明治40年28歳の時、兄高橋岩吉(屯田家族)の居る野 付

 明治40年28歳の時、兄高橋岩吉(屯田家族)の居る野
付牛に渡り、29歳で浄土宗の説教所(当時は観音堂と
も呼ばれた)を開き就任する。
(現明照寺前身 北見市北2条東9丁目)
当時は、木材・旅館・料理店等などが集まる野付牛では、
婦人会が盛んに設立されはじめ、質素で徳の高い尼僧と
仰ぐ人々から、尼僧の説教を聞く講もでき、ご詠歌やお経
の勉強会・念仏講の開催が盛んに執り行われるようになっ
た。
大正8年(1919年)3月、40歳の時に9坪の草庵堂(現在
は開山堂と呼ぶ)と庫裡を建立(現、信善光寺本堂裏手) ▲大正9年明照寺前で信静尼
右側父高橋甚六と撮る
し、翌年信善光寺を創建する。
大正11年大本山増上寺の道重信教台下が開山となり、
昭和4年(1929年)寺号を得、昭和8年(1933年)信善光
寺の住職を拝命する。
屯田兵人形の制作費は、米1俵9円の時代に当初は
1体50円であったが、経過は不明だが一体30円となり、
分割払いも認めていることは、尼僧の高貴さを垣間見るこ
とができる。
尼僧は、小柄な人で素足の多い時代に常に白足袋を履
き、手を胸の高さに風呂敷を抱えた姿が印象に残されて
いる。
▲屯田兵人形の下絵
原図は、明照寺所蔵
尼僧は北見・端野・相内の屯田兵入植の家を、一人で
見本の下絵を持って、屯田兵入植の家々を説得し100体
の希望者を得たかったようだが、75体にとどまる。
賛同を得た人々からは、写真をもとに当時の加藤芳明
(尼僧死後、信善光寺・明照寺二世住職)が下絵を描いた。
人形は、名古屋の玉正商会(人形師6代目玉屋庄兵衛 からくり人形師)に依頼し、昭和8年より製作者荒川宗太郎、
弟子の木場賢治によって作られたものである。
尼僧は昭和19年(1944年)2月2日に雪道を歩いている
所を馬橇に引かれる事故で亡くなり、5月17日・18日は信
善光寺ご開帳法要と先人屯田兵の追悼法要が、境内の桜
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北見市観光テキスト
▲勧募の辞に記載される人形の額