⑧宮廷歌人とは

E-8
宮廷歌人とは?
山部赤人像/ 蜷川式胤所蔵品
山部赤人(狩野探幽『三十六歌仙額』)
*歌聖とは誰なの?
古代において特に和歌に優れた人物のことを歌聖(かせい)と呼んだが単に敬意や尊
称を表すのみならず歌道において神として崇められる歌人を指し、紀貫之による「古今
和歌集」の仮名序の記述から柿本人麻呂と山部赤人を指す。歌道において神とされるの
は人麻呂や赤人のほかに住吉明神や衣通姫(そとおりひめ)など幾つかあり、それらの
- 31 -
三つを選んで和歌三神と称することがあった。
*歌聖は宮廷歌人なの?
万葉時代の宮廷歌人は人麻呂や赤人だけでなく専ら歌つくりを任務として宮廷に出
仕し、宮廷の公式行事である行幸・遊猟等に供奉して、これを主宰する天皇や皇子への
賛歌を詠んだり、皇族の葬礼に挽歌を奉じたりする歌人を指しているが律令制度におい
てはこの官職名は存在しない。
宮廷歌人の先駆としては額田姫王がおり、天皇の後宮に居ながら従駕歌や大王に代わ
って詠んだりしており、第二期として柿本人麻呂、高市黒人、山上憶良、第三期には笠
金村、山部赤人、第四期に田辺福麻呂等が主要な宮廷歌人と云え、天皇や皇族出身の執
政の時代に登場の機会が在ったと云える。
宮廷歌人は主として六位以下の下級貴族で朝廷に仕える官僚としての役職にあった
が公人としてではなく私人としても個人の感情や思考も表現可能だったと考えられて
いる。
宮廷歌人のシンボルとされる柿本人麻呂も儀礼歌のみでなく、後宮女官らを享受者と
してのサロン文芸の歌を詠み、饗宴歌、四季歌等幅広いジャンルに活躍している。
*宮廷歌人の出源は?
飛鳥期には言霊(ことだま)信仰が流布して万葉集にも「言霊」という言葉が多く使
用されており、額田姫王も御言持ち歌人(みこともちかじん)と称され他人に代わって
歌を作り朗誦したとされている。従ってこの時代に和歌が生活に密着していったといえ
ます。
この言霊信仰を全国統一国家形成に活用したのが天武天皇で天武4年(675)に地方
から歌舞に優れた芸能者を奉ることを命じ、天武14年(685)には歌舞の子孫への伝
承を諸国に命じており、これが柿本人麻呂に代表される宮廷歌人を生み出す要因となり
宮廷賛歌を詠ますことで飛鳥万葉の華を開かせ「万葉集」の基本造りに貢献したといえ
ます。
それ以前は宮廷歌謡と民間の歌が混在していたが雄略朝あたりから饗宴の儀礼化が
進み、宮廷歌謡として認知されるようになったのは王権の権威付けに活用しようという
意図があり、日本の宮廷文化の完成度を押し上げたとして万葉集の巻頭歌に雄略大王の
歌が採用されているのは宮廷歌人の源流がここにあると考えたからでしょう。
*従駕歌(じゅうがうた)とは何なの?
主として天皇の行幸に供奉して詠むのが従駕歌で万葉歌は言霊(ことだま)との思想
から訪問地の土地神に奉げる意味もあり、旅の安全を祈願するためでもあった。
従駕歌は必ずしも宮廷歌人が詠むものとは限らず、聖武天皇が初めて吉野離宮に行幸
した時に同行した上級貴族である中納言・大伴旅人が持統天皇の吉野行幸に同行した記
憶にからめて詠んでいる。(巻三・316)
- 32 -
また宮廷歌人に儀礼歌として多く詠まれた挽歌も皇族である高市皇子が十市皇女の
ための挽歌を詠んでいる。(巻二・156~158)しかしこれは挽歌で無く相聞歌で
はないかとも云われる根拠にもなっている。E-5参照
従駕歌は文武朝以前には人麻呂を筆頭に多数詠われてきたが元明朝~元正朝に空白
の期間があり、養老7年から急増しているという現象があり謎とされていたが、その後
の解析により先述した如く天皇や皇族出身者による執政期には多く、空白の期間は藤原
不比等による執政の時代だったためで、不比等が没して長屋王の執政時代に急増したの
は肯ける現象である。
*柿本人麻呂の生死のなぞ
万葉集の中で最も有名で歌聖と讃えられている人麻呂の生死が謎に包まれている。
その要因は同時代史料に全く姿を現さないことによるもので、後世資料や関連資料から
憶測するしかないのが実情である。
出自は春日氏の庶流である小野妹子や粟田真人を輩出した小野臣や粟田臣と同族で、
柿本大庭を父とし猨(佐留)を兄とすると後世資料にあるが確実な事は不明である。
従って万葉集に記載の人麻呂詠歌が長歌19、短歌75首あり、その内容と註記が唯
一の史料で天武期に出仕していたと考えられ、持統期に花ひらいた事になる。
天武天皇の皇子である草壁、弓削、舎人、新田部や即位前の文武天皇に歌を奉ってい
るが宮廷歌人という官職が無かったことも不詳の要因でしょう。
確実に年代が判明している人麻呂の歌は持統天皇即位から崩御までで、人麻呂の作歌
活動の原動力は律令国家制度完成期のエネルギーを生み出してきた力によるものとも
考えられる。
現在柿本人麻呂を主神として祀る神社は全国に存在し、近くでは明石市、葛城市、天
理市、海南市等に柿本神社としてある。特に最終の赴任地と考えられる石見国(益田市)
は人麻呂終焉の地として有力視されているが、鴨島伝説として中世の地震で島自体が水
没したとされ益田市に2か所の柿本神社がある。
天武朝~持統朝の宮廷に仕えた人麻呂の官位についても諸説があり、古今集・真名序
には五位とあり、仮名序には正三位とあるが江戸期の研究では六位以下の下級官僚とさ
れているのは万葉集に「死」と書かれている由縁で、三位以上なら「薨」、四位と五位
では「卒」と云う字を使用するのが習いである。従って下級官僚として各地に派遣され
たことが万葉集から読み取れる。
人麻呂の死は平城遷都後の確定的な作品が無いことから平城遷都以前とすることが
通説になっており、続日本紀に元明期の和銅元年(708)に柿本猨の死亡記事があり
時期的にマッチすることから人麻呂と同一視する説もある。
*最後の宮廷歌人とされる田辺福麻呂とは誰?
万葉集研究では極端に文献が少なく最近東大文学部・塩沢氏の研究がある。
姓(かばね)は史(ふひと)で古代より文筆で仕えていた百済系渡来氏族、名の田辺
- 33 -
は出身地の柏原市田辺に由来する。
聖武天皇が740年恭仁京(くにきょう)遷都した時期から歌人として活躍(巻六・
1047~1058)、その後難波遷都で「難波宮にして作る歌」(巻六・1062~1
064)があり、政情に応じて和歌を詠んでおり、橘諸兄に仕えていた可能性があり諸
兄の勢力退潮と共に宮廷歌が無くなっているが、748年橘諸兄の使者として赴任中の
越中守だった大伴家持の元を訪れ和歌を交換している。
万葉集により「田辺福麻呂之歌集」と呼ばれる歌集が在ったとされており、長短歌合
わせて計44首を残している。
<註>
衣通姫:本朝三美人の一人とされ、衣を通してその美しさが輝くことからその名があり
記紀に允恭大王時代の異なった説話を記しており、紀伊の玉津嶋姫と同一視さ
れ和歌三神の一柱とされている
雄略朝:五世紀の倭の五王である賛・珍・斎・興・武の「武」に当てはめられる雄略
大王の時代
小野妹子:聖徳太子による遣隋使の大使として活躍し、久々に中国統一を果たした隋
に倭国を認知させる目的で派遣された
粟田真人:大宝期に遣唐使の大使として出来たばかりの「大宝律令」を持参して「唐」
に新国号としての「日本」を認知させるべく活躍した
- 34 -