「責任を問う神」 - 麻生明星幼稚園

2015 年度 6 月 7 日
麻生教会主日礼拝説教
「責任を問う神」
ルカによる福音書11章37節~54節
久保哲哉牧師
1.御言葉に生きる者の幸い
一昨日の金曜から昨日の土曜にかけて、キリスト教保育連盟北海道部会の研修会に行っ
てきました。開催地は旭川でした。全道から251名の人々が旭川につどいました。
あれは夕食の時の出来事です。おそらく 20 テーブル以上あったでしょうか。丸い中華
テーブルで食事をいただくのですが、251名が一度に食事をとります。席は早い者がち
ですから、出遅れた園はばらばらに座ることになります。麻生明星幼稚園も5名全員で座
りたかったのですが、出遅れまして、見渡すと4名分の席しかありません。どうしても1
人あぶれてしまいます。それで「園長は別の席で」と言われまして、同じくあぶれていた
同じ北海道キリスト教学園は余市のリタ幼稚園の小西先生と二人で同じく学園の倶知安め
ぐみ幼稚園の坂口先生の隣でご飯をいただきました。
北海道キリスト教学園の園長同士、物理的な距離が遠く離れているので普段あまりお話
することがないので、とても貴重な時でした。夕食の最後には旭川のゴスペルグループが
たくさんゴスペルを歌ってくれました。天使にラブソングをで有名な曲が盛り上がりまし
た。ゴスペルというのは神の言葉である「ゴッド・スペル」の略であるという説と「グッ
ド・ニュース・スペル」つまり良い知らせ、福音の言葉を縮めて「ゴスペル」という2つ
の説を聞いたことがあります。喜びの歌を聴くと、こちらもうれしくなります。今日の箇
所では会堂で上席に着くこと、広場は挨拶されるファリサイ派は不幸だと主は言われます
が、これとは真逆な牧師たちは幸いなのかと思いました。よいときとなりました。
講師はキリスト教保育連盟の名誉理事長である長山篤子先生でした。青山学院幼稚園の
主事であり、同時に聖学院大学で教鞭をとられています。聖学院と青山学院の卒業生であ
る者として講師に親近感がわいていました。実際にお会いすると、その言葉と振る舞いか
ら御言葉の息吹を感じる方でした。よほど御言葉を大切にされる方なのでしょう。自分自
身の言葉と行いを吟味して、あのようになりたいと襟をただされました。
今日の聖書の箇所に目をやりますと、「不幸だ、不幸だ、不幸だ」と三度、ファリサイ
派たちと続いて律法の専門家たちに対して、つまり自分達は清いと思っている人々に対し
ての厳しい言葉が語られています。これはファリサイ派の人々だけに向けられた言葉では
-1-
ありません。ここに集う私たちにも同時に向けられた言葉です。主イエスはこんなに厳し
い方であるかと問わざるを得ない箇所です。これを聞いた人々は「激しい敵意を抱き、色
々の問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていたという
ことが言われますが、それもやむを得ないのではないかと思わされます。
「人間の罪の実態」というのでしょうか。「ありのままの自分」が暴かれる。そして裁
かれる。そういう御言葉です。よく教育の現場で「ありのままでよい」ということが言わ
れることがありました。しかし、本当のありのままの自分がさらけ出されたときには「あ
なたは不幸だ」という言葉がふさわしいというか。そういう現状が露わにされることがほ
とんどであることに気づかされます。
研修会ではかみつきや暴力など問題行動を起こす子どもには必ず「原因」がある。その
原因を受け止めて、これに対応することが大事という趣旨の話しでしたが、それは子ども
だけではありません。人は誰しも問題と課題に満ちています。その問題の奥底にある「あ
りのまま」を見抜いて、そうした現状を正しく裁き、しかし、その傷を正面から受け止め、
自らの血の値をもって、愛と赦しをもってして人々の曲がった道をまっすぐにする。それ
が主イエスというお方であるということをよくよく思い起こさせられる研修会でした。
2.三浦綾子記念文学館での出会い
研修会の空き時間に、有志のツアーで三浦綾子記念文学館に行ってきました。
三浦綾子さんに関しては話しに聞くだけでその生涯についてはあまり存じ上げてはいなか
ったのですが、敗戦のさなか自分を見失い、二人の男性と同時に婚約をするという、不義
を行い、その中で結核を患い、長い療養生活の中で婚約解消、自殺未遂。そのときにはか
つて務めた学校の周りをただうろうろとさまよい歩いていたという紹介を見ました。しか
し、洗礼を受けたことでそうした道から抜け出して、信仰の道を力強く歩み出した三浦綾
子さんの生涯には心を打たれる思いがいたします。すべてを失い「ただうろうろとさまよ
い歩いていた」という紹介をみたときに、この方も本当に苦労をされた方なのだなとしみ
じみ思いましたが、そこである一つの詩を思い出しました。八木重吉の「ああちゃん」と
いう詩です。八木重吉もクリスチャンで結核で 29 歳の時に天に召されています。苦労の
人です。
「ああちゃん」
むやみと
ああちゃん
はらっぱをあるきながら
と
よんでみた
-2-
こいびとの名でもない
ははの名でもない
だれのでもない
不思議な詩で、どう解釈したらよいか、中々難しい詩ですが、この詩について興味深い
ことを語っている作家がいます。脊椎を損傷したために口で絵と詩を書く星野富弘さんと
いう方です。彼がこの「ああちゃん」の詩を見たときに、この人も自分のように多くの苦
労を背負った人に違いないとある著作で語っています。星野富弘さん自身も、まだ自分の
身体のこと、けがのことを受け入れることができないときに、必死に看病してくれる母に
対して暴言を吐いたことを本当に悔やんでいるということをあるビデオで見ました。星野
さんは脊椎損傷のため身体が動かないので原っぱをうろうろとすることもできなかったわ
けですが、心がうろうろする。そういう経験を誰よりもしてきたのが星野さんという方か
と思います。
これは想像ですけれども、このああちゃんの詩は八木重吉が結核となり、隔離され、愛
する妻、娘、息子と離ればなれになり、自分の命のこと、これからの家族のことを考えな
がら、呆然とはらっぱを歩いていたときのなんとも形容しがたいうめきを擬人化した詩な
のだろうと思っています。本当に現代を生きる私たちとは比べものにならないほどの苦労
をなされた人であったのでしょう。しかしながら、八木重吉が天に召される前には次のよ
うな詩を残しているそうです。インターネットでの孫引きですが、次のような詩です。
ずいぶん
ひろい原っぱだ
いっぽんのみちを
むしょうに
こころが
あるいてゆくと
うつくしくなって
ひとりごとをいうのが
うれしくなる
おそらく、ただむやみやたらと歩いていた時代の苦悩が「ああちゃん」の詩に。そして
主キリストと出会って、救われて、一本の道をむしょうに歩いたとき、罪の赦しの現実を
あるいたときに得た救いがこの詩に現れているのでしょう。うろうろとむやみやたらと歩
いていた者が道を指し示されて、まっすぐに、心美しくされてうれしく歩む道が信仰の内
にあるということでしょう。
-3-
八木重吉、星野富弘、そして三浦綾子。みな優れた信仰の著作を生み出した人々ですが、
そこに共通するのは、絶望を覚える苦難の中で「人間の罪の大きさ」「罪に走りやすい傾
向」「まっすぐに歩みたいのに、それができない人間の気質」とでもいってよいでしょう
か。自分でなすべきことがわかっているのに、それをなすことができない。良く生きるこ
とができない。ゆえに自分はこの地上において必要のない人間なのだ。生きていて何の意
味があるのか。そうした絶望から主イエスの力によって立ち上がった人と言ってよいでし
ょう。
その立ち上がった先で、自分と同じ苦しみであえぐ者達を助けるために、自分というど
うしようもない人間を立ち直らせた主イエスの力を伝えたいと筆をとった人々です。実際
にこれらの人々は多くの人々に慰めと元気を与えております。本当の宗教に生かされた信
仰の先輩にならいたいと思います。
今日の聖書の箇所では「本当の宗教とは何か」。これが問われています。ファリサイ派
や律法学者たちは自分達の罪のゆえに、ここから逸脱をしておりました。主イエスはその
ことを深く嘆かれています。
「本当の宗教」。それは「人間を内側から変える力を持つもの」です。
一時の慰めや助けではないのです。人間を根本的に変え、この地上を生き抜く力をもつ、
与えるもの。それが本当の宗教です。この本当の宗教についてを巡って、ある一つの興味
深い文章を見つけました。よく引用するのですが、説教学の第一人者、加藤常昭先生の文
章です。葬儀説教について記されているので、興味があって久々に買いました。加藤先生
の奥様のさゆりさんを天におくられてまだ月日が経っていないのですけれども、それでテ
ーマが葬儀に設定されたのでしょう。この3月に出た説教を巡る冊子の中で、加藤先生は
次のように述べていました。
「哲学科を一緒に卒業したT君がいた。同じ東京高等師範学校付属中学の先輩であり、私
よりも6歳年長であった。結核のために休学を重ね、第一高等学校在学中に、とうとう同
じ暮らすとなり、学友となった。すぐに仲が良くなり、先輩として重んじた。同じカント
について論文を書いた。私と一緒に吉祥寺教会に通ったこともあるが、洗礼は受けなかっ
た。卒業式前夜、鎌倉の東慶寺境内、西だ幾太郎博士の墓前で服毒自殺した。希望してい
た最優秀の成績を取ることができず、前途に失望したというか、自分の運命に絶望したの
である。娘がいたものの、ひとりだけの息子の思いがけない最後に、両親の悲しみは深か
ぜんじよう
った。人間がこんなにも涙を流し得るのかといぶかるほどに泣いた。東慶寺住職井上禅 定
老師が葬儀を執り行った。葬式の頂点で、故人を成仏させる「喝!」という言葉が発せら
-4-
れた。私は星座していたが、畳から全身が宙に浮いたような衝撃を受けた。そして両親が
涙をとめたのはこの瞬間であったことがわかった。私は、それ以降<葬式仏教>という言
葉を使わなくなった。自分が牧師になったら、この僧侶に負けない葬式をしようと誓った。
禅仏教の実力を知ったのである」
わたしたちと、信じる所は違いますけれども、わたしたちと同じ、人々を生かしてきた
本当の宗教に触れた経験が記されています。僕も前任地の教会で同じ経験をしました。人
間の最も苦しいとき、困難なとき、見るに堪えないような凄惨な現場においてすら、これ
を打ち破り、光を賜る、本当の宗教が、神と人との交わりが教会にこそあります。自分自
身も、これに負けないような葬儀をしたいと心を新たにされましたことでした。
「自分は不幸だ」「生まれてこない方がよかった」と思い込んでいた人々が主キリスト
との出会いを通して、絶望をつきぬけて、元気に生きる力。いや、自分が生きるのではな
い。生かされる神の力がある。今日はそのことに目をとめたいのです。
今日のファリサイ派の人たちはなぜ主イエスにここまで糾弾されているのか。
それは、繰り返しになりますがファリサイ派の人々が「本当の宗教」からの逸脱があった
からです。私たちの言葉と行いをよく吟味したときに、ありのままの通常の状態であった
ならば「あなたがたは不幸だ」と言われざるをえないわたしたちです。けれども。そんな
汚れているわたしたちですけれども、うろうろして、行く道が定まらない私たちですけれ
ども、そんなわたしたちの罪のために十字架におかかりになられた方がいる。その究極の
神の知識の鍵が、主イエスを通して私たちの手に握られている。そのことを信じることか
ら始まるまこに幸いな生活があるのです。
主イエスを知った者は幸いです。その道を歩む人は幸いです。今日、ファリサイ派や律
法学者たちに語られた不幸。これを逆に読めば、私たちキリスト者たちの幸いがどれほど
のものかわかりますので、あらためて読んでみましょう。
「あなたたち神の言葉を守る人々は幸いだ。あなたの最も小さな収入についてさえ十分の
一を献げながら、正義と神への愛を実行しているからだ」「
「あなたたち神の言葉を守る人々は幸いだ。堂では上席を他の人々に譲り、広場では人々
から無視され、痛みをもった孤独な人々に進んで挨拶するからだ」
「あなたたちは幸いだ。あなたたちは人目につかない泉のようである。あなたたちはそれ
と気付かずに他の人々を祝福している」
-5-
本当の知識の鍵を手にして、主イエス・キリストの救いの中にいるものは本当に幸いで
す。彼らはまっすぐに、一筋に幸いの道を歩むでしょう。
では、わたしたちはどうでしょう。このことがいつも問題とされます。わたしたちはこ
のような本当の幸いに生きているでしょうか。
今日、私たちはこのあと、聖餐に与ります。聖餐、それは「わざわいであり、不幸であ
った人々の人生」が、主イエスを救い主と信じ、主キリストご自身をこの身に迎えること
で、「幸い」の中を歩んでいる。私たちの内に「幸いが・福音が・御言葉が・神が」生き
てくださっていることを確認する食事です。
たとえ絶望のさなかにあったとしても、これを突き抜けて永遠の命への希望に生かされ
ていることを確認する食事です。主イエスは今日、「不幸だ」と宣言され、裁きを行った
ファリサイ派の人々と共に食事の席についておられます。食事というのはその当時、本当
の交わりのときを意味しました。ファリサイ派の人々は「神の民」です。一度道を曲げて
しまい、本当の宗教から脱落してしまった彼らでしたけれども、そのゆえに不幸であるか
ら、神の御心にそうものでないから、食卓から除外する主イエスではないのです。主イエ
スはファリサイ派や律法学者たちと共に食事の席につきました。そこで、曲がっているも
のは曲がっていると本当のことをおっしゃられましたが、それを敬虔な心で受け止め、神
の言葉に跪くことをせずに、敵意をもってしまった所に彼らの問題があります。私たちも
同じ過ちを犯してはいけません。
主イエスは真実な方です。私たちがまっすぐに神の道を歩んでいるときには祝福を語ら
れ、そうでないときには厳しくその責任を問われる方です。厳しく責任を問われる方であ
るからこそ、主イエスはその身代わりとなってその命すらを献げてくださいました。ここ
に愛があります。神の道から外れているからこそ、その罪を指摘し、自らの信仰の生活を
吟味をし、神の言葉を本当に守り、これに生き、神を愛し、隣人を愛する信仰の生活を立
て挙げるように、私たちを召し出してくださっています。
わたしたちの内側も外側も清められる道。それは、わたしたちを本当に生かし、罪の中
から救い出し、天の国の門を開いてくださった主イエスこそ真の救い主と告白し、洗礼を
受けることです。そしてパンと杯をいただいて、力を頂いて悔い改めて福音を信じ続ける
ことです。まっすぐに、ひとすじにいきましょう。ここにこそ、私たちを永遠に生かす、
まことの道があるのです。
-6-