ブラームス チェロソナタ一番 Op. 38、二番 Op. 99、バイオリンソナタ一番

ブラームス
曲目解説
チェロソナタ一番 Op. 38、二番 Op. 99、バイオリンソナタ一番 Op. 78
村上曜
ブラームスは 1833 年の 5 月 7 日、ハンブルクの貧民街 Gängeviertel 地区にコントラバ
ス奏者の息子として生まれた。父 Jakob はコントラバスだけでなくバイオリン、ビオラ、
チェロ、フルート、ホルンを弾きこなした。母は父よりも 17 歳年上で、お針子であった。
父の後を継ぐべくブラームスは父からバイオリン、チェロと楽理の手ほどきを受けたが、
ブラームス自身の興味はピアノに向き、ついには埠頭エリアの飲み屋やレストランでピア
ノを演奏することで家計を助けるまでになった。一家は非常に貧乏であったが、ピアノは 8
歳から Otto Cossel に、10 歳からは Cossel の師である Eduard Marxsen に師事していた。
Marxsen はウィーンでピアノ教育を受け、シューマンの友人でもある有能な教師であった
が、自分にはブラームスに何もピアノを教えることは出来ないといい、ブラームスの創造
力と才能に驚き、作曲法や音楽の形式などの教育も行った。また、貧しくともブラームス
がこうした音楽教育を受けられたのは、幼い頃から音楽に強い情熱を持ちながらも経済的
に恵まれなかった経験を持つ父が、なんとか息子には教育を受けさせようと全力を尽くし
たお陰である。ブラームスは十代の頃から作曲を始めていたものの、内省的な性格による
自己批判から納得のいかない作品を廃棄したことから、現在、ブラームスが 19 歳までに書
いた曲は全く残っていない。
少年時代の影響としてもう一つ大きいのは、14 歳のときに父の友人 Adolph Giesemann
に連れられて郊外に滞在したことである。平原や新鮮な空気にブラームスはすっかり魅了
され、ブラームスの郊外好きを形成する一因ともなった。また、この地で Giesemann はブ
ラームスに合唱団の指揮をさせてみたが(ブラームスは恥ずかしがったが、Giesemann は
ブラームスの才能を見抜いて説得した)
、結局、合唱団員にも絶賛され、滞在中はずっと指
揮をしてくれるように懇願されたのである。この経験はブラームスの終生に渡る合唱曲贔
屓とも関係があると思われる。
1853 年、20 歳のブラームスはハンガリーのバイオリニスト Eduard Reményi と演奏旅
行に出発した。この旅行中、レメーニィからジプシー音楽を教わったことは大きな収穫で
あった。また、ワイマールではリストに訪ねたが、この訪問は特に何の収穫も残さなかっ
たものの、バイオリニストの Johann Joachim と出会って友情を結び、またヨアヒムの紹
介によりドゥッセルドルフでシューマンに会えたことは大収穫であった。シューマンはブ
ラームスを「ベートーベンの後継者」と称賛し、ブラームスを称賛する評論を書くなど大
きなサポートをしてくれたが、翌 1854 年にシューマンが自殺未遂をし、徐々に正気を失う
ようになると、ブラームスは夫人のクララ・シューマンや子供達を助けるためにドゥッセ
ルドルフに戻る。クララは同時代の最も優れたピアニストであり、ブラームスとの親交は
クララが 1896 年に亡くなるまで続いた。(残された手紙などからクララとブラームスの恋
愛関係を疑う向きもあるが、はっきりした証拠は何も残っていない。クララはブラームス
よりも 14 歳も年上であったが、手紙の中では Du で呼び合うなど親しさが感じられる。)
Detmold の宮廷で短期間指揮者やピアノ教師を務めたあと、1862 年からブラームスはウ
ィーンをたびたび訪れるようになる。ウィーンで行った一連のコンサートによって、有名
な音楽評論家 Eduard Hanslick からブラームスは「音楽劇のワーグナーや交響詩のリスト
に対抗しうる抽象音楽の作曲家」と評され、ウィーン音楽院で講座を持つようになるなど、
早くも地位と名声を確立した。1869 年からウィーンに永住し、とりわけ 19 年の歳月をか
けて書き上げた交響曲一番が 1876 年に初演され、指揮者 Hans von Bülow から「ベートー
ベンの第十交響曲だ」と絶賛された後は、1897 年に死去するまでドイツロマン派音楽の重
鎮としてウィーンに君臨し続けた。
チェロソナタ一番 Op. 38
チェロソナタ一番をブラームスが書いたのはブラームスが初めてウィーンを訪問した
1862 年である。この年に完成されたのは 1,2 楽章だけである。また緩徐楽章たる第三楽
章も書かれたが、これはブラームス自身によって後に破棄された。現在の第三楽章(元の
第四楽章)までが完成したのは 1865 年である。弦楽六重奏第二番 Op. 36 を完成させ、30
代前半のブラームスにとっては脂の乗った時期であったはずだが、1865 年はブラームスに
とって最愛の母を失った苦難の年であり、『ドイツ・レクイエム』Op. 45 の作曲に専念し
始めた時期である(完成は 1868 年)
。このような苦難や精神状態が影響したのだろうか、
チェロソナタ 1 番は全体を通じてチェロ特有の陰鬱な音色を特に活かすようになっており、
チェロの音域も低い。
(ドイツ・レクイエムとチェロソナタの共通点を指摘する者もいる。
)
ブラームスは自己批判と自己嫌悪により、若い頃の作品や手紙類を入念に破棄したこと
で有名であるが(ブラームスの作品数は現在残っているものの二倍近くあったはずだとす
る推定もある)
、若い頃の作品で生き残っているものの多くは非常に陰鬱なものが多い。チ
ェロソナタ 1 番はその典型的な例だと言うことができるだろう。また、ブラームスは 7 つ
の器楽ソナタ(チェロ 2、バイオリン 3、クラリネット 1)を残しているが、この Op. 38
はその最初のものであり、他のソナタにつながる系譜の源流として比較してみると面白い。
抒情的、詩的で、形式的には非常に保守的であるというブラームスのスタイルが、Op. 38
によって既に確立されていることを確認できるであろう。また、本作は後にウィーン音楽
院の声楽教授となった歌手 Joseph Gänsbacher のために書かれたが、ゲンスバッハーはブ
ラームスがウィーンの声楽アカデミーで指揮者・教師の職が得られるように尽力してくれ
た恩人であった。また、本職は声楽家であったがゲンスバッハーは優れたアマチュアチェ
リストであり、恐らく本作の初演はブラームス自身のピアノとゲンスバッハーのチェロに
よって 1860 年代の前半にウィーンにおいて非公式演奏会の形で行われたと考えられている。
本作が出版されたのは 1866 年(Simrock)だが、公開演奏会において初演されたのは 1874
年であり、ブラームスはその時までに adagio 楽章を削除していた。
(ゲンスバッハーは削
除された adagio を見せてくれるように再三懇願したが、ブラームスは決してその求めに応
じなかったため、今日では adagio がどのようなものであったか不明である。しかし後述す
るようにこの adagio はソナタ二番に転用された可能性がある。)本作が評判を得たのは
1885 年 3 月 7 日に当時非常に有名だったチェリスト Robert Hausmann のコンサートであ
り、またこのコンサートの大成功によって次作チェロソナタ第二番の作曲も決まったので
あった。
(Hausmann は欧州各地とロンドンでブラームスのチェロソナタを演奏し、ブラー
ムスはこのことに感謝してソナタ第二番を捧げることを決めたのである。
)
なお本作の原題は „Sonate für Klavier und Violoncello“であり、これに関してブラーム
スは「ピアノはチェロのパートナー、ときには音楽をリードし、ときには注意深く見守る
パートナーでなければならないが、決して単なる伴奏者ではない」と述べている。 ゲンス
バッハーとの非公式初演の際、ブラームスがピアノをあまりに大きく弾くのでゲンスバッ
ハーはチェロが聞こえないと文句を言ったらしいが、ブラームスは「君にとっても結構な
ことじゃないか!」と嘯き、ピアノを激しく弾き続けたと伝わっている。
第一楽章 Allegro non troppo は低音域でチェロが奏する、陰鬱で重いホ短調の主題によ
って始まる。本作には „elegiac u. pastorale“との指示があるが、全編を通じてとりわけテ
ンポが急な部分はない。
(ブラームスが長大な緩徐楽章を後から削除したことも全体のバラ
ンスを考えれば理解できる。
)冒頭ではピアノは和音を弾いているだけなので、旋律はチェ
ロにあるのだが、最低音部から始まるチェロの旋律は非常に重々しく暗い。ボッケリーニ
やデュポールといった古典期のチェロの名手は旋律を演奏するのに常にバイオリンと同等
のソプラノ音域で演奏したことを考えると、ブラームスはチェロが低音楽器であることの
本来性を十分に生かしたとも言えるだろう。形式は ABA 型のソナタ形式となっているが、
冒頭主題の息が長く静かに歌う性格は、第一楽章全般を通して一貫したものとなっている。
特に、b. 2 に出てくる半音の形 H-C-H が本曲全体を支配する鍵となる形である。
提示部前半は冒頭主題がホ短調からハ長調、提示部後半は b. 58 に出てくる第二主題がロ
短調、ロ長調へと変化する。ロ短調の第二主題は少し感情的に激しく盛り上がるサブジェ
クトであるが、提示部のその他の場所は概ね息の長いフレーズが支配的である。
(H.C.Colles
は「二つの楽器が闘うようにして投げ合うリズミックなアルペジオである第二主題は、沈
鬱な第一主題の暗さを打ち破るべく立ち上がった叛乱であり、しかし結局は暗く甘い第一
主題の支配が戻るのだ」と形容している。)第二主題はリズムとしても四拍子の中に挿入さ
れた三拍子の性格をもっており、 „異なる性格の主題が割り込んでくる“という性格をよく
示している。
(カノン的な第二主題は第一主題とは全く異なって聞こえるが、二つのパート
の絡み合いの中から D-Cis-D-Cis という半音の動きが浮かびあがってくる。ここにも実は
冒頭 b. 2 で示された半音の動きの変形が潜んでいると考えてよい。)
リピート後の展開部は瞑想的ともいえる性格だが、主題は提示部とほぼ同じで、Fis-H の
執拗低音の使用も同じであるから、展開部といってもあまり大きな変化は感じられない。
ここでも通底する形は b. 2 に出てきた半音の動きである。b. 100, 101, 102, 104 にチェロと
ピアノによって、108, 109, 110 にはピアノによってこの半音の動きは再現される。B. 126
は第二主題の変奏だが、チェロが 2 オクターブに渡り、前打倚音を伴って F の和音(この
部分はヘ短調になっている)を演奏する箇所(ピアノは冒頭主題の変奏を ff で演奏)が第
一楽章で最もエネルギーが高まる箇所であろう。ここの ff が長時間続いた後、第二主題が
もっと静かな変奏の形で少し繰り返され、そこから消え入るように音楽が急に小さくなっ
て第一主題に戻る(再現部)という構成は効果的である。再現部は保守的な構成で、特に
変わったことはない。第二主題に入るまでは提示部とほとんど同じだが、第二主題はロ短
調ではなくホ短調のままであり、コーダ部に入る。コーダ部分では、第二主題の変奏に基
づくで非常に静かに息の長いフレーズにそってピアノがペダル音に下降していく様子はま
るでコラールもしくは子守り歌という感じである。最後はホ長調で終わる。チェロは最終
小節では内声である点が少し変わっているが、ホ長調を最も特徴づける Gis を弾く。ここ
では平均律のピアノでは出せない複雑な性格のホ長調の響きをチェロで実現したい。
ちなみに、この第一楽章の主題は、バッハのフーガの技法 Contrapunctus 3 番もしくは
4 番から取られたという説があるが、あまり明瞭な類似性は認められないような気がする。
第二楽章 Allegro quasi menuetto はイ短調のメヌエットである。伝統的な華美な舞踏曲
というよりも内面的な表情を持った旋律である(表題の quasi、ほぼメヌエットでありなが
らもメヌエットではないという説明がブラームスらしい)
。ただし、哲学的な性格は必ずし
もの重々しく沈鬱に弾くということを意味しない。フランス宮廷風のメヌエットではない
にしても、例えばオーストリアで良く踊られる民族舞踏である Ländler や少しテンポのゆ
っくりしたワルツをイメージすると良いかも知れない。
(楽曲の舞曲楽章にレントラーを用
いるのは、ベートーベン、シューベルト、ブルックナー、マーラーなどウィーンの作曲家
が代々用いてきた手法である。
)形式は非常に古典的で、モーツァルトの歌曲の出版で校訂
を引き受け、この時代には珍しくスカルラッティのソナタ集を持っていたブラームスの古
典趣味がよく反映されている曲だと言える。
トリオ部を持ち、ダカーポするという構成は非常に古典的であり、擬古典的に演奏する
のも良いだろう。しかし嬰ヘ短調のトリオ部はチェロとピアノの絡みが美しく、その甘美
な雰囲気は非常にロマンチックである。技巧的にもトリオ部のピアノは跳躍が激しく、チ
ェロはスラーで波のように上下に動きまわり、典型的なロマン派時代の書法であるように
見えるが、ウィーンのチェンバロ音楽にはこのような高度な動きを含んだものが発展して
おり、トリオ部も古典音楽的だという意見も一部にはある。
第 三 楽 章 Allegro は フ ー ガ で あ る が 、 こ の 主 題 は 恐 ら く バ ッ ハ の フ ー ガ の 技 法
Contrapunctus 13 番から取られていると考えられる。
(もっとも全体の構成は ABA 型とな
っていることから、フーガの主題に基づいたソナタ形式であると考えた方が正確かもしれ
ない。)第一楽章の主題に比べると、フーガの技法との類似は鮮明である。
(ブラームスは
交響曲四番の終楽章パッサカリアでもバッハのカンタータ 150 番から主題を取っている。
)
バッハ協会がヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタやハープシコード・ソナタを出版したのが 1860
年のことであり、チェロソナタ第一番をブラームスが書いた頃は、まだブラームスは「再
発見されたバッハにショックを受けていた状態」だったと考えられる。第二楽章で古典期
とロマン派の技法を対照的に用いた後で、バロック音楽のスタイルを持ってきたというの
はブラームス一流の諧謔かも知れない。Bernhard Heinrich Romberg の「三つのトリオ」・
ホ短調 Op. 38 がこの終楽章に似ているという指摘もある。
(ロンベルクのソナタはあまり
知られていない曲だが、タイトル、調性、速度指示などが酷似しており、作品番号まで同
じである!)ブラームスは廃棄した adagio を含めて他の楽章は 1862 年頃に作曲を完了し
ており、第三楽章の作曲まで 3 年近くを要したということは、他の事情も色々あるだろう
が、やはりそれだけ満を持してこの楽章に取り組んだ表われと考えてよいだろう。
チェロとピアノの動きは和声的にもリズム的にも対位法的に対行するように書かれてい
るが、特にリズムの掛け合いはこの楽章の大きな特徴になっている。この終楽章にはバッ
ハとベートーベン(特にチェロの楽曲に限ればチェロソナタ 5 番)の影響が色濃い。ブラ
ームスはバロック音楽に傾倒してカノンの作曲法に熱をあげ、1861 年にはヘンデルのテー
マに基づくフーガ変奏曲を書くまでに至っていた。
冒頭で提示される主題は、いきなりオクターブの下降から三連音符による上行形という
ものであるが、これに対抗する対旋律は 16 分音符のリズムである。また、主題は反転形、
逆行形などに変形され、繰り返し姿を現わすが、このような作曲法をして、バッハへ回帰
する新バロック主義、新古典主義、新ベートーベン主義などと評することもできるが、一
言で言えばブラームスのスタイルの確立だと言える。ところどころに挟まれる急なパッセ
ージ以外は始終ゆっくりな一楽章に対し、終楽章は逆にわずかなのんびりした旋律以外は
きびきびとした緊張が絶えず、非常に良い構成上のコントラストとなっている。出だしに
ピアノによって示されたフーガの主題は、5 小節目からチェロが引き継ぎ、ピアノの左手は
第二主題を始める。その後、第三主題も導入され、b. 16 に至るまでは複雑なフーガの絡み
合いである。
(b. 16 は前半のひとつの山場であるが、特にここでは、b. 12 の形をチェロと
ピアノが役割を交代しつつ b. 16 まで盛り上げていく構成が効果的に生きている。)その後
は冒頭のフーガ主題が帰ってくるが、今度はピアノの左手は b. 20 で脱落し、伴奏的な役割
に回っているところが興味深い。
(b. 20 で右手は第三主題を演奏している。
)ここでフーガ
的な構成はその複雑性を薄めるということだが、実際、チェロもピアノもここでは音量も
小さくなり、音楽を全体的に縮小する箇所なのである。チェロも順番通りにフーガを繰り
返さず、第一主題の代わりに第二主題をフーガの中で弾くが、ここからは b. 25 の山場であ
る 2 オクターブの C に向けてつながっていく。この 2 オクターブの動きは、b. 27, 28, 29, 30
と進むにつれて短くなっていくので、ここは曲の本当の山場ではないことは明らかである。
ピアノも同様にリズム的な収縮を続けていく。この提示部での大きな山場は実は b. 31 であ
る。ここはチェロが力強く冒頭主題を再び演奏し、ピアノは力強さを補強するために同じ
リズムで随伴する。ただし、ピアノが弾いている旋律は冒頭主題のインバージョンになっ
ている。b. 35 は役割を替えて b. 31 と同じ音楽が繰り返される。ここのクライマックスは
b. 38-42 のテーマによって静かに締めくくられる。
(b. 42 で短調終止形がある。)
展開部は違う音楽に聞こえるかも知れないが、フーガ主題を長調形で非常に洒脱な形式
で模倣展開したものである。最初は主調が何であるかはっきりしないかも知れない。b. 53
ではドミナントからトニックに解決する形で、ト長調だということがはっきりするが、こ
の辺りの構成は非常に古典的である。
(ト長調でレガートではあるが、ピアノの左手はフー
ガの第二主題を変奏していることに注意。)チェロは b. 55 で旋律を引き継ぐが、これもフ
ーガの第二主題の最初の 8 分音符三つを 4 分音符に引き伸ばした旋律なのであり、リズム
的装飾が施された一例と見てよい。また、この tranquillo 部では、 „developing variation“と
でも呼ぶべく、旋律が繰り返されるうちに少しずつ展開していくブラームス独特の書法の
好例となっている。b 53-59、b. 59-69 がその例である。b. 76 から曲調は animato となり
エレガントな雰囲気から一転エネルギッシュになるが、ここからの旋律はチェロとピアノ
の右手が交互に第一主題に基づいた三連音符を演奏する。ピアノの左手は冒頭の二つの音
符を思い出させる動きを続ける。b. 80 でピアノとチェロは交代するが、b. 82 のチェロから
荒々しい下降音型に至る。下降音型からそのままト短調に移り、第一主題によるピアノの
ソロが 4 小節あり、チェロは b. 95 で第三主題の断片とともに再入場する。b. 91-98 は b. 99
から繰り返されるが、これも developing variation の形である。ここの変奏は第三主題に基
づき、再びホ短調になる。主調への回帰が第一主題ではなく第三主題の三連音符形によっ
てなされるというのは少し面白い。b. 111 で第三主題の断片は単純な八分音符の付点のリズ
ムにまで簡単化されるが、この旋律はチェロとピアノの双方に繰り返し演奏されるが、ピ
アノの左手は一拍ずれる。展開部のクライマックスは b. 115 である。ここではチェロが第
一主題のインバージョンをロ短調で示す。
(ピアノの右手は同じ旋律を追いかけるが、左手
は H の保続音を出している。
)このクライマックスの旋律はもう一度繰り返されるが、今度
はチェロの旋律は高音域になり、ピアノは両手の役割を替えて旋律を左手で弾くことにな
るので、大きく開いた旋律によって齎される力強さはより大きなものとなる。この旋律は
b. 123 で終わりとなり、展開部の b. 55 や b. 63 同様、チェロが雰囲気や旋律を劇的に変え、
展開部は終結部 b. 132 に向かっていく。
再現部は提示部とほぼ同じ構成だが、第一主題はロ長調になる。またフーガにおけるチ
ェロとピアノの順序は交代している。しかしこの顛倒は b. 136 で修正され、その後はほぼ
提示部と同一の構造に落ち着く。しかし、b. 169 ではト長調へ誘導される代わりに H と Cis
からホ短調に移行する。
(提示部では C と A からト長調に移行したことに注意。)このまま
ホ短調のまま、b. 175 に始まるコーダ部にゆっくり突入する形になっている。
コーダ部は冒頭のエネルギーを彷彿とさせる三連音符の形である。b. 185 以降は大きな
クレッシェンドで、ピアノの左手が反行する。コーダ部のクライマックスは b. 189 である。
最後の解決は、ナポリ 6 度―属 7-主音と動くバッハのような和声。
ブラームスは当初、本作を Breitkopf & Härtel 社から出版しようとしたが出版を断られ
てしまい、Simrock 社に持ち込んだ。このときブラームスは「それほど演奏が難しくない
チェロソナタ」と書き添えている。実際には、確かにあまり高音域のメロディーはチェロ
に出てこないが、演奏は決して技術的に容易ではない。作曲者自身による「難しくない曲」
という、過小評価とも取れる発言を、ゲンスバッハーの腕前があまり高くなかったことや、
バッハやロンベルクの曲から剽窃疑惑などと絡めて解釈する説もあるようだが、単に易し
い曲のほうが売れやすいからという商業的打算から出た発言であろう。いずれにせよ作曲
者自身の曲に関する表現としては興味深い。
チェロソナタ第二番
Op. 99
ブラームスは 1886 年の夏をスイスのベルンにほど近い Thun 湖の近くの Hofstetten で
過ごしたが、このとき数年来の友人で詩人・作家であった Joseph Victor Widmann が近く
に滞在していた。Widmann と彼の作品に関する議論をふんだんに持ったブラームスは、か
なり詩的なインスピレーションを受けて作曲を行い、バイオリンソナタ第二&第三番(Op.
100, Op. 108)、ピアノトリオ・ハ短調(Op. 101)、ダブルコンチェルト Op. 102、ジプシー
歌曲集 Op. 103 などとともに生まれたのがチェロソナタ二番である。また最後の交響曲と
なった交響曲第四番 Op. 98 の次作にあたる本ソナタは、ブラームスの作曲手法が円熟に達
した時期のものであると言える。
本作はチェロソナタ第一番のコンサートを成功させたチェリスト Robert Hausmann の
ために書かれ、
初演はブラームス自身のピアノ伴奏によって 1886 年 11 月 24 日に行われた。
都会で若い頃に書かれたソナタ第一番が幾分かのんびりした雰囲気を持つのにたいし、田
舎で高齢になってから書かれたソナタ第二番が都会的な輪郭を持っているという対比は面
白い。陰鬱なソナタ第一番に対し、ソナタ第二番は明朗で元気な性格が一貫しており、冒
頭メロディー(第一主題)からは若々しささえ感じられる。ブラームスは内面的で重々し
い作品が多いが、晩年には自身でもっと軽快で明るい曲を書こうと努めており、本作にも
その傾向は顕著に窺われる。
またソナタ第一番の作曲から 30 年以上が経ち、ブラームスの書法は洗練され、独自のス
タイルもより強固に確立されたおり、結果として伝統的な形式から離れてより自由な表現
が可能となっている。例えば第一楽章冒頭ではピアノのトレモロの上で奏される第一主題
をチェロが決して強拍で演奏しないことから、9 小節目まではあまり明瞭な三拍子には聞こ
えないという面白い仕組みになっているが、これは極めてブラームスらしい感情表現の方
法だと言ってよい。ピアノが開始するハ長調の第二主題は極めてリズミックであり、第一
主題との対比が面白いとともに、主題がチェロに移ったあとのチェロとピアノのリズムの
ぶつかり合いもブラームスならではである。両者の掛け合いと旋律分担の移り変わりも、
ソナタ一番に比べると非常に自由に書かれている。提示部の最後ではチェロがトレモロを
弾くが、トレモロの形は展開部、再現部の第一・第二主題、優雅なコーダ部への導入につ
いて全て重要な働きを担っている。チェロでこのようなトレモロを弾くというのは、技術
的にも作曲語法としても当時は全く斬新なことであったに違いない。また第一楽章が三拍
子であるというのも、一般のチェロソナタにおいてあまり多くない。
第二楽章 adagio affettuoso は嬰ヘ長調であり、第一楽章の調性からは遠い。
(しかしこの
不可思議な転調は、第一楽章に一瞬表われた嬰ヘ短調への移調で入念にも示唆されていた
のである。この転調によって天上界を感じさせるような神秘的な雰囲気が演出される。
)冒
頭は、チェロのピチカートとピアノの旋律がどちらも重要で、一種の二重主題だと考えて
よい。第二主題はヘ短調であり、チェロは低音域でゆっくりと動くが、これは第一楽章に
対する暗い対旋律として機能しているのである。ピアノは 32 分音符で半音階を奏し、その
後、和声的には軸足をずらすように曖昧な転調をしつつ(チェロはピチカート)
、若干の変
奏を加えられた第一主題が帰ってくる。第二楽章の最後は、第一主題と第二主題を両方一
度にかなり濃く変奏した形で締めくくられる。この楽章の調性が第一楽章と遠いことや、
これはソナタ第一番の破棄された緩徐楽章を焼き直したものではないかという説もあるが
何の証拠もない。しかしブラームス専門家の多くは、この adagio の書法が 1880 年代のブ
ラームスよりも 1860 年代のブラームスのものに近いことに合意しており、あながち仮説の
可能性は捨てきれないのである。チェロのピチカートは伝統的にはバスの動きを表わすた
めに使われるもので、バス的な要素は強いとはいえ旋律的なテーマにピチカートを使った
ことは、この時代にあっては極めて斬新なアイデアであったに違いない。
(もしこの楽章が
もともとはソナタ一番の緩徐楽章であったとすると、主題はピチカートではなくアルコで
あったことだろう。
)ブラームスはピチカートの音符が十分な長きに渡って響くように、も
し必要であれば指を二本使うようにとも指示している。
第三楽章 Allegro passionato はピアノが技術的にも旋律的にも複雑な動きをするので、
チェロとのバランスが重要である。この曲の雰囲気は一見すると終曲を思わせるものだが、
ブラームス一流のスケルツォ楽章なのである。ヘ短調の冒頭はピアノの和音によってヘ長
調のトリオ部へと誘導される。トリオ部では嬰へ長調が一瞬顔を出すが、これは第二楽章
で嬰へ調が出てきた際と同じように、和声が半音ずれることで少しショッキングな謎めい
た雰囲気が醸し出される。全体を通して、第三楽章はヘ短調に留まらずに和声的にはあち
こち動き回る感じが強い。美しいトリオ部には dolce espressivo との指示がある。和声的に
は少し動き回ったあとへ長調、ヘ短調とシフトしてダカーポする。構成としては古典的な
スケルツォ楽章の構成を守っていると言ってよい。
第四楽章は軽快な Rondo である。ブラームスは当初、今よりもずっと早い速度指示を書
きこんでいたが、それでは一~三楽章との兼ね合いが悪いと感じたのか、本人が少し遅め
に修正を施している。行進曲のように明朗でリズム的にも快活でありながら、性格はむし
ろしとやかな曲である。中間部はハ長調、その後に変ロ短調の小さな展開部があるが、ど
ちらも主題が回帰する形で次のセクションに動く形は同じである。コーダ部は大変に長い
が、これはベートーベンの手法をブラームスが受け継いだと考えてよいだろう。
チェロソナタ第二番は伝統的・古典的な手法を守りつつも、ほとばしる感情を存分に発
揮したブラームス後期の傑作で、感情的な表現においてはソナタ一番を大きく凌いでいる
と言えるだろう。この第四楽章が交響曲第三番に似ているという意見もある。
バイオリンソナタ Op. 78 『雨の歌』
この有名なバイオリンソナタはブラームスが Pörtschach に滞在していた 1879 年の夏に
書かれた。この年の 1 月にはバイオリンコンチェルトが初演されている。本作のチェロ版
はブラームス自身によって編曲されたと長い間信じられていたが、どうやら 1897 年に有名
なチェリスト・チェロ教師の Julius Klengel の兄弟である Paul Klengel によって書かれた
ようである。終楽章の冒頭には、北ドイツの学生詩人 Klaus Groth 作による郷愁あふれる
詩にブラームス自身が曲をつけた有名な歌曲『雨の歌』の旋律が使われている。ただし、
ブラームス自身の手による編曲ではないことが分かったからと言って作品の価値が損なわ
れるものではない。ブラームスの作品は Simrock から出版されていたが、Simrock はブラ
ームスのバイオリン作品をチェロ用に編曲するプロジェクトを進めていた。しかしブラー
ムス自身の健康状態が思わしくなく(ブラームスはクレンゲレルによる雨の歌の編曲が完
成した直後に死亡している)
、恐らくクレンゲルはブラームスからの指示も受けつつ、ブラ
ームスの代理として他のバイオリン曲と共に本曲を編曲したと思われるからである。
(この
チェロ編曲版の売上に対してブラームスが収入を得た記録が残っているので、これは海賊
版ではなく、ブラームスも認めたライセンス版だったということである。
)本来の楽器以外
に編曲した曲を、オリジナルの音楽よりも劣ると見る見方も存在するが(実際そういう音
楽もあるにせよ)
、編成や楽器を変更した場合に音楽の響きや色合いの変化は必然であるの
に対し、音楽の内容や表現そのものが損なわれることは必然ではない。ブラームス自身、
ピアノカルテットやハイドンバリエーションをピアノ版へ編曲しており、こうした編曲に
は積極的な作曲家であった。
ブラームス自身、
「雨の歌」に対して特別な愛着があり、それがチェロ用に編曲されるこ
とにも吝かではなかったはずである。ブラームスにとって「雨の歌」はクララ・シューマ
ンとの思い出を意味していた。第三楽章に使われていた ‚Regenlied‘, Op. 59 はクララの最
も愛した曲だったのである。また、雨の歌のテーマは上行型を下行型に変えた形で第一楽
章でも使われている。(第一楽章冒頭の主題も雨の歌の変奏と見ることができる。)また第
二楽章の中間部(変ロ短調の葬送行進曲)にも雨の歌のリズムが表われている。付点のリ
ズムがこの曲全体を支配しているのである。