前田利幸公と宝暦事件

と し ゆ き
5代
前田利幸公
藩主
と宝暦事件
う も ん
幕府との関係悪化を恐れた朝廷内
に思想的影響を与えた竹内式部が、
卿ら(朝廷内の革新派)と、彼ら
図 る。 事 あ ら わ れ、 こ の 日 右 門、
右門等、公卿志士と通じて勤王を
位をうばわれる〟。
の現状維持派(関白一派)により
なお、前田利寛は、利幸公の叔
父(2代藩主・正甫公の8男)で、 処罰された事件として扱われてい
ていたことから、利幸公が頼りに
道に励み、幅広く社会情勢を捉え
揆や打ち壊し騒動が頻発してお
万、何十万という大規模な農民一
年 貢 の 増 徴 が 原 因 で、 各 地 で 何
し か し、 当 時、 幕 府 の 制 度 や
手伝い普請の強要が引き起こした
るという。
し、指導を仰いでいた人物。藤井
り、 諸 藩 は 幕 府 に 対 し て 少 な か
(利幸公が 歳で藩主になった時、
月号で、富山売薬を産業とし
て育てた5代藩主・前田利幸公を
右門は、越中加賀領小杉村(現在
らず不満を持っていて反幕蜂起の
としひろ
ご 紹 介 し た。 利 幸 公 は、『 富 山 の
の射水市)出身で、向学心に燃え
可能性は十分にあったという。ま
事件に関わった叔父・利寛
セールスマンシップ 薬売り成功
の知恵』の中で、著者の遠藤和子
若くして京都へ出て、そこで神学
た、
「宝暦一記事」という記録に
歳 )、 京 都 に 出 て 学 問 の
氏が「藩政230年間の中で最も
は、
〝 桃 園 天 皇 の 内 勅 で、 幕 府 に
利寛は
善政をしいた名君」と称える人物。 研究をしていた利寛に出会い、養
子となり、その後、利寛の世話で、
ももぞの
正親町三条大納言公積(宝暦事件
きむつね
しかし、その利幸公の資料が、神
将軍職を奉還させ、9代将軍家重
お お ぎ ま ち
通川原で焼き払われたという。な
の中心人物)の臣、藤井忠義の養
ただよし
ぜか?
遠藤氏は、資料抹消のなぞを探
嗣子となり、皇学所教授を務めた、 を日光に退かせる…万一皇居が炎
り、その糸口として見つけたのが、 という人物だ。
上した場合は叡山にご臨幸される
居し、京都との交わりを断つこと
画に関与した諸藩の有力藩士は幽
権回復を志した尊王論者の少壮公
前 述 の 事 件 は、「 宝 暦 事 件 」 と
呼ばれているもので、一般には皇
らしぶりを目にし、利幸公の善政
気溢れる様子や、農村の静穏な暮
らの兵を率い、信濃よりやってく
大将となって前田利寛や金森能蔵
用意の事。…中院や西洞院などが
る岩倉父子の兵と合体して彦根城
も 耳 に し た。
「平和で豊かな藩」
『越中史料』 の 一 文 。
に入城する。一手の烏丸や坊城ら
を命じられた。
の普請負担につながったとも考え
としひろ
は、九州の柳川や鍋島、大洲など
られる。しかし、富山藩では宝暦
〝 宝 暦 8 年( 1 7 5 8 年 ) 7 月
日、富山藩士前田利寛及び藤井
の兵の到着を待って大坂にて挙兵
「式部たちの世直し運動は挫折
したが、彼らの尊王論は、以後社
事件のしっぺ返しと受け取ったの
と高く評価したことが、 万両も
のこと…もし、諸侯の兵が上京す
て火を噴き、明治の大変革を生ん
るまでに幕府と兵端を開くときは、 会の底流で生き続け、幕末に至っ
師は、常に皇居に参内しているこ
主膳や竹内式部、藤井右門らの軍
諸所を焼き払う事…また、龍造寺
なったのである」と遠藤氏は述べ
だ。宝暦事件は明治維新の起点と
して、あわてて利幸公に関する資
ではないか、と遠藤氏は言う。そ
と。
料 一 切 を 抹 消 し た の で は な い か、
ている。
さて、宝暦 年(1762年)
、
利幸公の死去により、弟、利與公
屋)の売薬商人の姿で諸国を巡っ
姿を現わし、
「松井孔明堂」
(松井
焼き払われた利幸公の資料
が6代藩主となった。その3カ月
ていたが、最後は江戸の山県大弐
なお、右門はその後、お尋ねの
身となったが、富山町にも何度も
後、突然、幕府から「日光霊屋と
反幕尊王派とが、桃園天皇を擁し
て起こそうとした反幕運動」と位
奥院の修覆手伝い」が命ぜられた。 の許に身を寄せ、この塾で甲府城
や江戸城攻略法など過激な意見を
は動転した。 万石の藩としては
としとも
置づけてい る 。
負担金は 万両に上った。富山藩
やまがた だ い に
こ の 挙 兵 計 画 は、「 玉 座 に あ っ
た 連 盟 書 が 紛 失 し て 関 白、 近 衛
あまりにも大きな負担額であった。 叛の陰謀あり」と訴えられて大弐
された(明和事件)という。
とともに幕府に捕らえられ、処刑
述べ、
明和4年(1767年)、「謀
公卿らは永蟄居や勤めの遠慮を命
位を剥奪された。また、利寛ら計
じられ、事件の首謀者・竹内式部
うちさき
内 前 の 手 に 渡 り、 事 前 に 発 覚 」、
ていた少壮公卿派と、前田利寛ら
こ の 事 件 を、「 竹 内 式 部 に 師 事 し
と…〟とあることから、遠藤氏は
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その前年、巡見使がやってきて
いた。巡見使は、富山城下町の活
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は京都から追放され、藤井右門は
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2013.2
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とやまの話
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