研 究 結 果 報 告 書 植民地期の韓国における水産加工業者・竹中新太郎の企業家活動に関する研究 所属: 役職: 氏名: 済州大学校在日済州人センター 特別研究員 高 広明 この研究は、第 2 次世界大戦以前の日本だけでなく、植民地期の朝鮮にまで軍需 缶 詰 工 場 (竹 中 缶 詰 製 造 所 )を 展 開 し た 竹 中 新 太 郎 (1891-1957)の 企 業 家 活 動 に つ い て明らかにするものである。文献調査、現地調査などを行ってきた本研究の結果を 要約すると、次のようである。 第 一 に 、 竹 中 新 次 郎 (祖 父 )と 長 男 ·仙 太 郎 (父 )は 1904 年 (明 治 37)に 京 都 祇 園 に 青 果 商 「 八 百 伊 」 を 開 業 し た 。 そ し て 、 事 業 は 仙 太 郎 の 長 男 ·竹 中 新 太 郎 と 、 次 男 · 清 次 郎 (1894-1968)へ と 継 承 さ れ て い っ た の で あ る 。 1922 年 (大 正 11)に 京 都 市 南 郊 の 墨 染 軍 需 演 習 管 理 工 場 を 設 立 し て か ら 1929 年 (昭 和 4)に 輜 重 兵 営 の 西 側 に 移 転 した。 第 二 に 、 進 出 動 機 (背 景 )に つ い て は 、 朝 鮮 総 督 府 が 1921 年 (大 正 10)よ り 4 年 間 の劣等牡牛去勢整理計画を実施したため、昭和期になると処分せざるえない肉牛が 減少してきた。畜牛による計画的な食料総産と販路の安定を目指した朝鮮総督府 は、繁殖能力の失った老廃牛の処理とその活用を計画した。そこで、すでに京都の 祇園と伏見での実績があり、軍部とも密接であった竹中缶詰製造所は、当時、日本 の植民地であった朝鮮で最初の分工場である済州工場をはじめ、いくつかの工場を 設立した。済州島は日本本土、沖縄、朝鮮半島と満州とのほぼ中間に位置するた め、竹中分工場で生産される缶詰は朝鮮総督府との人 脈から軍用食料品として生産 が続けられた。 第 三 に 、 竹 中 新 太 郎 は 1923 年 (大 正 12)か ら 1928 年 (昭 和 3)に 掛 け て 済 州 島 北 西 岸の翁浦里に分工場を設置した。伏見工場と同様に、済州島工場でもグリンピース 缶詰の製造が行なわれ、やがて牛肉缶詰に代わる主力製品になり、アワビやサザ エ 、 サ バ 、 イ ワ シ な ど の 魚 介 類 (fish and seafood)缶 詰 も 製 造 さ れ た 。 彼 は 済 州 島 最 大 ·最 新 施 設 の 工 場 を 作 る た め 、 北 九 州 か ら 運 び 込 ん だ 燃 料 用 の 石 炭 ·製 缶 用 の 空 缶、原料の輸送の利便性を求めって敷地から延びる トロック用の路線などを利用し て 潛 水 (裸 潛 )漁 業 と 関 連 し た 家 内 性 工 業 か ら 脱 皮 し た 。 第 四 に 、 1926 年 の 竹 中 分 工 場 で は 、 済 州 島 に あ っ た 12 か 所 缶 詰 工 場 に お い て 最 大 の 資 本 金 (40,000 円 )、 年 間 生 産 高 (21,000 箱 、 42,000 円 )や 労 働 者 数 (内 地 人 の 男 性 8 人 、 朝 鮮 人 の 男 性 6 人 、 朝 鮮 人 の 女 性 30 人 )を 誇 り 、 お も に 翁 浦 里 の 女 性 が 従 事 し て い た 。 1935 年 (昭 和 10)の 移 出 は 8,000 箱 、 75,000 円 を 超 え る た め 、 そ の 多 く は 欧 米 に 輸 出 さ れ て い た 。 た だ し 、 1934 年 (昭 和 9)に お け る 同 種 の 年 間 製 造 量 は 、 同 年 の 牛 肉 缶 詰 の 6 分 1、 グ リ ン ピ ー ス 缶 詰 の 3 分 1 程 度 で あ っ た 。 特 に 、 羅 州 工 場 は 羅 州 邑 月 見 町 に あ り 、 主 要 品 目 は 肉 蔬 菜 類 缶 詰 、 100-199 人 の 職 工 を 配 す る比較的大規模な工場であった。 第 五 に 、 竹 中 新 太 郎 は 1937 年 (昭 和 12)に 羅 州 工 場 (精 肉 缶 詰 工 場 )、 1938 年 (昭 和 13)に 鬱 陵 島 工 場 (サ ザ エ ·ア ワ ビ 缶 詰 工 場 )、 1943 年 (昭 和 18)に 馬 山 工 場 (農 産 物 缶 詰 工 場 )な ど 朝 鮮 へ の 事 業 を 展 開 し た 。 特 に 、 彼 は 1943 年 (昭 和 18)に 束 草 工 場 を 建 設 し 、 牛 肉 缶 詰 ( 一 日 に 牛 50 頭 を 加 工 )を 軍 需 物 資 に 納 品 し た 。 さ ら に 、 1938 年 (昭 和 13)頃 に 京 成 事 務 所 (ソ ウ ル 南 大 門 )、 1940 年 (昭 和 15)頃 に 釜 山 出 張 所 、 1942 年 (昭 和 17)に 北 朝 鮮 の 清 津 工 場 (イ ワ シ 油 脂 工 場 )な ど の 朝 鮮 各 地 に 工 場 · 事務所を設立した。 第六に、竹中新太郎は済州島での事業を拡大しながら翁浦里の東方にある 翰林 東小学校の校舎改築や、陸軍への戦闘機の寄付なども行われた。他にも 、竹中缶詰 製造所は、舊右面事務所、舊右面漁業組合、済州島翰林漁港築造期成会や舊右面電 燈組合設立準備委員会などの設立に関わっていたようである。 これら以外にも、竹 中家が設置した朝鮮除虫菊株式会社もそのひとつで、おもに軍馬の除虫を目的とし た除虫菊が済州島でも栽培された。 第 七 に 、 清 次 郎 (新 太 郎 の 弟 )の 長 男 (竹 中 清 治 )は 、 京 都 の 伏 見 工 場 と 隣 接 し た 場 所 で 料 亭 旅 館 ((株 )清 和 荘 )を 経 営 し て い る 。 ま た 、 三 男 (竹 中 史 朗 )は 1957 年 に 京 都 工 場 の 閉 鎖 直 後 に 京 都 府 宮 津 市 で イ ワ シ ・ カ ニ 缶 詰 工 場 ( 竹 中 缶 詰 ( 株 ))を 開 設 し、家業を継承している。 従 っ て 、 竹 中 新 太 郎 は 本 社 (京 都 事 務 所 )と な る 京 都 ・ 伏 見 工 場 と 、 済 州 島 を 中 心 と す る 大 規 模 の 事 業 展 開 を 経 て 1930 年 代 以 降 に 全 羅 南 道 、 慶 尚 南 道 、 東 海 岸 に ま で北上して日本の軍需産業と結びつきながら企業家活動を遂行してきたといえる。 研 究 成 果 の 公 表 に つ い て (予 定 も 含 む ) 口 頭 発 表 (題名・発表者名・会議名・日時・場所等)予定 題名:植民地期の韓国済州島における竹中新太郎の企業家活動 発表者名:高 廣 明 会議名:韓国日本近代学会 日 時 : 2015 年 5 月 場所:社団法人 韓国日本近代学会 論 文 (題名・発表者名・論文掲載誌・掲載時期等)予定 題名:植民地期の朝鮮における竹中缶詰製造所の事業展開 発表者名:高 廣 明 論 文 掲 載 誌 : 済 州 島 研 究 (社 団 法 人 済 州 学 会 ) 掲 載 時 期 : 2015 年 8 月 ISSN: 1229‐ 7569 書 籍 (題名・著者名・出版社・発行時期等) 名: 著者名: 出版社: 発行時期:
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