佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) 軍用地料の「分収金制度」(7) ――「町内会・部落会」と沖縄の区長制―― 瀧 青 本 木 佳 康 史 容 〔抄 録〕 明治期から昭和期の市制町村制そして戦後の地方自治法への地方制度に関する制度 的展開を「区」という地域の領域的な拡がりを焦点に据えて,そこにどのような地域 自治が展開されてきたのかを考えるのが本稿の目的である。すなわち基礎自治体であ る市町村をその基盤において支える町内会,部落会,自治会などの地域住民による自 治組織(「区」)に関する戦前と戦後の歴史的背景を辿りつつそれがどのように存続し 続けてきたのか,これを明治期の地方制度の制度化とその変遷過程と共に独特な地域 住民組織をもつ沖縄の区長制とに焦点を当ててみようとするものである。 戦後日本ではその軍国主義を涵養したのが町内会・部落会であってこれは即刻廃止 すべきだとする連合国総司令部の命令の下に消滅。 (するに見えたがそうはならなかっ た。)これとは異なって,米軍占領下の沖縄にあってはこうした地域組織がむしろそ の占領統治のために利用されたのである。日本における間接統治とは違って沖縄では 直接統治が行われたが,それには独特な地域社会を構成する「シマ」の集団結合(こ れを沖縄的 ethnocentrism と名付けよう)が役立ったということにある。こうした事 情を戦前日本の地方制度と戦後沖縄の市町村制度の形成史の中に探ってみる。 キーワード:市町村制,行政区,町内会,部落会,地域自治 はじめに 近代国家における地方制度とは,一般には国と地方団体との間の関係態様を定めた制度であ るとすれば,狭義には一定の区域の生活共同を通じた公共性の実現に向け区域住民,公共政策 の策定のための議決機関,公租公課の徴収もって行政活動を行う組織を指揮する執行機関,そ うした 3 者関係に関する地位,権限,権利義務,選挙などについての規則を定めた地域自治の 制度であると,ここでは差し当たり定義しよう。この狭義の定義が注目するのは「区域」とい ― 57 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) う地域単位である。これは本来的に自生的,歴史的な背景を持つ生活共同体 community であ るが,行政政策的には市町村として言及されてきた。これが明治期日本においてどのように変 遷を遂げてきたのか,これを見ることから始めよう 。 (1) もとより日本の地方制度は制度発足の当初からそうした地域自治を目指したものではなかっ た。府県と市町村は独立の法人としてその区域において自治を行うが,同時にまた国家行政の 一部をそうした地域において担う地方行政の単位でもあったのである。特に府県という単位は 国が定めた行政区画であり府県知事は国家官僚として行政を担う機関であった。本来,自治制 度と称するなら地域が自らを統治する仕組みを自ら創出するという歴史的背景のあるべきもの であろうが,明治期日本においては上から与えられた自治制度で,これは「官治のもとの自治」 (2) あるいはしばしば「官治」による“自治”と揶揄されるところだ。ここで「自治」とは地方団 体における共同の事務を行うことだけではなく,国が地方に委任した事務の処理に「人民[公民] が[義務的に]参与し,その経費を負担することが自治」 というものであった。区域において (3) 義務的に参与しかつその経費を負担できる人々とは自発的な地域貢献者であるから,そうした 人々は一定の財産と教養のある地域の名望ある者であり,それがため「名誉のため無給の名誉 職」として国の法律に基づき公務に従事すること,これが自治ということだと考えられた。後 述するように区域における公民によって選挙で選出された町村長,市町村会議員,区長はみな 無給でこれを担任するは義務であり,拒否することはできないと市制町村制(第 8 条)に定め られた 。 (4) 1.明治期の地方制度:市制町村制 1888(明治 21)年,数個の村落を合して新町村を創出するという市制町村制の公布,その 2 年後の府県制の公布(明治 23)によってその後の近代日本における地方統治の基礎が確立され, 明治政府による“官治的地方自治”が始まった。これは「[地域がその]狭隘な財源の制約の下 で行政事務を遂行し,その経費の負担に耐えうる標準的な規模の町村」 を作り出す必要があ (5) ると明治政府が判断したからであったが,結果として旧来の伝統的な“自治”は消滅すること となった。ある史料編者は「地方自治などいうことは,珍しい名目のようだけれど,徳川の地 方政策は実に自治の実をあげたものだよ」と述懐する旧幕臣勝海舟の引用(「氷川清話」)から 論じ始めるが ,その「徳川の地方政策」とは藩政の下での封建社会の基礎単位であった“自 (6) (「まち」や「むら」)における“自治”を指していた。この封建期からの旧来の区域( “自 然集落” 然集落”)が有する政治的,経済的,社会的意義は無視できず,その後の地方制度の形成に影 響を与えた。こうした区域には,自由民権運動において大きな影響を持った大地主,旧士族, 知識層など近代日本を支えてきた多くの地方エリートたちとは異なって,政党政派とは関係の ない地域有力者層(在村中小地主など)の存在があった。これは明治政府によって地方行政を ― 58 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) 担わせる等閑視できない社会層であったのである。何故ならかれらはこの旧来の区域に経済的, 政治的な基盤を持つがため,明治期の中央エリートは地方制度の編成においてその態様に配慮 しないわけにはいかなかったのである。 明治政府は教育,徴税,戸籍などに関する事務処理の近代化に向けてその発足当初からこう した自然村を整理して行政単位を定める地方制度の確立を目指した。1871(明治 4)年戸籍法 を定め,人為的な地域割(「大区」「小区」)を設けたが,これを早くも 1876 年郡区町村編制法 において地方を画して郡区町村を置くが区域の名称は「すべて旧に依る」(第 2 条)と修正した。 それは在村地主などの地域エリートへの考慮からであった。さらに明治政府はその地方行政の 促進の上からこの旧に基づく町村の整理を図り町村合併を行った。1886(明治 19)年におい て旧来の町村数は全国 7 万 1,573,そのうち町村名だけあって住民のまったくいない町村[無 人の町村とはどのようなものなのだろう?] が 801,戸数 100 戸以下の町村が 4 万 8,420 という状 況であった 。それは全町村数の 7 割にも達する割合で,こうした規模の小さい集落レベルの (7) 町村の整理統合を目指したのが先に述べた 1888(明治 21)年の市制町村制の公布であった。そ の施行によって 1889 年末には当初の 5 分の 1 に相当する 1 万 8,520 にまとめられた新市町村 が誕生した 。こうした事情から例外も多いが,江戸期の藩政以来の町村の区域を概して「大字」 (8) (行政区に相当),また集落レベルの旧来の町村を「小字」と呼ぶことがある。 町村制におけるこの新しい各町村は旧町村単位の複合体ということになるが, 「大字」は「市 町村内別に特定したる一の自治体たるにあらず」と内務大臣による「市制町村制理由」 にあ (9) るように,単に行政区であって地方団体(つまり法人)とは見做されなかった。しかし「およ そ町村は従来の区域を存してこれを変更せず」(第 3 条)とあるように,旧来の町村区域を尊重 したのである。因みに,町村制(第 68 条)においても行政区を設けることができたが,市町村 の下でその事務の都合上設けられたもので設置を義務付けられたわけではなかった。したがっ て行政区の存在しない町村もあることになる。 自治を担う地域単位として市町村に設置される「区」に関する条文はその分区や区長設置を 定めた 1888 年の改革,1911 年の改革そのいずれにおいても見ることが出来るが,それは旧来 の町村の存在がいかに重要であるかを示すものである。その理由はこうだ。1888 年の大規模 な合併再編は「古来の慣習」を維持する旧来の町村(「まち」や「むら」)を自律的な統治単位と しては消滅させたが,この合併によって人為的に作られた新町村は,その行政運営に関して実 際には行政単位としては消滅した旧来の町村に依存し,経費負担や労働力など「行政運営を補 充する役割」 を担わせたのである。いや担わせざるを得ないほどに旧町村による行政への媒 (10) 介を必要としこれを「利用」したのである 。それは新町村に旧来の町村区域をそのまま「行 (11) 政区」として設け,そこに「区長」を置き町村長の事務処理を手伝わせることであった。後述 する表 1. からも分かるように,市制と町村制のいずれにおいても「区」 を設置し,名誉職区 (12) 長を置いて市町村長の補佐役を担わせ,そのことによって地域勢力である有力者を行政に加担 ― 59 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) させ取り込んでいったのである。 こうして明治政府としては拡大された新しい各町村内に旧町村が部分として全体を構成する ことで町村の統合が図られる筈であった。それに向けて明治政府は神社を新規発足した 1 町村 に 1 社を置き,部落有林野を新規町村有林野へ統合しようとするが部落有林野はやはり部落有 であるほかなかった。他町村と合併することで既得権を失うことを恐れたからである。(これ が財産区制度の発端となる。)こうして各部分は全体に解消されることなく確固たる固有性を 持った地域単位としてその後も存続する。「したがって,明治地方制度の末端は町村[新町村] と部落[旧町村],社会学でいう行政村と自然村の二重構造を形成していたのである。」 (13) 「行政村」は政策的に形成されたものであるが,「自然村」は自生的,自発的,任意的な存在 としての地縁集団である。こうした集団はもともと隣保相互扶助という必要性から古来自から 発達してきたものであったが,部落という地域の隣保団体は法規定のない存在で,「明治政府 によって長らく見捨てられたままであった」 。後述するようにやがて昭和期に入りこの旧来 (14) の町村が部落会,町内会など法的に位置づけられた単位として復活していくのである 。 (15) ところで産業化が進むと共に大都市が発達し,行政機能が増大してくるにつれ従来の市制町 村制を改正する必要が出てきた。そこで 1911(明治 44)年の改正において市制と町村制とを 別個独立の法制として分離させこの制度が戦後の地方自治法制定まで存続するのである。 2.戦前期昭和の地方制度:行政区区長から町内会部落会会長へ 町村制においては町村長の権限強化や委任事務の増大の問題を採り入れた法制の必要性の事 情が生じてきた。1930 年(昭和 5)ごろから町内や部落という隣保団体が持つ相互扶助性とい う集団機能が改めて注目された。それは農村不況において政府による「経済更生運動」 に果 (16) たしたこうした自治組織の役割の大きさへの認識であり,またそうであるが故に 1935 年(昭 和 10)に地域の政界刷新浄化のための「選挙粛正運動」に活用されたのであった 。 (17) こうしたことから 1938 年(昭和 13),内務大臣の諮問機関である地方制度調査会は「農村 自治制度改正要綱」を発表し,町村とこれまで見捨ててきた「町村内の各種団体等」との関係 を見直し,「綜合団体としての町村の機能」の創出を図ろうと, ① 各種団体長を町村議会の構成中に取り入れること, ② 町村の下に部落を「区」として補助機関化し,町村議会の議員選挙には区を基礎として 選挙区を設けること, ③ 町村条例によって区総会等の選挙は町村長の命に依るようにするなど区長を町村長の指 揮下に置き,町村が農会,産業組合,町内部落会などに積極的に関わっていくよう提言 した 。 (18) このように旧来の地域の自治組織を行政活動にフォーマルに利用しようと,市町村の区域を ― 60 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) 分け村落には部落会,市街地には町内会を組織するよう行政指導する。やがて来たる戦時体制 に備え,1940 年(昭和 15)内務省は地域社会の伝統的な最小の集団単位であった町内や集落を 「町内会」「部落会」として包摂,全戸をもってする常会の設置を義務付けた 。内務省訓令 (19) 17 号(「部落会町内会等整備要領」,以後「整備要領」として記述)のもとに地方行政事務の一部が 委任され次第にその機能も増大するようになったが,それは事務委任の担当者のボス化を招く という負の側面も生じた。町内会部落会の役員とその運営に関して住民との間の紛議(会費の 増徴,会計事務の不透明性,寄付金募集,役員選任法,配給物資の制裁的停止など)という問 題もあった。 表 1. は本土と沖縄との市町村制に関する変遷を「長」の規定の上から示したものである。 とりわけ注目したいのは地方団体に設置された行政区に関する規定である。いずれの法制にお いても必要に応じて「処務便宜のため区を画し」区長を置くことが出来るとあり,市町村長事 務処理のための補助機関として定めている。このようにして画された区は前述したように「行 政区」と呼ばれるものであるが,設置義務はない。市町村はそれぞれの事情に応じて設置する 表 1.「長」の地位と選出に関する規定の変遷 市制町村制 (1888 年) 市 制 町村制 市制改正 (1911 年) 町村制改正 (1911 年) 沖縄県区制 (1896 年) 市 制 町村制 区 制 沖縄県及島嶼 町村制 町村制(1907 年) 市会推薦の候補者を内務大臣が裁可 (第 50 条) 市 長 有給吏員(第 50 条) 区 長 名誉職(第 60 条) 公民による公選(第 60 条) 指定市の区 東京・京都・大阪の各市は市長を置か ず府知事が行い,従来の区に有給吏員 の区長を置く(第 60 条)[自治区] この指定市制はあまりに集権度が強い ため大都市側からの批判によって 1898 年この特例は撤廃された。(注 2) 町 村 長 名誉職(第 55 条) 公民による公選(第 53 条) 区 名誉職(第 64 条) 公民による公選(第 64 条) 長 一 般 市 法人としての市(第 2 条) 一般市長 有給吏員(第 73 条) 一般市区長 名誉職(第 82 条) 指 定 市 区は法人としての区(第 6 条) [自治区] 指定市区長 有給吏員(第 80 条,第 82 条) 一般町村 法人としての町村(第 2 条) 町 村 長 名誉職(第 61 条,但し条例により有 給可) 公民による公選 区 名誉職(第 68 条) 公民による公選 長 首里・那覇 法人としての区(第 2 条) 区 有給吏員(第 8 条)[自治区] 長 市会推薦の候補者を内務大臣が裁可 (第 73 条) 公民による公選(第 82 条) 県知事による任免 部長(注 1) 分区に名誉職の部長が置ける(第 10 条) 区長による任免 一般町村 法人としての町村(第 2 条) 町 村 長 有給吏員(第 8 条) 島司,郡長の具申により府県知事が任免 区 名誉職(第 9 条) 被選挙権を有する者の中から島司,郡 長による任免(第 9 条) 長 (注 1)□で囲んだ箇所は行政区区長(「部長」はそれに準じる) (注 2)天川晃,1984,前掲書,p.208 ― 61 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) のである。行政区設置の無い地域には,先に挙げた地方制度調査会の諮問に部落を基礎とし区 を分けることができるとしていたように ,部落会,町内会が置かれた。 (20) こうして従来の市制,町村制にはその規定はなかったが,内務大臣の訓令という行政命令に よって町内会・部落会をして市町村行政を補完する末端機関としたのである。すなわち,訓令 によって戦時下の 1943 年 3 月「国策の浸透徹底と国民生活の確保安定 」の観点から,市町 (21) 村長が町内会・部落会の財産と経理の管理について指導監督し,区域変更に関する指導留意, 自らの事務の一部の移転が出来るようにした。これは市町村行政を単なる役場事務に留まらせ ず,町内会部落会をして国の地方行政に〈融合〉せしめ,戦時体制に即応しようとする自治制 度の再編であった 。 (22) この「地方制度ノ改正」によって町内会・部落会は初めて法的な根拠を得た組織に名実とも になったのである。これは更には戦争遂行するために行政の末端機関として大政翼賛運動を国 民各層に徹底的に推し進める役割を果たしていく。1940 年(昭和 15)の内務省「整備要領」に 見られる町内会部落会の第 1 の目的が,「隣保団結の精神に基き市町村内住民を組織結合し万 民翼賛の本旨に則り地方協同の任務を遂行せしむること」とあり,その趣旨の徹底を図るため か町内会部落会の内部組織として 10 戸程度の戸数による「隣保班」を設置し常会を開催せよ としている。これは江戸期の五人組十人組の復活とでもいうべきものであった。(この「隣保班」 は戦後の地域社会においては「班」組織として活用されるようになると言うべきであろうか。) 3.占領期の地方制度:町内会部落会の廃止問題 戦後,連合国総司令部(GHQ)に設置された民政局 には,隣保の相互協力や相互監視を (23) 通じた個人の「精神的均質化」を図るような施策は異様に映ったようだ。内務省を頂点とした 町内会・部落会はその起源が中国にあり,日本の支配者はこれを 7 世紀に導入したもので,「日 本国民の個人的生活,活動,さらに思想までも一握りほどの中央政府の官僚によって有効かつ 完全に支配され――下部から中央政府にいたる情報網」を布いた「スパイ組織」 であり,「日 (24) 本社会の基底にまで達する効果的な統制機構」 として認識された。 (25) したがって,連合国総司令部の指導の下に地方制度の改革は日本社会民主化という占領政策 の重要な目標の一つとなった。地方制度の民主化は地方団体の首長公選制,婦人参政権,市町 村の権限拡大を柱とする改革であるとしたが,当初,地方制度に関しては深い調査・分析がな されていなかったという 。(アメリカ政府は 1941 年開戦からの 1 年も経たずに早くも対日占 (26) 領政策を策定し始めていたのであるが,「スパイ組織」として見做すほどの調査研究がなされ ていたということであろう。)戦争遂行に果たした役割に関する町内会・部落会情報は必ずし もなかったようで,GHQ は日本降伏後すぐの 45 年 10 月直ちに設けた民政局において日本の 地方行政機構について内務省に問い質した 。町内会・部落会に対する嫌悪感は「市町村が自 (27) ― 62 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) 治の伝統的基本単位であるアメリカ人にとっては,隣保組織は理解の外であった 」のである。 (28) 一連の地方制度改革の中で隣組・町内会・部落会の禁止措置として知られる「ポツダム政令第 15 号」は 1947 年 5 月(昭和 22)であった。しかし日本政府は GHQ による最終的な措置を俟 つまでもなく 1 月 22 日付で「内務省訓令第 4 号」によって昭和 15 年に自ら発した通牒(内務 省訓令 17 号「整備要領」)を廃止した。 因みに,GHQ 命令に従って地域社会の基本単位は制度として廃止されたが現実には解体し なかったのである。やがて復活再編されていく。もちろん戦前の地域末端組織が戦後において そのままの姿で生き残ったということではなにしても,この存在が戦後日本社会の民主化を目 指す社会科学者たちの難問となった。「戦後民主化過程の最大の障碍と化していた『旧意識』 の基底をいかに剔出するかという課題意識 」として,さらには日本社会の近代化論の主題の (29) ひとつともなっていくが,それは町内会・部落会が戦後民主主義が期待した「自立した市民」 の誕生を否定するものとして認識されたからである。しかしながら地域組織は戦後社会の都市 化,大衆社会化の中で生き残ることによってやがて異なった評価,時には肯定的な評価を受け るようになる。これがその後の町内会研究史をつくってきたことを地域社会学が教えてくれ る 。 (30) 4.昭和 21 年の幻の地方制度改正案:町内会部落会の意義 さて,戦後初期における町内会部落会の運命その廃止に至る過程は,地域をその存在意義の 基盤とするこうした集団を考える際に触れておかなければならない。日本政府と GHQ との間 における度重なる折衝の下で戦後最初の地方制度改革が進められたが,当初内務省は町内会部 落会の解体を些かも想定しておらず,GHQ による解体指示を恐れて,そうした集団を活用す ることが如何に地方統治に有効に働くかを示そうとする。すなわち GHQ の厳しい態度を前に, 政府によって設置を半ば強制された町内会・部落会を住民による任意設置としかつ会長職を公 選制に転換するという“懐柔策”を立案するが,軟化には至らなかった 。 (31) それでは戦時下から戦後において当時の町内会部落会はどのような機能を果たしていると内 務省は主張したのだろうか。町内会部落会が処理する事務範囲は拡大し,町内会部落会は「全 国の市町村にわたって整備されたただ一つの普遍的団体」であるとするまでになり,政府の委 任事務までをも含むものとなった。本来は地域の自治的な任意の団体である町内会部落会は, 都市においては「おもに生活必需品の配給のため」に不可欠の機関となり,農村においては「食 料の増産,供出,肥料の配給」などの事務を担うというように,「生活または生産の共同体と して国民生活の中に確固たる基盤」を有する存在となったこと,かつまた「衛生,教育,選挙 事務その他多数市町村民の徹底的な協力を必要とする」ために, 「国等の事務を処理すべき使命」 を帯びた「行政事務の処理上ほとんど不可欠の組織」となったという認識が内務省にはあった。 ― 63 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) こうして団体の「共同輯睦」に基づく自治活動を法規制によって阻害することは避けたい,委 任事務に対する対価は支払いたいとして町内会部落会の存続を内務省は考えていた 。戦後の (32) 食糧事情においては配給の基礎となる居住証明の付与などそれほどまでに町内会部落会は日常 生活に不可欠な存在になっていたのである。 そこで 1946 年 3 月(昭和 21),内務省は市制と町村制の改正案を GHQ に提出する。そのポ イントは 1943 年の地方制度改正において「その活動に必要最小限度の法的基礎を与えた」町 内会部落会の新たな法的位置づけにあった 。その中で従来の規定(市制第 82 条,町村制第 68 条) (33) において市・町村いずれにおいても設置することが出来るとしてあった区長を廃止,市・町村 の行政区制度も廃止するとした。(ただし内務大臣による指定市を除く)これまで区長が処理すべ きとしてきた事務を今後は任意団体である町内会長,部落会長,又はその連合会長によって代 替させること,かつ報酬を与えることが出来るものとして提案した。つまり制度化はしないが 実態があるのでこれを活かそうとした。やや長いがこの改正案に関する政府原案は以下のよう に記されている。 元来行政区は市町村の事務処理のため設置されたものである。昭和 18 年[内務省訓令第 431 号「地方制度ノ改正ニ関する依命通牒]の地方制度の改革の際,町内会部落会に法人格を 賦与し,その健全なる発達に必要な最小限度の法的措置を講じたのであるが,当時に於い ては町内会部落会は未だ全国的に充分な発達を遂げているとはいえない状況であった。然 し今日においては,町内会部落会は,市町村の内部における真に隣保共同の団体として名 実ともに兼ね備わり,その組織,運営も軌道に乗りつつあり,都市においても農村におい ても国民の日常生活はすべて町内会部落会またはその連合会を単位として行われ,各種の 行政事務もこれを通じて行われるものが増加し,町内会部落会は社会生活の最も基盤的な 団体となるに至った。今日市町村の行政区に於いて処理される事項 1 は実際には殆どすべ て町内会部落会又はその連合会が処理しつつあり,又行政区の区域の大部分は町内会部落 会又はその連合会の区域と一致 2 している状況であった,従って行政区は今日最早これを 存続する必要はなくなったと考える次第である。なお,行政区の廃止に伴って町内会部落 会又はその連合会の地位がいよいよ重要となるので,市町村財政の許す限度において,こ れらの団体の長 3 に対して報酬又は費用弁償を支給できることとした 。 (34) この政府提案理由から分かることは,町村における行政区画は旧来の固有の地域割に基づい て行われてきたこと(下線 2),すなわちその区割りは町内会部落会の境界と重複するという こと,また区割りにおける長は,町村制(第 68 条,第 81 条)に定められた名誉職区長であると (下線 3)として期待される人々だということである。この「会 共に当該町内会・部落会の「会長」 長」という表記は行政法制上から見ると前掲の「部落会町内会等整備要領」(昭和 15)におい ― 64 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) て初めて現れたものである。内務省はますます広範多岐にわたる行政事務を担うようになった 「会長」にその代価である行政費用を支払わなければならないほどの実態があったということ であろう。町村長の補助機関としての法的規定を避け「公」ではないが,かと言って完全に「民」 でもない,その間のあいまいな位置づけにして GHQ の追及をかわそうとしたともとれる。(や がてそうした補助的事務は戦後それぞれの町村行政における条例に基づく「委託事務」となって旧町内会・ 部落会に継承されるものとなった。) このように日本政府は従来の行政区および名誉職区長を廃して町内会・部落会による行政事 務遂行を維持しようとしたが,その後の GHQ との折衝の中でそうした期待は裏切られること となった。1946 年 4 月戦後初の衆議院議員総選挙において GHQ が戦後日本を担う第 1 党とし て期待した革新政党(社会党)が伸び悩み,保守党(自由党)が勝利したことから,その理由 を占領軍は現象的には選挙活動に果たした町内会・部落会の地方ボスの影響力にあるとしたが, もともとこれを地方名望家による警察国家的なスパイ組織だとするからその解体命令に時間は かからない。1947 年 5 月の「ポツダム政令第 15 号」を俟つまでもなく内務省は町内会,町内 連合会,部落会などの組織の設立根拠となった自ら発した訓令を廃止し,町内会部落会の解体 を指示したのであった。(地域自治の単位としての「町内会・部落会」という伝統的地域集団の“自主性” はその後の度重なる地方自治法改正の中で,やがて「地域自治区」「認可地縁団体」として継承されたの だといえるかもしれない。) 5.沖縄における市町村制度:遅れた町村制施行 明治政府は市制町村制の施行に当たり一部の地域には特例措置を採った。“本土”とは別個 の法制によったのである。「府県」ではない北海道や樺太,また島嶼地域(小笠原諸島,伊豆 諸島,奄美諸島,隠岐,対馬など),そして「県」ではあるが沖縄もそのような扱いを受け (王府時代では「シマ」)である。 た 。沖縄における伝統的な地域呼称は広域の「間切」と「ムラ」 (35) 「ムラ」は多少とも財産を有し,負債を負い,神事祭典を執行したように自ら一つの法人を成 し得るほどの自治の単位であったが,やがて沖縄県の行政区画として表 2. に見るように一連 の規定の中で影を潜めていく。沖縄においてはその制定に関して“本土”の町村制とは違って 時間的な遅れがあったのである。 明治政府は沖縄の地方制度を王府時代から都市的であった首里村・那覇村と間切地域(宮古, 八重山の島嶼部を含む)との二つのカテゴリーに分けた。首里と那覇をそれぞれ首里区,那覇 区として「沖縄県区制」(その附則)に規定し,法人格を持つ自治単位(地方団体)とした。 しかし同時に区長を有給吏員としたように国の行政区画(地方官庁)としての行政単位でもあっ た 。したがってその「区長」は町村制の町村長(名誉職)とは異なった機関であった。 (36) また間切地域には「沖縄県間切島吏員規程」と「沖縄県間切島規程」を設けることによって ― 65 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) 表 2.沖縄県の町村制への経過 市制町村制 1888(明治 21)年 沖縄県区制 1896(明治 29)年 沖縄県間切島吏員規程 1897(明治 31)年 沖縄県間切島規程 1898(明治 32)年 沖縄県及島嶼 町村制 1907(明治 40)年 沖縄県区制の全文改正 1908(明治 41)年 市制町村制改正 1911(明治 44)年 沖縄県に町村制施行 1920(大正 9)年 沖縄県区制を廃止,市制施行 1921(大正 10)年 「本土並み」市制の施行,「那覇市」設立 那覇区,首里区を設置。 そん 間切を廃止・改名し村とする。 「本土並み」町村制の施行 対処した。(もちろんここで「間切島」とは沖縄本島の「間切」と宮古・八重山の「島」を指し, 「吏員」とは官選の間切長などを指す。また「間切島」は法人として位置づけられていた。)琉 球史においてさまざまに流動する間切という地域区分は 30 を超えるほどにもあり,明治政府 はこれを地理的に整理し,国頭郡,中頭郡,島尻郡,宮古郡,八重山郡の 5 郡にまとめた。し かし「郡」とはいえ,「沖縄県及島嶼 町村制」において,行政官としての郡長規定はあるが地 域自治を担う郡会は設置されなかったように“本土”のような郡制ではなかった。また宮古郡 そん と八重山郡は郡長ではなく「島司」が置かれた。郡内にある間切と島は「村」と改称され,法 あざ 人たる町村の長の具申を通して県知事が任免する区長が置かれ,旧来の「ムラ」が「字」となっ た。 この「沖縄県及島嶼 町村制」には「沖縄県区制」に規定されていた主に納税額の要件に基 づく「公民」規定(第 5 条)が設けられなかった。首里那覇住民は名誉職担任可能な公民とし ての十分な資格を有するが,他の地域住民は未だそうした資格に達していないと見たのである。 沖縄県議会の設置でさえ,これが規定されるのは「沖縄県区制」が全文改正された翌年 1909 年(明治 42)であった 。こうした差異が最終的に修正されすべての沖縄県町村に“本土”と (37) 同一の町村制が適用されるのはさらに遅れて 1920 年においてであった。そして 1921 年「沖縄 県区制」が廃止され首里区,那覇区には市制を施行,両区は「那覇市」として統合された。 沖縄における地方制度の施行はこのように本土のそれと異なっていたのは,沖縄の土地所有 制度であった地割性(土地の共有観念が地租を納める財産階級の成長の桎梏となった。)とと もに住民の「民度」の問題があり,これが沖縄住民の「自治」意識の醸成を妨げたという明治 政府の認識があった 。 (38) このように沖縄に“本土”並みの市町村制が採用されたのはかなり遅れ,ようやく首里区と 那覇区が合併し,那覇市が誕生した。それ以外に 1888 年に“本土”で見たような町村の合併 がなかった。町村は旧来のまま,すなわち王府以来の地域割が存続した。合併措置を不要とす るほど町村数が少なく合併の必要性がなかったのであろうか。あるいはこうも言えるかもしれ ― 66 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) ない,合併を考慮したとしても合併そのものが不可能な状況があったと。何故なら 1907 年に「間 そん 切」が廃止され「村」となっても王府時代からの沖縄の町村(「間切」)の態様はその合併を妨 げるほどの歴史的な個性を持つからだ。さらに「村」はこれを分割できないほどに individual な固有性を併せ持つ「字」(「シマ」と呼ばれる最小単位の地域集団,これが沖縄では行政区単位となる。 これ以上に分割不可能であるから自治会数に関して本土のそれと比べて数が少なくなる。概して本土の自 治会は世帯数を基準につくられ,容易に分割細分化できるから自ずと数は増大する。) から成り立って いて,これが沖縄独特の生活共同体として機能し続けてきた。河川(水利)や杣山(入会)な ど水と山の共同管理,協同労働(ユイマール),祭祀の主体といった“本土”に見るような旧 来の町村と同じような村落社会は沖縄においてはこの「字」に見られるものである。そして沖 縄の「字」という村落社会 community は「字」間の境界を廃止できるほどの“曖昧さ”を許 さない ethnocentrism をその存在の意義と根拠とするのである。 とは言え,こうした沖縄の「字」が分割される事態が無いわけではなかった。それは主とし て明治初頭の廃藩置県(1871 年)の際に首里の王府時代の官吏集団(1609 年の薩摩藩侵攻以 降に「サムレー」と呼ばれるようになり,廃藩置県によって「士族」に属すとされた人びと) やーどうい の一部が失職し,沖縄中部北部の農村地帯へと追われ,居ついた地域の農民たちから「屋 取 」 (人里離れた地に小屋を建て,宿るの謂,小屋掛けし荒地を開墾し農業を営んだ。)という呼称 (語感からすると蔑称のように響くが彼ら自身がそのように呼んでいる。)を与えられたことか ら始まる事態である。こうした貧窮「士族」たちは家族を伴い寄り集まって集落を形成する。 (元 来の農民が自らを「地人」と呼ぶのに対し「居住人」と呼ばれた。いわば居候である。屋取を 起源とする集落は 130 以上もあるといわれる。)1900 年代に入りこのような集落が一定の規模 となって安定してくるとかれらは“行政字”として次々と独立し自分たちの字をつくるように なった。例えばいくつか拾うと,喜舎場(北中城村)にあった屋取集落は 1917 年(大正 6) や ぎ ばる しもせい ど に屋宜原として,浜川・平安山(北谷村)に居住していた屋取は 1925 年(大正 14)に下勢頭 として,屋良(嘉手納村)に宿っていた人々は 1939 年(昭和 14)に伊金堂として,それぞれ 分離独立し行政字を形成した。このように屋取集落というものが沖縄の村落社会において 20 世紀前半においてさえ存在していたのである。 この時が固い殻の「字」が分離分割されたといえるが,これは行政上の必要性というよりは 異物排出的な分離分割による新たな境界設定であった。他者の異化や「字」間の境界に対する 強い認識の存在は相互排他性を帯びるものであるが,こうした「字」界や屋取呼称のもつ社会 的意味が薄弱となってきたのは,実は沖縄が戦乱に巻き込まれ旧来の「字」から強制的に退去 させられ,結果的に異質同質の区別化の意味をなさない混住状態を余儀なくされ居住した戦後 においてからであった。屋取への視線が希薄化するその意味でも戦乱による混乱は沖縄社会に 大きな影響を与えたと言える。 そのほか沖縄においても町村離合が皆無ではなかった。基地設置によって旧村が地理的に分 ― 67 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) 断され不便となりそのための分離自立が目立つが,同質性を根拠とするものもあった。終戦前 の沖縄では王府時代の間切を基礎とした市町村が 57 団体あったが,1950 年ごろには 66 団体 へと増加する。例えば,石川市が美里村から分離独立(1945. 9),嘉手納町が北谷町から分離 独立(1948. 12),宜野座村が金武町から分離独立(1946. 4),北中城村が中城村から分離独立 (1946. 6),上本部村が同質性を根拠に戦前からの分離論を果たし本部村から分離独立(1947. 8),同じ理由で屋我地村が名護町から分離独立(1946. 5)などである 。 (39) 6.戦後沖縄の占領行政:地域自治集団の温存 前述のように,日本の軍国主義を支えた元凶の一つとして戦前の地方制度の果たした役割を 重く見る連合国はその解体に向けて旧憲法の廃止と共に地方制度の改革を目指し,地方制度は 1947 年,地方自治法としてそれを規定した日本国憲法とともに施行された。しかし同様な占 領下であっても米軍の軍事占領下にあった沖縄においては異なった制度の下にあった。その大 きな理由は,日本政府を存置したままその官僚機構を「利用」 した本土における間接統治と (40) は異なって沖縄においては米軍政府による直接統治の下で行われたことにある。すなわち戦後 の沖縄の自治制度は日本とは全く異なった展開をした。 沖縄には日本国憲法が施行されず,1952 年の講和後においては琉球政府が発足したことか ら分かるように,戦前期日本の一地方であった沖縄県は新たな行政組織を設置させられること によって消滅した。沖縄の地方制度は米軍占領下にあって部分的には本土のそれに倣ったとこ ろがあったにせよ,本土とは異なった道を歩んだのである。ひとつは町内会,部落会といった 末端の地方組織は崩壊を見ることがなかったことである。それは日本における占領政策と沖縄 におけるそれとが異なったからだ。終戦後の地方制度の変革に詳しい行政法制史家は,これを それぞれ「連合国の占領」「アメリカの占領」と命名し,別個の占領政策を帰結させたのは戦 後日本の最初の総選挙実施に際して連合国総司令部が発した「若干の外郭地域を政治上行政上 日本から分離する覚書」(SCAPIN-677)が「沖縄の分離」をもたらし,これがその原点とし てあるのではないかという 。 (41) 軍政による直接統治の第 1 の理由は,日本敗戦を確定した「ポツダム宣言」受諾によってで はなく,沖縄においては戦時国際法「ハーグ陸戦条規」に基づく占領にあった。(ポツダム宣 言第 8 項において日本国の主権下に沖縄は含まれないとしていた。)すなわち,日米間の戦闘 がなお継続中の 1945 年 4 月 5 日,沖縄においては「日本帝国政府のすべての行政権を停止」 したという米国海軍軍政府のいわゆる「ニミッツ布告」にあり,沖縄は本土とは異なった占領 行政権下に置くと宣言した。これは「交戦中の占領」であることで軍略上の必要性であったが, むしろ米軍の沖縄占領を決定づけたのは,そうした理由に替わって現れた冷戦の始まりであり, それに伴い 49 年 5 月に北緯 29 度以南の琉球列島において米軍が必要とする諸施設の長期的保 ― 68 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) 有と軍事基地の開発の意図を明らかにしたことにある 。 (42) 第 2 に,直接統治とはいっても「米軍が万事を指令することは事実上不可能だった。このた め軍政府に対する住民の占領協力機関が作られた――米軍は住民が選出する沖縄諮詢会の結成 を命じ,これを下部機関として占領政策を行ったのである。」 という指摘があるように,終戦 (43) 直後の沖縄の特殊な事情があった。戦闘によって島民のすべてが居住地を追われ収容所生活を へん と な 強いられた状況においては既存の行政機構もまた解体された。沖縄占領軍は本島北の辺土名区, た い ら かん な ぎ の ざ せ たけ こ ち や 田井良区から南は糸満区,知念区までの 12 地域(南北の中間に漢那,宜野座,瀬嵩,古知屋, ご さ? 石川,胡差,前原,大浦崎がある)に収容所を設け軍政区を布いた。軍政区ごとに市制を施行 しようとするが,間もなく収容所キャンプから元の居住地に移動が許可されるにともないこの 市制は半年余りで廃止,戦前の市町村が復活した 。軍政区による市制の期間には米軍が適宜 (44) 選んだメイヤー(mayer)と呼ばれる村長が各地区に誕生したが これはいわば幕間劇という (45) もので元の居住地において「戦前の村の組織」を単位とする行政の再建が行われたのである 。 (46) 元の居住地への移動許可があったとはいえその居住地はすでに軍事用に接収されていたため 多くの住民はその周辺に他地域からの住民と共に混住するというものであった。そうした事情 が占領行政の課題としてあり,地域の行政機構の再編を先ず考慮しなければならなかった。こ れは戦後の“本土”と沖縄における地方制度の在り方の大きな違いを生んだ。「最初に村の組 織を固め,そのあと順次[沖縄全島に関わる]中央政府をつくっていく――その場合,占領地の 現行法律を尊重するということになります。」 したがって沖縄における地方の統治機構の再建 (47) は本土に見られたような新規の法制を上から施行するというのではなく,戦前の機構を再興す ることであった。全島民の強制移動による旧村落の全面的な崩壊を前にして,米軍は住民の旧 居住地への復帰から旧村落組織を通じた秩序回復が先ず重要な占領課題だった。 また第 3 に,沖縄における「字」といった地域社会を本土の「町内会・部落会」と同種同等 のものとみなさなかったのではないだろうか。アメリカは戦前戦中を通じてかなりの日本社会 研究を蓄積しており,琉球と日本とは同一ではないと考えられていた。これは沖縄戦終了後の 日本軍捕虜の取り扱いにおいて米軍は本土出身者と沖縄出身者とを分け(及び朝鮮半島の人々) 異なった処遇をしたことにも表われている。沖縄の「町内会・部落会」は“本土”のそれのよ うに軍国主義のイデオロギー装置とは考えなかったのである。 前述のように米軍は住民統治に向けて軍政府の諮問機関を設置した。終戦日の 8 月 15 日各 収容所から 128 名の代表者を美里村の石川収容所に召集,選挙によって代表 15 名の諮詢会委 員を選出したことから「沖縄諮詢会」が発足,翌 1946 年 4 月「沖縄民政府」に衣替えするま でこれが占領米軍と各地住民との間にあって意思疎通のチャンネルとしての役割を果たした。 この諮詢委員の選挙は「婦人も参加し日本で最初の婦人参政が実現」(天川,2001,p.5-6)する。 沖縄の統治機構の中で「低い地位と狭い場所しか与えられなかった」にしても「住民を代表す るがごとき人々を沖縄人の中から集めたことは戦後[沖縄]社会の大きな転機であった。」 の (48) ― 69 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) である。 そして最後に,沖縄においては「公職追放」の組織的な強い措置がなかった(福永文夫, 2014,日本占領史,中公新書 p.163-64)。連合国占領下の“本土”では 1946 年(昭和 21)1 月 4 日連合国最高司令官覚書(「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」)によって戦 前戦中において軍・政・財の各界から町村の地方名望家レベルまで指導的地位にあった人々は 「公職追放」の処置がとられた。(これが中央地方の行政府にまでに拡大しなかったのは旧来の官僚機 構を利用し占領行政を推進したかったからだろう。)沖縄においてすでに「公職追放」覚書発布以前 において沖縄米軍は各地の収容所に追いやった住民に対して「対敵諜報部隊調査」という情報 収集のための調査を行った。その中で「村の偉い人を知っているか(村長か医者か郵便局長か)」 といった訊問項目があり,これは占領行政を遂行するうえで役に立つ「沖縄社会のリーダーシッ プを掌握するという目的」があったのであろうとする解釈がある 。これはいわば“コミュニ (49) ティ・パワー・ストラクチャ”を発見しようとした調査とも見ることが出来るが,その調査結 果が後に如何に活用されたか分からない。むしろ戦前の地域エリートを活用しようとしている。 すなわち各地の収容所から解放され元の居住地に戻ったことで米軍政府が発した指令「村行政 の組織」 に見るように,やはり行政の専門家を必要と考えたようだ。その中で戦前の市町村 (50) 長を探し出し新たに「長」として再任用,村の再建に備えようとしたのである 。この軍政府 (51) 指令には村の元職員を復職させること,収容所から出た村人の再定住後の村には村長を置くこ と,各村に「字」を旧境界線に従って設定し「字」に区長を置くこととあり,旧体制に対する アレルギーがまるでないのである。もっとも諮詢会委員の選出に関して戦争に協力した翼賛会 役員や米軍に好ましくないと見做された首里市長などは排除されてはいた 。また公職追放問 (52) 題は 47 年から 48 年においての市町村長と議会議員の選挙に際して生じてはいたという記述も ある 。 (53) 7.市町村制度と区長制:明文化された「区長制」とその廃止 1946 年 4 月,軍政府は「沖縄中央政府の創設」の指令(第 56 号)を発し知事を任命,これ によって沖縄諮詢会は廃止されることとなった。創設された「沖縄民政府」は米軍の傀儡政府 であったとはいえ,ここに沖縄は再び 1879 年の琉球処分以来自前の“政府”をもつこととなっ た。(さらに 1950 年「沖縄群島政府」,1952 年から 1972 年まで「琉球政府」と名称を変えて いく。)民政府知事に市町村長の任命権が付与され,その諮問機関として市町村政委員会が設 置された。そのメンバーには原則として戦前の議員が任命されたのである 。その後 1948 年 (54) 4 月,市町村の「長」と市町村議会議員との選挙に関する指令(第 4 号)に基づきそれぞれの 選挙が実施された。 こうして沖縄の市町村住民は戦前戦後を通じてはじめて公選(戦前に見られた「公民」によ ― 70 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) らない普通選挙)を通じて議会と政府をもつこととなったが,肝心の市町村制については同年 7 月の軍政府が用意した指令(第 26 号) 「市町村制」(The Law Concerning Organization of Cities, Towns, and Villages)を待たねばならなかった。(軍政府の指令や布告には戦後日本の法律 に似ているものが多いが,どのような関係者が参画しその下で立案と制定の過程があったのだろうか,琉 球政府立法院において立法される法律原案は英文で書かれているのである 。) (55) この「市町村制」によって改めて沖縄の各市町村は法人格を持つ団体となるが,同じ占領下 にあって 1947 年 5 月に施行された日本の地方自治法(施行後何度も一部改正を繰り返した背景が あるためこれが“原始地方自治法”と呼ばれることがある。)と多くの点で酷似しかつ異なっている。 大きな相違は沖縄の市町村制には地方自治を支える住民規定や条例制定,事務監査,解散解職 請求など住民の直接請求権に関する条文が無く,日本の自治法には無い「地方自治委員会」と いう名称の制度を民政府に設置(第 157 条)していることである。他の条文を読むとこれは市 町村長の罷免や市町村間のもめ事などを処理するための知事の諮問機関であるようで,かなり の権限を知事が持つことが分かる。直接請求権についてはその後この市町村制の改正法にあた る 1953 年の琉球政府による立法「市町村自治法」において条文化されるが,民主的響きを持 たない地方自治委員会に関しては削除されたのか条文目録には見られない。この「市町村自治 法」は沖縄が日本に復帰する 1972 年まで地方自治の基本法として機能した 。 (56) 沖縄の地方制度と日本の地方自治法との違いに自治団体の種類,区分に関するものがある。 1948 年の「市町村制」,1953 年の「市町村自治法」のいずれにおいても沖縄の自治法には地方 団体の区別(「特別」と「普通」)を示す条文がなく,また日本の自治法において特別地方団体と された「財産区」に関する条文(地方自治法第 294 条−第 297 条)は沖縄の「市町村制」(第 146 条−第 149 条), 「市町村自治法」(第 196 条−第 199 条)いずれにおいても見られ,条文数はいず れも 4 条,条文内容もほぼ同一である。しかし沖縄においてはその条文に該当する実態が無い。 すなわち沖縄においては琉球政府時代においても,“復帰”後の 1972 年以降“本土”の地方自 治法が適用されても,財産区が設けられた例が無いのである。(いかなる理由でそうなのかは なかなか興味深い疑問である。) さて,このように占領期沖縄においては二つの市町村制度がつくられたが,「区長」はどの ような位置づけにあったのであろうか。戦後日本の最初の地方自治法に法制化されてはいない 区長制が沖縄においては明文化されているからである。これは琉球社会における「字」 (「シマ」) という伝統的な地域組織の重要性からくるのであろう。1948 年の「市町村制」において市町 村長はその補助機関として任期 2 年の区長を置けるとした。すなわち「市町村は処務便宜のた め条例で区 administrative words を画し区長 chief of word を置くことができる」,また任期中 に解任もできるとした。(第 86 条)この規定から市町村はそれぞれの行政区を定めることがで きると読める。ところが区長が市町村長の任免下にあるのはよくないとしたのであろうか, 1953 年の「市町村自治法」では同様に区長を置くが,任期1年で,「区民の推薦により市町村 ― 71 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) 長がこれを任命する」(第 108 条)としてより民主的な区長選出を予想できるものにした。 しかしこの規定は 1962 年の第 5 次法改正(琉球政府立法 85 号)では条文から全文が削除され てしまった 。市町村長の補助機関としては通常は助役や収入役さらには専門委員であるが, (57) この区長という機関は“本土”の地方自治法には規定が見られないということ,また職分や身 分など必ずしも明確でないということがあったのであろう。すでに 1957 年の第 2 次改正にお いて琉球政府はこの制度を廃止するという方針を明らかにしていた。これに対して“区長制論 争”が起き(金武町議会史,2004,p.160),町村会は補助機関を失うことは実情無視であると反 対したためこの区長規定(第 108 条)は残ったが,結局その 5 年後の法改正において削除され たのである。これは「市町村自治上問題の多い区長制度を廃止したのであって,各市町村が独 自に区長またはこれに類する制度を設けることは差支えない」と市町村議会議長はいう 。こ (58) うして区長制はその法的根拠を失うが,地域自治組織として実態としては存続し,地域によっ て「区長」ないしは「自治会長」という名称が用いられ,「区事務所」ないしは「自治公民館」 という名称の下に地域自治を担う単位となった。 「区長」という名称を用いる町村は沖縄の北部の町村に,「自治会長」という名称は中南部の 町村において用いられているようだ。これは終戦時において強制的に居住地から追われたのが 中南部の人々であったことと関係があるように思われる。1962 年に区長制度は廃止されなが ら恩納村,金武町,宜野座村などの北部の町村にその名称が残り,戦火に遭い旧来の居住地は 軍用地として接収された中南部では旧来の字とは異なった人々との間で新規に地域自治組織を 作らねばならなかったという背景が影響しているのであろう。 かくて行政機関としての区長制は廃止されたが,区域を行政区と定めることは妨げられては いず,また市町村長の補助機関としての仕事が不要になったわけではない。今日の地方自治法 とその施行令においては契約に基づく各種の「事務委託」を定めており,委託契約する個人が それぞれの行政区において住民が選出した代表つまり「区長」であることに問題はない。かく て沖縄の町村長は行政区のそれぞれの代表を招集して当該町村の行政事務などの関する会合 (「区長会」もしくは「自治会長会」)を持つことが普通のこととなった。 〔注〕 (1) 戦後期における地方制度改革に関する諸文献は今日数多くあるが,戦後の町内会・部落会に関する 諸研究は,本格的な調査研究は日本側ばかりではなく連合国側の諸資料が公開される 1980 年以降 のことだろう。戦後民主化や封建遺制といった観点からとりわけ政治学と行政法学において,そし てまた社会学などにおいてなされてきたが,そうした経過を知る代表的な資料として次のようなも のがある。 ① Political reorientation of Japan, September 1945 to September 1948 : report of Government Section, Supreme Commander for the Allied Powers. これは 1949 年米国政府によって公開されたが,1988 年この連合国総司令部報告書を編集した 翻訳が『戦後地方行財政資料全 4 巻,別巻 2 巻』(勁草書房)として刊行された。 ― 72 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) ② さらに網羅的なものとして History of the Non-military Activities of the Occupation of Japan 1945-1951,刊行は 1965 年及び 1977 年であったが,邦訳は 2000 年『GHQ 日本占領』(全 55 巻, 別巻 1,日本図書センター)であった。その第 13 巻が「地方自治改革」Local Government Reform である。 ③ GHQ/SCAP Records, Government Section (GS) 民政局(略称:GS)文書。そのうち地方自 治に関するものとしては 1998 年「占領改革」第 8 巻,第 9 巻 天川晃編「地方自治」(丸善)が ある。 ④ また戦後地方自治史を知るうえで重要な史料として,自治大学校史料編集室,1960 年,戦後 自治史,第 1 巻「隣組及び町内会,部落会等の廃止」,1961 年第 2 巻「昭和 21 年の地方制度の 改正」。この 2 巻本は地方自治と地方選挙に関して連合国側担当部局と日本政府との相互折衝の 下にどのように今日の制度に至ったのか地方制度のその変遷過程を,当時の内務省関係者らの協 力を得て諸資料を整理したものである。最初に示した Political reorientation of Japan という大 部な史料が邦訳される以前に,その第 8 章の全訳が第 1 巻に掲載されている。さらに第 2 巻は新 憲法第 92 条[地方公共団体の組織及び運営に関する事項は,地方自治の本旨に基いて,法律で これを定める]に基づいた地方自治立法に至る過程,すなわち地方自治法制化の前哨戦ともいう べき過程を描いている。『戦後自治史』のこの 2 巻本は本稿執筆の上で大いに役立った。特に明 治期に始まる町村制の「区」及び「区長」に関する概念の理解に混乱があったからである。 ⑤ 他方,明治期に始まる地方制度に関しても有り難いことに明治期以降の法制史的な史料が利用 できるようになっていて,法的条文がどのように実際に変容,運用されてきたのか各地域の残さ れた資料に依拠した先人のすぐれた業績がある。先駆的な史料としては山中永之佑監修『近代日 本地方自治立法資料集成』(1991,全 5 巻,弘文堂)。 ⑥ また地方自治百年史編集委員会編『地方自治百年史』(1992,全 3 巻,地方財務協会)があるが, ⑦ 本稿が参照したものは小早川光郎編集代表『史料 日本の地方自治』(1999,全 3 巻,学陽書房) である。 (2) 高木鋮作,1976「日本の地方自治」,行政学講座第 2 巻行政の歴史,東京大学出版会,p.275 (3) 高木鋮作,1976,前掲書,p.275 (4)「区」は区域という言葉から連想されるように土地に基づく生活の共同からつくられる共同社会, ないしは生産手段としての土地を中心とする地縁集団の範域をなす。それとは対照的に「自治区」 「行 政区」「財産区」「学区」と呼ばれる「区」がある。それぞれ地域の機能的な必要性から設置された ものであるが,明治期の市制町村制の何度もの改正の中に地域の歴史的な社会変動を見ることが出 来る。社会学の教えるところによれば,社会の産業的分化や職業の専門的分化など産業化が進むに つれ職業や文化に基づく人間結合による団体形成が盛んになり,物質的非物質的な共通の利益・関 心を実現しようとする利益社会がつくられる。産業化と都市化とは相即ものであるから大都市にお いては共通の利益や関心に基づいて土地に依らない近隣集団が作られ,これを「○○地区」と称す るのである。それは市町村制における法律的用語の「区」ではない特定地域の区域で,大都市にお ける機能分化に伴う住宅地区,商業地区,工業地区,さらには「田園都市」「林間都市」「大学都市」 などであり,また職業集団の集中結合によって形成される集団として「例えば神田区が書籍商を中 心に結成せられ,日本橋区が卸売商を主として結合されているが如き」であって,こうした都市の 多面性を想定していない法律上の「区」は「所謂,『市制』なるものの封建の余韻尚消滅せざる明 治初年のそのまま墨守して規定されたまま」であると都市社会学者はいう。(磯村英一,1936,区 の研究,市政人社,pp.3-5) しかし法律的用語の「区」であってもこれを共同社会と呼ぶのは社会学的規定をも含んでいるか らだ。「区」はデモグラフィックな居住要因のほか生活習慣など文化的な要因を持つ。やがてこの 共同社会が多元的な価値規範や態度を持つようになって分化するという現象の中に分かることは, ― 73 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) 「土地」と「ひと」との間が未分化な状態における人々の集団結合からそれが分化することで生じ る集団結合である。換言すれば,一定の区域に居住する人々は地縁と共に血縁関係によっても結合 するコンベンショナルな生活共同の地域集団であるが,居住人口が増加し人々の間の共同性が後退, 替わって人々の間の固有性や個別性が前面に出て来る集団へ転換する状態があるということである。 こうして未分化な「土地」と「ひと」とが分化することで二つの結合原理が生じる。土地を基盤 において協同する集団結合を「属地主義」とすれば,人々の何らかの固有性や個別性において協同 する人的結合(あるいはネットワーク)は「属人主義」と名付けることが出来る。属地主義による 集団結合と属人主義による集団結合はちょうど農耕民と遊牧民とを想起するとよくわかる。農耕民 は土地を失えば農耕は不可能であり土地に拘束されるが,遊牧民にとって土地は単なる通過地でし かない。それでも遊牧民が一つの集団をなしうるのはなぜか。それは血縁や宗教などを通じた共通 の心性による結合,あるいは祖先を共通するという観念による結合であろう。共通土地の喪失でさ え属人主義による集団結合をなし得る。これは何らかの理由で土地を失った人々(migrants)の間 においても結合が可能であることからわかる。自然災害や強制移住によって移動を余儀なくされた ひとびとが移動先でなお元の集団結合を維持する例を歴史はいくつも示している。また“想像の共 同体”(ベネディクト・アンダーソン)もまた人々を結合させることができる。 この二つの結合原理を社会分化の展開によって生じる価値意識の異質性(多元化)と同質性とい う対立概念を用いて集団類型を試みることも出来る。 表.属地主義と属人主義による集団類型 属地主義 属人主義 異質性 類型 1 類型 3 同質性 類型 2 類型 4 類型 1 と類型 2 はそれぞれ都市社会と村落社会であろうと直ちに推測できようが,類型 3 はある 特定の目的に基づいての目的的な人的結合で,テンニースのいう「ゲゼルシャフト」と想定でき, 経済団体,専門職団体,労組などの職能団体,政党などによる利益社会をなす。類型 4 は共に存在 すること自体に意義を見出す存在論的結合で「ゲマインシャフト」であるとしておこう。各種のサー クル,宗教セクト,戦友会,同窓会,同郷団体などなどが考えられる。 (5) 大石嘉一郎,1990,近代日本の地方自治,東京大学出版会,p.31 (6)『史料 日本の地方自治』第 1 巻 (7) 高木鋮作,1976,前掲書,p.279 (8) 他の文献によれば,1883 年の町村数 7 万 1,497,合併推進後の 1889 年に 1 万 5,859 とある。市数は 19 から 39 へと倍増した。小原隆治,1993「戦前日本の地方自治制度の変遷」,西尾勝編,自治の 原点と制度,ぎょうせい,p.43 (9)『史料 日本の地方自治』第 1 巻,p.157 (10) 高木鋮作,1976,前掲書,p.279 (11) 大島美津子,1959「地方制度」講座日本近代法発達史第 8 巻,勁草書房,p.25 (12)「区」には「自治区」と「行政区」がある。この二つの「区」は機能上の大きな相違がある。先ず 市制において,都市化の進んだ東京・大阪・京都の 3 市の場合のみ法人格をもつ「区」(内務大臣 の指定する「指定区」)を設置することができた。(市制第 6 条,第 82 条)「区」は自治区として法 律によって権利能力を賦与された公法人で法律に基づいて区域の変更を行うことができた。これに 対し,3 市以外の市は行政区を設置し「庶務便宜のため」区長を置くことができるが名誉職扱い, その行政区長には一般行政権は賦与されないというものであった。また他市行政区の区長とは異 ― 74 ― 佛教大学社会学部論集 第 61 号(2015 年 9 月) なって指定区の区長は有給吏員であると定めた。(つまり今日の公務員。) また町村制(第 68 条)においても行政区を設けることができ,この行政区は市町村の下でその 事務の都合上設けられたもので法的規定を伴わず,その区長は市制における行政区長と同じく名誉 職区長であった。区長ばかりか町村長,助役,町村議員もまた名誉職であった。名誉職はその職務 取扱いに関して無給というわけではなく,議会の議決に基づき「実費弁償のほか勤務に相当する報 酬」を受けることが出来た。また,町村の状況に依って条例を定め有給の町村長・助役が可能では あった。 (13) 高木鋮作,1976,前掲書,p.280 (14) 中川剛,地方自治制度史,学陽書房,p.191 (15) 中川剛,1990,前掲書,p.18-19。高木,前掲書,p.280 (16) 1932 年からの農業恐慌に対して取り組まれた農村救済運動。 (17)『戦後自治史』第 1 巻,p.1 (18)『史料 日本の地方自治』p.68-69 (19) 昭和 15 年内務省訓令第 17 号「部落会町内会等整備要領」 (20)『史料 日本の地方自治』第 2 巻,p.68 (21) 昭和 18 年,内務省訓令第 431 号「地方制度ノ改正ニ関する依命通牒」 (22) 天川晃,1984,「地方自治制度の再編成―戦時から戦後へ―」,日本政治学会編,近代日本政治にお ける中央と地方,岩波書店,p.207-08 (23)「総員 30 余名の寄集め集団」天川晃,1984「地方自治制度の再編成」日本政治学会編,近代日本政 治における中央と地方,岩波書店,p.214。「寄集め」ではあったが,この集団が 1946 年 2 月現行 の日本国憲法の草案を作ったのである。 (24)『戦後自治史』第 1 巻,p.48-49,この記述は Political reorientation of Japan, vol.1, p.261, p.284-6 か らの引用であると(注)にある。「戦後自治史」には原著に基づいてであろう「7 世紀に導入」し たと記しているが,中国起源というのが「保甲制」を指しているとすれば,北宋(960-1086)の時 代の王安石が始めた保甲制のことであろう。保甲制は 10 戸を「甲」とし,10 甲を「保」として, 保長,甲長を定めた土地の有力者や地主による地域統制の仕組みであった。(劉震雲,2006,温故 1942,中国書店,P.45) (25) GHQ 日本占領第 13 巻「地方自治改革」,p.37。 (26) 天川晃,1974「地方自治制度の改革」,戦後改悪第 3 巻,東京大学出版会,pp.255-63 (27) 米軍の担当者名はここでは特に意味はないが,因みに民政局長はホイットニー,次長のチャールズ・ ケーディス大佐以下,セシル・ティルトン少佐,司法係法規課長の陸軍中佐マイロ・ラウエル,そ してアルフレッド・ハッシーらであった。 (28) 中川剛,前掲書,p.192 (29) 吉原直樹,戦後改革と地域住民組織,1989,ミネルヴァ書房,p.1 (30) 吉原直樹,前掲書,1989,倉沢・秋元編,町内会と地域集団,1990,ミネルヴァ書房 (31) 戦後自治史,第 2 巻「昭和 21 年の地方制度の改正」 (32) 戦後自治史,第 1 巻,p.37-38 (33) 戦後自治史,第 1 巻,p.37 (34) 戦後自治史第 2 巻,p.228,下線は筆者。 (35) ついでながら台湾,関東州,朝鮮,南洋諸島という外地に関してもそれぞれの地方制度が設けられ たのは言うまでもない。『史料 日本の地方自治』,p.17 (36)『史料 日本の地方自治』p.23 (37)「沖縄県に関する府県制特例の件」 (38) 髙江洲昌哉,2001「近代沖縄の地方制度と議会」『南風原町議会史』,2009『近代日本の地方統治と ― 75 ― 軍用地料の「分収金制度」(7)(瀧本佳史・青木康容) 島嶼』ゆまに書房,2011「地方制度の整備」『沖縄県史 各論編 第 5 巻』 (39) 仲地博,前掲書,p.89 (40) 天川晃,前掲書,1974「地方自治制度の改革」 (41) 天川晃,1993b「日本本土の占領と沖縄の占領」横浜国際経済法学,第 1 巻第 1 号 (42) 天川晃,1993b,p45 (43) 天川晃・増田弘編,2001,地域から見直す占領政策:戦後地方政治の連続と非連続,山川出版社,p.5 (44) 前田武行,1993a「占領下の法制」『沖縄占領』ひるぎ社,p.338 (45) 仲地博,2001「戦後沖縄自治制度史」,南風原町議会史,p.78 (46) 天川晃,1993b,p.51 (47) 天川晃,1993a「占領と自治:本土と沖縄」『沖縄占領』p.315-16,ひるぎ社。天川晃,1993b,p.49 (48) 我部正明,2001,p.55 (49) 我部正明,2001「沖縄:戦中戦後の政治社会の変容」天川晃・増田弘編,地域から見直す占領政策: 戦後地方政治の連続と非連続,山川出版社,p.52 (50) 軍政府指令第 58 号,1945. 12. 04 (51) 仲地博,前掲書,p.84。沖縄戦後選挙史編集委員会編,1983,沖縄戦後選挙史第 1 巻,沖縄県町村会, p.752 (52) 仲地博,前掲書,p.78 (53) 天川晃,1993,p.63 (54) 仲地博,前掲書,p.91 (55) こうした法案策定過程について研究した文献があるのだろうか。当時の政府職員を日本の関係庁に 派遣し調査研究させたとの記述がある。沖縄市町村議会議会史,1969,p.395 (56) 仲地博,前掲書,p.104 (57) 1953 年の施行から 1971 年まで大きな改正が 9 回もある。 琉球政府法務局編,1961,琉球現行法 規総覧「行政一般⑵・地方制度」 ,第一法規。沖縄戦後選挙史編,1983,沖縄戦後選挙史第 1 巻, 沖縄町村会 (58) 沖縄市町村議会議長会,1966,沖縄自治名鑑,p.103 (たきもと よしふみ 公共政策学科) (あおき やすひろ 元佛教大学 社会学部教授) 2015 年 4 月 30 日受理 ― 76 ―
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