人と防災とのかかわり はじめに 当初、人間にとって自然現象は生活そのものに密接にかかわっていて、ありがたくも恐ろし い存在ではなかったのかと思われる。したがって、ひたすら、その偉大さに崇め、時に怒る ことを避けるように生活していたと思われる。 したがって、前触れのない自然災害に対しては、きわめて敏感そのものであったろう。それ が、時代とともに、経験も積んでくると、その密接さは薄れてきて、それこそ忘れたころに 災害が、まるで思い出させるように経験させられる。 我々は、自然災害にどのように関わってきたのか、時を経るごとに関心が薄れてしまうのか、 被災の経験がなぜ、風化することなく次世代に伝わらないのだろうか。 このようなことを考えつつ、先人の足取りをたどりつつ、災害をできるだけ大きくしない手 だてを考えてみることにする。 内 容 1.自然のシステムの中で人間が暮らすということは何か? 2.自然を制御しようとしてきた結果は何か? 3.人間は自然をどのようにみてきたのか? 4.経験から学ぶことは何か? 5.自然は、社会、人文的にはどのように関わってきたか? 6.これからの自然と人間の関係はどうあるべきか? 7.自然の驚異をどう認識するか? 8.自然のシステムを重視した生活は、後退した考え方か? 9.自然とのかかわり方を身に着けるためには? 10. 自然共生と経済活動は矛盾することか? 11. 自然資本という考え方の内容は? 12. 資本は上手に活用すれば利殖、誤ると元も子もなくなる、最悪は危険や危機を招く 13. 教育の役割と指導者の意気込み、総合学習の充実化への試み 14. 自然と人間の位置関係を明確にする 15. 自然共生、ミチゲーションとはなにか?必要悪という見方も? 16. 人間生活の基本は安全、安心であることは不変、不安や恐怖はどこから? 17. 杞憂は不要で愚かなことか? 18. 自然と人間生活との歯車の差異 19. 自然のサイクルでの対応の仕方 20. 災害列島における健全な生活の在り方は何か 21. 資本は使い切ったらおしまい、有効に活用して、さらなる資本の蓄積を図る 22. 感性 23. 自然から新しい構想を生む 24. 豊かに暮らす、幸せに暮らすための自然とのあり方、地球人としての継続性 25. 自然共生と安全な環境 26. 自然共生と安全安心の障害 27. 歴史人口学から見た自然災害の一端 28. 災害列島での生き方 29. 地象への理解と応用 30. 自然現象に対して抵抗、強化 × 強靱化 〇 31. 教育 32. 地名から地域を知る例について 33. 土地開発の視点 34. 予防学と失敗学 学習成果は生かせるか 35. 予測は困難なものに対する対応 36. 防災の多面性 37. 災害経験を風化させないためには? 38. 自然の利用 39. これだけの社会なのに、なぜ安全と衣食住に不安を感じるのか? 40. 情報について~収集と伝達の技術~ 1.自然のシステムの中で人間が暮らすということは何か? 人間が地球上に誕生してから、自然と人間の関係は変化していることは明らかである。 誕生時は、いわば、海難に遭遇して島にたどり着いて状況に類似しているかもしれない。 周囲は未知の世界であり、食べ物があるのかどうか、危害を受けるようなものが存在して いるのかさえ分からないものであったろう。とにかく、水や食料といったエネルギーにな るものを求めることに一心になったものと思われる。それは自然からの収奪の生活であっ たものと想像できる。自然にあるものを、その場の感覚で経験を積む以外には手立てはな い。この段階ではとても生産することは不可能で、自分の体感と体力だけが頼りであった。 気象にしても、どのような状況がいつということは全く分からず、起きる現象のままに生 きることになり、ある時は歓喜し、ある時は不安や恐れに追われる状況であったろう。 そのような中で、経験を積み、自然現象は大まかには類似のことが繰り返されて、時には その流れとは異なるような、火山噴火、大洪水、地震や津波といった時として大変化が起 きて、犠牲者も出ることがあったわけである。 もちろん、一人の人間が何百年も生きるわけではないので、世代に段差なく、そのような 経験が継承されることも大事ではあるが、最初のころはより安全と思われるところを求め ながら生活の拠点を変えて移動するということで自然災害を回避していたのではないかと 思われる。そういう中で、移動の範囲も広がり、自然現象に対しての経験も多くなり、より 安全なところはどこなのかということを探り当ててきたものと思われる。一方、自然災害に 対しては注意深くなったとしても、食料に確保が生活する上での根本でもあるので、できる だけ安全に、確実に、安定した生活をする上での条件をそろえていく必要があった。そのよ うな多くの条件が重なっていく中で、自分たちの暦が出来上がっていったのであろう。その ように自然ときわめて密接していた時期は、当然自然がどのような動きをするのか、して いるのかが生活を左右するので、五感は敏感になっていたものと考えられる。記録するす べがなければ、どのようにして子孫に伝えていくのかも重要となるので、それなりのシス テマチックなルールが確立していったと思われる。 自然と人間の生活が一体というか、直接しているところでは、自然の挙動に最大限の関心 を持っていて、経験の中でリスクを感知して生活環境を選択していったと思われるが、そ こには大変な犠牲者を伴うこともあったかもしれない。日常的にも、危険と背中合わせで 生活の糧を得ることも少なくない。また、そのようなところが優れた資源があったかもしれ ず、その作戦も経験の中から考えられていったのであろう。また、その経験がのちの定住化 につながったのかもしれない。人間も動物も等しく求めていることは類似しているわけで、 棲み分けをしていかないと共倒れや獣害に遭遇することになるので、いまよりも敏感な情 報収集と伝達での生活していたものではないかと思われている。 所詮、自然の中での人間であり、自然に支配されていて、最も怖いのは自然の怒りであり、 自然に対して素直で従順であったということもできるのかもしれない。 2.自然を制御しようとしてきた結果は何か? 自然現象の発生を抑止することも抑制することも、大方不能であることは承知していると 思われる。しかしながら、自然を手玉に取って何とか自分たちの味方または手下に、あるい は無視するという行為は、繰り返し行われてきた。そして、そのことは、その後に災害とい う形で教えられることになった。例えば、今までの地形や地質といった形成史を無視した環 境の改変である。その結果は、作業とほぼ同じ時期に崩壊や地すべりということで不都合な ことを見せられるが、われわれは防止策ということでねじ伏せてきたものである。一見、抑 え込みという錯覚の勝利宣言をしてきた。その影響がさらに深く進行していくことなどに は気づかないでいる。また、山地の利用でも利用できるものは利用しておいて、その後の修 復や対応しないためにどのような結果を導いたか、学ぶことは少なくない。有用木という勝 手な名目で伐採し、そのあとは放置するか、単一のそれこそ有用樹を一斉に植林したために、 今までの山地保全力が失われ、表層崩壊だけでなく深層の崩壊までも早めることになって いった。それらは、山地環境が形成してきた時間と比較すると、一気におこったようなもの で、山地自身が有していた自己修復力では追いつけないものであった。その結果として、斜 面崩壊や土石流といった土砂の移動が激しくなり、それに伴う流木が下流に一気に押し出 すことにもなった。このような森林環境の不健全さは、その原因の一部であるともいわれる 一斉林の杉の花粉症という付随的な健康被害にまで及んでいる。 それから、都市部近郊の土地の改変がある。都市人口の急速化や核家族化という、我が国の 社会現象は、それこそ一気に襲来してきたことで、土地空間の不足が発生し、多くの箇所で 住宅地確保のための都市周辺部での改変、平野部の造成が盛んに行われた。平地部を空間と して得るということで、地形の形成や土地の土性・土質を無視したものも多かった。これら は、ある期間は何もなく過ごしてきていたが、弱みが潜在化していることには気づいていな かった。平野部は、河川や海岸の作用でできた新しい時代の未熟な地形であったことや沢の 出口は、かつての土石流による堆積地であったこと、丘陵地の造成地には元の沢部は谷埋め 盛土というゆるいものが筋状に残っていることなどは、すっかり忘れていた。 そして、それを思い出させる事件が起きる。それは地震、津波、豪雨であった。これ等の強 大な力のエネルギーを持つ自然現象は、見事に潜在していた弱点を暴き出したのである。そ れこそ、想定外のことであったというのがせいぜいで、実はその素因は明確に存在していた ことになる。実は、自然を制御できたように思っての行為は、ただそのもとを隠しただけの もので、制御したわけでもなく除去したものではなかった。いわば、風邪薬で咳がなくなっ た。から、完治したのではなく、確実に体質のぜい弱を招いていたことに気付かずにいるが 如しということになる。 自然を改変することはある程度不可避なことではあるが、対象となるものの性質や資質を 無視した対応は、一見うまくこなしたように思えても、われわれの思いを超えたものが存在 する。このことを十分に斟酌して付き合わないと、時間差はあっても必ず自然は補完する挙 動(我々にとっては報復)を示すということを十分に理解しなければならない。 3.人間は自然をどのようにみてきたのか? 初期的には、人間は自然がどのようなものとか、どのような機構を有しているかなどは思 いに至らずに、ひたすら自然の中の同化していたのではないかと思われる。したがって、自 然のなすままに、自分のことだけを自然からの反応を享受していたのだと思う。時に起きる 恐ろしいことも困ることもあまり意識のないままに、過ぎ去ることを待ち、次に訪れる平安 を待っていたのではないか、あるいはそこから離れ、いわば受身の関係であったと思われる。 しかし、そうしている過程で、経験が積み上げられていくと自然の恵みと恐ろしいことがあ ることを認識していくのだが、これを何とかするという手立てはない。できれば被害がない ようなところを選択することになるのだが、このような危険があるところは往往にして資 源が豊かである等トレードオフに陥ってしまう。それで、なんとか災害が起きない時を選ん で活動するという、災害の起きる時期を認識し、知恵や工夫を積み上げて生活の糧を得るよ うに進展していく。しかし、自然のサイクルを認識するには長い間、世代を超えての経験を 有することにもなり、多くの犠牲があったのではないだろうか。ここまでは、自然に対して は、ある意味で従順であったというか、自分たちを支配する、手の届かない存在であること を無意識の中に感じていたのだと思う。時が経つにつれ、人間は、いまでいうところの投資 効果というか、楽に成果を上げるということを考え始めると、自然が常に平安で、異常にな らないことを祈念するようになり、神仏に頼ることを含めて、様々な選択をしていくことを 考え始める。 その一つが土地利用である。経験から、自然災害が避けられる場所はどこかを認識するよ うになると、自然現象のサイクルに敏感になるし、今までの受身か少し積極的に対峙する姿 勢が生まれてくる。とはいっても相手にならないので、何とかケンカだけはしない対応がで きないかを考えてくる。つまり、減災が発想され、できるだけ被害の少ない場所、時を考慮 した工夫がされてくる。そこには、自然に対して、恵みをできるだけ手に入れて、負のもの は何とか避けたいという明らかなリスクマネージメントがなされてくる。明確な自然崇拝 が誕生するのは当然のことになる。この段階でも自然は絶対的な存在である。 このような状況が続き、社会環境が変化して、人口の増加もあって人間の活動が多岐にな ってくると、ある意味で自然と人間の位置関係が逆転するというか、不明瞭なものに変化し てくる。 つまり、災害もなく平安な時代が続いたり、災害があっても一過性のものであって、再現す ることはないまたはその先は長いという勝手な解釈あるいは対岸の火事というような気持 ちがでる。そうなると人間は傲慢になって、自然の性格や資質を無視して、ある意味では無 視する行動に出る。時には、先人が伝えてきたことも忘れ、経済優先のための御旗のもとで 人間よりも先人の知恵はどうでもよく、目の前のことへの対応で精一杯となる。仮に、巨大 な自然災害があっても一過性のものと考え、復旧に近い復興で済ませることになる。 自然と人間のサイクル時計が異なるということはよく言われるが、それ故に我々は過去 を大事に学習して伝えなければならない責務があるように思われる。 4.経験から学ぶことはなにか? 経験というと、修行などでの意図または意識した習得の意味と、全く突然なことに遭遇す るというものがあり、その後者の典型は自然災害と呼ぶもの、災害であろう。大震災や大水 害などがあると、想定外のものであったとか、今まで聞いたことがないなどと驚きを聞くこ とがある。このような経験は、人生に一度または数回というもので、決して毎年発生するも のでないだけに、その時の衝撃は大きいのだが、時間とともに風化するというか、日常に事 にかまけて薄れていくものである。 このような経験については、起きたその時は強く記憶しているのだが、どう判断して行動 したのかについて、系統的なことは思い出すことは難しい。ただ、いわゆる咄嗟に行動した のは確かなことである。 このような経験をしっかりと整理して、次災に生かすのはどうするのがよいのか、次災は 周辺の状況も変わっていることから、類似の被害状況の再現はあり得ないわけで、全く同じ ことでの対応はできないと思われる。そうなると、経験をさらに応用できるようにしておく、 それを次世代へ伝えることを考えなければならないものになる。 応用となると、その基礎力をつけておく必要があるが、それは知識、知恵、行動を確実に 身に着けておかなければならない。そして、つねにシミュレーションをして備えておく必要 がある。具体的には、以下の 4 つが想定される。 ① 話すこと。経験したことを伝えることで、実態を知ってもらい、貴重な経験が風化さ れずに共通の認識になることが重要である。 ② 知ること。自然現象やそれによる被害がどのような状況を呈するのかという、関心を 持ち続けることが、それぞれの環境での備えにつながる。 ③ 聞くこと。直接経験していないと、対岸の火事のような印象を持つし、考えたくない のがふつうであろう。しかし、実際に聞いてみると、想像していないことがあったり、 ヒントが自分の生活パターンの中に落とし込めるものになって行く可能性は高い。 ④ 行うというか意識すること。できるだけ、嫌なことは想像したくないし、自分は大丈 夫であるという偏見を持つし、考えたくないものである。しかし、災害は自分だけに 優先的に回避されるということはない。できるだけ講習会や防災訓練に参加して、自 分なりの備えを考えておく必要があり、保険であるというくらいの対応でもよいと思 う。 われわれが、東日本大震災での経験が、すべて今後のマニュアルになるわけではないし、 社会環境が変化すれば、新たな災害タイプが生まれることも想定される。災害はいつ、どこ で,なにが、どの規模で起きるかでさまざまな顔を見せることになる。だからと言って、無 防備でよいわけではない。しかし、最低限備えておくべきことはあるような気がするので、 その応用力を身に着けることが大事である。それは、「気づき」ではないだろうか、自然現 象に関心を持ち、それとの人間生活環境に対しての感性を高めることが重要な気がする。 少なくとも被害を少なくするような、いわゆる備えを忘れずに継続して持ち続けること であろう。 5.自然は、社会、人文的にどのように関わってきたのか? 我々の生活環境には、自然との反応生成物が多数ある。それは、生活していく上での自然 が、その素であることから、衣食住は当然で、文化、風土、考え方にまで及んでいる。つま り、生きていく上で、生活自体が自然を母体にしての知恵や工夫で成り立っているというこ とになる。 特に、我が国は、細長い列島であることから、地形や地質、気象が極めて多様であること から生態も複雑であることから、豊かな文化や風土が醸成され、県民性などといわれている ような人の気質までもが話題にされる状況にある。 すべてが環境に支配されているわけではないが、われわれは、自然との付き合いを功利的 な面だけでなく、あらゆるところで、時期に巧みに利用してきた歴史があるように感じる。 先人からの自然のシステムやサイクルに迎合した、逆らうことのない生活の形態をして きた。つまり、そこには、相手を変えて自分のものにするという思想は少なかったように思 われる。山菜採りのように、略奪するのではなく、一部を利用させていただくということで、 採集するときには必要以上のものは得ず、根絶やすことのない配慮をし、山の神への感謝を 忘れずに生かしていただくという気持ちにも表れている。このように、日本には伝統的に自 然と人間が一体となった思想的、文化的伝統があったが、世界各地の文化に基づくところの 環境思想というものとは異なっていた。例えば、これだけの自然との密着度が濃い割には、 長良川の堰、有明海干拓、大規模産業廃棄物処分場の建設など、環境に対する適切な評価と いう点では、いささか疑問が出るような状況にある。いつのころから、自然と人間の関係に 不仲の関係が発生したのであろうか。これには、西洋的な自然観を導入して、伝統的な仏教 的、儒教的自然観を否定したところに環境倫理までが衰退したことと関係がないであろう か。少々長いが、哲学者である桑子敏雄氏の記述を引用してみる。 「純粋な空間でプロセスとしての自然を分離抽出する西欧近代科学の 導入と同時に、日本の伝統的な自然観、特に空間を重視する陰陽五行を 基礎に持つ儒教、道教的世界観と、仏教、なかでも神仏習合を中心にお く密教的自然観はすべて排除された。儒教的自然観は、近代思想の受容 過程で攻撃され、また仏教的理解に基づく空間は、神仏分離の宗教的政 策によって、思想的にも、文字通り空間的にも分離されたのである。 」 自然が持っている全体性、総合性とか複雑性が排除されて、あまりにも純粋な形での機能 性だけになってしまったように思われる。 ただし、昔に回帰すればよいということではなく、新しい時代にふさわしい自然への対応 を考える時代に入ったと考え、実践すべきである。そのためには大きく、インフラをどう整 備するのか、価値あるものをどう保護して継続するのか、破壊したものどう復元するのかが 身近に存在する課題である。作るならば廃棄までを見据えた考え方が必要であり、価値とい うものに対する適正な評価が基本となる。いずれのものも、利害と価値意識のトレードオフ は発現するわけで、より高い地点へと統合していくシステムが必要であるが、それには環境 倫理という構想が避けられない。 6.これからの自然と人間との関係はどうあるべきか? 最も基本的なことは、自然があっての人間ではないということである。自然は人間のた めだけに存在するものでもないし、仕組みを変えてきたわけでないということを認識する ことが大事である。当初は自然と人間が一体であったものから、自然を様々な角度から見 るようになって、そこで様々な自然からの恵みを選択するような生活形態を得てきたよう に思われる。しかし、近代経済が進展してくると、自然の恩恵を享受するだけでなく、逆 に自然の懐にまで入っていくような試みさえ見え始め、時には抑制や抑止を試みようとす ることもあった。実際には、ほとんど不可能ではあったが、自然のサイクルを無視したよ うな、一時的な利益を得るためだけの刹那的な行動が頻発するようになった。その一例が、 環境に対する対応というか無視するものであった。自分たちの利益のみを視点になるよう に、相手を無視しての行為は、不利益なものとしてわが身に帰ってくるということに全く 無知であった。これらの行動は、科学技術という狭い空間での一方的な行為で、この行為 があまりも優先的に行われると、自然のサイクルやシステムを量的にも質的にも狂わせる ことになり、そのリスクは顕在化することなく潜在化させるということがある。 今後の我々の活動は、「自然のさま」を理解して、自然のシステムを狂わすような行為は 避けることであるが、今までの学習成果を活用して、賢い生き方を構築しないと永続的な豊 かな地球は続かないと思われる。 ヨハン・W・ゲーテのいう「自然は、常に正しく、誤りはもっぱら私の側にある。自然に 順応することができれば、ことはすべて成就する」のことばは、いまこそ実践すべきである。 今までのもので、復元できるものがあれば、率先して取り組まなければならないし、明らか にマイナスになることがあれば削減に努力しなければならない。 この自然に対する考え方について、様々な視点での取り組みが必要なところであり、身の まわりからリスクマネージメントを実施することが大事である。例えば、自然のエネルギー 資源の活用、地産地消的なライフスタイル、都市機能のコンパクト化などが構想されつつあ るが、最も重要なことは市民が、地域の人々が理解して、実践し、豊かになることである。 社会資本とは何か、一方的な視点だけになっていないか、モノは廃棄まで見通して作ってい るか、誰のために、何のために、負の代償になっていないかなど環境倫理が、ものごとの基 本になる必要がある。 このような自然に対する見方、考え方などの解決能力の醸成の基本は、初期教育から始め て、国民力とならなければならない。そのためには、現状を的確に認識することが大事であ り、フィールドを重要な視点にした教育活動が必要である。そういう意味では、わが国は地 形地質も多様で、周辺が海洋でもあり、気象にもメリハリがあって自然環境を観察する場と して優れていて、それ故に恵みも災害もあるという、いわば博物館のような国土である。加 えて、先進的な科学技術に優れたことも、公害なども経験しているという、正負の教科書を 持っている。自らが学ぶこと、学べるところがあるわけで、世界の国から学びの場として、 観光・教育立国を目指してもよいかもしれない。 7.自然の脅威をどう認識するか? 我々は、自然の美しさに感動することもあるし、自然現象の巨大なエネルギーによっても たらされる自然災害に恐怖を覚えることも多い。特に、近年は、気象状況も変化して、記録 を塗り替えるような大きな災害が世界各地で発生している。その誘因として、地球温暖化が あげられるが、災害であるわけでその被害対象物の密集化もあるであろう。しかし、災害の 素因は自然現象にある。そして、地球の年齢からすれば人間誕生は最近であるが、それでも 幾多の自然現象を経験してきて、ほんの少しだけではあるが何かはわかっている。 それは、自然は変化するものであるということと、その変化は同じ速度と同じ状況で漸移 するものではないということである。大規模な現象は、周期的でかつ一過性であるというこ とであると推定されている。われわれが経験したわずかな期間の日記を見ても、大津波を伴 うような地震の発生は、1000 年単位での周期性があり、見方によってはその前後で火山活 動期が重なるように考えられている。 我々が日常的に、目にする山々も、毎日少しづつ成長したというよりも、時間の感覚は別 にしても、何か大きなエポックで一気に隆起したと考えることが適当なようである。 さらに時間を短く、戦後のわが国の災害を見てみると、終戦後間もなくは、国土が荒廃し ていたこともあって、大水害の影響はあったものの、その後は復旧工事や森林整備をあって 一休みをしてきた。地震も戦時中は中規模地震があったものの、阪神淡路大震災までは大規 模といわれるものはなく、そのような環境下で高度経済成長を遂げていった。そして、いっ たん大規模な災害が発生すると、連鎖的とも思えるような類似のものが連発し、地震だけで なく、火山、津波、土砂災害と種類も同調するがごとく多発している。被害も、社会環境の 変化もあって、人的、物的被害が多くなってきている。このような自然災害の要因はさまざ まな素因誘因が絡んでいるといわれるが、その中には地球温暖化に由来する海流の変化、大 気の変化や都市部のヒートアイランドのような人工的なものも貢献しているようである。 このように考えていくと、その要因に対応することは多々あるが、少なくとも我々が寄与 していると思われる人工要因だけは減じていく努力が必要である。個人的にも小さな身近 なことでも意味はあると思われる。その行動を支えるものは、自然のメカニズムを知る知識 とそれへの対応、解決能力、応用力を早い時期から醸成して、常識化していく必要があるよ うに思われる。学校、地域が一体となっての安全・安心・快適な環境についての学習は必須 ではないかと思われるが、その切り口はいろいろ考えられる。できれば地域に密着したもの から地域知を足掛かりにしての展開が望ましく、そのための、地域での学習コーデイネータ ーの養成と活動に期待したい。 8.自然のシステムを重視した生活は、後退した考え方か? 現代の人間と自然との関係は、不仲というよりも性格の違うものが付き合っているよう な友人関係に近いような気がする。時間的なサイクルも違うし、持っている空間も異なって いる中で、人間はコマねずみのごとく休むことなく走りまわっているように見える。自然か ら見たら、人間の活動はせっかちで、相手かまわず勝手にうるさい存在に見えるかもしれな いし、これまでのピッチを乱す存在だと思われているような気がする。 自然は巨大な発電所のようなもので、われわれはさまざまなエネルギーを、直接、間接に 利用しているわけで、生活を支える基になっていることは確かである。しかし、自然は常に 変化し運動していることで、すべてが人間に有効な形で存在するわけではない。時には、地 震や火山といった巨大な運動を呈することがあり、それにより、人が犠牲になったり物的、 心的損害を蒙むることさえある。これは、人間と自然との関係の一部を如術に示しているこ とでもある。そういう中で、どのように自然現象と付き合うべきか、できれば恩恵だけを享 受するにはどうすべきかである。最も望むことは自然を都合よく改造することであるが、そ の不可能性は火を見るより明らかで、そうなると、付き合い方を工夫する以外にない。一言 でいえば、機嫌の良い、平安の時だけおつきあいをして、ご機嫌ななめ、機嫌が悪くなりそ うなことを早期に察知して上手に距離を置くことや怒らせないことが望ましい。それには、 相手の性格や資質に加えて、ふるまいをよく知っておかなければならない。 そのためには、自然、とりわけ自然環境について広く知ることと、負荷を与えたことに対 しての復元を考え、修復することが重要である。自然は不変ではなく、ゆっくりではあるが 確実なトレンドをもって活動してきている。そのプロセスを乱すようなことがあれば、必ず サイクル維持のための修正をすることになる。したがって、人間に不都合なことがあるにし てもそれは、ある意味で元に戻すべくの免疫的な行動でもあって、人間に配慮した作用では ないことは確かである。自然のサイクルは、鋭敏で反応がしやすいが、それは、目に見える ように早期に顕在化することは少なく、潜在化することが多いが、その後の外的作用によっ て、顕在化へ展開されてくる。 このような自然現象の変化は、人間にとっては、容易に予知予測できるものではなく、全 く想定外ということに思えるほど、自然現象のメカニズムの全体像は解明できていない。 人間が、このような自然のサイクルに同調して暮らすことができれば、相互のトラブルがな いかもしれないが、何せこの両者は相撲取りとアリのようなもので、つぶされないように上 手に逃げなければならないという面と、ありも数が多くなれば厄介な存在になることもあ り、人間の行動は侮れない。このような自然空間の中にあって、いまさら、狩猟・採集型の 生活には戻れないわけで、できるだけ自然のサイクルに負担をかけない、回復できる範囲内 での活動をするということになる。自然と共生すること、環境倫理を共有することは決して、 後退した生活様式ではなく、むしろこれからの長い付き合いをしていくという面では、ある べき姿である。現存する環境は継続して維持し、なくしたものは復活させ、新たなものの構 築には負荷を考慮した廃棄までの対応が必要となる。 9. 自然とのかかわり方を身に着けるためには? 自然とのかかわり方ということは、別の言い方をすると自然の様を意識して暮らすとい うことになる。普段は自然を感じることもなく当たり前のように思い、その恵みについても あまり意識しないでいるが、自然の突然の現象で災害などを受けると、その恐ろしさに驚く ものの、いつの間にか、のど元を過ぎて行ってしまうという繰り返しのような気がする。し かし、よく考えてみると我々は、大地の上で、衣食住を獲得しているし、生産活動の基盤も 大地の上にある。この大地は、地球の表層部のことであるが、固定されたマテリアルではな く、常に地球の動きや気象とも連関しながら変化している。それが、恵みになったり災害と なったりするという、まさに生き物の手の上にある。 また、大地は一様でもないし均質でもないので、われわれは、そのような環境の中で安全 で安心、快適なものを求めて上手に棲み分けていきたいところではあるが、時に過剰なほど に改変したりして、自然のメカニズムや変化のスピードと同調しない事象を行為するがた めに、新たな災害を呼び起こしているところもある。 我々の長い歴史から見ると、少なくとも一度たりとも自然のシステム自体を抑制したり 抑止することを可能にすることはできなかった。しかし、そのために自然を理解して、自然 と同調していくという生き方にはなっていないし、その理由も十分に理解しているとは言 えない。しかし、この状況が継続されていけば、自然のシステムにも狂いが発生して、その 結果バランスを失うという作用が働くことは確かである。例えば、広島豪雨災害の地形や地 質を見てみると、この地域は、広島市の近郊で地理的にも近く、地形もなだらかでJRにも 近いというところである。このような地域は住宅地として造成するには、施工もしやすく、 コストが安価であり、広い空間が確保できることで優れた商品との判断が生まれる。ところ が、この地域周辺は花崗岩という風化しやすい地質からなっていて、それを反映した緩やか な穏やかな地形が形成されている。そして、この花崗岩は風化するとマサ土と呼ばれる土質 になって、乾燥するとさらさらしたものであるが、水分を含むと扱いにくい土質の変幻する 特殊土でもある。このような地質がゆえに、豪雨などがあると崩壊したり流れ出たりしやす く、広域に爪痕のように山肌が露出する景観が見られる。また、神戸の六甲山地と同じく土 石流も発生しやすくなり、このような土砂の移動が繰り返されて沢の出口付近には、緩やか な扇状の土地が出来上がってくる。このような場所は、繰り返されて同じ災害が発生するこ とは珍しくないが、時間の間隔があると地元でさえ忘れてしまっていることも珍しくない。 まさに、後背にオオカミがいることに気付かなかったのである。 このことは、われわれが自然のメカニズムを理解することなく、目の前の状況だけで自分 たちの機能を満足するだけに注目してしまった結果だともいえる。自然にはいまの姿にな るまでの形成史が存在するわけであるし、この形成は完了したのではなく、今後も継続する ものであり、それを分断するような行為があれば、自然は元に戻すべき作用を起こすという ことになる。したがって、われわれは、地形や地質についての最小限の知識を得て、今まで の経験と自然史から我々の行動の適正さを確かめる必要がある。 10.自然共生と経済活動は矛盾することか? 経済活動は、人間にとっては生きていくためには欠かせない術の一つである。そのために 今まで、知恵や工夫を重ねてきたものの、その基盤は自然という巨大な資源利用を対象にし てきた。しかし、ここにきて、一部で自然と同調しない、不都合なことが発現してくるよう になった。それは、定性的なもののほかにも定量的な作用が含まれる。自然は大きなサイク ルで活動することから、その不都合はなかなか見えにくいが、見えるころには巨大な負荷に なっているということである。 その代表は、地球温暖化、地球汚染と土地利用に関する災害の発生がある。温暖化は、全 地球的なメカニズムに関することではあるが、気象や海洋の温度変化により人間自体の生 活基盤を脅かすことはもちろん、特に一次産業への影響は徐々に影響が顕在化してきてい る。地球汚染は、特に産業活動とか利便性優先の生活スタイルの変化によるものが大きく、 特に大気汚染と気象との複合による汚染は、自浄の範囲を超えている。土地利用に関しては、 特に、沿岸部開発、住域の拡大による津波、高波の影響を受ける範囲にまで侵入してきたこ とや丘陵部の改変による土砂災害、森林環境の悪化による土砂災害などが頻発するように なった。 といっても、すべての生活環境を元に戻すことは不可能であるわけで、今後は、今までの 経験を学習しながら、経験を他地域にも伝達しながら、同じ愚を繰り返さず、自然の恩恵の 継続を考えなければならない。特に、我が国は地震や火山での災害経験も多く、研究成果の 累積もあり、土砂災害に関しても、予知予防に関しての情報が少なくないわけで、海外での 安全で安心な生活の向上に貢献できるものがあるように感じている。 自然を一方的に収奪することで、一時的な経済発展は可能ではあるが、いずれはその負荷 は大きく還元されると考えなければならない。したがって、自然と共生するということは、 自然とかかわらないことではなく、自然の継続性の障害にならないまたは復元可能な範囲 での作業行為であるというリスクマネージメントが不可欠ということであろうと思われる。 そうなると、われわれは、今まで得てきた知見の範囲内で、リスクを特定して対処すると いうことと、その評価について大いなる議論をしていく必要があるような気がする。 特に、我が国は、このことに関しては、公害に苦しんだ先輩でもあり、急激な都市への集 中による自然災害への経験や脅威を十分に学習してきているし、今後も継続して実施すべ きことも含めて、先駆的な提案をしていくことができる。自然は意外とがまん強いところが あって、それをいいことに無関心でいると、その影響が顕在化した時には対応の方法が、後 追いになって予想外の事象となるというものであるということをしらなければならない。 いい気になって、一方的なことをしていけば、必ず弊害があり、自然は寡黙で複雑系な上 に敏感であることを知って、付き合うべき友である。 11.自然資本という考え方の内容は? 我々の生活は、直接間接を問わず、自然環境とは無縁ではないことは明確ではあるが、そ の関係を常に意識して活動をしているわけではありません。何かあると、初めてその連関を 意識するという程度になっている。 自然資本ということは、自然が元手ということになりますが、時代とともに、その直接性 は薄らいできているように感じつつ、実は大きな自然サイクルの渦に巻き込まれているよ うな気がする。狩猟採集時代は、獲物を探して自らが移動するということであったものが、 いまでは人間が自然を支配できたような活動を活発化していて、我々の活動が自然のサイ クルへ影響を及ぼすくらいに拡大してしまうような状況になっている。このことは主客が 逆になったように見えても、実は人間の方の生活環境の方が様々な影響を受けるようにな ってきた。ある部分では自然を制御したような気がしているものの、実は、相手は単純では なく、思わぬところへその影響は拡大、拡散しているというようなことになる。それもすぐ に顕在化して、復元可能なものは少なく、明確になった時には、非常に困難なまたは不可能 な状況下になっているということも発生してきている。 自然のシステムは、縦割りで理解できることはなく、曼荼羅のような世界ではないかと思 われる。そのような世界にあって、我々が活動するということは、その範囲が限られてくる のではないか、我々の一方的な欲望、修復の手立てがないような利用の仕方、未知なことを 残しての活用は避けなければならない。 自然資本は、人間のために存在する消耗品ではないわけで、そこでの利用や活用にはルー ルがあるはずである。我々はその手加減を忘れた如くに、身勝手なことをしているとすら懸 念されることはないか?少なくとも、不完全ではあっても、リスクを特定して、対応を検討 するリスクマネージメントとか、倫理的な対応は当然の行為にならなければならない。 ○○至上主義と称して、一過性の利益を求めてのことは避けていかないと、先に行くこと ができずに防戦一方になって、そのための消耗戦になってしまう気がする。 これらのことを一気に、今の活動をストップすることは不可能ではあるが、可能な範囲で 試みることは可能であるし、技術的な面と倫理的な面での同調は欠かせない。とくに、倫理 的なことは、ことが顕在化してから議論することは仕方がない対応ではあるが、重要なこと はあらゆる世代で、特に学校教育の中で、その基礎力を身に着けていくことが必須であると 考えられる。科学技術立国を言うならば、倫理立国であることも必要で両者が並び立つこと で、はじめて人類と自然が頼りがいのある友人の関係ができるのではないかと思われる。実 は、これを行える機会が到来しているように思われる。それは、国策として進めようとして いる地方創生である。今までの異なる理念を持って、地方が有する潜在的な自然資源と人材 を活用して、新たな姿を見せることが可能である。いままでのような一面的な企業誘致やイ ベント誘致ではない、人間と自然の真摯なる関係を修復し、これからのあるべき姿を構想す る、最適なチャンスでもあるような気がする。今こそ、世界が注目する動的遺産ではないだ ろうか。 12.資本は上手に活用すれば利殖、誤ると元も子もなくなる、最悪は危険や危機 を招く +資本は、元手ということで、その先は利益、利殖、新たな価値などを生むためのもので ある。ここでは、土地の利用を考えてみる。我々の先祖というか、誕生のころは食料を求め て、山野を駆け巡っていたのであろうが、気象などの変化を巧みに読み取り、雨、風、雪を しのぎ、獣害にも注意して生活していたと思われる。そのうちに、自前の住居を持ち、定住 するということになると、食と住の両方が満足するところを求めるようになる。しかし、そ の基本は安心感のあり安全で、食料環境が優れていたとしても、水害や土砂災害が多発する ようなところには住むことはできない。 これらのトレードオフと解消するには、小規模ながらの土木工事がなされることもあっ たかもしれないが、より広い空間を求め、生産力を高めるための場所を求めるようになる。 その時点での理想形は、海に近い、清流がある里山を持てるような丘陵地ではなかったか と思われる。地形地質的いえば、段丘地帯か丘陵地の裾部であったと思われる。そのような ところは、極端な改変もなく低平地が得られるし、生活の糧も得やすいということになる。 しかし、このような場所であっても、地震・津波、火山、豪雨といった気象現象には勝てず に犠牲者を出し消滅したものもあったかもしれない。 我々の生活の基本は、土地であり、それに付随する価値の向上を目指してきた。そのため に様々な技術で改良を重ね、あるいは新たな土地の造成を試みてきた。 ところが、目的が先行するあまりに、その土地の形成史を見逃し、自然の振る舞いを失念 したことにより、自然からの報復を受けてしまうことが起きている。 例えば、地すべり地であるところの丘陵地の裾部を開削して造成した結果、背後の山地が 移動してきた例、またはそのようなところの谷部を埋め土した結果、地震と地下水の作用に よってその盛土が抜けだしてしまった例がある。いずれも、地すべりという素因を有してい るところに外的な作用が加わったことによる、人工災害の部類である。 また、住居空間を安易に充足させようということで、施工しやすく、コストがかからない ところを造成して、後年、土石流で大きな犠牲者が出たところもある。近年の広島豪雨災害 はその典型である。確かに、造成前の地形をみると、緩やかで、背後は穏やかな山地を借景 にした、都市部にも近い自然郷に見える。しかし、この緩やかに地形は、何回かの土石流で 形成されたもので、背後の山は浸食抵抗力が低い地質からできていて、体質が脆弱であると いう性質を有していた。つまり、いつでも豪雨などの外的作用があれば、土石流が繰り返さ れる地形であった。そのようなところに造成されたわけで、特に沢の出口付近は、最も危険 なところになる。今回の土砂の流出状況をみると、まさに造成前の地形を再現するかのよう なものになってしまったのである。以上のように、地形や地質だけではないが、自然を構成 するものを改変する、利用するときには、そのあり方、資質を理解しないで、一方的な都合 で勝手な対応をすると時期は別にして、かつてと類似の現象が発生することが多い。それを われわれは想定外と呼んではいるが・・・・ 13.教育の役割と指導者の意気込み、総合学習の充実化への試み 防災教育は、東日本大震災でも経験したように、きわめて重要な防災・減災に有効な方法 であることが認知されてきている。 しかし、防災はさまざまな切り口を持っていることから、単なる知識や暗記物にならない ように、その時に様々に応用ができて定説な行動につながるようにする必要がある。そのた めには、どうすればよいのかを考え、先行事象などを参考にして解決策を模索する必要があ る。 そのためには、すべての基礎となるところの、地理的・歴史的な学習を活用することが大 事である。もちろん、ここで避難訓練のようなことは当然ながら身に着けることは欠かせな いでのことである。 つまり、考える地理、歴史の中で、防災を考えるわけであるが、そこには時空間の認識を 確かなものにするということでもある。災害の中でも、大きな被害が広範囲に及ぶものは火 山や地震、津波である。これ等の自然災害は、絶えることなく、それを抑制する抑止する手 立てもなく、繰り返されてきた。しかし、最近落研ではそのメカニズムも少しずつわかり始 めている。そして、最近のわずかな時代のことではあるが、先人の経験や記録がある。ある だけの資料を駆使して、経験を生かすことで、防災には届かずとも減災は可能なところまで 来ている。これ等の経験をしたものは、それなりに身に着けたものもあろうが、経験してい ない次世代の人々に対して、何を伝えることができるのかを考えたとき、この防災教育は極 めて大事なことで、これからのさまざまな経験をより確かなものにできる基礎力にしてほ しいと願っている。我が国は、列島というだけあって、気候の違い、地形や地質、地域の文 化など極めて多様性があり、単なる知識についてだけ学習するのではなく、仮説を立てて、 大きな問いを提示して思考力を高めていくことにより、問題解決能力、行動力の醸成を目指 すことが必至である。そのためにも、どのような学習資料が必要なのかという開発も必要で あろう。防災を気候や地形地質と結びつけ、歴史的な視点で、社会現象を考察しながら学習 する参加型のものが望ましく、その内容が少なくとも中高と継続することができれば、我が 国のことに収まらず、地球社会が直面している、直面するであろう課題へのアプローチにも つながるものにまでアップできるのではないかと期待できそうである。このことは、自然災 害の素因は自然現象ではあるが、その被害はまさに、その時代の社会背景に関係していると いうことで、一次式で表現できるようなものではないということである。なぜなら、被害は モノだけでなく、精神的なものにまで及ぶことや、単なる復旧ではおさまらずに復興という 高次元の対応が求められているからである。大災害が発生した時に、いかなることができた のか、しなければならないのか、どのように自然と対峙したのかを学習して、次なる豊かな 社会を気づこうとすべきなのかを学習することができるのが、この防災教育であると思わ れる。このことが、単なる小さな島国のことではなく、これを礎にしたグローバルな人材が 育っていけば、この防災という教材が大きく発展し、自然と人間のあるべき関係が、あらゆ る場面で機能するような気がする。災害にかかわるあらゆる分野が融合することこそが相 乗の効果を生むような気がする。 14.自然と人間の位置関係を明確にする 人間が都合よく利用できるかどうかは別にして、自然が持つ、作り出すエネルギーは膨大 でその全容を把握することも不可能である。 地球はまだまだ生きている星で、盛んにエネルギーを生産続けているわけで、その恩恵に もあずかっている。これ等のシステムは人間がいかなる活動しようとも、関係なくランニン グされることではある。問題は、人間の活動によって、われわれが受ける状況が変化するこ とである。この変化が広域にわたるようになると、生態系が変化して、生産とか新たな望ま しくないものが顕在化するということが見られるようになる。 我々の活動が、自然のサイクルの許容範囲内で行われるのであればよいが、それを超える と様々なところへ影響が広がってしまう。そこで、様々な面からの倫理が求められることに なる。自然環境は、経済活動を含む人間の生活とトレードオフの関係にあるということも言 われるが、それは人間の対応の仕方ではないかと考えられる。理想は、自然のサイクルの中 で人間も共生してランニングすることであり、常に負荷を考えつつ、それへの対応が困難な 場合には避けた行動をするということになる。復元可能な自然の活用を考えるべきだし、そ のために科学技術があるという倫理観が望ましいのは当然である。 自然現象そのものは、自然のシステムでの現象であって、一時的に災害になるものではな い。災害は、人や物への影響が人間にとって負荷となるものを指している。したがって、こ の災害を減じるには、人とモノについて対応することになる。 人の場合には、災害と最も心配なことは、命、犠牲になることである。そのためには、発 生前の備えと発生時の避難が重要となるのであるが、災害によっても異なるわけで、地域に 想定される災害を十分に認識しておくことが望ましい。例えば、外に逃げることがよいのか、 とどまることがよいのか、外に出るにしてもどこを目指すのがよいのかなど、それに応じた 対応がある。ものへの被害を避けるということであれば、災害の影響圏外に存在させること や、耐災害性を付加させるとかなどにより、被害の最小化を想定内で備えるということにな る。人にしても物にしても、減災の基本は、地域がどのような地形や地質にあるのか、そこ から考えられる災害はどんなものがあるのか、今までの災害の事例はいかなるものがあっ たのかを知ることである。その上で、どのような自然災害が考えられるのか、それに応じて どのような備えや避難の仕方があるのかを事前に周知させておくことが必要である。 このように考えていくと、自然現象には勝てない、ちっぽけな存在で、完全に支配されて いるような気もするが、われわれは、自然の恵みにもよくしているということも考えなけれ ばならない。要するに自然のシステムによってもたらされることを、上手に活用することで、 安全で安心な快適な生活ができるということに気付くことが重要である。このような自然 のすごく長い周期があることで、われわれの生活が維持されているわけで、短周期で、頻繁 に自然の動きが変化するようでは、おそらくそれに追いついていくことはできなくなって しまう。それ故に、この自然が変わってしまうような人間活動は望ましくない。たとえ、小 さなことでも常に、復元できるような形で自然を活用していかなければならない。 15.自然共生、ミチゲーションとはなにか? 必要悪という見方も? 自然が営々と活動しているものを、分断、促進、遮断、遅延などをすることは不可能であ る。そういう中で、われわれは自然を活用するわけであるが、一部だけを切りとってそこで 完結させるような利用は、自然エネルギーをそのままで利用する以外はほとんどあり得な い。そうなると、自然を活用するという点では、何らかの負荷が一時的にしても発生するこ とを考え、その活用に制限が出るということは重要な認識である。そのためにはどのような 気配りが求められるのかを、地すべりという土砂の移動に対する対策を例に考えてみたい。 地すべりは、斜面などが一つの土塊として下方に移動する現象で、発生すると家屋や道路 などが被害を受けることがあり、発生の時間によっては被害者も出る場合もある。 このような地すべりは、豪雨や融雪などによる地下水の影響や斜面を開削したりしてバ ランスを崩して滑ることが原因である。一般的には、規模に比例してすべり面の深さも深く、 かつては鉄道やトンネルなどに影響して、長期間、交通がストップした例もある。 このような地すべりは、かつての形跡を残すような地形などから想定されるものもある が、新たな地すべりを起こすものもあるし、想定されていないような深層すべりのようなも のまで多様である。これ等の対策には、動きを抑制するものと抑止するものとがあり、その 地すべりの現況や保全すべきものによって使い分けしている。抑制工は、地すべりの動きを 緩慢化することが目的で地下水位を下げるというのが一般的である。一方、抑止工は文字通 り力で抑えてしまうということで、鋼管杭を挿入するあるいはアンカーで斜面を締め付け るということが行われている。抑制工は、いわば対症療法のようなもので、様子を見るとい うことであり、抑止工は本格的な外科手術のような感じになる。また、コストを考慮して、 地すべりの頭部を切土や、裾部に盛土をして安定化を図るということも行われている。この ような対策工では、地形の改変や地下水位低下による水理環境で、周辺の環境に変化を及ぼ すことがある。植生などは、補植したり、郷土種の導入などの建設環境に配慮した復元が可 能な場合もあるが、大規模な土工による環境破壊も皆無ではない。地すべりへの対策はでき たが、環境を失うという付加が発生すれことになれば、大きな環境財を失うことにもなり、 先を見据えた可能な限りリスクを特定して自然の流れを切らさないようにしなければなら ない。 このような対策は、一つの専門領域だけで、一つの目的だけで満足されるものでなく、広 い視野で、様々な観点から継続される循環型の環境を維持するように努力しなければなら ない。科学技術は単独で有効性や価値を生むものでないことを意識して対応することで、環 境や社会への影響を最小限にして安全な生活が可能であり、良好な自然環境を次世代へ継 続することができる。 科学技術は限られた専門家が推進するものではなく、一部の人が利用するものでもなく、 正負の両面の影響を受ける状況になっている。そのために、できるだけ総合的な視点で、環 境の改変にならないような対応が必要であるということであり、今後は、様々なトレードオ フへの解決能力が問われることになっている。 16.人間生活の基本は安全、安心であることは不変、不安や恐怖はどこから? 最近は、食品をはじめとして、安全安心に関心が集まっている。とうことは、今まではあ まり意識しないで信頼していたことが、様々なことが明らかになって急に不安になってき ているということであろう。 自然災害も、起きるまでは何も不安がないというか何にも関心を持たずに、忙しい日常の 中で突発的に発生するわけで、災害があって初めて、急に不安を感じるものの直接の被害が ないと、いつの間にかその関心も薄れてしまっていく。特に自然災害は、長い時間で見ると 繰り返し、類似のものが発生しているのではあるが、その間隙にいると、極めて穏やかなも のに感じ、想定すらできないでいる。わが国でも地震による大きな災害が近年続いてはいる が、その前のいわゆる経済成長のころにはほとんどなく、あればその経済成長へも影響が出 たのかもしれない。そんなこともあって、どこかで大災害があっても、一時は関心を持つが それ以上の危機感はなくそれを契機に備えるということはあまりないようである。つまり 対岸の火事としか見てなくて、災害は一過性のものという認識かもしれない。 もちろん、自然災害、特に水害や地震、土石流といった人命にかかわるものに対しての恐 怖はどこかで認識しているものとは思われる。しかし、発生時によく聞く言葉に、想定外と いうことがあり、知ってはいたがまさか自分のところには関係がないということであった と推認される。そのために避難が遅れたり、逆に犠牲になるような条件を自ら作ってしまっ たという例も、実際、東日本大震災では見られたし、以前から類例は多い。それは正常化へ の偏見とか、決めつけというような心理的な要素があるといわれている。 いくら情報が豊富で、実例が豊富であっても避けられないことらしい。それを少しでも解 消するには、自然のメカニズムに対する正しい理解が必要で、トピックスとしては知り得て も、その素因や誘因などの背景までに至らないために、一過性の情報になっているのではな いかと思われ、積み重ねがないところでは、実践での行動力に結びつかないということでも ある。 実は、安全安心を得るということは、正しく恐怖を感じることでもあって、その感性が極 めて大事なことになると思われる。その感性の一つは、地域知であり、その地域の地形地質、 災害になるリスクを文化、風土、歴史から学びとることである。自然災害もいくつかの種類 があって、それぞれ発生する場があることや、発生する要因などが大まかに知ることができ るわけで、予知や予測まではできなくても、何がどんな時に、どのようなことが発生するの かは推定できる。そうすればどのような備え、自分に合った避難すべき要件を選択しておく ことが可能である。 何もなしで、その時勝負が利かないのが、自然災害の特性でもあるのだが、完璧なものは 望まずに、基礎的なことを身に着けて、発生時にはその応用力を発揮するということが大事 である。地域や家族で、ときどき話題にして、地域への関心力を高めていくことこそが、安 全安心につながる方策である。モノで安心を得るよりも、人間力が大事なことを大震災では 学んだような気がする。 17.杞憂は不要で愚かなことか? 杞憂という言葉は、語源からして取り越し苦労ということであるが、天が落ちてくるよう な極端なものは別にして、防災を考える上では大事なことである。防災は、想像力を働かせ て、学習の成果を応用して、発災時に判断力と行動力を発揮することが重要だからである。 もちろん、災害になる自然現象を事前に知ることは難しいことが多いが、それによってどの ような被害がどこに発生するのかを予測することはある程度、可能である。そのような中で、 様々な自然災害の特性を知ることは重要で、それによってどのような備え、対策、対応が必 要なのかを知ることが大事である。自然災害は、その原因によっても、被害対象物によって も多様なものが発現することから、これらのことに関しての基礎的な知識や経験を生かす ことは有効である。 例えば、津波や高潮は、一見似ているが全く違うメカニズムで発生するわけで、その威力 も影響する範囲も異なる。地震動による影響も同じエネルギーでも、場所、建物の形状等で 挙動が異なっている。同じ規模の地震でも建物にほとんど影響がなかったのに、山地崩壊や 土石流が多発したというものもあるし、遠方にある高層ビルが大きく揺れたというような 例もある。豪雨による水害は、河川増水によって、広域に浸水するということによる被害で はあるが、必ずしも、家の外への避難が適当であるとは限らない。いずれも、時、場所、程 度によって、とっさの判断が求められるわけで、その場合には、人と情報だけが決め手とな る。それ故に、よく言われていることは情報の質、伝達方法、コミュニテイであるが、日常 的に醸成されていないと機能しないもので、東日本大震災でもそのことは経験したところ である。 どの程度の危機感を持って対応するのが良いのかということもあるが、まず大事なこと は、自然災害というか自然現象に関心を持つこと、この列島ではそれぞれ違う自然現象が優 越するところはあるが、地球上でも有数の災害列島であることを認識する必要がある。その 背景を知った上で、賢く自然、国土を活用していくことが必要である。実際的には、ハード 対策は費用のことや技術的なことで完璧にすることはできないので、ソフト的な対策で対 応する部分が極めて多い。その際には、自然のシステムを知ることが基本で、そしてかつて どのような経験を積んできたのかを知ることも併せて基本となる。この災害対応に関して は、学校教育は果たす役割は極めて大きく、その二次効果を家庭や地域、職場へと広く情宣 していくことが必要である。 そして、想定外とかありえないというようなことで、避けて通るということではなく、課 題を解決していくツールというかソリューションツールによる訓練は、あらゆるところ、場 面で活用できる。 防災というか減災は必須の学習で、その成果は財政難の中で、国民の知恵による地域の安 全、国土の安全に寄与できることの一つである。正しく恐れることこそが、災害をなくし犠 牲者を最小にする唯一の手立てである。 18.自然と人間生活との歯車の差異 我々が自然の影響を受けやすいのは、気象と地象である。これらは地球のシステムにした がって、活動していて相互に密接に連関するものではあるが、われわれの日常の生活リズム から見ると、かなりその動きは違う。気象は、大きな地球規模の中にありながら、常に変化 している。スケールを違えてみれば、短周期ではその変化はないようにも思えるが、年周期 では大きな差異が認められるという感じがする。長期予報などが発表されるようなことを 思うと、比較的先を読むことができるデータが確実に存在しているような気もする。一方、 大地の方は、時の大地震や大規模な火山が噴火するようなことはあるが、総じて変化がなく 安定しているようにも感じている。 これも、時間のとり方では風化や崩壊、浸食、土砂移動など絶えず変形を行っていること が認められている。これ等は、どこでも一様ではなく、様々な内的要因や外的作用によって 異なってはいるが、全く不動なるものは存在しない。実際に異なる地質や地形が存在し、特 に地形は時に激しく、大きな変身を遂げることもある。 そして、これらの地象や気象も、相互の関係にあり、例えば我が国はモンスーン気候とい う湿潤な気象が特徴で、冬の季節風、降雪などは地形そのものが深く関係していて、冬とは いえ、各地で多様な気象の様子を見せる。これ等の背景があって、狭い国土ではありながら、 多くの文化や風土が生まれ、そこから自然崇拝の信仰が生まれたりしていて、まさに列島全 体が博物館のような形態であると称する人さえいる。 このような変化や変動が激しい環境下で、自然現象が起こすところの変化に対して、どの ように安全を守っていくことができるのだろうか。かつて、先人は経験的に安全なところを、 多くの犠牲を払って居住することをしてきたが、今の社会環境ではなかなか難しい。かとい って、現象そのものを除去したり、抑止することは不可能である。いえることは、危険を早 期に察知して避難することと、危険を少なくする守備に徹するということになる。しかし、 どちらも技術的にも社会的にも極めて難しいのが現実である。 その難しさは、自然のシステムが十分理解されていないことや人間の活動がどのように このシステムに作用しているのかがまだまだ十分には解明されていないことである。確か に、一部ではかなり明確になっているようなものでも、そこだけなのか、全体との関係がわ からないということである。例えば、土石流について、その危険性は概ね素因的には把握し たとしても、それがいつどのように土砂が流下するのか、どのような影響範囲になるか、そ の後、発生源である後背地はどのような経過を経て、再発生するのかという一連のシミュレ ーションはできても、その精度にはまだまだ難がある。自然現象は、ある程度の周期性があ るが、同じものが繰り返すというよりはより変化を伴いながら繰り返すという特性がある。 そして、そのようなある意味で動きが敏感なものに対して、いかなる対応ができるのかとい うことになる。少なくとも、われわれに不利になるようなことにならないように、促進させ ないような自然の活用、付き合い方が必要になるのであろう。そのためにも、自然のふるま いを知る努力がまだまだ求められているようだ。 19.自然のサイクルでの対応の仕方 自然のサイクルは、周期をもって活動していることがわかっているが、その周期は、収束 と消散、応力集中と解放、寿命と更新、上昇と下降などのタイプにさまざまなものはあるが、 いずれもトレンドをもって進行しているようにみえる。 それでいて、トータルでバランスがとられているということもできると思われる。そうい う中で、人間の活動が巨大化すると、これらのトレンドに影響を及ぼすことも発現し、それ が我々の安全や安心に対して、不利なものを生み出すということもある。自然は、寡黙では あるが、内実は敏感に反応しており、それが顕在化するときには、相当な努力がないと元に 服することができなくなる。 したがって、われわれとしては、できるだけ、今の環境に負荷を与えないように、一時的 に負荷が避けられないにしても復元が可能な方法を案出する対応が求められる。 自然は同じ動きで継続してきたわけではない。例えば、地形の成り立ちは、大きな変動が 突発的な活動で形成されたものが多い。したがって、安定化するには、後発的な運動が付き まとう。このような複雑な変動を複雑に絡ませながらサイクルをしている。 地震なども、弱小なマグニチュードのものが多発していても大きな影響がないが、突然巨 大なものが発生すると、大きな地殻変動が発生して、そのバランスをとるために様々な現象 が長期にわたって発生することになる。特に土砂災害はバランスにかかわる問題で、その素 因には自然環境の不安定、人工的なことへのバランス回復のための復元力によるものと思 われる。自然を賢く、循環的に支障のないように利用するには、自然のありようを正確に認 識して使い分けすることが必要である。その利用の主体は、土地の利用とエネルギーの活用 であると思われる。特に土砂災害は、土地の利用と密接な関係がある。利用する側としては できるだけ平坦な地域を求めるわけで、そうなると平野部にするか、河川に沿ったところや 丘陵の裾部ということになる。そして、より広くということになれば丘陵地を切土や盛土に して確保するということが行われる。我が国は平野部が限られているということから、そこ に都市が集中し、産業の基盤としての土地空間、住宅地の確保ということで、できるだけ都 市に近い丘陵地の造成が盛んに行われた。元来、人間は集落を長い間の経験で、安全なとこ ろを求めてきたもので、歴史のあるところほど、安全で安定した土地であるといわれてきた。 しかし、人口の増加、経済の発展で土地の歴史や形成史を考えずに、平たんなところを求め ていくようになった。その後、豪雨や、地震、津波の大きな変動を受けると、見事にかつて の地形を反映した被災を受けることになる。地盤が形成されるためには、時間とその材料を 含めた成り立ちがあり、それによって耐災害性も異なる。そのようなリスクを地下に潜在さ せて利用するということは、大変に危険なことである。自分たちの地域の地理情報をしっか りと理解して、そのリスクを特定した上で、災害時の対応を考えておくことが極めて重要で ある。そして、災害は繰り返し起きるという周期性があることもあり、過去の経験や歴史、 言い伝え、地名なども無視できない。いまだ自然災害をどこで、いつ、どのような規模でと いうことはできないが、少なくともどこで、なにが程度は把握しておく必要がある。 20.災害列島における健全な生活の在り方は何か 我々は、普段は災害列島に生活しているとか、自然がどうだとかは意識しないで、目の前 の生産活動などに夢中になっています。ところが大震災や、豪雨に遭遇したり、近隣での被 害を知ると自然の恐ろしさに一時的に関心は持つが、まもなく忘れてしまう。 また、自然災害、特に今回のような津波を伴う大震災では、いまだにその後遺症は大きく、 モノの復旧だけでは収束しない、埋まらないものを感じている。 この災害で学んだことは多くあるが、それを生かせるか、次世代へ伝えることができるか は大変重要なことであるが、と同時に復興とは何かを考える機会にしないといけない面が ある。確かに自然災害は自然現象を原因とはしているが、天災か人災かの区分は別にして 我々の人間の活動が被害を大きくした面があるのではないのか。 この機会に我々の生活スタイルを変えることで、被災を少なくすることはできないだろ うか。復旧的な考え方の復興は、将来を見据えたものであるか、確かに低平地を捨て高台 へ移転するということは、津波被害からは守ることはできるが、生きていく意欲を失わせ るようなものになる懸念はないのか? 本来の復興は、将来を見据えた、将来の土壌づくりではないのか、性急な一時的な解決 方法ではないのか、行政と住民とのかい離はないのか。復興への対応で、ハードに重点を 置きすぎていないかが気になる。自然のサイクルを無視したあるいは、一方的な理解での 人間優先の機能主義は、自然からの攻撃に弱い。立ち上がりのところは、修繕修復という 人為的であっても、そのあとは自然のサイクル、自然力を生かすということが望ましく、 それへの対応を考えることが望ましい。なぜなら、ハード対策といっても完全なものでは ないこと、自然現象についての十分な理解が得られていないことなどがある。被災地で聞 かれることの一つに、防潮堤を作るのであれば、背後地がなぜ制限地域になるのかといわ れることへの返答である。 復興は、ハードも大事であるが、それは自然への回帰、自然力の再生の支援であるとい うことで、最も大事なことはあらゆる人と機関へのソフト対策である。どのように連携し ていけば、より耐災害性を確保できることになるのか、今だからこそ進展著しいICTを 活用や知恵が生まれるような気がする。我々の安全、安心、快適な環境は自然の活用をベ ースにした方法以外にないということの再認識が必要である。 ハード対策で自己満足し、自然災害にボケるよりもソフト対策で日常的に自然と付き合 うことが大事である。ハードは資源の消費であり、永久保証されるものでもないので、あ くまでも防災という面では従なる存在として、ソフトを柔術させることが重要である。そ れだけの学習能力、情報ツールがあり、それを課題解決するための一元化を図る方が、投 資効果が高く、その展開による相乗効果も期待できる。津波被災地の高台移転に関して も、ハードとソフトを組み合わせて、職住分離による産業復興、地域防災力が切れ目なく 次世代へ継続される防災並びに経済の面での地域力を醸成していくことを期待したい。 21.資本は使い切ったらおしまい、有効に活用して、さらなる資本の蓄積を図る 我々が、安全で快適な生活を行っていく上での基本的な資本の一つに自然環境がある。こ の自然環境が、適正に維持され循環されることによって活動している状況にあり、これが分 断されたり、不調になったりして変化したりすることは想像したくない。このような環境は、 極めて複雑なシステムでランニングされていることから、どこかで、いままでの傾向と異な ると想像できないような状況が発現して、その影響は拡大したり拡散したりするというも のである。自然環境は、地球自体が太陽系にあることでの太陽の支配、地球自体が生きてい ることでの内部活動、地殻も複雑な気象にさらされているといったこともあって、単純なシ ステムになっていないとはいえ、地球自体の起源とその後の進化は、謎だらけではあるが、 大筋のことは、今の一面で見ればかなり明確になってはいるといわれている。 しかし、過去に比べれば、人間の地球上での活動は、あらゆる面で大規模化しており、自 然の自浄能力を超えていて、環境への影響が様々な分野で懸念されるような変化を与え始 めている。この様な変化は、どこで、どのくらいという測定的なことは把握できても、それ がどのような事象となって顕在化するのかについては、まったくと言っていいほど不明で ある。 いま自然環境から見れば、人間の活動は短い期間で、単純というか、機能主義の一攫千金 的、利己的な行為に見えるのではないだろうか。少々のことは気にしなかったものの、今は、 その度合いが増えて、手におえないところに近づいていると思ってはいないだろうか。 そんな中で、災害という形で、自然は修正しているようにも思える。そして、自然のサイ クルや、メカニズム、自然が示すサインに気づかずに、想定外とか、ハードだけで復旧する ことに注力していて、随分と自己満足的なものだと思われているようにも見える。 自然のサイクルを無視した、非自然行為は必ず揺り返すことが多く、ある範囲までは自然 サイクルへの回帰現象でもある。 つまり、近視眼的には微変とも思えることが、様々なところへと波及するゆえに、この複 雑な自然環境が関連しているということにも通じる。 例えば、地球温暖化、その原因はさまざま云われているし、そのメカニズムもすべてが明 らかになったわけでない。したがって、その影響も、人間の体調変化、新たな疾患の発生、 気象の短周期変化、農林産業における生産構造の変化、海流の変化、水面上昇による生活基 盤の喪失、生態系への影響など多岐にわたって関連が疑われる。地球温暖化を抑制する動き は、待ったなしではあるが、対応や対策にはトレードオフといえるものが、様々な面で存在 していて、人口、経済対策など科学技術だけでは対応しきれないでいるというのが現状であ る。地盤でも、地質や地形は永久に不変ではなく、常に変質変動して、安定化しようとして いる。しかし、外的作用などで、その傾向が大きく変化してバランスが悪くなると、崩壊や 地すべりといったことで元に戻す動きが発生する。人間にとっては、災害と呼ぶが、相手は 単なる元の軌道に戻すための現象ということになる。 22.感性 大きな経験したことのない自然現象に遭遇すると、だれでもどうなるのかなという恐怖 と早く過ぎてほしい、止まってほしいと願う。そこには、それぞれ感性が働いているのだが、 その感性とは何か。感性は、辞書的にいえば外界の刺激を直感的に受け取る能力ということ であるが、実際には行動をどう起こすのかという直前の意志でもある。 これらは、知識や経験が基本になっていて、加えて、広く周りを見渡す目、観察力とでも いうようなもので、それには、余裕も必要で、様々な情報を短時間で収集して判断する上で、 極めて重要である。いずれの自然災害も、瞬時に発生するものも、多少の時間はあっても、 熟考したり相談するだけの余裕はない。つまり、感性はその時、瞬時の気づきである。 異常な自然現象を的確に判断して意識することは日常を十分に知っていないとわからな いし、といっても、常時びくびくしていては精神的にも続かない。また、無関心でいても咄 嗟のときの判断ができないということになり、どうすれば危険を予測でき、次の場面を想定 できるか、日常とは異なる場面を予想することができるかである。 まず、それにはどういうときにどのようなことが発生するのかということを知識として 理解しておくことが大事である。いまの時代は情報も質は別にして多いので、その対応方法 を知っておくには、自然現象に関心を持っていることが大事である。高度な専門的な知識を 持つ必要はないが、例えばハザードマップの見方、活用方法、何かあったらということでの 備えは必要である。 その一歩が、自分が生活しているところがどのような自然環境なのかを知って、いかなる 災害リスクがあるのかを知っておくと、避難するにしても、それに付随する危険要素は少な くなる。とはいっても、想像たくましくして心配で暮らせないというのでも困るわけで、で きるだけ地域で行われる講習会などに参加して、知識とコミュニテイの醸成に努めてほし い。都市部に居住している人は、休みの日に家族で近くを散歩するだけでも、気づかないと ころに水路があったり、川の上流にどんなところがあるのかなどを知っておくだけでも有 益な情報となるはずである。 日本は火山列島ではあるが、最近では大規模な火山活動は雲仙、有珠山、新燃岳が思い出 されるが、忘れられるくらいの時が経つ中で、過日、御嶽山で火山噴火があり、多数の犠牲 者がでた。今夏の報道から、犠牲になられた方には酷かもしれないが、少々楽天的な気持ち での登山が犠牲者を多くしたようにも見える。実際に、その異変を感じて早めに下山した方 も多かったらしく、なんとなくいつもの御嶽山でないような感じがしたし、噴煙の勢いも強 いということであったらしい。特に、山や海、川に関しては、気象に左右されることが多く、 ちょっとした異変というかいつもと異なることに気付いたら、何かあるサインであると思 った方がよい。我々の生活する日本は、自然の恵みも景観も素晴らしいが、その裏には危険 な素因も多くある。それを忘れずに、自然のちょっとした変化に、早めに気づいて対応する ということが大事で、あらゆる機会にその感性力を高めていくこと、敏感になることが、こ の列島に住む者にとっては必携のことである。 23.自然から新しい構想を生む いま日本は、世界でも経験したことのない少子高齢化が進んで、様々な未知の現象に遭遇 しており、それへの対応が求められている。いわば、この先を継続した、より快適な社会を 形成していくのは、課題解決能力が問われているものである。そのためには、次元の異なる 新しい発想や構想が求められているのだが、先を見ているだけではアイデイアは浮かばな い。例えば、地方創生ということが叫ばれていて、災害復興とともに大きなテーマになって いるが、実際に行われているものは、災害復興でいえば災害復旧であり、地方創生は単なる 人とモノの移動だけということでは、いずれも 50 年先を見据えたものでないように見える。 まず、大事なことは今までの我々の先人を含めてどのように自然環境の中で暮らしてき たのかを知った上で、今後の継続できる環境を整備しなければならない。いま、我々の経験 から、自然環境との関係、人口減少という社会環境の変化、価値観の多様化などが課題につ いて検討する必要がある。この中でも、基本的なことは自然との関係であり、自然現象に対 して安全で安心な生活環境の確保である。これがなければ、何も成立できないし、そうかと いってハードだけで自分たちの環境を守るということは不可能で、自然との共生、自然への 影響の最小化こそが目指さなければならないことになる。したがって、これからは、それが 保証できないものは作らない、使用しないという原則こそがコンセンサスにならなければ ならない。それには、今までの我々の生活史をしっかりと学習し、自然とのかかわり方を再 認識した上で、次世代への構想を創出していく必要がある。そのためには、フィールドに関 心を持つことが重要で、特に学校における地理教育を充実されることで、地理ということで なくても他教科でも地理的視点の導入が良いと考えている。環境への関心、理科の心は、す べての学科で具現化することができるので、総合学習ということでの企画などもよいかも しれない。自然災害の正しい認識は、正しく災害を恐れることにもなるし、国内外を問わず、 いつでもどこでも災害に対して、適切に行動する上では大変に重要なことである。土地への 対応、自然の改変による対応、災害への対処について、今までの人間の暮らし方の多様性を 学ぶことで、人間とは何か、何ができるのかを考えていく。それは、自然へ挑戦することで もなく、克服することでもなく、そこに生きてきた人々の歴史をとらえ、その目から見た自 然を理解することである。そして、単なる情報の蓄積ではなく、自然や人の豊かさを示し、 新たな未来への発想の宝庫になること、またそれが地理学の求めるところの本質であろう と思われる。つまり、事実に即して、確かな分析や評価をしつつ、次世代への可能性を生み 出し、実現していくのはどのように自然を取り入れていけるかを探ることを考えつつ、現地 を調査し、分析し、それを他の人に伝えていく営みこそが、フィールド重視の地誌や地理学 の本質であるからである。このようなことが国民の常識になって、今後、我が国が目指す観 光立国として多くの外国人に対しても安全で安心な歓迎が可能であり、ヒト、モノ、情報が 観光の目玉であるが、その基層に安全安心が大事な資源にもなるであろう。 24.豊かに暮らす、幸せに暮らすための自然とのあり方、地球人としての継続性 よく自然との共生ということを聞くが、共生とは何か、少なくとも抵抗したり、征服する ことではないことだけは確かである。自然は、人間だけではなく生きとし生けるものすべて が、関連している動の世界である。したがって、自然と共生するという人間のあり方は、極 めて小さい存在であったような気がする。それが、環境をする中で、人間にとって有利であ ろうというものに注目して、それに集中して利用する、時には略奪するというようなもので あった。それでも、その規模が微笑で自然雄サイクルでの再生産のシステム内で対処できて いる間は良かったものの、その許容範囲を超えての行為が恒常的に広く行われるようにな ったり、小規模であっても、自然のシステムの障害なるようなことになれば、自然も異常事 態ということでそれなりの対応をしてきた。 そして、その異常状態は、われわれにとっては、都合のよいことばかりではなく、災害と いう名で責めることにもなった。 災害には、素因と誘因があるわけで、その被災を最小化するには、素因を変えるか、誘因 を避けることが考えられる。その素因が地球内部に存在するダイナミックスであるとか不 可能なことは別にして、地形の形成に障害となるような行為は避けなければならない。誘因 は、気象のようなことであれば、それをコントロールすることはできないわけで、被害の対 象物になるようなものを最小にするとか避難するという手段で対応することができること もある。 そういうことから、自然と共生するということは、相手を知り優れたところを認めながら、 お付き合いすることに似ているような気がする。 我々は、すぐにあって、友人になるということにはならないわけで、相手を様々な機会に その素性というか、どんな人なのかを見極めながらおつきあいするということになる。その ためにも、当方に相手を適正に評価する判断力が必要だし、ある時はこちらが相手に合わせ る修正能力も求められるのである。というわけで、つまりは自然雄ふるまいを知り、認めつ つ、その本質を知って、付き合っていくということが、末永い頼りになる知人友人になるだ と思われる。単なる利害だけの付き合いは、その時だけのもので、何とかの切れ目が縁の切 れ目になってしまう。自然のシステムに人間が追随するのが、良き友人関係を作ることで相 手を変えるとか、抑え込むとかいうのではその関係は期待できない。別に、自然は人間と関 係を持とうとしているわけではないが、当方にとってはよき関係を持つことでよい快適な 環境を得られるわけで、ご機嫌を損ねるようなことは何かを認識して、上手に付き合うこと がよいと思われる。時には、相手も機嫌が悪くなることは必定、その時には早めに顔色を見 て、そっと避けるということも、また長いお付き合いの極意であろう。 25.自然共生と安全な環境 自然災害ということが言われると、自然がいかにも一方的に我々に被害をぶつけてきた ような印象がある。地球は、太陽系のシステムにはめ込まれていて、その影響が様々な現象 を生み、かつそれぞれの現象は相互の関係にあるという複雑な状況を生み出している。 したがって、地球はそれらの現象を素に存在すると同時に、地球自体の内部も高温高圧の 世界を有していて、活発な活動をしているという状況にある。 したがって、我々が住む地球の表層部は、地下からも上からも影響が絶えず受けながら、 生存し続けているわけで、これらを有利に制御できる状況にはない。 したがって、一方的にそれらの現象並びにその結果については享受するしかないという ことになる。 我々にすれば、役に立つ、利用しがいのある恵みと、ありがたくなくできれば避けたいと いうものが混在している。例えば、火山噴火は地球内部の一種の運動成果ではあるが、恵み は温泉や地熱エネルギー、地形景観などがあって、極めて有用なものとして貴重である。一 方、噴火は有害なガスや火山噴出物の放出による気象災害、火砕流などの発生による人的、 物的被害などがみられるという両面がある。 そのような中で、人間はできるだけ自然の災害に遭遇しないために、都合のいい利用を考 えてきた。被害が及ぶようなところには居住しないとか、あらかじめその前兆があった時に は、避難するとか、かつては祈祷するなどの知恵が働いていた。それには、常に自然との関 係が密接で、その支配力を認めていたからである。しかし、人間の活動範囲が広がったり、 その活動の質も深くなってくると、逆に自然との距離がしだいに疎遠となり、打算的になっ ていくことになる。そうなると、どこかで、自然を制御するまではいかなくとも、一方的に なって、自然のシステムには関心がなく、科学や技術で推し進めるということになっていっ た。自然は、すぐには反応することはすくないが、徐々に負荷をため込んで、顕在化すると きには、人間にとっては青天のへきれきのごとく、たいへんな衝撃となって返ってくるとい うことになる。そのようなことが起きて初めて、様々なことを学習するわけではあるが、そ もそも人間活動が触媒となって反応したものであることから、すぐには可逆的には、元に戻 らないどころか、その影響はあらゆる所へじわじわと浸透していくということになる。そう なると、我々ができることは、その負荷が進まないようにする以外には対応策はなく修復す るというようなレベルではなくなる。 これからは、自然のシステムを理解して、一方的な利害だけを追求しないことや、今まで の経験を生かして、できるだけ負荷を少なくした行為が求められているような気がする。土 地利用でも、できるだけ平坦で、水理環境もよく、地理的にも優れたところを求めがちでは ある。しかし、開発対象となる地域は、往々にして先人が回避してきた土地である可能性も ある。それは、水害の常襲地帯かもしれないし、土石流による堆積地かもしれない、あるい は、かつては大規模な地すべり地であったかもしれない。または、津波によって避難したり 犠牲者が出たエリアかもしれない。そういうことを無視して、単なる平面的なことだけに注 目して開発し、その後に大規模な自然現象で顕在化した例は少なくない。 26.自然共生と安全安心の障害 巨大地震や大規模水害、深層崩壊などがあると、必ず想定外とか聞いたことがないという 驚きの言葉でいわれることが多いが、当然のことである。なぜなら、このような災害は、今 のところ頻発しているわけではなく、人生 100 年、有史 2000 年程度の日本人では当然であ る。地球は 46 億年の歴史があり、人間が誕生してからもおよそ 500~800 万年ということ である。そのような関係にあれば、巨大災害に遭遇するということは、ある意味で神がかり でもあったかもしれないが、最近の地震災害、火山災害、津波災害、土砂災害の数を見ると、 もう希少なものとは思えないし、加えて近々予想されるものも控えている。 その背景には、自然のサイクルもあるかもしれないが、その一部には人間活動と密接な関 係が自然現象を自然災害へ直結させている面もあるような気がする。いかなる現象があっ ても、そこに何もなければ災害は起きないわけで、人や財産があるがゆえに災害となるから である。 このような状況では、災害となる可能性のある現象に対して、どのように対応すべきなの かを考えると、起きた時は起きた時その時に対応するという考え方と起きることは仕方が ないし、抑制できないのであるから、被害だけはできるだけ小さくしたいという考え方があ る。もちろん、前者にしてもできれば、起きてほしくないわけで、最低でもいつ、どの程度 のものがということは知りたいということは当然である。 いずれにしても、自然のメカニズムや自分たちの環境を知っておくということは基本的 なこととして肝に銘じておくことが必要である。 どちらにしても、人的被害は周りの人も地域も末代にまで心的障害を残すことになり、い まを安全に暮らせればいいとは思っていない。いつまでも、安全で、安心な快適な生活を願 っていることは共通のことであるからである。 そのためには、まず自分たちの地域、その周辺にどのような自然災害になるようなリスク があるのかを知っておく必要があるし、そのあり方に沿って無理のない範囲で、日常の対策 をしておくことが必要である。河川の近くであれば水害、液状化、造成地であれば谷埋め盛 土すべり・端部崩壊、海岸平野部であれば液状化・津波・沈下・高潮、沢の出口付近出れば 土石流・流木・山腹崩壊、火山山麓であれば火砕流・有毒ガスなど、広い視野から確認し、 それに由来するリスクを特定しておくことが重要である。 また、地域には貴重な先人が残してくれた地名、遺跡、石碑、古文書、言い伝えなどがあ ることが少なくない。これらを活用して、賢い生活の仕方をする必要がある。 我々の生活環境は、一方的に良いことだけではないし、不利なことも多く、そこにはトレ ードオフが存在する。それに対してどのような課題解決を図るのかということが次世代へ の遺産ともなるのではないだろうか。 27.歴史人口学からみた自然災害の一端 日本列島に人間が住みついたのは、いまから 60 万年前の洪積世といわれている。当然、 初めはごく少数であった人口も、単調的に増加したわけではないが、増え続けたが今や少子 化という時代を迎えている。この間には自然とのかかわり方が変化してきたことは明確で ある。これを、大きく狩猟採取の縄文時代、定着して水稲農耕中心時代、経済化社会時代、 工業化時代というようにみると、その間には気候の変化もあったし人口の増減もあったわ けであるが、土地の利用についても大きく変遷している。当初は、人間の食料である堅果類 や魚介を求めて移動していたものが稲を生産するようになってからは定着する。 そうなると、当然河川の近くが望ましいわけで、できる範囲のかんがい施設等で水田を広 げていったものと思われるが、この段階では地形に依存したものであったと思われるし、丘 陵地や高台も自然地形を利用する程度のものであったろう。 その後、生産量を上げるためや水害などの影響を避けるために水田の拡大に意欲的にな り、一部では湿地や沼などが埋め立てられることもあったかもしれないが、規模としては大 規模というような状況ではなかった。その後、工業化社会になると、機械化が進んで、大規 模な土地の改変が可能となり、農村からの都市集中も重なり住宅地並びに工業用団地、空港 や港湾といった工業化に付随するものが一斉に造成されることになる。いわゆる高度経済 成長期に入ってくる。この時期は、できるだけ平坦な土地と交通の利便性が最優先され、そ の土地の由来や形成された環境などが考慮されることはなかった。そして、技術優先の神話 で明るい未来があると信じ、自然のシステムなどには関心がなく、すべてが経済至上主義で 走り続けた。そのうち、様々な今まで経験しないような事象を経験することにもなるが、ど こか矮小化してとらえられることが多く、自然環境の位置づけも明確でないように見えた。 このような人間にとっての予想できないような環境破壊による事象は、早期に発現するこ とはまれで、ある程度の期間があって顕在化することから、予知予防が難しい。しかし、わ れわれはさまざまな被害をこうむって、経験や学習したことが累積しているわけで、そこか ら誘因を明確にして、被害の最小化を図るということは重要である。 自然災害でも、自然現象に対しては抵抗もできないし、抑止抑制もできないのだから防災 の手立てはないと考えている向きもあるが、それによる被害は軽減することが可能である し、その方法しかないというのが現状である。 土地利用の変遷も、移動から経験を積み重ねながら、自然現象を見据えつつ、安全で効率 が良い定着型になっていくが、工業化社会になると平野部や丘陵・山地の開発ということで、 居住並びに生産空間を広げていった中で、地盤の特性を忘れられていった。たまたまその間 には大きな災害の発生もなかったことから、災害ボケがあったのかもしれない。ところが、 最近では続けざまに地震・津波、大規模な土砂災害が連続して発生していて、かつての我々 の所業を暴くように被災を大きくしている。今後は、悲しい経験を糧にして、簡素な豊かさ、 少子化を認めて生活様式の見直し、新時代に適合したシステムを模索するために、官民が共 通認識を一にしての法制整備や技術開発などの検討が必要となる。 28.災害列島での生き方 日本列島は面積が大きくない島国であることは自明であるが、災害という面からのさま ざまな分布図を見ていると、なんと多くのものが、まるで博物館の様に存在することに驚く。 列島を帯状に活火山が連帯であり、活断層はあらゆるところに走っているし、列島の周辺の 海洋ではプレートがひしめき合っているという状況である。そして、これらは一時も静なる 時はなく常に活動しているわけで、われわれは、この大きな動く船の上にいるのだと実感す る。そして地表では、かつての大規模な地すべり地や土石流で形成された地形が、珍しくな く見ることができる。 このような自然現象は、幸いにも同時に活動して、列島がいっぺんに爆発するということ がないがために、我々もどうにか、その隙間で生活できるというものであるが、時のその一 部が激しく活動することで、火山が噴火したり、地震津波が発生したり、大規模な土砂の移 動があったりすることがあり、大きな被害・被災を蒙ることになる。 いつ起きるかはわからないが、起きれば大きな影響があることは明白であり、日常的に備 えておくことは、継続して生存するには必要なことである。 そのためには、この自然やいままでの経験を知ることで状況判断がまず必要で、その上で 可能な限り被害を最小にすることを考え、被害を大きくするような行為は極力避けなけれ ばならない。 その上で、自然を上手に継続して利用し、活用することが求められるわけで、特に、負荷 を作ってきたような経験は学習成果として反省する必要がある。 われわれが、すべてを知り尽くして、自然の動きを察知することが不可能なことで、可能 なことは経験といままでの知見で災害の規模を想定したうえで、できるだけの備えをする ことである。専門領域では、ビッグデータを駆使してシミュレーションをする最新のITC 技術も進展はしているが、大事なことは、そのような成果が公開され、活用さて情報が正し く伝達されて、それに連動した適正な行動が可能になることが大事である。 それには、学校教育の場での自然への理解が大事で、地球のダイナミックな動きと同時に、 それがわれわれの日常にどうかかわっているのかを学ぶことは大変に重要なことである。 このような基礎的な知識がなければ、備えるとか避難するということにはつながってい かない。災害の発生時には、行政任せでは十分ではなく、自分で判断して行動をするという ことを一瞬にして行えるのは、基礎力があればこそであることは、先の東日本大震災でも経 験したところである。来る南海トラフにかかわることや首都直下地震など恐怖の災害が予 測されて、避難訓練、耐震化、備蓄などが考えられているが、同時に基礎的な知識も蓄積し ておくことが大事で、特に二次災害に関しては、とっさの判断が生死を分けることが多いこ とを肝に銘じておきたいところである。 常日頃から、関心を持って考えていれば実践が可能なのであって、その時勝負ができるほ ど甘くはない。 29. 地象への理解と応用 我々が地象を理解する必要性は、自然環境の中で人間が生活しているということと、こ の自然のシステムを変換したり、抑止することはできないところにある。そして、この環境 が安全で、継続されることがなければ我々も生存を続けることができないからでもある。と てつもない自然ではあるが、災害には素因と誘因があるわけで、その辺からその危険性をあ る程度予測して、何らかの前兆を把握して早期に避難するというのが不可欠であると考え られる。普段から、周囲にあるリスクを特定しておいて、それに応じた対応を望ましく、災 害は来るまでは信じたくないしそれに関心も投資もしたくないというのが人情ではある。 しかし、無防備でいれば被害は拡大することは明白であり、そのもとには抵抗できないが、 それによる影響の最小化は可能である。これは杞憂ではなく、自然は常に運動していて、全 体のバランスを取っているわけで、必ず安定化の方へ動くときに、人間にとって不都合なこ とが発生する。自然のサイクルと災害は全く関係がないわけで、意図して被害を出している わけでないとなれば、人間の方でその動きをかわすということへの対応が被害を少なくす る手立てとなる。 そのためにも、生活環境に自然災害のリスクがあるのかどうかを確認して、どのような 被害が想定されるのかということを、できるだけ正確に把握しておくことが必要となる。 例えば、河川の作用について考えてみる。河川の流れは常に一定の穏やかな流れではな い。ときに激しい激流になったり、上流から大規模崩壊による土砂や流木を大量に押し出し てくることもある。河川地形は、このような特別なイベントによって形成されたものが多い。 それだけ、日常では考えられない大規模でパワーあふれる力を秘め、時に開放されるという ことを示している。このようにして形成された河川が作る陸上の堆積地形は、土石流で作ら れたゆるやかな扇状地、平坦な氾濫原、浸食による段丘崖、下流域に広がる低平地、河口付 近での三角州などがある。それぞれには歴史があって、それがものとしての物性を有してい る。このように、陸上の平坦面は、ほとんどが河川の大きな変化が繰り返されてつくられた ものである。このような平坦面は、人間の生活をする上での利用しやすいものになっていて、 当初は農耕や集落の形成に利用されていった。その後、工業化が進み都市への集中が進行す ると、自然の地形をそのまま利用するだけでは不足し、地形を改変する技術が生まれてくる。 当然、施工性が良いところが選ばれるわけであるが、それは工事量が少なく済むからである。 そうなると、海岸部の低平地や丘陵の裾部になるわけであるが、このような地形には形成の 歴史があり、それに応じた土質や地質があり、そこを知らないでいると、地震や豪雨などの 時に、それがもとで大きな被害となることが多い。 古代のエジプト人は、ナイル川が氾濫することを前提にして生活を営んでいたが、現代 社会は土地への関心は目先の利便性だけになってきているとともに、自然災害については、 そのリスクにあまりに無関心すぎるように思われる。自然災害に遭遇すると、想定外だった とか、今まで聞いたことがないということになってしまう。我々が暮らしやすいと考えてい るところの環境には危険性が潜在化しているかどうかの確認は必須である。 30.自然現象に対して抵抗、強化 × 強靭化 ○ 東日本大震災を契機に、国土強靭化が言われるようになって、政策としても取り上げられ ている。強靭化というのは、文字通り強くてしなやかであるということであるが、何かがあ れば力だけで耐えるというのではなく様々な技で、相手をかわしたりしながら勝利するこ とであろうと思われている。例えば、災害に対しての防災対策として、ハードのみに頼らず に、ソフトを組み合わせて、住民の力も取り入れながらなんとか被災を少なくするというこ とになる。ハードの役割を前面に出さずに、影武者に徹していくということかもしれないが、 なんとなく頼りにならないという人もいて、あくまでもコンクリートを信奉するという心 情なのかもしれない。 自然災害を想定しての強靭化とは、相手である自然を知ること、備えと避難を常に意識し た生活のスタイルをどのようにして構築するのかということになる。それも自然災害は、い つ来るかわからず、来ればてんてこ舞いという状況の中ということになれば、その時に適正 な判断ができる応用力を身に着ける必要があるわけで、その基礎力を蓄えることが必要に なる。 自然現象は、自然は常に活動していて、繰り返しのように見えながらも、それは戻ってい るのではないということを知る必要がある。自然を利用し活用している我々が一番に理解 する必要があり、この機能が止まったり喪失するようなことがあってはならないというこ とでもある。 そのためにも、自然環境に対して、負荷になるようなあるいはサイクルに対して、ブレー キがかかるような行動などは抑制しなければならないだろうし、逆にそのような自然の営 みを応用する知恵と配慮が求められているのだと思われる。 自然の流れを止めないということは、言うことは易いことではあるが、自然は極めて寡黙 使いやすいというか、制御できそうにも思えるところがミソでもある。例えば、治水や防災 ということで、堤防やダムを構築することはあるが、当方の目的だけを満足させようとする のではなく、そのことによっていかなる負荷を環境に与え、それが経年とともに回復するこ とが可能かどうかまで検証し、修正するというシステムも併せ持たせるように計画をして いかないと、短期的には得したようでも長期的に失うものがあってはならない。 特に土木構造物では、大規模で機能を巨大化した方がライフサイクルコストとして有利 であるという見方があるが、それだけ負荷が大きく、その評価を無視することはできなくな る。それに対して、小規模なものを多数で対応することは、全体の効率化、コストでも必ず しも有利ではなくても、自然環境への負荷を最小にすることができるということある。 つまり、機能とコストだけではなく、それによる影響までも評価されていく必要があると いうことになる。そのような視点に立っての、強靭化でなければ意味がないように思われる。 つまりは、自然を利用・活用するということは、相手の力を上手に使って、自然の中に溶け 込んでいくということであろうと思われる。強靭になるということは、自分の方ではなく、 相手に合わせるということではないだろうか。 31.教育 大規模な自然災害は、頻発はしないが予告なく発生するということで事前対策というこ とは難しいといわれているし、その時の備えて万全にしておくということはほとんど不可 能である。そうなると、当たれば不幸ではあり、当たらないように祈るだけであるという極 めて達観している向きもあるが、発生した時の人命や財産を失ってはじめてその悲惨さに 慨嘆する。いつ来るかわからないが、来るのは確実であれば、備えておく必要があるという 認識が必要である。そこで、昨年の国際防災会議仙台大会でも各パートでも議論され、報告 されスローガンとなったことに防災教育がある。 この防災教育は、直接の防災になるようなものではないが、災害発生時の備え意識の底上 げとなるもので、行動を起こせる基礎力となるものである。防災教育は、単なる知識を学ぶ というだけでは不足であり、知識のほかに、確認するという方法、課題解決していく力、も のごとを見る観察力と五感を駆使できる訓練が求められる。つまり、使えるものになってい なければならないし、このことを確実にものにすれば、地域だけでなく、国内外の外出先で も十分に機能できるものとなり、安全安心策にもなるということである。 つまり、可能な範囲で、リスクマネジメントを働かせて、身の回りのリスクを特定するこ とが必要である。そうすることで、災害文化のようなものが醸成され、自然に対する関心も 高くなり、可能な限りそれへの障害となるような活動については慎重になっていくことに なる。また、自然環境を破壊すれば、そのつけは自分自身に還元されるということを、様々 な面で学習してきたことを再認識することでもある。 地域におけるリスクを特定した上で、専門家から災害に関してのコントロールポイント を示してもらえば、地震、豪雨、融雪などの時に確認するだけで危険診断にはなるというも ので、少なくとも想定外であったということにはならない。防災教育は、特別なことではな く実施する方も受ける方も、いかに継続して、意識して自分たちの生活環境に関心を持つか ということに尽きる。また、防災教育で大事なことは教育とはい一方的な姿勢ではなく、例 えば、他地域での災害や被災が発生した時には、対岸の火事とすることなく、そこから自分 たちに置き換えてシミュレーションをするということも大事なことである。類似のような ことは起きないのか、起きたとしたらどうすべきなのかなど考えることも大事で、そのため の基本的なものを防災教育の対象とすべきである。いままで、われわれは、機能とコストを 重要な価値判断にしてきたし、それに偏向していたかもしれないので、今後は環境を加えて 考え、新しい社会価値の構築に取り掛かるべき時期のような気がする。自然現象は抑制も抑 止もできないが、それを誘因とする災害の最小化は可能である。それには、再生可能にする 科学技術、再生可能な社会を持つことこそが、今後の継続的な生活のためには不可欠であろ う。 我々は、東日本大震災で、様々なことを学んだ。単に復旧することだけではなく、災害と 付き合うヒントも得たように思われる。少なくとも、先を見据えたプロセスなしでは、これ からの継続的な生活環境は確保できないことだけは確かである。 32.地名から地域を知る例について 地名は、いつも何気なく使われていて、主に区別や位置という意味で使っているものであ る。この地名にも年齢があって、古いものほど地域の事情を反映したものが多いように思わ れる。いまのような単なる利便性だけではない、その地域の様々な環境を言い表したものも 少なくないと思う。その中には、教訓的なものや土地利用的なものもあり、歴史や文化の一 端をうかがわせるものもある。おそらく、地名で残すことは石碑に刻むよりも住民にとって、 末永く相続していける優れた伝達・伝承方法であったといえる。 土地に命名するということは、人にとっては大変に重大な意味があったもので、その土地 は人間の意識と同化して、人間化するというかお互いに密接な関係をもつということにな る。したがって、地名は単なる社会的記号ではなく、そこには土地の形状であったり生産環 境であったりと、自然を人間的視点で取り込んだ記号でもある。そういう意味では、地名を なくすことは集落が消滅するのと同じ意味があり、簡単に利便性優先で改名したり消滅す るということは文化遺産をなくすことに等しい。地名の中で顕著なものは、周りの地形や土 地利用、水害などの常襲地帯、農産物などに関する指南的なものである。そこには、区画整 理的な発想はなく、どのような場所で何に留意すべきところなのか、何に有利なところなの かを表現するものであった。古い由緒のあるものほど、自然の形状と地名とその歴史は緊密 で、内容が表現を強く結びつけられることも多い。それで、その土地の歴史を再構成するこ とができる。人と自然との交渉というような気がする。 地名に古文書と同じ価値があると考え、徹底的に読み込めば、今に伝えられる確かな土地 情報を得ることができるのではないかと期待するものである。古代の人々の関心の一つに 自然の怖さ、食糧の確保、災害への関心であったことが、地名というものに反映させている ともいえる。そういう風に考えると、古代人の優れた知恵と生き方が、東日本大震災やその 後の集中豪雨と河川氾濫・浸水による被災と重ね合わせてみると、自然のとてつもない存在 と自然災害を最小にすべく安全安心の確保に重なるような気がしてくる。 ここで、柳田国男著の「地名の研究」を解説した中沢新一によると、地名の世界には、地 質学でいわれているところの地層とよく似た「層序(層的な秩序)」があるのだそうである。 これを大まかにいうと、一番下の層には、列島の先住民である「アイヌ」によって作られた 地名がある。その上に「米をつくる民族」である日本人によって命名された地名がかぶさっ ている。この中には狩猟を生業とする人々によるものも含まれている。さらにその上に、中 世の荘園の開発以後に生まれた比較的新しい地名が乗っている。下に行くほど、埋もれてし まうことから記憶からも消え去る運命にあるかもしれないが、地層の露頭のごとく今でも 明確なものとして残っているものもある。例えば、縄文的古層に相当するもののケースでは、 湿地を表すアイヌ語の「トマム」とか「トマン」は湿地を表現しているとのことである。こ れを基にした日本語に「当麻」がある。同様に「ニタ」「ヤチ」という湿ったとか腐ったも のの意味のアイヌ語から「仁田」「仁田沢」「谷地」「谷戸」という地名を生んだといわれて いる。 33.土地開発の視点 わが国では、戦後の経済成長に伴って、いわゆる土地の造成が一気に進んだ。もともと、 国土が狭いうえに平野部が限られていることから、沿岸部への産業拠点の拡大、住宅地を求 めて丘陵部へと進出することになった。いずれのところも、かつての土地選定からはのぞか れていたところで、安価で広い面積が確保されるというところだけが魅力であった。 しかし、そのようなところは、自然災害のリスクも有していて、何らかの工夫をしないと 地震や豪雨などによる自然災害を蒙ってしまうところも多かった。そして、いままた新たな リスクも発生している。例えば、沿岸部での液状化による宅地被害やインフラ施設被害であ る。また、丘陵地における谷埋め盛土、造成地の経年劣化や人口減少による管理不十分によ る耐災化の低下である。前者は土地の健康診断を怠ったことや不十分な対策が原因である が、後者は人工地盤であることから、様々なリスクが顕在化していると考えられている。人 工的に構築されたものは、劣化するのは当然で寿命があり、管理することが継続的に求めら れていることから、放置すればそれだけ災害への危険度は増すことになる。 経済発展とともに、保全すべき対象物が多くなることや人口減少と財政難ということか ら、なかなか管理が困難になっている状況にあるわけで、それらの状況を適正に把握しなが ら、集中と選択をする時代なのかもしれない。ここで土地利用についても、もう一度見直す ことで、被害発生の危険性や地域社会の災害抵抗性の上から対応していかないと、想像以上 の大きな災害発生の素因となることもあり得る。土地開発は、今までは経済発展の重要なテ ーマではあったが、土地そのもの有する性質を考慮することなく、施工上のコスト、施工の 難易、モノのみの視点というような、土地の形成や歴史、自然災害のリスクなどは考慮され ることは少なかった。また、土地は平坦で広いことが第一と考えれば、その土地の地理的条 件は重要であった。例えば、住宅地であれば、利便性が重要なので都市近郊に造成すること になり、丘陵地を切・盛土で対応することになる。そうすれば、当然谷埋め盛土が不可避と なる。一方、安価を第一にする福祉施設であれば、災害のリスクのあるところやかつての災 害履歴地を購入することもあった。広さをもとめるゴルフ場とかリゾート地となれば、森林 や里山の喪失が伴うことになり、周辺の水理環境を大きく変えることが発生する。このよう に、土地開発は、社会的素因が優先されて、本来の自然環境が有する機能を喪失させ、工学 優先の技術先行型になっていく。自然災害は、1 対1の関係で、時差なく発生するものは小 さいが、発生すると大規模なものには時差がある。それだけに、地域のリスクを特定してで きるだけの対応をすることが災害発生と被災規模の最小化が可能になるものと思われる。 最近の自然災害は、その誘因である気象の変化が大きく、雨量強度が成長していることや爆 弾台風、その滞在時間の長さなど、我々の生活には望ましくないものが多くなっているし、 都市部ではゲリラ豪雨などの頻度も高くなっている。そのために、今まで異なるパターンの 自然災害が発生している。その被害は建物だけでなく、多くの人の命までも奪うもので、結 果的には災害の備えが十分でなかったということかもしれないが、もっと本質的なことは 土地の利用の仕方にある。 34.予防学と失敗学 学習成果を生かせるか 自然災害は、いつ、どこに、何が起きるのかが予想することができれば、おそらく被害者 が出ない対策も可能であろう。実際はそうでないことから、何とか過去に発生したものから 推認を重ねながら、本質に迫ろうとしているのではあるが、自然も複雑ではあるが我々の社 会的環境も変化が激しく、発生から影響対象物が多岐で変化していることもあって難しい。 それでも何とか事前に対応できることはいくつかわかっているので、何とかそれをベース にして、安全で安心な環境を作り、発生時には適正な行動がとれるようにする必要がある。 全く同じ自然現象で同じような被害が繰り返されることはないが、今まで発生したもの の共通項を抽出していくことで、最低の対策を作ることは可能であろうと思われる。 問題は、過去の経験や履歴をどのように収集し、分析評価して対策のためのツール化する かということである。 その情報収集は、今回の東日本大震災では、アーカイヴに集中的に取り組んでいて期待は できるが多くの場合には、意外と記録は少なく内容も実録でないものも含まれている。 実際に、数年しか経過していないのに経験したものですら風化は早くあいまいになって いるという状況で、意図しないと忘れてしまうし忘れられるということになる。まして、復 興と称して被害との景観が変わってしまうと、すっかり起きたことすら継承できなくなっ てしまう懸念がある。 自然災害の一部には、我々の生活の方法、日常の暮らし方の失敗であるというものもある ような気がする。端的いえば、自然災害を待つような土地の利用、災害なんか来るわけがな い、来たことがないという自信がそれである。その根底には、同じものはないということ、 あっても自分たちだけは被害に遭うはずがないという思いがある。そして、自然とはどのよ うな性格のものであるか、そしてどのようにふるまうことがあるのかを知り、その前兆があ ればかわすか逃げるかしか方法がない。そのためには、日ごろから付き合いをしながら、さ まざな動きを見てその素性を確認することが大事である。これは、知識で記憶するというよ りも、過去の我々の失敗例を知ることが最も実践的なような気がする。 失敗は、必ず原因があり、それを究明するには努力が必要、その情報を収集して発信しな ければ再発するという性質があり生かさなければならないからである。自然災害は予測で きないとは言われるものの、被害は予測できるもので、問題はそれが伝わらないというとこ ろに問題があるように思われる。東日本大震災や豪雨による土砂災害などに関しての失敗 は残さなければならないが、それは記録だけではなく、行動として日常化することこそが継 承になると思われる。失敗を風化させずに残す方法としては、文字にして絵本や本にする方 法、ビデオで映画化する方法などもあるが、最も人に記憶に残すために有効な手段は、動態 保存である。これには、遺族の考えもあるかもしれないが、少なくとも次世代へ伝えるとい うことの重要性の理解が欲しいものである。 35.予測は困難なものに対する対応 予測はできないが、必ずあるということに対して、どのように対応するのかということは かなり難しい。その場を想定して対応できるほど、人間はフットワークにたけていない。特 に望ましくないものほど、想像したくないし、逃げたいし、自分には関係ないと思いたいの が当たり前である。 これだけの大震災や土砂災害で犠牲者が多数でても、起きたことに対しては風化が進ん でいるといわれている。そして、風化させないことが防災であるとも言われている。 なぜ、風化することが望ましくないのか、想像することに支障があるからなのか、防災を 特別視する意識が芽生えるからなのか、危険から身を守る本能なのか、人間の脳は痛いこと やいやなことを回避するからなのか。 いずれにして、無意識であることは怖いことであるのは確かなようである。なぜなら、突 然に経験したことがないようなものが発生した時に、すぐに先を見て判断し、行動できるか どうかを考えた時には、意識していた方が選択肢もあり、余裕も出てき得ることは明白であ る。一方、無意識であれば、何が発生したのか、どうすればよいのかなどまったく判断が不 可能で、人のふりを見るだけになってしまうということは想像に難くない。例えば地震は、 発生すればある程度の大きさは判断できるが、それがどのような災害に結びつくのかとい うところまでに及ばない。となれば、どこに避難するのが良いのか、そこに滞在すべきなの か、その後どのような行動が望ましいのかについてまったく判断するものがなくなってし まうことになる。意識するということは想像をたくましくすることではないが、正しく恐れ るというか、選択肢を多く持っているということにもなり、適切に協働することもできるよ うな気がする。そうなれば、想定外ということも起きないし、パニックにもならずに落ち着 いて次の行動に移ることができる。 自然現象による地震・津波や火山噴火、気象災害、土砂災害は、いつ起きるのかはわから ないが、どこに何が起きるのかは過去の事例や、地形地質の知見などによってほぼ明らかに なっていて、種々のハザードマップ等で公開されている。これらの情報を自分たちの地域に 落とし込んで、考えておくことが大事である。毎日、これをのぞいていても仕方がないが、 わが国では類似の災害がどこかで発生する、発生しなくとの様々な災害情報が流されるこ とが多いので、それらをチャンスにして、わが地域ではどうかということを家族や地域の 人々と話合うことでも有効なことである。つまり、様々な機会を賢く利用するということで、 自然災害の怖さに関心を持ち続けることができるような気がする。これこそが、意識すると いうことであり、風化防止になるような気がする。風化とは危険を忘れることで、ことが起 きた時にどのような行動をすべきかができなくなるという無意識になることでもある。 36. 防災の多面性 自然災害は、自然現象であるとともに社会現象でもある。それは、被災の対象がない限り は、いかなるものであっても我々には関係がないからである。つまり、災害の対象のあり方 で規模も内容も大きく変化するということである。 災害に対処するには、被害の対象をはじめとして、被害拡大の人間的、社会的要因の分析 や整理が必要であると同時に、地形・地盤条件の土地環境を合わせて考えていくことが防災 対応策の基本的な条件となる。つまり、災害危険性は様々な面から検討しなければならない ということである。 また、自然災害の危険予測にも、多様な情報の集積が必要で単なる自然現象のメカニズム だけでは不足であり、社会的素因が不可欠となる。自然災害は、豪雨・強風・地震などの外 的作用が誘因ではあるが、その素因には地形、地盤などの土地素因と人工や居住環境などの 社会的素因が作用して発生する。 したがって、災害危険性は、誘因、土地素因、社会素因、災害履歴の組み合わせて検討さ れことが求められることになる。このうち、社会素因は、被害発生の危険性や地域力ともい えるかもしれないところの地域社会の災害抵抗性・脆弱性など社会要因を評価する必要が 出てくる。これだけの人的、経済的資源が濃密に集中してくると、この社会的素因の分析と シミュレーションは重要となる。地域社会における要因には、危険地居住の状況、その認識 度、一般住宅の構造や質などの耐災性、市街地密集度、防災施設・避難所・システムの整備 水準、防災体制などが考えられる。そして、災害履歴は、危険性をリアルに示す情報である と同時に、多数の実例分析により、その共通性が検証されてその信頼性を確実にすることが できる。これだけのことをしても、なお事前の予知、発生の予測については困難なのが実情 ではあるが、この役割は、被害の大きさを正しく当てるということではなく、防災対応策の 策定のためのリスクの一つとして使用されて、それを最小化するというところにある。 以上のように様々な要因や要素が考えられるわけであるが、逆にその中には、対応が可能 なものも少なくなく、すべてをクリアできなくとも確実に被害の最小化に近づけることは 可能である。それは、要因を減らすということであり、減らしたり削除できないのであれば、 避難するとか回避するような生活パターンの変更なども考えられる。いずれにしても、防災 への対応には決定的な方法はないが、減災する方法としては、さまざまな切り口での知恵と 工夫、気づきによる総合化、構想化が必要であることから、専門家だけに頼るというよりも、 われわれ自身が経験などから学ぶ姿勢も大切で、そのためにはできるだけ基本的な知識、関 心、意識を高めることが必要な気がする。そう意味では、学校教育の中で、我が国の災害に 対する関心と感性を高めていくことは重要である。少なくとも、想定外などという言葉が出 ないような防災意識の醸成をしていかなければならない。 37. 災害経験を風化させないには? 今回の東日本大震災から 4 年経過しているわけであるが、メデイアなどでは風化が進行 しているといわれている。本当だろうか、風化とは何だろうか? 簡単に風化するのだろう か?風化とは、記憶が徐々に薄れていくことの意味であるが、あの日を経験したものにとっ ては、特に、犠牲になった友人、知人、家族の記憶が薄れることはなく、より鮮明になるこ とすらある。ただ、街並みや景観が、時間とともに変化はしているので、いかにも復興が進 んで、何事もなかったかのような気がしてくるような妄想があり、夢であってほしいという ことかもしれない。 この大震災では、人も物を失い、生活環境が激変したが、災害復旧的なことは津波被害を 中心として進行はしてきたものの、原子力発電所の事故に関しては、めどがつかないような 状況である。それでも、被害区域外の人にとっては相当に進んでいるという印象を受けてい るようである。実情を知らせると、大方の人が驚く。これには、新聞やテレビ等での報道の 取り上げ率、濃密差などが影響していることにもよると思われる。その内容は、仮設住宅の 問題、生活再建、子供たちの教育環境、先が見えない復興もどき事業など、モノではない人 に問題が残されているばかりではなく、望ましくない財産がつみあがっていくという現実 である。このような災害経験と実情が正しく伝達されないのか、伝え続けることができない のを懸念する。 これ等の背景には、日常が自分のことに忙しいことなのかもしれない。しかし、この災害 列島にいる限り、同じような災害に遭遇する機会は確実であり、いつ、いかなるものが発生 するのかは不明という中で生活しているという運命にある。災害は出会って、はじめてその 恐ろしさを知るのでは遅いわけで、対岸の火事から学習しておくべきことがある。しかし、 われわれには、慣れ、軽視、無関心、自信、おごり、近視眼、正常化への偏見などという性 を有している。これを打破するには、何といっても自然災害についての情報の伝達が必要で あり、回避できない災害への意識の向上を図る必要がある。時には、知りたくないものも知 り、理解し、伝えていかなければならないものもある。 そのためには、学校教育での防災につながる学習が必要で、教科書で学ぶことも重要であ るが、地域を題材にして、フィールドの見方、観察の仕方、応用力、関心を高めるように導 くことが必要である。防災教育という名を冠しなくても、防犯、防災に関係することはいく らでもあり、メインデイシュでなくてもよく、むしろ脇役で不可欠な調味料として役立たせ ることが必要である。理科教育支援でも感じることであるが、いわゆる学習強化については 関心が高い割に、地域のことや社会のことに関しては、与えられた情報が知識化しているだ けある。そこにどのような課題があって、それをどう解決するのか、調べるツールがあるの かというとこにまで昇華されていない印象を持つ。教育に携わる先生などが、防災は国民学 であるというくらいに考えて、プログラムを構想してほしい。このような学習経験は、国内 外へ出かけても応用が効くし、国民的災害文化となり、この列島での生き方にもつながるこ とではないかと思われる。 38. 自然の利用 我々は自然の一部を利活用しながら、生活の基盤を維持しているわけだが、その自然をど のように考えてきたのかについて平面的な静かなるマテリアルとしてしか見てこなかった のではないかという気がする。土地の改変についても、相手かまわず、都合のよい新たな場 の創生のみを考え、それによるリスクが発生していることなどには思い及ぶことなくきた。 その結果、土砂災害や地震による津波被害や地盤災害を蒙った例も少なくない。また、収奪 することにより、自然の循環のシステムを喪失し、回復不能にした結果、水理環境を失い土 砂の流出を招いて、環境を荒廃化した例もある。自然を活用する上での、大事なことは根を 絶やさないということであり、自然雄循環的な機能を上手に利用続けることで、復元力を残 すということが必要である。そうすれば、より効果的な再現可能なものを活用し続けること ができる。 そのためには、ことを起こすに当たっては、自然への影響について慎重に検討し、タイム ラグはあっても再生へのプロセスを維持にすることである。それによって、確かに十分な目 的を満たせないことがあって、最終的にはメリットがあるということを考えての計画が必 要であるし、理解しなければならない。一時の満足で、永久に失うということは、利口な活 用方法ではない。人間関係に例えれば、ある意味で相互信頼に基づくものでなければならな い。 1990 年代には、国連主導による国際防災の 10 年のプロジェクトが実施された。これは、 それまでの巨大災害が低所得あるいは中所得の下位における国で発生したものであったこ とから防災の技術移転によって災害を軽減しようという目的を持ったものであった。しか し、その後の巨大災害は、防災の科学技術だけではない、もっと社会的要因が大きく影響し ていることを示すものであった。我が国の阪神淡路大震災や 2011 年の東日本大震災はその 象徴でもあったような気がする。したがって、途上国には高度な防災技術の供与が機能する には人材教育も同時に必要であることから、経済向上が重要な条件になる。一方、先進国に おいては、災害時の緊急対策に力点をおくだけでなく、地域社会の災害脆弱性をしっかりと 把握して抜本的に低減させる修正できる長期的な取り組みがないと、巨大災害の可能性は 低下しないどころか、新たな災害を生むことになる。加えて、災害後の復興に関しても、二 次的被害を考えると社会経済的、政治的状況の安定化がベースになるのは当然で、特に我が 国では、科学技術だけに偏重せずに、少子高齢化、財政難、地方の空洞化などの未経験の社 会状況を見据えた上での、総合対策をしていく必要がある。そのような我が国の状況に国民 が共通の認識を持つこと、情報が得られるような仕組みが是非とも必要である。 39. これだけの社会なのに、なぜ安全と衣食住に不安を感じるのか? かつて、我々は中流階級を自認し、いかに人間らしい、自分らしい人生を歩むべきかに悩 んだ一時期があった。しかし、今はもっと現実的で生活自体について悩んでいることが多い と聞く。職場でも、人間関係が難しく、特に自己評価と会社評価のギャップに、士気が低下 しているということもあるようだ。自分や家庭のことでも衣食住をどうするのかでの悩み や不安は大きい。特に東日本大震災がきっかけになっての、様々な不安はますます増長して いるようである。これだけ情報も発達し、様々なものがあふれ、物流が回っているのに不安 を感じるのはなぜであろうか。残虐なテロや少年犯罪が増えているのはなぜだろうか。技術 が進歩した一方で心の方が退化したのだろうか。何か、一体感がなくなって、自己中心にな ってきているような気もする。ところで、日常的な衣食住の安全と、防災環境が健全に守ら れる安全とどこが違うのかを考えてみると、後者は安全・安心は当然のことで、何かが起き ることは想定されない当然のものであるということではないかと思われる。衣食住に関し ては、毎日のことであり、健康に影響するもので敏感になることが生活であると考えている からであり、安全よりも安心を強く意識するものである。一方、自然災害に対しては、どの ように位置づけしているかというと、まず、日常的に自分たちの地域がどのような自然災害 に対するリスクがあるのかなどを考えてはいない。何かがあれば、マスメデイアや行政が知 らせることになっているし、リスクを真剣に考えることは杞憂に近いと思っているし、知識 が増えることでの余計な心配はしたくないというところであろう。自然災害から、どうやっ て安全を確保するのかは、いってみれば他人事でもあり、なにかあれば行政が対応するのが 当然であり、彼らの義務であると考えているようだ。この辺は、衣食住の安全確保でも同様 であり、取り締まりや規制を望む声が多いが、本当に住民にとって良いことなのかを考えて おくべきことである。 東日本大震災でも経験したことだが、公助の必要性も、重要性も十分に理解しているが、 残念ながら即対応性はなく、機動力にも欠けることを知ったし当然のことである。災害時に は、共助が重要であり、それを支えているのは自助であるということである。助けられる人 だけではどうしようもないわけで、自分が助けられなければ、人を助けることができないと いう当たり前のことを確認できた。したがって、これからの防災は、科学技術の発展に期待 することは大きいが、問題は、それが使えるようになるベースを整備することが大事である。 その整備とは、防災教育ということで大きく括られるが、この中でも学校教育と地域での 防災への関心を高めていくこと、科学技術が広く、汎用できるようなものに開発を進めるこ と、情報伝達をきめ細かく双方向的に行われるような訓練が必要であると考える。自然災害 は、非日常的なことであるがゆえに、対応や関心の維持には難しいところもあるが、足元の 安全を確保し、犠牲者を出さないようにするには他人任せではいけない。 40. 情報について~収集と伝達の技術~ 自然災害に備えるには、IT の活用は重要であるが、活用するということには、発信側と 受信側に周到な備えをしておかないと一方的なものになり、逆に災害弱者に情報弱者を押 し付けることにもなりかねない。 情報は、使われないと意味がないわけで、そのために使いやすい、わかりやすい、効果が ある、高齢者や障害者にもきめ細かい配慮が必要であり、当然ながら納得できる効果が見え るものでなければならない。ここでは、周到な情報管理が実行されなければならない。その ためには、この情報には明確な方向性があり、誰からも支持される広報として理解される必 要がある。その中で、問題の解決策が探られるべきであり、その挑戦は縦割り行政を排して 行われるべきである。そして、この防災政策は、国民生活を考えた時には、最上位に位置づ けられるものでなければならない。大災害による、あらゆる分野への影響は図り知れないも のがあり、経年的にその量も質も単調的に巨大化する傾向にある。極端な言い方をすれば、 日本での巨大災害は、自国だけの限定的な被災に収まらず、あらゆる分野でのグローバルな 影響がでてくるという状況にあることを理解する必要がある。不幸中の幸い、今回の東日本 大震災で多くのことを経験し、未知だった多くのことを学んだ。これをベースにして、国が 一元的に、新たな対策に向けて構想すべきことがあるのではないかと思われる。情報が行動 に結びつくには、入手と伝達がユーザーの視点で行われる必要がある。まず情報はいまでは、 電子化された情報の量が飛躍的に高まっているということを認識しておく必要がある。電 子情報では、文字、音声、画像、映像など様々な形態の情報を統一して扱えるという利点が あるためである。 次に情報の内容であるが、大事なことは阪神淡路大震災や東日本大震災で経験したとこ ろの、いわば主観的で経験からくるものとか、言語化や形式化が難しい重要なことをいかに して客観的なものにして伝達、継承させていくかということがある。つまり、暗黙知をどの ようにして形式知化にするかということに挑戦しなければならない。 そのための方法として、IT を活用するのは有効ではないかと考えられ、そうすることで、 広く水平に展開できるし、継続しての意識化にも期待できそうである。大震災のような緊急 事態における情報は、状況報告、情報の内容、情報の収集などの点で、通常のこととは大き く異なるということで、当然のことではあるが、事前から意識していないとなかなかスムー ズに役に立つ情報にはなりにくい。緊急事態の状況は、自然災害の場合には、状況はリアル タイムで発現するということから、それ自体は報告可能ではあるが、次の段階でどのように 展開するのかというと、リスクを早期に読んで伝達することが重要になる。情報の内容の整 理では、事前に整理しておくことが肝心で、限られた条件で不確定な要素を含む情報を用い ての判断が求められるという状況になる。ここを間違うと分析や判断を混乱させることに なるので、具体的に必要となる情報の種類や内容について事前に検討しておくことが有効 となる。また、緊急時には、物的被害や機能被害が発生する可能性があるので、迅速な情報 をどのようにして収集するのかについても検討しておくことが必要である。
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