名県令・楫取素彦(7)養蚕技術、全国へ伝える 新井領一郎の次は森山芳平である。芳平は安政元年(一八五四)山田郡今泉村(桐生市) に生まれた。十五歳になると父・芳右衛門から織物技術の指導を受けた。桐生織物もこれ までの草木染めから近代染色に改良しなければならないと染色法の研究を志した。しかし、 当時、近代染色を教える機関などはなかった。 そこで、森山芳平が目を付けたのが、楫取県令の肝煎りで 明治九年(一八七六)、県庁前 に開校した群馬県医学校であった。同校には小山健三という理化学の教師がいた。小山か ら化学染色術を学ぼうとした。そこで、楫取県令から聴講生として入学を許可してもらい、 桐生―前橋間九里(三十三㌔)の道のりを、毎週土曜日ごとに通った。 芳平の優れた織物技術とデザインの斬新さは、明治十六年アムステルダム万国博覧会で 一等賞金牌を受賞し、世界的に証明された。同二十一年皇居御用品の窓掛け(カーテン) 地の調達を命ぜられ、アメリカから鉄製ジャガードを購入し、横山嘉兵衛らと機織の改良 も進めた。 明治二十六年(一八九三)に開かれたコロンブス世界博覧会(アメリカ)に日本代表と は な く さ ず た く ひ して大作「花卉図卓被 」 (テーブルクロス)を出品し、海外に桐生織物の声価を広めた。大 正天皇の即位式に桐生織物同業組合から献上した紋琥珀洋服地も芳平の織ったものであっ た。 芳平の経営する森山工場には全国から門下生が集まった。その結果、福井・山形・埼玉・ 福島の各県で「輸出羽二重」生産が発展し、福井県が日本一の「羽二重」生産県になった。 豪雪地帯で湿気のある福井県の方が群馬県より羽二重生産に適していた。 芳平は開発した「羽二重織」の技術を秘密にすることなく教えた。桐生市の織物業者や 地域史研究者たちは、どうして芳平がせっかく開発した技術を惜しげもなく県外へ伝えた のか疑問に思っていた。筆者も「群馬県人はお人よし」と思っていたが、楫取素彦没後百 年にあたり、改めて楫取県令について調べてみると、これも楫取県令の影響であることを 発見した。 楫取には『耕堂楫取男爵傳記』という草稿がある(楫取能彦氏所蔵)。その中に、楫取県 令は群馬県内の蚕種・養蚕・製糸・織物各分野の指導者を歴訪し、研究を奨励して群馬県 を日本一の養蚕県とし、さらにその技術を全国に広め、群馬県の名声(知名度)を上げよ うとしたと書いてある。森山ら桐生織物の先人らも、楫取県令の方針に従って先端技術を 全国に伝えたのであった。
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