エピソードで綴るパリとフランスの歴史 質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕 1.

エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第4回:地下のパリの歴史 Ⅰ — パリの名産は石材、下水道・地下墓地 —(5 月 21 日)
質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕
1.
職業としての軍隊(軍事組織)はいつごろ、どの様な形で作られ発展していっ
たのか。また、その経費の負担は?
問われている内容は軍制史の分野に属し、軍学校において1年間講義で扱われるほ
どの広い範囲をもつ。そこで、ここではヨーロッパを中心に概略のみを述べるにとど
めたい。まず「職業としての軍隊」だが、兵士の雇用主が国家である場合と私人であ
る場合に分けて考える必要がある。前者を国軍、後者を傭兵と呼ぶ。
「職業としての軍
隊」の定義は「何らかの報酬を条件にして契約で雇われた軍人集団で、戦闘を本職と
する軍人」としてよいだろう。この規定から外してよいのは奴隷制軍隊である。彼ら
は軍事を専門としていても、人格を欠いているため本人の意思にもとづく契約がない。
よって、奴隷を職業軍人と呼ぶにはむりがある。
傭兵の歴史はきわめて古く、被征服民や外人から成る傭兵の存在がエジプトや古代
オリエント諸国家ですでに確認できる。古代ギリシャで武力を頼みとする僭主たちが
多数の傭兵をかかえていたことが知られているが、民主制の進展につれて市民皆兵の
原理が浸透し、重装歩兵市民軍が主力となった。だが、ポリスの変質(自由民の没落)
に伴い市民軍の弱体化が進むとともに、しだいに傭兵の重要性が高まる。アケメネス
朝ペルシャとの戦争でギリシャ軍は苦戦を強いられ、傭兵による軍の強化を要求する
デモステネスの演説やクセノフォンの作品があらわれた。
古代ローマもギリシャの市民皆兵制に倣ったが、共和政の末期ごろにすでに市民皆
兵の原理は崩壊し、無産市民の傭兵・私兵化が進み内乱状態が一段と進む。ローマの
帝政当初から志願兵で構成された常備軍が創設されたが、帝政後期になると、国境防
衛のために帝国内居住のゲルマン人が騎兵として雇われるように変わった。ゲルマン
人は勇猛果敢な行動により幾多の戦功を挙げ、やがてローマ帝国に不可欠の存在にな
っていく。ゲルマン人のなかには帝国の枢要にまで食い込む者も現われ、やがては西
ローマ帝国の滅亡(傭兵隊長オドアケル)につながる。
カロリング朝の開朝以前のゲルマン諸国家では聖職者を除く全自由人の軍役奉仕が
たてまえとなっていたが、封建制の進展に伴い、封土を給された騎士が軍の中核にな
っていく。したがって、14 世紀までは傭兵の存在はさほど目立たなかったものの、英
仏百年戦争(1337~1453)の頃になると、騎兵戦術の衰退[注:弓矢と投槍の威力]を受
け傭兵[注:装備は自弁]が歩兵として活躍するようになる。17 世紀前半のドイツ三十年
戦争までの戦闘は専ら傭兵戦争となる。君主たちは競って傭兵を集め、自軍の強化に
つとめた。傭兵の供給地はスイス、イタリア、ドイツなど西欧の後進地域であった。
傭兵制全盛期においては傭兵隊長のなかから貴族や君主に成り上がる者も現われる。
ルネサンス期のイタリアのミラノのスフォルツァ家の出自は傭兵隊長である。また、
ベーメンのヴァレンシュタインのようにハプスブルク朝の神聖ローマ皇帝すらも脅か
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すにいたる傭兵隊長も出現する。
傭兵隊長は戦闘の指揮だけでなく、傭兵の給養にも配慮しなければならず、組織的
な掠奪を頻繁におこなった。1527 年のローマ劫掠や 1576 年のアントウェルペン劫掠
にはそうした面がある。戦闘が(一時的に)なくなり平和が訪れると傭兵は解雇され、
彼らが野盗と化し、町や村を襲う厄介な存在となった。こういうわけで傭兵はそれを
利用する者にとっても両刃の剣となった[注]。
[注]童話「赤ずきんちゃん」に出てくるオオカミは森に棲む盗賊を指している。子どもに、人里離れ
た森に入ってはいけないことを諭すため、恐ろしい盗賊に擬えられたのがオオカミなのである。
こうした状態のもとで絶対王政が力をもちはじめると、やがて国家が軍隊を給養す
る国軍体制が現れる。その皮切りとなったのがスウェーデンであり、その軍隊は無類
の強さを誇った。これがモデルとなり、ヨーロッパ各国は挙って国王直属の常備軍[注:
歩・騎・砲3兵種と軍事学校]の創設に乗り出す。ルイ十四世治下のフランス、フリードリ
ヒ二世治下のプロイセンにおいてその典型が見出される。いずれも無敵の国軍として
怖れられた。財政的バックが国家であり、兵士の給養はもちろん、訓練、武器提供の
面でも私兵とは較べものにならなかった。こうして国軍が強まるのに反比例するかの
ように、私兵への依存は薄れていく。やがて、フランス革命を経て国民国家形成の気
運が高まるとともにふたたび国民軍的要素が再びあらわれ、傭兵はさらに後景に退く。
その真骨頂がフランス革命軍であり、ナポレオン軍である。
ざっと見ただけでも軍制は傭兵と国民皆兵が入れ替わり的に変わっていることがわ
かる。それは武器の発達と密接に関連し、1991 年の湾岸戦争以降になると、国軍体制
こそ維持していても、基本的に志願兵から成る軍隊が主力を占めるようになる。兵器
が長足の進歩を遂げ、にわか仕立ての軍隊では用をなさなくなったのだ。
2.
近代以前に身分制(階級組織)があったのか。現代では平等がうたわれている
が、実態はどうか。
まず用語の整理から始めよう。最初にこれを明確にしておかないと、議論が混乱し
てしまう。だが、こうした整理をおこなってもなお面倒な問題は残る。つまり、
「身分」
「階級」
「近代」
「現代」
「平等」なる用語そのものが西洋で生まれた語彙(または説明
概念)であり、西洋が文明の最先端を走ることを前提にし、その西洋と較べ、東洋、
中南米ラテン世界、アフリカ、西アジア世界の文明発達の遅速を論じるという構造に
なっている。
「進んでいる」と言われれば、人はそれを誇りに思うかもしれないが、
「後
れている」と見なされた場合は当該文明世界から不満や異論が出るのは避けられない。
だいいち、文明は別々のルートを行くのがふつうであって、すべての文明が西洋をモ
デルに戴いているとはいいがたい。しかし、世界のどこにでも通用する学術用語は未
だ存在しないというのが本当のところだ。
・
「身分制 order」…法制史的概念…本人の意思および個別能力と無関係の格差
・
「階級制 class」…経済史的概念…自由競争の結果として生じる格差
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・
「近代 modern」…市民革命以後に「自由」と「平等」が実現された状態と、単に現
代に連なる直前という時期区分を指す2つの意味合いがある
・
「現代 contemporary」……今またはその直前の状態
西欧においては、平等がなく社会全体が身分制のもとにあった状態を「市民社会以
前」と考えて差しつかえない。よって、近代以前に身分制があり、近代以降にないの
はあたりまえのことになる。一方、市民革命によって完全に平等が実現されるのでは
なく、
「身分」は単に「階級」に置き換わっただけにすぎないとの見方もある。だから、
政治的な解放だけでは不完全で、社会的ないしは階級的な解放が必要だとする思潮も
あらわれる。社会主義はむろん、ジャン=ジャック・ルソーの農地均分主義もそうした
思潮のひとつである。
身分制や階級制は上辺だけをザッと眺めただけはわからない場合もある。たとえば、
差別問題として隠然と秘匿されている例がそれだ。貴族制が今のフランスに頑強に残
っている例は前に述べた。これは“人畜無害”として問題視するほどのものではない
が、部落差別などはそれがひっそり残っていることは無視してすませる問題ではない。
「近代」や「現代」を単なる時間的な量的尺度として捉える―日常会話でほとんど
すべてと言ってかまわないほど頻繁に使う―と、会話はたちまち混乱に陥る。
「現代
社会において」身分制や階級制があるのはしごく当たりまえである。というより、身
分制や階級制は未だどの社会でも完全除去されていないのが実情だ。したがって、身
分制や階級制を論じる時、具体的にどの社会においてどの程度に存在するかを検証す
るとともに、なぜそうなのかの必然性を論じなければならない。その際、国ごとに論
じても不十分である。同じ国でも地方によって風俗や習慣は異なることもあるのだ。
3.
ロンドンでは汚物(糞尿)は各住戸の窓から通りに棄てられ、業者が回収して
いたと読んだことがあるが、パリではどうか。
ロンドンとは限らない、ヨーロッパのすべての都市で公衆衛生はおよそなっていな
かった。夜間歩行の禁止令が出されたのは、なにも強盗が出没するからではない。こ
の質問にあるように、夜の帷が降りると、上階の窓がサッと開き、そこから糞便が投
げ棄てられるからだ。街路は危険極まりないのだ。不衛生の歴史はまことに古い。
古代ローマの首都ローマは最大時に百万を数え、その面積は 20km2の広さを有し
ていたが、神殿や市場、戦車競技場、劇場などが大半を占め、一般市民は街中の6階
建ての共同住宅にひしめきあって生活を営んでいた。その結果はびこるのは不潔であ
る。ローマの街路は汚物に塗れていた。それでも幸いしたのは、石畳がキチンとかみ
合った状態で敷かれていないせいで、降雨のたびに汚物が土中に浸みこんだのである。
イタリアの海上都市ヴェネチア。ここも「アドリア海の女王」とか「地中海の真珠」
とか謳われたが、実は悪臭に満ちた都市である。美観の頂点たるサン=マルコ広場です
ら婦人たちは高靴を履いて往来したが、それはドレスの裾を汚さないためだ。
フランス王サン=ルイ(九世、1226~70)は教会の礼拝堂に赴く道すがら、学生が部
屋から捨てた便器の汚物を頭から浴びている。それでもルイ王の偉いところはその学
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生を咎めなかったことである。
18 世紀末、イギリス外交官ジョン・バロウは、彼が訪れた北京のようすをロンドン
と比較し、
「ここには、イギリスの都市ではほとんど見かけることのない重要な利点が
ある、それは悪臭を放つ汚物や不快な物が通りに向かって放り出されないことである」
と述べている。
13 世紀以降、市当局はそういった不便に対処するために数々の措置をとってきた。
こういった措置がどれだけ効果を挙げたかを推し測るのは難しいが、禁令や罰則が頻
繁に繰り返されたのは、それらが遵守されなかったことを意味する。
中部イタリアの都市シエーナでは 13 世紀末以降、市当局は廃棄物と汚物を広場の隅
に積んでおくことを義務づけた。広場全体の清掃はジョバニーノ・ディ・ヴェンツー
ラ Giovannino di Ventura という青年に委託された。彼はありあまるほどのゴミの供
給を受けて、これを食べる雌ブタ1頭と子ブタ4頭をこの広場で飼育したという。
パリについては第7回講義「パリの都市改造」で扱うつもりである。ご多聞に洩れ
ずパリの不衛生そのものであり、それにより 1837、1847、1849 年のコレラ騒動時には
ロンドンの 3 倍もの死者を出している。このパリもナポレオン三世の都市刷新でかな
りキレイになり、これを見たロンドンのほうが逆にパリを見習おうとしたのである。
4.
パリの戦争時にギルド職人が失業するが、一部職人はロシアに流れ、ロマノフ
朝の宝石等に貢献することになったと考えてよいか。
寡聞にして知らないといわざるをえない。上記質問では2つの問題が提起されてい
ると思う。一つは、規則的不況のせいでパリのギルドの職人が仕事場を留守にすると
き、どう対処したか。もう一つは失業した職人がロシアからの招請に応じ、そこで伝
統的工芸を伝授したかどうか、である。
最初の疑問については、職人は貯蓄をはたいてじっと堪えるか、一時的に雑業に手
をだして景気回復を待つか、のどちらかであった。食に飢えれば無料食品配給所に出
向かう。廃業はほとんど考えられない。
後ろのほうの質問は答えやすい。仏露関係は 19 世紀の全体を通してよろしくない。
フランス革命からナポレオン戦争までの 25 年間、仏露は明白な敵対関係にあって商取
引さえ滞りがちであったし、技術伝播のための人的交流などはとうてい考えられない。
その後はクリミア戦争(1853~56 年)の後遺症が数十年間も続き、仏露は冷戦状態
にある。フランスはポーランド独立派の亡命者を匿っていたこともこれに寄与する。
普仏戦争時にロシアは一貫してプロイセン寄りの中立を守り、フランスの和平斡旋の
要請も頑なに拒絶した。その後もビスマルクの対フランス孤立政策のせいで仏露は依
然として好くない。仏露関係が解消するのはようやく 1890 年代前半である。そのわけ
は対トルコ政策でドイツとロシアの関係が悪化したところにある。つまり、
「敵の敵は
味方」とばかり、仏露は急激に歩み寄る。セーヌの橋にアレクサンドル三世橋という
鉄の橋があるが、これは仏露関係の好転を記念して建造されたものである。
話を戻してみよう。1815 年から二月共和政までは仏露関係はやや改善された期間だ
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が、基本的な取引対象はロシア産の毛皮、木材、蝋、蜂蜜、瀝青、干魚、馬匹とフラ
ンス産の農産物(小麦、麻・絹織物、ぶどう酒、火酒)である。フランスはまだ産業
革命を迎えておらず、魅力的な工業製品を産出しなかったのである。ただし、ロシア
の皇帝のためにフランスのシェフが招聘され、宮廷の台所でせっせと包丁を走らせた
可能性はありうる。筆者はその点について明るくないため、今後の課題とさせていた
だくよりほかはない。
なお、エルミタージュ美術館(宮殿)の宝石・絵画類だが、これは歴代皇帝が蒐集
したものが多く、わざわざフランスの工芸人を雇い入れて作らせたものではない。
5.
現在も埋葬は土葬がおこなわれているとすると、いずれいっぱいになると思う
が・・・?
フランスの葬儀や埋葬については彼の地で参列したことがなく、さほど詳しくない
ことを断っておきたい。救急車、死亡通知書、病院付属の保冷室、霊柩車、葬儀屋な
どがあるのは日本と大差ない。そこで、以下、違う点だけを列挙しておこう。
(1)フランスはもともとカトリックの国だが、今や信仰の自由のもとでいろいろな
宗徒をかかえているため、宗旨に沿った葬儀・埋葬の儀式を許されている。
(2)火葬を厭う考え方は強く残り、法律上で明確に火葬を合法化したのは 1963 年
である。今でも火葬をする世帯は 30%未満である。だが、都市住民が火葬にむかう動
きは強く漸増傾向にある。パリには市営火葬場が十数か所ある。
(3)葬儀が簡素であるのは昔からで、葬儀に参列するのは親族や知人が主であって、
会社葬などはおよそ考えられない。ただし、国葬は別だが。
(4)火葬場は墓地の近くにあるのが特徴である。火葬場と墓地はすべて自治体管理
下にある。
(5)遺骨を自宅に持ち帰り、骨壺に入れて部屋に置くのはあたりまえである。また、
散骨は基本的に自由であり、公共の場所(公園を含む)や街路以外どこに撒いてもか
まわない。海や山への散骨は好まれている。ただし、船上や航空機からの散骨には個
人の遺言状が必要である。
(6)葬式に喪服を着用していく必要はない。むしろ、普段着で参列するのがあたり
まえだ。フランス人が日本の葬式に来てまず驚くのは、みんなが黒服を着ている光景
である。弔電や香典などはないが、献花はある。しかし、花は地味なものよりも華麗
な花が(特に故人が好んだ花が)好まれる。ただし、プラスチック製の花輪のような
飾りものはない。
(7)「墓地の満杯化」の問題だが、それはありうるだろう。しかし、満杯になった
時は墓地整理がおこなわれるであろう。フランス人は合理的国民であり、不便なこと
を長く温存するようなことはない。日本にあってないものは、墓地が集団的なもので
あることだ。日本の農村に見られるような家裏の墓地というものはない。
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6.
24 年くらい前、淡路島の議員がパリ市内のと畜場の汚物処理状態を見学に行っ
たそうで、帰りの飛行機で乗りあわせました。現在は街中にと畜場はないので
すか。
と畜場問題はのっぴきならない問題である。血を不浄視する日本人がフランスの食
肉店を見てまず驚くのは、家畜が皮を剥がれた生身のまま上からぶら下がっていて、
白い作業服を血で汚した商人が客の見ている前でその家畜から肉を切り分けている光
景であろう。
パリの街中にと畜場はない。ずっと昔は都心部の中央市場に併設されていたが、や
がてと畜場のみがパリの北東隅のヴィレット Villette に移設された(1960 年まで)。
それも再び移設されてパリの南郊外ジャンティー Gentilly に移動し、ここで都心部
に残っていた中央市場と再会し、広大な一大中央卸市場となっている。隣にオルリー
空港があり、貨物輸送に供されている。
なお、基本的に区ごとに卸市場がある。各食肉店はここで早朝に仕入れてきて自分
の店先に並べる(というより、ぶら下げる)
。朝市(マルシェ)における食肉商はジャ
ンティーの中央卸市場で購入してきたものをテント張りの仮店舗に並べるのである。
7.
キリスト教における死者の扱いに決まりはあるのか。
キリスト教徒でない筆者にこの質問は荷が重い。これ(なぜパリに地下街はないか?)
は次回の講義で扱う予定であり、ここでは要点のみを記しておく。
キリスト教で「死」は現世がもたらした刑罰とみなす。死者はやがては来世(天国、
地獄、煉獄のいずれか)へ向かうのだが、審判を受ける前はその中間段階にあたる。
イエスは十字架を背負うことで人類の罪を贖う。その結果、復活したことを信じる者
は、すべての死者は復活する最後の審判の場面において永遠の生命が与えられる。天
国では祝福された魂が無上の喜びを永遠に享受するが、地獄に堕ちた魂は神の領域か
ら閉め出され苦しみを味わうとされる。
その天国と地獄の中間が「煉獄」である。罪の償いをすれば天国への道が開ける。
「煉獄」にいる人間は、罪悪感のため火に焼かれるような苦しみを味わう。もはや行
為によって償いをすることができないので、苦悩によって償うのである。生者が死者
に代わって功徳を積む場合、そのとりなしによって罰や苦痛が軽減されるという。祈
り、喜捨、ミサはそうした役割をもつ。このいっさいの儀式が葬儀である。カトリッ
クでは、臨終の時を大切にする。この時に罪を告白し懺悔することによって罪を拭い
取り、聖別された油を塗ることで霊的な健全さを回復する。
キリスト教では遺体処理は肉の復活との関わりから土葬が普通である。墓地では信
仰的にさらに希望に満ちた歌が用いられる。こうして徐々に生者も死者も悲嘆の状況
から未来の救い、再会への希望へと導かれていく。追悼は死後3、7、30 日。そして
年ごとの命日におこない、この時に追悼のミサがおこなわれるのである。
(c)Michiaki Matsui 2015
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