かなであん No.269

ざい
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
2015.9.20 発行
kanadean
No. 269
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仏教のこころを求めて くれよ…」と、今生かされて生き
ているこの 私 にこそ仏法を聞い
てほしいと、先人が遺してくださ
あまりの酷暑に、もう秋は来な
り、綿綿と守り伝ええられてきた、
いのではないかと思わせた夏が去
尊い仏縁であることを忘れてはな
り、自然は律儀に秋を運んで来て
りません。 くれ、お彼岸が巡ってまいりまし
彼岸とはあの世をいうのでは
た。 ありません。「迷いの世界から
普段は一向に宗教に無関心な日
悟りの世界へ至る」と言う意味
本人にも、お彼岸やお盆と聞くと
であって、「あの世の先祖を供養
何らかの宗教心をよみがえらせ、
する」と思って行うのは明らかな
全国各宗派の仏教寺院でも「彼岸
大きな間違いなのです。 法要」が勤まり大勢の信者がお参
* * * りされます。お盆やお彼岸は習慣
私たちが追い求める「安心」
としては揺るぎなく定着していま
「楽(幸せ)」、これは宗教に
す。しかしその一方で、本来の意
とっての大きなテーマですが、「あ
義から離れ、自分たちの先祖の「お
れを達成した」「こんないい家
墓まいり」こそが仏さまに対する
族ををもってる」「自分は健康で
最上の礼儀(供養)だと思ってさ
若々しい」など、そういう我執
れている方が多いのも現実です。 の含まれる幸せは永遠ではなく、
お彼岸は、ご存知のように年二
危うく、いつも失うのではない
回、春分の日と秋分の日の「お中
かという不安や猜疑を生む苦悩
日」をはさんで一週間をいう仏教
の種となります。仏教は、執着を
習慣です。本来この期間は、仏道
捨てよ、今あるそれで安心すれば
修行のために設けられたものでし
すればいいじゃないか、「いの
た。なぜなら、私たちの日常は、
ち」というものの本質は、最終
世俗のことに心を奪われ、目先の
的にはどんな人間にも平等で変
日暮しに追われており、たとえそ わらないものだよと教えています。
れが順調に見えていても、また反
幸せは追求すればするほど果て
対に困難に直面して苦悩する暮ら
しない不満につながるものです
しにあっても、なかなか平常心で
が、逆に安心は今ある自分でよし
はおれません。私たちは自分を見
と肯定してくれるのです。それは
失いがちなのです。 現実を無視して笑い飛ばせという
お彼岸は、そんな我が身を見つ
のではありません。 め直す仏縁として、「せめて、気
親鸞聖人の「和讃」の中に「如
候のよくなったこの時期だけでも
来の遺弟悲泣(ひきゅう)せよ」
仏法に耳を傾け迷いに気づいて
という言葉が出てきます。
辛く、悲しい時には泣きなさ
い、泣いていいんだよ、という
意味だとお味じわいしています。 「泣く」という行為には、声
を出して泣くこと、また人知れず
心で泣くこともあるでしょう。泣
いて何か力があるのか…、そこ
には、自分を含めたあらゆるも
のが「無力」であることへの気づ
きがあります。いくら愛おしく思っ
ても思うようにいかない、思う
ように助けることができない、
という「無力」です。ある意味に
おいては宗教も「無力」ですが、
そのことを認め、知るらせてくれ
るのは宗教しかないのです。 親鸞聖人はそのみ教えの中で、
はっきりと人間の限界を認め、
それがゆえに、他力の教え「すべ
て苦しむ衆生をもらさず救えな
かったら、私は仏にはならない」
と誓っていつも手を差し延べて
下さっている阿弥陀さまの大慈
悲に恵まれてあるから安心せよ、
と導いて下さっているのです。
そのみ教えには、お浄土に往く
だけではなく、往って生まれて仏
となって、再び戻ってきて人々を
迷いから救うはたらきをすると
いう明るい世界が開けています。 お彼岸は、亡くなられた大切
な人の、その尊いはたらきに気
づかされるときなのです。そこに
仏教国日本の大らかさと穏やか
さが育まれていたのです。本来の
意味を知って仏縁を法縁にしてい
ただきたいと願っています。合掌
編 集 後 記
奏庵法座
おことわり この度の大雨による大水害でも発令さ
れた「ただちに命を守る行動をとって
秋季彼岸会 下さい」、この警告を聞くようになっ
住職、この度入院加療が
たのは大震災がきっかけだろうか。内
必要となり、いましばらく
日 時
容の深刻さに比べると、あまりにも緊
は治療を最優先に過ごさせ
9月26日(土)
迫感に欠け、漠然とした血の通わない
ていただきたく存じます。
午前11時より 表現だ。何が?、どこから?、どうやっ
ご法事、お葬儀などの法務
て来る?、これでは自分がどんな危険
に迫られているのか判らない。■勧告
は、今まで通り、若院と衆
「真宗宗歌」
や警告、命令を発令しても、全員を監
徒(龍溪寺所属の僧侶)が
阿弥陀経 視、強制してまわるのは不可能だから、
変わらずお勤め、お参りさ
法 話 行動に個人差があるのを責めることは
せていただきますので、ど
ご文章拝読
できない。ましてや、行動を取りたく
うぞ遠慮なくご依頼下さ
ても、からだが不自由な家族がいたり、
「恩徳讃」
家族同然のペットを置いてはいけない
い。 ∼*∼
という躊躇が行動を遅れさせる情は理
皆さまにはご心配をおか
おとき 解できる。それが人間だろう。もっと
し、若干のご不便をおかけ
早く避難していれば、屋根の上で震え、
することもあるかと申し訳
空気が夏のものでなくなり、
電信柱につかまり、絶望感に襲われな
なく存じますが、ご理解と
がら救助を待たなくても済んだかもし
気がつけば初秋の陽に庭のス
れないが、あの時のあの行動が、あの
ご協力をいただきますよう
スキの穂が光っていて、足元
人たちの置かれた現状の中では「ただ
お願い申し上げます。 に目をやれば、彼岸花が毎年
ちに命を守る行動」であったことは間
合掌
咲く場所にちゃんと伸びてき
ています。皆さまにはお変わ
りなく厳しい夏を乗り越えら
れたでしょうか。 下半期最初はお彼岸の集い
です。永代経法要に続いてで
すが、法要にお参りできなかっ
た方、またお参りくださった
方も続いてお参り下さい。 お待ちしています。
違いない。■気が付いた時には遅かっ
た。人生においてある日突然そんなこ
とが降りかかったとしても何ら不思議
仏教の智慧
ではない。それは、あの時こうしてた
としても起こったかもしれない。手遅
《災難に遭うときは》 れは「敗北」と「不幸」の極みのよう
にうつるが、それがなければ「奇跡」
災難に逢う時節には
というドラマも生まない。助かったと
災難に逢うがよく候 しても後々「あのとき死んでいれば…」
と、それ以上の苦難に遭うかもしれな
死ぬる時節には
い。それが進歩を生んできた。■思い
死ぬがよく候 がけない災難は、人間のはからいで思
これはこれ、災難を うようにできるものではないことを教
のがれる妙法にて候 えてくれる。色々な困難の中で命を守
ろうとする姿は、人命救助や医学の進
歩に役立ち、目の前で流されていく人、
良寛の、「治る病もあろ
助けを求め苦しむ人を救えなかったと
うが、治らぬままに救われ
いう経験は人を謙虚にさせ、何事も克
る道がある」、病にありな
服できるというのが奢りであることに
がら、「誰もが気づかぬま
気づかせる。■インフラを整えるのも
大切、専門家の分析も必要だが、災難
まにいつかは病になってい
は手を替え品を替えやってくる。そん
る」そう気づいたときに、
な中で命を守るとは、生きている限り
救いの道が開けてくる。災
生きようとすることだ。その一息一息
難にある方と共有したい深
を可能にする行いが「ただちに命を守
いことばです。
る行動」なのだと思う。 Norimaru