『市民研通信』 第 32 号 通巻 178 号 2015 年 9 月 書評:『 「走る原発」エコカー:危ない水素社会』 上岡直見 著 橋本正明(市民研・会員) “ 「走る原発」エコカー”私がこの奇妙なタイトルの本に遭遇したのは、ある大型書店の大きな書架を 曲がりきった処であった。一見して人の注意を惹きつける黒と黄のコントラスト、いわゆる踏切の遮断 機の色だ。自然界ではそれは「警戒色」と言われ、他の生物にその存在と危険性を知らしめる役割を果 たす。 それにしても奇妙なタイトルだ。いや、エコカーが「走る原発」だって言われても私のここ10年来 の愛車はその代表格ともいうべきプリウスで、東日本大震災の際にはガソリン不足の中、たまたま直前 に満タンにしていたとは言え、一度も給油せずに1ヶ月にも渡る窮乏生活を共に乗り切った信頼のおけ る私の相棒である。それが原発と何の関係があると言うのだ…?そんなバカな、この著者は何を言って いるのだろう。そう思いつつ手に取ってパラパラとページを捲ってみた。行間は狭くない。大抵このよ うな本は細かい字がビッシリと詰め込まれているものだが。フム…。どうやらかなり読み易そうだ。 さて、まずはそのタイトルだが、一般的にもそれはその著者の人となりや思想の片鱗を顕し、その本 の粗筋であり、結論であることが多い。それにしても原発とエコカーとの繋がりとは何なのであろうか。 筆者はどんな意図、どんな想いを盛り込もうとしたのだろう。本の巻頭、もしくは巻末には著者のプロ フィールや経歴が記されている。この書を紐解く入口のカギはそこにあるはずだ。まずはそこを見てみ よう。筆者である上岡は技術系最高資格と位置付けられている技術士の化学部門の資格を保持し、長年 コンサルタント事業に携わり、主な著書に「交通のエコロジー」、 「乗客の書いた交通論」、 「クルマの不 経済学」がある。成程、車を切り口とする交通論に自信がある訳である。 「走る原発」エコカー――危ない水素社会 上岡直見・著 A5判/136 ページ/定価 1500 円+税 2015 年 7 月 目次などについては、 版元の「コモンズ」の以下のサイトを参照のこと http://www.commonsonline.co.jp/ecocar.html (1) 『市民研通信』 第 32 号 通巻 178 号 2015 年 9 月 交通論といえば、昨年逝去した宇沢弘文はその代表的な著書である「自動車の社会的費用」において 自動車がもたらす効用の評価のみが先行し、その社会的費用が外部化されている点を経済学的な観点か ら評価し、その解決法について考察を行ったが、上岡は仙田との共著「子供が道草できるまちづくり」 において子供たちという社会で最も弱い立場にある者たちの側に立ち、その声を吸い上げ、社会的最弱 者からの視点で外部不経済による社会的効用不平等の是正に関する考察を行うよう促すことで、より大 きな視点・視野での交通弱者というだけでなく社会的・物理的弱者たちの救済を図ろうと試みた。本書 はその更に延長上にあり、原発推進経済政策によって取り残されたり、あまつさえ福島第一原子力発電 所の事故によりその犠牲となった弱者たちへの反省や十分な補償はおろか、国民を欺くかのような政策 を今再び行わんとする国に対しての痛烈な批判とその手の内を明かそうという試みであると言える。 本書はまず小出との対談で幕を上げる。そこではテクニカルな話題から最終的に誰のための何のため の燃料電池車の普及政策なのかについて論が交わされる。それを踏まえた上で本論に入るのだが、その 前に少し私の話をさせて頂こう。 実は私も水素社会に奇妙な違和感を感じていた。それは毎年年末に開催されているエコプロダクツ展 でのことだった。例年だとPHVや最新鋭のEVなど様々なエコカーの展示と試乗が行われているのだ が、昨年は燃料電池車で世界初の市販車であるT社の燃料電池車が圧倒的な人気を誇り、私は試乗予約 時間前にも関わらず試乗のための列に並ぶことすらできなかった。 「去年まではこんなことは無かったの に、何故急に燃料電池車は国策としてクローズアップされたのだろう。単にエコであるだけならば、も っと以前から大体的に普及活動をしていても良かったはず、東京オリンピックの開催といってもあまり にインフラが無さすぎるし、わずか5年で社会に十分揃うとは思えない。裏に何かもっと別の理由が隠 されているのではないだろうか。 」 、 「それにどうやってそんなに大量の水素を供給するのだろうか。どう いうやり方であれば大量生産できるのだろう。製造方法・供給量に目星のついていないものを果たして “国策”として推進するものだろうか。 」とその時初めて私は水素社会の裏に何かが潜んでいることに思 い当たった(ちなみに未だに経産省は具体的な水素の大規模製造法についての見解は示していない。と いうより不思議なことにスッポリと抜け落ちている。つまり真に意図する物事は敢えて語られないのか も知れない) 。 だがしかし、驚くべきことに上岡は 2006 年の年末に市民科学研究会とのインタビューにおいて既にそ の疑問を呈していたのである。 上岡が挙げる高温ガス炉についての問題点には再生可能エネルギーによる電気分解法での供給量への 不安であったり、炉心に使用される黒鉛(炭素の塊、チェルノブイリの過酷事故においては炉心の暴走 の際に損害を増大させる要因となったとされている)の安定性がある。しかし、それよりももっと驚く べき問題点はその「排出物」である。 確かに燃料電池車が排出するモノは「水」でしかなく、そしてそれが故に究極のエコカーであるとさ れている。果たして本当にそうだろうか。上岡はそれさえも疑問の対象とする。一見すると水素を製造 するプラントと熱供給システムは別のものである。そして熱媒体は非常安定な元素であるヘリウムが使 用されている。この元素は稀少であるが故に大体的に工業用として利用されることは殆ど無いが、もし (2) 『市民研通信』 第 32 号 通巻 178 号 2015 年 9 月 大量に供給する事が可能となれば非常に理想的な熱媒体であるだろう。確かにヘリウム自体に落ち度は 無い。問題は水素そのもの、その物質透過性にこそあると指摘する。 それはつまり原子炉内で生成した水素が製品水素に混入してしまうことである。原子炉内で生成され た重水素や三重水素(トリチウム)が燃料電池車の「排出水」に混じって沿道へバラ撒かれる。そうす るとどうなるだろう。それは蒸発の後、都市気候に取り込まれゲリラ豪雨やエアコン室外機からの排出 水となって再び水循環のループを廻ることになる。最終的に大洋に流れ込むにしても半減期がいかに短 いにしてもその間にトリチウム水はどれだけ多くの生物やヒトに取り込まれる機会を持つのであろうか。 いかに現代が「水素水」ブームであるにしても重水素水は果たして歓迎されるのだろうか。 本書での論述はそこまで至らないものの、導き出されるものは明白である。そこには卓越した上岡の 先見性が垣間見える。図らずも遅ればせながら私も水素社会の欺瞞性に気が付きはしたが今年になって からに過ぎない。前述の「子供が道草できるまちづくり」においてもそうであったが、単に表層的な問 題を追わず、その根底に在るものを見据えて行動する姿勢こそ今の我々に必要なことであると筆者は示 唆しているというのは読み取り過ぎであろうか。 上岡は原発問題にあまり興味が無い人々に対してエコカーという素材を切り口としていかに政府が目 指す水素社会が原子力社会を導き出すかについて丁寧に分かり易く論考を展開している。それを読む者 は排出するのは水だけだという究極のエコカーとの呼び声高いはずの燃料電池車が、実は原発再稼働を 導き、水素社会と言う紛い物の衣をまとい、原子力依存社会を呼び込む呼び水となる危険性に気付かさ れて愕然とするのである。我々は筆者の呼びかけに呼応し、水素社会と言う表向きは輝かしいがその裏 側に隠された推進者たちの真の目的とその意図を汲み取らねばならない。 図らずしも原発の再稼働と安保法案の成立の画策は同時期となった。しかしこれらは偶然の一致では ない。水面下でそれらは密接と言っていい程の深い関係性を持ち、その推進如何によっては今後の日本 が「いつか来た過ちの道」を歩むか否か左右する程の大きな問題である。その一つが水素社会の創出で あり、我々はこの論考を読み解くことでそれらについての知識と見識を深め、直ちに行動を起こすこと が必要となるであろう。 そして本書にあるエコカー以外の車も例外なく「走る原発」であるという上岡の告発を念頭に置きつ つ、現在エコカーを所有していたり、これから購入を考えている方々には本書を読んでから賢明な判断 を下されることを願って止まない次第である。 (3)
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