日本基督教団 麻布南部坂教会月報

教会附属
南部坂幼稚園
http://www.nanbuzaka.com/
E-mail [email protected]
聖書と祈り会
水曜午前 10 : 30 ∼
〒106−0047 東京都港区南麻布 4−5−6 Tel & Fax 03(3473)1276
青年会
第4日曜 礼拝後
松 谷 祐 二
牧師
2015(平成27年)11. 8
教会学校
日曜午前 9 : 00 ∼
婦人会
第4日曜 礼拝後
主日第二礼拝
日曜午前 10 : 30 ∼
日本基督教団
麻布南部坂教会月報
麻布南部坂教会月
報
成人会
第3日曜 礼拝後
主日第一礼拝
日曜午前 9 : 00 ∼
谷 祐 二
﹁
﹃聖なる者たち﹄のための活力剤
││聖礼典﹂
牧師 松
イエス・キリストは、キリストを信じ、キリス
トを通して神を信じるすべての者たちを救うため
にこの世に来られました。そして贖罪の死と復活
を遂げ、天に昇られました。やがて再び来られる
審判の日までにわたしたちを神に立ち帰らせるた
め、今も天において働かれ、罪の赦しのため、父
なる神に執り成してくださっています。
地上では今はキリストのお姿は見えませんが、
代わりに聖霊なる神が、わたしたちの心にキリス
トを信じる信仰を起こさせ、
﹁聖なる者たち﹂に
ふさわしく、少しずつ、新しく造り変え、成長さ
せてくださっています。
そのお働きの手段として、聖霊なる神は、
﹁聖
書の言葉の朗読と説教﹂
を用いられます。
また、﹁聖
マタイによる福音書 第二八章一八∼二〇節
イエスは、近寄って来て言われた。
﹁わたしは
天と地の一切の権能を授かっている。だから、あ
なたがたは行って、すべての民をわたしの弟子に
しなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼
を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて
守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。
﹂︵新共同訳聖書︶
マタイによる福音書 第二六章二六∼二九節
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取
り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たち
に与えながら言われた。
﹁取って食べなさい。こ
れはわたしの体である。
﹂また、杯を取り、感謝
の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
﹁皆、こ
の杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるよう
に、多くの人のために流されるわたしの血、契約
の血である。言っておくが、わたしの父の国であ
なたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶど
うの実から作ったものを飲むことは決してあるま
い。
﹂
印刷 有限会社 創文社 Tel(3491)8321
礼典︵せい・れいてん︶
﹂を用いられます。
聖礼典というのは、プロテスタント教会におい
ては﹁洗礼﹂と﹁聖餐﹂の二つのことです。どち
らも、礼拝の中で行われる特別な行為、キリスト
とその恵みを目に見える形であらわすしるしで
す。この二つだけが﹁聖礼典﹂と呼ばれて重んじ
られるのは、冒頭に掲げたように、聖書の中に、
イエス・キリストご自身がこれらをお定めになっ
た明確な言葉があるからです。
﹁聖書の言葉の朗読と説教﹂は、神がイエス・
キリストを通してわたしたちに与えてくださった
救いを、良い知らせ、福音として告げ知らせます。
言葉によって、キリストとその恵みが語られるの
です。それに対して﹁聖礼典﹂では、
目に見える、
感覚的に分かる仕方でキリストとその恵みがあら
わされます。
﹁聖礼典﹂は、
﹁聖書の言葉の朗読と
説教﹂によって告げられた福音が真実であること
を、それを信じる人々に保証し、確信させてくれ
るものです。
ですから、﹁聖書の言葉の朗読と説教﹂
は単独でなされることもありますが、
﹁ 聖礼典 ﹂
は単独ではなされず、必ず﹁聖書の言葉の朗読と
説教﹂とセットでなされることになっています。
二つの聖礼典のうち、洗礼は、ある人が入信す
る際にただ一度だけ、水を用いて礼拝の中で行わ
れ、その人がキリストと決定的に結ばれ、
﹁聖な
る者たち﹂の一人に加えられたことをあらわしま
す。キリストの贖罪の死のおかげで、その人の罪
は洗い清められて赦されるのです。その人は、罪
に支配された古い人としては死に、キリストに結
ばれた新しい命によみがえったのです。洗礼は、
こうした意味を自分で理解し言葉にできる年齢に
達した人の場合は、キリストを信じ、生涯キリス
トに従うことを、教会の人々の前で告白して初め
て授けられます。
また、
こうしてキリスト者となっ
た人が子を授かった時は、その子も親と同じく、
キリストと結ばれ、キリストの恵みにあずかる者
として洗礼を授かることができます︵これを﹁幼
。その場合、親は、やが
児洗礼﹂とも言います︶
てその子が自分自身で信じ告白するように、その
子をキリスト者として養育することをも約束しま
す。
他方、聖餐︵
﹁ 主の晩餐 ﹂とも言います ︶は、
十字架で死なれたキリストの体と血とをあらわす
パンとぶどう酒を用いて、礼拝の中で繰り返し行
われ、洗礼を受けて信仰を告白した人だけがあず
かります。
キリストがわたしの罪のために死なれ、
わたしに罪の赦しと永遠の命を与えてくださった
ことを感謝して覚えながら食べ、飲み、今も生き
ておられ、わたしと共にあってくださるキリスト
を、心のうちに味わいます。聖霊は、目に見えな
い仕方によってですが、
信じて食する人のうちに、
キリストの命を満たし、信仰をリフレッシュし、
強めてくださいます。
世界中のキリスト者たちは、
キリストによって結ばれた一つの家族、神の家族
として、
この同じテーブル︵食卓︶に着くのです。
キリストを信じてこれらの聖礼典にあずかる人
は、キリストと一つに結び合わされ、同時に、キ
リストを信じ、キリストに結ばれているすべての
人々││つまり教会全体││と一つに結び合わさ
れます。
﹁キリスト﹂と、
﹁キリストを信じ、キリ
ストに結ばれている人々﹂
は一体です。﹁キリスト﹂
と﹁キリストの教会﹂は一体です。わたしがわた
しの家族と一体であるように。それゆえ、キリス
トを信じる人は教会に加わり、
同信の人々を愛し、
そのために配慮し、責任を果そうとします。教会
に加わろうとしない人、同信の人々を愛さない人
は、キリストのことが本当には分かっておらず、
信じていないから、そうなってしまうのです。
聖礼典は、
信じる人に対してこそ恵みを与える、
意味のあるものですし、信じる人が責任をも自覚
し、
﹁責任を果たします﹂と約束する機会でもあ
ります。ですから、洗礼も聖餐も、まだ意味を理
解しておらず、キリストを信じていない人︵幼児
洗礼の場合には、理解しておらず、信じていない
親︶が受けることはできません。キリストに対し
て非礼ですし、その人のためにもならないからで
す。
しかし、人がもしキリストを信じるようになっ
たならば、迷わず、まず洗礼を受け、それから聖
餐にあずかり続けるようにすべきです。聖霊はこ
れらの聖礼典を用いてその人のうちに働き、信仰
をいっそう強め、成長させ、神と人とに愛される
生涯を送らせてくださいます。その恵みは測り知
れないほど大きいのです。
〔2〕
麻布南部坂教会 月報
宍 戸
信次郎
十月二十五日︵日︶の主日礼拝は、祖師
谷教会の小河由美子牧師による特別礼拝で
した。ここ数年、同じ西南支区の諸教会の
牧師をお招きして、礼拝を守っています。
小河先生は、ヨハネによる福音書第一章
一∼十四節を用い﹁神の国﹂と題して、御
言葉の解き明かしをしてくださいました。
ヨハネによる福音書第一章一∼十四節は
ロゴス讃歌とも呼ばれ、
﹁言︵ロゴス︶﹂と
いうあまり他では使われない言葉を用い
て、キリストの働きと人間の意味を、指し
示しています。
万物は言によって成った。成ったもので
言によらずに成ったものは何一つなかった。
万物の創造の過程から関わってくださっ
たイエス・キリストは、私たちのもとに宿
られました。私たちを救うために。
神でありながら、人として、罪もないの
に死なれたのは、
私たちを救うためでした。
私たちを神の子とするために。
私たちの罪を誰も神に対して償うことは
できません。それが出来るのは、神が共に
おられる、神の子、イエス・キリストのみ、
ですと語られました。
日本基督改革派教会で受洗された小河先
生は、教団に移
籍後、日本聖書
神学校を卒業さ
れ、日本基督教
団の教師になら
れました。先生
は、社会人生活
を 送 り な が ら、
夜間の神学校で
学んでおられる
際の、忘れられ
ない体験をお話
してくださいました。
駅前にある美味しそうな焼き鳥屋さんを
目にしながら、なかなか中に入ることが出
来なかった先生は、ある日、知り合いの人
に声を掛けられ、初めて中に入ることが出
来ました。そこで焼き鳥を焼いていた人の
よさそうな五十六才のおじさんと話をし
て、キリスト教が好きだ、讃美歌も知って
い る、 と 聞 か さ れ ま す。 と く に、
﹁いつく
︵ 讃 美 歌 三 一 二 番 ︶ は、 一 番 か
しみ深き﹂
ら三番まで全部覚えている。十六歳で少年
院に入ったそのおじさんは、長い刑務所生
活の中で、いつも讃美歌を歌っていた、と
いうのです。
その後、三∼四か月後に姿を見かけなく
なったそのおじさんは、のちに、くも膜下
出 血 で 亡 く な っ た と 聞 い た と き、 先 生 は、
そのおじさんは、天に召された、と感じら
れました。たとえ、受洗はしていなかった
としても。イエスは四十年の間、その方と
共に在って下さった、と信じられたのです。
イ エ ス が 代 わ り に 罰 を 受 け て く だ さ っ た、
天に昇られた神が、神を私たちに示してく
ださったのです。
小 河 先 生 は こ う 続 け ら れ ま し た。 先 日、
ある講演会で、私たちはいろんな面をもっ
ているが、良いところも、悪いところも全
部含めて、自分は愛されていると感じるこ
とが大切で、そこから人を信頼する心が生
まれる、という話を聴きました。私たちは
神 に 愛 さ れ て い る こ と を 知 る こ と が 大 切。
全てを含めて受け入れてくださり、代わり
に罰を受けてくださる。神が私たちを最善
に導いてくださる、神によって新しく生ま
れ る。 全 て の 事 が イ エ ス に よ っ て 成 っ た。
最初から神の国はあったが、私たちはイエ
スによって神の子となった。神が共におら
れ、祝福してくださる。神の国は今、ここ
に在る、と説教を結ばれました。
礼拝後、愛餐会を共にし、楽しい時を過
ごすことが出来ました。小河先生と、先生
感謝です。
を遣わしてくださった神さまに、
報
告
会
十月度︾
*十月十一日︵日︶の教会学校礼拝、主日
第二礼拝では、東京神学大学四年の平向
倫明神学生に説教をしていただきまし
た。また、当日の席上献金は、神学校日
献金として東京神学大学に送りました。
平向神学生のプロフィール
一九五八年生まれ。一九七八年∼二〇一
四年三月末までの三十六年間、静岡県富
士市にある自動車の部品会社に勤務。
二〇一四年四月、東神大三学年に編入学。
受洗は一九八五年、日本基督教団富士教
会にて。現在は学生寮に居住。家族は妻
︵静岡県富士市在住︶
、子供三人︵長女・
次女は、既婚。長男は、現在大学生︶
。
*リードオルガンの修理が無事完了し、礼
拝での使用を再開しました。感謝してご
報告します。
*十月二十五日︵日︶の主日礼拝は、小河
由美子先生︵祖師谷教会牧師︶に説教し
ていただきました。
小河先生のご略歴
和歌山県に生まれる。
一九八三年四月 日本基督改革派教会で
受洗
一九九六年九月 日本基督教団に移籍
一九九七年二月 日本聖書神学校卒業
二〇〇〇年九月 日本基督教団補教師
二〇〇三年九月 日本基督教団正教師
二〇〇一年四月∼二〇〇四年三月 日本
基督教団 小石川白山教会担任教師
二〇〇四年四月∼二〇〇五年三月 日本
基督教団 祖師谷教会担任教師
二〇〇五年四月から 日本基督教団祖師
谷教会主任担任教師。
人
︽各部報告
成
日 時 十月十八日 午後一時∼三時
場 所 教会堂会議室
出席者 九名
年
人
会
会
開会祈祷 佐柳理久兄
内 容
・
﹁ダニエル書﹂第五、六章を輪読後、討論
を行い、更に松谷牧師に解説して頂いた。
・バビロンの王ベルシャツァルが千人の貴
族を招いて贅を尽くした大宴会を開いた
と こ ろ、 突 然 い く つ か の 文 字 が 現 れ る。
誰もその内容を説明できなかった。
・王妃の指摘によりダニエルに再び声がか
かり、これらの文字の意味が紐解かれる。
ベルシャツァル王にもその才能が評価さ
れ、 ダ ニ エ ル は 再 び 重 要 な 役 目 に 就 く。
しかし予言どおり、王国は二分され、ま
たベルシャツァル王は殺された。
・王国を継いだダレイオス王の下でも、ダ
ニエルは大臣の役目を果たすが、他の要
職にある者たちは、妬みや人種差別など
により、ダニエルを陥れようと企てる。
・し か し、 ダ ニ エ ル は 政 務 に お い て は な
ん ら 汚 点 や 怠 慢 が な か っ た の で、﹁ 王 様
を差し置いて他の人間や神に願い事をす
る者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込
まれる﹂という禁令をダレイオス王に発
布させた。
・ダニエルはこの禁令が発布されているこ
とを知りつつ、神への祈りを続け、獅子
の洞窟に投げ込まれるが、獅子による危
害にあわず、
無事洞窟から引き出された。
このことは、イエス様が自分が囚われて
し ま う と 分 か っ て い な が ら 死 に 向 か い、
しかしそこから復活して戻ってくる、と
いうことと通ずる。
・次回︵十一月十五日︶は、柴田真由子姉
の 司 会 に よ り、﹁ ダ ニ エ ル 書 ﹂ 第 七 章、
第 八 章 を 予 定。
︵新メンバーの柴田姉の
デビュー︶
黙祷をもって閉会
婦
休会
青
休会