先週講壇 必要な糧を今日与えてください -主の祈り④ 2015年7月26 日 松本雅弘牧師 箴言30章7~9節 マタイによる福音書6章9~13節 Ⅰ.生きるための祈り 今日のところから「主の祈り」の後半に入り ます。「主の祈り」の前半を貫いていた言葉は 「あなたの」という言葉でした。 「あなたの名」 「あなたの国」そして「あなたの心」です。 これに対して後半は「わたしたち」という言 葉がキーワードになります。つまり、後半の3 つの祈りとは私たちのための祈りです。その最 初に祈り求めるように教えられているのが、 「わたしたちに必要な糧を今日与えてくださ い」という食べ物についての祈りなのです。 Ⅱ.生きるに必要な日々の糧 まず注意したいポイントは、罪の赦しとか誘 惑からの守りよりも先に、まず「糧を与えてく ださい」と祈るようにとイエスさまが教えてく ださった点です。「食べ物を求めるなど、はし たない」とか「次元が低すぎる」という批判が あるかもしれませんが、主はそのことを祈り求 めるようにと教えてくださっているのです。そ れはそのことを主ご自身が体験しておられた からだと思うのです。 Ⅲ.神のみに信頼を置くようにと導く祈り その上で、私たち自身に当てはめて考えてみ たいと思います。この祈りは「私たちが生きる に必要な日々の糧」を求める祈りなのですが、 現実的には、今はどこの家庭でも冷蔵庫には何 日分かの食べ物があります。仮に冷蔵庫の中が 空であったとしても、お財布には多少なりとも お金があり、クレジットカードが入っているこ とでしょう。そう考えてくると、正直言って「わ たしたちに必要な糧を今日与えてください」と いうこの祈りは、時代と共に切実さが薄れてき ていると言えるかもしれません。 それでは、この祈りは、現代日本に生きる私 たちにとって一体どんな意味があるのでしょ うか。そのことを考える上で、2つのことに注 目したいと思います。 まず第1に、この祈りは、神のみに信頼を置 くようにと導く祈りであるということ。そして もう1つは、ここでイエスさまが「わたしの糧」 ではなく「わたしたちの糧」と祈るように教え られた点です。 1つ目の点について、箴言30章7節から9 節の御言葉が光を投げかけているように思い ます。「2つのことをあなたに願います。わた しが死ぬまで、それを拒まないでください。む なしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけ てください。貧しくもせず、金持ちにもせず/ わたしのために定められたパンで/わたしを 養ってください。飽き足りれば、裏切り/主な ど何者か、と言うおそれがあります。貧しけれ ば、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかね ません。」 箴言の著者は、「私のためになくてはならぬ 食べ物で私を養ってください」と告白していま す。つまりこの告白の背景に、「私たちの生活 にとってなくてはならない必要最低限のもの まで、自分の力ではどうにもならず、ただ神さ まによって与えられなければならないという 告白があり」、「祈りがある」ということです。 生活していて不足が生じた時にだけ、「どう ぞ神さま、私に力を貸して足りないところを補 ってください」という祈りではありません。そ うではなくて、「私たちの命そのものが、神さ まの御手に握られており、そして、神さまは、 この命を支えるために、私たちに必要な食べ物 を今日も与えてくださる」という、神さまに対 する信頼を前提とした祈り、それが、この主の 祈りの意味でしょう。 出エジプトしたイスラエルの民が約束の地 カナンに定住した頃、彼らは1つの危機を経験 しました。それは「カナンの土地それ自体」が 神に代るものになっていく誘惑でした。カナン に移り住んだ彼らにとって土地は魅力あるも のでした。種を蒔けば芽が出る、そして大きな 実りがある。この力を宿した大地さえ手に入れ れば生活は安定する。自分たちを養っているの は、目に見えない神というよりも、大きな実り をもたらす土地そのものなのだと錯覚してい ったのです。その結果、主なる神さまをそっち のけで、一所懸命になって土地を手入れし農業 に精を出す。「神さまに対する信頼や信仰」に 代わって、 「土地があれば大丈夫だ」という「土 地信仰」というべきものが、 「神さまへの信仰」 にとって代わってしまいました。 これが旧約聖書に出てくるバアル信仰の本 質です。私たちが「これさえあれば大丈夫!」 と言って、神さまを礼拝するよりも別のものを 優先する時に、それがれっきとした「バアル」 、 すなわち「偶像」となるのです。 私たちは何を頼りにしているのでしょうか。 ある人にとっては会社であったり、自分の築い てきたキャリア、実績であったり、またある人 にとってはまとまった蓄えであったりするで しょう。80年代後半から90年代にかけての バブル時代に、土地不動産に手をだし、そのロ ーン返済でその後の人生設計を狂わしてしま った人たちが結構いました。勿論、会社や蓄え や土地不動産といった1つひとつのもの自体 は良きものでしょう。何故なら神さまからの賜 物ですから。でも気を付けなければならないの は、そうした1つひとつのものが、神さまによ り頼むことや礼拝の生活から私たちを遠ざけ、 神さまとの関係を後回しにするような結果を 招くものであるとするならば、そうしたものは れっきとした「バアル」であり「偶像」なのだ と聖書は警告するのです。 Ⅳ.「わたしたちに」与えてください 第2にイエスさまは「わたしに・・」ではな く「わたしたちに必要な糧を」と祈るようにと 導いておられます。この祈りを捧げる時に、私 だけ、あるいは、ちょっと広げて私の身内だけ が恵まれるようにということでなく、隣人の必 要のことも心に留め、隣人を思いやる心を持っ て祈るようにと教えられたのです。 いかがでしょう。確かに私には日ごとの糧が あります。でも、この大和市に住む人たちの中 に、生きていくに必要なだけの食べ物がない人 はいないだろうか。世界に、そのような人々は いないだろうか。イエスさまが教えてくださっ たのは、そうしたことを、想像力を働かせて祈 る祈りなのだということです。インターネット で検索すると「明日はご飯が食べられるのか な・・」と不安を抱きながら過ごしている人た ちが、世界には8億7千万人いるそうです。今 もアフリカでは、4人に1人が飢えに苦しんで います。そして今、1分間に、5人の子どもが 飢餓によって命を落としているというのです。 日本人の死亡原因の一位は「がん」だそうです が、実は世界全体で見ると「飢え」で亡くなる 人が今一番多いのです。コンビニに行けばいつ でも好きな物を手に入れることが出来る私た ちです。その私たち日本人の食料の6割が海外 から輸入されています。さらにその内の約半分 が途上国から運ばれてきたもの。日本人の食卓 は途上国からの食糧によって支えられている 現実があるのです。 4世紀に活躍したバシリウスという人は次 のように語っています。「あなたの家で腐って いるパンは、飢えた人々のパンである。あなた のベッドの下で白カビをはやした靴は、はだし で歩いている人の靴である。大カバンに死蔵さ せた衣服は、裸でいる人の服であり、金庫にし まいこまれ、使われないお金は貧しい人々のも のである」と。 現在、日本で1年間に廃棄される食料は千9 百万トン。これは途上国5千万人を1年間まか なうことの出来る量の食糧だそうです。地球上 にある食料を全部合計すれば、地球人全員を養 うのに十分な量になる。つまり飢えは食料不足 の問題ではなく食料分配の問題であることを 改めて知らされるのです。 ここでイエスさまは「わたしに必要な糧を」 ではなく、「わたしたちに必要な糧を」と祈る ように導かれます。連帯意識を持つように促し ておられる祈りです。使徒パウロは、コリント にあてた手紙の中で次のように語りました。 「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労 をかけるということではなく、釣り合いがとれ るようにするわけです。あなたがたの現在のゆ とりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆと りもあなたがたの欠乏を補うことになり、こう して釣り合いがとれるのです。『多く集めた者 も、余ることはなく、わずかしか集めなかった 者も、不足することはなかった』と書いてある とおりです。」(Ⅱコリント8:13~15) 主イエスは、「わたしたちに必要な糧を今日 与えてください」と祈るように教えてください ました。今日、この、パンを求める祈りを通し て、もう一度、私たちは自分で生きているので はなく、天の父によって生かされていること、 そしてまた、自分1人で生きているのではなく、 みんな一緒に生きていることを覚えたいと思 います。 祈りは祈る人を変えると言われます。この祈 りを心を込めて祈ることを通して、いよいよ神 に信頼を置き、社会の課題を自分の課題として 生きる私たちへと造り変えていただきたいと 願います。お祈りいたします。
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