(100)戦前の「弾丸列車構想」

(100)戦前の「弾丸列車構想」が新幹線で甦る
100)戦前の「弾丸列車構想」が新幹線で甦る 零戦など旧軍の技術を結集
2015.3.22
昭和34(1959)年4月20日、静岡県熱海市で国鉄新幹線の起工式が行われた。
在来の東海道線のトンネルと並行して掘削される新丹那トンネルの熱海側入り口で
ある。
神事に続いて行われた十河信二国鉄総裁によるクワ入れは参列者たちを驚かせ
た。
通常は積まれた砂に型どおり軽くクワを入れるのだが、当時75歳の十河は大上段
に振りかぶり「エイッ」と力いっぱい打ち込んだ。胸の菊の飾りが落ちたが、構わず2回
目を打ち下ろす。3度目には力余ってクワの先が抜け参列者の前にころがったという。
十河の新幹線にかける思いの強さを示していた。
戦前の鉄道院出身で南満州鉄道(満鉄)理事などもつとめた十河は昭和30年、「古
巣」のような国鉄の総裁に任命された。就任直後、総裁直属の審議室に「広軌新幹
線」建設の検討を指示する。
レール間が在来の国鉄線(狭軌)より37センチほど広い国際標準軌間(広軌)の幹
線を新たに東京・大阪間に敷くという計画だった。当時いわゆる太平洋ベルト地帯を
中心に急速に成長する日本経済を支えるには、広軌による高速鉄道を走らせるしかな
い。それが十河の信念だった。
だが審議室の報告を受けた国鉄の理事たちの間には「狭軌による拡充をはかるべ
きだ」という反対論が強かった。
十河は国鉄内の説得にあたる一方、有力政治家に新聞記者並みの「夜討ち朝駆
け」をかけて新幹線の必要性を訴えた。政治を動かし運輸省を動かすことで実現をは
かろうとしたのだ。
この結果、「強力推進」をうたった運輸省幹線調査会の答申を経て33年12月、岸信
介内閣は閣議で早期着工を了承、起工式にこぎつけたのだ。十河が「新幹線生みの
親」と言われるゆえんである。
その十河の胸のうちに、戦前の「弾丸列車新幹線」計画があったことは間違いない。
昭和14年に決まった計画は、東京と山口県の下関の間に広軌による「新幹線」を敷
設、満鉄の「あじあ号」に負けない「弾丸特急」を走らそうというものだった。戦線が拡大
する中国大陸に兵員や物資を迅速に輸送することも目的のひとつで、東京-下関を9
時間で結ぶ計画だったという。
路線や途中駅の位置もほぼ決まり、東京-大阪間では約95キロの用地を買収して
一部は着工した。最も難航が予想された新丹那トンネルは、十河がクワを振り上げた
熱海と函南の両入り口から計2キロ以上掘削が進んでいた。
戦後の新幹線はこの弾丸列車路線をかなり踏襲できるわけで、政治家や運輸省を
説得する大きな材料となったのである。
その他にも多くの戦前の「遺産」が生きていた。
新幹線の列車や安全装置の開発は松平精、三木忠直、河邊一ら鉄道技術研究所
のメンバーが中心となった。このうち松平と三木は旧海軍の航空技術廠(しょう)で零戦
(零式艦上戦闘機)などの設計や製造にあたり、河邊は旧陸軍の電気工学の専門家と
して知られていた。
松平と三木はそれぞれ戦闘機づくりの経験から時速200キロを超えるスピードが出
て、それでも安全で揺れの少ない列車の製造にあたった。一方河邊は、安全運転の
要となる自動列車制御装置(ATC)を開発する。
着工から4年近くたった38年3月30日、松平らが設計した試作車は神奈川県の小
田原-綾瀬間に設けたモデル線で世界最速となる時速256キロのスピードを出すこと
に成功する。世界に冠たる新幹線の速度と安全は旧軍の技術に支えられたのだ。
だが順調とばかりはいかない。当初約2千億円と見込んでいた総工費がほぼ2倍の
3800億円に膨らんだ。批判をあびた十河は38年、任期満了とともに総裁を辞めざる
を得なかった。
39年10月1日、東京五輪開会式の9日前、東京駅で行われた出発式に「生みの
親」は招待もされなかった。だが日本の経済成長に果たした役割は今、誰もが認める
こととなった。(皿木喜久)
◇
【用語解説】その後の新幹線
開業時最速の「ひかり」は東京-新大阪間を4時間で結んだ。約1年後の昭和40年
11月1日からは3時間10分に短縮、現在の「のぞみ」は2時間半前後で走る。
路線は47年、新大阪から岡山、50年には博多まで山陽新幹線が開業する。57年、
大宮-盛岡間の東北、大宮-新潟間の上越両新幹線、平成9年には長野新幹線が
それぞれ開業を迎えた。さらに22年12月までには東北新幹線が新青森へと延伸、23
年3月には博多-鹿児島中央間の九州新幹線が全線開通、今年3月14日には北陸
新幹線の長野-金沢間が開業した。来年春には北海道新幹線も開業予定で、九州
から北海道まで新幹線が走ることになる。