもんですから、ほとんど農
地を失ってしまったということから、西宇土で
▲移転前の西宇土(厳木町)
出典:「人とダム」より
の専業農家としての経営はもう困難だというこ
とがわかったわけです。やはりどこかに移転し
なければいけないということから、移転の方法
をどうするのかというのが、一番みんな関心が
あったわけです。とにかくダム建設によって今
までの生活が維持できれば、それより以上のこ
とはもう望まないということ等から、みんなで
今までの生活が維持できれば、仲よくやってき
たんだから、これを継続しようではないかとい
▲移転先(多久市)
出典:「人とダム」より
うこと等から、集団移転という話が出てもうこ
用地ジャーナル
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文献にみる補償の精神【60】
出典:「厳木ダムパンフレット」より
ダムを造る側の建設省、九州電力の真摯な対応は、
ツを一緒にやってみたり、それから若い人を集
水没者の人たちの心をつなげ、生活再建を図り、
めて測量の講習会みたいなことをやりました
さらに佐賀県の協力を得て、地元要望について着
り、地元でいろいろな祭礼がありますと一緒に
実に実行した。例えば、広瀬集会場、スポーツ広
行って、天山神社なんかの祭礼にも参加させて
場、小瀬水道施設、広瀬プール新設、天川集会場、
いただいた。
」
ライスセンター、農道西宇土線新設、厳木中学校
6
ちとの、ソフトボールとか、その他各種スポー
おわりに
体育館、岩屋運動広場整備などが建設された。ま
昭和40年代、厳木町はミカン価格の暴落と炭鉱
た広瀬地区、中島地区の圃場整備事業、さらに厳
の廃業によって、火が消えようとしていた。その
木ダム周辺環境整備もなされた。これらはダム関
時厳木ダムと天山ダムの建設が持ち上がり、町当
係者の尽力によって実を結んだことである。
局はこの2つのダム建設に町の命運を
けた。そ
ここにがばいばあちゃんの人生語録を想い出さ
のダム建設における地元のスタンスは、 条件に
ざるを得ない。その言葉は
よっては賛成するけど、態度いかんによっては反
めの準備運動たい 。補償担当者の交渉における
対します」であった。条件とは水没者の生活再建、
日々の苦労、それは補償解決に向かうための準備
町おこし即ち生活基盤と農業基盤の確立であった。
運動であると言える。
用地ジャーナル
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苦労は幸せになるた