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明治維新観の変遷をめぐって
池田, 敬正
Editor(s)
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Issue Date
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社會問題研究. 1965, 15(3・4), p.426-443
1965-10-25
http://hdl.handle.net/10466/7395
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
明治維新観の変遷をめぐって
池
敬
四二六
正
一九四五年の敗戦を転機に展開してきた平和憲法を軸とした民主
の表面にはっきり現われはじめた一世紀にわたる、近代日本の帝国主義を肯定する傾向にたいしてであった。 いわば
﹂のように﹁明治百年﹂ではなくて、 ﹁戦後二十年﹂ に賭けようとする態度が表明されるのは、最近における論壇
るというのが、丸山の発想であろう。
主義の現代日本、すなわち﹁戦後二十年﹂にこそ、これからの日本のあかるい未来を托し得る重大な意義が認められ
後の近代日本、すなわち﹁明治百年﹂ではなくて、
われわれ日本の国民に絶対主義的専制を押しつけ、さらには日本の国民を帝国主義的侵略にかりたてた明治維新以
うというのである。
男の象徴的な発言によれば、 たとえそれが﹃虚妄﹄であっても、 ﹁戦後二十年﹂ の成果に今後の日本の発展をかけよ
択一的な発想で、現代日本の思想状況を理解しようとする動きが、最近をジャーナリズムをにぎわしている。丸山真
﹁明治百年﹂の歩みの意味をどのようにつかむか、あるいは﹁戦後二十年﹂の発展をいかに把握するかという二者
田
﹁明治百年﹂の国家主義的膨脹を全面的に肯定することによって、 ﹁戦後二十年﹂ の民主主義的成果を否定する動き
に対決するものであった。
このような議論を触発したものの一つに、﹃中央公論﹄ に連載されていた林房雄の﹁大東亜戦争肯定論﹂があるこ
とはいうまでもあるまい。この林の議論は、 マルクス主義にたいする感情的な憎悪と、近代日本の歴史にたいする史
実を無視した一面的な解釈によって貫かれている。ここで主張されていることは、近代日本の帝国主義的侵略を、国
家主義的な膨張としてのみ理解し、ヨーロッパ資本主義の世界征覇、あるいはアジア侵略という近代世界史の現実の
中で、いわば防衛的任務をもったものとして擁護することであった。 したがって日本の朝鮮・中国にたいする侵略は
止むを得ざる行為であって、それこそまさに﹁歴史の非情﹂であったとして、日本の侵略に免罪符をあたえるのであ
る
。
﹁戦後二十年﹂の成果を無視しようとする態度は、最近
﹁明治百年﹂の歴史に対決しようとする姿勢は、それなりに一つの方法では
このように﹁明治百年﹂の歴史を整理することによって、
ますますその勢を強めつつある。
だが﹁戦後二十年﹂の成果でもって、
あろうが、その方法は、 かなり危険なものがあると考えざるを得ない。というのは、﹁明治百年﹂か﹁戦後二十年﹂
﹁戦後二十年﹂を近代日本の百年の﹁歴史﹂から切りはなそうとするきわめて非歴史
﹁明治百年﹂と対立させてとらえる
﹁明治百年﹂と﹁戦後二十年﹂を対立的にとらえる時、明治絶対主義を克服していった日本
かという二者択一的な発想は、
的なものであるからだ。
の近代史における人民の苦闘が無視されるであろうし、また﹁戦後二十年﹂を、
時、戦後の民主主義というものが、それまでの長い間の民主主義をもとめでたたかってきた日本人民の苦闘の歴史と
(池田)
四二七
一九四五年を境にしてそれ以前の日本と以後の日本とを、異った原理で理解するのでな
無縁のものとなってくるからである。
したがって必要なことは、
明治維新観の変遷をめぐって
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
四二八
くて、歴史的な発展の一つの画期として一九四五年を理解するにしても、あくまでもそれは、明治維新にはじまる日
本近代史全過程の一画期として理解されるべきであろう。
本稿では、以上のような問題を考える一つの素材として、近代日本の出発点となった明治維新についての見方が、
どのように変化してきたのかということを整理することを自的としている。
明治維新観の変遷を大きく整理してみると、それは絶対主義的な維新観と近代主義的な維新観とに大別することが
出来よう。
絶対主義的な明治維新の見方といえば、いうまでもなく王政復古史観であり皇国史観であるが、そこでは討幕派の
立場に立つものはもちろん、佐幕派の立場に立つ維新論もみられた。政治的な立場に相違はあっても、維新分析の方
法には本質的な相違はなかったのである。 ただ同じ絶対主義的な維新観といっても、その成立の当初にみられた朱子
学的な名分論にのみ終始するものから、日本帝国主義の展開に呼応して、国家主義的な傾向を強めてくるものまでみ
られることに注意しなければならないであろう。
他方近代主義的な明治維新の見方といえば、福沢諭吉のような啓蒙主義者の文明史観的な見方、あるいは自由民権
論者にみられる立憲主義的な維新観がある。ところがこうした近代主義的な維新観は、むしろ明治期に集中しており、
明治思想の中でかなり重要な位置を占めているように考えられる。そして大正・昭和期になると、このような維新観
は衰えはじめ、絶対主義的維新観にたいする批判という本来の任務を果し得なくなってくる。こうした状況の中で、
絶対主義的維新観批判の任務を果しはじめるのが、 日本民主革命論争あるいは日本資本主義論争の中で展開されてく
るマルクス主義的な明治維新論であった。
以上大変大雑把な維新観変遷の見取図をのべたわけであるが、近代主義史観が、明治期において一定の役割を果し
ながらも、結局は絶対主義史観に敗北していく姿は、近代日本の問題が何処にあるかを象徴的に示すものであろう。
だが絶対主義史観批判の任務をもって新しく登場してきたマルクス主義史観ーその主流は、 いわゆる講座派であろ
う!ーが、明治維新さらには近代日本の全体の歴史像を完全に構想し得たであろうか。これまた疑問なしとしないの
である。
一八六九(明治二)年四月四日に三条実美にあててだされた﹃修史の詔﹄に出
﹁史局を聞き、:::須ク速ニ君臣名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ井ヲ明ニシ、以テ天子ノ
名分論的な王政復古史観といえば、
発するといわねばなるまい。
綱常ヲ扶植セヨ﹂というのであった。近代日本の修史事業が、古代律令制の下で編纂された六国史を継承するものと
(一四八巻) という、大政奉還(慶応三年一 O月一四日)
一八八九(明治二二)年に
して、また朱子学的大義名分論による国家的事業としてはじめられたことは、注意されねばならない。
(一五O巻) および﹃復古外記﹄
(池田)
四二九
ら
ところが肝心の明治維新に関しては、直ちにその修史事業が着手されたわけではない。
完成した﹃復古記﹄
(明治四四)年に、文部省管轄下に維新史料編纂会および維新史料編纂事務局が設けられるまでの唯一の
内容をもった維新史は作れなかったのである。
﹁憲法および国体の歴史的由来をあ
その理由は、きわめて狭い藩閥的な政治上の利害の対立にあった。有名な話であるが、
明治維新観の変遷をめぐって
きらかにするため、宮内省内に国史編纂局を設置すべし﹂と建白したことがあった。その時、明治政府の中心的存在
明治憲法草案作成に参加していた金子堅太郎が、その仕事が一段落ついたので、
一八九O (明治二三)年、
その内容は、わずか一年間の編年史料集というよりいわゆる官軍の行動日誌にすぎなかったのである。それ以上の
官撰の維新史料であったのだ。
が一九
東征大総督解任(明治一年一 O月二八日)までの約一年間の編年史料集があったにすぎなかった。この﹃復古記﹄等
カ
ミ
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
であった伊藤博文は、次のような理由をあげて反対したのである。
﹁遠く蛤御門の合戦以来、薩長の聞には事々に衝突が起きている。維新史料の蒐集は、
四三O
一面に於ては薩長衝突史料
の蒐集ともなる。 かくては、今や薩長提携して二十三年の最初の帝国議会を無事にのり切ろうとしている矢先、両者
の聞に面白からぬ感情がまき起って、政局に重大な影響を及ぼさぬとも限らぬ。維新史料の蒐集はすこぶる賛成だが、
まだその時機ではない﹂ということであった。たしかにその当時、長州閥と薩摩閥との間に妥協が成りたち、藩閥政
治に反対する諸勢力にたいして、協力してあたろうとしていた。たとえば内閣を組織していた人物についてみても、
初代が長州の伊藤、二代目が薩摩の里山田清隆、三代目が長州の山県有明、四代目が薩摩の松方正義といったふうに、
薩長交替になっていた。
以上のような事情は、官撰の修史事業が名分論で貫かれていたことがあきらかであったとしても、直ちに官撰の王
政復古史観の立場に立つ維新史を作りだすところまではいかなかったのである。それがようやく一九一一年、文部省
の維新史料編纂会が生まれることによって、その緒につくこととなった。
この維新史料編纂会は、その前年、伊藤・山県等の元老の提唱によって設けられた彰明会を前身とするものであっ
た。その彰明会の運営は、天皇の下賜金および﹁薩長土をはじめ諸藩の華族およびその他の有志家の寄附金﹂による
ものであった。 したがって編纂会の方も、主として薩長土三藩の各藩閥勢力の代表によって構成されることとなった
のである。総裁には長州の井上馨、副総裁には薩長土三藩出身でない福岡藩出身の金子堅太郎が納まったが、顧問は、
長州一人、薩摩二人、土佐三人という構成であった。そして委員には、旧幕府・旧諸藩・旧公卿の ﹁主家を代表す
る﹂者がえらばれた。明治政府を主として構成した薩長土三藩の勢力均衡ということ、また旧封建権力である﹁主家﹂
のいわば利害を代弁するものとして、委員がえらばれているのである。このような編纂会の構成は、当然のことなが
ら編纂会の事業の性格を規定したと言わなければなるまい。
﹁薩長の頚徳表﹂を作るものではないかと議会で批判した
﹁勤王といわず、佐幕といわず﹂あらゆる方面から史料を﹁公平﹂に集めると答弁す
果せるかな改進党の島田三郎が、この編纂会の仕事が、
のにたいして、編纂会側では、
るだけであった。そこにうかがわれることは、学問としての客観性が中心になっているのではなくて、討幕派あるい
は佐幕派というきわめて狭い政治的利害からの﹁公平﹂のみしか考えられていなかったのである。
﹁中世王室が
一八四六(弘化三)年二月、すなわち孝明天皇即位か
ともあれその事業の一応の成果である一九三九(昭和一四)年から出版された文部省維新史料編纂会編﹃維新史﹄
(全六巻)が、事業の性格を具体的に物語っている。同書が、
らはじめていることからあきらかなように、まさに王政復古史観そのものであった。同書の緒言には、
綱を解き、政権が一たび武門に帰してより以来、年を経ること六七O余、明治に入って再び天日の輝くをみたのであ
る。因襲の久しく、積弊の盤根せるを除き去るは真に容易のことではない。然るに明治維新は克くこれを成就して、
前古無比の国威を中外に宣揚したのである。その盛業たるは、けだし是に因るのであって、鑑を永く後代にたれた所
c
すでに昭和の時代であるにもかかわらず、 というより戦争の時代に入っていたから余計に、
以も亦この処に存したのである﹂とあった。維新における王政復古こそが﹁盛業﹂そのものであり、後代にたいする
﹁鑑﹂であるというのだ
(
註
﹀
(昭和二
(大正一五年刊) は、維新を﹁朝権の確立﹂
一九四五 (昭和二O
) 年までその生命を持続したのである。尾佐竹猛によって﹁正統派
王政復古史観は生きつづけたのであろう。
ともあれ王政復古史観は、
維新史家﹂と一評された維新史料編纂官藤井甚太郎の﹃明治維新史講話﹄
する過程として分析し、あるいはまた東京帝国大学史料編纂官である井野辺茂雄は、その著﹃幕末史概説﹄
年刊) において﹁欧米列強の圧迫は未だかつて遭遇せざりし程の大なる刺戟であった。是に於て国民は期せずして国
n-0
(池田)
四三一
家の中心を皇室に求め、所謂尊王棲夷の戸となり、蕊に王政維新なる一大政変が実行せられたのである﹂と、説いて
1
u
v 中心
、
明治維新観の変遷をめぐって
明治維新観の変遷をめぐって
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四三二
︹註︺王政復古史観・皇国史観維新史は、一九四五年、日本帝国主義と共に滅びてしまったかにみえたが、最近ふたたび頭をもた
げはじめている。たとえば最近出版されている日本教文新刊﹃日本人のための国史﹄叢書がそれであり、そのうちの一書、荒川久
寿男著﹃維新前夜﹄は、文字通り戦前の皇国史観そのままの再現である。
ところで以上のベた王政復古史観による維新史叙述は、官学の主流的見解であった。だが近代的な歴史学の発展の
中で、ある程度の存在価値を見出すためには、王政復古史観に本来的な単純な朱子学的名分論に終始することは許さ
れなかった。 したがって右にのベた王政復古史観による代表的な著作は、国家主義的な傾向を附加することによって、
単なる名分論からの脱却がはかられようとしていた。
すなわち明治維新の過程を古代天皇制の単なる再現としてみるだけでなく、外圧にたいする富国強兵、さらには中
央集権的な統一国家の実現していく過程として判断していたのである。 たとえば先にあげた井野辺の著書には、
られるのである。
これが一九四二(昭和一七)年に出版された鈴木安蔵著﹃明治維新政治史﹄になると、
一つには、近代日本の帝国主義的な展開を背景にしている
と判断できるのであるが、同時にこの視角の導入によって、維新期あるいはその以後のいわば近代化の諸現象、ある
努めたのである。こうした分析視角の維新史への導入は、
て維新を理解する視角を導入することによって、単なる名分論から脱却し、近代的な学問としての資格を備えようと
いずれにせよ天皇新政の復活という大義名分が、常に主軸となっているのであるが、同時に統一国家形成過程とし
る﹂という表現となってくる。
封建体制の倒壊が策せられ、統一的近代国家が創設されたところに、わが国に於ける近代国家誕生史の独自性があ
﹁尊皇棲夷の目標の下に、
力の充実を図らねばならないという意識の下に行われたる、当然の結果にすぎない﹂という維新にたいする評価がみ
貫せる中心思想は、富国強兵であった。けだしこの政変が、黒船の威力に目ざめて、之と拾抗するにはどうしても国
「
いは諸政策を-評価する可能性をあたえるであろう。 したがって次にのべる近代主義史観との一定の共存の可能性を見
出すのである。
以上戦前の維新史研究の主流であった王政復古史観およびそれへの国家主義的分析視角の導入による一定の変質を
問題にしてきたのであるが、同時に必ずしも主流にはなり得なかった佐幕派の立場に立つ維新観を概述しておかねば
ならない。
この佐幕派の立場に立つ維新観に共通することは、明治維新あるいは王政復古さらには尊王思想の養成等々が、
(明治二五年刊) では、
﹁勤王の志は、幕府の初より養成﹂されてきたも
ずれにせよ幕府あるいは佐幕派の手によっても実現されたのであって、その点を無視しては不公平になると強調する
ことであった。福地桜痴の﹃幕府表亡論﹄
のであり、その点では薩長両藩等よりは先であったと強調する。 だが﹁大政返上の英断を行われたると同時に、何故
に進んで朝廷の為に復古の基礎を建ることに尽力し﹂なかったのだろうか。幕政返上という、まさに大義名分にかな
ったことをしておきながら、朝廷における新政権確立に積極的に参加しなかったところに、最大の失敗があるのであ
って、大義名分を重んずることにおいては、他の討幕諸藩に劣るところないと主張するのである。
こうした傾向の維新論の中での最大の業蹟は、 かつて幕臣であった渋沢栄一が中心になり。その全面的援助により
﹁薩長二藩が事を構へ、朝
あるいは﹁王政復古は、 結局最後の将軍たり
一九一七(大正六)年より刊行された ﹃徳川慶喜公伝﹄ (全八冊) である。この著書も、福地の著書同様の傾向であ
って、 たとえば﹁王政維新の偉業は、近因を公の政権返上に発した﹂。
し公(徳川慶喜のこと lll
筆者注) の大勢看破の明:::が与って力ある次第﹂であって、
命をためて無理に幕府を朝敵としたのである﹂という主張であった。
︿註)
以上見たところからあきらかなように、佐幕派の維新論も、名分論的な王政復古史観から一歩も出るものではなか
(池田)
四三三
ったのである。 だからこそ先にみた藤井甚太郎も井野辺茂雄も共に、 ﹃徳川慶喜公伝﹄ の執筆者たり得たのである。
明治維新観の変遷をめぐって
し
明治維新観の変遷をめぐって
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四三四
︹註︺ところが同じ佐幕派の立場に立ちながらも、臨川新の﹃維新前後の政争と小栗上野﹄正・続(昭和三、六年刊)は、きわめ
て特異なものであった。同書では、明治以来の維新史を全て﹁薩長本位﹂であるとして退け、幕府こそが、富国強兵のスローガン
に基づく日本の近代化を進めたのであって、討幕派は、まさに﹁国家秩序の破壊者﹂であると断じていた。小栗忠順(上野介)と
いえば、慶応期の幕政改革の中心人物であった。したがって姥川は、小栗の業績を顕彰しながら、幕府の慶応期おける改革を高く
評価しようとしたのである。姥川のこの立場は王政復古史観に国家主義的な分析視角を導入しようとした方法と同じものといえる
であろう。
以上のベた維新観は、それぞれ具体的にはその方法に相違があったとはいえ、全体としてみれば、明治絶対主義体
制を総体として、肯定する立場に貫かれていた。したがってこれらの維新論を、絶対主義的な維新観であったといえ
るだろう。
だが明治期以降の維新論の全てが、右にのベたようなものであったわけではない。次にそうした維新論を整理して
みよう。
﹁アジア人の性たる古きを好
すでに維新期においてさえ、維新を単なる復古とはみない。 いわば名分論を脱却した考え方があった。 たとえば、
J
道理を論ずれば尚古という。古の今に勝るという事は決して無之筈
一八六八(明治一)年四月にだされた、のち明六社に参画した西村茂樹の建白書には、
み、新しきを悪み、施政を改むれば復古といい
に御座り﹂とのべられていた。 王政復古史観の基礎となった名分論的な復古意識からはかなり異っていたといえよう。
しかも以上のような考え方が、さらに進んで政治論にまで具体化していたのである。坂本竜馬がのべたところを、
長岡謙吉が筆記したものだといわれている﹃藩論﹄がそれである。この著者に関しては、現在のところ明確なことは
分らないが、 と も か く 一 八 六 八 ( 明 治 一 ) 年 一 二 月 に 、 竜 馬 が 隊 長 で あ っ た 元 海 援 隊 の 関 係 者 の 手 に よ っ て 公 刊 さ れ
たものである。
﹃藩論﹄では、
たとえば﹁夫レ天下国家ノ事、 治ムルニ於一アハ民コノ柄ヲ執ルモ可ナリ、乱スニ於テハ至尊之ヲ為
﹁人心ノ向フ処﹂すなわち﹁国民世論﹂に政治の基礎をもとめ
スモ不可ナリ﹂とのベて、天皇主権を必ずしも絶対的なものとしていないのである。 だからこそ﹁故ニ天下ヲ治メ国
家ヲ理ムルノ権ハ、唯人心ノ向フ処ニ帰スベシ﹂と、
ょうというのであった。そこには名分論的な王政復古として明治維新をみようとする考え方は姿を消している。そし
て身分制度を否定して選挙制度を採用すべきだと主張されてくる。
一八六八(明治一)年の戊辰戦争の過程
この﹃藩論﹄にみられる西欧の議会制度を導入しようとする主張は、当時公議政体論として、各藩の権力を温存す
る連邦国家論に利用されていたが、この連邦国家体制を構想する考え方は、
において、ほぼ完全に克服されつつあった。 したがって。そのような時期にこの﹃藩論﹄がだされたことは、非常に
一定の社
大きな音山義がある。もちろんこうした維新の進歩主義的な把握が、この維新期において、全面的に拡がっていたわけ
ではない。
だがこうした進歩主義的な思想の潮流が、復古主義の流れの中に完全に埋没してしまったわけでもない。
(明治八年刊) において、明治維新を﹁全国の人民文明に進まんとするの奮
会的な役割を果しながら、その流れは続いていたのである。そのもっともまとまった代表が、福沢諭吉であろう。
福沢はその著である﹃文明論の概略﹄
発なり。我文明に満足せずして西洋の文明を取らんとするの熱心なり﹂とのべていた。あるいはまた﹁王制一新の原
因は、人民の覇府を厭うて王室を慕うに由るに非ず、新を忘れて旧を思うに依るに非ず。百千年の間忘却したる大義
一かけらも見出されない。
﹁王制一新﹂すなわち明治維新の原因
名分を俄に思出したるが為に非ず。唯当時、幕府の政を改めんとするの人心に由て成たるものなり﹂とものべていた。
そこには復古主義あるいは名分論的な考え方は、
(池田)
四三五
は、全て幕府に反対する人心にあるととらえられている。すなわち﹁天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
L の立場に立って維新を評価しようというのである。
明治維新観の変遷をめぐって
発達を論ずる﹂﹁文明論
四三六
したがって維新は、封建的な﹁我文明﹂
から、近代的な﹁西洋の文明﹂へと展開する重要な画期として、あるいは﹁智力と専制との戦争﹂として理解されて
いるのである。
c
だが同時に、こうした維新観は、当時の急速な日本の近代化をもとめていた明治政府にとって
このような福沢諭吉に代表される明治維新についての理解は、先にのべた王政復古史観にもとずく維新論とは全く
異質のものであった
も、ある意味では不可欠の維新観であった。それは近代的な統一国家とじて発展していくためには、復古主義や名分
論では駄目であって、まさに﹁文明﹂の進歩こそが必要であったからである。明治政府の指導者には、復古主義や名
分論による天皇制の再編成︿明治絶対主義天皇制の構築が一方で必要であったと同時に、世界資本主義の植民地的支
(明治四)年一一一月一四日、遣欧米使節の岩倉具視一行に随行した伊藤博文が、 サ ン フ ラ ン シ ス
配に反対するためにも必要であった近代的統一国家実現のためには、文字通りの﹁文明の進歩﹂が必要であったので
ある。
たとえば一八七
コ市の公会堂で行なった演説がある。この演説で伊藤が、日本は﹁一滴の血﹂も流さず﹁封建制度﹂を打破したが、
このようなことは世界に例をみないことだと大見得を切ったことは有名である。 それは彼が戊辰戦争ではなく、版籍
﹁今日我国の政府乃至人民の最も激
奉還と廃藩置県をもって封建制否定と考えていたからである。このことが意味するところはかなり重大であるが、そ
のことは別に考えるとして、差当ってここでは、演説の次の部分に注目したい。
烈なる希望は、先進諸国の享有する文明の最高点に到達せんとするに在り。:::我国に於ける改良は、物質的文明に
於て迅速なりといえども、国民の精神的改良は一層はるかに大なるものあり。:::数千年来専制政治の下に絶対服従
せし問、我人民は思想の自由を知らざりき。物質的改良に伴うて、彼等は長歳月の間彼等に許されざりし所の特権あ
ることを諒解するようになれり。﹂というところである。
こうした伊藤の発言には、
﹁先進諸国民﹂を前にしていささか気負いたったところがうかがわれるのであるが、そ
れだけに一層明治政府の方向性の一つを明瞭に示している。そして先程の福沢諭吉に集約的に示された思潮に、 イデ
オロギ l的根拠を見出し得るであろう。明治政府は、絶対主義天皇制という専制的な体制の下での急速な近代化1 資
一八六八(明治一)
本主義化がもとめられていたのであり、そのためには、復古主義ではなく、近代的な西洋文明の受容という進歩主義
が必要であったことを知るべきであろう。
このように福沢諭吉の文明論的な維新観は、権力にとって、必要なことであった。 ところが、
年八月に書かれた著者不明の﹃復古論﹄の場合のように、維新合一諸階級の対立のなかで把握する時、その思想が古く
筆者) ノ思召ヨリ出来タル事一一シテ、
﹁元弘ノ復古ハ上(天皇の意 !li
さい復古主義であっても、権力にとって否定すべきものとなるであろう。
﹂の﹃復古論﹄の主張は次の通りである。
下万民ノ心ヨリ起リシニ非リシカバ、上ノ思召柳動キテ忽武家ノ政道トナレリ。然ルニ今度ノ復古ハ右-一反シ、草葬
ヨリ勤王ノ論起リ、最初ハ浪士ヨリ始リテ藩士一一及ピ、太夫一一至リ君侯一一及ピ、終ニ草葬ノ発起尽力ヨリ日々盛大-一
ナリタレパ、万カ一ニモ上ノ思召ハ変ズルトモ、万民ノ心ガ変ゼザレパ武家ノ政道-一一民ルベキ道理ナシ。根元草葬ヨ
リ起リテ成大ニナリシ事ナレバ、仮令諸侯ハ何ト思ハルルトモ、決シテ自由ニナラザル也﹂と。
ここにみられる主張は、あきらかに復古主義である。 だが﹁万民﹂あるいは﹁草葬﹂の立場を強く主張することに
よって、建武の中興とはちがった明治維新の内容を主張している。 だから形としては復古主義ではあっても、内実は、
﹁万民﹂あるいは﹁草葬﹂の社会的要求の中に維新の根一五を見るとなれば、歴史発展の原動力を諸階級の要求あるい
はたたかいの中に見出す歴史観となっていくであろう。 ただ﹁文明﹂の進歩のみを、第一義的に強調する福沢らの維
新観に比べた場合、この﹃復古論﹄の主張は、むしろ保守的である。 ところが前者が、諸階級の社会的要求を問題に
(池田)
四三七
せず、後者が問題にしたところに、問題はちがった次元で展開する。前者が絶対主義権力にとっても有効なイデオロ
明治維新観の変遷をめぐって
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
ギーとなっていったのにたいして、後者はむしろ阻外されてくるであろう。
(明治一二年刊) では、
四三八
﹁我が日本にて今より十余年前勤王の土が起って、徳
ところが、明治一 0年代に入り民権運動が展開してくる過程において、明治維新を人民解放の第一歩であると評価
される維新観が生みだされてくる。
たとえば植木枝盛の﹃民権自由論﹄
川の政府を廃して新に王室を興し、当今明治の政府を立てたるも、亦実は旧幕政府が余り威張り散かして、我国に貴
き王室をも蔑にし、天の重き人民の自由を害するを以て、人皆之を怒って寛に顛覆に及びたる訳なり。是も亦自由の
﹁維新の改革は、
関係で御座ろうとのべていた。復古主義的な名分論から完全に自由であるとはいいきれないにしても、明治維新を人
(明治四三年刊) である。
民の自由が確立していく過程として理解していたことはあきらかであろう。
この点をより的確に主張しているのが、板垣退助監修の﹃自由党史﹄
:::実に国民自由の回復なりき。:::蓋し維新の改革なるものは、夫の徳川幕府が三百年来階級特権の制によりて、
専制武断の政を施し:::たるに対する国民積欝の勃発したる結果にして、外聞の圧迫の如きは偶々これが勃発の動機
を作り其勢を促進したるものたるに過ぎず﹂とのべている。西欧諸列強の圧力までも、これを偶然的なものであると
﹁さればこそ、維新の新政府は、公議輿論を以て其惟一の政綱となし、徳川の専制抑圧に反
一意に公的自由の政治を標傍したるをみる﹂というのであった。民権運動の指導者たちは、自分たちこそが、
判断しているのである。
して、
明治維新の正統な後継者であると主張していたのである。そしてそれを立憲体制の確立にあると考えていた。
このような形で明治維新に積極的意義を認めようとする考え方は、国粋主義者陸渇南にもみられた。彼は、第一議
﹁維新の改革は、摂銭円流の廃止なり、号一口路洞開の発生なり、出版言論自由の創始
会の開かれた一八九O(明治二三)年の七月から八月にかけての新聞﹃日本﹄の社説に掲げられた﹃近時政論考﹄に
おいて、次のようにのべていた。
なり、権利保護の端緒なり、租税兵役の沿及なり、自由主義はこの改革に於て幾分か積極的行動を始めたり、然りと
雄も立憲制は未だ建設せられず、自由主義の行われさること伶ほ少なからず。今年は正に立憲制実施の時に達せり﹂
明治維新観の変遷をめぐって
﹁自由﹂と﹁平等﹂の体制の確立する重大な端緒であると
(明治二五年刊) において、平民の封建制度にたいするたたかいが原動力とな
一口であって、 クロンウエ
﹁ハムプデン﹂とは、し﹃・ EmBH}LO
(明治四O年刊) になってくると、竹越のように階級闘争に重点をおくのでなく、む
(池田)
三三九
﹁幕府の顛覆は、其租法として墨守せし国家制度の二百五十年余を経て、全く社会の進化に後れ果てし結果に外な
しろ進化論的な必然論でもって維新をひいては社会の発展を論ずるようになってくる。
他方小林庄次郎著﹃幕末史﹄
力を諸階級のたたかいの中に見出していく可能性がみられたのである。
ルの従兄弟であり、 イギリスのピューリタン革命の指導者の一人であった。この竹越の維新論には、明治維新の原動
主中に幾多平和のハムプデンを出したり﹂とのべている。
って、﹁革命﹂すなわち明治維新が実現すると説いていた。 また﹃二千五百年史﹄(明治二九年刊) では、﹁庄屋・名
竹越与三郎は、その著新﹃日本史﹄
ねばならない。次にその数少ない例を二、三あげておこう。
のだといえるであろう。 ところがこうした立場から、維新を学問的に分析する仕事はきわめて未成熟であったといわ
こうした維新観は、 つまるところ明治期における自由と民主主義をもとめるたたかいの展開の中から成長してきた
主張している。
﹁封建の破壊﹂あるいは王権の回復としてみるのでなく、
勢力の反体制的イデオロギーとして、その内容を固めつつあったといえよう。陸掲南は右の文章につづけて、維新を、
こには明治絶対主義の近代化政策のイデオロギーに利用される側面もあったが、やはり絶対主義的専制に反対する諸
とみるのではなくて、近代的な自由主義あるいは民主主義展開の一画期として、高く評価する維新観が存在した。そ
以上みてきたように、すでに維新期からまた明治期において、明治維新を単なる王政復古あるいは絶対主義の成立
と
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
四四O
らず、故に其衰滅の責任は、誰人にも帰すべきにあらず。加之右は社会国家の進化上、必至の現象にして多少の遅速
こそあれ、徳川氏の到底免かる能わざる運命なりし事も了解するを得べし。区々たる政策の当否、大勢を動かすに足
らすと云うは此の故なり、学者或は幕府の覆滅、 王政の復古を説明するに外艦の渡来と尊王斥覇の思想勃興の結果と
なすものあり、是れ史上必至の勢なるを知らずして、偶然の原因に帰するものに非ずや。外艦の渡来は、世界史の上
より見れば兎も角、本邦に取りては偶然の事実なり、これなかりしとて、徳川幕府は永久政権の把握者たるを得ざり
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﹁社会国家の発展は、大体生物進化の理法に支配せらるるものなり﹂という表現から推測されるように、それ
﹁史上必至の勢﹂とは、歴史における必然性という意味であろうか、もちろんこれは史的唯物論でいう必然論では
し事上述の如し﹂と。
4
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は生物学に一般的であった進化論にもとずく必然論であったろう。 したがってこの小林の維新論には、階級闘争を歴
(大正二年
史発展の原動力として把握する分析視角はみられないのであるが、名分論的な王政復古史観からは無縁の一種の社会
発展段階論が見られるのである。
ところがこのような維新論は、維新を﹁社会組織の革命﹂であると判断する吉田東伍著﹃倒紋日本史﹄
刊)にみられる程度であって、その後さしたる発展はなかったのである。 ただほとんど唯一のものとしての尾佐竹猛
の立憲主義的な維新論が、﹃維新前後における立憲思想﹄(大正一四年刊) および﹃明治維新﹄(昭和一七 l 二二年刊・
未完)等にうかがわれるだけであった。 しかしその立憲主義も、尾佐竹が大審院判事であったことから理解できるよ
うに、明治憲法から自由ではあり得なかった。 したがってその立憲主義的な維新論も、 王政復古史観から完全に自由
なものではなかったのである
以上のべた維新論は、全体として、最初にのベた絶対主義的な維新観とは異質のものであって、近代主義的な維新
観と名付けることが可能であろう。この近代主義的維新観は、部分的には、 王政復古史観にたいしてきわめて妥協的
であり、あるいはまた絶対主義体制に利用される側面ももっていた。 しかし全体としては、絶対主義的な専制にたい
して、近代的な自由と民主主義をもとめる諸階級の成長に支えられていたといえよう。
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
一九四五年の
一定の歪みを帯びざるを得なかった。
四
四
分に解明されているとは思われないのである。この問題は、 いいかえるならば、近代主義的維新論が、明治期にある
点である。明治維新に関しても、その絶対主義的改革の面をのみ強調して、その資本主義的発展の可能性の意味が十
論が、明治絶対主義の分析に急なあまり、 日本帝国主義の全体的な分析において、必ずしも十全ではなかったという
ここではその余裕がないので感想的な結論だけをのべるにとどめる。要するにそれは、 マルクス主義とくに講座派理
﹂の点についてのべるためには、 マルクス主義、 とくに講座派理論についての根本的な再検討が必要なのであるが、
あるいはそれを支えた社会運動が窒息せしめられつつあった状況ともからんで、
義的維新論が本来果すべき絶対主義的維新論の克服という任務をも果してきたということは、 マルクス主義的な学問
ともかくマルクス主義的維新論は、大正期以降の社会運動に支えられて展開してきたのであるが、それが、近代主
日本帝国主義の解体までつづいたということは、 よく肝に銘じておかなければなるまい。
実である。 だが、絶対主義的な維新論が、近代的な学問によってとにもかくにも克服されることなく、
こうしたことは、 いわば日本の近代社会の特質に規定されたことであって、今さら強調する必要もない常識的な事
の立場に立つ維新論に受けつがれていったのである。
ばならなかった絶対主義的維新観との対決という重大な社会的任務は、むしろ大正期以降展開してくるマルクス主義
な維新観は、 とくに大正期以降その発展がみられなかったといってよい。そして近代主義的維新観が本来果さなけれ
明治維新観の変遷を、絶対主義的なものと近代主義的なものとの対立の中でみてきた。 し か し 現 実 に は 近 代 主 義 的
四
明治維新観の変遷をめぐって
(池田)
一九世紀世界史の状況
一九六O年以降提起されてきたものであっ
西欧資本主義の世界征覇の過程の中で、
111
ならない。何故なら、 日本の資本主義的な発展が、帝国主義的な侵略に必然的に結びつくということになれば、近代
房雄が﹃大東亜戦争肯定論﹄で展開した日本の帝国主義的侵略にたいして、免罪符をあたえる仕事が先行しなければ
多面的な事実を一方的に歪曲するという歴史学における致命的な欠陥をもっているのであるが、同時に、 たとえば林
析しようとする方法である。この方法は、戦前から戦後にかけて深められてきた維新史研究が、あきらかにしてきた
争に維新の原動力を見出そうとする方法を全面的に否定し、資本主義的発展を全面的に肯定する立場から。維新を分
もう一つの問題は、近代主義的維新論の再出現の問題である。それはマルクス主義的維新論が展開してきた階級闘
端緒となるであろう。
主義的維新論がそれなりにそうであったように、明治維新の問題を現代の問題として、把握させる方法を確立させる
として把握させるであろう。こうした問題は、 まだ問題提起の域を出ていないのであるが、絶対主義的維新論や近代
明治維新を一国における絶対主義形成期の問題としてではなしに、 日本が世界帝国主義体制の一環に編成される問題
主義段階への移行期にある世界資本主義が果す規定的な役割を重視することであった。こうした分析視角の導入は、
明治維新を分析しようとする方法であった。それは具体的には、明治維新という内的矛盾の転換過程における、帝国
価する方法に対して、その内的必然性と同時に、
て、明治維新を、古典的に近代化をとげた先進諸国との対比の中で把握し、資本主義化の内的必然性の強弱をのみ評
その一つはマルクス主義的維新論内部の問題である。それは主として、
こうした問題を考えるための素材を、最近の維新史研究の動向の中から二、三見出すことができる。
に至った理由は何かということであろう。
義的維新論が、名分論にのみ終始せず、国家主義的な傾向をもつことにより官学アカデミズムに一定の位置を占める
程度の展開をみせながら、結局つぶされていったことの本当の意味は何か、 ということであり、あるいはまた絶対主
四
四
主義的維新論再提起の政治的意味が失われるかである。他方この方法は、戦前の皇国史観を排撃している。それは学
問の方法としてはきわめて当然のことであろう。だが、かつて伊藤博文が近代的な西洋文明の受容を、明治絶対主義
権力構築の補強物としたと同じことが、絶対に行われ得ないと誰が断言できようか。最近の近代主義的維新論者は、
明治新政府の西洋文明に接触した指導者1 ﹁新知識人﹂の近代化政策を積極的に一評価することによって、その維新論
﹁新知識人﹂の思想と行動をのみ強調するという方法は、近代日本のもつ多くの矛盾を全
を組立てているのである。明治維新を説きながら、封建的領有制の解体や幕藩体制下の階級矛盾の爆発である戊辰の
内乱に、全くふれないで、
く見ょうとはしない方法であるといえよう。このようにみてくると、近代主義的維新論は、学問の方法としては皇国
史観を排除するものであるとしても、歴史の叙述においてあるいは政治的要素が多分に入りこみやすい歴史教育の部
門において、皇国史観の復活にかなり妥協的になるのではないかと恐れるのである。
四四三
以上の二点を考えてくると、維新観の変遷に新しい局面転換が予想されてくるのである。それは同時に、 一九四五
(池田)
年以前以後をもふくめた近代日本百年の歴史を、現代の日本人がどのように把握し直すかの問題である。
明治雄新観の変遷をめぐって