遠藤謹助新聞 造幣局育ての親・遠藤謹助 ○遠藤謹助・・・長州ファイブの一人 幕末(1836年)3月31日、萩藩士遠藤彦右衛門の次男として生まれる。 出生地は不明だが、美祢綾木で出生した説もある。 長州藩の殿様、毛利敬親に欧米へ打ち勝つには、イギリスに渡り、最新の海 軍術が絶対に必要と言われ納得。ロンドンへの密航留学を28歳で決めた。 同時に長州藩は、下関を通る外国船を追い払うため砲撃(1863年5月10 日)。その2日後、井上馨、井上勝、伊藤博文、山尾庸三とともに、死罪覚悟で ロンドンへ密航留学(長州ファイブ)。 ロンドンへ到着後、日本とイギリスの技術が大きく違うことに気づき、外国 を打ち払うことはかなわないと悟り、外国を追い払う攘夷を捨て開国する考え へ。ロンドンで最新の知識、技術を積極的に学び、日本を強い国にしようと決 意、実行。 ロンドン大学で、英語を熱心に学び、英会話を身につける。同時に、イング ランド銀行で高度な技術を活用した紙幣発行を見て、日本での必要性を実感し、 帰 国。 その高い英会話力と最新の造幣の知識で明治3年、大阪造幣寮(後の造幣局) に入り、活躍。貨幣鋳造の高度な技術を持つ高月給の指導者・キンドルの日本 人へのきびしい指導に激しく意見が対立。政府へ「造幣寮大改革」を建白して 造幣寮を退職。その後、キンドルは明治政府から解雇され遠藤謹助は明治14 年、再び造幣局長として造幣事業に携わる。 明治22年、日本人の技術者を育て、日本人の力だけで白銅貨鋳造に成功。 5銭白銅貨~5円金貨までの5種類の貨幣が造られるようになった。 明治26年に大阪造幣局局長を退職。 明治26年9月死去(享年58歳) 萩市立萩東中学校 遠藤謹助取材委員会 遠藤謹助だより 遠藤謹助って? 長州ファイブの一人。桜の通り抜けで有名です。 桜並木 珍しい桜 大手毬 通り抜け由来碑 遠藤謹助は大阪造幣局の中の大川沿いにある桜並木がとても 美しいから大阪市民に見てほしいという思いで自由に入れるようにし ました。明治16年4月のことです。全国でも人気が高い花見スポット として毎年、多くの人たちが桜を楽しみます。 全国でも、めずらしい桜「大手毬」が大人気です! 桜並木の横に遠藤謹助の活躍を書いた由来碑が建っています。 一度、ご覧になられてはどうでしょうか? 大阪造幣局のホームペー ジにより桜の通り抜けの開催日時、場所等を確認することができます。 (大阪造幣局より) 萩市立萩東中学校 遠藤謹助取材委員会
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