易経と蒙求

易経と蒙求
易経と蒙求
中国故事を集める
-1-
はじめに
中国故事も深奥にして、蘊奥(うんおう)で、なかなか為になり、四書五経のように啓か
れた書が多く、日本の和漢朗詠集や枕草子、源氏物語、禅に引用されてきた。
この中でも、占いに用いられる易経は、周の時代(紀元前 1046 年-紀元前 256 年)に、伏
羲(ふつぎ)というものが作成したとされており、さらに、文王、周公、孔子の三聖三古(文
と周は親子なので一つとし、伏羲、孔子の三聖)が完成させた書物である。
そして、この、周易上経の四番目に登場する、山水蒙から引用された童蒙、子供への教
育についての、「我より童蒙に求むるにあらず、童蒙より我に求む」、という幼児教育に
ついての、その彖(たん;断ずるの意)と象(像;かたどるの意)をあてはめて、卦として、
総数六十四卦から太極をうらなうのが易である。
この語句を、中国の故事を子供に教えるのに使った書を、唐の 746 年、天宝 5年、李
潅巻が4句計 596 個の四句を作成あいたものが『蒙求』、もうぎゅうである。
蒙求は、日本には、平安朝より伝えられ、その後、武士江戸時代にまで詠まれていた。
このため、「勧学院の雀は蒙求を囀(さえず)る」、とまでよばれていた。
どうもよりわれを求めるという、こどもの積極性にかかっている。興味深いものをあつ
めようとしていて、漢詩と大いに関係あるもので、子供にも易しく分かりやすいといわれ、
都合、592 である。
易経
詩経、書経、礼経、楽経、易経、春秋を五経といい、儒家の経典とされ、荘子の天下篇
に、詩はもって志を道(い)い、書はもって事を道い、礼はもって行いを道い、楽はもって
和を道い、易はもって陰陽を道い、春秋はもって名文を道う、という。
その易経では、宇宙現象、自然現象、人間の思考、行動など、この世のすべてを太極と
いい、これらを陰陽、有り無し、ゼロイチのライプニッツのいう二進法をもちいて、分類
したものが易経で、伏羲が作成したものとされている。
-2-
そして、この分類は、細分化されて、文王、周公によって、八卦六十四卦となった。
八卦
自然現象
親族
乾(けん)○○○
天
父
老陽○○
兌(だ) ○○●
沢
三女
少陰○●
離(り) ○●○
火
次女
震(しん)○●●
雷
長男
巽(そん)●○○
風
長女
坎(かん)●○●
水
次男
艮(ごん)●●○
山
三男
坤(こん)●●●
地
母
陽○
太極○
陰●
少陽●○
老陰●●
太極を、陽と陰にわけ、さらに、二分し、陽を陽陽を老陽といい、陽陰を少陰、陰陽を
少陽、陰陰を老陰という。
さらにおのおのを二分していくと八つにわけられ、これを八卦という。則ち、八卦は、
乾(けん)、兌(だ)、離、震、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)をいい、これをさ
らに二分して、二の6乗したものを六十四卦という。これを筮竹(ぜいちく)で占い、算木
であらわして、六十四卦で見ていく方法が筮占(ぜいせん)である。
六十四卦の内容をしめしたのが、『周易』で、
その一番は、乾下乾上で、乾為天(けんいてん)といい、陽陽陽陽陽陽と陽が六つ重なる。
次ぎは最後の、坤下坤上、坤為地といい、陰が六つ重なる。
その次ぎは、震下坎上で、屯(ちゅん)、水雷屯で、下からよんで謂って陽陰陰ー陰陽陰
である。
順にいけば、陽陽陽ー陽陽陰の乾下兌上であるが、これは澤天夬といって夬(かい)とい
い、ものの決断についてのことであり、45 番目になっている。数列、理論通りには配列
されていない。
その次ぎの四番目としては、蒙で、坎下艮上(かんかごんじょう)で、山水蒙(さんすい
もう)といい、子供への教育につてのべられているので、早めに載せられている。
-3-
蒙、享。匪我求童蒙。童蒙求我。初筮告。再三瀆、瀆則不告。利貞。
彖曰、蒙、山下有険。険而止蒙。蒙享、以享行、時中也。時中也。匪我求童蒙、
童蒙求我、志應也。
筮告、以剛中也。再三瀆 瀆則不告。瀆蒙也。蒙以養正、聖功也。
象曰、山下出泉蒙。君子以果行育徳。
彖曰というのは、断じる。判断するという意味。
象曰というのは、カタチの意味。
蒙は享る。我より童蒙に求めず、童蒙より我に求む。初筮には告ぐ。再三すれば瀆(け
が)る、瀆るれば告げず。貞しきによろし。
彖に曰く、蒙は、山下に険あり。険にして止まるところ蒙なり。蒙は享るべきをもって
行い、時行、以享行、時中也。時中也。匪我求童蒙、
童蒙求我、志應也。
筮告、以剛中也。再三瀆 瀆則不告。瀆蒙也。蒙以養正、聖功也。
象曰、山下出泉蒙。君子以果行育徳。
童蒙とはこどものことである。蒙は童蒙、幼稚蒙昧の象であるから、教育によってその
蒙が啓かれれば享る。教育の理想は、我、すなわち師たる者から求めて童蒙に教えるので
はなく、師弟・童蒙の方から進んで師に教えを求める様でなければならない。
以下、六十四卦を陽陰の順にならべかえてみる。
例えば、2010 年、平成 22 年の庚寅の年を、2008 年の冬至において神宮館高島暦の井上
象英氏がおこなった、立筮、占断では、国運予断は、下卦、上卦ともに巽で、巽為風。順
風とでているが、現実とは、かなりちがっている。
国経済予断では、下卦が坤、上卦が乾で、天地否で、身の程をわすれての贅沢は禁物で、
社会格差が問題となる。トヨタのことか。
これらは神宮館高島暦にでているが、かなり中っている。
蒙求
蒙求という書物は、イソップ物語のような教訓性を盛り込んだ幼学書で、746 年、唐の
時代の李瀚(りかん)が、過去 1400 年の中国の歴史上の人物と事件から、596 個の咄を撰
んで、四言句、対偶、八句換韻のかたちで書き残した冊子で、菅原道真(845-903)の時代
の遣唐使によって、元慶 2 年、878 年頃に日本に持ち込まれ、陽成天皇の弟で、清和天皇
の第 4 子の貞保親王(さだやす;横笛、琵琶の名手;870-924)が、日本で最初に受講され
たといわれている。
-4-
蒙求が、平安朝中期以降、盛んに、貴族の間で読まれた証左に、『和漢朗詠集』の漢詩
などに多数、引用されていることがあげられ、さらに『枕草子』や『源氏物語』の柏木、
夕霧、橋姫に、引用されたと推測される箇所がある。
そして、平安後期には徐が注釈を加え、江戸時代まで、日本国民の教養読み物として、
長く読み続けられ、昭和の戦後から、急速に衰退していった。
現在は、殆ど読まれることはないが、平安時代には、「勧学院の雀は蒙求を囀(さえず)
る」、とまで云われた超ベストセラーである。
題目の蒙というのは、暗い、という意味で、智慧のまだ付いていない子供、童蒙にたと
えられ、易経、周易から引用されている。
周易の八卦は、自然現象と関連付けられていて、乾(けん;陽陽陽)ー天、兌(だ;陽陽
陰)ー沢、離(陽陰陽)ー火、震(陽陰陰)ー雷、巽(そん;陰陽陽)ー風、坎(かん;陰陽陰)
ー水、艮(ごん;陰陰陽)ー山、坤(こん;陰陰陰)ー地と、天、沢、火、雷、風、水、山,
地が、配分されている。
したがって、周易の八卦六十四卦で、最初が、陽陽陽陽陽陽の下上乾(乾為天;かんい
てん)で、その読みの意味の説明がのべられており、ついで、下上坤(坤為地)、その次ぎ
の三番目の説明は下震上坎の屯(水雷屯;すいらいちゅん)で、次ぎの 4 番目で「蒙」が取
り上げられている。
蒙の卦は、陰陽陰陰陰陽、すなわち、下卦が陰陽陰の坎(かん;水)で、上卦が陰陰陽の
艮(ごん;山)の場合を、蒙という。
蒙は、即ち、艮の山、坎の水から、山水蒙という。
蒙、山水蒙の六十四卦の意味は、
蒙、享。匪我求童蒙。童蒙求我。初筮告。再三瀆、瀆則不告。利貞。
蒙は享(とお)る。我より童蒙に求むるにあらず、童蒙より我に求む。
蒙は享に等しく、ものごとがスムースに行われることをいう。童蒙というのは、こども
のことで、自分からこどもに求めようとせず、こどもが自分から求めるようにすることが、
肝要という。
この山水蒙の説明から、蒙求という熟語を書の題目に選んだのである。
中国故事は、蒙求、白氏文集、史記、漢書、後漢書、文選でほぼ全てを網羅でき、今回
は、蒙求からの主な出典
蒙求は 596 個の説話からなっており、このうちの三十個だけえらんで内容に説明を加え
る。しかし、このような事項をしっていても、全体の僅か二十分の一に過ぎず、ほんの僅
-5-
かとしか言えず、全体をよみきるには相当のエネルギーが必要で、聖書には及ばないが、
困難であることには間違いない。
最初の二文字が姓名で、下の二文字が用語になっていて、二人の事項が対句としてあげ
られている。いわゆる四文字熟語ではない。
時代順にはなっていないので、この順に配列を変えて掲載する。
中国史は、夏、殷、周、春秋、戦国、秦、漢、三国時代、晋、南北、隋、唐となり、こ
の順に並べ替えておく。
第 1、2 の
[1,2]
王戎簡要
裴楷清通
P145
おうじゅうかんよう はいかいせいつう
才能に関する話。
王戎、裴楷はひとの名前。
簡要;簡にして要領をえていること。広辞苑には、この言葉の意味は「ざっとした要領」
となっている。
清通;清らかな心、こころ狭からず、よく世態に通じていることをいう。広辞苑には、
この熟語はでてこない。精通となっていて、くわしく通じること。つまびらかに知ること。
ふかく達することをいい、清通は、現在、日本では当用されていない。
漢詩での説明文で前半が王戎であるが、後半の裴楷の方の説明がおもしろい。
というのは、王戎簡要の方は、王戎の才能がすぐれ、渾という王戎の父よりも優ってい
ると竹林七賢の筆頭の阮籍が述べているが、その簡要の内容の記載がないので、王戎が如
何に優秀であったのかがわからない。中国ではこのような評価が通常で、詳細に述べられ
る事はすくない。
ここでの登場人物は、阮籍、渾、王戎で、このうち竹林七賢は、阮籍と王戎である。
竹林七賢は、阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の七人をいい、三国時代魏、
晋の人々で、嵆康については、25 番目にでてくる。
晋書、王戎字濬沖、琅邪臨沂人。
晋書によると王戎の字は濬沖、琅邪臨沂の人。
幼而穎悟、神彩秀徹、視日不眩。
幼くして穎悟、神彩秀徹、視日不眩。
裴楷見而目之曰、戎眼爛々如巖下電。 裴楷が見て、戎の眼は爛々とし巖下の電の如し。
阮籍素与父渾為友。
阮籍は、もともと父の渾と親友であった。
戎年十五随渾在郎舎。
十五歳で父親と一緒に、官舎に住んでいたが、
少籍二十歳、籍與之交。
王戎は阮籍より二十歳も若いが、阮籍と親交が
-6-
あった。
籍毎適渾去。輒過視戎、良久然後出。
阮籍が渾のところに行く毎に、すなわち、
よぎりて戎を視、戎のところによって、暫く
してから、辞去するのが、常であった。
謂渾曰、濬沖清賞、非卿倫也。
そして、父の渾に、阮籍がいう。息子さんは
褒めあぐべき人間で、父親の渾、あなたとは、
くらべものに成らない。
共卿言、不如共阿戎談。歴官司徒。
あなたと話しするよりは、王戎と話する方が
遙に、ましです、という。このように、王戎は
司徒、丞相にまでなった。
ついで、裴楷の話。ここでの登場人物は、裴楷、王戎、鐘会(しょうかい;魏の人)、文
帝。
晋裴楷字叔則、河東聞喜人。
晋の裴楷は字を叔則といい、河東の聞喜の人。
明悟有識量。少与戎斎名。
明悟にして識量あり。若くして王戎と名を
ひとしゅうす。
鐘会薦於文帝、辟相国掾。
魏の鐘会が魏の相国の文帝に裴楷を推挙した。
及吏部郎缺 帝問鐘会。
その後、吏部郎の官に欠員があったので、文帝
が鐘会に尋ねられた。
曰、裴楷清通、王戎簡要、
鐘会は言った。裴楷清通、王戎簡要。
皆其選也。於是用楷。
二人とも才能豊かだが、裴楷がえらばれた。
楷風神高邁、容儀俊爽、博渉群書、裴楷は楷風神高邁で容儀俊爽で、よく書をよみ、
特精理義、時謂之玉人。
特に老子や易の理義に精通していた。水晶玉は
清く美しく透き通っているので、人は彼を玉人
とよんだ。
又称、見叔則如近玉山、照映人也。
また、水晶の玉の山に近づいたときの様に、人
を照り輝かせるものがあった。
転中書郎、出入官省、見者蕭然改容。
中書部に転任し、官省に勤めていたが、彼を見
た他の職員は思わず蕭然として、自分の身なり
を改めたという。
武帝登祚、探策以卜世数多少。
文帝の子の武帝が即位すると、武帝の子孫をめ
どきで筮竹で占うと、一という卦がでた。
武帝は悦ばなかった。
既而得一不悦。群臣失色。
群臣たちは、一というのは不吉な数字であった
ので、顔色をうしなった。
楷曰。臣聞、天得一以清、
裴楷は解説する。天は一を得て、以て澄み、
地得一以寧、
地は一を得て、以て安らかとなる。
王侯得一以為天下貞。帝大悦。
王侯は一を得て、以て天下を保つ。帝大悦。
累遷中書令侍中。
裴楷はのちに、中書令、侍中に累進した。
-7-
裴楷は、易経を知っていたので、巧く逃げおおせたのである。このような機転を利かし
た咄しの代表は、71 の孫楚の漱石のはなしである。
第 3、4 の
[3,4]
孔明臥龍
呂望非熊
こうめいがりゅう
りょぼうひゆう
P148
世に認められる、出世の糸口の掴み方。
三国時代の孔明は、世を捨て野良仕事に精をだしていた。これは、眠っている龍、臥龍
の状態で、彼の実力を聞かされた劉備は、三顧の礼をもって、孔明を召し抱えたのである。
呂望とは、呂尚すなわち太公望のことである。太公望は文王の記録官の編氏の占いによ
って見いだされた。斉の国を建設したのが太公望である。蒙求に取り上げられている人物
で、もっとも古い。
蜀志、諸葛亮字孔明、琅邪陽都人。
蜀志によると、諸葛亮の字は孔明といい、
琅邪陽都の人である。
躬耕隴畝、好為梁父吟、毎自比管仲楽毅。 躬みづから隴畝(田畑;ろうほ)を耕し、
好んで梁父のために吟じ、毎日、
自分を管仲(斉の桓公に仕)、楽毅(燕の照
王に仕えた猛将)と比較していた。
時人莫之許。
時の人これを許すなし。この時のひとは、
孔明の能力を認めようとしなかった。
惟崔州平徐庶与亮友善、謂為信然。
ただ、親友の崔州平と徐庶だけは信じてい
た。
時先主屯新野。徐庶見之謂日、諸葛孔明臥龍也。その頃、先主劉備は新野にいた。
将軍豈願見之乎。
此人可就見、不可屈致。
将軍は孔明に会うことをのぞまれぬか。
将軍から会いに行くべき人で、彼を屈して、
こさせるようにはできません。
宜枉駕顧之。
まげて、迎えに行くべきです。
先主遂詣亮。凡三往乃見。
ついに、亮すなわち孔明を訪問し、三度た
づねて、やっと会えた(三顧の礼)。
因屏人与計事善之。猶魚之有水也。
よって、他の人々を退け、共に天下の事を
計り、劉備は孔明の意見を善しとした。
水えた魚とはこのことだ。
以亮為丞相。
もって、孔明は丞相となった。
ついで、太公望のはなし。田は狩のことである。
-8-
六韜曰、文王将田。史編布卜曰、
六韜にのっているはなしだが、文王が田、狩り
田於渭陽。将大得焉。
に出るときに、占い師の太史という記録を司る
官の編という人がいった。
狩りに行くなら、渭陽にいけ。
非龍、非彲、非虎、非羆
そうすれば、龍でもなく、ち、角のない龍でも
なく、虎でも、ひぐまでもないものにであうだ
ろう。
是が吉で、それを連れて帰ってくれば、その
兆得公侯。施及三王。
吉は三代に及ぶと。
文王があったのは、さかなを釣っている老人で
あった。文王は、その老人を師とし、崇めた。
このように、大公望は、太史という占い官の編氏が、文王に情報をおしえたために、
見いだされた人物で、後に、斉の国の王にまで登りつめるのであるが、この事件の前は、
書物を読み、餌のついていない釣り糸を河にたれるだけの貧乏暮らしで、これに呆れた妻
は逃げてしまうのである。
太公望が出世して、故郷に帰ってきたときに、離婚した妻が、再婚を願いでるが、太公
望は、盆から水を土に流し、これをもとに戻すことができないのと同じだといい、再婚は
許されなかったのである。これを「覆水盆に返らず」という。223 の朱賈臣の話と似てい
る。
第 5、6 の
[5,6]
楊震関西
丁寛易東
P152
ようしんかんさい ていかんえきとう
後漢の学才の優で、関西関東という言い方はここからきている。函谷関で分かれる。孔
子は関東、関西の孔子が楊震といわれていた。
第 13、14 の
[13,14]
周嵩狼抗
しゅうすうろうこう
梁冀跋扈
P163
りょうきばっこ
狼抗は、強い抵抗のことをいい、跋扈は、ほしいまま、身勝ってなことをいう。
周嵩は三人兄弟の真ん中。兄は顗、弟は謨といい、三人とも立派に育てた母親は、冬至
置酒、一陽来復の少し前の席で、ここまで子育てすれば、この先、もう、心配ないわ、と
いった。しかし、周嵩はいう。お母さん、心配なのはこれからですよと狼抗した。
-9-
なぜなら、兄の顗は、志は大きいが、才が無い。名望は高いが智はくらい。スグニ、他
人の欠点過失につけこむ。他人を攻撃するのがスキだ、これでは、この先、身の安全は保
障出来ない。
また、自分はまっすぐな人間で、物事に屈しない剛情なところがあるから、世間に嫌わ
れ、世間に受けいれられないだろう。この二人には託足無所、身を寄せる住居はない。
弟の謨は、阿呆で、平凡で、角がない。したがって、人害も少ない。よって、母への孝
行には、末弟が一番適任だ、という。他の二人は、家をでて、出世したが、逆臣にころさ
れた。弟は母とともにくらし、侍中まで出世した。
周嵩狼抗から学ぶべきことは、人間は 20 歳までに身につけた性格は、以後、一生変わ
らないということで、したがって、子供をもった親は、一番下の子供が 20 歳になったと
き、子供たちで、性格判断の会議をもうけ、自分自身が、今後、どのような人生の旅路に
就けばよいのかを話し合いをさせるのがよい。
一人っ子の場合は、集中内観法しかないが、これには、最短で、三日から一週間かけて、
だれとも話し合わず、自分の心と会議する方法で、一種の坐禅修行である。
梁冀は、後漢の順帝のときの将軍で、気が荒く、順帝の次々代の質帝は自分が擁立して
おいて自分のことを跋扈将軍と批判したため、この幼き帝をころしてしまった。
第 7、8 の
謝安高潔
[7,8]
王導公忠
P154
しゃあんこうけつ おうどうこうちゅう
隠逸謹慎のはなし。公忠は忠節のこと。
謝安は謝安石のことで、すでに4歳のころから、風神秀徹の子といわれた天才で、王東
海(斉の王)に匹敵するような大人物に育つだろうといわれていた。そして、若いときから
出仕の招請があったが、断り続けていた。
40 歳で出仕し、司馬の役を与えられ、その後、人事局長となり、孝武帝と桓温の仲介
役をつとめ、秦の符堅を戦さで破り、晋の国民を助けた。
王導は、元帝にみいだされた人物で、高祖劉邦の蕭何(しょうか)のように忠孝の人だと
いわれた。元帝が同時に二人で王位につこうよと王導を誘ったが断ったという。蕭何につ
いては 61 の蕭何定律にある。
第 9、10 の
[9,10]
匡衡鑿壁
孫敬閉戸
きょうこうさくへき
そんけいへいこ
勤勉の程度のはなし。
- 10 -
P159
匡衡は、東海承の人で、農夫の子であったが、学を好み、彼が詩経を講ずると、はなし
がおもしろいといって、非常に好評であった。解人頤、あごがはずれるぐらいおもしろい。
しかし、貧乏で、壁に穴をあけて、隣家の燈火の洩れる光で読書した。
孫敬という人は、戸を閉めて、書を読み耽っていた。梁と自分の首に縄をまきつけ、睡
くなり首を垂れると、その縄で絞められ目がさめるように睡気防止の工夫をしていた。
第 11、12 の
[11,12]
郅都蒼鷹
しつとそうよう
寧成乳虎
P161
ねいせいにゅうこ
過酷政治の典型。
蒼鷹は、クマタカとよみ、郅都は、天子にも大臣にも厳しい人間で、蒼鷹と綽名されて
恐れられていた。都が匈奴との境の鴈門大守になったときは、匈奴の騎士たちは、都の人
形をつくり、矢の的にしていた。ついに事件は起こった。都が臨江王を処分し自殺におい
こんだのだ。これをみて、臨江王の祖母の穴太后が都の首を刎ねた。
乳虎というのは、子供に乳をのませている時の虎のように獰猛であることを謂う。
寧成は、景帝につかえていたが、位が下でも上司にかみつき、上位であれば部下を厳し
くとりしまり、如束湿薪、しめった薪たきぎはしばりやすいように、あたかも湿薪のよう
な厳しさをもちあわせていた。武帝のとき函谷関の役人になったが、そのきびしさを人々
は乳虎といって恐れた。
第 15、16 の
[15,16]
郗超髯参
ちちょうぜんさん
王玽短簿
P167
おうじゅんたんぽ
桓温の好んだ軍人たちのはなし。髯参はひげをたくわえていることをいい、短簿は背丈
の小さな帳簿係りの人のこと。
郗超は、胆大にして、才智あり、ヒゲを蓄えた大尉であったが、その度量は稀なるも
のがあった。大司馬の将軍桓温(かんおん)は、とくに、郗超との論戦を好み、人の意見に
耳を傾けようとしない桓温が、郗超の意見には常に感服して聞いていたという。
また、桓温は、小人の王玽との論戦もお気に入りであった。
以上のことを、髯参軍短主簿という。
王玽は、背丈が低く、文書帳簿を監理する役人であったので、短簿とよばれていた。彼
は、王導の孫で、二十歳で桓温の下役人に抜擢されており、桓温は王玽の才能をみぬいて
おり、いずれ黒頭公、すなわち、三公になるだろうと予言していた。孝武帝の時、王玽は
- 11 -
官吏任免の人事を担当していたが、ある日、夢で、垂木のように巨大な筆をもらった。こ
れは、重大なことが起きる前兆だと、みなに勧告したが、その通り、帝が急逝し、その哀
冊を書くことになった。
第 17、18 の
[17,18]
伏波標柱
博望尋河
ふくはひょうちゅう
はくぼうじんか
P171
遠地左遷のはなし。
伏波は文淵のことで、老当益壮、おいてますますさかんなるべしの言葉をのこす。光武
帝の参謀で、遠く国境のはての交阯に銅柱をたてた。
博望は、武帝の参謀で匈奴につかまり、逃げ出して、地理を明かす。黄河の源は崑崙山
で、ここに天の織女星の支機石を持って帰ったという記念碑をたてた。これは、黄河の源
は天の川に通じると信じれられていたからで、機織り器をささえる石が支機石である。
第 19、20 の
[19,20]
李陵初詩
田横感歌
りりょうしょし
でんおうかんか
P175
詩歌の起源と挽歌のいわれについて。
五言絶句をつくりだしたのは、前漢の李陵と蘇武である。蘇武が匈奴につかまり、バイ
カル湖まで流刑されるが、李陵らが迎えに行き帰国の際に書き送ったうたが詩の最初であ
り、五言絶句の形態をとっている。
この蒙求では、陵以詩贈別曰、
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辞
晨風鳴北林
熠燿束南飛
浮雲日千里
安知我心悲
武別陵詩曰
双鳧倶北飛
一鳧独南翔
子当留斯舘
我当帰故郷
- 12 -
一別如秦胡
会見何渠央
愴恨切中懐
不覚涙呂裳
願子長努力
言笑莫相忘
漢字の発明も驚異的史実ではあるが、詩歌の作成したこともゼロの発見に等しく、感動
的である。しかし、この李陵蘇武が最初ではなく、この二人のことを後漢の文人たちが詩
のかたちで書き残したのが、この五言絶句詩の始まりである。したがって、李陵初詩は間
違いである。なぜなら、李陵、蘇武ともに文人ではなく、軍人であったから。
田横も前漢の人で、斉の王は田一族であったが、田広が死に、かわりに田横が王に就い
た。しかし、漢の灌嬰に破れ、島に逃げた。漢の高祖が天下統一し、田横は、捕虜として、
洛陽に詣でるように命じられたが、田横は自分で首を刎ね自決した。随行員及び島にのこ
された家来達五百人はすべて殉死した。
これを聞いた高祖は死者の柩を挽(ひ)いてこさせ、田横を葬った。この柩を挽くときに
うたったうたが、挽歌であり、これを表題で、感歌としている。したがって、田横挽歌が
的確な表題である。
第 21、22 の
[21,22]
武仲不休
士衡患多
ぶちゅうふきゅう
しかんかんた
P180
能文家の話。
武仲は後漢の伝毅のことである。明帝の頌徳を書き上げたことで有名。休み無く書き続
けたという。
士衡は、陸機のことで、弟の陸雲とともに、二陸と称された呉の能筆家。大柄で、その
声は、鐘の如し。すばしっこい耳の黄色の犬を飼っていて、千里向こうの実家に筒に手紙
入れて、この犬に括り付けて、もっていくように訓練し、黄耳クンは、みごとに往復の仕
事をやり遂げたという。
陸機の才能は弟の陸雲でさえ、兄貴の文章をみると、自分の筆も硯も焼いてしまいたい
衝動に駆られるという。陸機は、その才能を晋の穎(えい)にみとめられ、高官となったが、
讒言にて処刑された。
能筆家、文才の人については、この 21、22 のほかに、43 に瓘靖二妙、50 に弟の陸雲の
才能について士龍雲間として紹介されていて、78 の孫綽才冠(そんしゃくさいかん)、80
の摯仲辞翰(しちゅうじかん)、137 の鑿歯尺牘(さくしせきとく)、 141 の 羅含呑鳥(らが
- 13 -
んどんちょう)、142 の江淹夢筆(こうえんむひつ)、383 の仲宣独歩、384 の子建八斗、439
の雷煥送剣、445 の淮南食時、446 の左思十稔、462 の張華台拆、578 の陳思七歩、591 の
鮑照篇翰、592 の陳琳書檄、がある。
第 23、24 の
[23,24]
桓譚非讖
王商止訛
P184
かんたんひしん おうしょうしか
讖とは讖緯という一種の占いの書で、未来記といわれているもので、後漢の光武帝は、
これを推奨していた。桓譚は議郎給事中という帝の下問に答える係りであったが、讖緯は
読まない。光武帝は、何故読まないのかと怒ったが、桓譚は五経のような正しい儒教の書
ではないからと答えた。桓譚は、その場で打ち首で血だらけのところを、赦しをうけて、
放免され、後に、左遷された。
権力者に、正しいことをいっても、通じ無いことがある。命に関することであれば嘘も
方便である。
次ぎは、洪水によって、村中が氾濫をおこすという訛言を村人は信じていたが、前漢の
成帝のときの将軍であった王商は、非道の国には洪水はおこるが、前漢のような、安泰の
国では洪水は、おこらないといって民の訛言を鎮めた。
災害の予測は難しいが、出鱈目な情報には注意しなければならない。
逆に濱口の稲むらの火のような緊急対処方法もしっていなければ、防災にはならない。
第 25、26 の
[25,26]
嵆呂命駕
けいりょうめいが
程孔傾蓋
P187
ていこうけいがい
命駕は、馬車を用意するように命じること。傾蓋は、かさをさすことをいう。これで、
友人を大切にした人の話。程孔は、程子と孔子のことをさす。
命駕の友。傾蓋は、孔子が友に御礼の品をさしあげるに、邂逅での礼の精神をのべてい
る。具体的には、詩経から孔子が引用している。
弟子の子路は、紹介なしで会った人や、女が媒なくして嫁するは君子の行いではありま
せんかと疑問をもちかけたが、孔子は邂逅は願ったり、叶ったりというもので、程子は天
下の賢士、今ここで贈らなければ、終生お目にかかれず、機会を失う、と謂った。
晋書、嵆 康字叔夜、譙国銍人。
嵆 康は、しょうこくちつの人。
性巧而好鍛。宅中有一柳樹。
仕事は鍛、鍛冶屋で巧み。自宅の中庭に
甚茂。
一本の柳がよくしげっていた。
- 14 -
乃激水圜之。
そこで、水をめぐらせ、流れは激しく
なっていた。
毎夏月居其下以鍛。
夏はこのきのしたで鍛冶をおこなってい
た。
東平呂安服其高致。毎一相思、
東平の呂安は、 嵆 康の高尚なる心に心
服し、一度、出てくれば、
輒千里命駕。康友而善之。
千里の道も馬車で駆けつける。
康の十として有名になった。
家語曰、孔子之郯。
孔子家語にでているが、
孔子が郯、たんの国に行ったとき
遭程子於塗、
途中の塗、みちで、程子にであった。
傾蓋而語、終日甚相親。
傘を傾け、終日、親しく語り合った。
顧謂子路曰、取束帛以贈先生。
孔子は弟子の子路に、絹の一束贈るよう
にいわれた。
第 27、28 の
[27,28]
劇孟一敵
周処三害
P188
げきもういってき しゅうしょさんがい
武侠の話。
劇孟は前漢の洛陽の人。呉楚を滅ぼすために、漢の条侯周亜夫という大尉が長安を発ち
洛陽で、豪傑劇孟を弟子に迎えた。このとき、条侯周亜夫は一敵国をえたようなものだと
いった。これを一敵と表現したものと考えられている。
周処は晋の猛将であったが、あまりに、無鉄砲な人間で、周りから嫌われていた。村の
人々には、三つの悩みをかかえていた。第一には南山の白い額の猛虎、第二に長橋の下に
住む蛟龍(みづち)、もうひとつは周処の乱暴。この三つの害を三害といった。
この批判で心を入れ替えた周処は、猛虎、蛟龍を退治し、自分の無謀なる行為は慎み、
真に民のために働き、丞相になった。
勇猛であったので、帝は、西南の国を討つように命じたが、伏波将軍の孫秀が、周処に
は老母がいるので、出陣するのはやめたほうがよいと忠告した。しかし、周処は言う。い
や忠と孝の両立は難しいが、自分は忠をとると言って、忠節を示し、ついに、自決したの
である。
桃太郎のようなはなしで、元劇、京劇になっており、木下順二などがこの場面を紹介し
ている。また、泉岳寺の少し品川駅よりの高輪神社の石門に、この周処の退治の場面が彫
り込まれている。
- 15 -
第 29、30 の
[29,30]
胡廣補闕
袁安倚頼
ここうほけつ
えんあんいらい
P193
長期政権に仕えたはなし。
胡広は、後漢時代の南郡の人で、安帝の官僚採用試験で一番で、後に三公に出世した。
80 の高齢になっても壮健で、温厚、謹慎質素で、縁句だった言葉使いで、万事治まらな
ければ胡伯始にきけ、といわれるほど信頼が篤かった。
しかし、質帝の後継者選びでは、梁冀の推薦する桓帝となり、胡広は失脚した。しかし、
仕えた帝は、安、順、冲、質、桓、霊の六人であった。このように、よく、政治の闋けた
ところを補った人物であった。
袁安も後漢の人で、倚頼とは、信頼のことである。自分の父親がなくなった時に、墓場
をさがしに出たときに、三人の書生にあった。三人は、あなたはどこに行かれるのかとき
いた。墓をさがしに。それでは、あの地が最適である。風水で、風透しもよく、南むきで、
川も流れている。あそこであれば、死者の鎮魂と、居心地が最高で、子孫も代々三公にな
る家柄になるだろうといった。信頼の高い三公の袁安は書生の言うとおりに墓を建たので
家運隆盛となった。
第 31、32 の
[31,32]
黄覇政殊
梁習治最
P196
こうはせいしゅ りょうしゅうちさい
黄覇は前漢の人で、政殊とは、政治に優れていたことをいう。仁政で鳳凰、瑞祥があら
われたという。
黄覇の官吏の仕事として、穀物や財物の奉納の記録が正確であり、その勤労で、宣帝の
時には揚州の刺史に抜擢された。徳政強化、誅罰は後回しで、外に寛大で、内に明るいで、
その治績は天下一で、丞相にまでなった。そして、黄覇が治めた国には鳳凰、神爵、瑞鳥
があらわれるという。
梁習については魏志にでていて、政治で天下一といわれた最高の政治家、治最の人。
仁政として、民のための政治で、村の隅々まで家をたてること、農業、養蚕業を活性化す
ることで、衣食住を満たし、人材豊富で、朝廷に優秀な後輩、人材をおくりこんでいる。
また、これは、蒙求にはでていないが、一人の子供のほんとうの親を探している時に、
二人の親があらわれた。このとき梁習が、どちらの親が真の親かを鑑別するのに、子供の
腕を両方の親に引っ張るように指図した。子供は痛くてやめてというと、真の親が腕を離
してしまい、偽の親に、その子供は連れて行かれた。この時、梁習は、真の親はそちらで
- 16 -
はなく、こちらだと腕を手放した方が真の親であるといった。なぜなら、真の親は子供が
痛がっていると手放すものだ、そしらぬ顔でいられるのは親ではない。惻々(いたましい)
の情あってこそ、真の親であるといった。
この逸話は、大岡越前守忠相のテレビ番組で引用されていた。
似たような話が、旧約聖書のソロモン王の裁きに「列王記上」3 章の 16~28 節にでてい
る。ダビデの子供のソロモンが王の時、「ソロモンの智慧」としてでている。
Solomon Prays for Wisdom の Judges a Difficult Case としてでているが、二人の遊女は同
じ部屋に住んでいて、この遊女らにはそれぞれ一人ずつの嬰児がいた。一人の遊女が寝て
いる間にその一人の嬰児を圧死させてしまった。
のこりの一人の嬰児の本当の親を決めるのに、ソロモン王に相談にきた。ソロモンは、
剣で嬰児を半分に裂くように、裂いて二分の一づつにわけなさいといわれた。さすが、嬰
児を裂き殺すわけにはいかないので、あなたに子供を差し上げます。いや裂いて分けて下
さい。ソロモンは、切り裂かないでといった女が母親だと断定した。
第 33、34 の
[33,34]
墨子悲糸
ぼくしひし
楊朱泣岐
P201
ようしゅきゅうき
淮南子(えなんじ)に出ている。墨子は、すぐに泣く。染まっていない白の練り糸をみて、
どうなるか心配で泣く。
楊朱もすぐに泣く。分かれ道でどちらを選ぶかで泣く。ものを憐れむ人の代表として語
られている。
和漢朗詠集や蕪村がよく引用するところだ。
第 35、36 の
[35,36]
朱博烏集
粛芝雉隨
P202
しゅはくうしゅう しょうしちずい
徳が鳥にまでおよぶはなし。
朝夕、カシワの木にカラスがあつまっていたが、ある日突然、返ってこなくなってしま
った。井戸の水も涸れてしまった。前漢の朱博は不吉な予感がして、高祖皇帝が死んだの
ではないかと思った。そして、衣冠の制度が悪いとして、
粛芝は、孝行者。雛鳥が集まって彼の家の前で、水をのんでいた。彼が帰宅する時も見
送ってきてくれた。これはみな、本人の孝行によると考えた。
第 37、38 の
[37,38]
杜后生歯
霊王出髭
- 17 -
P205
とこうせいし
れいおうしゅつし
成帝の皇后は1歳になっても歯がなく、成人しても歯は生えてこない。結婚がきまった
ところで一夜にして歯が生えそろったという。不妊症で、てきた。現代医学でもこのよう
な奇形は報告されていない。ここまでが晋書。
霊王の話は左氏伝。生まれながらにして口ひげのある王が出来た。その徳は高く、次ぎ
の景王も神々しいほどの王であった。
第 309、310 の
[309,310]
屈原澤畔
くつげんたくはん
漁夫江濱
P642
ぎょふこうひん
菅原道真の雪冤左遷に似ている事件で、投身自殺した屈原のはなし。このとき屈原がよ
んだ辞世の句が楚辞の懐沙之賦で、次ぎに出てくる賈誼がこの詩をしっていた。
よって下巻の話であるが、ここに載せておく。
中国の戦国時代は、紀元前4世紀で、きたから燕、趙、魏、秦。東から、斉、魯、宋、
楚、巴、蜀である。
張儀、蘇秦と屈原(紀元前 343-278)は、楚の人で、懐王の左徒であったが、そうの人と
の応対が巧いので懐王の信任が篤かった。張儀の計略で、秦の昭王が懐王を会見にむかえ
たいとだまし討ちに使用とした。その後、屈原は秦の人間は残虐貪欲で、飽く事のない国
で、危険をともなった会見のようで、策略であり、止めた方が良いと進言したが、懐王は、
末子の子蘭の発言を信じ、秦に向かった。
秦の昭王と張儀の策略で、懐王は投獄され、死亡した。そこで、楚は、懐王の長男の頃
蘭王が位につき、子蘭が宰相となった。子蘭は、王に讒言で、屈原を江南の地に左遷させ
た。
屈原は、揚子江の畔を徘徊していた。漁師にあう。漁師は、あなた様は、三閭大夫では
ありませんか。どうされたのですか。
左遷にあった。清廉潔白であったのに、周りの溷濁した人々の讒言にあった。
いいではないですか。聖人といわれた人にもかかわらず、物にかかわらず、世間と時代
の動きとともに自分の心も推し移留物です。世が濁っているならば、濁流のままに随い、
よの浮き沈みに未をまかさないのですか。皆がよっぱらっているならどうして、あなたは、
酒粕をくらってでも、薄酒をすすって、よった振りをしないのですか。
イヤ、わたしは知っている。髪を洗う人は、折角綺麗にした髪を汚さないために、冠の
ゴミだけを落とす。折角清めた躰に着衣するときに、着物を振ってから汚れを振るい落と
してから着るではないか。どうして、世の垢汚れを付けられようか。そんなことをするぐ
らいならこの川に身を投げて魚の餌になったほうがマシだ。といって、懐沙之書をかいて、
- 18 -
石を抱いて泪羅に身を投じた。
屈原については景仰する人は多く、つぎの賈誼、日本では、吉田松陰がそれで、安政の
大獄で詠んだ歌の「すなどりのささやくきけば思ふなり沢辺に迷ふ人の心を」、の「すな
どり」は漁をすることをいい、屈原と漁父のことをさしている。
第 39、40 の
[39,40]
賈誼忌鵩
荘周畏犠
かぎきふく
そうしゅういぎ
P207
賈誼(かぎ)は前漢の人。若くして太守呉公の食客となった能文家。不吉とされていた木
菟(みみずく・ 鵩)が家の中に飛び込んできた。賈誼が三十二歳のとき、梁王と鬼神につ
いて議論となり、賈誼の能力の方が王より相当優れたものであることがわかり、賈誼を太
伝に任命したが、一年後に、賈誼は死んだ。
賈誼は、百年前の屈原の楚辞の懐沙之賦をしっていたので、左遷で湘水にさしかかった
とき、屈原の霊を慰める書を投じた。
荘周というのは荘子のことで、荘子は常々、見夫犠牛乎、かの犠牲、生け贄になった牛
にはなりたくないといっていた。
ある人が、荘子を招聘し、仕えさせようとした。荘子は見夫犠牛乎、生け贄の牛をみた
ことがあるか。うしは、飼われると、美しい刺繍のある錦を着せられ、まぐさや豆など旨
い物をたらふく食わせてもらえるが、最後には生け贄として太廟に犠牲、生け贄として連
れて行かれる。もう子牛のように、母から離れ野原を駆けめぐる自由はなくなる。
どうして、このようなことがわかっているのに、仕官にならなければならないのか。束
縛されるのは、お断りするといって、仕官を辞退したという。
荘子は犠をおそれる。
第 41、42 の
[41,42]
燕昭築台
鄭荘置駅
えんしょうちくだい
ていそうちえき
P212
燕の国は、斉から何度も襲撃される小国で、昭王は賢人を求めていた。郭隗という人物
に相談したところ、先ず自分を雇って下さい。私よりも賢い人が、遠く千里も離れたとこ
ろからわざわざ来ないでしょう、というので、先ず郭隗をまねき、邸宅、台を築き、そこ
に住まわせた。そうすると、魏から楽毅が、斉から鄒衍が、趙から劇辛がやってきた。
彼らとともに作戦をたて、秦・楚・三晋(韓、魏、趙)とが連合し、斉を打ち破ったので
ある。
後漢の孔文挙は、魏の曹操への手紙に、昭王は台を築いて、郭隗を尊んだと記している。
- 19 -
前漢の人、鄭は字を荘という。孝文帝の時、鄭荘はヤクザな男であったが、義理堅く、
先ず、五のつく日には、常に、長安の街の四方に駅をおき、伝馬を置いた。そして、ひと
を招いて、よく、もてなしをして、つきあいのよい任侠の人間で、賓客への礼を失せず、
次ぎの言葉をのこした。一死一生、迺知交情、一貧一富、迺知交熊、一貴一賎、交情乃見。
第 43、44 の
[43,44]
瓘靖二妙
岳湛連璧
P218
かんせいにみょう がくたんれんぺき
技、容姿で並び称された二人のはなし。技は書に巧みで衛瓘と索靖のことで、容姿優れ
た美男子の潘岳と夏侯湛詵は秀才で、岳湛連壁という。ならび称することを連壁という。
晋の人で、字、草書のうまい二人、衛瓘と索靖を二妙といった。また、敦厚の五龍とい
って、氾衷、張彪、索紒、索永、索靖をいう。
岳湛というのは、潘岳と夏侯湛のふたりのことで、二人とも秀才で誉れ高く、とくに潘
岳は美男子で、歩いていると女性が手をつなぎあって、かれを囲むようにして、はやした
てたという。
連玉で壁ではない、二つ並んだ真珠のようなもののこと。壁ではなく下が玉の璧である。
第 45、46 の
[45,46]
郤詵一枝
戴憑重席
P221
げきしんいっし たいひょうちょうせき
郤詵(げきしん)は、晋国の超天才であったが、謙遜して私などは桂林の一枝、崑命の山
でただ一欠片の玉にすぎないといった。さらに決断力もあり、知事に抜擢された。
戴憑は、後漢の人で、天才肌で、元旦の参賀の経典についての説明検討会で、百官全員
のなかで、五十位にはいることが屡々で、重席していた、すなわち、落語の座布団重ねの
状態であった。
第 47、48 の
[47,48]
雛陽長裾
王符縫掖
すうようちょうきょ
わんふほうえき
P224
雛陽は前漢の人。この人は、智略あり、志気激しいが、慷慨(こうがい;国を憂い嘆く)
せず。
しかし、呉王が政務を怠って、病気を理由に登庁しなかった。この時、さすがの雛陽も
- 20 -
意見し、私は智を尽くし、議論を尽くし、思慮をめぐらし、固陋の心を飾らば、長裾を曳
くべからざらんや。頑固な心をもって、長袖をひくように、諂い、へつらい、おべんちゃ
らをすれば、どこの国でも採用される人間だが、わざわざ呉の国にきたのは、王の義の心
をみたからである。是非、再登庁して下さい、と述べたが、叶わなかった。そこで、呉王
濞につかえるのを辞めて梁に行って孝王に仕えた。
王符は後漢の人。学問好きで、一端、官にのぼるが、付和雷同がなく、ついに、隠遁生
活に入り、潜夫論をあらわした。
一人の大夫に民間人が相談にきたが、大夫は食べ物の話をするだけで、政治の話はしな
かった。そこに王符がたずねてきた。これには大夫はおどろき、履き物もろくに履かずに
あわてて、王符をむかえいれた。
これをみていた、民間人は、困ったことを官の大夫に相談するより、縫掖(袖のしたか
ら両掖を縫いあわせた服で儒者の服)を着た儒者の王符に相談した方がマシだといった。
第 49、50 の
[49,50]
鳴鶴日下
士龍雲間
P227
めいかくじつか しりゅううんかん
鳴鶴というのは、筍隠のことで、自分を太陽のもとを飛ぶ鶴、鳴鶴と名乗った。士龍と
いうのは陸雲のことで、22 の士衡患多の士衡は、陸機のことで、その弟が陸雲で、字を
士龍という。
陸雲士龍が、若い頃、旅にでて道に迷い、夜になって灯りのついた一軒家をみつけ、そ
の家で、一晩、世話になった。その夜は、若い美しい少年が『老子』を流麗に語り聞かせ
てくれた。次ぎの日、隣町に着いて、この話をしたところ、近隣にそのような家はなく老
子の神童といわれた、24 歳で夭折した王弼(おうひつ)の墓があるだけだという。陸雲士
龍の見た少年は、その王弼の亡霊であったのだ。
二人の能文家の隠と士龍が、張華の家で同席した。このとき、士龍は、誇らしげに、私
は名前のとおり、雲の間をゆく龍、陸士龍である。一方、筍隠鳴鶴は、私は太陽の下の殊
鳴龍である、と負けてはいない。
「雲の間の龍はすでに蒼雲をおしひらいて白い雉きじをみた。どうして、この龍にのって
そのきじを弓矢で射落とさないのか。
「龍など弱い生き物にのては雉などはおとせぬ。」
瑞方鄙鷺の」
士龍は唐代の顔回という。
- 21 -
第 51、52 の
[51,52]
晋宜狼顧
漢祖龍顔
しんせんろうこ
かんそりゅうがん
P230
晋の宣帝は、狼のように、躰は前向きのままで、首がくるりと 180 度回り、うしろをみ
れる。これを曹操が発見した。
漢粗の高祖の母親は、雷、稲妻がなるところで、神に出会う夢をみていたが、父親がみ
たのは、女房の上に龍がまたがっているとこであった。その後、妊娠し、月満ちて、遂に
高祖を生んだ。このため、高祖の顔は、鼻が高く眼光するどい龍の顔をしていおり、股に
七十二のほくろがあった、といわれている。性格は寛仁、心は大。そして、戦さは、七十
二回であったという。これがほくろの瑞祥であったのだ。
第 53、54 の
[53,54]
鮑靚記井
羊祜識環
ほうせいきせい
ようこしきかん
P233
前世をしっていた話。
晋の鮑靚は、前世で九歳で井戸に落ちて死んだ。生まれ変わった鮑靚が、五歳の時、父
母にむかって、私はもと曲陽村の李家でうまれ、九歳のとき井戸に落ちて死んで、この家
に生まれ変わってきましたといった。
父親は李家にいって、確かめると、そのとおりであった。
羊祜 は、五歳のとき、乳母におもちゃの金の環を持ってきて下さいといった。乳母は
そのような金の環はみたことがありませんよと返事したところ、羊祜 が隣の李家の庭の
桑木の傍にある金環を探し出してもってきた(識環)。ビックリしたのは隣の李氏で、この
金環はなくなった自分の子供に買い与えた代物で、なぜ羊 祜 が、それをしっていたのか
不思議だといった。李氏は、羊祜の前身が自分の子供にちがいないと思ったという。
羊祜 は、のちに、晋の平南将軍となり、高徳の将軍で、敵の呉軍からも尊敬されてい
た理想主義の代表的人物。
第 55、56 の
[55,56]
仲容青雲
叔夜玉山
ちゅうようせいうん
しゅくやぎょくざん
竹林七賢のはなし。
竹林七賢は、阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の七人をいう。
- 22 -
P236
それぞれの字と蒙求の出典番号は、王戎・濬沖(王戎簡要 1)、阮咸・仲容(仲容青雲 55)、
嵆康・叔夜(淑夜玉山 56)、山濤・巨源(山濤識量 81)、向秀・子期(向秀聞笛 117)、劉伶
・伯倫(劉伶解酲 374)、阮籍・嗣宗(阮籍青眼 570)の七人をいう。
字で表記されているのは、この項の阮咸の仲容と嵆康の叔夜のみである。
竹林七賢については、すべて、その性格、素養が記されているのみで、たとえば、王戎
については簡要で、嵆康は淑夜玉山として、その肝大、玉山のごとしなどで、世を捨てた
寡黙で、隠遁、仙人のような人たちを高く評価していて、泰然自若としていることを褒め
称えている。しかし、わたしはこれは評価しない。
禅宗を通り抜けて、この竹林七賢のような人を日本、中国では過去 2500 年間、絶えず
高い評価をしてきたが、それでは、彼らが何かをしたのか。たとえば、漢字を発見したと
か、車を製造したとか。行動、行為のない隠遁者を評価するわけにはいかない。
医者でいえば、患者を治すことはできないが、医療の理屈はよく知っている固陋の人を
さし、医師は陽明学者タイプでなければいけない。
阮咸・仲容だけは例外で、彼は音楽をよくした。それ以外の六人はなにも行動していな
いのである。
未だに、日本人は、あいまいな、ハッキリとしない、際だった行動、行為がない、行動
がともなわないが、口先だけが達者な人間を高く評価する傾向にある。たとえば、坂本龍
馬に代表される、ほら吹きの多い、嘘をへっちゃらでいえる土佐県人がその代表である。
坂本龍馬と同様に、竹林の七賢人は、わたしは評価にあたいしない、ただの寡黙な爺と
しか思えないのである。
さて、仲容は、阮咸のことで、晋書にでていて、任達にして、性情に拘わらない性格で、
竹林の中で遊び、世人は奇人として仲容を誹っていた。皆が虫干しをしているにもかかわ
らず、仲容は自分の褌を晒すのみであった。
しかし、音律論に長け、琵琶の名手であった。仲容は青雲の器、高遠なる性格であった。
叔夜こと嵆康は、才人で、その才能は群をぬいていて、言葉使いは品が良く、綺麗であ
ったが、身だしなみには気を止めず、性格も物静かで、こせこせしていない。仲間は、阮
籍と山濤だけで、その姿は気高く亭々として高く聳える一本松のごとくで、大きな体が傾
くさまは、玉山のまさに崩れんが如しといわれた。
第 61、62 の
[61,62]
蕭何定律
叔孫制礼
しょうがていりつ しゅくそんせいれい
- 23 -
P247
蕭何は高祖の弟子。高祖、劉邦は函谷関を制し法令をつからせた。それは、第一条は殺
人罪、第二条は傷害罪、第三は窃盗罪の僅か三っつであった。此を法三章というが、その
ほかに、蕭何は、第9までつくらせた。かれは、高祖が沛公となったときには、要塞箇所、
戸数人口など事務的な仕事をおこない、沛公が高祖となって天下をとり天子となるときの
助けになった。
法三章では軽犯罪が取り締まれない。よって、酒によっての犯罪が多くなったので、こ
れには昔の古礼と秦の儀式を採用して、儀式就いては、叔孫は、一ヶ月練習させ(制礼)、
高祖在位七年を祝して、祝典がとりおこなわれた。酒盃がおわり、素晴らしい式典となっ
たので、高祖は、大変悦ばれ、叔孫は金五百斤を褒美に賜ったという。
第 69、70 の
[69,70]
樊噲排闥
辛毘引裾
はんかいはいたつ
しんびいんきょ
P258
主君を諫(いさ)めた有名人物、忠諫(ちゅうかん)の言と趙高(ちょうこう)について。
樊噲 は、元、犬の肉を売買する業者であったが、前漢の高祖(任侠の劉邦;義兄)の弟
子になった。函谷関の近くの関中をさきに占領したものが天下をとることになっていた。
劉邦がさきで、項羽があと。この楚王の判定に激怒した項羽が会見を申し込んだ。所謂
鴻門の会で、このときに、高祖を討つために項荘が剣舞とみせかけて、高祖を刺し殺そう
としていた。
このことに気付いた樊噲 は、会見の席にあらわれて、大酒を浴び、項羽も一緒になっ
て、酒で眠ってしまった。この隙に、高祖を便所にいかせるようにしむけて逃げさせた。
そして、項羽をおいつめて、殺して天下を取った高祖が、漢の王として政務にあたって
いたが、暫くして、病気を理由に、宦官と二人っきりになって政務を怠っていた。樊 噲
が無理に高祖の部屋に押し入り(排闥)、樊 噲 が、高祖に諫めて言った。初志をわすれら
れたのか。
実は劉邦と樊 噲は義理の兄弟である。とういのは、劉邦が呂文という人相占いのとこ
ろに招かれ、その長女、呂雉を一日にして嫁にし、その帰りに樊 噲にあって、今度は樊
噲が、その次女呂須を嫁にもらうことになったのである。
項羽を討って天下を取る。あのときの苦労、初志をわすれられたのか。
また、秦の滅亡の原因になった宦官趙高の前例(秦の宦官の趙高が、始皇帝の後継者を
たてるときに、詔をいつわって、長子を殉死させ、自分の味方の末子の胡亥を立て自分は
丞相となり、横暴をきわめ、二世には鹿を献じて馬といわせ、鹿という者を罰した)をわ
- 24 -
すれたのかと。
この諫言で、劉邦は目が醒めたといわれる。
趙高については、蒙求にはでてこないので、ここで、阿呆と馬鹿の語源を述べておく。
馬鹿については上記のごとくであるが、阿呆についても趙高が出演してくるので、彼の名
は不滅である。
始皇帝が生前に使用していた宏大な阿房宮を、趙高がさらに人民の過労労役で、大規模
な増築をおこなったために、阿呆な政策とされた。今は西安にあり、テーマパーク会場に
なっている。
そして、秦の王の二世胡亥の跡目の趙高が推挙した子嬰により奸臣趙高は殺害された。
その後、咸陽と函谷関の間の嶢関で秦の韓栄、耿沛を大将とする軍を、劉邦、酈食其の
奇策で、樊噲が破ったのである。これで秦は滅び、子嬰の在位は僅か 46 日であった。
はなしはもどって、始皇帝の字は政で、秦の王として、皇帝という名称を、かんがえだ
したのはこの政が中国史上はじめてである。不老長寿の仙薬を徐福に探すように命じたの
は有名であるが、彼の死因は皮肉にも仙薬にふくまれていた水銀であった。
始皇帝が巡行にでていたのを、李斯の意見で、急遽咸陽にかえることになった。様態が
悪化してきたため、扶蘇を二代皇帝にすることを遺言状としてのこし、夏に河北に巡行を
決行し、沙丘にさしかかったところで、薬湯を趙高が御車の中に運んだときはすでに始皇
帝は息絶えていた。趙高は慌てず、自分で薬湯をのみほし、なにもなかったように、 輼
軨 車を咸陽まで運んだ。そして、死臭をかくすために、魚鮑の腐った臭いで攪乱させた
という。
樊噲 についてのこの話は、江戸時代にも多用されている。徳川家光が病いでたおれて
政務をやすんでいるときに、老中井伊直孝は将軍を諫めることをしなかったことで、林羅
山が井伊殿に、樊噲をご存じか、勇気にも色々あり、戦場の勇のみが勇ではない、樊 噲
が面を冒して高祖を諫めた勇気を、足下、そなたはお持ちかと批判した。直孝は恥じたと
いう。このことが、儒者で有名な岡山藩の湯浅常山の『常山紀談』の 18 の「道春が直孝
への直言」にでている。
謡曲にも、「樊噲」がある。
辛毘は、魏志に載っている。文帝の最高侍従をしていた。文帝は、漢の後に魏国をつく
ったが、河南には人口がすくないので、日州から移住させようとしたが、イナゴの大群発
生で、飢饉におちいっていたので、人民たちは貧窮していた。どうしても、文帝は人民移
住策を実行しようとしていた。
このとき、辛毘らの忠臣たちが、帝へ諫言し、中止させようとしたが、帝は聞き入れな
い。つよく袖を引っ張って諫言し、ついに、この策は中止になった。
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第 71、72 の
[71,72]
孫楚漱石
郝隆晒書
P264
そんそそうせき かくりゅうさいしょ
夏目金之助は、ここから漱石の名をとった。漱ぐ石というのは、間違った言い回しで、
孫楚の苦し紛れのへそ曲がりの弁解のことである。
世説拝調篇にいう、書物の虫干しの日に腹を干している核隆という自慢たらたらのおと
こがいた。おれの腹の中には書が一杯詰まっている。
晋書、孫楚字子荆、太原中都人。
晋書にいふ。孫楚は字を子荆 といい、
太原中都の人なり。
才藻卓絶、爽邁不群、多所陵傲、
才藻文才卓絶、爽邁不群にして、
多所陵傲する所多し、おごるところが
おおかった。
缺郷曲之誉。
缺郷曲之誉を欠く。郷里では評判が
わるかった。
年四十餘始参鎮東軍事、終馮翊太守。
初楚少時欲隠居、
謂王済曰、当欲枕石漱流、
まさに、石を枕し流れにくちそそがんと欲す
誤云漱石枕流。
というところをあやまって、ながれを枕にし
て、石でそそぐといってしまった。
済曰、流非可枕、石非可漱。
済の王がいった。流れはまくらにすべきにあ
らず。石はそそぐべきにあらずと。
楚曰、所以枕流、欲洗其耳。
しかし、楚はいいわけして、いう。いや、
ながれを枕にして、それの耳をあらわんと欲
す。
所以漱石、欲磨其歯。
石にそそぐ所以は、その歯を磨かんと欲す。
完全に逆になっていて、その間違いを指摘されても、つむじ曲がりの性格で、訂正不可
の性格の代表が孫楚である。石を枕に、流れで漱が正しいところを、石を漱ぐと説明して
しまい、これを変更しない。
夏目金之助は、ここが気にいるぐらいに、自分もへそ曲がりな性格で、流石ではなく、
漱石を作家名に選んだのである。
大意のない所をえらんだものだ。孫楚は夏目様々であろう。
世説、郝隆七月七日、出日中仰臥。
人問其故。
曰、我曬腹中書也。
曬=晒
- 26 -
郝隆は、詭弁をもてあそぶ人物で、晋の人。七夕の日は、衣服、書の虫干しをする日で。
この日に、郝隆は、腹をだして、虫干ししていた。なんなの。いや、俺の腹の中は書物だ
らけだから。
第 81、82
[81,82]
山濤識量
毛玠公方
さんとうしきりょう
もうかいこうほう
P279
山濤は竹林七賢の一人で字は巨源。知識豊富な人(識量)で、この人の器量は大きく深い
事は、恰も山に登って下を望むがごとくであり、深遠である。掘り出した荒玉、吹き分け
ぬ金のようだ。
魏志にいう毛玠は、曹操が後漢の丞相になったときの属官で、選挙管理委員をおこなっ
ており、公平方正を旨としていたため、公方の人といわれていた。
第 91、92
[91,92]
詰汾興魏
きつぶんこうぎ
瞥令王蜀
P296
べつれいおうしょく
来年の今月今夜のこの月を、の科白で有名な「金色夜叉」は、この詰汾からきている。
詰汾(きつぶん)というのは北魏の聖武帝のことで、後継者がいなかった。ある日、狩り
に出て、そこで天女が舞い降りてくるのを見た。天女は帝と夫婦の契りを結び、一晩添い
寝をして、翌日、期年周時復会于此、来年の今月今夜又逢いましょうと言って昇天した。
果たしてその時、男子の子供を抱いて舞い降りてきて、この子はあなたの子です。後、
代々の帝王となるでしょう、といって飛び立った。
詰汾は、この子供を後継者に定め、北魏を制圧し、子の力微は、二代目の神元帝となっ
た。
詰汾の聖武帝には皇后の里方はなく、力微すなわち神元帝には母方の里がない、と人々
はいった。
瞥令(べつれい)は、蜀の王となり、元王の望帝は、不如帰、ほととぎすとして飛び去っ
たというはなし。
ほととぎすは、漢字でかくと、不如帰、時鳥、子規、杜鵑、杜宇、杜魂、蜀鳥とかくが、
最後の蜀鳥というのは、この瞥令のことからきている。
荊すなわち楚の人であった瞥令は、死んで揚子江にながされた。死体は遡上して、汶山
をすぎて、ついに成都に流れ着き、ここで救いだされて、蘇生した。その後、蜀の王の望
帝が瞥令に王位を譲り、望帝は、ホトトギスとなった。そして、日夜、不如帰去、かえる
にしかず、と泣き、もとの王に戻りたいと泣く、その鳥の鳴き声は、ホトトギスになった
- 27 -
望帝の魂として、人々は帝を偲んだという。
ホトトギスを不如帰去とかくのは、この逸話からきている。すなわち、望帝の蜀の国に
戻りたいが戻れない、不如帰、帰るにしかずという声が、ホトトギスの声に似ていたので、
蜀鳥をホトトギスとよみ、不如帰をホトトギスとよむのである。
第 93、94
[93,94]
不疑誣金
ふぎふきん
卞和泣玉
P299
べんわきゅうぎょく
前漢の直不疑という人は正直者であった。直は文帝の郎官として仕えていた。この宿舎
でのこと。直は休暇で自宅に帰るときに、まちがって同室の者の金を持って帰ってしまっ
た。同室のものが金が紛失していることに気付き、犯人は直だと疑った。
直はそうだ、わたしが犯人だといって、ものを売り現金に替えて全額を返した。ところ
が、実際は同室の者の勘違いで、自分の金は自分の箪笥の中にしまいこんでいたのである。
同室の者は自分の軽率を詫びたが、直不疑は何もなかったように怒らなかった。
このような素直で正直者の不疑は、中大夫に出世した。しかし、ここでも、また事件は
おきた。不疑は美男子であったため、妬まれて、兄嫁と姦通していると非難されたが、私
には兄はいないというのみ。その他の弁明はしない。これで、ついに、景帝はかれを副丞
相とした。
一寸、はなしはちがうが、三木武吉自由党議員は、予算審議会で、共産党から、妾がい
ることを非難され、4 人もいるではないか。答弁、それは間違いでござる。・・・5 人であ
る。よく調べてこいと返答した。共産党印はグの音もでなかったという。
韓非子がいう。楚の人に宝石の鑑定に長けていた和氏という人がいて、このはなしをよ
くくりかえして詳解していたという。
和氏は玉璞という宝石を、厲王に献呈したが、これは偽物だといわれ、左片足切断の刑、
刖(あしきり)にあった。
武王にもこのギョクハクを献呈したが、こんどはただの石ころといわれ、もう片方の右
足も切断の刑、刖にあった。それで、悲しく、血が出るまで泣いた。なぜそれまで泣くの
かと帝は聞かれ、足を切られたから泣いているのではない。私は正直者です。このわたし
を詐欺師よばわりされたのがくやしく泣いているのだといった。
それで、その玉璞を玉造りに磨かせたところ、宝玉であることがわかった。この玉を「和
氏の璧」といい、秦王は十五の城に匹敵するとして「連城の璧」といわれた。44 にでて
いたが、並び称することを璧といい、数珠のような状態をいうのか。カベではなく璧とい
- 28 -
う漢字である。
どのような石なのかはわかっていないが、おそらくダイヤモンドにちかい宝石とかんが
えられる。この話は、今昔物語や謡曲の「卞和」べんわとしてとりあげられているが、べ
んと言う字は、法律、きまりのことをいい、そのほか冠、せっかちの意味をいう。
第 151、152 の
[151,152]
西施捧心
孫壽折腰
さいしほうしん
そんじゅせつよう
P396
荘子に出ている話。美人の代表の西施は、越国の女で、呉と越が戦っている春秋時代、
すなわち紀元前 500 年頃の史記の世界の話。
春秋時代は紀元前 481 年におわり、孔子が紀元前 479 年に死に、紀元前 473 年に越が最
終的に覇者となるが、その後、紀元前 403 年頃より戦国時代にはいる。
紀元前 496 年、呉の王の闔閭(こうりょ)は、越の勾践(こうせん)の反撃にあって、その
越の武将霊姑孚の矢が足にあたり化膿、破傷風で闔閭は死んだ。これによって、呉は越に
滅ぼされたが、闔閭の次男の夫差(ふさ)は、臥薪嘗胆(厳密には臥薪のみ)で勾践への逆襲
の時期を待った。
呉の夫差が有利になってくると、越の勾践は、美人の西施を夫差にプレゼントし骨抜き
作戦を参謀の范蠡(はんれい)とともにおもいついた。案の定、夫差は西施を溺愛し、その
女色に惑わされ国政を鈍らせ、その油断のスキに、越の勾践は呉を滅ぼしたのである。夫
差は姑蘇山で自決した。
荘子曰、西施病心而矉其里。其里之醜人、見而美之。帰亦捧心而矉其里。
彼知美矉而不知矉之以美。西施越女、所謂西子也。有絶世之美。
越王勾践献之呉王夫差。夫差嬖之、卒至傾国。
矉とは、しかめっ面のことで、狭心症のため、胸を抑えて眉をひそめる行為が痛々しく
西施の美人を際だたせていた。それにしても、スパイの女をおくりこむ勾践もすごいが、
これに嵌ってしまった夫差も情けない。
孫壽の腰折れというのはモンローウォークのことか。詳細は不明。
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第 175、176 の
[175,176]
呂安題鳳
子猷尋戴
りょあんだいほう
しゆうじんたい
友人の話で、第 25、26 の 嵆呂命駕
P431
程孔傾蓋と同じであるが、より具体的。
題目の四句にはでていないが、説明文ででてくる嵆康(けいこう)と呂安の友好について
のコメントで、
呂安と嵆康は千里隔たっていても、乗り物を命じて会いに行くほどの仲だった。呂安は
嵆康が外出したあとに家についた。そこで、嵆康の兄の喜が呂安を家の中に招いたが、入
ろうとせず、門の上に、鳳と書いて去った。
この意味は、鳳の字は凡に鳥とかく。すなわち、兄の喜は、弟の嵆康に比して、凡人と
いいたかったのである。
子猷とは、晋の王徽之のことで、あの王羲之の子である。竹林を好み、髯は伸び放題、
体裁には全く気をとめない性分であったが、友の戴を訪ねたいと思い立つと、会稽の家を
でて、一晩かかって、剡県まで行く。しかし、家が閉まっているとあわずにかえってくる
という有様だった。
戴というのは 199 の戴逵(たいき)のことで、琴の名人である。
第 193、194 の
[193,194]孫康映雪
そんこうえいせつ
車胤聚螢
P460
しゃいんしゅうけい
苦学の話。蛍の光、窓の雪。螢雪の功。蛍雪勤学。
漢詩での説明文
孫氏世録曰、康家貧無油、常映雪読書。
孫氏世録にいう。康は家貧で油をかう
金がない。つねに雪にてらして書を読む。
少小清介、交遊不雑。後至御史大夫。
孫康は、幼少から心清く、心同じ者とのみ
交遊、後に御史大夫、副丞相にまでなった。
孫氏世録にいう。康家貧無油で金がなく、常映雪読書。
晋車胤字武子、南平人。
晋の車胤の字は武子で、南平の人。
恭勤不倦、博覧多通。
恭勤にしてうまず。博覧多通。
家貧不常得油。
夏月則練嚢盛数十螢火、以照書、以夜継日焉。螢を集め袋にいれて、そのあかりで書を
読む。太陽がのぼるまで読書した。
- 30 -
桓温在荊州、辟為従事、以辯識義理、深重之。
稍遷征伐西長史、遂顕於朝廷。時武子與呉隠之、
以寒博学知名于世、又善於賞会。
当時毎有盛坐、而武子不在、皆云、無車公不楽。
終吏部尚書。
晋の車胤の字を武子という。夏月則練嚢盛数十螢火、螢を十数匹袋に入れて、これを光
源として、書をてらし、朝まで勉強した。
勤勉の項には、9、10 の匡衡鑿壁、孫敬閉戸、193、194 の蛍雪、257、258
367、394
457、458
531
549、550
275、276
がある。
第 199、200 の
[199,200]
戴逵破琴
謝敷應星
たいきはきん
しゃふおうせい
P470
これも清廉潔白、孤高の人のはなし。
戴逵(たいき)は琴の名人であった。しかし、少年のころより、博学で、能書家でもあり、
武陵の王晞に楽人として仕えるようにいわれ、これを毅然と拒否した。王晞は怒り、その
兄を楽人として迎えた。兄は渋々承諾したのであるが、弟の戴逵は、その後も何度か、王
晞から誘いがあったが断り続けたという。
謝敷は、会稽の人で、澄靖寡欲で、太平山で隠遁生活をしていた。或夜、三日月をちい
さな星が犯す、すなわち月に星が接近もしくは裏に隠れるのを観た。この星は処士星(ど
の星座どの星をさしているのか不明)といって、有徳の処士の霊が宿っているとされ、謝
敷は、呉の美才の人といわれる戴逵に何か不吉なことがおこったのではないかと考えた。
案の定、戴逵が死んだというが、実際は、戴逵は死んでおらず、謝敷の方が死んだ。
会稽の人は、呉のひとのことを嘲り、呉中の高士、死を求むれど死するを得ず、といっ
たが、呉よりも会稽の謝敷が死んだ。
この話は、中勘助やその師匠の漱石や蕪村が着目している。中勘助は 175、176 の交友
について、現代詩を創作している。おそらく、中は、漱石、安倍、小宮らとともに蒙求の
輪読勉強会でもしたのだろう。
- 31 -
第 213、214 の
[213,214]
王濬懸刀
おうしゅんけんとう
丁固生松
P489
ていこせいしょう
『和漢朗詠集』の源順の漢詩に、この故事を転用している。
晋書にでている。占いのはなし。
王叡の刀の話は、夢に刀が三つでてきて刕という漢字になるが、これが州の字に似てい
ることからの話で、内容が確認できないので省略する。
呉志、丁固仕孫皓為司徒。
呉書曰、初固為尚書、夢松樹生其腹上。
謂人曰、松字十八公也。後十八歳、吾其為公乎。
卒如夢焉。
丁固というひとが、自分の腹から松が生えて来る夢を見た。その夢の意味は、松の字を
分解すると、十と八と公にわけられるので、十八年後に丁固が公となることを意味してい
ると解き明かされた。この夢は本当に十八年後に丁固は呉の公になった、すなわち孫皓の
司徒となったのである。
第 227、228 の
[227,228]
買妻恥醮
澤室犯斉
ばいさいちしょう
たくしつはんさい
P511
妻の自殺のはなし。
買妻というのは、買大臣のことで、前漢の人。勤勉で、本をよく読み、歩きながらも耽
読を妻は責め、離婚してしまった。その後、大丈夫まで上り詰め、ついに、代官になり、
故郷に錦を飾る。この時、貧困で、悩む元妻をみた。再婚をせまられるが、断ったところ
つまは自殺してしまった。その後も、買は故里の人々へ、恩返しの食事会を開いた。
澤は、周澤のことで、後漢の人で、若い頃は軽々の性格で、全く、威儀がなかったが、
太常になってから、身を清潔にし、敬謹を尽くして宗廟をまもるようになっていた。そこ
で、病気になってしまったので、斉宮でやすんでいたところ、妻が心配して、看病にきた。
周は激怒して、女が斉宮に入るとは、犯罪であるといって、詔獄に送った。
斎は、サイ、ものいみ、とよみ神仏をまもり、けがれをとりのぞき、心身をきよめるこ
とをいい、周はものいみでかなり厳格であり、三百六十五日中、わずか一日のみ斉宮を離
れたといわれ、おそらく、妻からのがれたかったのではないだろうか、と噂された。
- 32 -
第 243、244 の
[243、244]
郝廉留銭
雷義送金
かくれんりゅうせん
らいぎそうきん
P535
清廉潔白の人のはなし。
郝子廉は、家貧であったが、ある日、姉の家で、食事に呼ばれたが、銭をおいてから帰
宅した。さらに、水を飲む毎に、井戸に一銭づつ入れていった。
雷義は後漢の人で、仲公のことであるが、人事係長になったとき、死罪人からたすけを
乞うて銭を雷義にわたそうとしたが、決してうけとらなかった。金を屋根に放り投げて帰
る者もいたが、雷義は屋根修理のときに、この金を集めて返そうとしたが、当事者はすで
に、死んでいたので、裁判所に金を送金したという徹底的に清廉潔白。
第 245、246 の
[245、246]
逢萌挂冠
胡昭投簪
P537
ほうほうけいかん こしょうとうさん
隠遁者のはなし
逢萌は後漢、北海都昌の人。後漢の王莽(おうもう;紀元前 5 年)は、自分の地位を守る
ために子供の宇(う)を毒殺するほどの残虐な王であった。これを知った逢萌は、「君子、
父子、夫婦の道は滅びた」、といって、長安東郭門に冠を掛けて(挂冠)、国を捨て、遼東
半島まで逃げた。そこで、陰陽の八卦占いをし、王莽の行く末をうらなったところ、新と
出て、新国を新たに建国するとの卦がでたので、王莽を嫌って、自分は完全な隠遁生活に
はいった。その後、光帝が王莽の新国をやぶって、光帝の後漢時代にはいったが、かれは
出仕しなかった。
魏志にのっているが、胡昭とは、諸葛孔明のことで、投簪というのはコウガイをなげす
て、礼服もきることなく、隠遁者として、田畑を耕していた処、三顧の礼にあう。
540ページまでが、上卷で、第247の541ページから下巻となる。ページは通
し番号。
- 33 -
第 247、248 の
[247,248]
王喬雙鳧
おうきょうそうふ
華陀五禽
P541
かだごきん
後漢の明帝の時代の河東郡の人、王喬が、月の朔日と十五日に尚書台に出仕していると
き、明帝(顕宗)が、王喬の車騎がないのに気付き、どのような方法で、遠い河東から出仕
しているのかを調べよと命じた。
王喬は、仙術を心得ていて、二羽の鳧、雙鳧、しぎの一種で、足が長い鳥に化けて登庁
していたという。ウソの様なはなし。
華陀の方は、現実に居た話。華陀は、三国志にも登場する名医で、関羽の矢傷を剔りぬ
き、完治させたが、曹操の偏頭痛はなおせず、投獄され、死亡。その時、『青嚢の書』と
いう医書を弟子の呉普にわたし、呉普は、この医書を自宅に持ち帰り大切にしていた。し
かし、妻は、この貴重な医書を焼き捨ててしまった。これは、夫の呉普が華陀のように名
医になれば、殺されてしまうと思い込んだからである。
しかし、呉普は華陀の養生方法を守り、九十歳までいきたという。
その養生方法とは、五禽運動といい、今の太極拳のような運動で、五禽の戯といい、虎、
鹿、熊、猿、鳥を真似て、ゆっくりと関節を動かし、血流を良くし、食欲をまし、病気を
除き、足腰を丈夫にする導引の術で、呉普は、九十にして耳目聡明、歯牙完堅であったと
いう。
第 249、250 の
[249,250]
程邈隷書
ていはくれいしょ
史籕大篆
P545
しちゅうだいてん
中国の文字、漢字の歴史についてで、中国の文字は紀元前 1500 年頃の殷の時代の亀の
甲や骨や金属、石に刻み込まれた、甲骨文、金文、石鼓文などがあり、その後、太公望の
周の時代、紀元前 1000 年頃で、中興の祖の宣王の紀元前 820 年頃、その太史をつとめて
いた籕(ちゅう)が、文字を整理してつくりあげたものを、大篆(だいてん)という。
このように、漢字の書体として大篆、小篆、刻符、虫書、摹 書、署書、殳書、隷書の8
つがある。
このほかに、孔子(紀元前 552 年生まれ)、論語などをオタマジャクシのような字形の科
斗という字体で残していた(1993 年湖北省での竹簡発見)。紀元前 490 年が、呉越の夫差、
勾践の春秋時代で、その後、秦の始皇帝は、紀元前 213 年に古い医書や占い書を焼きすて、
これらを完全に焚書(ふんしょ)し、李斯(りし)、趙高、胡母散に命じて新しい書体をつく
らせた。これが、籕書の省略版で、小篆という。
- 34 -
さらに
この秦の時代の紀元前 200 年頃に獄吏をしていた程邈が雲陽に幽閉されて、こ
のとき十年かけて、大篆のさらに改訂版で、一般人にも解りやすい隷書をつくり上げた。
始皇帝の経書の焚書の際、焼き討ちされることをおそれて、孔子の子孫の孔謄は論語、
孝経、礼記、尚書を壁の中に塗り込めていたが、漢の武帝の時代、紀元前 140 年頃になっ
て、魯の共王によって、これらの古文書を壁の中から再発見している。
ここで、残された刻符、虫書、摹書、署書、殳書は具体的にどのような書体か不明であ
るが、刻符は割り符に用いる字体で、虫書は虫や鳥の形をした字体で、摹 書は印判に用い
る字体、署書は門額に署する字体、殳書は、干戈の銘に用いる字体とされている。
その後、時代を経て、篆書体、隷書体、真書体、行書体、草書体となっていく。
ここで、現在、われわれ、日本人が使用している漢字について、漢字字典を見てみよう。
一般に、漢字は部首、画数順にならべられていて、その総数は、1994 年版の大修館書
店の新『漢語林』で、親字(おやじ;見出し字)は、14,313 字が納められていて、常用漢字
は赤色でしめされ、親字の上に総画数とその右に部首内画数が番号でしめされている。
また、親字の下には通し番号がふられていて、常用漢字の場合は常の字が示されている。
その下には訓よみをひらがなで、音読みをカタカナで書かれている。
さらに、韻目が図式化されていて、つづいて、筆順、俗字、字義、名前での読み、注意、
参考がのべられたあとに、解字が示されている。
解字というのは、漢字の意味、字形の成り立ちを六書で記載されたものをいう。
六書というのは、象形、指事、会意、形声、転注、仮借のことで、甲骨文、金文、篆文
などの古文がしめされていて、その六書のどれにあたるかが記載されている。
象形は物の形どりの簡略化で例えば[月]、指事は点や線でなどの符合に関係する造字
法で例えば[未]、会意は象形、指事の組み合わせ[林]、形声は意味をあらわす意符と
音韻を表す音符を合体させた[河]、転注は別の意義に転用[楽]、仮借は音、韻をほか
からかりての造字法をいう[豆]。
もう一度、漢字字典を丁寧に、舐めるように、眼光紙背に徹するごとく、耽読して下さ
い。そして、中国の周の太公望、秦の始皇帝、漢の武帝の時代に思いを馳せて、如何に漢
字の発明が、表音、表義の意味合いで偉大であったか、喫驚仰天、驚倒、驚愕、震動、聳
動(しょうどう)、震駭、その驚異に舌を巻くこと請け合いで、その感動を再認識して頂き
たい。
- 35 -
第 257、258 の
[257,258]
王充閲市
おうじゅうえつし
菫生下帷
P558
とうせいかい
王充(27-97)は、後漢の時代の会稽郡上虞の人で、貧乏で、閲市、立ち読みで勉強し、
一見輒能誦憶、一目みただけで、すべて記憶していた。ついに、『論衡』を著す。合理主
義で、孔子批判の先鋒であった。
菫生(紀元前 178-104)は、菫仲舒のことで、前漢のひとで孝景帝のとき、教学博士で、
極めて帳、とばりの下で読書するほど、厳格な教育者であった。弟子にも厳しいため、つ
いに左遷となり武帝の兄の易王につかえることとなった。易王は性格が驕り高ぶる勇気を
好み、菫仲舒と対立したが、ついに、易王を説き伏せた。一方、公卿の公孫弘と『春秋』
のことで対立し、こんどもまた、武帝の兄の膠西王の相に左遷された。膠西王も気ままな
性格であったが、多くの地方長官を殺していた。公孫弘は、菫仲舒が殺されるように下心
あり、左遷を仕組んだ。しかし、膠西王もその戒めを聞き入れ、聖賓として、菫仲舒を受
け入れた。
孔子の道を推していたが、自分の家で亡くなった。
第 261、262 の
[261,262]
楊宝黄雀
ようほうこうじゃく
毛宝白亀
P564
もうほうはくき
動物報恩説話で、浦島太郎のはなしで、続斉諧記にでている。楊宝が九歳のとき、華陰
山の北に行き、一羽の雀の子(黄雀)が梟に襲われて、樹木から落ちて、弱っていた。これ
を持ち帰り、菊の花を食べさせたところ、元気になり、飛び去った。
その夜、黄衣の童子があらわれて、自分は西王母の使者で、お世話のお礼のかわりに白
い環を4個もってきました。これは、あなたの子孫が、いずれ三公になり、あなたはいれ
ないで、4代まで、高位につかれることになるという標シルシですといってかえった。
その後、楊宝は、前漢の哀帝、平帝の高官となり、新の王莽には仕えなかった。そして、
その子の震が安帝に、その子の秉は桓帝に、次ぎの子の賜は霊帝に、その次ぎは彪が献帝
にと、4代、三公として仕えた。
毛宝は晋の人で、武昌にいたとき、ある部下の軍人が、白い子亀を飼っていて、大きく
なってきたので、揚子江に離してやった。
戦になって、毛宝は魯国の朱城を守っていたが、石虎の軍にやぶれ、揚子江に飛び込ん
で逃げたが、六千人は溺れ死んだ。毛宝はとびこむと、そこには白い岩があって、それに
飛び乗ったが、それは白い大きな亀であった。それで、毛宝は亀の背に乗ったままで、対
岸に着き、生き延びたという。
- 36 -
第 273、274 の
[273,274]
仲連韜海
范蠡泛湖
P586
ちゅうれんたいかい はんれいへんこ
斉の魯仲連(ろちゅうれん)は、戦国時代のひと。雄弁家で知謀。紀元前 258 年、秦の昭
王は、白起に趙の邯鄲の城を四十万の兵で攻めさせたが、趙の孝成王は、魏の安釐王(あ
んきおう)に救援をもとめた。これを受けて魏の新垣衍(しんえんえん)が邯鄲に潜入した
が、趙の公子の平原君を仲介にして、趙の孝成王に、次ぎの様に進言した。
すなわち、趙の孝成王は、秦の王に帝の称号を奉ずる心づもりがあると。趙に偶々滞在
していた魯仲連はこれを聞き、趙の公子の平原君に面会し、この策は意味がないことを告
げた。
趙の公子の平原君は魏の新垣衍に会い、魯仲連の意見では、もともと、秦は、極悪非道
の国である。他国に礼を示さない野蛮な国の王に帝位を授けるなどというのは、全く意味
がないことだ。かつての、清廉潔白なる鮑焦という人物は、濁世、国を憂いて木に抱きつ
いたまま自殺した。此を人々はただの変人の自殺といっているが、憂国の心を持った、清
廉潔白の人の死としてとらえるべきで、人々の評価は間違っている。これと逆であるが、
同じことで、評価に価しない国の王を帝として認めるというやりかたは、まちがった政策
であるという。もし、秦の王に帝位を授けるのであれば、わたしは東海へ逃げるといった。
これで、趙の公子の平原君も、魏の新垣衍も納得して、白起と戦い、五十里退かしたの
である。平原君は感心して、魯仲連に禄をあたえようとするが、魯仲連は辞退し、去って
いった。
范蠡は、西施のところでのべられている。越の人間で勾践と組んで、呉の夫差と戦い、
最終的に夫差を破った。その後、西施はどうしたのか、勾践はどうなったのかは不明だが、
范蠡は、史記によると、自分は長期にわたり、名声を上げ、宰相という高い地位にまで
ついたが、これに長く携わっていくのは人の道として、相応しくない。そして、勾践とい
う人は憂いをともにすることができても、安楽をともにするような人ではない。
そこで、勾践にわかれを告げ、家族とともに、海をわたり、泛湖し、斉の国に入り、な
を鴟夷子皮と名乗って田畑を耕し、莫大な財産をつくったという。
斉でも卿相として、鴟夷子皮を招こうと画策したが、長く宰相にとどまるのは、善くな
いといって断った。。
さらに斉の国を抜け出し陶に逃げた。陶では、鴟夷子皮を陶朱公と名を変えて、交易に
よって巨万の富みを得て、大富豪となったのである。そして、陶で老衰でなくなった。
ここで、尾生、介子推、盗跖、鮑焦、伯夷・叔斉兄弟、蘇秦、管仲、鮑叔の八つの話が
蒙求にのっていないので、自分で、蒙求外伝として作成し、これを、おわりに、のところ
で述べた。
- 37 -
第 275、276 の
[275,276]
文宝緝柳
温舒截蒲
ぶんぽうしゅりゅう
P591
おんじょせつほ
文宝は、蒙求の 10 の孫敬という人と同人で、孫文宝のことで、孫敬閉戸で苦学の人で
登場している。楚の人で、母とともに洛陽にでて、大学近くの小屋に母を住ませて、自分
は楊柳の葉を編んで簡なし、紙の代用とし、経書を写した。
前漢の宣帝のとき、裁判官の書記になり、臨淮郡の太守となった。その政治には異迹(い
せき;功績)があったという。
その苦学は、沢の蒲を取り、これを切って小簡の代わりにして、これを編んで、これに
写した。
第 293、294 の
[293,294]
諸葛顧廬
しょかつころ
韓信升壇
P618
かんしんしょうだん
項羽と劉邦の韓信が劉邦に雇われて大出世で升壇することがかかれており、三国志の諸
葛孔明が劉備の遺言で後継者となるところからはじまり、木牛流馬の発明まで、コンパク
トに漢文で、うまくまとめられているので、原文で披露しておく。時代的には韓信がさき
で、孔明があと。
蜀志、諸葛亮相先主、先主病篤。
召亮蜀以後事、謂曰、君才十倍曹丕。必能安国、定大事。
若嗣子可輔輔之。如其不才、君何自取。
亮涕泣曰、臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死。
又為詔勅後主曰、汝与丞相従事、事之如父。
自是事無巨細、皆決於亮。
嘗上疏。其略曰、臣本布衣、躬耕於南陽。
苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、独自枉屈、
三顧臣於草廬之中、諮臣以当世之事。
後常以木牛流馬運粮、據武功五丈原、与司馬宣王対於渭南。
相持百余日、卒于軍。年五十四。諡忠武侯。
亮長於巧思損益、連弩木牛流馬、皆出其意。
推演兵法作八陳図、威得其要云。
孔明は先主の劉備が病気が重篤になった時、遺言をきいた。孔明、君は敵の魏の曹丕の
十倍の才能がある。このくに蜀の国は君が大将となれば安泰だ。もし嗣子の劉禅が、その
才能がないならば、孔明が代わってやってくれ。
- 38 -
孔明は泣いていう。股肱之力、手足となって、命ある限り忠節をつくします。劉備は劉
禅にいった。孔明を父だとおもって仔細までかれの事を聞きなさい。
ある日孔明は劉禅に出師表を上書した。その大略は、私はもともと南陽の貧乏な農民で
す。苟、いやしくも、乱世を全うするのみで、出世は考えていない。先帝の劉備は、この
ような田舎者を侮(あなど)られず、みずからを枉まげて、三度私の草廬に来られて、当世
の事を相談された。
その後、木牛流馬を発明し、これで、兵量を運び、ついに、武功県五丈原に進出し、宣
王の司馬懿仲達と渭南で対決した。
対峙すること百日。ついに陣中で死んだ。歳、五十四。諡を忠武侯という。
前漢韓信淮陰人。家貧無行、不得推擇為吏。後属項羽為郎中、数以策于羽。
羽弗用。亡帰漢。漢王以為治粟都尉。上未之奇。数与蕭何語。何奇之。
信度上不用即亡。何追之。居一二日来謁。
上罵曰、諸将亡以十数。公無所追。追信詐也。
何曰、諸将易得。至如信国士無双。
王必欲争天下、非信無可与計事者。
於是擇日斎戒、設壇場具礼、拝為大将。諸群皆驚。
後封楚王、都下邳。謀反。
赦為淮陰侯。卒為呂后所斬。
韓信は前漢の人で淮陰の出身。貧乏で、とくに善行はなかった。役人になることもなか
った。最初、項羽軍に仕え、奇策を出したが、項羽は採用しなかった。そこで、漢王の劉
邦に寝返った。劉邦も奇策を採用しなかったが、蕭何は彼の才能をみとめ、なんどとはな
しあった。しかし、漢王に採用されなかったので、逃亡したが、蕭何が一、二日でつれも
どした。
劉邦は、逃亡する大将はいくらでもいて、一度も追っかけないのに、何故、今回だけは
追っかけて連れ戻したのか。蕭何がいうにはかれは、国士無双であると。必ずや天下取り
に信用できる人物だという。
これで、劉邦は、かれを吉日に斎戒し、壇を築き礼を整え、壇上に彼を拝して、大元帥
とした。これには、樊噲
らは大反対し、皆はこの大抜擢に驚いた。
劉邦が漢王となったあとは、下邳にもどっていたが、錘離昧との謀反が問われ、劉邦亡
きあと、その妻の呂后に処刑された。
第 295、296 の
[295,296]
王裒柏惨
おうほうはくさん
閔損衣単
びんそんいたん
亡き父母の墓参のはなし。
- 39 -
P623
王裒は、後漢の人。父は司馬であったが、讒言のため、非業の死をとげた。母も居ない。
王裒は貧乏であったが、親思いで、父母の墓のちかくに住み着いて、毎日、墓参し、跪き
拝み、傍の小手柏の木につかまって、泣いた。
母は雷がきらいであったので、雷雨のときは墓に行き、墓前で、ここに王裒は居ますよ
心配しないでと、墓を守った。
詩経の小雅蔘莪の哀父母、生我劬労
悲しいかな父母わたしをうんで苦労された。をよ
むと三度泣いた。
閔損は孔子十哲の一人で、子騫のことである。実母がいない。父は再婚して、二人の連
れ子の女と再婚した。この母は、冬になって、かれに薄いきものをあたえ、実子には綿入
れの暖かい着物を着せた。是を知った父親は、その女を離婚させようとしたが、閔損は、
三人の子が薄着になってしまうといって反対した。父はこれを聞き入れ、母も以後慈母と
なった。
これは『史記』の「仲尼弟子列伝」に簡単にでている。仲尼とは、孔子のことである。
第 297、298 の
[297,298]
蒙恬製筆
もうてんせいひつ
蔡倫造紙
P626
さいりんぞうし
唐時代にまとめられた「初学記」に、中国の古い史書の博物志にでていることだが、秦
の時代の蒙恬というひとが筆をはじめて考案した、とでているという。
しかし、「尚書中侯」に、禹(う;夏の王)が洪水を治めた時、洛水に現れた神亀の背に
文様があり、このことを紀元前 1050 年頃に、周公が、筆で書き写したのが、象形の大篆
文字のはじまりで、これを玄亀負図といい、また、礼記の曲礼篇に記録係りがいて、彼ら
は筆を使っていたと出ている。したがって、秦の時代以前から筆はあったものと考えられ、
蒙恬は筆の改良をおこなっただけだろう。
筆は、楚では聿、呉では不律、燕では払と称していた。
紙は、後漢の宦官の蔡倫が作ったとされている。それまでは、竹簡であったが、重く、
かさばるので、和帝(79-105)の時に、蔡倫は中常侍の尚方の令の役についていたが、ここ
で、剣や器具、兵器の整理を行い、精巧にその内容を書き写すのにしたという。
是は絹であれば高価で、竹では重く不便で、ぼろ布、魚網を材料に紙を作成していたと
いう。これを和帝は採用し、蔡侯紙とよんでいた。
よって、三国志の時代には、すでに、紙に筆で文字をしるしていたものと考えられる。
第 299、300 の
[299,300]
孔伋
緼袍
祭遵布被
こうきゅうおんぽう さいじゅんふひ
- 40 -
P626
孔伋は子思のことで、孔子の弟子。貧乏で二十日で九回しか食事をとらなかった。
友人の田子方が狐皮袋をつくって孔伋に贈った。しかし、孔伋がはうけとらないだろうと
思い、わたしは人にものを貸せばその事を忘れてしまう、人にものをあげたときはものを
捨てたと思うから、と余分なことを言ってしまった。
案の定、孔伋は、何の理由もなく人からものを恵んでもらうなら、そのものを溝に捨て
た方がましだといった、といって断ったという。孔伋の意地っぱりめが。
祭遵は、後漢時代の檜川の人。光武帝につかえ、裕福の家にそだったが、清廉倹約で、
武勇もあり、褒美でもらった報奨金はすべて弟子に均等に分けた与えた。自分の身だしな
みとして、贅沢ものはつけず、布の夜具もつかわなかった。
彼が死んだとき、光武帝は、もう、かれのような清廉奉公の人間はでないであろうと、
その死を惜しんだといわれている。
第 301、302 の
[301,302]
周公握髪
蔡邕
倒屣
P631
しゅうこうあくはつ さいようとうし
周公は自分の子伯禽に、王たる者は、客には、髪をあらっていても、それを掴んですぐ
に応対すること、食事をしていても口の中のものを吐きすてて、すくに応対するように申
し付けた。
蔡邕
は、後漢時代の伯喈のことで、三国志の前半の人。博学で、辞章(文学)、音楽、
数学、天文占いができたが出仕せず、隠遁生活を送っていた。一方、王粲(仲宣)という学
者がいて、菫卓が献帝を引き連れて洛陽から長安に勝手に遷都した時に、王粲も長安につ
いて行き、そこでの弟子と客人が多いことに人々はびっくりした。蔡邕
は、長安の人々
と同様に王粲を靴屣を逆さまにして倒して彼をむかえた。
しかし、王粲は若く、みにくいほどに小人で、皆もおどろいた。王粲は、菫卓の悪政に
懲りて、劉表についたが、かれをとりあげなかったので、曹操についた。
蔡邕
はいう、王粲は王公の孫で、蔡邕 の自分の書籍はみんな、王粲に与えるつもり
だ。王粲は父、祖父ともに三公にのぼった。
これより、倒屣は、客の来たのを非常に喜んでむかえることをいう。
建安七子という文才者は、王粲 、陳琳、徐幹、劉楨、応瑒
、孔融、阮瑀
の七人で
後漢末期の文章を持って聞こえた七人。陳琳は三国志の筆者。
ここでの題目の蔡邕
は、建安七子にははいってないが、王粲についてのべられてい
る。 当時の賢者は、383 の仲宣独歩にでているが、同時代の文才ありと言われたひとは、
その中の一人、曹操の息子の曹植(豆の歌で有名、子建、陳思七歩 578)で、彼が楊脩への
手紙では、王粲、仲宣は独歩で、名声を欲しいまま、孔璋(陳琳)は、冀州でもっとも文名
高い。偉長(徐幹)は青州の文才者、公幹(劉楨)は斉で有名、徳璉(応瑒 )は魏で文筆家、
- 41 -
そして、悠々たる文章の楊脩。
第 315、316 の
[315,316]
甘寧奢侈
かんねいしゃし
陸凱貴盛
P651
ろくがいきせい
甘寧は三国志の呉の人。呉の国、孫建を含め驕った状態を読まれている。奢侈とはおご
ったこころをいう。
甘寧は、優秀な呉の猛将で、義侠心のつよい男であったが、実際は驕った、贅沢、派手
好みの人間で、あやの刺繍のある衣服を着て、幕布を珠玉でかざり、絹や錦の綱で船を繋
ぎ、立ち去る時は惜しげもなく、この綱を斬って逃げた。
曹操と孫建の濡須の戦いでは、夜襲で先鋒で勝利した。曹操も負けず嫌いで、「孟徳(曹
操の子)には張遼がおり、わしには興霸がいる」、と凄んでみせたが甘寧の方が一段上。
陸凱は、呉の陸遜の又従兄弟で、遜皓のときに丞相になった。遜皓が聞いた。陸家には
どれだけの人が朝廷に仕えたか。二人の宰相、五人の諸侯、将軍十人以上。そして、君主
が賢く臣下が忠誠なのが国の盛んと申す。父が慈愛に満ち、子が孝心篤いのが家を盛んと
いう。だだ今の国情を見るに、政は荒み、民力疲弊、国運怪しくては、どうして、臣の家
の如き、どうして盛んと申せましょうか。
第 317、318 の
[317,318]
干木富義
於陵辞聘
かんぼくふぎ
おりょうじへい
P653
淮南子にでているが、段干木という人は、相当の人格者であったようだ。文候が、出掛
けたとき、わざわざ立ち止まって、段干木の家にむかって、最敬礼をしたという。段干木
を知らない人は布衣を着た一庶民で、文候のような気高い人が最敬礼するような人はいな
いでしょうにというと、文候曰、そうではない。段干木は世の権勢や利欲に走らず、君子
の道を抱き、この見苦しい巷にいても、その名声は千里に行き渡っている。私がどうして、
車から降りて最敬礼せずにいられようか。段干木は徳であらわれ、わたしは権勢で現れて
いるのみだ。段干木は義に富み、わたしは、財宝に富む。権勢は所詮、徳の尊さに及ばず、
財宝は義の高尚なのには及ばない。
斉の於陵という所に住んでいる靴屋の子終が、楚王から招聘された、条件は車に馬四頭
に金百両。子終は妻と相談した。
妻は反対。その理由は、日頃靴を造り、余暇で琴を弾き、ほんを読み、心楽しくくらし
ているのに、これ以上の幸せがあるだろうか。車を手配されても給金があがってもいまの
儘の生活が最上であるから。
招聘をことわった後、ここも煩わしいので、転居した。
- 42 -
第 319、320 の
[319,320]
元凱伝癖
げんがいでんぺき
伯英草聖
P657
はくえいさうせい
元凱は、晋の人で杜預(とよ)という。賢者で左伝をかきあげた。武帝が人それぞれ癖が
あるが、貴様の癖は何かと問われた。杜預いわく、左伝を読むことです。
常に、高岸為谷、深谷為陵。といっていた。
伯英は、後漢の人で、張芝のこと。草書の大家。衛恒にいわせると、章帝のとき、杜度
が字が上手い。崔瑗、崔寔の二人も字が上手い。杜度の字は字肉がおだやかで、やや細字、
崔の方は筆勢が強い。伯英は、書体、筆勢とも非常に精巧。筆を池であらっていたので、
池は真っ黒で、書道での習字のことを「臨池の技」という。また、入木道(じゅぼくどう)
というのは王羲之(303-361)の筆圧が強く、木に墨がはいりこんでいるので入木という。
第 313、314 の
[313,314]
漂母進食
ひょうぼしんしょく
孫鍾設瓜
P657
そんしょうせつくわ
韓信のはなし。おばさんが飯をすすめた話ではない。項羽と劉邦で、劉邦は韓信のおか
げで天下がとれた。韓信は小さい頃は貧乏で弱虫。南昌亭で世話になっていた、おばあさ
んは、弱虫韓信を迷惑がっていた。
朝食は寝床で食べるし、食事の時間には遅刻するしで、おばあさんは韓信のために、食
事をつくらなくなった。淮水で釣りをしていて、今度は近くで洗濯をしていたおばさんが
韓信のために十日も食事をつくってくれた。おばさんの恩は決して忘れないよ。いまにき
っと、うんとお返しするからねというと、おばさんは怒って、とんでもないよ。大の男が
食べることもできないので可哀想とおもっただけで、恩をかえしてもらう、恩返しを期待
なんか最初からしてないよ、と怒鳴られた。
周りの少年も彼を馬鹿にして、腰に刀をぶらつかせているが、命を捨てる勇気があるな
ら、その刀をぬいて、おれを刺して見ろ。できないならおれの股下をくぐりぬけろといじ
めにあった。韓信は刀をぬかず、素直に股下をくぐった。
町の連中は笑い、臆病者と罵った。
しかし、韓信は出世し劉邦が高祖となってから淮陰にかえり、飯のおばさんと町の連中
に千金をあたえた。皆さんのイジメのおかげで、根性を入れ替えて天下とりにす。その後、
讒言により、韓信は斬首された。
呉の孫家の孫鍾は、瓜を売って暮らしていたが、貧乏で、瓜が熟してしまって、売れな
い。ある年、奇妙なことが起こった。見知らぬ三人の客が瓜を買いにきた。孫鍾は、飯ま
で用意して持て成した。客は、お礼にといって、孫鍾の親の墓の場所を何処にすればよい
- 43 -
かを教えよう。墓の場所が良いと、その子孫が代々諸侯、天子になれる。それも、数代続
く天子になれる。実はわたしたちは、天帝の命令で人の運命を司命する星です。これから
山に登り墓場所をおしえます。その後、百歩下るまで振り返ってはいけない、といわれた。
孫鍾は、六十歩のところで、振り向いてしまった。そのとき三人は白鶴となって飛んで
いくのを見た。
そして、母がなくなり、その墓に葬ったところ、孫鍾の子は、孫堅、孫策、孫権の呉の
天子をうんだ。幽冥録にのっている、呉国の孫家の天下取りの発祥についての物語。
第 327、328 の
[327,328]
劉玄刮席
晋恵聞蟆
りゅうげんかっせき
P673
しんけいぶんま
劉玄は、後漢の光武帝の又従兄弟の子で聖公のことで、若くして赤眉の賊に函谷関で殺
された。
劉玄は、新の王莽をたおすために、漢の高祖劉邦の血筋の人間を大将に祭り上げられた
更始将軍のことで、しかし、本人は酷く憶病で、皆が集まった席で気遅れし、冷汗をかく
癖があり、大きな声も出せない小心ものであった。
恐らく、これは自律神経失調症で、アディ、シャイ・ドレーガー症候群という自律神経
失調症の病気であったものと思われる。
晋恵というのは晋の恵帝のことで、暗愚、痴呆、白痴であった。父は武帝、母は賈妃。
がまがないているのを聞いて、あれは公のために鳴いているのか、わたしの為に鳴いて
いるのかときいたり、人民が穀物がなく飢えているという報告を聞けば、なぜ、肉入りの
粥を食べないのかと問い質したりで、だまっていればわからないのに、暗愚を露呈してし
まう発言をするので、親も、臣下たちも困惑してしまう。しかし、理に叶っているところ
が喜劇風で面白い。
それでも恵帝は、48 歳まで生き、毒入り饅頭で、殺された。
329、330 の
[329,330]
伊籍一拝
いせきいっぱい
酈生長揖
P673
れきせいちょうゆう
伊籍は、劉備の臣下で、その才智をかわれ、呉孫権との交渉にでていった。孫権は待ち
かまえていった。貴様はいつまで、あの無道の主君に仕えていくつもりなのか。私自身は、
無道の君に一拝一起し、その命令をあなたに伝えることには、何等骨折りとはおもってい
ませんので、御心配なくといいかえした。
ぐの音もでない孫権。
酈食其(れきいき)は、前漢、項羽と劉邦の人。長揖というのは丁寧な挨拶をいう。酈食
- 44 -
其は、優秀な男でであったが、あまりにも変わり者でみな狂生と呼んでいた。しかし、う
わさを聞いた劉邦が訪ねてきて、そのとき坐って、足を二人の女に洗わせていた。酈食其
は、長揖、長くお辞儀をし、手をあわして挨拶したが、劉邦の態度の悪さにがまんできず、
思わず、天下を取りたいという男のすることではない、と注意した。劉邦は、素直にあや
まり逆に酈食其が上座につき、劉邦が下座について、無礼を詫びた。その後、酈食其は、
広野君に就任するが、韓信が斉の国をせめたときに、軍師としてはたらいた。
劉邦が東の斉をせめているときに、項羽が、その外黄城を先に攻め落とした。この時、
外黄城に入城して、すぐに、15 歳以下の男を全員生き埋めにして殺せと命じた。これを
聞いた外黄城の民は、直訴を考えるが、この中の奇童、13 歳の仇叔(きゅうしゅく)が、
直訴し、こどもを生き埋めにして殺すような残酷な人間が天下を取ることなど不可能とい
う。流石の項羽も、この論客少年には勝てない。
その後、劉邦が成皐城を攻め、韓信が斉の臨瑙城の田広を討つつもりでいた。
そのまえに急遽、韓信とは相談せず、酈食其が単身で、斉に韓信は攻めてこない、和睦と
するという、約束を田広ととっていたが、韓信はなにもきいていないので、攻め入った。
田広は酈食其をうらぎりものとして、つかまえて、釜茹でにして殺した。どういうわけか、
韓信は酈食其を助ける事には動かなかった。韓信の二重性格がでてしまった。
第 335、336 の
[335,336]
虞延刻期
ぐえんこくき
盛吉垂泣
P683
せいきつすいきゅう
虞延は、後漢の人で、大男で、力強く、悠々たる性格で、人望篤く、汝南郡の知事にな
った。夏の伏日と冬の臘日(立秋後の初の庚の日)には投獄囚を一端帰宅させた。休暇を終
えたのちには全員、牢獄にもどってきたという。虞延は囚人を信じ、囚人も虞延を信じて
いた。
盛吉は、後漢の人で、性格がおとなしく、恵み深く、哀隣に満ちていた。処刑決定のあ
る冬の月、盛吉の妻の手伝いで燭光を用意させ、赤い筆をもって、涙しながら、その処断
をしたためていた。
第 343、344 の
[343,344]
武陵桃源
ぶりょうとうげん
劉阮天台
P696
りゅうげんてんだい
仙郷淹留離譚二題。
晋の陶淵明の桃花源に記されている。東晋孝武帝の頃、武陵にすんでいたある漁師が、
一人で、渓流に釣りにでた。ドンドン上流に登っていくと桃の林があり、あまりの美しさ
に、さらに、夢中で、渓流を上っていった。山に入り、小さな穴を見つけ入っていくと、
- 45 -
その奧には、村があり、村人に、酒、ご馳走をもらい、人々は、秦の時代にこの地に逃げ
込んで以来、全く外世界とは交通はなく、長い間、断絶状態であるという。今の状態と過
去のことを話し、数日後に帰宅した。この時、目印を付けておき、もう一度訪ねてみよう
としたが、目印もなくなって、見失ってしまい、二度と、この桃源郷を訪れることはでき
なくなってしまったという。
続斉諧記にでている。漢の明帝のころ、劉晨と阮肇の二人の男が天台山の薬草とりにで
かけて、山の頂上の桃の実がなっているところまできた。その桃は実に旨く、さらに奥山
まで桃の実をさがしに深追いした。川で足を洗っていると、蕪菁菜やお椀や胡麻飯がなが
れてきたので、人家があると思って、更に奧まで入っていった。
すると女二人に出会い、屋敷につれていかれ、酒、太鼓、踊り、ご馳走になり、半年も
すぎて、帰宅した。
故郷に帰ってみると、すでに七代もあとの子供しかいない。そのこどもたちにいわせる
と、ここの劉晨と阮肇の二人は、600 年もむかしに、山に入り、二度とでてこなかったと
われているという。
第 383、384 の
[383,384]
仲宣独歩
ちゅうせんどっぽ
子建八斗
P752
しけんはっとう
同時代の文才ありと言われたひとの、その中の一人、曹操の息子の曹植(豆の歌で有名、
子建、陳思七歩 578)で、彼の楊脩への手紙には、王粲(仲宣)は独歩で、名声を欲しいま
ま、孔璋(陳琳)は、冀州でもっとも文名高い。偉長(徐幹)は青州の文才者、公幹(劉楨)は
斉で有名、徳璉(応瑒 )は魏で文筆家、そして、悠々たる文章の楊脩。
仲宣は字、王粲のことで山陽高平の人で、献帝に黄門侍郎という侍従に採用されたが、
菫卓が長安に遷都して、悪政を敷いたたため、自ら劉表につかえた
しかし、風采があが
らず、背丈が小さいため、採用されず、曹操に仕えた。
子建は、陳思王のことで、その文才は曹操もみとめ、兄の曹丕が七歩の間に豆の詩をう
たい、天才肌で、謝霊運(385-433)という後の詩人がいうには、天下の文才の能力を、す
べてで一石とすれば、子建だけで八斗分はあるといった。あとの二斗で、六人でわける計
算で、文才の割りが子建で八割に達するという。したがって、文才を八斗の才ともいう。
第 413、414
[413,414]
管仲随馬
かんちゅうずいば
倉舒称象
P797
そうじょしょうぞう
管仲のことなのだが、
『管子』にはでていなくて、韓非子の説林篇第二十二にでている。
- 46 -
管仲が隰朋(しつぽう)と、桓公にともなって、孤竹国を征伐するのに春に馬で出征し、冬
にかえってこようとしたが、迷子になってしまった。そこで、下馬し、馬をはなして、馬
自身に帰国の方向をさがさせた。馬は古馬であったので、巧く、帰国の道を探り当てたの
である。皆、馬に随った。
またまた、災難で、呑み水がなくなってしまった。こんどは、隰朋が、蟻の行列をさが
した。蟻の住み家の八尺四方を掘ると水があるという。皆で、水を探し当てた。
知者は、老馬、蟻に素直に随うが、馬鹿者は愚痴ばかりいって、人の指示にはしたがわ
ないものだ。これを管仲随馬という。
倉舒は曹沖のことで、曹操(武帝)の息子で、天才能力をもっていたが、16 才で病死。5
歳のときに呉の王の孫権が象を贈呈してきて、これをみて、曹操が象の目方がいくらかを
知りたいといいだした。臣下の者は測定不可といった。
そのとき 5 歳の倉舒は、舟をつかって、象を船に移し、水嵩の位置に印を付けさせ、今
度は荷物をその印までのせて、その後荷物の重さの合計から、象の重さを決定した。
みな、曹沖の才能に脱帽したという。彼が生きていれば、孔明との一騎討ちが楽しめた
のに。
第 425、426 の
[425,426]
勾践投醪
こうせんとうびょう
陸抗嘗薬
P815
りくこうしょうやく
勾践の酒を川に流した話をもちだして、息子に強く説教をする頑強なる心根の母親のは
なし。
戦国時代の楚の子発は、秦を攻めて、打ち勝った。これは、秦が兵糧攻めにあい、楚も
同様の状態であったが、楚の方はもっと悪い。というのは、子発は兵士に半分の食料だけ
を与え、大将の子発は牛羊犬豚黍栗をたべていたという。悠々と凱旋してふるさとに帰る
と、鬼のような母親のきついお叱りが待っていた。
お前は、あの越王勾践が呉を討ったときの陣中見舞いのはなしをしらないのか。上等な
酒一樽を献上した客がいたが、兵、士卒の数は多く、酒一斗ぐらいでは足りない。そこで、
勾践はその酒を川の上流に濯ぎ、下流で士卒を待たせ、これを呑ませた。気は心というも
ので、士卒は、勾践のこころの丈をくみとって、感激し、戦にのぞんで、五倍のちからが
でるように思ったという。
また、他日、乾し飯を献上したものがいた。勾践は、士卒に少しずつ分け与え、十倍の
働きをしたという。
それなのに、お前は、自分だけ美食し、勝ったからいいものの、この家には一歩も入れ
ない。出て行け、この恥たらしが。
子発は、この母の言葉に自分の非を悟り、発憤し、後門にはいることができたという。
陸抗は、呉の丞相陸遜の次男。孫皓につかえていた。一方、晋の羊祜は、荊州を平定し
- 47 -
ていた。羊祜は、降参、降る、くだってきたものには、人道的扱いをしていたので、呉の
者まで、羊祜をたたえ、羊公とまで褒め称えるようになった。
陸抗は、敵の平南将軍羊祜を敵ながらあっぱれと、その徳器量を褒め、諸葛孔明、楽毅
も及ばないと、礼を失っすることのないように務めていた。
ある日、陸抗は病気になり、これをきいた敵の羊祜は陸抗に薬を送ってきたという。謙
信と信玄の塩のようなはなし。陸抗は、薬を直ぐに服用して、平癒した。陸抗は、敵から
の薬だから毒がはいっているのではないかという疑いは全く挟まなかった。陸抗に、これ
を諫めるものがいても、陸抗は、羊祜は敵に毒薬を与えるような人ではないと諫告をとり
あげなかった。
人々は、この二人を、古への華元と子反の再来と言った。
孫皓は、手ぬるいと陸抗を批判した。しかし、陸抗の答え。一郷一村の小さい土地でも、
人間は信義がなければ服従しません。まして、大国を治めるにはなおさらである。暴力で
国を治めるのではなく、徳をもっておこなえば、正しく国は治まる、といった。
華元と子反の話はおわりに、でまとめた。謙信の信玄への塩おくりの件は、時代が逆で、
義を重んじる毘沙門天の謙信が、この、羊祜と陸抗のはなしを蒙求から知っていて、自然
体でおこした信義の技であろう。
第 437、438 の
[437,438]
麋竺収資
びちくしゅうし
桓景登高
P831
かんけいとうこう
収資は、家を片付けることをいう。
麋竺は、劉備玄徳の家来の子仲のことで、子仲が、洛陽から帰郷するときに奇妙な体験
をした。帰り道で、みしらぬ女と出会い、帰る方向が同じだからと車に同乗させた。途中
で、女がお礼をいって、立ち去ろうとし、実は私は天女です。理由はわかりませんが、天
帝の命令で、あなたの実家を焼き払うようにいわれました。今、同乗させていただいた御
礼にこのことを先にしらせておきます。これを聞いた麋竺は、どうか、止めて下さいと頼
んだが、これは、天帝の命令ですので止めるわけにはいきません。わたしは、歩いて、い
きますので、車でさきに行って下さい、昼、丁度に燃え始めます、という。
麋竺は急いで帰宅し、家財道具を運び出していると、ほんとうに正午になって、家は燃
え始めたという。何がいいたいのか不明。
高いところに登る話は、重陽の節句の始まり、ものの起こりについての話である。
桓景は汝南の後漢の時代の人で、仙術を習っていた。先生の費長房が桓景にいった。九
月九日は、あなたの家にとって災厄、災いの日である。すぐにいえに帰って、家人に赤い
袋を臂に懸けて、高い山に登り、菊酒をのむこと。、これで災いは遁れられる。
桓景は、いわれるように高い山にのぼり、厄払いをして、帰ってみると家畜が皆死んで
いた。これは厄代わりであると長房はいう。
- 48 -
このことから九月九日は、山に登って、菊酒を頂き、厄払いをする日で、これが重陽の
節句となった。
第 445、446 の
[445,446]
淮南食時
わいなんしょくじ
左思十稔
P845
さしじゅうねん
淮南は淮南王のことで、劉邦の孫の劉安。書をよみ琴が上手で、文科系の人間であった。
争い事が嫌いで、淮南子(ゑなんじ)は彼の編集による。悲劇の王で、叔父の武帝の策に反
対し、自害に追い込まれた。
学才あり、錬金術、神仙術、博学多才で、武帝の命で、手紙、書類の添削を朝食まえに
すませていた。
王充の論衡の道虚にでているが、劉安の自害のとき、一人道得、鶏犬昇天、仙薬を呑み
自害し、飼っていた鶏、犬も一緒に昇天した、という。殉死にちかい発想だ。
左思は、晋の時代の人で、左太仲のこと。風采はあがらず、どもり、訥弁であったが、
文章は壮麗で、十年、十稔かかって、国賦をつくった。左思の作詩の賦三都は文選にでて
いる。
皇甫諡によると、班固、張衡のたぐいであると褒めた。これにより、この書は能く売れ
て、洛陽為紙貴、洛陽の紙が足らなくなるほど書が売れたという。
そして、陸機とその弟の陸雲も国賦をつくろうと考えていたが、自分たちの詩よりも左
思のほうが巧いと言い、国賦の作詩をやめてしまった。
第 455、456 の
[455,456]
何晏神伏
かあんしんぷく
郭奕心酔
P861
かくえきしんすい
『老子』の注釈本を書いた王弼(おうひつ)のはなし。
三国時代の魏のはなし。諸葛孔明が死に、曹操が死んで、司馬懿仲達は引退していた。
しかし、次代の曹爽がたよりないため、司馬懿がクーデターをおこした。
この時の魏の人事部長官の補佐官に裴徽(はいき)がいた。かれのところに、若干十五歳
の王弼が就職面接にきた。王弼はこの年にあの難解極まりない、『老子』の注釈本をかき
あげた天才少年である。
徽一見異之、問曰、夫無者誠万物所資、然聖人莫肯致言。而老子申之無已者何。
弼曰、聖人体無。無又不可以訓。故不説也。老子是有者也。故常言無所不足。
一体、老荘でいう無は、万物の根源で万物がそれから始まるというのに、聖人は無につ
- 49 -
いてはすすんで、ふれていない。しかし、老子は無について繰り返しのべているのはなぜ
か。
聖人は無を体得している。それに反し、凡人は無については理解できない。老子は元来
有に執した人である。したがって、常に天地の有のみでなく、無もあることをのべている
のだ。
これをきいた長官の何晏が、後生畏るべし、といったという。
第 485、486 の
[485,486]
亮遺巾幗
りょういきんかく
備失匕箸
P908
びしつひちょ
亮は諸葛孔明のことで、司馬懿仲達と、すでに数回たたかっていたが、孔明も攻めきれ
ず、仲達は敗北続きで、渭水の南原での戦では、ついに司馬懿仲達は、全く動こうとせず、
長期戦で、待ちの構えときめこんでいた。これに対し孔明は仲達を城より出す方法をかん
がえていた。
ついに、孔明が動いた。小心ものの司馬懿仲達に婦人物の羽織と帯びと喪の首飾りであ
る巾幗を送った。そして、女のような小心ものの男とは戦う気がしない。さっさと女もの
の服をきて帰郷しろと文を送った。
司馬懿仲達は激怒し、天子に出馬の命令を出してほしいと嘆願するが、天子は孔明のワ
ナで、のるなと許可しなかった。そして、司馬懿仲達は我慢した。その後、百日におよぶ
睨み合いが続き、ついに孔明は病にたおれ、陣中で死亡してしまった。
この時とばかり司馬懿仲達は蜀軍を攻めるが、姜維の案で孔明そっくりの木像が陣の先
方におかれていた。これを遠くから見た司馬懿仲達はワナだとおもい、攻めるのを止めた。
この間に楊儀らが、孔明の遺体を洛陽まで運んだ。このような状態を、人は、死んだ諸
葛、生きた仲達を走らす、といったのだ。
劉備玄徳が黄巾の乱を鎮めて、手柄をたてたとき、初めて、曹操とあって会食した。こ
のとき曹操が、この世を制するものは、わたしと劉備ぐらいだろう。袁昭は問題外だ、そ
うでしょうといわれたとき、劉備は小心ものを装い、箸を持った手をふるわせ、箸を落と
すふりをした。あたかも、小心もののような振りをしたのである。
第 487、488 の
[487,488]
張翰適意
ちょうかんてきい
陶潜歸去
P914
とうせんききょ
張翰は、晋の時代の呉の江東の人で、清才の人。酒大好きで、礼節はおもんじなかった
が、文章は巧い。陳留の阮籍か、江東の歩兵か、といわれていた。
人生、心のおもむくままに楽しみ、数千里も故郷からはなれたところで、出世し、名誉、
- 50 -
地位を追い求めるほどつまらない物はないといっていた。
斉王冏(クーデターで趙王倫から王位を奪った)から官職をあたえられたが、王の奢侈、
暴政に嫌気がさして、故郷にかえった。このとき、どうして、名を残すようなことをしな
いのかといわれたが、わたしは死後に名をあらわせるより、今すぐに酒一杯をもらったほ
うがましだといった。
案の定、その後、斉王冏は河間王に討たれ、死んだ。みな、張翰の先見の明ありといっ
て褒めた。
陶潜は、晋の時代の潯陽の人で、司馬侃の曾孫。陶淵明(365-427)のことである。高尚
の志、博学、詩才抜群。その才気は袋の中の錐にたとえられ、他を排して、一人、ずば抜
けて、抜きんでていた。
若くして、41 歳で彭沢県の知事に任命され、当地に赴任した際、礼服に着替えて下さ
いといわれ、なぜ、このくらいの少ない禄で、ぺこぺこしなければならないのか。といっ
て、即日辞任して、郷里の潯陽に帰ってしまった。この時の詩が帰去来辞である。
この詩は古文真宝にでていて、陶淵明集では卷五の賦・辞にでている。この詩には序が
つけられていて、小自伝となっている。
帰去来兮
帰りなんいざ
田園将蕪胡不帰
田園将に蕪あれんとす なんぞ帰らざる
既自以心為形役
既に自ら心をもって形ののもべとなせば
奚惆悵而独悲
なんぞ、うらみ、なげきて独り悲しまん
悟己往之不諫
むかし己往、あらたむべからざるを悟り
覚今是而昨非
今はただしく、昨は非なるをさとる。
全詩はおわりにを参照。
第 549、550 の
[549,550]
菫遇三餘
とうぐうさんよ
譙 周独笑
P1012
しょうしゅうどくしょう
菫遇は魏の国の人で、明帝のときの農林大臣。三余は三余暇のことで、余暇をとれるの
は、冬、夜、雨の日であることを最初にのべた人が菫遇。
人に教わる前に、必ず、その書物を百遍繰り返し読むこと。それで、自然と意味が判る
といい、そんな暇がありませんというと、人間には三つの暇があります、夜、冬、雨の日
です。冬は年の余り、夜は日の余り、雨は時の余りですといった。これを空しく費やさず
読書にあてなさいと。菫遇の名言。
譙周は、蜀の人で、孔明のあとの人、劉禅の臣下。独り読書の時、ひとり笑する癖があ
った。
- 51 -
蜀の国が亡されたとき、則ち、魏の鄧艾が蜀の陰平に攻め入ったとき、鼻たれ王の劉禅
に、臣下たちは、呉に逃げるか、南方に逃げるか激論をかわしていた。しかし、譙周は、
昔から他国、すなわち、ここでは呉、南方の国に身を寄せて、天子になったものはいない。
よって、この際は無念ではあるが、身の保全のため魏に降参したほうが良いと忠告し、こ
れによって、劉禅は、魏に下ったのである。そして、蜀の国はこれで、完全に滅び、三国
時代は終結して、晋となるのである。
第 569、570 の
[569,570]
馬良白眉
ばりょうはくび
阮籍青眼
P1040
げんせきせいがん
馬良は、三国志の劉備につかえた策士。馬家は優秀な兄弟を生んだ。このうち最も優秀
なのが良で、諺として、馬氏の五常、白眉最も良し、といった。良の眉毛が白かったので
このように褒めたのである。五渓の蛮夷を治めた。
阮籍は晋時代の竹林七賢の筆頭。字を嗣宗といい、陳留の人。教養高い人ではあるが、
酒大好き。酒が歩兵厨に三百石もあるときき、歩兵校尉に志願した。
青い眼とは黒い眼のことで、喜んでいる目付きのことをいい、白眼とは、人を睨み付け
ている時の目で、怒っているときの眼である。
母親が亡くなった時、竹林七賢の一人の嵆康の兄の嵆喜がきた時、何が気にいらなかっ
たのか解らないが、白眼をした。弟の嵆康が琴をもってきてくれたので、青眼をした。こ
のことから阮籍青眼というようになった。
第 577、578 の
[577,578]
曼倩三冬
まんせんさんとう
陳思七歩
P1050
ちんししちほ
曼倩(まんせん)という男は、自分を宣伝し、アピールすることに長けた、狂気じみた自
己顕示の強い人物である。日本の奥ゆかしい男たちにはみられない自己宣伝のうまい人物。
日本では、嫌われ者で到底採用されるとは思えないが、平成日本はこの積極性が買われ
る時代なのかもしれない。
曼倩は、本名は東方朔といい、前漢の武帝の時代のひとで平原郡出身である。武帝が方
正、賢良、文学、材力に長けた人材を募集していた。異例の抜擢任用として、上申書、履
歴書を添えて応募するように庶民に指示した。自分で自分を売り込むのである。
方正というのは品行のことで、賢良は学力のこと、文学は書道、文筆のこと、材力は器
量、体力のことである。
曼倩の上書の内容は、私は、小さいときに父母を失い、兄、兄嫁に育てられた。13 歳
- 52 -
で書を三冬(冬の三ヶ月;初冬、仲冬、季冬)に学び、文史を用い、文章が書ける、史伝が
読めるようになり、15 歳で、撃剣を学び、16 歳で詩書を学び 22 万言を暗誦しており、19
歳で孫呉の兵法、戦陣の具、かね、太鼓の打ち方を学び、子路の言葉を実行してきた。
いまや、22 歳で身長 190cm、目は真珠のように美しく、歯は貝のように白く、勇気た
るや古の孟賁(もうほん)のごとくで、俊敏の程度は慶忌のごとくで、清廉潔白は鮑叔のよ
うで、信義は尾生のごとくである。このような自分は大臣に値する、と宣伝した。
孟賁(もうほん)の勇というのは、衛(斉)の人で、武王にやとわれ、牛の角を引っこ抜く
武勇があり、敏捷なること慶忌というのは、周の王子の慶忌のことで、矢にも馬にも負け
ないくらい足が速かった。鮑叔の清廉潔白は管仲と鮑叔との管鮑の交わりの鮑叔。尾生は
おわりに、で説明する。
今風にいえば、ジャイアント馬場のように強く、スペインサッカーのシャビのように俊
敏で、タイガー・ウッズのように清廉潔白?で、マザー・テレサのように信に篤い人のこ
とをいい、スーパーマンのように矢よりも速い。そんな人間は存在しない。
曼倩は、結局、武帝の計らいで、合格し、その公車に待詔せしめた。
陳思とは、陳思王・曹植(192-232)のことで、曹操の五男である。諡が恩、字を子建と
いい、曹子建、東阿王、陳思王といわれた。文帝曹丕(そうひ)の弟で、詩文の道にたけ、
剣術には疎かったので、ある日、魏の国のため、諸葛孔明と日々戦っている曹丕が文帝と
なったとき、自分が七歩、歩く間に詩をつくれ、もし、できなければ法に則り処分すると
いわれ、咄嗟に創った詩が、豆の詩で、いわゆる曹子建七歩成章である。
『古文真宝』の前集の巻一にこの七歩詩の載っていて、曹子建としてでており、五言絶句
である。
『古文真宝』に出ているのは、
煮豆燃豆箕
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急
『蒙求』にでているのは
煮豆持作羹
豆を煮て持ってあつものを作り
漉豉以為汁
豉みそを漉こしてもって汁となす
其在釜底然
その釜底にあって燃え
豆在釜中泣
豆は釜中にあって泣く
本是同根生
本これ同根より生じ
相煎何太急
相煎る何ぞはなはだ急なる。
- 53 -
これは、曹丕とは親が同じ曹操であり、兄弟なのに、なぜこのようにいじめるのかとい
う思いを煮る豆に擬えて、訴えたので、兄の曹丕文帝は深く恥じたという。
これ以来、急いでつくる詩を七歩詩といい、詩文を作るのが早いことや詩の天才を七歩
の才というようになった。今風にいえば、謎かけ、整いましたのダブルコロンである。
384 に子建八斗と言うのがあり八斗の才ともいう。
しかし、このように、曹操が狂死したあとの世継ぎは、曹丕が継ぎ、曹植は、安郷侯、
鄄城侯、雍丘王、浚義王、東阿王、陳王と各地に転封され、死去となった。
第 591、592 の
[591,592]
鮑照篇翰
陳琳書檄
ほうしょうへんかん
ちんりんしょげき
P1070
南史にいう。鮑照(ほうしょう)は宋の時代の東海の人。文辞贍逸(ぶんじせんいつ)、文
辞にうるさい。文帝に国侍郎に抜擢された。しかし、文帝は自分の文章が一番巧いとおも
っていたので、鮑照は自分の文章をできるだけ不味いように綴った。
しかし、懐古詩に、15 歳で詩経、書経をよみ、天下の書籍、篇翰でよんでいないもの
はなかったと豪語していた。
魏志にでている。陳琳は字を孔璋(こうしょう)といい、後漢、三国時代の人物で、はじ
め、少帝を推していた何進につかえていたが、何進が斬首され、その後、袁紹に仕え、官
渡の戦で、曹操(太粗)をうつための檄文を各将軍に書き送って、その文の完璧さに曹操自
身が吃驚し、袁紹を滅ぼしたあとに曹操の弟子となった。彼の書き上げる檄文があまりに
みごとなので、曹操の偏頭痛がなおるという。
おわりに
覆水不返
「覆水盆に返らず」という諺の出典は、後秦の王嘉の『拾遺記』で、太公望の妻の話であ
る。
それは、呂望の妻になった女は、あまりにも呂望が貧乏で稼ぎが少ないので離婚した。
しかし、その後、皮肉にも、呂望は文王の官に召し抱えられ、最高位に就き高収入者と
なった。
太公望が実家に戻ったところ、元妻が復縁を迫ったが、太公望は、盆に入っている水を
地面に濯ぎ、泥まみれになった土から水を元通りにすることができるかといって復縁を断
った。元妻は再婚を諦めたという。
- 54 -
これに似た咄が、227 番の買妻恥醮である。
枕草子と蒙求
蒙求は、菅原道真(845-903)の時代の遣唐使により、元慶 2 年、878 年頃に日本に持ち
込まれ、陽成天皇の弟で、清和天皇の第 4 子の貞保親王(さだやす;横笛、琵琶の名手;
870-924)が、日本で最初に受講され、以後、これを学習することが、日本の最高の教養と
されてきた。
清少納言が 996 年に枕草子をかきあげたときは、蒙求が日本に伝来して、すでに 120 年
がすぎていて、したがって、平安時代の王朝の教養書として蒙求は充分熟読されており、
その結果、枕草子や源氏物語には、知っていて当然という形で、蒙求の内容が引用されて
いる。
その具体的内容をしめすと、枕草子では、2 箇所で、その一つは第 5 の大進生昌(だい
じんなりまさ)の段で、蒙求の于公高門
(85)を引用して、されど、門のかぎりを高う造
る人もありけるは。
蒙求での 85 の于公は、前漢の人で、于定國といい、東海郡の決曹、すなわち裁判官に
なった人で、公明正大な判決で、これを受けた者で、于公を恨むものは一人たりともなか
ったといわれ、生き神様として、祀られたという。
かれの住んでいる町の門が古くなったので、再築案がだされたが、このとき于公は、高
く大きな門にしなさいと助言した。その理由は、この町の人々がわたしの判決で、高徳と
なって、その子孫は各地で、出世して有名になり、きっと、大きな馬車で、帰省してくる
であろうから。その駟馬高蓋の車が容易に通過できるような、門にしておきなさいといっ
た。実際に宣帝の時、定國自身が丞相になり、その子の永は、副丞相となって、駟馬高蓋
の車で帰省した。
枕草子は、第一段は、四季の頃合いについてのべられており、第二段は、月々の頃合い
についてであり、第三段については、一転して、ことばについてで、言語の社会性につい
て極く短く述べられていて、法師のことば。男のことば。女のことば。下種のことばには、
かならず文字あまりたり。第四段は、その法師のことばで、思はむ子を法師になしたらむ
こそ、大切な子を坊さんにしたような親心は、と木石ならぬ。ぼくせきのように人間味の
ない仏法を伝授する坊主のことばのことを述べ、ついで、第五段では、中宮の寛仁なここ
ろ(中宮で藤原定子をさす)についてのべられている。
中宮定子は、藤原定子のことで、藤原道隆(道長の兄)の長女で、一条天皇の寵愛をうけ
中宮に抜擢されたが、道隆が 995 年に 43 歳で死亡。道長の天下となり、嫌がらせをうけ
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つつも、一条天皇の第二皇女を生んだ直後の 1001 年、長保 2 年 12 月 16 日に 24 歳で崩御
した。
清少納言は、清原元輔の末女で、966 年にうまれ、16 歳で、橘則光と結婚するが、すぐ
に離婚し、34 歳のとき、藤原棟世と再婚し、このあと、中宮定子に仕えた。年齢的には、
清少納言が 11 歳年上で、定子が中宮になってから崩御までのことをすべて知りつくして
いた。
したがって、枕草子は、四季、自然、王朝の人間社会の描写を随所に配置しながら、中
宮定子の短く、哀しく、美しい人生を描いたドキュメンタリーである。
第五段の内容は、中宮が分娩のため、御所から、備中訛りのつよい(ことば繋がりで第
五段に入っている)、反中宮派の男で、道長に通諜している三条の平生昌(なりまさ)の家
に行啓された。
長保元年 8 月 9 日のことで、清少納言が随伴して、その見窄らしい家で、門がせまいこ
とを指摘し、中国では門だけでも高く造ったという人があるというのにと皮肉ったところ、
生昌は、于公、于定國のことでしょう。そう、教養をひけらかすのはやめてくださいよと
いう。
こんな生昌にも中宮は寛仁で、御けしきも、いとめでたし、と清少納言は中宮の崩御の
後に、改めて中宮を追懐し、その性格に讃歎している。
したがって、この段では、蒙求の于公高門の話を理解していないと、何のことか、まっ
たく、理解できない。
もう一つ、蒙求で取り扱われている人物が出てくる。それは、枕草子の第 154 段で、故
殿の御服の頃で、その最後に、その期は過ぎたまひにたらむ。朱買臣(しゅばいしん)が、
妻を訓(をし)へけむ歳にはしも、と清少納言は、宣方に、三十と朱買臣と同じ歳になった
のにと戒めるのである。
さて、その、朱買臣というのは、蒙求の買妻恥醮(ばいさいちしょう)227 番で、
前漢の朱買臣は、貧乏で、薪、柴を売って生活していた。40 歳になるまで、薪をひろ
って、これを背負って、おおきな声を出し書物をよみながら、妻と共に運搬していた。
ついに、妻は激怒し、こんな貧乏な生活はこりごりだといって離縁をせまられた。買は 50
歳になるまで、我慢してほしいといったが、妻は則、離婚を要求した。
離婚してから、やがて、買は武帝に召し抱えられ、その学才が認められ、侍従にまでな
った。そして、ついに故郷の知事に任命された。この時、武帝は、富貴なった時に故郷に
かえらないのは、夜道を刺繍のあるきらびやかな服を着てあるくようなものだ。すなわち、
張り合いというものがない。ぜひ、錦をあげて故郷にかえりなさいといわれた。
そのようにしたところ、元妻は、恥醮しながら復縁を迫ったが、買は拒否した。しかし、
買は、周囲の世話になったものたちには、食事をおごり、その恩を返した。
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蒙求では、五十歳で、出仕したことになっているのを、枕草子では三十歳になっていて、
うらおぼえになってはいるが、日本では、三十歳で一人前になっていなければ、もう遅い。
中国でも、買の妻がおこるのも当然でしょう。
なお、枕草子の段数については、萩谷朴の新潮日本古典集成の枕草子上下(1977)によっ
た。
源氏物語と蒙求
源氏物語は桐壷から夢浮橋まで、54 帖からなる長編平安王朝小説であるが、12 箇所に
蒙求からの引用がみられる。
賢木(さかき)の中宮の法華八講と出家、右大臣一統の権勢の、「文王の子、武王の弟
と、うち誦し給へる御名のりさへぞ、げにめでたき。成王の何とか、
のたまはんとすらん」は、周公握髪 301 で、文の通り。
蓬生(よもぎふ)の源氏御八講、叔母は侍従と筑紫下向の「かならず分けたる跡あなる
三つの径と、たどる」は、蒋詡三逕(しょうくさんけい)145で、清廉潔
白な前漢の蒋は、王莽の暴政をみて、退官し、故里にかえり、屋敷内に
竹林の小径を三本つくり、親友たちがくるのをたのしみとして生きた。
蓬生(よもぎふ)の源氏御八講、叔母は侍従と筑紫下向の「昔物語に塔こぼちたる人も
ありけるを、おぼしあはするに、」は、顔叔秉燭(がんしょくへいしょ
く)231 で、顔叔のとなりに、女ひとり、やもめがすんでいたが、その
家屋が暴風雨で崩壊し、、顔のいえに、一晩泊めた。このとき、女に秉
燭の当番をさせて、火の守をさせて、男女の交わりのないようにした。
薄雲(うすぐも)の梅壺里帰り、春秋優劣論の「かたじけなくとも、なほ、この門ひろ
げさせ給ひて」は、于公高門 85 で、枕草子と同じ。
胡蝶(こちょう)の紫上方の舟楽と歌舞の「行く方も、帰らん里も忘れぬべう」は、
劉阮天台 344 で、劉晨と阮肇の桃源郷での仙女のはなし。
乙女(未通女)の夕霧の元服と智育論の「窓の螢をむつび、枝の雪を馴らし給へる心ざ
し」は、孫康映雪 193、車胤聚螢 194。
藤裏葉(ふじうらば)の明石姫君入内、紫上賀茂祭見物、源氏の訓戒の「かざしてもか
つたどらるる草の名は、かつらを折し人や知るらむ」は、郤詵一枝 45
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で、桂林の人で、かつらの一枝にすぎない、謙遜の人のこと。
若菜下の柏木、煩悶の家か、女三宮の「柳の葉を百度中てつべき舎人どもの、」は、
養由号猨180で、楚の王が猿に矢を射るとやすやすとその矢を掴んだ。
こんどは、弓の名人の養由に猿を射させると、射る前に、猿は逃げて、
木陰で、さかんに泣いた。
若菜下の冷泉帝の御譲位と源氏の住吉参拝の「年ふかき身の、冠を掛けむ、なにか惜
しからん」は、逢萌挂冠 245 で、逢萌は、王莽の暴政で、故郷に帰り、
光武帝の時代になっても、出仕しなかった。
柏木の柏木の重態と、女参宮との贈答の「あやしき、鳥のあとのやうにて、」は、
蒼頷制字 222 で、蒼頷(そうけつ)がはじめて、文字をつくった。この字
は鳥の足跡のような字で、文字ができてからは、怪しい、詐欺がふえた
という。
横笛の夕霧の落ち葉宮訪問と合奏の「琴の緒絶えにし後より」は、伯牙絶絃 118 で、
伯牙は、琴の名人で、聴き手上手の友の、鐘子期が死んだあとは、盲絃
をきって、伯牙は演奏しなかったという。
竹河の大君の院参の「塚の上にもかけ給べき御心の程と、思ひ給へしましかば」は、
季札挂劔(きさつけいけん)407 で、呉の季札は、徐君が生前ほしいと
いっていた自分の宝剣を彼の墓前にささげた。
華元と子反
史記の宋微子世家にのっていて、春秋時代の文公の時代で勾践夫差の以前の時代で、紀
元前 595 年文公 16 年、楚の荘王が、宋の都の商丘を包囲した。
しかし、1 年以上の長期戦となり、宋は、この完璧な包囲により、備蓄食物は完全に底
を尽いた。宋の将軍華元は城をでて、なんと、敵軍の楚の司馬の係りの子反と和睦交渉す
ることとした。
その前夜、理想主義者の華元はひとり、ひそかに、楚の将軍子反の寝床に忍び込み、ち
ょっと、ちょっと、と子反をゆりおこして、われわれ、宋の民は大変疲れている。食物も
なくなり、骨を砕いてこれを炊き、子供までも殺して食物かわりにしているありさまだ。
降参もしくは、和睦としたい、と華元はいった。
子反はいう。完璧で、長期の包囲では、ひもじさに耐えかねられず、鳴かないように馬
の口を塞ぎ、訪問者の客にはわざわざ、肥満者を接待係りとして、さしむけるといいます
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が、本当ですか。
華元はいう、本当です。君子には飢えている民のことをいうな、といわれているが、お
たくには、実情を話さないとわかってもらえないと思いここに出向いてきた訳です。
そうですか。実は、わが軍にももうあと三日分しか、兵糧はのこっていません。
次ぎの日、子反は、荘王に華元のことをつげたが、荘王は激怒した。しかし、少し考え
て、子反に、なぜこちらの実情も喋ってしまったのか、弱みをみせるな、と子反は荘王に
注意をうけた。しかし、取るに足らぬ宋国にも、偽りを言わぬ家来がいました。まして、
大国である楚になくてはならないのは、義心ですといった。荘王は納得して、兵を完全に
引いた。
蒙求外伝
管仲伯楽
鮑叔貧行
尾生信義
介推忠義
盗跖贋仁
鮑焦清廉
伯叔餓死
蘇秦六国
この四句は自作です。
管仲伯楽;管仲(管子)は、紀元前 730 年に生まれ、紀元前 645 年に亡くなった斉の人。
春秋時代の斉の宰相までのぼりつめた。襄公の時代の襄公の弟の糾に仕えていたが、その
弟の小白には友人の鮑叔が仕えていた。斉の王に小白が就くつもりで、斉に入国しようと
していたが、管仲は小白を矢で攻め、彼にあたるが、帯びの留め金にあったため、たすか
り、小白は死んだ振りをして、管仲の帰国するのをたしかめ、先回りして桓公となった。
桓公は管仲を斬首しようとするが、この時、鮑叔は天下をとるつもりなら管仲を殺して
はダメだと進言し管仲を助け、その後、桓公は管仲を宰相とした。この時、斉の民の心の
悪をみて、「倉廩実(そうりんみ)つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」、
といった(管子;牧民第一)。
また、桓公が曹沫を殺そうとしたとき、これを諫めて、
「与ふるの、取る為(た)るを知るは、政の宝なり」、と言った(管子;牧民第一)。人に与
えることが人から取ることだと知るのが、政治の秘訣なのだ。
鮑叔貧行;管仲が功を成し得たのは、
「かつて鮑叔と商売をして分け前を多く取ったが、鮑叔は欲張りとはいわなかった。私の
貧乏をよく知っていたからだ。
かつて、鮑叔のためにやったことが失敗したが、彼は私を愚か者とは言わなかった。時
に利と不利があることを知っていたからだ。
三度仕官して、三度クビになったとき、彼は私を世間知らずとは言わなかった。私が時
勢に合わないことを知っていたからだ。
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わたしが三度戦って、三度逃げたが、彼は私を卑怯者とは言わなかった。私に年老いた
母がいることをしっていたからだ。
公子糾が敗れ、私は縄目の恥を受けて生き長らえたが、彼は私を恥知らずとは言わなか
った。わたしが小さな恥を忍んで、天下に大きな功績を打ち立てないことを恥とすること
を知っていてくれたからだ。
私を生んでくれたのは父母だが、私を真に理解してくれたのは鮑叔だ。」
これを世に言う管鮑の交わりという。
のちの、杜甫が「貧交行」で、貧乏人のつきあいで、
「君見ずや管鮑の貧時の交わりを、
此の道、今人、棄つること土の如し」、と管鮑を引き合いに出して、貧乏人を見捨てる人
々を非難している。
尾生信義;尾生(びせい、前 400 年頃)は正直者。女と橋のたもとであう約束をしていた
が、女が来ない。そのうち水嵩が増して、艀にしがみついていたが溺れ死んだ。これを蘇
秦は信義といった。
芥川龍之介が「尾生の信」という小説にしている。
介推忠義;介子推は斉の紀元前 400 年のひとで、文公(重耳)が飢えている亡命時代に
は、、自分の股の肉を食べさせ忠義をつくしたのに、後に、文公は介子推を見捨てた。こ
のために木に抱きついて焼け死んだ。
盗跖贋仁;盗跖は紀元前 400 年頃の大泥棒で、手下を九千人もかかえていたという。兄
は、あの孔子の弟子の柳子季である。
ある日、一人の手下が親分に聞いた。盗人稼業に道(聖勇義仁智)はあるのか。あたぼう
よ。獲物の当たりをつけるのが聖、先に押し入るのが勇、シンガリを勤めるのが義、公平
に山分けするのが仁、潮時をかんがえるのが智よ(准南子道応訓第十二)。
こういうのを盗っ人猛々しいといい、正道ではないのである。もとより、盗人稼業に道
はなし。
にもかかわらず、孔子と盗跖の問答の内容が『荘子』の雑篇七で第二十九にでている。
内容は完敗者孔子として描かれている。
維摩経に似せて作成されたものと考えられ、禅問答の手本ともいえる。しかし、この雑
篇は、荘子の言葉そのものではなく、編者が後に加えたものと考えられている。
鬼平犯科帳の池波正太郎は、「血頭の丹兵衛」の最終場面で、箱根薩垂峠の茶屋で、島
田正吾紛する盗賊の大親分の蓑火の喜之助が粂八に説教するところでのべさせている。
務め(盗賊)での道は、一、貧乏人からは盗まず、二、女を犯さず、三、殺さず、で、急
ぎ働きをおこなうのは、盗人とは言わない。これは殺人犯であることを明かしている。
鮑焦清廉;周の隠密剣士、紀元前 400 年頃の人。鮑焦は、政治、君子批判を繰り返して
いた。子貢(魯の外交官、520-前 446;孔子の弟子、孔子より 31 歳若い)が、鮑焦を詰(な
じ)る。政治を誹(そし)るものは、その国には住まないし、君子を毛皮らしいと思う者は、
その君からは利をえないものだ。鮑焦は、この国にとどまっているし、君から利を得てい
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る。それでよいのか。
鮑焦は、清廉の士で、,進むことを重んじ、退くことを軽んずる。賢人は恥をさけ、死
を軽んずる。といって、濁世を怨み、木を抱いて死んだ。
これは、子貢の方が間違っている。人の歴史は動いている。国、政治、君主も動いてい
る。その時々で、国を憂う人もあれば、肯定する人もでてくるのが、正常の世だ。肯定す
るものだけの、批判分子のいない完璧な共産主義ほど、人の世として相応しくない社会で
ある。
子貢自身が、魯、斉から莫大な資金を得ていたと言われている。
伯叔餓死;紀元前 600 年頃、伯夷、叔斉は殷末期の兄弟で、父は孤竹国の君主であった。
世継ぎを、二人とも拒否し、二人で周の文王のところに身を寄せたが、文王は既に亡く、
武王に身を寄せていた。
その武王が、殷の淫女、姐己(だっき)を溺愛していた紂王(きょうおう)を攻めようとし
たとき、殷は王が変わったばかりで、今、紂王を討てば、臣下、人民は困窮する、いかに、
酷い王であっても今はこれを討つべきではないと武王に進言し、自らは、首陽山に隠遁
した。この賢者の代表的な兄弟は、首陽山で粟も食べず餓死した(荘子)。
蘇秦六国;蘇秦(?-前 317)は洛陽の人であったが、当時、強国化していた秦(恵王)に、
他の六国はその脅威に晒されていた。蘇秦は、斉、燕(文王)、趙、韓(宣恵王)、魏、楚の
六国が連盟し、秦と戦えば勝てると考え、六国を渡り歩き、秦対策を説得して回ったが、
いずれも失敗し、連衡できなかった。
鶏口となるも、牛後となるなかれ;蘇秦が韓の宣恵王に説いた、おおきな牛(秦)のもと
に付くよりもちいさなものの鶏の口になったほうがましだ。
隠逸詩人の陶淵明
私は、2010 年で、61 歳。以前から気になっている本があった。NHK ブックスの岡村繁
氏の『陶淵明』である。昭和 55 年、当時 30 歳に買い込んで、一寸、目を通しただけで、
完読できていなかった本だ。これをよみかえしたが、今回は、半日で読破した。
還暦を過ぎると、途端に、陶淵明の生き方に共感を覚え、とくに帰去来兮が妙にこころ
を打ち、恰好いいとおもうようになっている自分に気付く。そして、毎日、言い聞かせて
いることであるが、何故、東京にでてきたのか、そろそろ、ふるさとの甲子園、鳴尾にか
えろうよ、恨晨光之熹微 あしたのひかげのかすかなるを恨む、である。
仕事のため、生きていくために、故郷をすてて、すでに 40 年が過ぎている。
魯迅がのべていることであるが、陶淵明もふくめて、人間は政治を超越して、完全な田
園詩人、山林詩人にはなれない。霞みを食っては生きてはいけない。このことは理解して
いる。しかし、陶淵明の世界に惹かれる。
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現実から逃避行するように、陶淵明の帰去来兮を机の間におき、動くときも、坐るとき
も常に諷味する。これは、陶淵明ファンの簡文帝蕭綱(梁の昭明太子蕭統の弟)の日常であ
った。
そして、これらは人生に未練を感じる還暦を迎えてからでないと理解できない。青春真
っ直中の青い時代の中学生、高校生には隠逸詩人陶淵明(いんいつ)の詩を正しく理解し、
世を悟る事は無理だ。
荘子の悠々たる自然を逍遙する観を実際の生活詩としたのが陶淵明の詩であり、その陶
淵明の代表作に、五柳先生の伝、桃花源の記、帰去来の辞、菊を采る東籬の下、など有名
な詩が多いが、ここでは、帰去来の辞の全詩を紹介しておく。
帰去来の辞を北宋の大詩人欧陽修に、歴史的名作と評し、「晋の時代には文章なし。た
だ陶淵明の帰去来の辞一篇あるのみ」、とまでいわしめた感懐の傑作詩である。全 340 字
の大作だ。
この詩には序があり、また、文選に、蕭統の綴った陶淵明の頌徳としての「陶徴士の誄」
があって、この詩の背景と淵明の小伝が書かれているが、ここでは省く。
帰去来兮
帰りなんいざ
田園将蕪胡不帰
田園将に蕪(あ)れんとす なんぞ帰らざる
既自以心為形役
既に自ら心をもって形(からだ)のしもべとなせば
奚惆悵而独悲
なんぞ、うらみ、なげきて独り悲しまん
悟己往之不諫
己往(むかし)、あらたむべからざるを悟り
知来者之可追
みらいを追うべきを知る
実迷途其未遠
まことみちに迷うことそれ未だ遠からず
覚今是而昨非
今はただしく、昨は非なるをさとる。
舟遙遙以軽颺
舟はゆらゆらとして軽くうきあがり
風飄飄而吹衣
風ははたはたとして衣を吹く
問征夫以前路
征夫(たびびと)に問うに前路を以てし
恨晨光之熹微
あしたのひかげのかすかなるを恨む
参考文献
1) 早川光三郎、『蒙求上下』、昭和 48 年、明治書院、1973
2) 星川清孝、『古文真宝』、昭和 42 年、明治書院、1967
3) 遠藤哲夫、『管子』、平成元年、明治書院、1989
4) 岡村繁、 『陶淵明;世俗と超俗』、昭和 49 年、NHK ブックス、1974
5) 萩谷朴、 『枕草子上下』、昭和 52 年、新潮社、新潮日本古典集成、1977
6) 山岸徳平、『源氏物語』、昭和 40 年、岩波文庫、1965
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