≪4 月 22 日祈祷会から≫ イザヤ書 44 章 24 節~45 章 7 節 「光を造り

≪4 月 22 日祈祷会から≫
イザヤ書 44 章 24 節~45 章 7 節
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらの
ことをするものである」(45:7)。この主の御言葉は、聞く者の内に戸惑いと議論を巻き起
こすものです。光をお造りになる方が闇を創造されるのでしょうか。平和をもたらす方が
災いを創造されるのでしょうか。もしかすると、イスラエルの神、主御自身の中に光の部
分と闇の部分があるのでしょうか…。
そうではありません。この世界が「光と闇」
「善と悪」の果てしない戦いの場であるとい
う理解が昔からあります。つまり、ひとりの人間においてもこの世においても、現実は不
統一で分断されたままの状態であるというのです。けれども、それは世界が唯一の神によ
って創造され、極めてよいものであったという聖書の世界観と異なるものです。確かに、
聖書が見ている世界にも闇と悪が存在します。主なる神が創造において打ち立てた秩序を
脅かす諸力の存在を聖書は知っているのです(4:27)。しかし、
「わたしは主、万物の造り主」
(44:24)と宣言なさる方が歴史を導き、異教徒の征服者(キュロス)さえも御自身の意志に従
わせられるという信仰をイスラエルは培ってきたのです。
彼らは、とても「光」や「平和」からはほど遠い「闇」と「災い」のただ中を生きてき
ました。そして、都を破壊され、国を失い、異教の地に囚われるという極めて困難な経験
に遭う中でもその信仰が失われることはありませんでした。おそらくそこには、自分たち
が経験することをつねに主なる神の意図とかかわらせることで吟味し思いめぐらしてきた
信仰の伝統があったからではないかと思います。それゆえ、いかなる闇や災いのただ中に
あっても主を見上げることができたのです。未来が閉じられてしまったように見えるその
ところで主に立ち帰り主を信頼することができたのです。そして、主は光や平和だけでな
く、闇と災いをも創造されると大胆に証言することができたのです。すなわち、世界は光
と闇、善と悪の戦いの場などではなく、主が創造し、御自身の栄光を現される場として受
け取ってきたのです。
闇や災いのただ中で希望を持ち続けることよりも、絶望してしまうことの方がたやすい
ことなのかもしれません。苦しみの中でさまざまなことを問い思いめぐらすことよりも、
自分を苦しめる「悪」を探し出しては攻撃し排除する方が容易なのかもしれません。私た
ちを取り巻く今の世界も人々もそのような姿をしているのではないでしょうか。まさにそ
れは、「光と闇」が戦いを繰り広げている場です。自分の考える「善と悪」がはてしなく
ぶつかり合っている場です。そのような中で、主は「闇」と「災い」をも創造されると証
言するイスラエルの信仰は、大切なことを私たちに教えてくれています。
(藤井和弘)