奥明日香紀行

随想
奥明日香紀行
勝野 泰審
竜門岳と芭蕉
倭盆地、宇陀高原、吉野山地を分ける竜門山塊の主峰
竜 門 岳 は 津 風 呂 湖 畔 か ら そ の 秀 麗 な 姿 を 望 見 で き る 。北
は だ
吉野(口吉野)の神奈備である。奥明日香、羽田郷から
竜 門 岳 へ は 三 ル ー ト 。 多 武 峰・冬 野 最 高 所 波 多 神 社 を 経
にゅうたに
て 竜 在 峠 を 越 え 滝 畑 へ 。 奥 明 日 香 栢森・ 入 谷 か ら 芋 峠 を
越え千股へ。壷阪寺から壷阪峠を越え大淀古道を畑屋 ・
安 産 滝 ・世 尊 寺 を 経 て 吉 野 川 畔 六 田 へ 。
? の小文によると葛城山麓で
あけゆく
猶 み た し 花 に 明行 神 の 顔
の句を残し、三輪・多武峰から臍峠を越え竜門岳を目指
した芭蕉は峠道で
ごえ
雲雀より空にやすらふ峠 越
と吟じたあと竜門滝に分け入り
じょうご
つ と
竜門の花や 上戸 の 土産 に せ む
酒のみに語らむか ゝる滝の花
たけ
と 嘆 じ た 。仰 ぐ 竜 門 岳 山 頂 岳 神 社 に タ カ ム ス ビ 神 が 祀 ら
れ、麓山口に里宮があり、竜門郷の村々の信仰を集めて
いる。竜門岳西麓は西北に滝畑・畑屋の集落があり、羽
たか むち
たかむす
たか とも
田 郷 に 見 ら れ る 高 取 山 ( 鷹 貴 山)と 高 生 神 社 ・ 鷹 伴 と の
関係に類似することから羽田郷と一体をなすのであろ
う。大海人皇子の吉野への逃亡 の舞台でもあった。
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国史跡世尊寺は壷阪峠の山々を後背とし大淀古道沿
い に あ る 。 比 蘇 寺 ・ 吉 野 寺・ 現 光 寺 ・ 栗 天 奉 寺・ 世 尊 寺
と山号が変遷、寺歴の古さを物語っている。本尊 阿 弥陀
如 来 坐 像( 重 要 文 化 財 ) は 紀 の 欽 明 紀 に 茅 渟 海 中 に 浮 か
ぶ樟木から造られたとある。東・西の塔跡、金堂跡から
本 堂 背 後 へ と 辿 る と 芭 蕉 の 句 碑 。貞 享 五 年( 一 六 八 八 年 )
芭 蕉 は 弟 子 杜 国 を 伴 い 参 詣 。聖 徳 太 子 お 手 植 え と の 伝 あ
る檀上桜を眺め一句。
世にさかる花にも念仏まうしけり
桜 は 眺 め ら れ な か っ た が 、宝 蔵 近 く 陽 光 に 輝 く 山 茶 花
の大木に紅花を仰ぎ見ることができた。
古代の吉野は両岸の山々とその流域。北は竜門岳・高
取山、南は青根ヶ峰・山上ヶ岳、東は国栖付近までであ
った。吉野川流域は縄文遺跡が多く縄文街道と称され、
古 代 人 の 住 み 易 い 地 勢 で あ っ た と い う 。大 淀 町 桜 ヶ 丘 遺
跡 ・ 北 六 田 遺 跡 ・ 比 蘇 寺 ( 世 尊 寺 )。 吉 野 神 宮 東 丹 治 遺
跡・ 宮 滝 遺 跡 ( 縄 文 か ら 弥 生 ・ 古 墳 時 代 ま で 続 き 、 下 流
紀 ノ 川 筋 遺 跡 に 類 似 )。下 市 阿
知 賀 遺 跡( 古 墳 時 代 )等 々 。
みか い
い ぶ き い か づ ち な るいかづち
気吹雷饗 雷 神社と波多甕井神社
高 取 町 奥 羽 内 、峡 の 段 々 畑 近 く 小 高 い 所 に 式 内 大 社 波
多甕井神社が鎮座。祭神は甕速日命、近くに泉があり、
古 伝 に「 波 多 の 池 」 が あ る こ と 、甕 井 の 名 が つ く こ と か
ら波多(羽田)氏の祀る水神であろう。明日香の神奈備
三諸山に式内大社気吹雷饗雪国 栖御魂神社の旧跡があ
る 。雷 社 と 国 栖 社 が 合 祀 さ れ た も の で 、 も と 雷 社 は 羽 田
郷、国栖社は国栖村にあったとの伝。雷社の旧名は羽田
※井坐気吹雷饗雷社で波多甕井社に合祀されていたと
い う 。五 郡 神 社 に 波 多 甕 井 神 社 と 気 吹 雷 饗 雷 社 は 波 多 御
井神社と称し、稲淵山(三諸山)上にあったという。三
諸山、羽田郷、国栖村の関係を暗示している。
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風神はギリシャ神話のポレアスがガンダーラ・中国を
経て我が国に伝来。雷は畏怖する神ではなく、稲田に雨
水を 斎 す恵の神。雷光は稲妻であり、稲穂の稔りを助長
す る 。雷 神 は ク ニ の 聖 地 に 部 族 の 首 長 に よ り 斎 き 祀 ら れ
た 権 威 あ る 神 。古 来 雷 神 を 祀 る 場 所 は 祈 雨 の 斎 場 で も あ
ほ い かづち
かつらぎます
った。雷神には更に火 雷 神がある。 葛城坐 ・乙訓坐・
下鴨坐火雷神。火雷神は前述のように稲妻を象徴。降雨
かぶら や
の神である。また、火雷神は 鏑 矢 を使う神としても畏
敬 さ れ た ( 日 枝 ・ 向 日 社 祭 神 )。
か や な る み
明日香川上流栢森の 加夜奈流美 神社はもと三諸山雷
に祀られて いた。後の時代に現在地に遷座。祭神高照比
か わ か み に い ま す う す た き ひ め
売 は 女 雷 神 と い う 。下 流 の 川 上 坐 宇 須 多 岐 比 売 神 社 の 祭
神下照比売も女雷神―秋津島の鴨都波神社の祭神でも
ある。配神の 事代主神は弥生の田の神とされるが、雷
神・蛇神でもある三輪山の大物主神の子神であり、この
三 神 は 稲 田 に 滋 雨 を 斎 す 神 と し て 結 び 付 い て い る 。国 栖
神 社 祭 神 は 磐 突 押 開 命 。鉱 山 神 で あ ろ う 。こ の 地 方 は「 ニ
ウ 」 の 地 名 が 多 く 、 古 代 水 銀 が 採 掘 さ れ て い る 。三 諸 山
の峰続き冬野の最高所にある羽田神社は羽田大神を祀
る 式 内 小 社 、 五郡 神 社 記 に 波 多 氏 の 祖 神 を 祀 る と あ る 。
明 日 香 の 神 奈 備 三 諸 山 背 後 に 畑 の 集 落 。上 畑 は 三 諸 山
か ら 多 武 峰 近 く の 冬 野 ま で 続 く 尾 根 周 辺 に 散 在 、上 畑 か
らは細川下流明日香盆地は一望のもと。橿原・倭盆地も
見 渡 せ る 要 轄 の 地 。弥 生 の 高 地 性 集 落 の 名 残 か と 思 わ れ
る 。 下 畑 は 明 日 香 川 源 流 近 く の栢 森 ・ 入 谷 か ら辿れ、ま
た三諸山の峠越えもあり、神の山の隠れ里の感じ。古代
秋津島・高取から東行した葛城剣根系・羽田祝系 の 一派
が 倭 大 乱 の 頃 、神 の 山 の 裾 に 隠 れ 住 ん だ の か も 知 れ な い 。
明 日 川 稲 淵 左 岸 に 松 尾 集 落 。下 流 橿 原 東 剣 池 孝 元 陵 近 く
に大歳神社。
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みやこ
郷土史家によると明日香・泊瀬は 京 としては隈の地
形―防衛的立地にあるという。栢森が伽耶の集落(王)
を 意 味 す る と す る と 、半 島 か ら 動 乱 を 避 け て 渡 来 し た グ
ループが、北九州を経て東へ東へと移動、安住の地とし
とぶとり
あ す か
て こ の 地 に 居 を 定 め た の で あ ろ う か 。ま さ に 飛 鳥 の 安 宿 。
畑 の 集 落 は こ の よ う な 思 い が 浮 か ん で く る 。古 代 へ の ノ
スタルジアであろうか。栢森は各所にある。山代大原野
灰 方 の 大 歳 神 社 の 森 。 周 辺 は 葛 野 ( 秦 氏 の 大 根 拠 地 )。
あ な し
大 和 高 原 都 祈 村 入 口 に 萱 森 。 背 後 は 穴師 山人の里。
明日香の古代遺跡
橿 原 か ら 明 日 香 に か け て は 古 く か ら 拓 か れ た 土 地 。縄
文・弥生遺跡が各所にある。橿原神宮周辺は橿原遺跡と
して縄文・弥生の住居跡や出土品が多数。市域の新沢遺
跡・中曽司遺跡は弥生前期から後期にかけて集落が引き
続 き 形 成 さ れ 、重 要 文 化 財 の 水 注 型 土 器 他 各 種 石 器 、杵 、
鋤 等 の 木 製 品 、鹿 ・ 猿 の 骨 、 桃 ・ 梅 ・ 胡 麻 等 植 物 の 遺物
が出土。更に藤原京の下層に弥生遺跡が多く、四分遺跡
では銅鐸型土器が出土し、弥生の中核的遺跡という。田
原本の唐古・鍵遺跡、御所の鴨都波遺跡とともに倭盆地
の 弥 生 の 中 心 的 集 落 。曽 我 川 右 岸 の 忌 部 山 遺 跡 は 出 土 品
から大規模な高地性集落と考えられている。
飛 鳥 板 蓋 宮 跡の 下 部 遺 構 遺 跡 は 縄 文 か ら 古 墳 時 代 へ
の遺跡、住居跡・土器類が出土、製塩土器は紀伊系のも
の。島遺跡は縄文晩期から弥生中期の住居跡。土器は広
範囲に出土。稲淵ムカンダ遺跡は縄文集落の祭祀跡。
中・後・晩期の土器・石器が出土。吉野川流域と倭盆地
遺 跡 の 中 継 的 遺 跡 と い う 。私 達 は 日 本 文 化 発 祥 の 地 と し
て 歴 史 時 代 の 飛 鳥 に 目 を 奪 わ れ て い る が 、そ の 下 層 に 眠
る縄文・弥生に思いをめぐらし、先人の営み・国の成り
立 ち に つ い て 考 え る こ と が 必 要 で あ ろ う 。( 個 人 会 員 )
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