深さのエコロジー=デプス・エコロジー日本語版

深さのエコロジー デイビッド・エイブラム
訳註:deep という言葉には、(浅いに対する)深いという意味と(平面的に対する)奥行きがあるという
意味を両方含む。この文章は deep の2つの意味の混乱によって見えなくなってしまったディープエコロジ
ー運動の意味について語っている。
社会運動や思考方法としてのディープエコロジー(深いエコロジー)がよく対比される
相手は、従来の環境主義であり、また特に、生態系の乱れという問題を生んだもっと根深
い文化的前提と習慣を反省し変革を求めることなく、その最も明らかな症状を軽減するこ
とだけに注目するアプローチであった。ディープエコロジーの支持者は、環境問題に 「バ
ンドエイド」を貼るような一時しのぎの色々な解決法を用いるのではなく、表向きには「よ
り深い」問いを投げかけ、より深く長期的な解決策を得ようとする。頑固な環境保護活動
家の中には、自分たちの熱心な活動がある種のシャローエコロジー(浅いエコロジー)に
終わっているとほのめかされると、気分を害する者もいる。実際、環境問題に対するアプ
ローチを、「深い」「浅い」などと暗黙のうちに比較することが、ディープエコロジーとい
う思想がもつある種の傲慢さを多くの人々に疑問視させる結果となり、近年ではそのよう
な疑問のため、ディープエコロジー運動はいくらか弱体化し、軽視されるようになった。
しかし、ディープエコロジー運動が持つ計り知れない可能性や、ほとんど未熟であるに
せよ力強い直感の集まりとしての「ディープエコロジー」が持っている真の雄弁さは、ア
プローチが「深い」「浅い」という安易な対比とは全く無関係だったと、私は信じる。これ
についてのアルネ・ネスの洞察には、神秘的で、魔法のような部分さえあった。洞察力の
ある尊敬すべき活動家たち、なかでも、大自然への熱烈な愛情を持ち、文明が命ある地球
に与えている醜い辱めに対する怒りの感覚を持った、科学者と農家、教授と詩人、芸術家
と無政府主義者といった多様な分野の人々を、ディープエコロジーは惹きつけた。それは、
自ら地球に生きる動物であると認めることを恐れない才気あふれる人々が集うこの活動の
中に、それまでにない心からの謙虚さを感じられたからである。彼らはみな、人間は地球
に生きる多くの生き物たちの一員にすぎないと認めることに喜びを感じた。人間はもちろ
ん注目すべき生物ではあるが、結局のところ、ハイイログマや、鵜(ウ)や、そよ風に揺
れる草に乗るクモ以上に驚くべきものなど何もないのだ。ディープエコロジーは傲慢とは
程遠く、それを特徴付けていたのは、新しいタイプの謙虚さだった。つまり、私たち二足
動物は全て複雑に絡み合った生命の網の一部であるという新しい前提と、生命共同体のな
かで一市民としての責任を放棄することなく、熟慮し行動しようという新しい願いであっ
た。この謙虚さには別の面があって、我々の意図を全て超越する世界を目の前にしたとき
の絶えざる驚き、あるいは、人間をはるかに超える世界の中にあって、なお人間であるこ
との心地よく時に恐ろしくなるような認識であった。
「ディープエコロジー」という名前は、「ディープ」という不思議な言葉がもつ意味の豊
かさのおかげで、この新しい衝動と非常にうまく共鳴した。その意味を意識している人は
非常に少数だが、我々の肉体は初めからそれを正しく感じ取っていたのではないかと私は
思う。
「深い」という形容詞は、我々が経験する世界の特定の方向、つまり次元を指すので、
それはしばしば第3の次元と呼ばれ、写真家が「被写界深度」について語るときに指して
..
..
いるものである。それは、近く から遠く へ、我々が立っているこの場所から水平線のその
向こうへと続く方向のことである。この次元の不思議な性質は、「高さ」や「幅」のように
我々が認知する世界で完全に客観視されるようなものとは異なっていて、深さ、つまり奥
..
行きの次元は、その世界の中に いる観察者の位置に全面的に依存しているのだ。たとえば
..
石の高さは、私がその周りを動いても変わることはないように見える。しかし、石の奥行
.
き 、つまり石の近い側と遠い側との関係は、私が石の周りを動けば絶えず変化する。山の
..
高さ、谷の幅や長さとは違って、風景の深さ というのは、我々がその風景の中のどこに立
っているのかということに完全に依存している。そして、我々がその風景の中で身体を移
動すると、風景の深さは我々の周りで移り変わってゆく。
実際には、誰かがその空間のどこかにいる時だけ、空間は奥行きを持つ。積み上がった
石や木々が立ち並ぶ森は、あなたの肉体がその岩や木立と同じ世界にいるときにだけ奥行
きを持つと言えよう。
たとえば、私がテレビの自然番組を見ているとき、雌のライオンが子ライオンたちと一
緒に木陰でだらりと寝そべっているのを見ながら、もし私が立ちあがってその部屋を歩い
て横切ったとしても、私の動きはテレビの画像に全く影響を及ぼさない。部屋の奥行きは
私が動くと私の周りで移り変わってゆく。私が本棚の前を通り過ぎるとき、まず本棚が私
の前に現れ、その前を通り過ぎれば後方へ姿を消し、譜面台のそばを歩くとそれは私とテ
レビ画面の間に来る。しかし、子ライオン同士の空間的な位置関係、もしくは子ライオン
と後ろの木との位置関係は変化しない。ライオンと私は同じ空間にいないからだ。私は彼
らの世界からは完全な外側に立ってその世界を見ているのであり、私は平面的な風景を見
ている全く孤立した見物人なので、それらと私の間に奥行きは存在しない。私の身体が真
に遭遇した相手は、ライオンとは全く違う、平らなテレビ画面なのだ。
近代科学、つまり従来の科学は、自然界の観察は完全に外部の切り離された場所から行
うものだと長い間仮定してきた。そしてエコロジーという科学はそれに先立つ古い科学か
らこの仮定を引き継いだ。それは、様々な生物の相互作用やそれらを取り巻く地球環境を
我々が客観的に分析できるという仮定であり、まるで我々自身が同じ環境の一員ではない
かのように、あたかもこの生態系の真ん中に埋め込まれ共に進化してきた我々の肉体から、
我々の理性がどうにかして自分自身を解き放つなら、完全に切り離された中立的な視点か
ら生態系を観察できるという仮定である。高校の生物の授業で、我々は黒板に書かれた地
域生態系の複雑な図をまじまじと見つめたが、それを見つめている我々自身をその生態系
に含めることなどなかった。後になって、コンピューターの画面上に生態系モデルをつく
る方法を学んだ者もいた。私自身、このような練習問題から学ぶところは多かったが、私
が学んだ最大のことは、地球の自然とは外側から十分理解できる客観的で限定された現象
なのであって、私を包み込んでいながら私自身も完全にその一員となっているような、何
か神秘的なものなどではないということだった。
身体を持った二足歩行動物が地上の諸物の中に立っているという視点からしか、我々は
...
本当に実際の 世界を体験することはないという事実、つまり世界の深さと奥行きを、無視
しあるいは見落とすとき、我々はこのような自然観の存続に手を貸すことになる。我々は
全面的にこの地球上の世界の中にあってその一部をなしているから、自然がある一面を私
たちに見せるのは、他の側面を隠すことによってのみ可能となるのであって、我々は地上
で起こる現象の全てをけっして一度に知覚することはできない。我々はこの世界に没入し
た動物なので、我々が直接遭遇する全ての物事は、その深さと奥行きをもって、つまり目
に見える面と見えない面、我々の視線にさらされる近い側面と視界から隠された遠い側面
をもって、我々の目の前に現れる。自 然 を 客 観 的 に 理 解 で き 、世 界 の 営 みを 明 確 か つ 完
.....
...
全に理解できると信じることはつまり、上から見下ろした真っ平らな世界、深さの
....
無い世界を信じることであり、自然とは我々自身その一部ではなく、まるで神か、
コンピューター画面を見つめている人のように、外から眺めるものだと信じること
なのである。
ディープエコロジー(深いエコロジー)は、むしろデプスエコロジー(深さのエコロジ
ー)と呼ぶべきものだが、この仮定の正当性に疑問を呈し、肉体を伴わないこのような冷
淡な分断はそれ自体が幻想で、我々が大地と破壊的な関係を持つようになった第一の原因
だと示唆する。我々を取り囲む生態系に自分の身体が埋め込まれていることこそが第一に
重要で、我々は地球上の生命の網と完全に絡み合っているのだと、ディープエコロジーは
主張する。それが示唆するのは、我々が誤って外側から研究し操作し管理しようとしてい
るこの世界に、我々は完全に浸り、依存しているということだ。
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したがって、ディープエコロジー の考えによって最初に提起された最も意義のある対比
... .
は、「浅い」アプローチと「深い」アプローチとの安易な対比ではなく、むしろ平面的か深
. .. .
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み があ る か、つまりフラットエコロジー とディープエコロジー との対比であり、外側から
自然を見る分離した見方と、我々を取り囲み、我々の中に入り込んでいる自然の深さを見
...
つめる(そして感じる)没入した見方との対比だったのだ。別の言葉で言うなら、ディー
......
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プエコロジーは、我々が地球生態系のまさに奥深くにいることを暗示していたようだった。
様々な方面から「ディープエコロジー」という言葉に引き寄せられた我々全員を団結さ
せたのは、生物圏に我々が完全に内在しているという、この暗黙の含意であり、この深さ
への直感だった。我々が感じる生きた地球との一体感や血縁関係を引き裂かないような、
語り方と考え方の必要性を、我々みんなが感じ取っていた。そしてその必要性は今日でも
変わらず強く残っている。我々自身の命は川や森の命と完全に連続し、我々の知性はオオ
カミの知性や湿原の知性と絡み合い、我々の息づく身体は生い茂る地球の肉体の一部にす
ぎないと肯定することで、つまり我々が何かとてつもなく大きく謎に満ちたものの一部で
あると認めることで、デプスエコロジーは神聖なるものに対する新しい(そしておそらく
非常に古くもある)感覚を開くのだ。その感覚は、神聖なものの在り処を天上から地上へ
と降ろし、皆伐やダムや絶滅種の増加といった問題を、神への冒涜として顕在化させ、平
面的世界観から生じるバイオテクノロジーなどの自然を極度に改変する技術の企てを前に、
我々を踏み留まらせる。デプスエコロジー(深さのエコロジー)は、この聖なるものを我々
に体験させてくれる。それは、まさに我々をその肉体の内に抱いた多声音楽のような大地
であって、その神秘は誰の目にも明らかで、感覚に訴えるものでありながら、我々の心を
込めた関与を大変に必要としているということを、極めて内的に体験させてくれるのだ。