第 32 回 日本アメリカ文学会 中部支部大会

第 32 回 日本アメリカ文学会
中部支部大会
日時:2015 年 4 月 26 日(日)
会場:名城大学名駅サテライト「MSAT」
研究発表要旨
司会 朴 珣英(金城学院大学)
1. “Krik?” に応答すること――Edwidge Danticat の Krik? Krak! に関する一考察――
杉浦 清文(中京大学)
Edwidge Danticat (1969-)は、ハイチの首都ポルトープランスに生まれた。しかし、彼女は 12 歳の時
にニューヨークへと移住することになる。本発表では、Danticat の初期の作品 Krik? Krak! (1995)に着目
したい。そこには、大文字の歴史の語りからは隠蔽されてきた、ハイチに纏わるサバルタンの様々な「声」
(そのほとんどが悲鳴である)が刻まれている。
本作品のタイトルである「クリック?クラック!」は、ハイチにおいて、童話や昔話が始まる前に話し手
と聞き手の間で交わされる言葉である。話し手が「クリック?」と問いかけると、聞き手は「クラック!」
と返答する。そこでは、聞き手の「応答」がなければ物語は始まらない。本発表では、Krik? Krak! のなか
のサバルタン性の痕跡を辿りながら、その作品から聞こえる「クリック?」という言葉に対する、私たちの
「責任=応答可能性」について考えたい。それはまた、私たちが本作品の物語を「共有」する際に直面する
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「アポリア」について、粘り強く思考することにも繋がるだろう。
司会 長澤唯史(椙山女学園大学)
2. 「階級」と文化の変容――ソール・ベローの The Actual――
鈴木元子(静岡文化芸術大学)
Stephen Schryer は,Saul Bellow の作品中の“a series of class concerns”がこれまで批評家に注目され
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てこなかったと指摘しているが、今発表でこの死角ともいえるテーマを取り上げる。ユダヤ系移民第 2 世代
であるベローの作中人物の social mobility と階級及び階級意識の視座から作品の読み直しを図る。アメリ
カ・ユダヤ人たちは移民 1 世の(肉体)労働者から中産階級や知識エリートに、また商売人から実業家や大富
豪へとアメリカの社会階層を一気に上昇するという、民族 5000 年余の歴史にあって稀有な 100 年を経験し
た。それが、ベロー文学の背景的基調にあるわけだが、主人公はいつも変わり者である。1944 年の第 1 作
から 2000 年の第 14 作までのうち、
今回おもにプレゼンするのは最後から 2 番目、
1997 年出版の The Actual
である。この作品では、ユダヤ系主人公の挑戦が見られ、具体的にはノベラに中国や日本というアジア的要
素が加味され、多文化への寛大さが披瀝されている。だが、終極、ユダヤ人がアメリカに同化するとはどう
いうことなのか、今年生誕 100 周年を迎える作家自身の見解に肉薄してみたい。
シンポジウム要旨
カナダ文学の「今」
司会・講師
室 淳子
講師 佐藤 アヤ子 講師 戸田 由紀子
(名古屋外国語大学)
(明治学院大学)
(椙山女学園大学)
アメリカと国境を境にし、文化的・社会的に近い関係にありながらも、カナダ文学の状況は残念ながらそれ
ほど広く知られているとは言えない。カナダ文学と聞いても、作家の名前を幾人か挙げるにとどまり、詳しく
はわからないという声も耳にする。カナダに暮らすカナダ人の多くにとってもそれは大きく変わらないところ
もある。カナダ文学がイギリス文学やアメリカ文学の一部としてではなく、カナダ文学として論じられはじめ
るのは、1960 年代から 1970 年代のナショナリズムの動きに伴ってのことだ。イギリスやアメリカとは異なる
カナダの独自性を掲げ、経済的に絶対的な力をもつアメリカ文化の影響から身を守ろうとするカナダの位置づ
けは広く指摘されてきた。連邦および各州における文化の奨励は、カナダ文学の発展に少なからず影響を与え
てきたといえるだろう。建国の時より英系と仏系とを抱えるカナダは、1971 年、国際社会に先駆けて多文化
主義を正式に政策として掲げる。だが、グローバル化や多様化がさらに進むにつれ、カナダ文化の独自性に対
する疑義や多文化主義政策に対する批判が徐々に高まってきたのも本当だ。このシンポジウムでは、カナダ文
学の特に新しいところに目を向け、カナダないし広く私たちの共有する現代社会がいかに捉えられているのか、
三者三様の角度から考察してみたい。
(室 淳子)
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マーガレット・アトウッドが〈MaddAddam の物語〉で語ること
佐藤 アヤ子
マーガレット・アトウッド (Margaret Atwood 1939-) は、カナダ文学批評のカノンとも言える『サバイバル:
現代カナダ文学入門』(Survival: A Thematic Guide to Canadian Literature 1972)で、カナダ文学には脈々と
続く独自のアイデンティティというべきテーマがあることを確認してみせた。それは、
「生き残ること」
。
しかし、モザイク化が進む現代のカナダ社会や文学界に、“Canadian identity”(カナダらしさ)を見つ
けることは困難になっている。ポスト・コロニアルの作家たち、批評家たちの声を借りれば、〈カナダらし
さがない〉のが〈カナダらしさ〉であると論じ、アトウッドの「サバイバル論」を否定する。しかし意図的
なのか否かはわからないが、この「生き残り」のテーマが健在であることを、アトウッドは最近作
〈MaddAddam の物語〉三部作で明確に示している。それは、Oryx and Crake (2003)、The Year of Flood
(2009)、MaddAddam (2013)の三部作である。
本三部作でアトウッドは、この地球が破滅に向かうディストピアの世界を描いている。環境破壊、異常気
象、種の絶滅、遺伝子操作等による新しい動植物や新ウイルスの創造など、今この時代につきまとう不安を
作中の未来に投影せずにはいられない作家の憂いが伝わってくる。しかし同時に、未来について語る優れた
虚構作品を読むことで、私たちの生きる「今」がどのような時代なのかも見えてくる。
「マッドアダムの物
語」は、サイエンス・フィクションではなく、現実に起こりうることを包含している〈思弁小説〉(speculative
fiction)でもある、とアトウッドはいう。本発表では、カナダ文学に脈々と続く独自のアイデンティティア
を踏まえながら、アトウッドが作品に込めた意図を考察してみたい。
カナダの多文化主義論争とマイノリティ文学の動向
戸田 由紀子
マイノリティ文学作品を読む読者は、単なるフィクションではなく、自伝的要素の強いものを期待して読
んでしまう。しかし現代カナダマイノリティ文学作品はその期待に反し、作者の出自とは異なる文化的視点
から、また、作者の生まれ育った土地とは関係のない場所を舞台に物語が繰り広げることが多い。
「文化の
盗用」に極めて敏感なアメリカ文学の研究者にとって、自身の出自とは異なる世界を描き出すこれらの作品
に、ある種の違和感を覚えてしまうが、このような動向の背景には、カナダの多文化主義政策に対するマイ
ノリティ側の批判と、それを反映するカナダ文学の動向とが関係しているのではないだろうか。今回の発表
では、カナダの多文化主義政策およびその政策にまつわる論争を Neil Bissoondath の Selling Illusions:
Cult of Multiculturalism in Canada (2002)を中心に外観した上で、Simple Recipes (2001)で鮮烈なデビュ
ーを果たした中国系カナダ人作家 Madeleine Thien の Dogs at the Perimeter (2011)を中心に取り上げ、21
世紀転換期以降のカナダマイノリティ文学の動向のひとつを探りたい。
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カナダ先住民の現代文学――Drew Hayden Taylor と演劇――
室 淳子
カナダにおける先住民の現代文学は、アメリカと時期を重ねるように 1960 年代後半以降に発展してきた
が、Tomson Highway の The Rez Sisters (1986)を皮切りに、ことに演劇の分野において大きく成長し、国
際的な注目を集めてきた。先住民演劇の第二世代のひとりと評される Drew Hayden Taylor は、Someday
(1991)、Only Drunks and Children Tell the Truth (1996)、400 Kilometers (1996)の三部作をはじめとす
る数多くの演劇を手がけると同時に、カナダ社会における先住民をめぐっての問題を取り上げ、巧妙なユー
モアを用いて真正性の裏をかく Funny, You Don’t Look Like One (1998)シリーズのエッセイでもよく知ら
れている。この発表では、カナダにおける先住民文学の流れと位置づけを概観すると同時に、先住民の過去
と現在を描く Taylor の試みを最新作の God and the Indian (2013)を中心に考察していきたい。
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