1957年 大陸間弾道ミサイル開発成功 人工衛星スプートニク打ち上げ

---------- 1957 年 海外 ----------8 月 ソ連は大陸間弾道ミサイル(=ICBM)の開発に成功
離れた国から離れた国へ、直接攻撃することが可能になった。敵に邪魔されずに
大打撃を与える兵器を「戦略兵器」という。昔は騎兵部隊や長距離の大砲、次に
戦車集団、長距離を飛べて高高度から大量に爆弾を落とせる飛行機つまり戦争中
の B29 などのことだ。ほぼ同時にアメリカも作成に成功する。欲にきりがない人
類はついに宇宙を戦争の舞台にするようになってきた。
8月
マラヤ連邦がマレー半島にできる。後のマレーシア。
10 月 ソ連は人類初の人工衛星スプートニク 1 号の打ち上げに成功。
共産主義は「自分は科学的だ」と信じている
ため、機械の性能は向上する傾向がある。だ
だし経済的に行き詰るので、結局は衰退する。
この時点でアメリカは、この出来事を「スプ
ートニク・ショック」と呼び、あわてて宇宙
開発に乗り出し、翌 1958 年 7 月に航空宇宙
局 NASA を設立する。
11 月 ソ連はライカ犬「クドリャフカ号」を乗せた人工衛星の打ち上げに成功。
歴史上初の宇宙飛行士は犬だった。宇宙を生き物が飛
行したのも快挙だが、残念ながら、打ち上げ後、数時
間で死亡していたことが最近わかった。約 120 日目
には大気圏に突入、燃えつきてしまい遺体の回収もで
きなかった。現代なら「動物虐待!」と言われるかも
しれない。そして 1960 年 8 月のスプートニク 5 号で
は生物はすべて生還できるぐらいに技術は上がった。
いよいよ次は…。
1
中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1957 年 日本 ----------2 月 岸信介が内閣総理大臣になる(1960 年 7 月まで)。7 月に「砂川事件」が起きる。
1896 年に岸信介は山口県の佐藤家の二男に生まれ、父方で元長州藩士の岸家を継いだ。
彼の弟は、やはり後に総理になる佐藤栄作だ。東京帝国大学をきわめて優秀な成績で卒
業して、農商務省(現在の農林水産省)からキャリアを始めた。後にこの省が農林水産省と商
工省に分かれた時に、商工省(現在の経済産業省)に入り、経済関連の政策を立案して頭角を
現す。1936 年の 2.26 事件の後、満州帝國に派遣され「国作り」をする。当時の満州帝
國は、陸軍 関東軍部隊と南満州鉄道という、「ビッグ 2」が支配する国で、自由な経済
活動はできなかったので、財閥も進出していなかった。岸は満州帝國に渡る前
から、周到に陸軍上層部とつながり、そのルートと元々持っていた産業界との
ルートを利用して、大きな企業を誘致する計画を立てた、かなりの「やり手」
ひでき
官僚だった。この時「満州国を動かす 2 キ 3 スケ」と言われた東条英機と知り
ようすけ
合う。「3 スケ」のうちの 2 人が松岡洋右と岸信介だが、この 2 人は親戚だ。
松岡は「国際連盟脱退」をした時の日本代表だった。岸は満州で成果を上げ、3
年ほど過ごし、帰国した後、民間人だが経済通を見込まれて 1941 年から東条英機
内閣の商工大臣を務め、日米開戦の内閣決定にかかわり、1942 年に衆議院議員に
当選する。しかしサイパン陥落後に東条首相と衝突、内閣は総辞職する。
大戦終結後、戦争を指導した A 級戦犯容疑で逮捕・拘留された。しかし彼
の行政手腕と冷戦の激化もあり、
「日本の中で使える奴」と、アメリカに思
われたのか、彼は東條らが処刑された翌日 1948 年 12 月 24 日に釈放され
た。彼自身も拘留されている間に、ソ連やアメリカの新聞を色々なルート
から取り寄せて情報を分析しており、
「このままアメリカとソ連の仲が悪く
なれば、(利用価値のある自分などは)殺されずに済むだろう」と、予想していたエピソー
ドは有名だ。また「戦争に負けたことに対して、日本国民と天皇陛下に責任はあっ
ても、アメリカに対しては責任はない」「こんな裁判は茶番劇だ」「生きて出たら、
今度こそお国のために役に立ちたい」と述べている。どこまで腹の座った人物なの
か、底が知れない。後に「昭和の妖怪」と呼ばれたのも当然か。しかし、彼と知り
合った人は例外なく「弟の栄作は無口で怖かったが、岸さんはいつもニコニコして、
笑いがたえなかった」と言うから、不思議な人でもある。
釈放されて、公職追放解除後、いったん吉田茂の自由党に入党したが、1954 年
に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため、除名された。逆に「個人
的には吉田先生は好きだが、やはり自主憲法、自主防衛を目指すべきだ」と見
切りを付け、鳩山一郎をリーダーに新党を立ち上げ、さらに 1955 年に他の保守
的な政党をまとめた「保守合同」で自由民主党を結成、幹事長として「55 年体
制」を作り上げた。政府の重要メンバーとしてアメリカにも行き、日米の安全保
障体制が、相互的でないことや、ソ連の発展などを見て、日本も積極的な防衛策
を考える時に来たことを感じ、1956 年 2 月に石橋首相が病気退陣した後、総理に
就任する。「日米新時代」をかかげ、
「双務的な日米安保条約」を締結するために
6 月に渡米、アメリカにも歓迎され、当時の大統領アイゼンハワーは、岸とゴル
フをして「友好・親密」さを演出した。
2
中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1957 年 日本 ----------以後、歴代総理の「友好パーフォーマンス」の先駆けでもある。厳しいので有名な国
務長官 ダレスも改定の方向に動いた。ここまでは良いのだが、彼には確かに、アメ
リカからの資金提供がある。それで「自主憲法制定」
「自主外交」を、本気で目指し
ていたのだろうか。彼が総理を務めていた期間中に、
「砂川事件」と最高裁の「砂川
判決」と言う面白い出来事がある。
1957 年 7 月に、東京 現 立川市のアメリカ軍基地拡張に反対する人たちが、
基地内に無断で立ち入る「砂川事件」が起きた。裁判の争点は、アメリカ軍駐
留は合憲か違憲か、だった。59 年 3 月に違憲と判断し、7 人を無罪とした東京
地裁の判決が出たが、慌てたアメリカ政府は、1960 年に安保改定の時期がせ
まっていたから、日本に圧力をかけ、高等裁判所を飛び越えて、最高裁で争う
ようにした。これは最近の公文書公開などで明らかになっている。アメリカ
の「期待通り」に最高裁は地裁判決を破棄し、差し戻して、地裁で改めて 7
人全員の有罪が確定した。これを通称「砂川判決」という。砂川判決では「自
衛のための武力の行使が憲法に違反しない=自衛権の承認」、「外国の軍隊は
憲法第 9 条にいう『戦力』にあたらないから、米軍の駐留は憲法に違反しな
い」さらに「米軍駐留の根拠である日米安保条約は『高度の政治性を有する』
ので、司法の判断にはなじまない(から違憲がどうかは判断しない)」という判断を示した。その結
果、憲法 9 条の戦争放棄と、戦力不保持によって生じた防衛力の不足を補うために、駐留
米軍の存在を容認したことになる。プレッシャーは、政府だけでなく、裁判所にもあった。
信じられないだろうが、当時の最高裁長官は、何度も米国大使館に行き、駐日米大使に対
して、いちいち報告していた。この事実は、大使館からアメリカ本国への電文などが、米
国側ですでに開示されていて、裏付けがある。
判決前に裁判長が判決内容を外部にもらすなど、通常では考えられない。日本
の主権や司法の独立が侵されたから、「砂川判決」は、戦後の司法の歴史の中
で、最大の汚点だ、と言う人もいる。だが、判決に付いていた「意見」には「安
全保障にかかわる司法判断が難しい問題も、主権を有する国民の判断に委ねる
べきだ」だとあるので、当時の状況では、これで精いっぱいの抵抗だろう。こ
の判決について、岸が関係しているのかどうかは不明だ。
好意的に見れば、被占領国の立場から抜け出そうと、努力していたのだろうが、
アメリカ政府に抗議をした事実はないので、少なくとも、圧力を見て見ぬふりを
していたのは確実だ。「日本がアメリカの属国化している段階では、多少の内政
干渉があるのは仕方がない」と考えていたのなら一国の総理とし、自覚が欠けて
いる。それとも満州帝國という「きれいごとや建前が通用しない混沌とした新国
家」で磨いた感覚であろうか。他にも色々問題点があるが、それは各自で考えて
みよう。
8月
茨城県 東海村に原子力の研究炉ができて初の原子の火が灯る。
10 月 日本は国連の安全保障理事会非常任理事国になる
3
中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない