狩野選手インタビュー(846KB)

INTERVIEW
狩野 亮 選手
当社所属のチェアスキー選手として競技を通じて、
障がい
者スポーツの魅力や障がい者への理解の拡大にチャレ
ン ジしている狩 野亮選手。昨シーズンの振 返りと世界
を転戦し各国の障がい者への配慮に数多く触れてい
る経験から、障がいを持った方との関わりについてインタ
ビューしました。
昨シーズンはどんなシーズンでしたか?
一言で言うと「うれしさ」
「 悔しさ」
どちらもあったシーズン
でした。
まず「うれしかったこと」としては、目標であったワールド
いうことなどがストレスになり、親にあたってしまった時期も
ありました。
スキーとの出会いは?
カップの高速系種目において種目別優勝を果たせたこと
小さい時から父とスキーはやっていました。チェアスキーと
です。高速系種目の種目別優勝は、ワールドカップで行わ
出会ったきっかけは、退院後アーチェリーをやっていて、
れる滑降とスーパー大回転の成績によって決まります。
そのアーチェリーの先生がチェアスキーの存在を教えて
滑降とスーパー大回転は私の得意な種目でソチパラリン
くれたことでした。チェアスキーを始めてから、
それまで以上
ピックでも両種目で金メダルを獲得できましたが、
これまで
に障がいを持った多くの方々と知り合う機会が増えました。
ワールドカップで種目別優勝を獲得する事はできていませ
その方々は同じように事故やけがで障がいを持っていても
んでしたのでとてもうれしかったです。
次に「悔しかったこと」
としては、世界選手権・高速系での
メダル獲得を逃したこと、そしてワールドカップ・技術系で
のメダル獲得ができなかった事です。技術系種目である大
回転や回転は、素早い動きと細かいターンが要求される、
とてもテクニカルな種目なのですが、まだまだ自分自身の
技術を磨く必要があると感じました。
ソチパラリンピック後の 1 年目でしたが?
帰国してから忙しく、多くの方が注目して下さるのはとても
うれしいことではありましたが気持ちが切れてしまわない
か心配でした。しかし、
ソチパラリンピックのスーパーコンビ
で失敗してしまい喜びよりも悔しさが勝って、絶対にリベン
ジしてやるという気持ちが強く、その気持ちを維持するこ
とができました。そして、次の平昌(ピョンチャン)パラリン
ピックにむけての課題が見つかった年でもありました。
車いす生活となった経緯は?
小学校 3 年生(8 歳)の時に横断歩道を飛び出してしまい、
制限速度を大きく超えた車にはねられ下半身不随になってし
まいました。当時は幼なく事の重大さを理解できず治ると
思っていたので、自分よりも両親や周りの方が衝撃は大き
かったと思います。治らないと分かった時はクラスメイト
15
と遊べないことがあったり、行きたい所に自由にいけないと
MARUHAN CSR REPORT 2015
楽しそうにチェアスキーを滑っていて、私もくよくよしてい
てもはじまらない、自分にもまだまだできることがあると教
えられました。それから障がいというものを乗り切れるよう
になったと感じています。
マルハンとの出会いは?
大学卒業後もチェアスキーを続けていきたいと考えていま
したがどのようにしたらいいかわからず、
まずは自分を知っ
てもらう為に100 社くらいにプロフィールを送りました。
27 位という結果に終わったトリノパラリンピックの 2 年後
のことです。興味を持って会って下さった企業は 5 社くら
いだったと思います。その中でも何度も岩手まで来て熱心
に話を聞いてくれるマルハンの人事の方々や韓裕社長の
人柄に触れマルハンに興味を持ちました。そしてここでや
りたいと思いました。
AKIRA KANO
店舗勤務時代の仕事内容、店舗の印象は?
当初は川中島店のクラークとして、2 年ほど競技をしなが
ら書類作成や勤怠管理など店舗の事務の仕事をしていま
した。それまで、パチンコをしたことがなく、全く知らない
世界なのでどんな仕事をするのだろうとドキドキして出勤
したことを覚えています。店舗ではスタッフ間のコミュニ
ケーションがとても良く和気あいあいとした空気感があ
り、すごく楽しく働けました。
現在は人事部障がい者スポーツ推進担当として競技や講
演などを通じて障がい者スポーツの素晴らしさや自身の
体験を伝えてくれています。
昨年はオフシーズンに学校や各種イベントで15件くらい講
演をさせて頂きました。
イベントによって対象者が子ども、大人と様々ですが、自分
の体験を通じて聴いて下さる方の心を動かせたらいいな
と思い取り組んでいます。中でも、子どもたちは僕らの滑り
を見て障がい者スポーツってカッコいいなと印象を持って
くれたり、
メダルを見せるとキラキラの笑顔がかえってく
るので逆に元気をくれます。それに、子どもたちの質問や
アンケートは「ここで立ち止まってはいけない」
と奮い立た
せてくれます。4年後、8 年後も成績を残して、もっと大きく
なったこの子どもたちにまた話ができたらいいなとも思った
りします。
ソチオリンピックの壮行会に母校の中学校からビデオレター
をもらった の で、金メダ ルを持って報 告に行きました。
「僕らが横 断 幕 書いたんだよ」などと話ができたことは
とても印象に残っています。この様な経験が何か頑張る
きっかけになればと思っています。
れていました。バスもボタン一つでみんなが乗るところ
にスロープが降りてきます。とてもストレスフリーなバリ
アフリーだと感じました。しかも、街だけでなく飲食店な
ど全てがバリアフリーでした。たとえバリアにぶつかっ
た場合でも必ず解決策が示されていました。
恐らく今はパチンコ店へ遊びに行けば椅子を外してくれて
遊ぶことができるお店が多いと思いますが、誰も呼ぶこと
なく遊べるようになれば理想的だと思います。
最後に、皆さんからよく
「声をかけた方がいいのか迷う時が
ある」
と聞かれます。障がいの程度にもよると思いますが、
私は何かあったら声をかけるので、後は普通に接して頂ける
環境があることの方がうれしく思います。それには声をか
けやすい雰囲気を障がい者とそうでない人の双方で作って
いく必要があるのではないかと考えています。その為には
障がいのある人ももっと社会に出て、多くの人たちと触れ
合うことが必要だと思います。海外を転戦して感じることは
障がいのある方も当たり前に街にいるということです。
これからも、ただ結 果を出すだけではなく、そ の 結 果や
日本でも障がいを持った人とそうでない人とが触れ合う
経験を多くの人に伝えることでその話を聴いた方が元気に
ことで理解が深まるのではないかと思います。
なるように活動していきます。
障がいを持つ側から見て店舗づくりに思う事はありますか?
車いすでパチンコ店に遊びに行きたいと思っても備え付け
の椅子や通路、その他スペースなどを考えると気を遣って
しまいなかなか遊びに行けないのではないかと思います。
私はバリアフリーとは全て自分でできる環境が理想だと考え
ています。例えば電車に乗る時に駅員の方がスロープを用意
して対応して下さるのもバリアフリーと言えると思います。
とてもありがたいです。しかし、一番ありがたいのは誰にも
お願いせずに動ける環境があることなのです。
カナダにウィスラーという街があるのですが、そこでは全て
プロフィール
狩野 亮
かのう あきら
1986 年 3 月 14 日生まれ、北海道網
走市出身。小学校 3 年生の時に事故
により脊髄損傷。中学 1 年より本格
的にチェアスキーに取り組み、2006
年トリノ大 会からパラリンピック
に3 大会連続で出場。2010 年バン
クーバー大会ではスーパー大回転で
金メダル、滑降で銅メダルを獲得。
2014 年ソチ大会ではスーパー大回
転、滑降の2種目で金メダルを獲得。
の段差に「車いすの方はこちら」
とスロープの方向が示さ
MARUHAN CSR REPORT 2015
16