宮 木 あ や 子 指 と 首 、 隠 れ た と こ ろ

読切官能小説
ピ ア ノ 教 師 の 美 鶴 は、 教 室 に 現 れ
た“ あ の 人 ” の 指 を 想 う。 大 好 き
な 夫、 龍 介 の「 好 き だ 」 と 言 っ て
抱きしめてくれるその腕を必要と
し な が ら も、 夫 の 隣 り で、 た ど た
どしいあの指を夢想する。
指と首、隠れたところ
宮木あや子
家には金魚がいる。指の先くらいの大きさだったものが、今は手のひらくらいの大きさになって
うろこ
いて、成長する都度、水槽を買い換えたため、今彼らが住んでいる大きな水槽はみっつ目だという。
にしきごい
飼いはじめたときは五匹いたらしい。今は、三匹だ。あんず色の鱗がキラキラして綺麗ならんち
ふ
か
ゅうと、黒い出目金と、元々は錦鯉みたいな模様だったものの色が抜けて、青白くなったもの。と
きどき卵を産むのだが、どれがメスなのか五年経った今も判らない。そして卵はいくつか孵化して
み
つる
もぜんぶ死ぬ。親なのかどうか判らないけれど、三匹の大きな金魚が食べてしまうから。
金魚は、独身のときから龍介が飼っていたものだ。恋人同士だったころ、美鶴が通った彼の狭い
マンションの部屋の窓際に、その三匹の金魚は既にいた。龍介は週末になると金魚の水槽を風呂場
で洗う。バシャバシャという水の音をベッドの中で聞きながら美鶴は、どうして水槽の掃除はする
ほこり
のに、自分の部屋の掃除はできないのだろうと思う。
汚い部屋というわけではない。でも何か、どこか埃っぽくて雑然としている部屋は、龍介にとっ
ては居心地が良いのかもしれないが、美鶴には居心地が悪かった。
かす
龍介のことがとても好きだった。好きだと言って抱きしめてくれる腕と、頬に押し付けられる硬
い胸と、そのとき鼻腔を掠める彼のにおいが美鶴にはどうしても必要だった。だから、自分の居心
地の良い場所を作るために、美鶴は龍介と結婚した。
結婚したあとも三匹の金魚は、リビングの出窓に、いる。
かんだか
ありがとうございました、という甲高い舌足らずな声と共に玄関の扉が閉まる。外から入り込ん
はら
できた空気が、桜の匂いを孕んでいた。あ、と思って美鶴は閉まった扉のノブを押し下げて再び扉
のぞ
を開け、門の外に出る。小さな女児が大きなレッスンバッグを揺らしながら走ってゆく後ろ姿が見
えた。その横に連なる桜並木が、既に満開になりところどころ新緑を覗かせていた。
気付かなかった。もう満開を迎えていたなんて。何をしていたんだろう。
住宅街の上に広がる微かな夕暮れの始まりの空は広く、薄く覆う雲が山吹色に波打つ。
「せんせい?」
空にいるはずの白く透き通る月を探していたら、腰のあたりから声をかけられた。
「あ、みいくん、今日は早いね」
「はるかちゃん、帰っちゃった?」
「さっき帰っちゃったよ」
あからさまに落胆する男児に、美鶴は小さく笑った。
「先生、今日のおやつなあに?」
「お豆腐ドーナツ」
ブルグミュラーの
番、できるようにな
うって変わってやったー、と喜ぶ男児の後頭部を見下ろしたあと、もう一度美鶴は空を見上げた。
やはり月は見付からない。
「おやつはレッスン終わったらだよ。宿題やってきた?
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指と首、隠れたところ
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った?」
「完璧! ってママは言ってた」
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