ベートーベンのチェロソナタ(楽曲解説) 村上曜 ボンにケルン大司教の

ベートーベンのチェロソナタ(楽曲解説)
村上曜
ボンにケルン大司教の宮廷歌手 Johann van Beethoven の長男として 1770 年に生まれた
ベートーベンは、宮廷のオルガニスト兼オーケストラ奏者(バイオリン)として働き、1787
年には才能を認められてモーツァルトに弟子入りすべく大司教の援助による留学生として
ウィーンへ送り出されるが、この最初のウィーン訪問は大きな成果もなく母の病状悪化に
よりボンへ帰郷を余儀なくされる。その後、ボンでは父の放縦な生活や弟の面倒といった
苦労が重なったが、1792 年にハイドンに師事するため再びウィーンを訪れ、パトロンとな
ってリヒノフスキー侯爵の口添えもあって宮廷の有力者等の知己を得ることになる。
(この
とき既にモーツァルトは亡くなっていた。バッハの原稿を蒐集するなど音楽愛好家であっ
てリヒノフスキー侯爵は 1806 年に大喧嘩するまでベートーベンの熱心な支持者として知ら
れた。)
ウィーンにおけるハイドンのレッスンは実り豊かなものとは言えなかったが、Johann
Georg Albrechtsberger (1736-1809)や Antonio Salieri (1750-1825)に師事できたことは収
穫であった。難聴の最初の兆候が出たのは 1800 年頃であるから、1790 年代はベートーベ
ンにとって健康上の問題もなく、明るく実り豊かな時代であった。(ベートーベンは難聴が
進行するに従って気難しさを増していったと言われており、若い頃は冗談好きの明るい青
年であった。声が大きいことや往々にして下品なジョークを好んだことなどが記録にあ
る。)ピアニストとしての名声を確立したベートーベンは、1796 年にはパトロンであったリ
ヒノフスキー侯爵の勧めに従って、侯爵とともにハプスブルグ領外のプラハ、ドレスデン、
ニュルンベルグ、ライプツィヒを通ってベルリンへ至る亓カ月に及ぶ中欧ツアーへ出発し
た。チェロソナタ 1 番・2 番はこのツアーで最初に発表されたと言われているが、恐らくツ
アー集発前に曲の大部分は既に完成していたと考えられる。しかし細部については後述す
るように名チェリスト Duport の影響で完成された可能性が高い。
二つのソナタはベルリン近郊ポツダムの宮廷でチェロを趣味とすることで有名なプロイ
セン王・フリードリヒ=ヴィルヘルム二世に献呈された。
(偉大な啓蒙君主で大王とも称さ
れるフリードリヒ二世を継いでプロシア王となったフリードリヒ=ヴィルヘルム二世は、
怠惰で女性に弱い性格で、ひどい女性遍歴から「肉の機械」と揶揄される漁色家であった
が、芸術には深い興味と理解を示した芸術家の良きパトロンであった。錬金術などの神秘
思想に傾倒し、フリーメイソンや薔薇十字騎士団のメンバーでもあるというオカルト的側
面も持っていた。)モーツァルトがカルテット集 “プルシャ”を、ハイドンが “プロシア四重
奏” を献呈したことで有名なこのプロイセン王自身、ボッケリーニ (Luigi Boccherini,
1743-1805)に絶賛されるほどのチェロの腕前だったらしいが(恐らく Op. 5 のソナタも王
自身が演奏したことであろう)、特に当時ベルリンに滞在していたチェロの名手 Duport が
演奏したことで、本作が名曲であることが決定づけられた。
もっとも、この初演の Duport が誰であるかという点にひとつ難点がある。王のチェロ教
師であった Jean-Pierre Duport (1741-1818)を意味するものと長く考えられていたが、最近
では 8 歳下の弟で同様に当代一流の(恐らく兄以上の)チェロの名手であった Jean-Louis
Duport (1749-1819)のことではないかという説が有力なのである。現在、チェロの教則本
でも有名なのはこの弟の方である。当時、革命が近づくフランス国内の不穏の空気を逃れ、
J. L. Duport はベルリンの兄のところに身を寄せていた。演奏の記録はベートーベンの弟子
である Ferdinand Ries によって “Duport”と姓が書かれているだけなのが混乱のもとであ
る。J. L. Duport を評して哲学者ヴォルテールは「ドゥポールさん、私は奇跡を信じざるを
えません。貴殿は雄牛(※チェロのこと)をナイチンゲールに変えたのですから!」と言
ったと伝えられている。また詩人 Schubart は J. L. Duport の演奏を「Duport 氏の右手は
嵐のように動き、音は雤のように降りそそぐ。彼の魔力はたまげたもので、並ぶ者はヨー
ロッパ中探してもいないだろう。指板の上を目もくらむほどの高音域まで駆け上がったか
と思うと、想像しうる限りの最も繊細なフラジオ奏法で最後には空気中に消え入ってしま
う」と伝えている。J. L. Duport が弾いたことで有名な 1711 年製のストラディヴァリウス
の銘器は “Duport”と名付けられ、最近ではロストロポーヴィチの愛器として有名であった。
一般には低音域でベース部を受け持つ重厚な楽器だと
思われていたチェロを、軽やかなソロ楽器として優雅に奏
でてみせた Duport の影響は当時非常に大きかったが、ベ
ートーベンもこれら二つのソナタにおいてどの程度の役
割をチェロに任せられるかという技術的な部分について、
最終的には Duport の腕前と演奏を見知ってから判断した
部分があろう。ただし、Duport もボッケリーニ同様に、
ソプラノ音域の旋律や高音域で旋律を弾きながら同時に
ピチカートを鳴らすなどの超絶技巧を得意としたヴィル
トーゾであったのだが、ベートーベンはこういったバイオ
リン的な超絶技巧を使わず、本作 Op. 5 では、チェロがも
っともチェロらしい音色を出せるヘ音記号音域での使用
を最大としている。このことは、チェロが超高音域を出す
チェロのソロ楽器としての可能
ことの不自然さをベートーベンが嫌い、音楽の文脈的にも
性を開拓したボッケリーニ
その必要性を認めず、チェロ&ピアノのソナタではチェロ
の旋律がピアノの右手よりも低い音域(つまり内声域)で
あろうと、あえて高音域に突出させずにその音域内で旋律を弾けばよいという理解をベー
トーベンが最初から持っていたことの証左である。これはソナタ亓番までチェロの使用法
に関して一貫した原理であり、ベートーベンの適切なオーケストレーションに関する慧眼
を示している。
(しかしこのことはベートーベンがチェロの高音域をまったく無視したこと
を意味しない。むしろ、低音域から高音域までの幅広いレンジに渡って多様な性格を表現
できるチェロの潜在能力を適切に判断したというのが正しく、高音が必要な箇所では大胆
な高音奏法も出てくるのである。特に三番以降のソナタでは非常に幅広い音域でチェロは
その能力を存分に発揮することになる。)
Op. 5 の二曲のソナタを大いに気に入った王はベートーベンに Louis d’or 金貨で満たした
純金の嗅ぎタバコ入れを下賜したが、これは若いベートーベンが作曲で得た報酬としては
それまでに最高額のものであった。
)初演はサンスーシ宮殿の大理石の間で行われ、ピアノ
には宮廷が所蔵していた複数の Silbermann のフォルテ・ピアノのうちの一台が使われたよ
うである。王は貴重な Silbermann のピアノをウィーンから来た若いベートーベンがひどく
乱暴に叩くのを見て最初は使用許可を躊躇ったようだが、結局ベートーベンの天才が王を
魅了した。Op. 5 の初版は初演の翌年 1797 年にウィーンの Artaria 社から出版されたが、
その表題には「クラヴサンもしくはピアノ・フォルテのための二つのグランドソナタ、チ
ェロのオブリガート付き」と書かれている。(どちらかと言えばピアノが主役であることを
チェロ奏者は忘れないように!)
旋律楽器としてチェロを従来のバイオリンと同様に扱い、低音域から高音域まで全域に
渡って様々な音色とニュアンスをチェロに要求し、ピアノと対等な立場でソナタを奏する
という形式を取った音楽としては、ベートーベンのチェロソナタは西洋音楽史上最初の作
品であると考えられている。ウィーン古典派時代の名曲であるだけでなく、チェロのレパ
ートリーとしてはバッハの無伴奏組曲と並んで、それぞれ新約聖書・旧約聖書に喩えられ
る重要作品と目される所以である。
(ユダス・マカベウスのテーマによる変奏曲は 1797 年、
魔笛による 12 の変奏曲は 1796 年、魔笛による 7 つの変
奏曲は 1801 年に作曲された Op. 5 と同時期の作品である。
ユダス・マカベウスの変奏曲は、ベルリンで恩を受けたフ
リードリヒ=ヴィルヘルム二世王のために書かれた。)
ベートーベンの時代には、希代の名手 Duport 兄弟、チ
ェロのソロ楽器としての地位を確立した Boccherini、
Duport の師でありフランス式チェロ奏法の祖 Martin
Berteau (1691-1771)等の活躍によって、すでにソロ楽器
としてのチェロの可能性やテクニックも十分に高められ
ており、ベートーベンが生涯に渡ってチェロのためにはソ
ナタ 5 曲と三つの変奏曲しか残さなかったことは作品が
尐なすぎるように思えるかも知れない。しかし作曲家自身
がソリストを務めることが多かった事情を考えれば、ベー
トーベンの作品の中にベートーベン自身が演奏できたピア
ノ曲とバイオリン曲が多いのは当然で、そのことを考慮すれ
Op. 5 が初演されたサン・
スーシ宮殿の大理石の間
ばチェロ曲の数はむしろ多いくらいである。ベートーベンはチェロに特別な興味と愛情を
持っていたと考えて良いだろう。ハイドン以降、シューマンまでチェロコンチェルトを書
いた主要な作曲家はおらず、モーツァルトもシューベルトもチェロのための曲を書かなか
った事実を考慮すべきである1。
ベートーベンの初期の作品 Op. 1 – 4 は、どれもモーツァルトやハ
イドンに同じ構成の曲がある古典的な室内楽編成だが(Op. 1 ピアノ
トリオ、Op. 2 ピアノソナタ、Op. 3 弦楽トリオ、Op. 4 弦楽四重奏)、
Op. 5 で先人が書き残さなかったチェロソナタというジャンルを手
掛けたベートーベンの意気込みが感じられる。もっとも Op. 1 のピ
アノトリオからして既に、チェロにピアノ左手からは独立させて自
由な動きをさせようという意図があり、ベートーベンがチェロの可
能性に非常に早い段階から気付いていたことは明らかである。
(ちな
みにボッケリーニはモーツァルトやハイドンと同時期の作曲家兼チ
ェロ奏者で、作風の類似から “ハイドン夫人”とも仇名されるが、多
数のチェロコンチェルトとチェロソナタを残している。しかしチェ
ロの技術を誇示する目的もあってかスタイルは形式的というよりは
即興的であり、不必要な重音奏法や高音域での使用、チェロを偏重
したヴィルトゥーゾ的旋律など、構造的な声部間対話に音楽表現の
重点を置いたベートーベンとは作曲スタイルを 180 度異にしている
ことから、ベートーベンに対するボッケリーニの影響は小さいと言
わざるを得ない。しかし膨大な弦楽四重奏曲や亓重奏といった室内
楽曲においてボッケリーニはハイドンよりも早く、四声部の対等か
つ独立な役割を確立しており、その点では真に古典期の作曲家であ
った。作風にはバロック音楽的な古臭さとロマン派につながる情緒
バリトン
的な部分とが奇妙に混在し、チェロの演奏技術的にも興味深い作曲家なのだが、尐なくと
もチェロソナタというジャンル確立に関してはその後の本流につながっていない。ボッケ
リーニを例外として、ベートーベン以前の古典期の作曲家の多くはまだバロック時代の通
奏低音の伝統から抜け出ず、チェロは鍵盤楽器の左手をユニゾンで演奏することが多かっ
た。)
現代のチェロは(オールド楽器も含めて)張力の強い金属弦を使うようにセットアップ
され、それによってシュタインウェイのフルコンサート・グランドピアノと大コンサート
1 ピアノとチェロによるソナタというジャンルは、ベートーベンによって確立された新しい分野だと言って良い。ボッ
ケリーニやヴィヴァルディ、その他バロック~古典期の作曲家にはチェロソナタが幾つかあるが、高音ソロ楽器として
チェロを使用している点や音楽表現・形式等の点において、ベートーベン以降 20 世紀までつながる一連のチェロソナタ
とは異なる音楽だと考えた方が良い。モーツァルトがチェロソナタを書かなかったひとつの理由は、チェロで無理に高
音域の旋律を弾かせるボッケリーニ式の構成に必然性を見いだせなかったということにあるだろう。また、ヴィヴァル
ディのソナタは本当にチェロの為に書かれた作品なのかどうか議論がある。ビオラ・ダ・ガンバのためのソナタだった
のではないかという説もある。
ホールで共演することが可能であるが、ベートーベンがイメージしていたチェロの音色と
は、もっと線の細いガット弦用に調整された楽器と、金属枠を持たない繊細なフォルテ・
ピアノであったことは出すべき音色を想像する際に重要な要素である。さらに加えてオリ
ジナルのサウンドを想像する作業には、このソナタ 5 曲がベートーベンの前期から後期に
かけての長い期間に渡って書かれているという困難が伴う。フォルテ・ピアノはベートー
ベンの時代に急速に進化しており、最初の二曲を書いた 1790 年代にべートーベンが所有し
ていた Stein もしくは Anton Walter のフォルテ・ピアノと、ソナタ三番を作曲した 1808
年頃に所有していた Erard のフォルテ・ピアノとでは構造上、音響上に大きな違いがある
からである。
(Op. 5 のソナタ作曲時にベートーベンが想定したのは恐らく Walter のピアノ
であろう。これはモーツァルト時代のハンマークラヴィーアとほぼ同様の構造で、金属枠
を持たず筺体はチェンバロのような構造であった。ハイドンは「高価なくせに 10 台に 1 台
しか当たりがない」と言って Walter のフォルテ・ピアノを酷評しているが、ベートーベン
はマホガニー製の一台を特注した。また、ベートーベンは当時はイギリスのピアノにしか
付いていなかったソフトペダルを装備するように注文しているが、技術的な理由でそれは
叶わず、Walter にはペダルはない。
Walter (1790’s)
Erard (1803)
Graf (1825)
Broadwood (1817)
Erard の構造は後代の Graf や Broadwood に近く、近代ピアノの性格を備えている。特
に Erard は lute-stop, sustaining, sourdine, una corda の 4 つのペダルを備えていた。
)ま
た、4 番・5 番のソナタを書いた時点では、6 オクターブの音域を備えた新しい Graf もし
くは英国製の Broadwood のピアノを念頭に置いていたと思われる。
(Broadwood のピアノ
は鉄枠と 30 トンに及ぶ張力をかけたピアノ線を持ち、機能や音色もほぼ現代のグランドピ
アノに近い。全音域に三本ずつのピアノ線を備え、ソフトペダルと高音部用ダンパーペダ
ル、低音部用ダンパーペダルを備え、ベートーベンの要望にほぼ全面的に忚えられるピア
ノであった。そのため現代のピアニストは、4 番や 5 番のソナタに関してはそれほど音色に
注意を払わなくても良いだろう。しかし 1 番や 2 番のソナタを現代風に叩いてしまっては
音量が過剰であり、繊細さが不足するだろう。Graf は Broadwood とほぼ同じ現代構造を
持っているが、高音部に四本のピアノ線を使うなど独自の工夫があった。しかし性能的に
ベートーベンの要望に忚えることはできず、過渡期の実験的なピアノといったものに終わ
っている。)ピアノ・フォルテが絶えず改良を加えられて十分に太くて強い低音を出せるよ
うになったことは、恐らくバロック期以来、鍵盤楽器の貧弱な低音を補強するために通奏
低音として付加的に使われていたチェロがソロの旋律楽器として独立し得た背景要因とし
て大きいだろう。
(バロック音楽ではチェンバロの左手に補強として必ずチェロを入れるが、
必然的にチェロの楽譜は鍵盤奏者の左手と常にユニゾンである。また、チェロのこうした
使用法から出発する限り、鍵盤楽器から独立させてチェロをソロ楽器として使うという発
想は出てこない。)その意味では、ハイドンやモーツァルトの時代の鍵盤楽器ではまだ低音
部が貧弱すぎで、チェロコンチェルトを 2 曲(記録の上では 5 曲)書いたハイドンでさえ
一曲もチェロソナタは書いていないのである。(ハイドンが多くのチェロ曲を残したのは、
ハ イ ド ン の 仕 え た エ ス テ ル ハ ー ジ 公 ア ン ト ン = ニ コ ラ ウ ス (Nikolaus Fürst von
Esterhayz, 1765-1833)が今では誰も演奏しなくなった弦楽器であるバリトンの奏者であっ
たことから、主君の要請に忚えてという部分が大きい。)和声上は、ヘンデル、グルック、
モーツァルトといった後期バロック~古典期の巨匠達のスタイルは、西洋音楽史を通じて
最もソプラノ声部を主役として重宝するものであったという事実も見落としてはならない。
(ルネッサンス音楽においてはジョスカンデ・プレの宗教曲などテノール声部を重視する
伝統があり、バッハの宗教曲にはまだこの流れが残っているが、その後は圧倒的にソプラ
ノ声部の時代となった。
)ベートーベンの時代は、オペラでも重要なアリアはソプラノが歌
い、男性歌手でさえもカストラートが重宝された時代である。後期バロックからモーツァ
ルトまでの先人達がチェロをソロ楽器とは考えなかった理由にはそのような時代的背景も
あり、ベートーベンは新しいロマン派の時代におけるソロ楽器としてのチェロの可能性を
大いに開拓したと言える。(チェロをソロ楽器として用いた偉大な先人ボッケリーニは、ほ
とんど常にチェロで高音域を演奏した。つまり主題はソプラノ声部で歌うという伝統を脱
していなかったのであり、それではなぜバイオリンではなくチェロで演奏するのかという
意義が十分ではなかったのである。ボッケリーニのチェロを「カストラート・チェロ」だ
とすれば、ベートーベンが開拓したのは男性声部のテナーやバスのチェロである。ベート
ーベンがチェロの高音域を多用しなかったのはチェロの演奏技術上の問題からではない。
ソナタにおいてはチェロとピアノの関係は主従関係ではなく、対等なパートーナーである
べきだと考えた所以であろう。その証拠に、トリプル・コンチェルトにおいてはチェロに
も高音域でのヴィルトーゾ的旋律が多用されている。)
ベートーベンがチェロソナタを作曲した 1796~1815 年という期間は、ナポレオンの台頭
と没落の歴史と奇妙にも一致し、ヨーロッパ全体が政治的に大きな混乱と変化を経験した
時代である。
(砲兵尐尉に過ぎなかったナポレオンがいきなり軍団の司令官に抜擢され、初
めて任された外征であるイタリア遠征が 1796 年、フランス皇帝に戴冠し、対外戦争では無
敵を誇ったナポレオンが初めて敗戦の苦渋を嘗めたスペイン戦争が 1808 年、ロシア遠征に
失敗したナポレオンが運命を賭して挑んだ最後の戦いであるワーテルローの戦いが 1815 年
6 月。)また、ベートーベンの作風も、ハイドンの影響を強く受けた古典的な「初期」から、
名作の森とも評される円熟の「中期」、フーガや対位法の技法に傾倒した「後期」に至るま
で大きく変遷していったが、その全てを見事に代表的にカバーしている。もちろん先述の
鍵盤楽器の改良・進化にともなう楽器の性能の変化や、チェロが持つソロ楽器としての可
能性の探究という点でも、この 20 年の間にベートーベンにとって大きな変化や発見が続い
たはずである。
・ソナタ 1 番 Op. 5 No. 1
オープニングの Adagio sostenuto は、後続するアレグロ部分に対する 34 小節に及ぶ長
い序奏である。この曲のアダージョはベートーベンの類似する他の曲の序奏アダージョに
比べても特に長い。アダージョは全音域に渡ってチェロが美しい音色を発揮出来るように
Fantasia 形式で書かれ、第二楽章の主題とも関係している。チェロが旋律を歌う機能を高
められた分だけ、ピアノには音楽全体をコントロールして構造的なバランスをうまくとる
役割が期待されている。しかし、全体のバランスとしてはやはりピアノが旋律を受け持つ
比率がまだまだ大きく、ピアノ優勢の構成になっていることは否定できない。(『ピアノと
チェロのためのソナタ』という原題の意味をもう一度考えるべきであろう。)快活なアレグ
ロ部へ入るために、聴衆を効果的にじらしていると考えると面白い。アダージョからアレ
グロに入るブリッジはピアノが受け持っている。
Allegro に入ってからも、まずはピアノが主題を歌い、チェロは常にそれに忚えるという
ように、チェロの扱いはやや従属的である。Op. 5 の二曲ともに、技術的に難易度の高いパ
っセージが出てくるにも関わらず、構成上チェロの扱いがやや従属的であるという傾向は
顕著である。
(それでも当時としては十分に二つの楽器を対等に扱ったと言っても良いのだ
が。古典期のピアノソナタには弦楽器によるオブリガート付きという形式が多くあるが、
まだこの伝統から抜け切っていないとも言える。ベートーベン自身は Op. 1 のピアノトリオ
から既に各楽器を対等に扱う手法を用いており、その後、チェロとピアノのソナタでは作
を追うごとにより対等の役割を担うようになっていくのである。)第一主題は陽気、第二主
題は尐し陰りを持つが、それでも快活な旋律である。展開部では主題はイ長調に、次いで
ニ短調へと移って短調変奏となるが、まもなく長い半音階から主調の第一主題に帰ってく
るあたりはまだまだ古典的で素直である。ピアノには技術的に派手なブラヴーラがあるの
で存分に腕を見せつけること。
第一楽章最後のアダージョはカデンツァ風で(恐らくチェロとピアノのために書かれた
カデンツァとしては音楽史上初のものであろう)Ib の和音で始まるが、アダージョのテンポ
に急に戻ることで中断され、再び急速な三連音型によって華々しく終わる。この辺りの多
幸感はさすがに若い時代の作品といった感じで、他の作品番号の若い作品にも共通する処
理である。最後はピアノのカデンツァといった感じで、初期のピアノコンチェルトにも似
ており、ここにもピアノへの偏重が大きい特徴が顕われている。ただし、ここまでで繰り
返し触れてきたピアノへの偏重という傾向は、ベートーベンがチェロの技術を低く見てい
たことを意味しない。
(ボッケリーニをはじめとする高音域での超絶技巧を得意とするチェ
リストはベートーベンよりも前の時代に出ている。)むしろ、無理なソプラノ音域をチェロ
に割り当てず、チェロを楽器の特性が最も活かせる音域で活用し、かつコンチェルト的な
主従関係ではなく対等な音楽上のパートーナーとしてチェロとピアノを並べた場合に、主
旋律のソプラノ音域はピアノの右手でカバーするという作曲技法に至ったと解釈すべきで
あろう。(聴衆の注目を集めるのに最低音域を効果的に使っている部分があることなど、従
来のソプラノ音域重視の作曲手法と比べて革新的な部分がソナタ 1&2 番には多い。重要な
旋律は上声部でなくても構わないということは、チェロソナタの録音を聴いてもちゃんと
チェロの音が聞こえてくることからも明らかであろう。ただし、ピアノの両手に挟まれた
チェロが内声部を弾く場面が増えるので、和声的役割はより複雑である。)これは当時の解
決策としては極めて自然なものであるし、結果としてピアノの腕前を誇示するブラヴーラ
が増えたことも、ピアノパートを自ら演奏することを想定していた若いベートーベンにと
っては望むところであったはずである2。
第二楽章 Rondo (allegro vivace)はチェロによって始まる。移っていく和声を匂わすよう
に弾くと効果的。ピアノが主題を奏する場面ではチェロはピチカートによる伴奏に徹する。
田舎風ダンスのような楽しい 8 分の 6 拍子である。ピアノには右手だけで急速に動くパっ
セージなど、技術を見せびらかす部分は十分にある。チェロにも所々に急に早いパッセー
ジがあり気は抜けない。ピアノが戻る調は主調ではなく、チェロがそれを修正するという
対話構造などは、漫才のような滑稽なやり取りにも見える。ピチカート、スフォルツァン
ド、重音、トリル、スビトピアノ等の急激な音量変化など、ベートーベンはチェロに多様
な表現形式を要求しており、形式的には端正ながらも技術的にも遊び心が十分に盛り込ま
れた曲だと言える。(どちらか言えば和声的・対位法的な構成による工夫ではなく、個々の
ちなみに西洋音楽史上ソプラノ声部が重要な旋律を受け持つ表現形式は 16 世紀頃から始まった比較的新しいもので
あり、それ以前にはテナーが旋律を受け持つことが多かった。
2
楽器の技巧的な派手さや多様さに比重が置かれている。)途中で変ロ短調(下属音短調)へ
行く部分で暗い陰を一瞬見せる箇所もあるが、総じて長調の明るい旋律が曲全体を支配し
ている。中央の挿入部はトルコ風である。トルコ風の直後のチェロの開放弦 5 度の保続音
はミュゼットの模倣であろうから、田舎風に弾くとよい。
(トルコの軍楽隊で用いるバグパ
イプだと思うともっと面白いかも知れない。)主題は装飾を加えながら次第に変奏を複雑に
していく。最後のコーダは、どちらの楽器も非常な華麗さを要求される派手なつくりにな
っている。
・ソナタ 2 番 Op. 5 No. 2
このト短調のソナタもソナタ一番と同様、二楽章しかない形式であるが、冒頭 Adagio
sostenuto e espressiovo 部はさらに大胆に引き伸ばされ、よりドラマチックな仕上げになっ
ている。導入部としてのこの長さは異例である。単なる導入ではなく 3 つのテーマが使わ
れており、巧妙に配置された静寂のあとで Allegro molto piu tosto presto が始まるが、こ
こではピアノとチェロがそれぞれ主題を歌う。ソナタ一番に比べるとより内面的な性格が
強く(ソナタ一番が伸びやかなヘ長調であるのに対し、本ソナタの内省的なト短調は好対
照をなしている。ト短調と言えばモーツァルトだが、このソナタ二番の冒頭からモーツァ
ルトのレクイエムの Rex tremendae を連想する人も尐なくない。この時代のべートーベン
の楽曲がモーツァルトからヒントを得ている可能性も完全に否定はできない)、構成は単純
であるのでピアノはソナタ一番ほど忙しくない。
Mozart K. 626 “Requiem”より Rex Tremendae
この曲調はベートーベンの音楽における “Sturm und Drang” の嚆矢であり、悲劇的な
曲想を持ったピアノソナタ『悲愴』(Op. 8, 1799)などの名曲がこの系譜に連なることになる。
湧き上がってくるようなチェロの怒涛の旋律は、激しいピアノの三連符(アルペジオ)に
よって伴奏されるが、このピアノパートは技術的にも高度である。展開部はハ短調、そし
て再現部とコーダへと至る構成は至って保守的である。しかしベートーベンならでは工夫
も随所に見られ、例えば短い間だけだが展開部にダンスのような旋律を加えたのは面白い
試みだし、展開部の最後からピアノの右手に高音域で新しい旋律を与え、そこから反復奏
へつなげた形も独自である。モーツァルトの交響曲 40 番に見られるような、ト短調の持つ
精神的な不安さを見事に引き継ぎながらも、陰鬱ではなく、チェロがピアノの三連音符の
伴奏に果敢に挑みかかる様はむしろエネルギーの噴出とも形容すべく力強いものであり、
ベートーベンらしい個性が光っている。また、チェロがト短調から変イ長調に転じて明る
く温かい旋律へ変化するなど、暗さだけではない明朗さを示す箇所も多々ある。
ベートーベンのコーダは通例非常に長く、幾度もの偽終止が執拗に繰り返されることで
良く知られているが、本ソナタでも最後の感情ほとばしる大団円に向けてのチェロとピア
ノの絡み合い、チェロの跳躍する激しい旋律など、音楽表現上の様々なアイデアが試みら
れている。
第二楽章のロンドはピアノがト長調の主題を意気揚々と奏でるが、冒頭からチェロは専
ら内声に回り、cantabile のメロディー(変形した主題)を演奏した後で始めてロンドの主
題を歌う。冒頭はほとんど常にピアノが旋律を持っている感じである。その後、両者が主
題を共有しつつ、ニ短調へと移行していく。冒頭から第二主題までは明るいが、一転して
沈思的な短調のテーマが混ざるところや、ピアノとチェロの両方にヴィルトーゾ的な派手
な動きがある事、快活な中にも全般に元気溌剌というよりは尐し高雅な謙虚さを漂わせた
性格は、ソナタ一番の一貫して明るく陽気なロンドと対照的である。ロンドの中心部の主
調はハ長調で、ここではピアノもチェロも共に愉快な旋律で前進する。最後に高らかにト
長調が帰ってくるが、チェロにもピアノにも非常に速い旋律が現われ、チェロとピアノも
しくはピアノの両手が 1 オクターブで平行に動く箇所も出てくる。こうした箇所は技術的
に難しいが、わざと腕前を見せびらかすためのブラブーラだと考えられる。ソナタ 1 番同
様、曲の締めくくり方は大変に華麗・派手である。こうした派手さには、モーツァルトや
ハイドンから引き継がれた華やかな宮廷音楽の伝統がまだ残っていると言えないこともな
いだろう。
ソナタ1番 2 番ともに、ゆっくりの序奏的アダージョから軽快な二つの楽章が続くとい
う二楽章構成になっているが、これはピアノソナタ Op.27 No. 2 「月光」などでもベート
ーベンが見せている形式である。ハイドンやモーツァルトが確立した三~四楽章形式のソ
ナタ曲の系譜としては異色の構成であるといえる。実際、ベートーベンは Op. 1 では古典
的な四楽章形式に則っており、やはり Op. 5 でこのような変則的な構成を選んだことは、本
作で自分独自のアイデアを前面に押し出していることの顕われと見てよいだろう。ただし、
長大な冒頭アダージョ部を実質的に別楽章と見れば、緩急緩急の四部形式から三番目の緩
徐楽章を省略した形とも考えられる。このような「緩急緩急」形式のソナタとしては、バ
ロック時代にコレッリが確立した Sonata da Chiesa(教会ソナタ)の形式が挙げられる。
あくまでアダージョ部を第一楽章の序奏と見れば、ハイドンやモーツァルトの確立した古
典期のソナタと見られるが、その場合には全体で二楽章形式というのは異例に短い。
・ソナタ三番
Op. 69
三番のソナタが書かれたのは 1808 年(しかし恐らく 1807 年に作曲を開始したことを示
すスケッチが見つかっている)、最初の二曲が書かれてから約 12 年が経ってからであった。
この頃にベートーベンが取り組んでいたのは、交響曲 5 番、交響曲 6 番、コリオラン、ラ
ズモフスキー弦楽四重奏曲集など、
「傑作の森」と呼ばれる中期の名作である。チェロソナ
タの旋律のスケッチが「運命」の手稿譜と同じ紙に残されている。ただしこれらの交響曲
は 1808 年のクリスマス前には初演されたのに対し、チェロソナタが初演されたのは翌年の
3 月であった。このときチェロを弾いたのは Nikolaus Kraft で、彼はハイドンの勤めたエ
ステルハージ宮廷で名を馳せた名チェリスト Anton Kraft の息子である。クラフトはベル
リン宮廷でドゥポールに師事したこともあり、ウィーンのケルントナートア劇場の主席チ
ェリストで、ベートーベンとは旧知の仲であった。ピアノは Dorothea Ertmann 男爵夫人
が演奏した。この男爵夫人もピアノソナタ Op. 101 を献呈されたほどのピアノの名手であ
ったが、このチェロソナタが献呈されたのはこれら初演者ではなく、ベートーベンを公私
に渡って支援した Ignaz von Gleichenstein 男爵である。
(Gleichenstein 男爵もアマチュア
チェリストであった。ベートーベンと男爵の友情は厚く、最初はピアノコンチェルト第四
番 Op. 58 を献呈する約束であったが、これを諸般の事情でルドルフ大公に献呈せざるを得
ないことから、約束を守るために改めて本ソナタを作曲したのである。こうした経緯もあ
って楽曲の性格はピアノコンチェルト第四番との共通点が尐なくないとも言われる。(しか
しピアノコンチェルト第四番のロンドは本曲よりもチェロソナタ二番のロンドにリズム・
調性ともに似ているようにも思える。)なお、ベートーべンと男爵との友情はベートーベン
が女性を紹介するように男爵に頼み、その結果知り合った Anna & Therese Malfatti 姉妹
にベートーベンと男爵の二人がともに求婚し、男爵が 1811 年に Anna と結婚したことが決
定打となって破局した。
)原譜にはベートーベン自身の手で “Inter lacrymas et luctus?” (涙
と悲しみの中で?)と書かれているが、あまり曲に悲劇的な要素はないのが奇妙である。この
時代のベートーベンの苦悩といえば、失恋や(不滅の恋人などと言われる Josephine von
Brunswig とベートーベンはこのソナタの完成直前の 1807 年に互いの身の上を考え、理性
的に破局を選ぶという苦しい決断をしている)
、ナポレオン軍によるウィーン占領といった
政治問題、長い間パトロンだったカール・リヒノフスキー侯爵との決別など大きな問題が
並んでいる。作曲家として一番の問題は難聴だったであろうし、同時代の他の作品でも難
聴による人生の困難をベートーベンは訴えているが、苦悩が露骨な形で出ている曲は尐な
く、逆に力強さや明朗さが際立ったポジティブな作品が多い。これがベートーベンの性格
によるものなのか、一流の皮肉なのか。このソナタ 3 番にも特に悲しみや苦しみを連想さ
せる部分は(尐なくとも表面的には)見られない。涙や苦労が何を意味するのかについて、
様々な解釈や憶測が成り立つし、それによって演奏法はずいぶん異なったものになろうが、
誰かを探しているかのような孤独で物悲しいオープニングの旋律、あるときはリードしあ
るときは付き従って寄り添うように共演する構成を考えれば、ジョゼフィーヌとの悲恋を
第一の作品背景に想定することも見当外れではないようにも思える。
第一楽章 Allegro, ma non troppo は古典的な ABA のソナタ形式に拠っている。盛り込ま
れたモチーフ/テーマはやや過剰であるが、円熟した作曲技法によって冗長さは感じさせ
ない。冒頭のテーマは即興的な旋律であるが、チェロとピアノのために書かれたソナタの
中で史上最も美しい旋律だと考える者も尐なくない。チェロとピアノはかなり厳密に旋律
を交互に演奏するようになっているが、チェロには非常に豪華な響きが割り振られており、
ソナタ 1&2 番よりもチェロの特性とチェロの響きを活かすピアノパートの書法が進歩して
いる。恐らくベートーベン自身がチェロに対して持っていたイメージ自体が、この 12 年間
の間に発展し成熟し拡がったのだろう。
また、冒頭の A-E という亓度の動きは、最後まで重要なモチーフとして繰り返し用いら
れるのでそのことを念頭に置いておく必要がある。第二主題はピアノのカノン様の旋律と
チェロの音階で始まり、役割は交代するが、ここの旋律は主従関係を定義しづらく、二つ
の楽器が入念にも対等に扱われていることが分かる。
展開部は形式的に発展させられるというよりは、第一・第二主題の周辺を何度も行きつ
戻りつしながら書かれ、最後には最初のテーマに基づいた劇的なコーダが置かれている。
楽器の役割と音楽文脈上の性格が著しく急激に変化するが、それを楽しみ、またそのよう
に弾くこと。コーダ部では冒頭テーマを強烈に弾いたあと、このテーマが徐々に後退して
いき、イ長調に戻るのに二長調を経由するという遠回りをした挙句、最終小節でぶっきら
ぼうな終止形を一緒に弾く瞬間まではピアノとチェロはわざと協同作業をしないかのよう
な独立ぶりを示しているところも、恋人同士が些細なことから仲違いをしているようで面
白い。
このソナタの革新的な特徴として、ピアノもチェロも同時代の他の曲と比べると極めて
広い音域に渡って動き回る点がある。ソナタ一番・二番では旋律と伴奏という形で相手と
の上下関係を逆転させることで絡み合っていたのに対し、この三番のソナタにおけるピア
ノとチェロは完全に対等な立場で語り合う場面が多く、上行形と下行形で交差するといっ
た構造上の絡み合いが増えている。ピアノがチェロに優越しようとする箇所もなければ、
チェロが単なるオブリガートを奏する場面もないのである。
第二楽章 Allegro molto scherzando はイ短調のスケルツォである。このソナタは緩徐
楽章を持たないことが特徴的である。(第三楽章はゆっくりなアダージョで始まるが、これ
はたったの 18 小節である。第二楽章がイ短調であるのに対し、ホ長調で始まる第三楽章は
和声的にきらびやかな効果を生んでいる。)第二楽章は 5 つのパートからなるが、スケルツ
ォ部が三回、イ長調のトリオ部が二回繰り返される ABABA 形式なので楽曲の構成要素は
二つだけである。(このようにトリオ部が二回繰り返される構成をベートーベンは、弦楽四
重奏 Op. 59 No. 2 や交響曲第四番で既に試している。)シンコペーションのリズムが非常に
特徴的だが、ピアノはタイで連結された弱拍と後続する強拍の同じ音で指を替えることで
フォルテ・ピアノに特徴的なベーブングの効果を出すことができるだろう。(ベートーベン
自身はこのようなビブラート的な効果を想像して作曲したはずなので、モダン楽器奏者も
試す価値がある。チェルニーによれば、ベートーベンがここで考えていたのは通常のシン
コペーションではないという。第四指から第三指への置き換えが常に要求されていること
を考えると、第三指の打鍵はより弱く短くなると考えるのが普通であろうか。とにかく現
代のピアノではこのニュアンスを出すのは構造上難しいので、左手の打鍵のタイミングと
右手の指の置き換えのタイミングを合わせて拍が改まった雰囲気を出すことのほうが重要
であろう。)このようなシンコペーションが続くスケルツォは例外的なものであるから、そ
のことの意味を考えて弾くべきである。これに関して面白いエピソードがある。Breitkopf
und Härtel 社の校正者は、スケルツォの冒頭を ff とした。ベートーベンはここをオリジナ
ル通りに p とするべきだと修正を求める手紙を書いたのだが、二校のゲラ版でもまだ ff と
なっていた。ベートーベンはしかしこの誤植を見れば見るほど、こちらのほうがより効果
的な気がしてきて、ついに ff のままで良いとする手紙を書いたというのである。ベートー
ベンのオリジナル譜は一楽章以外が失われており、本当の経緯には不明な部分もあるが、
Henle 版などで冒頭 p から直ちに f となっているのは、演奏者のほとんどには無視されてい
る有名な誤植である。(最近の Jonathan del Mar による Baerenreiter 原典版では ff となっ
ている。)Henle 版などに見られる誤植の原因は、恐らくブライトコップフ社の編集者と手
紙をやり取りするうちに気が変わったベートーベンが楽譜の指示をペンで乱暴に消し、さ
らに楽譜から離れた余白に新しい指示を書きこんだのだが、出版者に真意が伝わらなかっ
たというようなことであろう。(ベートーベンは悪筆で有名であった。
)
第三楽章のオープニングは非常に美しいアダージョなので、この部分だけを発展させて
も立派な緩徐楽章が出来上がったであろうが、アダージョはたった 18 小節で終わり(聴衆
はもっと聴いていたいであろうに、わざとであろう)、軽快な Allegro 部へと突入する。緩
徐楽章ではなく、今までのものはアレグロの序奏部だったということが後から判明する一
種の悪戯のような導入である。(そのためアレグロ部は、急な中断は不自然だとしても、あ
まり早々とアダージョの幕切れを宣言せず、性格上の急変をクリアに示すように開始した
い。)また、このアダージョ部のピアノ左手はチェロの旋律を浮き立たせるために通常より
も1オクターヴ低い音域で奏される。チェロは安心してピアノの左手に乗ってよいので、
繊細な旋律を十分小さなダイナミクスで演奏できる。なかなかの心配りと思う。(ただし、
チェロ奏者はピアノ左手をよく聴き、むしろ「ピアノの左手をよく響かせる」ような意識
に徹しなければ美しく響き合わない。)
アレグロ部は純粋に喜劇的・躁病的な軽快さと、リズミックな諧謔性を示す作品で、チ
ェロとピアノの対話も徹底して機知に富んだ陽気なタイプのものである。ベートーベンの
楽曲の中でも覚えやすく、旋律の美しさにかけてはこの楽章は全ベートーベン作品の中で
も上位にランクインするであろう。
コーダ部は鎖のようにつながったピアノの八分音符が主導的に音楽を締めくくる。この
コーダ部が非常に長く、大団円に向かうまでの階梯が長いというのも非常にベートーベン
らしい。コーダ部においては、コーダ以前の部分よりも尐し感情的な興奮は抑制され、長
い階段を上るような息の長さが必要。
ソナタ三番は全体的にベートーベン中期の作品の特徴を示し、対位法的作曲技法、緻密
な和声的絡みは見事であるが、ソナタ 1&2 番に比べると華麗な派手さの点では尐し劣ると
みる向きもある。しかしそれは技巧を披露する目的が強かった初期の作品に比べ、中期で
はより音楽上の対話を重視するスタイルにベートーベンの作風が変わってきたことの証で
あり、もちろん単純な優劣の問題ではない。
・ソナタ四番 Op. 102 No. 1
Op. 102 の二曲は 1815 年の 7 月と 8 月にそれぞれ書かれ、二年後の出版時に Maria
Erdödy 伯爵夫人に献呈された。非公式の初演も伯爵夫人によって行われたと考えられる。
(伯爵夫人は公私に渡ってベートーベンの良きパトロンであり、二曲のピアノソナタ Op.
70 を献呈したこともあったが、ベートーベンは夫人の人間性に関して非常に折り合いの悪
い部分も感じていた。)ただし伯爵夫人に献呈される前に、ウィーンを訪れていた英国のピ
アニスト兼チェリスト Charles Neate にチェロソナタを捧げた記録があり、今は失われて
いるが、若干細部が異なったであろう『英国版』の楽譜が存在した可能性は高い。1816 年
にはソナタ四番をラズモフスキーカルテットのチェリスト Joseph Linke とベートーベンの
弟子のピアニスト Carl Czerny が正式な初演演奏会の形で演奏している。実は、ラズモフ
スキーカルテットはロシア大使邸が 1814 年の火事で失われてから解散しており、リンケは
このとき音楽好きで知られる伯爵家に個人的に雇用されている状態であった。
(エルデーデ
ィ伯爵はハイドンにもカルテット Op. 76 を献呈されている。)ベートーベンが個人的に伯
爵家の夏の別荘を Jedlersee に訪ねた際にリンケに会い、ベートーベンは最初からリンケの
チェロを構想して二曲のソナタを書いたものと思われる。この二曲のチェロソナタは、ピ
アノソナタ・イ長調 Op. 101 と並んでベートーベンの「後期」と呼ばれる作品群の嚆矢と
されるが、高度に発達した対位法的技法、フーガ、形式を定義しづらい自由な構造など、
後期作品群の特徴は既に明らかである。当時の聴衆はこれらの作品に面食らったという。
(チェロソナタ 4 番・5 番は、ベートーベンの室内楽曲の中でパート譜別ではなくスコアの
形で出版された最初のものであるという事実からも、両パートの絡み合いが高度に複雑化
している事情が察せられる。)
ソナタ第四番に見られる自由ソナタ “Freies Sonate” という形式(オリジナル手稿譜に
ベートーベンはこう書きこんでいるのである)はベートーベン自身にとっても初めての試
みであり、4 つの楽章をそれぞれゆっくりな前半とテンポの速い後半という 2 つのペアにま
とめるという形式は特に斬新である。(ただし、このような形式はバッハやヘンデルに見ら
れる教会ソナタの形式としては普通のものであり、新しい考案というよりはバロック趣味
への回帰と見ることもできる。)静かで瞑想的なオープニング Andante は、チェロが無伴奏
で 2 小節間の主題を歌いあげる。余分な音符を一切含まないこの主題は単純すぎるほどだ
が、その後の全曲の主題を全てエッセンス的に凝縮含有している。
(このソナタ 4 番は全チ
ェロソナタ中で最も短いものだが、余分な音符を省いてアイデアを緊密に詰め込んである
という点で非常に密度が高い。)また、導入部はチェロとピアノの極めて私的・内面的な対
話という形になっているが、主調(ハ長調)―属調―関係短調(イ短調)という Allegro vivace
部への導入機能を簡潔に果たしている。(主部が主調でなく関係短調で始まるというのも、
尐し変わった構成である。)官能的な響きに頼らず、二つの楽器の対話を対位法的な構成に
乗せて音楽を語らせる仕組みは、Op. 5 で見せた「装飾性と明朗性」が Op. 102 の「繊細性
と内面性」へと変化したことを示す端的な一例である。
Allegro vivace は導入部から一転、激しい付点のリズム感を持つ短調の主題で始まる。第
二主題はホ短調。非常に高音域にまでチェロの旋律が広がっている点で、それまでのソナ
タよりも技術的難易度が上がっており、自由で詩的な旋律はそれ以前のチェロソナタと比
べて非常にロマン派的である。第一主題は、冒頭の C-H-A-G という下行音型モチーフにつ
なげて、G を底に C-H-A-G-A-H-C-D-E と上行に転じる音階を考えれば、AHCDE の部分
が主題になっていることに気付くだろう。
第二楽章前半(第三楽章と数える人もいる)Adagio は沈思的なアダージョで始まり、第
一楽章の第一主題を調性・ムード両面におけるブリッジとして利用して後続する Allegro
vivace 部につながる。
(第一楽章のテーマを再び後の楽章で用いる手法はベートーベン以後
のロマン派で、特にシューマンやサン=サーンスなどが発展させたサイクル形式として知
られるが、ベートーベンの時代にあっては極めて異例なものである。ここでもベートーベ
ンの先進性が光っており、恐らくベートーベンが本作を Freie Sonate と位置づけた理由も
この形式にあるのだろう。)このアダージョ部は和声的には薄く、声部構造も単純であるが、
反面非常に詩的であり、レチタティーヴォ的でさえある。装飾的な 64 分音符の動きはリズ
ミックなものというよりも時間の流れを神秘的に堰き止める効果を持つと言えるだろう。
実際、チェロが単独で歌う下降アルペジオの音型はカデンツァのようにして拍感から解放
されて自由に弾いて構わないだろう。(ピアノソナタ Op. 111 の終楽章を思い出せれたし。)
属調から第一楽章の主題の再現部へと切り替わるが、この接続部は、チェロとピアノの間
における旋律の模倣、トリルなどの装飾音によって短いながらも非常に色彩豊かに仕上が
っている。そして極めて巧妙に、滑らかに Andante 部は Allegro vivace へとつながる。
アレグロ部(第四楽章と数える人もいる)は ABA 型のソナタ形式であるが、非常に快活
な性格を持ったハ長調の調性が明快な曲である。主題は第一楽章冒頭で示されたテーマ
(CHAG)の inversion になっていることに注意。
休符、変則的なアクセント記号、ゲネラルパウゼ、シンコペーションのリズムなどによ
って快活な性格が良く表現されており、構造的には高度に洗練された対位法的な噛み合い
が特徴的である。展開部はチェロの奏する保続音(途中から亓度上を加えた重音になる)
でやや唐突に始まる。展開部にはカノン的もしくはフーガ的な片鱗も垣間見られ、ソナタ
亓番で完全なフーガ形式が使われることを予見しているようでもある。最後は、展開部導
入と同じ形でチェロが保続音で示す変ニ長調から、半音の横滑りによって主調であるハ長
調にやや強引に回帰する。
・ソナタ第亓番 Op. 102 No. 2
ベートーベンがチェロとピアノのための作曲を三度目に始めた 1815 年の時点では、既
にバイオリンソナタは全て書きあがっていた。つまり、「弦とピアノ」という組み合わせに
よるソナタ作品群を、ベートーベンはチェロで始め、チェロで終えたことになる。(あまり
顧みられることはないが、ベートーベンはバイオリンを弾くこともできた。)しかしチェロ
ソナタ第 5 番によってベートーベンの最後期の作風が真に確立されることになる。フーガ
や対位法への愛着、アレアトリックな自由形式への移行といった傾向である。(ピアノソナ
タ “Hammerklavier”、弦楽四重奏 “Grosse Fuge”、Missa Solemnis、第九交響曲など、よ
り後期の作品ではさらに高度に発展したフーガが用いられている。)
ソナタ第亓番は構成上伝統的な三楽章を持つソナタ形式で書かれているが、第二楽章
の見せる奥深さは他のソナタの比ではない。形式的に限定された中に凝縮された質的な表
現密度の高さはウィーン古典派の音楽に特徴的な側面であるが、その後のドイツ音楽に継
承されなかった音楽言語であり、対位法的な構造を互いに浮き立たせるように弾きたい。
このソナタ亓番は技術的にも精神的にも難曲で、多くのチェリストにとって演奏は簡単で
はない。感情の急激で度々に及ぶ変化、緻密で多層的でありながら装飾を排した短く簡潔
な構成、形式的な表現の排除といった性格は後期ベートーベンに特徴的なスタイルである。
ブラームスからリゲティまで 19~20 世紀の音楽家はほぼ全員がこの亓番のソナタに強い影
響を受けているといって過言ではない。
第一楽章 Allegro con brio は感情的な要素と和声的・旋律的な要素が対比的に入り混じっ
て現われる楽章である。冒頭は曲の背景を用意するかのように、ピアノがリズムの形と音
楽の快活な性格、簡潔で凝縮されたエネルギー感をファンファーレ的に提示する。このピ
アノによる導入は短いが、曲全体に運動力を与える役割があるので重要である。(チェルニ
ーはここで♩=152 の速度指示を書きこんでいるが、これは曲の雰囲気を出すには早すぎて
無理がある。議論の余地のあるところだが、本当は♩=132 のところをチェルニーがメトロ
ノームの目盛をひとつ読み間違えたと考えるのが妥当ではないだろうか。)他の多くのソナ
タと異なり、この冒頭はいきなり早いテンポで二長調の調性を高らかに宣言するかのよう
に始まる。チェロは直後に第二主題を高らかに歌いあげ、ピアノとチェロが交互にもしく
は協同して主題を発展させていくが、この提示部の展開はやや軽躁快活に過ぎる。船乗り
達が甲板上で Hornpipe を踊っているような、粗野な愉快さをイメージしても良いかも知れ
ない。再現部の前では尐し陰影のある部分もあり、冒頭のピアノの音型が目まぐるしい転
調を齎すが、再現部・コーダ部はもう一度展開部に行くと思わせていきなり足早に終わる。
ソナタ 4 番と比べるとチェロは低音域内での旋律が多く、ピアノの右手を旋律としてチェ
ロは完全な内声に回る箇所が多い。その結果として、二長調という明るい調性であり、旋
律も曲の調子も明るく元気であるにも関わらず、響きとしては落ち着いた尐し暗い性格を
併せ持っている点は面白い。
第二楽章の表題 Adagio con molto sentiment d’affetto は興味深い。Molto などとわざわ
ざ言っているということは、「ほとんどチェロ奏者の表現力ではセンチメントが不足だ」と
ベートーベンが予め考えていたことを示唆するからである。嫌味にならないように十分に
内面的に、しかしその発露としては非常な表現力をもって演奏に当たりたいものである。
第二楽章は三つの部分からなるが、真ん中の二長調部をニ短調部が挟む構成になっている。
ピアノは伴奏がほとんどで、専らチェロが旋律部を歌うが、ピアノの左手の奏する 32 分音
符が重要な性格を決めている。また、中間部の旋律的な温かみが両端の短調部との良い対
比を生むように弾きたい。両端部の持つ暗い哀調に満ちたコラール様の響きは、秘めた緊
張感とともに、ベートーベンの全作品中でも最も苦悩と悲劇を美しく表現したものであろ
う。冒頭のピアノ伴奏は教会音楽のような厳格さ(葬送の列をイメージしても良いだろう)
さえ備えている。中間部の二長調は夢見るように美しく、静かで宗教的でありながら雄弁
である。付点のリズムの歌い方に注意。第二楽章のコーダ部は、終楽章に有機的に接続す
る。特にテンポが遅くなっていくと共に、宗教的恍惚感とも言える属調の A-Dur から
Allegro fugato に入る瞬間は絶妙である。チェロソナタ全亓曲を通じてベートーベンが長い
緩徐楽章を書いたのはこのソナタ 5 番だけであることをよく考えるべきであろう。
(ここで
さえも二楽章と三楽章の間がアタッカであることを考えると、この雄大な二楽章は三楽章
のイントロに過ぎないという見方も不可能ではない。ただ、この第二楽章こそベートーベ
ンの人生におけるチェロ音楽への愛情の最頂点を体現したものだとの見方はそれほど的外
れな推測ではないだろう。もっとも、情緒的な音楽言語の表現形式という話題を離れて、
純粋に初期のフォルテ・ピアノでは残響が短かすぎて緩徐楽章を弾くのに不適であり、よ
うやく Op. 102 の時代になって楽器の技術改良が進んだことから緩徐楽章が書けるように
なったのだという意見もある。常に最新の楽器の改良を作曲に反映させたことで有名なベ
ートーベンにおいては、これも有力な仮説だろう。しかし短いながらも他のソナタにもス
ローな部分がある事実は無視できない。和声の点から見れば、ボッケリーニやハイドンの
曲に見られる従来型の緩徐楽章ではチェロが高音域で旋律を歌い続けるか低音域でベース
に回るかしかなく、このような使用法をベートーベンが嫌ったということは十分考えられ
るだろう。確かにソナタ亓番の第二楽章は、非常に哲学的で暗く、重く、苦悩に満ちた曲
想が特徴的であり、軽やかにソプラノが歌うアリアのような緩徐楽章ではない。ベートー
ベンはチェロに最適な緩徐楽章の性格と、そうした楽章を含む場合の曲全体の構成バラン
スについて、ソナタ亓番に至るまで試行錯誤を重ねていたのかも知れない。曲全体の構成
バランスを非常に重視していたベートーベンにあっては大いにあり得る話で、このような
バランスをとった例としては、ソナタ 3 番が挙げられる。ソナタ 3 番の非常に長いスケル
ツォは、緩徐楽章を省き、また終楽章の導入部として短いアダージョを置く構成を選んだ
結果、全体のバランスを取って長さを決めたと考えられる。)
終楽章 Allegro fugato ではピアノとチェロでそれぞれ音階が提示され、これがフーガの
主題になるのだが、フーガはベートーベンが後期に非常に好んだ模擬バロック形式である。
チェロとピアノのために書かれたフーガとしては、本ソナタが史上初のものである。(後年
ブラームスはチェロソナタ 1 番の第三楽章でフーガを使ったが、これはバッハのフーガの
技法をブラームスがよく研究したこともあるとはいえ、ベートーベンのチェロソナタ 5 番
へのオマージュは明らかである。)ただし、このチェロソナタ以降に書いた作品(例えば大
フーガ Op. 133)のフーガがより複雑に入り組んだものであることを考えると、本ソナタの
構成はそこまで高度に複雑な域には達していないと言えるかも知れない。フーガの主題は
冒頭の上昇音型によって提示される。フーガはところどころに用意された休符によって小
休止を与えられ、そこから音楽が再出発するような構成になっているが、反進行、シンコ
ペーション、半音階等の使用によって極めて複雑に聞こえる。ベートーベンは同時代の作
曲家よりもフーガに関して深い造詣を有し、また単なる形式上の一形態というだけではな
く、音楽上の表現手段として有効に利用したのだが、同時代人達にはベートーベンのフー
ガ好きが高く評価されることは最後までなかった。1817 年に Simrock から最初の初版が出
版された際の音楽新聞 Allgemeine Musikalische Zeitung の書評には「最も奇妙で風変わり
な趣味の音楽へ、これらのソナタが新たに加わった云々」と書かれている。
バッハやヘンデルといったバロック期の巨匠への敬慕、形式的な音楽への回帰というベ
ートーベンの特徴はあるが、バッハを頂点とするバロック期の作曲家のフーガが多くは深
刻な性格を持ったものであったことと比べると、このソナタのフーガはもっと軽快に弾い
ても良い種類のものかもしれない。
また、ソナタ亓番の特徴として、チェロは音域が高くないにも関わらずピアノに埋もれ
ることがほとんどないという点が挙げられる。ピアノもチェロも構造上もしくはソロ楽器
としての性格がベートーベンの時代に発展せられ、まだまだ模索中の段階であった。最後
のソナタに至って、ベートーベンはチェロの音色を音楽構造・和声・音域の面から最適に
用い、持ち味を最大限に引き出せるような作曲技法を身に着けていたということであろう。
・ホルンソナタ Op. 17
1801 年作曲によるホルンソナタ Op. 17 は、後にベートーベン自身の手によってチェロ用
に編曲され、題名も「ピアノとホルン、もしくはチェロのためのソナタ」と改題された。
この経緯は弟子のチェルニーによって確認されている。そのためこの曲をチェロソナタの
ラインナップに含める場合があり、Wiener Urtext 版ではソナタ 6 番として収録しているほ
どである。Op. 28 (1803 年作のピアノソナタ)あたりまでを「初期」と分類するのが通例で
あるから、このホルンソナタは初期の作品であり、作風的にはチェロソナタ 1&2 番に近い
と言えるだろう。ホルンソナタはベートーベンが 1800 年に一緒にツアーを行ったホルンの
名手 Giovanni Punto のために書かれた。しかしチェロ譜への編曲はよく出来ており、弦楽
器を鳴らしやすい音型であるので、冒頭のファンファーレ的アルペジオ以外に、本作が元々
はホルンのための曲だったのではないかと明らかに疑わせる旋律は尐ない。
(1801 年のべー
トーベン自身の演奏会で “チェロソナタ”とだけ記録にある曲が、Op. 5 ではなく恐らく本ソ
ナタだと考えられることからも、作曲自身がこの編曲を気に入っていたことは確かであ
る。)
[補:テンポについて]
べートーベンは「メトロノームの速度記号は曲の実体そのもの、速度指示用語(lento,
adagio 等)は精神面」と語っているようにテンポを非常に重視し、メトロノーム記号を最
初に使い始めた作曲家として知られているが、交響曲第九番のほか幾つかの演奏会では演
奏中に拍をメトロノームのように叩き続けて指揮したこともある。
(あるピアノ奏者は演奏
中にベートーベンが棒で拍子を叩き続けるのに辟易したと書き残している。)弟子のチェル
ニーは「私達作曲家はメトロノーム記号もしくは適切な言葉によって最も正確にテンポを
指示しなければなりません。なぜならば速度がおかしければ曲全体の性格が歪められてし
まうからです。正しいテンポの演奏という可能性はたったひとつしかありえず、演奏上の
最も重要な要素はテンポであり、そのために作曲家は全力で速度指示を与える努力をして
きたのです」と語っている。「メトロノームのテンポと音楽のテンポは別である」などとい
う蘊蓄家の一家言は擱くことにして、ベートーベンの音楽を演奏する際には厳密にメトロ
ノームの速度を守ることは音楽の要請に矛盾しない。
(もちろん自然なリズムの揺らぎが付
与されるのは音楽のうちだが、rall. や accel. を後期ロマン派作家にように付加するのは悪
趣味である。ベートーベンの音楽語法による音楽は、基本的に一定リズムの枠内にあると
言っても良い。)もちろん音楽には常に自由な部分があり、ベートーベン自身も「メルツェ
ルの速度記号では 100 だが、これは第一小節だけの話だ。というのも感覚はまた別の拍感
を持っているもので、こちらは全くもって音型だけで表現するのは無理な代物なのだから」
と語っている。しかしそのような文脈は音楽構成上明らかであり、ほとんどの曲(特に器
楽曲)では、一定のテンポを守ることが望まれる部分が多い。
そこで問題はどのような速度を守ればいいかという点に収束される。長い間、ベートー
ベンの速度指示は現代のものよりも全て一段階速すぎる、ということがまことしやかに言
われていたが、この意見に特に根拠はない。演奏家はまず表記通りの速度こそベートーベ
ンが望んだ速度だったのではないかと考えるところからスタートすべきである。もちろん
振り子式メトロノームでは設置場所や製作精度によって数%の誤差は出るし、ベートーベ
ンやチェルニーが読み間違えたというようなミスもあったに違いないから、あまり極端な
指示記号は疑ってかかるのは賢明である。
最初のメトロノームは 1816 年にメルツェル (Johann Nepomuk Märzel, 1772-1838)が
製作したものである。ベートーベンは最初にメトロノームを使い始めた作曲家として有名
だが、チェロソナタに関して言えば、メトロノームが発明された時点では既に全てのチェ
ロ作品は完成した。そのため速度記号の書き込み(M.M. = Märzel’s Metronom の意味)は、
弟子のチェルニーが後から書き込んだものである。
[補:調性について]
ベートーベンは非常に激しい感情を表現するのにハ短調を好んだ。ピアノトリオ Op. 1
の第三楽章、交響曲第亓番「運命」冒頭、ピアノソナタ 13 番「悲愴」、ピアノソナタ 10 番
の第一楽章、ピアノコンチェルト第三番、ピアノソナタ 32 番、ミサ Op. 86、交響曲三番「英
雄」の第二楽章、コリオラン序曲といった名曲がハ短調で書かれている。
伝統的に軽快で洒脱な性格が好まれるサロン音楽(室内楽曲やソナタなど)で深刻なハ
短調が好かれることはなく、そのため貴族的で耳に優しい音楽を目指したハイドンやモー
ツァルトの室内楽曲にハ短調は極めて尐ないのであるが(モーツァルトのピアノコンチェ
ルト 24 番、ピアノソナタ 14 番などは例外的である)、むしろ英雄的な嵐のような感情表現
を好み、崇高さや難解さを音楽に盛り込んだベートーベンにはもってこいの調だったので
あろう。チェロソナタの中には主調がハ短調で書かれたものは無いが、第二番には途中で
ハ短調に転調する部分がある。ベートーベンの音楽にハ短調が出てきたら、常に感情的に
意味深なものをくみ取り、激情的に演奏すると良いかも知れない。