「死の体験授業」 で 大学生に伝えたかったこと

プロローグ
プロローグ
「死の体験授業」で
大学生に伝えたかったこと
私が武蔵野美術大学で「死の体験授業」を行ったのは二〇〇九年四月から
二〇一三年三月のことです。
大 学 の 担 当 者 か ら「 今 ど き の 学 生 は 健 康 に 対 し て あ ま り 注 意 を は ら い ま
せん。学生がもう少し健康や命を大切にするようになる授業を行ってもらえ
ないでしょうか」と言われたのがきっかけでした。
しかし、がんなどの終末期にいる方々へのホスピスケアにかかわってきて
いる私が食生活やたばこの害など、一般的な健康の話だけをしてもあまり意
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プロローグ
味がないと思い、私なりに考えた結果、担当者の方に「人は必ず死ぬ」とい
うことや、「人は死ぬ前にどんなことを考えるのか」
「どんな心理状態になる
のか」「死に行く人の家族の気持ちとはどういったものか」といったことを
若い学生たちに知ってもらう授業も行ってみたいと話しました。
健康や命がなぜ大切かといえば、それには限りがあるからです。
「健康や
命の大切さを訴えるとすれば、死を前提としないかぎり、その大切さを実感
することはできないのではないか」と考えたのです。
死は突然やってくることもあります。しかし、多くの場合、死ぬまでには
それなりの過程があります。この死に向かう過程で、人はいろいろ大切なも
のを少しずつ失っていきます。
それを学生に疑似体験してもらうことで、
「本当に大切なものが何か」を
考えてほしいとも思いました。
大学はこの私の提案をこころよく受け入れてくれました。そして特任教授
として、そうした授業を行うことが決まりました。授業名は「
〈からだ〉と
〈こころ〉の人間学」としました。
私が担当することになった授業には、二種類ありました。一つは、十数人
の学生に対して行うゼミ形式の授業「
〈からだ〉と〈こころ〉の人間学演習」
。
これは前期と後期共通した内容でした。
も う 一 つ が、 約 二 百 人 の 学 生 に 対 し て 大 教 室 で 行 う 講 義「
〈からだ〉と
〈 こ こ ろ 〉 の 人 間 学 」 で、 前 期 は 前 述 し た 主 に 人 の 死 に か か わ る テ ー マ を 中
心に、後期は生命倫理に関するテーマを中心に行いました。とくに前期の授
業は本書のタイトルでもありますが、ひと言でいうと「死の体験授業」と呼
べるものです。四年間で、千人以上の学生が、この授業を受けたことになり
ます。本書は前期の授業のエッセンスが中心となっています。
少人数ゼミの授業のテキストには、私が一九九〇年に書いた『病院で死ぬ
ということ』(現・文春文庫)を使うことにしました。もうかなり以前に出
版された本ですが、今も文庫となって多くの方々に読まれています。そのこ
とは表面的には変わったように見えても、実は二十年以上前も今も、終末期
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プロローグ
医療の問題はあまり変わっていないことを表していると考えています。
大人数で行う授業のうち前期の中心である「死の体験授業」については、
第三章で詳しく説明していきますが、メインとなるのは「死の体験旅行」と
いうワークショップです。これは、アメリカのあるホスピスでボランティア
大切な人、大切な物、大切な自然環境、
の研修に使われているものを参考にしたものですが、自らの「死」を疑似体
験していくという内容です。
―
を合わせて二十個あげてもらいます。
まず、自分にとって大切なもの
―
大切な活動
そのあと、静かな音楽を流しながら目をつぶり自らの体調の異変に気づく
場面、医師からがんを告知された場面、さらに少しずつ病気が進行してこの
世を去る瞬間までのプロセスを追体験していきます。
その過程で、自らがあげた大切なものを少しずつ手放していきます。そし
て、「死ぬ瞬間」にもっとも大切にしているものが一つだけ残るのです。
死を追体験することによって、人生において自分がもっとも大切にしてい
るものに気づき、また今を生きていることの大切さや喜びを実感し、命の尊
さを見直すことにもつながります。我が国でもいろいろな人が同様のワーク
ショップを行っていますが、私はこのワークショップを数多く行っているケ
アタウン小平訪問看護ステーション所長・蛭田みどりさんの助言を受けてい
ます。またワークショップを重ねるごとに学生たちの反応を見ながら私なり
に工夫、変化させましたので第三章の「死の体験旅行」は他のみなさんのも
のとは少し異なっていると思います。
死に行く人には
どのように接するべきなのか
四十年ほど前、私は大学を出て、外科医として病院に勤務しました。多く
の患者さんの死に立ち会い、死に行く人々に接するなかで、当時の医療に対
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プロローグ
して大きな矛盾を感じはじめるようになります。
医療者と家族は、死に行く人への接し方を間違っているのではないか。だ
から、患者さんはもちろん、その家族やかかわっている医師、看護師も不幸
なのではないか。そう思わざるをえなかったのです。
当時は、末期がん患者さん本人に対する「がんの告知」はタブー視されて
いました。もう治療の施しようがなく、間もなく死ぬということをまわりの
人たちは知っていても、本人には知らせず、医療者も、家族も、それを隠し
通しました。
本人が体調の変化などによって死を予感し、
「自分は死ぬんじゃないか」
うそ
と言っても、まわりは「そんなことはない」
「心配ない」
「大丈夫よくなる」
と、それを否定します。医療者と家族は、
「がんではない」と最後まで 噓を
つくのが当たり前でした。
そのため、治療をしても治る見込みがないにもかかわらず、気管切開によ
るたんの吸引や点滴による高カロリーの栄養補給などの「延命治療」が死ぬ
まで続けられることもまれではありませんでした。治らないとわかっていて
も、それを告知できない以上、私たち医療者も本人にとっては苦痛でしかな
い治療をやめることができなかったからです。
噓をつきつづける家族の精神的な負担も大きなものでした。患者さんの目
じゆばく
を見て話すことができず、病院から足が遠のいてしまう家族もいました。さ
らに、亡くなったあとも、「本当にこれでよかったのか」という呪縛から、
なかなか解き放たれることができずに苦しんでいる人も少なからずいました。
そのような状況の中、多くの末期がんの患者さんたちは、本当の病名を知
らされることもなく、治療方法を自分で選ぶこともできないまま、噓と偽り
の中で身心ともに苦しみながら最期を迎えました。こうした当時の医療への
問題提起として書き著したのが、
『病院で死ぬということ』です。
患者さんが最期を迎える終末期医療を少しでもよいものにしたい。そう考
えて私はホスピスにかかわる医師になろうと決意しました。ホスピスとは、
がんなどで治癒の見込みがなく、余命いくばくもない患者さんの苦しみを和
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プロローグ
らげ、患者さんが自分らしく人間らしく生きていくことを支える医療やケア
を専門的に行う施設のことです。
十四年にわたるホスピスの勤務を経て、現在私は在宅でのホスピスケアに
取り組んでいます。これまでの経験を通し多くの患者さんたちが「できるこ
となら最期まで家で過ごしたかった」という思いをもっていることを知って
いました。そこで、その思いにこたえようと訪問看護師やケアマネジャーな
と
どとチームを組み、患者さんの自宅に訪問して最期まで家で過ごすことがで
きるようなお手伝いを行っています。
人は死ぬとき
どのような思いを抱くのか
み
私はこれまでに、医師として二千人以上を看取りました。その体験から強
く感じるのは、人はどんな状況におかれても、自分が存在することを肯定し
たいと思っているということです。
がんをはじめとした不治の病を告げられたとき、多くの人はショックで絶
望的な気持ちになります。しかし、時間の経過とともにその現実と向き合え
るようになると、今度は、その状況の中でも、何とか生きる意味を見つけ出
そうともがきはじめるのです。その状況において自己肯定しようとするから
です。死を前にして人はどのような思いをもつのか、何を大切にしようとす
るのか、そのことを学生たちにわかってもらいたいと考えました。その一つ
として、前述した武蔵野美術大学の授業の中で「死の体験旅行」を行ったの
です。
これは実際に自分が死ぬということを仮想体験してもらい、死を目前にし
ている人の気持ちを少しでもわかってもらおうという試みです。
死に行く人の気持ちが少しでもわかれば、授業のテーマである「人は死ぬ
ときどのような思いを抱くのか」や「死に行く人にはどのように接するべき
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なのか」という問題も考えやすくなるのではないかと思ったのです。
「死」を考えることに抵抗を感じる学生もいるかもしれないと考えましたし、
つらい授業だったと感想を述べてくれた学生もいました。しかし、おおむね
この授業は好評でした。多くの学生は今まで考えたこともなかった「死」を
意識することで、逆に「生」を見つめ直すことができたのです。
本書では読者のみなさんにも、同じ体験をしていただきたいと考えていま
す。 そして、同時にこの授業や今までの経験を通して私が考えたこと、わかっ
たこと、感じたことを述べていきます。
死は誰もが迎えるものです。読者のみなさんが本書を通して「死」という
ものへの考えを深め、「死」があるからこそ輝く「生」があるのだというこ
とを確認していただければと思います。
目次
それでは「死の体験授業」を始めましょう。
死の体験授業
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「死の体験授業」で大学生に伝えたかったこと ……
プロローグ
死に行く人にはどのように接するべきなのか ……
人は死ぬときどのような思いを抱くのか ……
第一 章
生を大切にするために死を考える
死を目前にした家族にあなたは何と声をかけますか? ……
理不尽な現実への二つの対処法 ……
死に直面した人は五つのプロセスをたどる ……
途方に暮れている人を救えるのは信頼できるまわりの人々 ……
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相手の言ったことをしっかり受け止めると安心してくれる ……
生きる意味を見つける力 ……
どんな現実を前にしても希望をもつことはできる ……
死に行く人とそれを支える家族それぞれの気持ち ……
第二 章
後悔しない死を迎えるために
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十分には行われていない病名・病状告知 ……
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意味のない治療より悔いのない最期を ……
医師も患者も互いに納得して迎える最期 ……
「偽りの思いやり」から「真の思いやり」へ ……
愚痴ばかりこぼす患者がなぜ変わったのか ……
医師とは徹底的にコミュニケーションする ……
家族を救う元気なときの意思表示 ……
家族にも現実を受け入れてもらう ……
支援の必要な人は患者だけではない ……
ホスピスケアから「コミュニティケア」へ ……
死の体験旅行
‡自分にとって大切なものを二十個あげる ……
‡胃が重苦しい
― 大切なものを一つ消す ……
‡再検査をすることになる
― 大切なものを二つ消す ……
‡不安で眠れなくなる
― さらに二つ消す ……
‡家族が呼ばれる
― もう二つ消す ……
‡がんを告知される
― さらに二つ消す ……
‡学校を休学する
― 続けて二つ消す ……
― 今度は三つ消す ……
‡治療が中止される
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もし、あなたの余命が数か月だったら
第三 章
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―
‡痛みが増してくる
今度は三つ消す ……
続けて二つ消す ……
―
残ったものは? ……
‡意識が朦朧としてくる
―
感謝と謝罪があふれ出る「別れの手紙」……
‡最後のひと息
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亡くなる前にやっておくべき五つのこと ……
第四 章
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死に行く人を幸せに送り出すために
妻のあとを追うように亡くなる夫 ……
「グリーフケア」がなぜ必要か ……
体験や悲しみを分かち合う場 ……
お互いの話に笑い涙する ……
さまざまなつながりを紡ぎ出す ……
「お迎え現象」とは何か ……
家族との最期の会話も穏やかに ……
病院にはお迎えが来ない理由 ……
「臨床宗教師」という役割 ……
人は死んだらどうなるか ……
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お盆は死者を迎える行事 ……
エピローグ ……
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第一章
生を大切にするために死を考える
第一 章
生を大切にするために
死を考える
装
幀 重原 隆
企画構成 野沢一馬
編 集 坂田博史
編集協力 増山雅人
本文組版 山中 央
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第一章
生を大切にするために死を考える
死を目前にした家族に
あなたは何と声をかけますか?
武蔵美の「〈からだ〉と〈こころ〉の人間学」の最初の授業で私は、自己
紹介を兼ねてホスピスケアの取り組みについて話し、その中で末期のがん患
者さんたちが直面する状況について話したあと、学生たちに次のような質問
を投げかけます。
はいせつ
「あなたの家族が、長い闘病生活の末、思ったように体が動かせなくなって
きました。そして、決してつけたくなかったオムツで排泄をせざるをえなく
なりました。身体的にも精神的にも限界を感じはじめ、ついには『早く死に
たい』とか、『もう終わりにしたい』などと訴えるようになりました。
あなたは、この家族に対して、どんな言葉をかけますか。また、
『がんば
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第一章
生を大切にするために死を考える
って』といった励ましの言葉をかけることについて、どう思いますか」
学生たちの答えで多かったのは次のようなものです。
「『がんばって』と励ますのはちょっと違うと思う。ただ、どんな言葉をか
ければいいかは、わからない」
絶望している人を目の前にすると、
「言葉がない」というのが正直なとこ
ろでしょう。
しかし、沈黙しているわけにもいかず、安易な声かけだとわかっていなが
ら、つい、「がんばって」と言って励ましがちです。
けれども、絶望している人たちというのは、もう十分に自分なりにがんば
ってきた人たちです。がんばるだけ、がんばった末に、
「早く死にたい」
「も
う終わりにしたい」という絶望感に達してしまった人たちなのです。だから、
「がんばって」という励ましは何の力にもなりません。それどころか、あな
たにわかってほしいとつながりを求めてきた人を突き放してしまうことにも
なりかねません。
それまで普通にできていたことが、どんなにがんばっても誰かに頼らない
とできなくなる。その現実を受け止められない。気持ちのギャップを埋めら
れない。だから、こんなみじめな思いをするくらいなら死んだほうがましだ
と思ってしまうのです。
末期がんを告知されたり、余命を告げられれば、頭はまっ白になり、何を
どう考えたらいいのかわからなくなるのが普通でしょう。人は、人生の窮地
に追い込まれると思考停止してしまうものなのです。何をどう考えたらよい
のか、その考えはじめる端緒すら見つけられず、途方に暮れてしまう。そう
いうものではないでしょうか。
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第一章
生を大切にするために死を考える
理不尽な現実への二つの対処法
自分が末期がんになってしまうのも、余命を告げられるのも、不条理で理
不尽に感じられるものです。自分は何も悪いことなどしていないのに、なぜ
こんなひどい目にあわなければならないのか。いくら合理的に考えようとし
ても、現実が合理的ではないのですから答えは見つけられません。
では、不条理で理不尽な現実を目の前にしたら、どうすればいいのでしょ
うか。二つ方法があると思います。
一つは、神頼みです。
どうしても越えることのできない壁があるときには、祈るしかできないこ
ともあります。何か自分の力を超えたもの、それを神様というのなら神様に、
仏様というなら仏様に、何とかしてくださいと祈るのです。
昔から人間は、理不尽な現実を前にして途方に暮れながら、
「助けてくだ
さい」と神仏に祈ってきたのです。そして神仏のように人間を超えた大きな
ものとの出会いによって、理不尽な現実と折り合いをつけ、その状況を肯定
してきたのです。
もう一つが、内省を深めることによってその状況における自分のありよう
を肯定し生きる意味を見つけることです。
なぜ「死んでしまいたい」と絶望するかといえば、その状況における自己
肯定ができず自分の生きる意味が見つけられないからです。なぜ自分は生き
ているのか、何のために自分は生きるのか、いくら考えても答えが見つから
ない。結果、生きる目的を見失ってしまったから人生を終わりにしたいと思
うのです。
具体的にいえば、がんが進行して体が衰弱していくと、患者さんは一人で
は、トイレに行けなくなり、お風呂に入ることもできなくなります。食事を
ゆだ
とることすらままならない状況になります。
そして、排泄の後始末まで人の手に委ねざるをえなくなります。このこと
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第一章
生を大切にするために死を考える
は、本人にとってはとてもつらく、みじめで、尊厳のない状態だと考えるよ
うになります。
しかしながら、このような状況の中でも、生きる意味や目的を見つけるこ
とができれば、死にたいと思うような最悪の現実とも自分なりに折り合いを
つけることができます。
では、どうやって自分の生きる意味や目的を見つけるのか。
自分が生きる意味を見つけるために、最初にやるべきことは、つらくても
まずは現実を受け止めることです。しかし、現実を一人で受け止めることが
できる人もいれば、できない人もいます。
現実を一人で受け止めきれない人には、家族などの身近な人や医療者など、
その人にかかわりのある信頼できる人々やときには宗教者のサポートが必要
になるのです。
死に直面した人は
五つのプロセスをたどる
受け入れがたい現実を目の前にして、途方に暮れ、絶望的な気持ちになっ
てしまっているときに、サポートする立場の人は何をすればいいのでしょう
か。
私は、アメリカの精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが書いた『死
ぬ瞬間』(中公文庫)を読んで、終末期医療に対する考えを大きく改めたの
ですが、その本の中でロスは、死に直面するような病気になった人がたどる
心理のプロセスを五つの段階に分けています。
まず、①自分がそのような病気のはずがない、何かの間違いであると否認
する第一段階。
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第一章
生を大切にするために死を考える
しかし、②その現実が変えられない現実であると認識せざるをえなくなる
と、なぜ自分なのかと怒りをあらわにする第二段階。
いくら怒っても現実は変わらないと認識すると、③次に何とかならないか
と、たとえば善行を行ったり宗教をもつことでその状態を回避しようと取引
をする第三段階。
第三段階を経ても状況は何も変わらないことがわかり、④深い絶望から陥
る抑うつ状態の第四段階。
⑤深い抑うつ状態の後に、最終的に死を受け入れて受容する第五段階。
必ずしも全員が同じプロセスをたどるわけではありませんが、多くの人が
このようなプロセスを行きつ戻りつしながらも、死という最悪の現実を受け
入れることは、知っておいてよいのではないでしょうか。
何か悪いことが起こったとき、
「夢であってほしい」と思ったことはあり
ませんか。現実を疑って否定したくなる気持ちも、怒鳴り散らしたくなる気
持ちも容易に想像することができると思います。
この現実をどうにか変えられないかともがき苦しみ、万策尽きたところで
抑うつ状態になるというのも理解できるでしょう。そうしたプロセスを経て、
ようやく現実を受け入れることができるようになるのです。
サポートする人がこの五つのプロセスを知っていれば、がんを告知された
人が、そのことを受け入れられず、別の医療者の意見(セカンド・オピニオ
ン)も聞きたいと言ったとき、第一段階なのだなと理解して、すすんで一緒
にセカンド・オピニオンやサード・オピニオンを聞きに行くことができるで
しょう。
怒りの矛先が自分に向けられたとしても、言い争うようなことはせず、第
二段階なのだから、思いっきり感情を吐き出してもらおうと寛容な態度がと
れるかもしれません。
サポートする人が一緒に感情的になるのではなく、その人のつらい思いを
しっかりと受け止めてあげることができれば、もともとあった信頼関係を壊
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第一章
生を大切にするために死を考える
すことなく、さらに深くすることができます。そのつらい思いを少しずつ和
らげることができるかもしれません。
どうしていいかわからず途方に暮れている人が「何でもするから治してく
れ」と取引しようと神頼みするのも理解できますし、抑うつ状態になってし
まったとしても、それをネガティブにとらえるのではなく、サポートする人
が「理不尽な現実を受け入れるプロセスなのだ」と考えられれば、寄り添い
つづけることができるのではないでしょうか。
途方に暮れている人を救えるのは
信頼できるまわりの人々
途方に暮れている人をサポートするためには、コミュニケーションは欠か
せません。
どのようなコミュニケーションをとればいいのか。授業では、二つのゲー
ム を 学 生 に や っ て も ら い ま し た。 こ の ゲ ー ム は 我 が 国 で も っ と も 古 く か ら
「死」の問題に取り組んでいる「日本死の臨床研究会」の教育研修委員会が
行っているワークショップ「死の臨床とコミュニケーション」で行われてい
るものを参考にしたものです。
一つが「肩たたきゲーム」です。まず二人一組になり、じゃんけんをして
どちらが先に肩たたきを行うか決め、相手に対して片方の人が三種類の肩た
たきを三十秒ずつ、合計一分半行います。
最初は、相手の肩を、ただ義務的に無言でたたきます。
次に、相手とは一切言葉を交わさずに、しかし、心を込めて「こうたたけ
ば相手は気持ちがいいだろうな」と思う肩のたたき方をします。
最後は、「強さはこれぐらいでいいですか」
「もう少し強く」とか、
「どこ
をたたくのが気持ちいいですか」
「もう少し下のほう」などと相手と会話を
しながら、心を込めて肩をたたくのです。
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第一章
生を大切にするために死を考える
人間は
「生きる意味や目的」がないと
生きていけない
終わったら、たたく人とたたかれる人が交代して、もう一度やります。こ
れだけです。
ゲーム後、学生に感想を聞くと、大半はこう答えました。
「話もせずに適当にたたかれたときは、時間が長く感じられ不快で早くやめ
てほしかった。次にやさしくたたかれると気持ちがよくなってきた。最後に、
どこをどのようにたたいたら気持ちいいのかと、お互いの思いを確認しなが
らたたかれたときは、時間が短く感じられ、もっと長くたたいてほしいと思
った」
①相手のことを思い、心を込めてたたくこと。②さらにお互いの思いを確
認しながらそれを行うこと。この二つがコミュニケーションにおいて大事で
あることを、学生には身をもって実感してもらいました。
もう一つが、「沈黙のゲーム」です。これも二人一組になり、お互いに向
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