PTSD の精神鑑定ガイドライン

付録❷
PTSD の精神鑑定ガイドライン
平成 7 年の阪神大震災,地下鉄サリン事件を契機にわが国で
も報道を通じて PTSD が一般に知られるところとなった。そし
て平成10年には民事訴訟でPTSDによる損害賠償が認められ,
平成 12 年には刑事事件の被害者が PTSD であるという診断を
受けたことを理由に,暴行罪からより重い傷害罪へと罪状が切
り換えられる事案も現れた。
このように PTSD は法的な判断に重大な影響を与えるように
なっている一方で,どのような体験ならば PTSD を発症するの
か,個人差を考慮しなくてよいのか,補償にあたっての重症度
や治療期間をどのように考えればよいのかといった疑問があげ
られ,専門家,とくに法曹界で大きな議論となっている。
ここではまず,架空の事例から PTSD の鑑定診断をめぐる問
題点を示して解説する。また鑑定にあたって,精神科医や法律
の専門家が留意すべき一般事項をまとめた。
1.事例検討
ここでは架空の事例をあげて,PTSD を法廷証言のなかで扱
う上での留意事項をまとめてみる。
〈事例〉
事故当時 18 歳の女子高校生が,交際中の男性の運転す
る車両の助手席に同乗中に口論となり,たたき合っている
うちに車がコンクリートの壁に激突し,腰椎脱臼骨折など
の重症を負った。事故後,しばらく彼女は意識を喪失して
おり,気がついたのは集中治療室内であった。骨折の治療
には数回にわたる入院が必要であった。事故の翌年に兄が
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交通事故で死亡した。2 年後には別の男性と結婚したが,
その 2 年後に夫は病死した。夫の死後 1 年後に実父が行方
不明となり,不幸が重なった。事故から約 5 年後,腰痛,
不眠などを訴えて精神科の受診を始めた。しかし,たび
たび錯乱状態を呈し,病院の 2 階から飛び降りたり,向精
神薬の過量服薬,自傷行為等の逸脱行動を繰り返すように
なった。精神科主治医の診断は境界性人格障害であった。
一方,彼女自身は交通事故の影響でこのようになったと訴
え,PTSD の鑑定書を求めて来診した。
■このような事例で留意すべき点
①交通事故の内容を客観的事実と被害者の主観的体験の両側面
に分けて詳細な記述をし,検討する。
② 診 断 の 信 憑 性 を 高 め る う え で は, で き る だ け ICD-10,
DSM- Ⅳなどの操作的診断基準を用いるべきである。そして
どの診断基準を用いたか明らかにする必要がある。PTSD と
診断するにしても境界性人格障害と診断するにしても,相互
に鑑別診断が重要である。
③兄と夫の死亡や実父の行方不明など,事故後に比較的大きな
ライフイベントがある。これらのイベントが精神症状発現に
関係している可能性も時系列的に検討する必要がある。
④事故時には意識を喪失していたのであり,事故の時点をトラ
ウマと捉えるべきか,集中治療室で瀕死の状態であったこと
に気付いた時点をトラウマと捉えるべきか,などにも評価が
必要である。
⑤精神障害の発症は,事故から約5年後である。PTSD である
としても,6カ月を過ぎた「発症遅延」のタイプであるとい
う特殊性に注意する。
⑥症状と事故との因果関係について判断する場合には,被害者
本人の供述だけに頼らず,第三者からの情報を得るなどし
て,より客観的資料を収集すべきである。
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⑦仮にこの事例に PTSD という診断を下した場合,主治医の診
断と相違することになるが,鑑定人はその理由・背景につい
ても言及する必要がある。
2.司法鑑定における PTSD の使用についての
留意事項* 1
次に,司法鑑定における PTSD の使用についての留意事項を
まとめた。
①司法鑑定のなかで PTSD とその周辺の障害の診断をする場
合,鑑定人は一般的な診断基準* 2 を厳格に適用すべきであ
る* 3。どの診断基準を用いたのかを明記し,診断基準の下
位項目について被鑑定人のどのような具体的側面が合致し,
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治療者(主治医)の役割と義務
治療者や主治医というものは本質的に患者の援助者であり,
公正中立であるべき鑑定人(鑑定医)を兼ねることは好ましく
ない。
しかし,だからといって治療者は裁判に関与してはならない
ということではない。むしろ,逆である。いかなる者も,裁判
所に求められた場合には証人としての証言を義務付けられてい
る。医師の場合には,若干の証言拒絶権が認められている(民
事訴訟法第 197 条1項各号)が,これは証言拒絶権によって
医師の守秘義務を確保し,患者を保護することを目的としてお
り,保護されるべき患者がその利益を放棄した場合に医師が証
言拒絶権を行使することは認められない。つまり,裁判所が求
め当の患者が望むならば,医師はその患者に関して診療上知り
得た所見を法廷で証言しなければならないのである。
また,医師は診断書の交付を請求されたら,正当な自由がな
いかぎりは拒否できない(医師法第 19 条2)。
治療者役割と司法的役割を混同してはならない,ということ
がよく言われる。たしかにそうであるが,同様に証人と鑑定人
を混同することもあってはならない。
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あるいは合致しないのかを記すのがよい。一般的な診断基準
の枠を越えて,PTSD の診断概念について詳細な言及をする
場合には,最近の研究や学術文献によるべきである。
②ただし,臨床で用いられている診断基準は法的目的に作られ
たものではないため,危険性と限界があることに留意しなけ
ればならない* 4。
③ストレス要因となった出来事が本当にあったかどうか,ス
トレス要因と PTSD 症状および社会的機能的障害の因果関
係*5 に言及する場合,鑑定人は慎重でなければならない* 6 。
④ストレス要因の同定にあたっては,当該のストレス要因以外
に臨床像に寄与した可能性のある複数のストレス要因を評価
しなければならない。
⑤ストレス要因となった出来事については,とくに診断基準
(DSM ­Ⅳでは A 基準)に合致するかどうかを検討し* 7,必
ずしも合致するとはいえない場合には,その出来事の被害者
にとっての特別な意味付けや,個体要因とくにストレス脆弱
性(先行するトラウマ体験,精神疾患の既往など),また二
次的トラウマによる増悪の程度などの検討を加えることが望
ましい。
⑥ストレス要因となった出来事と精神症状発生との時間経過と
の検討が重要である。当該の出来事より前,あるいは後のラ
イフイベントと PTSD 発症の時期や関係の程度を時系列で記
載することが望ましい。
⑦ストレス要因となった出来事の前と後の適応状態,およびそ
の変化についても精神医学的に記すべきである* 8。
⑧適切な除外診断を行い,PTSD 以外の診断分類,また診断の
併存も考慮されるべきである* 7。
⑨ PTSD を訴える本人の主観的症状のみに基づいた診断の場
合,法廷ではその信憑性が問われる可能性が高い。医学的評
価の質を高めるためには,可能な限り客観的情報を収集すべ
きである* 9。ここでいう客観的情報とは事件の前後の診療
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記録,周囲の人々の証言,心理テスト,学校・職場での適応
状況の変化,身体愁訴・疾病の増加,生理学的指標* 10 など
である。
⑩ただし前記の情報は現在のところ,それのみで PTSD 診断を
確定しうるものではない。あくまでも本人の訴えを裏付ける
傍証という程度に利用されるべきである。
⑪一般臨床においては患者の述べる内容について,ここで述
べているほどの厳格さをもって事実確認をすることは少な
い* 11。こうした治療者としての役割と鑑定人の立場とは,
とりわけ PTSD の司法鑑定においては混同されるべきでは
ない* 12。
⑫鑑定の信憑性を維持するうえでは,その鑑定人にこれまで
PTSD 患者の診断や治療にかかわった経験があることが望ま
しい。
[注釈]
*1
一般臨床家も,PTSD のクライエントを診療するならば,法
廷に証人として召還されたり診断書や意見書の提出を求めら
れる可能性がある。したがって,このガイドラインは鑑定だ
けではなく,日常臨床とその診療録記載のうえでも留意され
るべきである。もちろん,注 11 に述べられている治療的な立
場とは区別しなくてはならない。
*2
ここでいう一般的診断基準とは,現在のところ DSM Ⅳと
ICD 10 を指す。この両者のどちらを選択すべきかについて
も法的には議論されているので,留意が必要である。また可
能であれば SCID,CAPS などの構造化面接が実施されるのが
よいが,一方では詐病を誘発しやすいという指摘もある。自
由な発言のなかで確認される症状や,面接中に実際に鑑定人
の目前で確認される症状などと併せて総合的に評価すること
が望ましい。
*3
鑑定人が独自に PTSD を定義することは基本的に避けられる
べきである。たしかに上記の診断基準にはいくつかの批判が
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投げかけられている。そのような立場にたって一般的ではな
い診断基準を用いる場合には,その信頼性・妥当性が一般的
な PTSD 診断基準に相当もしくはそれ以上の程度であること
を立証する責任が鑑定人にあるといえる。現在提唱されつつ
ある「複雑性 PTSD」などの概念を使用する場合にも,これ
に準じた慎重さが求められる。
*4
DSM Ⅳでも「序文」にこのことは明記されている。
*5
この因果関係は法廷では,被害者が PTSD を訴える事件にお
ける「加害者の不法行為」と「被害者の損害」との因果関
係,および加害者が PTSD を訴える事件における「加害者自
身の過去のトラウマ体験」と「不法行為時の責任能力」との
因果関係となる。
*6
事件が本当にあったのかをめぐる事実認定は鑑定人の本来の
業務ではない。ことに被害者に PTSD 症状が存在することを
もって逆行性にストレス要因(=事件)が存在したことを証
明しようとすることは,鑑定人としては基本的に避けるべき
である。
*7
ストレス要因の強度評価について,労災認定においては強,
中,弱の三段階程度の評価を行うことになっている。また,
たとえば DSM Ⅳでは A 基準を満たさないストレス要因に反
応して PTSD の症状が起こっている場合には「適応障害」と
診断するのが適切であるとされている。ほとんどすべての症
状が PTSD に合致しても,発症がその症状持続期間が 1 カ月
に満たない場合(今後 PTSD に移行すると推測されるような
場合であっても),その時点では「急性ストレス障害(ASD)」
と診断しなければならない。
*8
適応状態の評価もまた,できるだけ客観的になされるべきで
ある。たとえば DSM Ⅳの第 5 軸である GAF スコアを用いる
などである。
*9
この点で,子どもの PTSD の評価にあたっては,保護者など
が同席せず,その影響をできるかぎり除いた場での面接が併
用されることが望ましい。
* 10 トラウマに関連する刺激に曝露したときの自律神経機能の変
化の測定など。
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* 11 なぜなら,基本的に事実の真偽を追求するよりも患者の主観
的訴えを支持する構えは,臨床的には有益であることが多い
からである。
* 12 同様に,被害者や加害者保護を訴える運動家の役割と,鑑定
人の役割も区別すべきである。
3.PTSD と因果性
PTSD の診断基準の中には因果性への言及はない。因果性は
一般的に事実的(経時的)と論理的とに分けられる。牛乳を飲
んだら腹痛になった,だから牛乳に原因がある,というのが前
者であり,腹部 CT でみつかった異常が原因である,というの
が後者である。PTSD の場合,前者の因果性に相当するのは,
体験された出来事前に存在しなかった症状が体験後に出現した
こと,体験直後に強い不安を生じたことである。後者に相当す
るのは,出来事がほぼ誰にとっても恐怖を生じるような客観的
性質を備えていること,侵入症状が体験を反映していること,
である。なお,症状面接の CAPS にはこのほかに,症状と出来
事の間の関連が臨床的に判断されるという留保がついており,
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被害者陳述の信頼性の評価
精神的被害の鑑定にあたっては,鑑定人は被害者本人のいう
ことをうのみにするのではなく,その陳述に整合性・一貫性が
あるかどうか,ことさらに被害性を強調しすぎていないかなど
について慎重に検討して,被害者の陳述の信頼性を評価する必
要がある。
被害者の陳述に整合性・一貫性を欠くように思われる場合に
は,それを被害者の詐言・詐病で片付けるのではなく─もち
ろんその可能性もあるが─,解離性症状が関与している可能
性を疑わねばならない。とくに,否認したところで被害者の有
利にはならないような記憶の欠落があれば,解離性健忘の存在
が強く疑われる。
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これも論理的因果性に相当する。しかしいずれも非常にあいま
いな規定であり,これだけで人を裁いたり,著しく賠償額を変
動させたりする根拠にはならない。それは現在の DSM が操
作的な診断分類の申し合わせに過ぎないことを考えれば当然
である。
他の疾患の診断基準にも,診断や症状の境界があいまいと
なっている箇所は多い。妄想が奇異であるか否かの判定が個
人の判断に左右されるのと同様,PTSD の出来事基準や,他
の出来事の影響,症状と出来事の関係の判断などにも,その
ようなあいまいさが残る。因果性に関して PTSD 診断は異質
(heterogeneous)な病態の混合であり,厳密には症例ごとに
専門的知識を応用して考察する以外にない。PTSD 診断が因果
性を直ちに担保するかのような扱いをすることは,司法の場に
おいては勧められない。
4.PTSD の診断について
A基準(出来事)
出来事そのものの線引きがつねに問題となるが,その時代,
文化を共有する者たちの間でどのように受け止められるのかを
つねに考慮する必要がある。今一つの問題は,残虐な殺され方
をした人の話を伝え聞いて,あたかもその出来事に 直面 し
たような衝撃を受けたまったくの第三者も,この基準に当ては
まることである。その場合,賠償の対象が際限なく広がって
しまう懸念がある。A 基準に合致するのかについて検討するだ
けにとどまらず,その出来事が,後述する B,C,D 基準にあ
る症状とどのような因果関係をもっているかを考えておくこと
がより重要である。なお,ベトナム戦争帰還兵士の PTSD 診断
について,CAPS を用いて診断したにもかかわらず,軍歴を調
べたところ,戦闘体験が確認できたのは 40%に過ぎなかった
という研究がある。どのような尺度を用いても,出来事の有無
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は,それを示す証拠に直接当たらなければ結論は出せない。
B 基準(侵入症状)
何らかの過酷な体験をしていれば,本人は出来事が「頭を離
れない」と語るので,一見この基準を満たす。加害者への「怒
り」や,汚染物質公害等による被害者の健康不安などもこれに
あたる。再体験とは,当時の出来事が十分な現実感をもって再
生され,当時と同じ感情を体験し,当時と同じ症状(不安,パ
ニック,動悸など)や行動(うずくまる,逃げだそうとする,
顔をかばう,など)を示すものである。また体験との関連を検
討する必要がある。PTSD は過去の記憶表象に対する不安であ
るが,恐怖症は現実対象,広汎性不安障害では不特定の対象に
不安を感じる。体験内容に付随して妄想的加工がみられたとき
には,妄想性障害である。頭部外傷で健忘が生じたとき,いっ
たい何が起こったのかと絶えず気にすることがあり,CAPS の
項目に合致するが,これは PTSD ではない。
C 基準(回避・麻痺)
この症状の一部は,必ずしも PTSD に特異的とはいいがた
く,抑うつ一般でもみられることがあることには注意を払って
おくべきである。対処行動として,その場所を避けることもあ
るが,それは PTSD ではない。時間的な前後関係などを慎重に
検討することによって,基準 A で特定する「出来事」が原因
となって生じた症状であるかどうかを確認することが重要で
ある。
D 基準(過覚醒)
この症状は,他の症状に比べると,客観的に確認されること
が多いので,詐病などを見分けるうえで有力である。また,意
図的にそれらを装うことは比較的難しい。具体的な状態像を周
囲の人々から確認したり,医療者自身も,入院中の観察項目と
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して注意を払っておくとよい。
なお,不当な被害にあったことに関する純粋な怒りは,当然
の感情である。PTSD 以外の抑うつ不安性障害,妄想性不安な
どでも,過覚醒に類似の症状は発生する。生来的な易怒的な性
格などとも区別されなければならない。A 基準で特定する「出
来事」によって生じた 症状 であるということを確認するこ
とが重要である。