<通訳ガイドで食べていく方法>資料 植山源一郎 ●強い動機付け (1)シュリーマンとの出会い。 (2)大学入学式の日に、2 千円持って家出。以後、学生時代の学費、生活費をすべて自分で稼ぐ。 何とかなるものである。 (3)大学2年生の時に<ハロー子供英語教室>を設立。卒業時、高円寺2カ所、西荻窪1カ所の計3 カ所で、アメリカ人留学生を使い経営していた。ソニーの初任給が、52,500 円だったところ、卒業時、 15 万円の収入があった。車を買って通学していた。 (5)ソニーLL 英語スクール入社。英会話教師→スクールマネジャー(大阪梅田校)となり、計 3 年半勤 務。自分の働きのわりに給料が安いと思った。 (6)ソニーの時代に、英検 1 級、通訳案内士試験に合格。大阪で関西通訳協会(勉強会)を設立して 運営。ILC(International Language Center)を設立して勉強仲間を派遣していた。 (7)住友ゴム工業株式会社(日本ダンロップ)に 150 倍の難関を突破して転職、月給が二倍になった。 副社長(英国人)の秘書兼専属通訳。1 年間勤務後に退職。退職時に、すでに、土日で約 20 万円 の収入があった。 (8)新大阪に、ハロー語学・文化センター設立。外国人に日本語、日本料理、陶芸などを教える教室 (逆転の発想)だったが失敗。 (9)直ぐに、日本人向けの英検 1 級、2 級、通訳案内士受験対策コース、英会話コースを開設。校名を ハロー語学センターに変更。英検 2 級コースは直ぐに廃止。問い合わせ者の半数が入会した。 (10)売上は、初年度:1,000 万円→2 年目:3,500 万円→3 年目:6,500 万円と順調に伸ばす。 (11)創立 4 年目にして東京進出。英会話コースを廃止。通訳案内士受験対策コースと英検 1 級受験 対策コースのみとし、東京校は通訳案内士受験対策コースのみ。 (12)月 1 回指導の東京校設立(2 台のチェスコムの電話転送装置を世田谷の実家におき大阪で対応)。 場所は、中野サンプラザ(安かったから)とか高田馬場の春秋会館を使う。1 クラス 250 名、1 日 6 時 間(10:00~17:00)の受講料 1 万円で、一日 250 万円の売上。 (13)中野に事務所(プラス教室)を借りて本格的に、東京校の運営に乗り出す。創立 9 年目に、校名を ハロー通訳アカデミーに変更。 (14)早い時期に、マイコン(PC8001)を導入。Basic のプログラミングの勉強をして、模擬試験処理プロ グラムを自作。東芝の漢字オフコンを導入して IT 化を推進。 (15)早い時期に、全社員に通信機能を持ったワープロ、パソコンを持たせ、IT 化を推進。「今は、IC の 石器時代だ」が、当時の私の口癖だった。 ●決断力と実行力 ・作戦要務令(司令官の任務は決心することにあり)、孫子の兵法、経営書、戦国武将、経営者の伝 記などをよく読む。 ・阪神淡路大震災の時のエピソード。 ●ハウツーは、ネットでも本でも学ぶことができる。 ●大切なことは、自分にも他人にもとことん誠実であること。 ・(民)信なくば立たず。(民無信不立) ●そして、諦めないこと。
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