ライト兄弟から零戦まで 朝日新聞社 世界の翼・別冊 空 70 年 史 -1 ライト兄弟から零戦まで 1 9 0 0 1 9 4 0 THE 7 0 YEARS OF AVIATION Vol.l -From t h e WrightFlyer t ot h e Zero Fighter,An e x t rα number 。 f と Wings of The World" 〆 抑 制α l 目次 九六式陸上攻撃機・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・表紙 くカ ラ ー 〉 切 手 で み る 航 空70年史・・・・・・・・・・・・・・・ く記 事〉 航 空 界 70年 の あ ゆ み - 1 小森郁雄・・・・・…・・・・・ 201ペ ー ジ 4ペ ー ジ む力、し σ 〉 章 命i 主 主 杉 隆 くグラビア〉 飛行機時代の開幕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 木 村 秀 政 … ・ … … … 217 9 実用の時代はじまる・・・・・・・・・・・・・・ . . . . . 4 8 記録への挑戦........................... 96 戦 う 翼 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 174 航空日本,世界の桧舞台へ 斎藤寅郎・・一 . . . . . . . . 2 1 9 航 空 史 年 表 一 1_ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2 0 9 装本・原 弘 (N D C ) 目 次 , カ ,卜, 装 画 ・吉 沢 家 久 園 園 田 園 ・ 圃 ・ 圃 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 世 界 の 翼 ・ 別 冊 「 航 空 70年史」に使われている写真の大多数は , 「大日本航空史刊行会 J の収集にかかるものである。 同刊行会は, 1 9 4 3年 ( 昭 和 1 8年) r 大 日 本 航 杢 史 J の編集刊行を 目的として,朝日新聞社内に組織され,斎藤寅郎氏が主務を担当 , 戦時下困難な事情のもとで 7万円(当時)の金を費して ,写真を はじめ各種の歴史資料を,日本全国から収集した。同書は全 5巻 で, 第 l巻 は 翌 1 9 4 4年秋に刊行の予定だった。しかし,用紙事情をはじ めとする出版条件が悪化,ついに刊行の運びに至らず,終戦ととも に解散した。 このため,これらの資料は, しばらく東京都下奥多摩の疎開先か ら,斎藤寅郎氏の自宅を経て,日本航杢協会に預けられていたが, 今固め企画を契機として,再び朝日新聞社内に保管の部署もきまっ た。こうして,これらの資料のなかの代表的な写真が, このたびま とめられて,多数読者の目にふれることができるようになったこと は,うれしい限りである。 なお,写真その他について,以下の諸氏にご協力をいただいた。 ( 順不同 ) 扇藤寅郎,小森郁雄,野沢正,片桐敏夫、斎藤直康,柄沢英一郎.篠原 宏,森松秀雄,菅野喜勝,真島五一,大沢寛三.大川定夫,飯島宗次郎, 碇 義! ! I i . fJ~~尺保穂. :.-f.;:英ー . 坂井 J~lí . 大庭 崇秀,稲野菊一,文林堂 , フ ラ ン ス 航 全 会 札 オ ラ ン ダ 航 ' く そ 会 社。 また,本書に掲載しきれなかった写真もかなりあり,読者のお手 もとにも,すぐれた資料が残きれていることと思いますが,これら については,読者のご支援のもとに,いずれ機会をみて生かしてゆ きたい考えでおります。 朝 日 新 聞 社 世 界 の 翼 語集 部 本語薄寄載の写真 ・記事の無断転載はお乙とわりしま す 軍用機 ①ドイソ ユンカ ース J u-87急 降下爆撃機札 943 年 ) シン 1 1 - 4 型爆撃機 同 8 - 24爆撃機⑦同 年記念 ④ ニカラ グ ア AT - 6 練習機 ベト ナム 8 - 52爆撃機と F - 1 04戦闘機 ③台湾 ( 1 960年 ) 独立記念円ミラ ージ ュ rn 戦闘 機 ⑬ アメ リ カ ②ソ連 空軍記念日 ( 1 954 年 ) F - 86F 戦闘機とステアマン 73練習機 ⑪イスラ エ ル 年) (1 945年 ) ( 1967年 ) ( 1 954 年 ) ヤコブレフ YaK - 9戦闘機 F - 86F戦闘機 ( 1954年 ) 空軍記念日 ⑪台湾 F- 86 F 戦闘機 空軍記念日 ⑫同ミス テ ール N ⑬ キ ューパ (1 抑制 ⑤同 ③ ソ連 ( 1954年 ) ⑨ フ ィリピン F - 86F のアク ロ パ ッ ト ・ チ ー ム (1 96 7 年 ) 間際切手展記念 ⑬同 イリュー A - 20攻撃機 ( 1954年 ) (1 954年 ) オ ー スタ 一連 絡機 TF - 102練習機 ⑤ 空軍 25 ( 1955年 ) ( 1967 ⑬北 米軍 F-105 爆撃用戦闘機を撃墜 5 民間機 ①エストニア ( 印O年 ) ランダ領イン ド 卜機 ト ( 1969年 } ( 1925 年 ) ( 1946 年 ) 社 25 周年記念 6 ②アメリカ 1 933 年 j ( [õJ オースター軽飛行機 ⑨ フランス ⑪アメリカ 問3年 12 月 7 H ライト兄弟初飛行の 46 周年記念 ③ フォークランド諸白 名ノ、イロット 反発輸送機 コンドル輸送機 ( 1 969 年 ジャン ( 1941 年 ) ( 1943 年 ) ライト式複葉機(1抑年 ) 航空事業 21周年記念ビーバー水上機 ・ ⑦オランダ ノマイロ ッ ト メルモーズ の 記念 ⑫モーリタニア ⑪ ニ ューカレドニア ( 1 944 年 ) ( 1937 年 ) 双発機 ( 1 969 年 t 1940 年 ) i てをを飛ぶ 4 発機 アメリカ ⑤同 ③オーストリア パイロ ッ ダグラス DC-4 輸送機 ⑬デン マ ーク ( 1 959年 ) ③ ノース 7 ン水 ⑬チリ デン マ ーク航空会 双発機(1 950年 ) E 隈ヲ雪1 開酋翻 ⑬ 一 ⑬イギリス 日記念 ( 1 965年 ) 超音速旅客機コンコルド飛行記念 着陸する郵便機 ( 1 959 年@イス ラエ ル @ヵ・ ポンカラベ ル輸送機 ( 1 962年 ) イング 707輸送機とグレアム ・ ホワイト ( 1961 年 ) コスロパキア ( 1 969年 ) ~クウェート @西ドイツ モス クワープラハーパリ空路 Tu-104輸送機 104 ( 1958-59年@同 ⑬フ ラ ンス Tu- 1l 4 ( 1958-59年 同 コ ン コ ルド飛行記念 ボーイング 707輸送機 ( 1 962年 ) @同 @イ ラク ボーイング 707輸送機 ( 1 969 年 ) ベル リ ン封鎖 10 周年記念 ( 1957年 ) @ソ連 ( 1 969年@ フランス 切手 の イラク航空のボーイング 727 輸送機 @インド 航空便 50周年記念、 C-54 および C-47 型輸送機 ( 1 9 5 9年 ) ボー @チェ 民間航杢記念 11 -18輸送機 ( 1 958 - 59年@同 Tu Tu - 1l 0 (1958-59年 ) 7 話題 の 飛行機 モナコ の モンテカルロで聞かれた航杢ラリー明年 の記 念切手 ( 1 964 年 ) ン ・ ソルニエ水 1 -一機 (fム ) ③ ニ ューポール水 1--機 ( 仏 ) ⑤初の世界 l 周をしたダグラス ・ リパティ機 ( 米 ) に成功 し たピ ソ カ ー ス ⑪ 1926 年 「 ピミ ー」 機 ( 英 ) ⑨ 1 925年 8 ⑫ 1930年 @ 1956年 長距離飛行 ⑪ 1 927 年 ニューヨークー パリ聞の 大丙洋横断に成功したプレゲー 19機 ( 仏) メルモーズ が南 大丙洋横断に成功 し たラテコエール 28 ff,'~水け幾 ( 仏 ) (独 ③ 1 9 1 9年 円本までの ア ジ ア 訪問に成功した サボイア S 16飛行艇 (例 北極飛行に成功したノぐード少将 の フォ ッ カ -F 7 旅客機 ( 米 ) し たドルニ エ ー DOX 飛行艇 ②モラ ⑤アルパト ロス水上機 ( * ⑦ドベルデュ ッ サン水上機 ( 仏 ) 単独横断に成功したリンドパーグのライアン NYP 機 ( 米 ) ⑬ 193 0年 ①フアル ?ン慢葉機 ( 仏 ) ④プレゲー水 1-:機 ( 仏 ) ⑪ 1930年 大丙洋横断記録を作ったコンベア 8 - 58爆撃機 大西洋横断飛行を (米) 〈 捜供 笹原宏 〉 飛行機時代の開幕 ラ イ ト 兄弟 の 滑空 機 に よ る 飛 行 実 験 ラ イト兄弟は, ドイ ツ の リリ エ ン タ ー ル 兄 弟 や ア メ リ カ の シ ャ ニ ュ ー ト ら の 貴 重 な 滑 空 実 験 に よ っ て 残 し た 著 書 を 参 考 と し て, 1900 年 か ら 滑 空 機 を 作 っ て 実 験 し は じめ . 1901年 夏 に キ テ ィ ホ ー ク の 砂 The Wr . 伊,It Br .o the r . s'Success W / thout Powe r . 丘 で 19 秒 100m余 の 滑 空 に 成 功 し た 。 ラ イ ト 兄 弟 が 発 明 し た 異 端 を た わ め て 左 右 の 安 定 を と る 方 式 も , 1902 年に至る数多くの滑空実 験 の 聞 に 考 え 出 さ れ て , 1903 年 の 飛 行 機 の 成 功 の も と と な っ た。 9 勾 J・ 2 19 0 3 年 ライト兄弟の 初飛 行成功 The Wンタ,;" Bro th ers ・ Success Powered F,んタ,ht i nMon 通 月付 f ( 明治 36年 ) 12 月 14 日 12 bp のガソリン・エンジンを付けたライト式第 1 号飛 行機は,兄ウィ ノ レバーの操縦で キテ ィホークの砂丘の斜面上に敷かれた木製レールの上を すべってみごとに 離 陸し , 3 秒半に約 32m を飛んだ。ついで 12 月 17 日 , 弟オービルが乗っ て 12秒間に約 36m 飛び ,それか ら兄弟相互に乗って 4 回目にウィルパーが 59秒間に約 260 10 m 飛び , 人類最初の エ ンジン付きの飛行機による飛行に成功した。 3 ライト兄弟の初飛行記念碑 ア"he Memor/ o /t ot h e Wrタht Brot hersatK/tヶ Hawk. N C . アメ リ カ ヰヒカ ロラ イナチト| キテ ィホークの相P 丘上に建ってい る , ラ イト兄弟の世界最初の 飛行の地の記念碑 。 こ の 碑は 195 3 年に , 50周 年 を 記念して建立された。 F~.. . . , 4 ~.-ご士ア→l ツェッペリンし z- I 型飛行船 バ'n earlyZeppe 向 硬式飛行船の開拓者 . ナント 治 33 年 ) σ/rsh / p LZ- I ドイツの フェ ル デ イ ・フ ォン ・ ツ エ ツ ペ リ ンは, 1900 年 ( 明 7 月 2 臼 に,ポ ーデ ン湖上て\最初 の LZ-1 型の初飛行に成功した。これから, 硬式 ( 気のう内に骨格 を もっ槽造 ) は. 飛行 船の主流となった。長さ 128m , 幅 12m. 発動 機 16h pX 4 。 II 5 ラ イ ト 式 の 改 良 機 。 第 1号 機 で は 操 縦 者 は 下 翼 の 上 に 腹 ぱ い に 乗 っ て い た が , こ の 改 良 型 で は , 撰 改 良 型 ラ イ ト 複 葉機 t “バ The Wン伊? 者 は 下翼 の 前 縁 に 腰 か け 式 に す わ り , 左 右 2本 の 操 縦 梓 で 操 縦 し た 。 エ ン ジ ン も 25hpと な り , 左 oタ/ ane 右 2個 の プ ロ ペ ラ は 直 径 2.60m に 大 型 化 さ れ た 。 主 翼 は 上 下 翼 と も 全 幅 12.5m. 翼 弦 2 m , 機体 全 長 ∞kg 9m。 降 着 装 置 が ま だ ソ リ で あ っ た の で , 木 製 レ ー ル を 敷 き , ヤ グ ラ を 組 ん で そ の 上 か ら 重 さ8 の お も り を 落 下 さ せ , こ れ に 結 ん だ ロ ー プ の 弓 I< 力 を 利 用 す る カ タ パ ル ト式 で 久 タ ー ト し た 。 WR10Hf.ZWE l D ECKE R S t ab ilU国首・P I I 革命. b 8岨 z i . .beI泊晶町 11.12 '!'官官喝凶同 Tr q f 1 I d o ・ 1 11 .Q:? ~ /.~2 ~ j H ut 劇暗, “ 国 dι;2 K叫匝・,i l b 首 相u ・・z K晶w.r " . M叫 or j 11.12 S t. . 町 . . e b e I 、 r E HENRV. FARMAN• Z lDEC 陸R a A a f主謹=...... ρ f f訟g.-・同園歯周圃 ー ー 晶 揃. . . . . . . . . . 1 1st剖陣市.... 圃Mot o r 1 1 F l 副官同包 • s c t 町 制h I / . " S剖 U 3 A u 曲... ' f . " . , 叫 . r . . .S e i t e . 馳 圃 , 掛 ⋮ ⋮ ⋮ ~_J__ ' 1 ( ・1 1 " @ 8 初 期時代の飛行機の図 Pop u/ ar ear 乙 y oグo告 12 ① ラ イ ト 式 の さ ら に 改 良 さ れ た 新 型 。 降 着装 置 に 車 輪 を 使 用 。 1908- 09 年 に ウ ィ ル パ ー ・ラ イ ト が こ れ を 持 っ て , ヨ ー ロ ッ パ へ 行 き , 各 国 で 飛 行 し て 見 せ た 。 1911年 が ド イ ツ 製 の ラ イ ト 複 葉機 を 買 入 れ た の も , こ の 型 で あ っ た 。 ② (明 治 44年 ) わ が 陸 軍 気 球 研 究 会 徳 川 大尉 が フ ラ ン ス で 買 っ て き て , 東 京 代 々 木 練 兵 場 で B 本 最 初 の 飛 行 に 成 功 し た ア ン リ ー ・フ ア ル マ ン 複 葉 機 。 6 フ ラ ン ス で初 飛 行の サ ン ト ・ ジ ュ モ ン Du mont 14 h i s The Santos- 1906年 ( 明 治 39 年 ) 11月 13日 , 距 離 38mを 飛 ん で ヨ ー ロ ッ パ最 初 の 飛 行 に 成 功 し た , サ ン ト ・ ジ ュ モ ン の 14bis号 。 箱 型 タ コ 型 式 の 複 葉 機 で , 写 真 で は 右が前である。ブラジルの大金持ちの息子のサゾト . ク ュ モ ン は , 早 く か ら パ リ に 遊 学 し て 1898 年から 1901年 ご ろ ま で に 少 な く と も 10隻 以ー 上の大小の飛行 船を作ったが,ライトの成功を聞いて飛行機に転向 し た も の で . 14 号とは彼の飛行船以来の型式番号で あ ろ う か 。 ア ン トア ネ ッ ト 式 80h p発 動 機 を 付 け, こ れ で フ ラ ン ス 飛 行 ク ラ ブ の 賞金 を 纏 得 し た 。 7 カーチス設計のジューン・バッグ号 n e ア 1908年 Curt i s s June Bug" (明 治 41年 ) . グ レ ン ・ H ・カ ー チ ス が 航 空 実 験 協 会 の 第 3試 作 機 と し て 設 計 し た 「ジュ ー ン ・ バ ッ グ」 号 。 同 年 7 月 4 8. カ ー チ ス の 操 縦 で 公 式 立 会 人 の 前 で 約 1kmを 飛 ぴ , サ イ エ ン テ ィ フ ィ ッ ク ・アメ リ カ ン ・ ロ フ ィ ー を 獲 得 した。 ト ま た 周 年 6月 218か ら 8月 31日 ま で に , 本 機 は カ ー チ ス , セ ル フ リッジ , マ ッ カ ー デ ィな ど の 操 縦 で 32回 の 飛 行 を 行 な っ た 。 両 異 端 が 補 助 翼 で あ る。 B L E R I O T・E I N D E C K E R j S t a b il i a e n & ・ r t I l 革 命 ・ Oe uitab 晶蹴膚 • SI~.凶 D ORADE・E I H D EC K E R . hr . n""d.i1ler 剖 f T 同 r f li : d t c : ! Ko 宅 , ., ) : P .oh r I 51ε...rhe~1 e n . . . , " , t f Molo r Sd> r.u~ rIr2.r. J Anl6uf, i c l n 5 S e i t t n s t . 世 V ③ f Tratfli 品 ・ c . c! - ~~官 " H劫~e<町V IS t 叫明恥beI . . Mo t o r n f , 砧nnalz • s 品,a ub t ・ l . r2 . rJ Aal 岨 f T i d e r 5 S ei l l 闘 訓 師 日野大尉がドイツから買って帰り, 日本での初飛行に使ったグラーデ単葉 機 。④ 1909年 7 月 , 英 仏 海 峡 横 断 飛 行 に 成 功 し た プ レ リ オ 式 単 葉 機。 13 9. カ ー チ ス 複 葉 機 1910年 (明 治 43 年 ) ご ろ の カ ー チ ス 複 葉 機。 上 下 翼 の 中 間 , 後 縁 か ら 張 出 し 式 の 補 助 翼 を 付 け て い る 。 カ ー チ ス は こ の 前 型 の 1909 年型 ( 50hp) で 7 月 17 The Curt / s s bi p/ ane .ca 19 10 8 に 距離 約 40kmの 周 囲 飛 行 に 成 功 し て , 再 び ア メ リ カ 科 学 誌 の ト ロ フ ィ ー を 受 け , さ ら に 8月 29日 フ ラ ン ス の レ イ ム で 開 催 さ れ た ゴ ル ド ン ・ベ ネ ッ ト 賞 速 度 飛 行 競 技 に 参 加 し て , 平 均 時 速75kmで 1等 貨 を 穫 得 し た 。 10 日本最初の軍用気球 Japanミ ル . s t mtfi t a ヴ 1877年 ba/ / oon (明 治 10 年 ) .西南戦争で賊箪に包囲さ ' れた熊本域内の官軍と連絡を取る目的で,麻生海 軍 機 関 大尉 に 命 じ て 気 球 2個 を 作 ら せ た 。 自 由 気 球 で は な く 係 留 気 球 で , 同 年 3 月 試 掲 の 時 . 1個 は 破 裂 し . 1個 は 強 風 て る 吹 飛 ば さ れ て し ま っ た 。 そ こ で 急 い で 陸 軍 士 官 学 校 で 1個 作 ら せ , 同 年 9 月完成したが,そのときはすでに西南戦争は終っ て い て 間 に 合 わ な か っ た 。 写 真 は 翌 1878 年 6月 1 1 8, 陸 軍 士 官 学 校 の 開 校 式 で 試 揚 し , 明 治 天 皇 の 御 覧 に 入 れ た と き の 光 景 で あ る。 14 1 2 日本最初の飛行,徳川大尉とアンリー・ファルマン複葉機 Fコシst powered所'gh t l n Japa n- -Ca pt .Y . Tokugawa andh l sHenr lFarman blp/ane 1910年 ( 明治 43年 ) 12 月 19 日の早朝,東京の代々木練兵場で徳川 ・ 臼野両大尉によるわが国最初め飛行が行われ,日本航空史の第 1 ページが開かれた。写真はこの歴史的飛行に飛立とうとする徳川 大尉のアンリー ・ フ アル マン複葉機 ( ノーム 50hp ) 16 と , フランスで 練習中の同大尉 。 こ の日の初飛行の記録は最高 高 度 70m , 飛行距離約 3 km . 飛行時間 4 分,代々木練兵場上空を 2 周した 。 時速 53km , dゐ 1 1 山田式飛行船 アiS" Yama o aグships 1910年 ( 明治 43年 ) 9 月 8 日.わ が国最初の飛行船,山田式 1 号が 京の大崎と駒場開に初の野外飛行を 試みた 。 徳川 ・ 日野両大尉の飛行機 による初飛行より 3 ヵ月あまり前の ことである。翌 1911 年早々に山 第 2 号飛行船が完成 . 試験飛行し , 2 月に何回か さらに改良された第 3 号飛行船が同年 9 月に大崎から日比 谷公園上空を周囲. 1 時間におよぶ 飛行に成功した。写真は第 1 号飛行 合とその機関部。 15 14 代 々 木 の 「 日 本 航 空 」 発鎗之地」記念碑 Tho M僻 東 京 の 元 代 々 木 練 兵 場 の 一 隅 に 今 も 建 っ て い る 「 日 本 航 空 発 始 之 地 」 の 記 念 碑 。 1940 年 ( 昭 和 15 年)徳川・日 野 両 大 尉 の 歴 史 的 初 飛 行 の 30 周年を記念して.大日本飛行協会と朝日新聞社が共同で計画早大教授今井兼次氏 の 設 計 に よ り 翌 1941年 に 完 成 し た . 総 ミ カ ゲ 石 製 . 近 年 台 座 の 左 右 に 徳 川 ・ 日 野 両 大 尉 の 胸 像 が 付 加 さ れ た 。 orialal Y o y o g / : Tokyo 同.,..ル" $ 1 助対1 Wa8matlei nJapan 15 日本最初の飛行の新聞記事 人lew~ρaper a r t i c / e on ル 'Stルタ' h t/ n Japan わ が 国最 初 の 飛 行 機 によ る 飛行 を 報 じ た, 翌 日 付 (明 治 43年 12月 20日 ) の 東 京 朝 日 新 聞 の 歴 史 的 記 事 。 明 治 調 の 形 容 詞 に 満 ち た 美文で, 徳 川 大 尉 の 初飛 行 の 光 景 が く わ し く 舎 か れ て い る 。 18 13 日野大尉のグラーデ単葉機 Capt .K.Hi no andh i s Graゐ mon o,ρ/ane 徳川大尉と閉じ 12 月 19 日の午後.日野大尉もグラーデ単葉機で高 度 45m で約 1km の距離を 1 分 20秒で半円形に飛んだ。日野大尉は 12 月 14 日にジャンプ程度の試験飛行を 2 回行し\同 16 日にも高度 3 6 m に飛上がったがすぐ着陸したので正式の初飛行とは認められなか った。グラーデ単葉機はサント ・ ジュモンのドモアゼル号をまねた 単葉機で,操縦席は 主 翼の下に設けられ, 24hpのグラーデ式発動機 を装備していた 。 17 16 日 野 式 第 l号 , 第 2号 飛 行機 Capt .Hi no onq'h i s monop/ a n e s . No. 1and 2 日 野 熊 蔵 大 尉 が 1909 年 (明 治 42 年 ) .陸軍 の臨時軍用気球研究会の委員に選ばれてから, 独力で設計製作した飛行機。 フランスのサン ト ・ ジ ュ モ ン の ドモ ア ゼ Jレ 機 を 模 し た よ う だ が , エ ン ジ ン は わ ず か 8hp 。 このため 19 10年 (明 治 43年 ) 3 月 18日 , 東京 の 戸 山 ケ 原 練兵場で滑走実験を行なったが,ついに離陸 で き な か っ た 。 こ の 後 4 月に, 日野メ識すは徳 川 大 尉 と と も に ヨ ー ロ ッパ の 飛 行 機 研 究 と 購 入のため出張を命ぜられ,日野大尉はドイツ へ 行 っ て グ ラ ー デ 式 単 葉 と , ド イ ツ 製 の ライ ト 式 複 葉 機 (後 着 ) と を 購 入 し て , 同 年 12月 19日 グ ラ ー デ 式 を 操 縦 し て 日 本 で の 初 飛 行 の 栄誉を担ったのだが, そ の 翌 1911 年 (明 治 44 年 ) .国産 機を 目 ざ し て 設 計 製 作 し た の が2 号 機 (正 式 名 称 で は な い が ) で あ る 。 同 年 5 月 下 旬 か ら 青 山 練 兵 場 . 8月 か ら 代 々 木 練 兵 場で滑走試験を行なったがついに飛べず,失 敗 に 終 っ た 。 写 真 右 上 は 第 1号 機 . 下 は 第 2 号 機 と 問機上の日野大尉。 19 初 期 時 代 の わ が 民 間 飛 行 機 研 究 家 の 中 の 4 男 爵 の 1人 , 奈 良 原 三 次 氏 が 1910 17 奈 良 原 式 第 l号 複 葉 機 年 ane アne んらrahara んら 1 Oタ/ (明 治43 年 ) 10月 末 に 製 作 を 完 了 し た 第 1号 機 。 複 葉 型 だ が 上 下 翼 を 大 き く 前 後 に 食 違 い 式 (ス タ ッ ガ ー 型 ) にした,当時としては異色の設計で 25hp の ア ン ザ ニ 発 動 機 を 装 備 し , 戸 山 ケ 原 で 滑 走試 験 を 繰 返 し 行 な っ た が , 大 き い 機体が馬力不足でついに浮揚できず失敗に終った。 18 奈 良 原 式 第 2号 機 アんe Narahara 八ゐ. 2 Oタ/ ane 20 奈 良 原 氏 が , 第 1号 に つ づ い て 1911年 (明 治 44年 )に 作 り 上 げ た 第 2号 向。 や は り 複 葉 機 だ が , 徳 川 大尉 の ア ン リ ー ・フ ア ル マ ン 機 を 見 た 後 の せ い か , 形 も と と の っ て 洗 練 さ れ た 。 回 転 式 の ノ ー ム 50hpを 装 備 し . 5 月 5 臼 に 奈 良 原 氏 の 操 縦 で 高 度 60-70mに 将 揚 し , ま た 2 回 目 に は 距 離 70mほ ど 飛 ん だ 。 19 奈良原式第 4 号 「鳳」 1912年 ( 明治 45年 ) 3 月,奈良原氏は第 4 号機を作って完全な飛行に成功し た。これを「鳳 ( おおとり )J 号 The Narahara んら. 4 ó ip/ane “ 0ん tori" ( Phoenケ) 20 森田新造氏の飛行機 と命名し, 栄之助氏の操縦により公開飛行を行 L\ 4 月に神奈川県鶴見競馬場で白戸 その後全国各地に巡業を行なった。 奈良原式第 2 号機の初飛行より 10 日ほど前の 1911 年 ( 明治 44年 ) 大阪の森田新造氏の作った単葉機 ( グレゴアジ ッ プ40hp) The Mori t a monop/ane で約 80m を飛んでいる。 が 4 月 24 日, 1 m ほどの高き 21 21 マースの関西最初の飛行 ノ4m~rican pl/OtMcσrs 一一ー ルst to ペy i n Osakσ 1911 年 ( 明治 44年 ) 3 月 218 t マニラ 帰りのアメリ カ のポールドウィン興行飛行団が,大阪朝日新聞社の主催 で,城東練兵場で無料公開飛行を行なった 。飛行機はカ ーチス式複葉機 「 スカイラーク 」 号と.ほかに複葉機の 「レッドデビル」をもっていたが,この B は第 1 操縦者 のマ ース が「スカイラーク 」 で 3 回飛行し.練兵場のま わりをいっぱし、に埋めた 40 万人と い われた見物人 に深い 感銘を与えた。これが関西における最初の飛行となった がt 1 週間後,兵庫県 鳴尾競馬場で有料興行飛行を行 い,ついで東京目黒の競馬場でも興行飛行を行なって成 功した。さらに 4 月中に京都.名古屋で飛び.再び東京 で数日間興行飛行して 帰米し た。写真上は鳴尾競馬場に おける 22 「 スカイラーク J .下は機上のマース氏。 / 22 最 初 の 来 日 水 上 機 ア ッ ト ウ ォ ー タ ー 1912年 (明 治 45 年 ) 5月 , マ ニ ラ へ の 途 中 横 浜 に 着 い た 米 人 飛 行 家 ア ッ ト ウ ォ ー タ ー 〈本 名 ア ッ トウ ッ ド) 氏 が , 持 っ て き た カ ー チ ス 式 複 葉 水 上 機 で 5 月 5 日 一 11日 バmerican ptlotバtwater一一ールシ$t tobri nghydrop/ane t o Japan の 間 横 浜 で 数 回 飛 行 し . 6月 1 日 に は 東 京 芝 浦 か ら 郵 便 物 約 7kgを 積 ん で 横 浜 に 飛 び , わ が国 最 初 の 郵 便 飛 行 と な っ た 。 つ い で 大 限 朝 日 新 聞 社 の主 催 で 6月 8 日 か ら 3 日 間 , 兵 庫 県 西 宮 海 岸 で 無 料 公 開 飛 行 を 見 せ . 7月 に は 名古屋でも飛んだ。 23 23 最初の英仏海映横断飛行のプレリオ機 1909 年 ( 明治 42年 ) 7 月 25 日,フランスのルイ ・ プレリオは自作の 11 型単葉(アンザ ニ 25hp) 機で英仏海峡横断飛行に成功した。フランスの The B/er i ot monop/ant1-一ールst t o crωs t h e Eng/I訪 Cnanne/ カレーからイギリス側のドーパーまで,高度 350m で 37分で飛んだ。 24 陸軍が購入したプレリオ単葉機 !,he B/ er i ot monop/anepur cnasedby t h e Army 英仏海峡横断の翌 1910年 ( 明治 43年 ) 行研究に派遣された徳川大尉が , .フランスへ飛 アン リ ー ・ ファルマン ととも に注文し ,翌春に到着 したのがこのプレリオ単 葉 機改良 型で ある 。水平尾 翼が烏 の尾のような形になり , 発動機もノーム 5 0hpに 強化された 。 より新 設の所沢飛行場で初飛行 . 4 月 13 日徳川大尉に 1 時間 9 分 30秒,距離 約 80 同の最高記録を作った。その後操縦将校の練習用に 使われていたが . 1913年 ( 大正 2 年 ) 3 月 288 ,木村 ・ 龍田両中尉により所沢 一 東京青山聞の 往復飛行を行い, 帰途所沢間近の松井村上空約 300m で左翼が折れて墜落, 両中尉はわが国最初の航空殉職者とな っ た 。写真は青山 練兵場から 帰航の途につく前 最後に 写 されたもので, 機の左右に 立つのが木村鈴四郎 ・ 徳田金一両 中尉である 。 25 研究会式(徳川式) I 号機 T h t l ArmyKai I(To I c ugawal) 6 i p / a n t l 徳川大尉がアンリー・フヲE ルマン機を もとに改良設計し.東京中野の気球隊で 製作 した臨時軍用気球研究会式 ( 略 して 会式 ) 1 号機で,一般に樽川式 1 号と呼 まれた。全体に低くなり. 2 人乗りの操 縦席はナセルにして抵抗を少なくし,前 方昇降舵の張出し支柱やソリを強固にし た最初の国産陸軍機。ノーム 50hp を装備, 1911 年 ( 明治 44年) 10 月 25 日.徳川大尉 の捧縦で初飛行し,高度 85m. 時速約 70 km てる距離 1.6 加を飛んだ。以後操縦将校 の練習用に使われた。 26 会式(徳川式) 2 号機 翌 1912年 ( 明治 45年 ) Th t I Army Kai-2 (ToIcugawσ ・ 2) 6 i p / a n t l ,徳川大尉が会式 1 号機をさらに改良設計して研究会で製作した もので,方向舵 tJ~ 1 枚とな り ,降着装置の ソ リ を短くするなどの改良が行われ.発動機を アンザニ 60hpに強化したので.最高時速95km といわれた。これも練習用に使われた。 てJic~~: -ー需を巳 i 27 カ ー チ ス 複 葉 水 上機 アI W J Cu r t i s s float p/anes 1912年 (明 治 45 年 ) 6月 , 海 軍 で は 海 軍 航 空 術 研究 委 員 会 を 作 り, 委 員 の 中 の 河 野 三 吉 , 山 田 忠 治 両大 尉 を 操 縦 練 習 , 中 島 知 久 平 機 関 大 尉 を 飛 行 機 製 作 整 備 研 究 の た め ア メ リカの カ ー チ ス 飛 行 機 会 社 に 派 遣 し , 2機 を 購 入 し て同年秋に帰国 させたが,これ ' t その時に持 っ て 帰 っ た カ ー チ ス 複 葉 水 上 機。 同 年 12月 1 2 日,横浜沖で行われた大正天皇最初の観艦式 に , 河 野 大尉 の 操 縦 で , 金子 大 尉 が フ ラ ン ス か ら 持 っ て 帰 っ た モ ー リス ・ フ ア ル マ ン 式 水 上 機 と と も に 空 中 か ら 参加 し て 好 飛 行 を 見 せ た。 フ ァ ル マ ン 機 が 双 浮 舟 な の に 対 し, カ ー チ ス 機 は 単 浮 舟 で 水 上 安 定 が 悪 か っ た よ うだ 。 写 真 上 は 観 艦 式 に 参 加 し た カ ー チ ス 式 水上 機 (水 上 ) と , モ ー リ ス ・ フ ア ル マ ン 式 水上 機 (空 中 ) 。 写 真 左 は 複 揚 縦 装 置 を も っ ヵ ー チ ス機の操縦席。 26 2 8 モ ー リ ス ・ フ ア ル マ ン 式 水上 機 海 軍 航 空術 研 究 委 員 会 で は , 1912 年 金 子 養三 大 尉 を フ ラ ン ス の モ ー リ ス ・フ ァ ル マ ン 社 に 派 遣 し , 操 縦 練 習 と と も に 同 社 の 水 上 機 2機 を 買 入 れ, 同 年 11月 初 め に 金 子 大 尉 が い っ しょ に 帰 国 し , 大 急 ぎ で 組 立 て て 横 浜沖の観艦式に参加した。陸軍でも 後 に モ ー リス ・ フ ア ル マ ン 式 陸 上 機 を 多 数 使 用 し た が , 陸 軍 で は 略 して モ式と呼んだのに対して,海軍では フア ル マ ン 式 , 略 し て フ 式 な ど と 呼 ん だ も の で あ る 。 ル ノ ー 70hp発 動 機装備。写真下は,モ式小型水上機 を そ の ま ま 少 し大 き く し た 形 の モ ー リス ・ フ ァ ル マ ン 式 大 型 水 上 機 。 ル ノ ー l OOhpを 装 備 し , 乗 員 も 3名 と な り, 高 速 度 98km/ h, 航 続 力 4 . 5時 閉め性能をも ー って い たので,長時間 飛 行 に 使 わ れ た。 お / r h d Maurtce Farman 1 1 ∞ , tp /anes 29 滋野式「わか鳥」号 The Sh少'eno “ Wakador/' (YoungB ' c / ) hip/ane 1912年 ( 明 治 45年 ) フランスで 飛行機の練習をして い た滋野清武 男爵が,自分で設計 し てフランス のある工場で製作させたもので. 滞仏中に故国で病死した愛妻の名 を取って 「 わか鳥 J 号と命名した。 主翼も鯛体も骨組みは鋼管製 に羽 布張り構造で,アンザニ 60hp を装 備していた 。 に. 1912 年夏 帰国 ととも 9 月 9 日夕 に所沢 で試験飛行 し,約 200m を飛んで着陸の際, 傾 い て片翼が地に触れて逆立ちと なって小破した 。 これを修理 し て 翌 1913年 ( 大正 2 年 ) 4 月 22 日, 所沢で再飛行 じ 高度 300m. 45分 聞の快飛行を行なった。写真は修 理後の 「 わか鳥 」 号で.機首 に立 つのは滋野男である 。 30 園図式飛行機 アんe Sonoda bタ/ane 1910年 ( 明治 43年 ) ごろ,イギ リ スに遊 学し ていた園田武彦氏 ( 後・男爵・健在 ) が,ハン ド ν . ページ氏に依頼して,共に製作 に 当り. 機。 1911 年初めに完成し .た飛行 へ ンドン 飛行場での 3 度目の 飛行で,着陸の際左翼を地面に激 突破損 し て中止し,グ リ ーン 50hp エンジンだけを f守って帰国した。 このエン ジ ンが奈良原式 4 号 「鳳 」 号に装備されて,問機成功のもと となった 。 28 3 1 民間最初の航空殉灘者武石浩破氏とカーチス機「白鳩」号 Koha アakeishj, r i r s t Japanese c i v l マ ! anktl/edi naerta/accidentano'h i sCurtiss “ Shirohat;' (WhiteDove) アメ リ カで苦学して飛行術を学んでいた何人かの日本 人飛行家のうち,武石浩戒氏が,カ リ フォルニア州スメ ルザ在住同胞の後援を得て買入れたカ ーチス複葉機をも って 1913年 ( 大正 2 年 ) 4 月故国に帰り.大阪朝日新聞 社の主催で兵庫県鳴尾麓馬場で 5 月 3 臼, 3 -回にわたり 見事な飛行ぶりを見せて,日本人民間飛行家の快飛行と して数万の見物人に大きな感銘を与えた。翌 5 月 4 B , 京阪神連絡飛行 として鳴尾から大阪市上を半周して城東 練兵場に着陸.再び出発して京都に 向』、 ,深草練兵場に 着陸の際,なr ぜか地上に激突大破し.武石氏は間もなく 死亡,民間最初の航空殉難者となった。写真上は鳴尾蹟 馬場で機上の武石氏 。 左は大阪城東練兵場を出発前。 29 32 世界最 初 の大 型航空機 シコルスキー 4 発 機と同爆 撃機型 The wor/d 's ル'rst 4 ・ lìngined 0 グルヮer andóαnóer o Sl korsky ロシ ナのイゴ ー J レ ・ シコルスキーが. 1913 年に作った世界最初の 4 発大 型旅 客機 。当 時 の ロ シナの飛行機は , フランスやドイ ツの 飛 行 機 の製作権 を買って 作ったものが大部分 だ ったが ,そ の中からシコル スキー の よ うな 天 才的な人物が現れ て,こ の巨大な旅 客機を作 った。アルグ ス 100hp 発 動機 4 基 を装 備 .最 大 16 人を乗せて飛んだ 。 翌 1914年から第 1 次世 界大戦が起 る と ,こ の大型 機 は爆 撃機と し て使われ ムロ〆 .y ツ 江 (巨 人 ) rイ リ ヤ ・ と呼ばれて 70機 以上が 生産 されたといわれる 。写真上は原型 を改造 して 爆撃機とな っ た 型で.尾部 を含めて 5 門 の旋回 機関銃を積んだ 。胴体上に 2 人 の 人物 が乗ってい る のは 機銃座と思われ る が ,冬 季 のためか車 輸のほかに ソリ を 付してい る 。 は旅客 機 型の 機首部分。 30 左 1914年 33 第 l国 民 間 飛 行大 会 と ル ン プ ラ ー 単 葉 機 (大 正 3年 ) 6 月 13- 14日 , 帝 国 飛 行 協 会 主 催 の 第 1 回 民 間 飛 行 大 会 が , 大 阪 朝 日 新 聞 社 後 援 の も と に 兵 庫 県 鳴 尾競 馬 場 で 開 催 さ れ た 。 参 加 し た の Japa ns i i r s tci v t I ai rmeetandt he 斤 ' ump/armonop/ane は ア メ リ カ 帰 り の 高 左 右 隆之 , 坂 本 芳一 , 海 野 幾 之助 の 3 氏 に , フ ラ ン ス 帰 り の 荻 田 常三 郎 氏 と , 帝 国 飛 行 協 会 か ら 特 別 参 加 の 磯 部 鉄 吉 氏 の 5人 5機 で . 20 万 人 以上 の 見 物 人 が 集 り 盛 会 を き わ め た 。 写 真 は 当 日 飛 行 し た 磯 部 氏 の ル ン プ ラ ー 単 葉 機 で , 斉 軒 す 時 間 1 時 間 34分 25秒 を 記 録 し た 。 本 機 は 後 に 機 部 氏 と と もに,陸軍に徴用されて青島戦に出かけた。 34 荻 田 常 三 郎 氏 の モ ラ ー ヌ ・ ソ ル ニ エ 単 葉 機 荻 田 常三 郎 氏 が フ ラ ン ス から買って帰ったモラーヌ .ソ ル ニ エ 単 葉 機 。第 1 回 民 間 飛 行 大 会で 鳴尾から大 阪 へ 向 っ て 飛 び, 高 度 2003m の 記 録 を 作 っ た が, 発 動 機 カバーがゆ るんで大阪築港 付近に不時着した。翌年 1 月 3 日 故 郷 の 京 都 市 訪 問飛 行 の た め 深 草 練 兵場 を 離 陸 直後墜落し.同乗の大橋助 手とともに即死した。 ヨ T . G 曽' ; t a$ MoraneSau/n;er ma-7q ρ/ane 35 青島戦と陸軍機 アM バrmy p/anesI " or t h e Batt / e 0 1" アSingtao 1914 年 ( 大正 3 年 ) 6 月, 第 1 次世界大戦が突発 し ,全 ヨーロ ツ ノマに戦火がひろがっ た 。 イギ リ スと同盟関係にあ った日本も.極東における治 安のためドイツに対 し て宣戦 し ,中国大陸の青島にあった ド イツの租借地に対して出兵 攻撃した。海軍から艦隊とと もに航空部隊も参加したのに 対し,陸軍も兵とともに航空 . 部隊を参加きせた 。 これが臼 本の陸海航空隊の最初の参戦 出動となった 。 腫軍からはそ式 13 年型 4 機 と, ニュー ポール NG 単葉 1 機,気球隊と,帝国飛行協会 から徴用した J レンプラー単葉 1 機が,船に積まれて山東省 竜ロ海岸の臨時飛行場を基地 として活動 し た 。 左上の写真 は竜口海岸担拠地に 翼を なら べた陸軍のモ式 3 機 。 下は同 ニュー ポール NG 単葉機だが, これは後に東京の大正博覧会 に飛行参加のため青山練兵場 あたりに飛来したときの写真 らしい 。 32 36 青島戦参加の海軍機 Th Navyp/anSr o rt h Batt/ 0〆 Tsinタ tao 海軍では水上横母艦「若宮」にフアルマン ( 7Qhp ) 水上機 3 機と, 100hp の大型ファルマン水上機 1 機を積んでいち早〈腰州湾 ( こう し ゅうわん ) へ 8 月 29 日に到着,陸軍より早〈活動を開始し,青 島 要塞 の偵察や爆弾投下などを行い,威力を発揮した。写真は母艦若宮上 に 積まれるフア ル マン水上機 。なお陸軍に航空大隊が創設きれたのは, この後の 1915 年 ( 大正 4 年 ) 12 月.横須賀に海軍航空隊が創設された のは 1916 年 4 月である。 33 1917 年 ( 大正 6 年 ) 37 シベリア出征と捕獲したポアザン機 アÏlð I干'ussian VOI s,n bゥo/ane capturedI n S/ be r/ a 10 月,ロシアの革命と帝政崩壊 後, 1918 年, ・ シえリアで新しい労農政府によって騒乱状態が起り, ニコラエ フス クでは日本領事一家が殺されるなどの事件が突発したので,陸軍で は兵士とともに航空隊を派遣し,モ式 3 • 4 型各 4 機,ソ ッ ピース戦 闘機 4 機,計 12 機が参加した 。 これは現地で捕獲 し たフランス製の 敵のポアサ'ン式偵察機で,連絡飛行に使って い たという 。 38 宙返 η 飛行家ナイルス来日 Loo,ρ -art/st 1915 年 ( 大正 4 年 ) Char/ e sNle sf i r s t/ oopedI n Japa n ロ月初め,アメ リ カで第 3 番目の 宙返り飛行家として知られたチヤールス ・ ナイルス 一 行 が来日し. 12 月 11-12 日東京青山練兵場で飛行会を聞い た 。 持づてきたのはプレリオ改造単 葉機 とカーチス複葉 の 2 機で ,みごとな 曲技飛行を横じて見せて一般観衆に 鴛異の目を聞かせた 。 その後九 州福岡,兵庫県鳴 尾麓馬 場と大阪城東練兵場,そのほか和歌山,広島などでも曲 技飛行を見せて,日本人 に強い感銘 を残 して 3 月 22 日マ 34 ニラへ去 った。写真は プレ リ オ機 の前に立つ ナイルス 。 a ・圃園圃園田圃圃- 39 つ がー ト ・ ス ミ ス の 来 日 バrt Smith, another /oopゐrρα円 America ナ イ Jレ ス と 入 れ か わ る よ う に し て , ア メ リ カ の 23歳 の 宙 返 り 飛 行 家 ア ー ト ・ ス ミ ス が 国 16年 3月 18日に 来 日 し た 04月 4日 から 3 日間,青山外苑で飛行会を催し,ナ イルスに劣らぬ見事な宙返りや多彩な曲 技飛行に観衆をわかせた。飛行機はカー チ ス 型 の 複 葉 機 2機 だ が , い ず れ も 自 作 のものであった。ニのあと鳴尾蹟馬場, 名古屋,奈良,大阪,富山,山鴎各地で 飛行し,最後に東北各地の巡業飛行を経 ・て 6 月 16日札幌で飛rJ, 2回 自 の 離 陸 直 後 エ ン ジ ン 故 障 で 着 陸 しよう と し て , 見 物 人 を 避 け て 地 上 に 激 突 負 傷 したが,こ れ が 同 情 を 呼 ん で一 般 か ら 8000円 余 め 同 情 金 が集 っ た 。 札 幌 で 入 院 加 療 し て 7 月 末 に ア メ り カ へ 帰 っ た が , 翌 1917年 (大 正 6 年 ) 4 月 , 母 親 を 連 れ て 再 び 来 回し,各地で飛んで人気を博した 。 35 1916 年 40 婦人曲技 飛 行家スチンソン Kat htJr i ntJ S tins on, 1 9 ・ yr- o/a' st u n tstar ( 大正 5 年 ) 12 月,アメ リ カ最初 の 婦人曲技飛行家と し て知 られ た, 満 19 歳 の ミス ・ カザ リ ン・スチ ンソ ンが来日,持ってきたラ イト 式トラク P 一複 葉機で 12 月 14 日夜,まず東京 ・ 青山外苑か ら 離陸 し て夜間飛行を行 い ,翌日日 と 16 日 に わた り 数固め曲技飛行を槙 じ て見せた 。 はなかった が ,婦人飛行家と い うのと, て相当 の 人気を集めた 。 ナ イル ス,スミス ほどの 腕 宙 返 り や煙文字書き飛行などを行な っ 翌年 1 月には大阪の市岡新田, ・ 神戸,名古屋で も曲 技 飛行を見せて一 応 の人気を高めた後,中国大陸への巡業 に 向 っ て 日 本を去 った 。 なお後年スチン ソン 機で鳴ら し たの は 彼女 の 兄である 。 41 ルス・ロ一夫人 ん(rs. 斤'uth L σ 帥ι 1919 年 ( 大正 8 年 ) て J レス ・ ロ一夫人 Amørican st u n tavi at r i x 1 月,アメ リ カからまだ婦人曲技飛行家と し ( 27 議 ) が来日したが,すでに B 本でも宙返 り 飛 行などはめずらしがられな い 時代となっていためで人気が出ず, 2 月 1 8 持ってきたカ ー チス型複 葉 機で.雪の残る東京 ・ 制崎埋立地 で公開 宙 返り飛行を 見 せたが,その後は主催者がつかず, 36 空しく マニ ラへ向って日本を去 っ て行った 。 3 月 16 日 ¥ ¥ ¥ 42 会式(徳川式) 1913 年 〈 大正 2 年 ) 3 号 TheArmyKai-3 ( アokl./gawa ・ 3 ) ,徳川大尉の設計で製作した会式 ( 徳川式 ) 3 号。モーリス・フアルマン式の上下翼端部をつないでいた斜め支 bip!.σntI 柱を廃し,上翼上に設けた〈型支柱から張線で支え,垂直尾翼を 1 枚に改良したもの。同年 6 月第 1 期操縦将校の卒業野外飛行に,武 田次郎少尉の換縦で所沢から千葉県市川鴻の台往復飛行の帰途,発 動機故障で東京市外練馬に不時着大破した。 43 改造モ式 Th Army M.配分万'ed M a l . / r i c Farman 1915 年 ( 大 正 4 年 ) ,陸軍がフ ラ ン スから買入れたモー リ ス・フ ア ル ? ン 1914 年型で,前方昇降舵 が除去されて い るのを参考に し て. 臨時軍用気球研究会で作った改造 モ式 ( ルノ ー 70hp装備 ) 。 ナセル の前方座席に機関銃を装備 し た 。 機上は沢田秀中尉 。 沢田中尉 はこ の後,モ式とカーチス式とを組合 わせたような駆逐機としての会式 7 号機を設計製作 し , 88 1917 年 3 月 自 ら 操縦試験飛行中に墜落死 亡 し た。 44 モ 式 4型 改造モ式につづいて t 1915年 (大 正 4 年 ) さ ら に 沢 田 中 尉 に 阪 元 中 尉 が 協 力 し て 改 良 設 計 し , 所 沢 で 製 作 し た の が こ の モ 式 4 型で, , " ア Army Modified Maurice Farman4 ナセルが従来のそ式では下翼上に設置されていたのを,上下翼の中 間 く ら い に 抑 上 げ 設 置 し t 2枚 の 垂 直 尾 翼 も 小 さ く 三 角 型 に 改 め ら れ , 降 着 装 置 の ソ リ も 短 く な っ た 。 エ ン ジ ン は 前 型 と 閉 じ ル ノ ー 70 hp 。 所 沢 で 多 数 製作 さ れ 使用され t 1918年 t 1916年 8 月 以 降 , 新 設 の 陸 軍 巨 航 空 大 隊 で (大 正 7年 ) 8 月 シ ベ リ ア に も 出 動 し た 。 次 ペ ー ジ の 写 真 右 下 は そ の 機 関 部 と 冷 却 器。 38 39 45 陸軍気球隊の気球 T h t tArmyS :earケ captl問 6 a//oon 日本の陸軍航空は, 1909 年 ( 明治42 年 ) 7 月,臨時軍用気球研究 会が組織されたことから始った 。 写真左は東京中野 の電信隊内に設 置された気球格納庫と気球 。 46 パーセパル飛行船 I m p o r t t t dP,σrseval σ irshタ o〆 the バrmy 1912 年 ( 大正元年 ) -8 月,ドイ ツから 買入れたパーゼパ ル飛 行 船 。 以来よ く飛んだが , 1913 年 3 月詣日. 貧衆 両院議員に見せるため所沢 から東京青山練兵場に飛来したとき,着陸の際突風 にあ お られて , 明治天皇葬場殿の屋根に激突大破 した。左下の写真 は同飛行船のゴ ンド ラ 。 40 47 雄飛号飛行船 Rtmo同 ttld P arstlva/ai r sh i p “ Yuhi ofthe Army 破壊したパーセパル飛行船を,修理改造 し て 1915 年 ( 大 正4 年) 4 月に完成したのが「雄飛 J 号である 。 雄飛号 も好成績でよく飛ぴ. 4 月 zl 日には連続 7 時間飛行. 月には夜間飛行も行 い . 7 月に脊宇都訪問飛行. 5 12 月に は御大典記念:観兵式 に モ式飛行機 10機ととも に 空中分列 式に参加,翌 1916 年 1 月下旬,所沢一大阪閉め長距離飛 / / / 行に成功した月 24 日大阪から帰還飛行の途につくは ずだったが,天候急変して強風にさらきれ危険になった ので, ガスを放出 して 解体陸送 して所沢に帰った。 後はあまり飛行が行われず. 1917 年 ( 大正 6 年 ) そ の 7 月 に仙台往復飛行を行なってのち,廃船になった。写真は 問責合と, ゴンドラ。 陸軍では,これをもって飛行船の研究を打切った 。 41 48 海軍の 5.5.3 号飛行船 T h t l ん'c7 vy レシほ ttrs S .S .(suDmarintt scout) 3 aか'ship 海軍での飛行船研究は,陸軍が飛行船研究を打 切った後から開始され. ・ 1921 年 ( 大正 10 年 ) ,イ ギ リ スのピ ッ カース会社で 作ら せた s s 型 1 号が 初めとなった 。 S S 1 号飛行船 は同 年 8 月到着 し たが,格納 1京の 建設がお〈れたため,翌 1922 年 5 月に組立て完了, 5 月 11 日 に 初飛行 したが .2 ñ 月 後横須賀の仮格納庫内で自然爆発 し て全焼 し た 。 これを海軍で修理再生 し たのが S S 3 号飛行船 で, 1923 年 ( 大正 12 年 ) 6 月には横須賀から大阪 往復などの長距離飛行を行 、、 ,好性能を示 し て いた。 1924 年 ( 大正 13 年 ) 3 月 19 日.霞ヶ浦から 横須賀に飛来 し て帰航の途中,茨城県北相馬郡 上 空で空中爆発を起し巨大な火の 玉 となって墜落 。 合 長高橋道夫大 尉ほ か 4 人の乗組員は惨死すると い う痛ま しい 事故となった 。 写真上はあ りし E の SS 42 3 号と,左はそのエンジン部 。 49 アストラ・トーレ飛 行 船 The Navy Ni evport ん t r a To r r e s ai r ポタ ss型 飛 行 船 と 同 時 に , 海 軍 が フ ラ ン ス の ニ ュ ー ポ ー ル ア ス ト ラ ・ トーレ飛行船が, 1923年 ・ア ス ト ラ 会 社 に 注 文 し て い た (大 正 1 2年 ) 審 に 到 着 し た 。 ss飛 行 船 の 爆 発 で 格 納 庫 が壇 れ た ま ま だ っ た の で , 所 沢 の 陸 軍 飛 行 場 で あ い て い た 飛 行 船 格 納 庫 で 組 立 て , 7月 10日 完 了 , 進 空 し た 。 断 面 ス ペ ー ド 型 の 特 異 な 形 を も っ た こ の 飛 行 船 は , 霞 ヶ 浦 に ド イ ツ か ら 押 収 の 大 飛 行 船 格 納 庫 の 組 立 工 事 完 了 と と も に , 霞 ヶ 浦 へ 空 中 輸 送 さ れ た が , 1923年 (大 正 12年 ) 9 月 の 関 東 大 震 災 で 水 素 ガ ス 発 生 機 が 破 損 し た た め 一 時 活 動 を 停 止 し て い た 。 1 9 24年 (大 正 13年 ) 9 月 か ら 再 活 動 を 開 始 し . 霞 ヶ 浦 か ら 東 京 , 横 須 賀 と 飛 ん だ り. 海 軍 大 演 習 に 参 加 し た り し た 。 写 真 は 所 沢 飛 行 場 の 飛 行 船 格 納 庫 で , 組 立 て 完 了 し た ア ス ト ラ・ ト ー レ 飛 行 船 と その ゴ ン ド ラ 。 5 0 艦隊の対潜引航気球 T I 知 的 vyS s ル' P f > o ardI >a/ / oon 海 軍 艦 敵 用 の 引 航 気 球 。 第 1次 ヨ ー ロ ッ パ 大戦の経験で.敵の潜水艦を監視し魚雷攻撃 を 防 ぐ た め に , 軍 艦 がこ れ を 浮 掲 引 航 し たも ので,ゴンドラには監視兵を乗せていた。 51 玉井式 2 号機 と 3 号 機 ア"I1ð Tama i んら. 2 and3 I J i p/ an s 三 重県四日市生れの玉井清太郎氏が,初め 水上機と し て作り. 1916 年 ( 大正 5 年 ) 夏千 葉県稲毛海岸で滑走試験を試みて,どう し て も離陸できなかったので陸上横に改造 し , は じ めて飛行に成功したもの 。 雑誌「飛行界 」 の記者をしていた相羽有氏と手を組んで,現 在の東京国際空港である羽田に日本飛行学校 を 1917 年 ( 大正 6 年 ) に設立 じ ,多摩 川 の向 い岸の 三 角 州 を飛行場と し て練習生の養成を はじめた 。 写真はその仮設飛行場に建てたよ し ず張り の 格納庫で,前はキャメロン 25hpつ きの玉井式 2 号 。 格納庫内に見えるのは周年 ここで製作 し た,グラハム ・ ホワイト式と称、 し た 玉 井式 3 号 ( ノーム5O hp) 。 左は 3 号の側 面写真である。 44 52 伊藤式恵美号 ア"h~ I toh “ E mi bi pl ane 民間飛行家と して 最初の帝都訪問飛行に成功した伊藤 音次郎氏と 「 恵美 」 号 。 1911 年 ( 明治 44 年 ) 大阪から上 京して以来,飛行機研究に血のにじむ苦労を重ねた末, 1915 年 ( 大正 4 年 ) 春から製作に着手し,同年秋ょうや く完成した e 森田新造氏の飛行機に用いていたグレゴア ジ ッ プ倒立 4 気筒 45hp を装備,生地内大阪市恵美須町の 地名をとって 「 恵美」 号と名づけた 。 1916 年 ( 大正 5 年 ) 1 月 88 ,千葉県稲毛海岸から離陸し,高度約日 Om で 日比谷公園から芝浦,洲崎上空を経て, 事稲毛海岸に帰着した 。 40 分の飛行で無 このあと伊藤氏は 「 恵美」 号を もって地方巡業飛行を行い,翌 1917 年 ( 大 正 6 年 ) 1 月 10 日夜には,本機てる 民間最初の夜間飛行にも成功した 。 53 伊 藤 式第 2 恵 美 号 アn~ / tol1 “ E mi 2" 「 恵美 」 号を基にして 1917 年 (大 正 6 年) 4 月に完成したのが 「 第 2 恵美 」 号でエンジンは 1 号機に つけていたグレゴアジ ッ プを修理 して裳E備した 。 主翼を短〈し,左 右翼の支柱を 2 対に改め,降稽装 置も 2 輸に簡略化した 。 3 回にわ たる試験飛行中に高度 500m へわ ずか 3 分40 秒で上昇した 。同じ こ ろ入手したホールス コ ッ 動機で.同年 「 恵美 」 ト 80hp発 号氷上機を 作り,この 2 機を持って 9 月大阪 に下り,水上機は兵庫県西宮海岸 で,陸上機は城東練兵場を使って 飛行した 。 美」 9 月 16 日には 「第 2 恵 号で大阪市上空に郷土訪問飛 干予を干すなっている 。 - ・ 54 デベルデュッサン水上機 1913 年 ( 大正 2 年 ) .モナコにおけるシュナイダー・カ ッ プ水 上機 レ ースで , モー リ ス・プレボーが撮縦,時速 72.6km を 出し て優勝 し たフランスのデベ ノレ デユ ツ サン水 上機 ( ノーム 160 hp ) アne ミeprdussin f / o afmonop/ane に目 をつ け た海軍が.フランス に派 遣 し て い た井上 二三雄大 尉に 1914 年 1 月に 持帰らせたものが,海箪最初め ト ラクタ一式複座単葉水上機であっ た。 主翼の張練が多しまたカジが利きすぎて練習用には不向きと され.あま り重んじら れなかったようだ。 55 ソッピース「シュナイダー」型水上戦闘機 アne Sopwifh “ Sc加e i(Jら-r"- f/oaf β:ghter 海軍が 1917 年 ( 大正 6 年 ) 4 月 にイ ギ リ スから買入れたソ ッ ピー ス 「 シュナイダー 」 闘機 。 型単座水上戦 本機は 1914 年のシュナイダ ー ・カ ッ プ水上機レースで,時速 139.7 凶で優勝したのと同 型 機 。 ローン 11 0 hp エンジンを装備 し , 全幅 7.2 m .全長 6.6 m .全備 量 720 kg. 最大時速 148 km といわ れた 。 海軍でハ号と呼び, 1919 年菊 原大 尉 が本 慢で水 上 機最初 の 宙返 りに成功した。 46 56 アÏI ~ 陸 軍制 式 l号 Ar myS E / I( OHi c i a/T y p e1 ) 陸軍の臨時軍用気球研究会て¥沢田 中尉が設計,砲兵工廠で初めて製作に 成 功 し た ダ イ ム ラ - 100hp 発動機を装 備 の 複 葉 ト ラ ク タ ー 機 。 1916年 (大 正 5 年 ).4 月 に 完 成 , 制 式 1号 と な っ た が , 性 能 が思 わ し く な か っ た の で 阪 元 中 尉 が手 伝 っ て 一 部 改 造 し , 上下 翼 を 後 方へ 折 り た た め る よ う に な ど し た 。 全 幅 15. 5m , 全 長 9.4m , 全 備 重 量 1100kg。 4 ." 57 陸軍判明 j式 2号 T h o バrmySE/ 2 ( 0〆 βua/ η'te 2) 制 式 1号 を 阪 元 中 尉 が き ら に 改 良 設 計 し , 気 球 研 究 会 で 1917年 (大 正 6年 ) 末 に 製 作 完 了 し た ち の 。 命] t式 1号 機 よ り 上翼 が 短 〈 上 下 翼 が 同 一 寸 法 と な り , 降 着 装 置 も 簡 単 化 さ れ た 。 1918年 (大 正 7年 ) 1 月 早 ダ か ら 阪 元 中 尉 の 損 縦 で 試 験 飛 行 を つ づ け て い た が 月 17 日 に 1回 飛 C f , 発 動 機 の 不 調 で 着 陸 し て 調 整 後 2度 目 の 飛 行 で , 離 陸 し て 3 分後に墜落して大破,至宝的な名ノマイ ロ ッ トであり,飛行機の設計製作に も 沢 田 中 尉 と な ら び 称 さ れ た 阪 元 中尉 も , 沢田中尉の後を追って死亡 し,痛惜さ れた。 47 実用の時代はじまる 58 S.E.5A戦 闘 機 と ル ン プ ラ -0.咽 偵 察 機 の 空 中 戦 48 Comhaf i "f l H lAir;S .E. 5A Fighttlr ..s. 斤'umpltlr C.咽 r町 onnaissanceplane 第 1次 世 界 大 戦 末 期 の 空 中 戦 実 況 写 真 。 左 ペ ー ジ の 写 真 上 は . イ ギ リ ス の S. E. 5 A で .200hp. 全 幅8.2m. 全長6.4m. 総 重 量956kg. 最 高 速 度 205km/h. 機 首 に 固 定 機 関 銃 1挺 . 主 寓 の 上 に 固 定 機 関 統 1挺 , 乗 員 1名 . 下 は . ド イ ツ の ル ン プ ラ ー C . _で . 180hp. 全 幅 1 2 .2m,全長 8.0m.総 重 量 1374kg.最 高 速 度 140k . n 〆 h. 機 首 に 固 定 機 関 銃 1挺 , 後 庸 に 旋 回 機 関 銃 1挺 . 乗 員 2名 。 と も に第 1次 大 戦 末 期 の 主 力 生 虐 機 で . 写 真 で は 下 の ル ン 7 - ラ ー C. 咽 の 後 庸 銃 手 が.旋回機関銃で応戦しているのがわかる。写真左は,右手前がS .E.5Aで 左先方の命中弾をうけて空中分解したのがルンプラー C.咽 。 と も に こ の 空 中 戦 に参加した他の飛行機から撮影した貴重な記録写真である 59 フ ォ ッ カ ー D . W戦 闘 機 と プ リ ス ト ル F.2 B F i g h f e r n f t l r . . .s.BrisfolF. 2 B fwo・se Qf均g 複座戦闘機の空中衝突 こ れ も 第 l次 世 界 大 戦 末 期 の 珍 し い 空中戦実況写真。上は.ドイツのフォ ヅ カ ー D.咽 で . 185hp. 全 幅 8.9m. ∞ 全 長7 .1m. 総 重 量850kg.最 高 速 度 2 km/h, 機 首 に 固 定 機 関 銃 2挺 . 乗 員 1名 。 下 は . イ ギ リ ス の プ リ ス ト ル F. 2 B で, 275hp. 全 幅 12.0m. 全 長 7.9 m. 総 重 量 1170kg. 最 高 速 度 193km/ 札 機 首 に 固 定 機 関 銃 1挺 , 後 庸 に 旋 回 機 関 銃 1 - 2挺 . 乗 員 2名 . 左 下 に 見 え る の は フ 才 ヴ カ ー D. W 。 こ れ も この空中戦に参加した他の飛行機から 撮影した珍しい場面である。 Clash i "f l H lAir;Fo/drtlr D.咽 60 フォ ッ カー Dr. 1 戦闘機 アne FokkerDr . 1 劦ghter 1917年 ( 大正 6 年 ) の夏から就役し たドイツの 三 葉戦闘機 。 オランダの有 名な飛行機設 計 技 師 アントニ ・ フォ ツ カーの設計による傑作機の 一 つで.当 時世界 ー の 撃 墜王といわれた マンフ レ ッド ・ 、 リ ヒトホーフェン大尉の愛機 「赤色戦 闘機 J として知られた。 110 hp , 全脳 7. 2m , 全長 5. 8m ,総重量 586 kg ,最 高速度 185 km/h ,機首に固定 機関銃 2 挺.乗~ 1 名。旋回性能と 舛力がすぐれていたが .速 力がやや 劣 り .複葉 のフ方ツカー D . 四 が主力に なってから,生産は中止された。 リ ヒ トホー フェン大尉の戦死時の愛機。写 真は.戦死前の別の搭乗機で. 記念 機 として第 2 次大戦まで保存されていた もグコ。 61 スノぐッド 1 30 1 アne SP.ノ4D 英の S. E.5 A 戦闘機 62 1 3C 1βタ'hter ,独のフォ ッ カ- プリストル F . 28 The Br i s fo/F 2 B D.vn と,ならぴ材、さ 複座戦闘機 two ・ seat β'"ghter 単座戦闘機に対す る複座戦 闘機の特性 を実 証 するため. れ るフラ ンスの代 表的な 単座戦闘機。フォンク ,ギヌメ 英空軍が 1917年 ( 大正 6 年 ) ールなど , 新的なコンパ ッ ト ・ プレーン。初期の 1 90hp 盟が F . 2 A , フランス撃墜王の愛機として知られ.アメ リ 4 月から採 用した当時の カ義勇航空隊でも制式機として採用した。第 1 次大戦に 中期以後 生産型の 250 - 275hp 型 が F. 2 B 。 おける最高生産高を記録した飛行機と し ても知られ,フ 性能は抜軒てる ,戦後もながく英空箪で活 用 されていた 。 ランスだけで 8472機を製作 , 全幅 12 . Om , ほかにアメ リ カで 6000機を 製作する予定であったが,終戦のためキャンセ ル された 。 220 h p ,全幅 8 . 3m , 度 218 km/ 全長 6.2 m , 総重量 856kg ,最 高速 h ,機首 に固定機関銃 2 挺,乗員 1 名 。 km/h , 会 長 7. 9m , 最 高速度・ 193 機首に 臨定 機関 銃 l 挺 .後席 に旋 回 機関銃 1 - 2 挺,乗員 2 名。綾込; 戦闘のほか , 偵察 , 爆撃にも他わ れた 一 種の 多 用途機で.終戦貰後,旅客兼郵便輸送機に 改造されたものもあ る 。 50 総重量 1 1 70kg , 後者の実 用 63 ソッピース・ブルドッグ複座 戦闘機 1918年 ( 大正 7 年 ) The So,ρ with Bu/.幼I!J two ・seat 勾ん ter のは じ めに,イギ リ スで革 新的な高性能戦闘機が 2 機種試作された。その つは ソ ッ ピース ・ スナイプ単 座戦 闘機で.他はソ ッ ピース・ブルド ッ グ権 座戦 闘機であった 。 こ の うちスナイプは量産されたが,就役間もなく終戦 になり,残存機は 1927 年 で使われた。 ( 昭和 2 年 ) まで英空 軍 一方 ブ ルドッグ はその強力な武装を 期待 きれなが ら,終戦によりキャンセルとなり, 日の目をみる こと ができなかった。この写真の機 体は,ブルドッグ試作第 1 号機の珍しいもので. 印刷物で公開 されるのは,おそ らくこれが初めて であろう 。 後年の有名なプ リ スト ル ・ ブ ルドッグ とは,全く5; 11 な機体である 。 BR.230hp 発動機がベント リー であるほかは詳細不明 。同じ 発動機 をつけたスナイプ M k. 1 は,全幅 9. 1m. 全長 5.8 m ,総重量 917kg ,最高速度 194krrレ/ h. 定機関銃 2 挺 。 機首に固 ブ ルドッグは写 真めように,後席 の前後にも旋回機関銃を装置して い る 。 64 アルパトロス C. アÏle A /batrω C. 1915年 ( 大正 4 年 ) I 偵察機 65 / reconnai ssancep/ ane フォッカアne の夏いら い約 2 年間に わた っ て. 1918年 D.vn Fokker D.V I I ( 大正 7 年 ) 戦闘機 figん ter はじめ, ドイツ 次期 主 力戦闘機の ドイツ偵察機の中堅として活躍した傑作機の 一 つ。各種 コンペティションに合格して,第 1 次大戦末期の量産戦 の改 造型 があり.偵療のほか戦闘,爆ー撃 にも 参 加した 一 闘機となった最 高 傑作機の 一つ。戦 後も 引続 きオランダ. 種の多用途機であった。 1917年 ( 大正 6 年 ) からは,複 式操縦装置をつけた練習機と し て使われた。 150hp ,全 幅 12.9 m. /h. 全長 7. 9m ,総重量 1190kg ,最 高 速度 140km 後席に旋 回 機関銃 1 挺,乗員 2 名 。写真で ,機首 フランス.アメ リ カ,ポーラン ド , デンマーク,スウェ ー デン,スイスなどで製作され.装備発動機のちが いに よる各種の 型式 があった 。初 期のメ ル セデス D . 四 A 型 は,全 幅 8. 9m ,全長 7. O m. 160hpっき 総: 重量 850kg . 最 19 0km/ h .機首に固定機関銃 2 挺 ,乗 員 1 名。 のうえに出ているツノ状の突起物は.排気ガスが乗員を 高 速度 避 け るよう にとりつけ た 上 向 き の 集合排 気管で ある 。 本機は 多 くの撃墜 王 を生んだ が , の ち のドイツ空軍 の統 帥へ ル 7 ン・ゲー リ ングもそ の 1 人であ った。 ラ 1
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