エバ・ミリカン先 生 には、ずっと心 に残 っていたことがありました。それは

せん せい
こころ
のこ
エバ・ミリカン先 生 には、ずっと心 に残 っていたことがありました。それは、
に ほん
に ほんじん
日本のこと、日本人のことです。
かみ
いち ど
せん きょう し
に ほん
い
のぞ
「 神 さまは、わたしがもう一 度 、宣 教 師 となって日 本 に行 くことを、望 んで
せん せい
いち ど
に ほん
い
かんが
います。
」ミリカン先 生 のもう一 度 日 本 へ行 く、という考 えにみんなはびっくり
せん きょう し
おく
だ
がい こく せん きょう きょく
せん せい
とし
しました。宣教師を送り出す『外国宣教局』もミリカン先生が歳をとっていると
り ゆう
せんせい
もう
で
う
つ
いう理由で、先生の申し出を受け付けてくれませんでした。
いち ど
に ほん
ひと
し
せん せい
に ほん
「もう一 度、日 本 の人 にイエスさまを知 らせたい!」ミリカン先 生 は、日 本 に
い
かね
つく
じ ぶん
いえ
う
行くためのお金を作ろうとして、自分の家を売ってしまいました。それでもまだ
た
かみ
たす
せんせい
しん
足りません。
でも、
神さまが助けてくださることを、
ミリカン先生は信じていました。
いの
き
ひと り
とも
に ほん
い
まいつき
かね
おく
そして、祈りが聞かれて、ある一人の友だちが、日本へ行くなら毎月お金を送り
い
16
せんせい
かみ
こころ
かんしゃ
ましょう、と言ってくれたのです。ミリカン先生は、神さまに心から感謝しました。
はつ
か
ご
ねん
がつ
にち
ふね
よこ はま
みなと
つ
アメリカをたって 20 日 後 の 1950 年 1月 15 日、船 は横 浜 の港 に着 きました。
せん せい
ふな たび
じゅう
かみ
いの
エバ ・ ミリカン先 生 は、船 旅 のあいだ中 ずっと神 さまにお祈 りしていました。
はじ
せんきょう
みちび
ねが
これから始まる宣教をイエスさまが導いてくださるように、お願いしていたのです。
しゅ
みちび
いち ど
に ほん
よわ
「主よ! わたしはあなたに導かれて、もう一度この日本にやってきました。弱い
ちい
もち
かみ
あらわ
いま
な
小さなわたしを用いて、神さまのすばらしさを現してください!」 また、今は亡き
せんせい
よ
とも
あい
とも
はたら
に ほん
ロイ先生にも、呼びかけました。「ロイ! あなたと共に愛して、共に働いた日 本 に、
いま
き
いち ど
い
ねが
に ほん
今 また来 ました。あなたが、あれほどもう一 度 行 きたいと願 っていた日 本 です。
ざん ねん
とも
あなたといっしょでないのが残 念 ですが、イエスさまが共 にいてくださいます。
ぶん
はたら
せん そう
ま
に ほん
まち
ひと
こころ
あなたの分まで働 きますよ!」 戦 争 に負 けたばかりの日 本、まだ町 も人 の心 も
あ
18
に ほん
せんせい
しん
荒れていた日本に、ミリカン先生は、ただイエスさまを信じて、やってきたのです。
せん せい
とう きょう
おぎ くぼ
いえ
か
す
じょう
じょう
へ
エバ ・ ミリカン先 生 は、東 京 の荻 窪 に家 を借 りて住 みました。8畳 と3畳 の部
や
な
ちい
いえ
ちか
とお
きょうかい
い
屋しか無い小さな家でした。そして、
近くから遠くまでいろいろな教会に行っては、
かみ
つた
し ごと
神さまを伝える仕事をしていました。
ひ
こう こう せい
たず
せん せい
がっ こう
ある日、ひとりの高 校 生 が訪 ねてきました。「 先 生、ぜひぼくたちの学 校 で、
えい ご
おし
こう こう せい
いっ しょう けん めい
ねが
英 語 を教 えてください。
」 高 校 生 は、一 生 懸 命 お願 いしました。でも、ミリカン
せんせい
い
ことわ
に ほん
先生はこう言って断りました。「わたしは、日本のみなさんにイエスさまのことを
つた
き
えい ご
おし
き
こう こう せい
ねが
せん せい
伝 えに来 たのです。英 語 を教 えに来 たのではないのです。
」 それでも高 校 生 は
なん ど
あ き ら め ず、 何 度 もやってきてお願 いするのです。とうとうミリカン先 生 は、
こうこうせい
ねっしん
こころ
うご
えい ご
せいしょ
おし
ひ
う
その高校生の熱心さに心を動かされて、英語で聖書を教えることを引き受けました。
はじ
えい ご
せい しょ
まな
こうしてバイブル・クラスが始 まりました。そこは、英 語 で聖 書 を学 びながら
つた
20
たいせつ
はたら
ば しょ
イエスさまを伝えるという、大切な働きをする場所になりました。
こう こう せい
ひと り
ふた り
しん
高 校 生 たちは、一 人、二 人 とイエスさまを信 じるようになりました。ミリカン
せんせい
か
へ や
こうこうせい
れいはいどう
き
先生は、借りていた部屋を、高校生たちのために礼拝堂とすることに決めました。
ねん
がつ
か
れいはい
ひら
しゅっせき
めい
1951 年9月4日、はじめての礼拝が開かれました。出席したのは 19 名でした。
せんせい
に ほんじん
か
じょう ず
に ほん ご
はなし
ミリカン先生は、日本人と変わらないほど上手な日本語で、イエスさまの話をしま
わか
ひと
ねんぱい
ひと
し
した。すぐに、若い人ばかりではなく、年配の人もイエスさまのことが知りたくて、
あつ
ふた へ や
しゅうかいじょ
まんいん
い じょう
ひと
はい
集まってきました。二部屋の集会所は満員になって、これ以上は人が入れなくなり
ひろ
ば しょ
あたら
かいどう
ひつよう
ました。もっと広い場所、新しい会堂が必要になってきたのです。
せんせい
ひつよう
かみ
かなら
あた
しん
ミリカン先生は、必要ならば神さまが必ず与えてくださると、信じていました。
かみ
せんせい
いの
き
ほんとうに神さまは、いつでもミリカン先生のお祈りを聞いてくださったのです。
つぎ
とし
せん せい
かえ
あたら
かい どう
ひつ よう
次 の年 、ミリカン先 生 はアメリカに帰 って新 しい会 堂 が必 要 であることを、
せんせい
こと ば
ひと
かいどう
か
みんなにうったえました。ミリカン先生の言葉にアメリカの人たちは、会堂を買う
かね
22
やくそく
かね
ぜん ぶ
ためのお金をささげる約束をしてくれました。そのお金は全部で 2,365 ドルでした。
せんせい
かみ
かんしゃ
に ほん
もど
ミリカン先生は、神さまに感謝しながら、日本へ戻りました。
あたら
かい どう
と
ち
はじ
ひ
きん じょ
ひと
新 し い 会 堂 の た め の、 土 地 さ が し が 始 ま り ま し た。 あ る 日 、 近 所 の 人 が、
む さし こ がね い えき
ちか
やす
と
ち
おし
い
武 蔵 小 金 井 駅 の近 くに安 い土 地 があることを教 えてくれました。行 ってみると、
みち
いし
と
ち
ざっそう
しげ
せんせい
道は石ころだらけで、その土地には雑草が茂っていました。でもミリカン先生は、
と ち
た
かみ
ば しょ
しん
その土地に立つと「ここだわ! 神さまがくださった場所だわ!」と、
信じたのです。
と ち
か
も
ぬし
き
こたえ
その土地をいくらで買うことができるのか、
持ち主に聞いてみました。その答は、
かね
すう
かみ
アメリカのお金にすると 2,364 ドル数セントでした。「まあ、なんて神さまのなさる
と
ち
かみ
ば しょ
ことはすばらしいのでしょう! これで、この土 地 こそ神 さまがくださった場 所
と
ち
ね だん
ひと
だということが、はっきりわかったわ!」 その土 地 の値 段 はアメリカの人 たちが
かね
24
おな
ささげてくれたお金と、ほとんど同じだったのです。