『住吉大社神代記』の神領記述の歴史性

高
橋
明
裕
筆者のプロフィール
たかはしあきひろ。一九六五年生まれ。立命館大学非常勤講師。
『古事記』『日本書紀』の批判をもとに古代国家史を研究している。
『播磨国風土記』を素材とした古代地域史にも取り組む。共著に『神
戸・阪神間の古代史』(神戸新聞総合出版センター、二〇一一年)、
最近の論考に「『播磨国風土記』にみる六―七世紀、播磨の地域社
会構造」(『歴史科学』二二〇号・二二一号合併号)などがある。本
誌 第 二 九 巻 第 三 号( 通 巻 八 七 号 ) 掲 載 の 論 文「 古 代 の 猪 名 地 方 に
おける猪名部と猪名県」、
『図説尼崎の歴史』(尼崎市、二〇〇七年)
上巻古代編に「大和王権と猪名川流域」などを執筆している。
『住吉大社神代記』の神領記述の歴史性
目 次
一、『住吉大社神代記』の撰述年代をめぐって
二、『神代記』における神領の由緒の語り
三、神領の領有形態
四、宗教的聖地の排他的占有
五、住吉大神信仰の展開と住吉社領荘園
六、総括、及び住吉大神の歌神化と部類神
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No.115, Oct.,2015
一、『住吉大社神代記』の撰述年代をめぐって
従来の研究において、『住吉大社神代記』(以下、『神代記』)の撰述について何が論じられてきたかを確認しておき
たい。
(1)
『神代記』の本文校訂と注釈を広く公にした田中卓氏は奥書にある天平三年 (七三一)撰であることを認め、現存本
を太政官に提出した原本を書写したものを延暦八年 (七八九)に再書写したものとした。用字・用語などについても
齟齬がなく、その神領は記述の通り広大な領域を占めているとする。
(2)
それに対して、西宮一民氏は仮名遣い、甲音・乙音の使い分けの正確さを検証し、現存本は天平三年の原本ではな
く、天暦年間 (九四七~九五七)から長保年間 (九九九~一〇〇四)の間の時期、つまり一〇世紀後半から一一世紀初頭
の時期に書かれたものと判定した。
坂本太郎氏は職判や用字への疑い、『日本書紀』の引用・抄録の態度が杜撰、誤解にあふれていることなどから現
存本が官に提出された解文としては考えられないことを論じ、さらに撰述の動機について、神財の管理に落度があり
(3)
かつて神主を解任された津守氏が元慶三年 (八七九)に神財帳の作成を義務づけられたことを契機に造作したものと
した。九世紀後半の元慶年間以降の造作説である。
、文書としての形式などの外形的面からそ
このように『神代記』については、その仮名遣い、語彙 (漢風諡号など)
の成立が論じられてきた。内容からは、これが住吉社の立場からの主張である点に鑑みつつ、『日本書紀』の記述を
ほぼ踏襲しながら独自の主張をしている点をめぐって、粗雑な牽強付会と見る立場と、記紀及び風土記などを補う古
Chiikishi Kenkyu
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文献としての可能性を探る立場を併存させながら、この史料を論じてきたといえよう。それは現存本がいつ書写され
(4)
たものなのか、という問題と、「書かれた」というのは後世に創作されたものなのか、撰録の時点で古資料を採録し
た上で「書かれた」ものなのか。現存本の書写と、原本が存在としたとしてその筆録の態度をどう見るかによって、
牽強付会との評価と貴重な古文献との評価の両極の間に『神代記』の史料的評価を置いてきたのである。
史学的研究が上述のような状況にあるのに対し、古代文学研究からは『神代記』を神社の縁起と見て、神の由緒を
(5)
語っていることをまず前提においた『神代記』評価が提出されている。
従来、神領記載が具体的であることから、社領の現地比定の作業が積み重ねられて来ており、地名を比定すること
によって神領の広がりを単に確認する結果となっている論考も少なくない。しかし、歴史的に検証されるべきは神領
支配の事実性とその内実、歴史的性格であろう。神領記載にみる土地支配、土地の占有・領有の在りよう、または土
地支配観を明らかにすることによって『神代記』の主張の歴史性も明らかにしうるのではないか。
二、『神代記』における神領の由緒の語り
『神代記』が主張する神領たることの由緒・神話の特徴について考察する。『神代記』における住吉大社、つまり住
み た
のさき
なじおのち
みくりや
吉大神の神領たる封戸、山河、御田 (神田)
、船瀬、杣山・河、荷前・浜・魚塩地、御厨・島々等は、歴代天皇から
「奉寄」(寄進)されたものと、それ以外とに大きく分けることができる。後者は豪族などによって寄進されたとする
もので、その多くはかつて船木連氏の遠祖が領有していたものを大神に寄進したとする「船木等本記」の記述に依拠
している。
かつて西岡虎之助は「船木等本記」に見る船木連氏の杣山領有を観念的領知形態と規定し、荘園制の展開はこの観
4
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(6)
念的領知形態の否定によって進展するものとした。これを受けて戸田芳実は律令制段階から初期中世にかけての山野
(7)
領有を論じた際に、九世紀に展開する国家的山野領有と対立する形で船木連氏のような土豪的山野領有が潜在してい
たと述べた。近年、笹川尚紀氏は「船木等本記」を検討して、『神代記』が引用するそれは播磨の船木氏の所伝、住
(8)
吉社の祭祀に関わった船木氏の古系譜及び津守氏の伝承などから構成され、とりわけ魚住など播磨の船木氏との関わ
りが濃厚であることを指摘した。「船木等本記」にみる杣山領有を土豪的山野領有と規定しうるか否かについては慎
重な検討が必要である。土豪的領有を措定するにしても、明石郡魚次浜を『神代記』は天皇によって寄進された浜と
くまそ
して由緒を語っているように、一端は『神代記』が神領の由緒・神話を語るその語り口の特徴をまずは分析しておく
ことが必要である。
一
二
一
二
一
レ
いしかわのにしごりのころし
襲・新羅国の征討や天下の豊穣を保障する「大神本誓」を伴うものがある。
天皇による大神への寄進に際して、熊
明石郡の御封に続く石川錦織許呂志に預けられた山河について、大神が「我田我山、潔淨水、錦織・石川・針魚川余
二
里令 引漑 、以榊黒木、能斎 祀
- 吾 。有 覬覦謀 時、如 斯斎」と詔したとされる。石川錦織許呂志の山の四至は錦織
川・石川・針魚川によって灌漑される広大な地域に相当し、大神の「我田・我山」に浄き水を灌漑しこれを神聖に
つ ち ぐ も
や
そ
た
け
る
くるき
どもう
祭祀することが国家の安泰の保障となることを主張している。「山河奉寄本記」からの引用と目される「丙申年二月
どさん
丙申」の記事においても、「山門県」及び大八島全土における土蜘蛛・八十梟魁帥を誅伏した際、浄き黒木や土毛・
土産をもって自らを「斎祀」るならば「奉護夜、天下国家、同平安守護」と国家の安泰を保障することを大神が「詔
宣」している。そこには「大国者天皇任御意、大山者任己意」という文言も見られ、天皇による国家統治は大神へ山
河を寄進することによって保障される旨が宣言されている。
咫烏が点定したとされる土地々々が書き上げられ、神領たることの「後代験」となる「石壺」や
やたがらす
それに続いて八
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「杖立」、地名起源などが列挙される。大神はその地の内にある吉野萱野沼・智原萱野沼、天野水を水源とする「溝
二
一
二
一
二
一
谷」(溝)を掘らせたとあり、その際の大神の誓約が「以我溝水令 引漑 、我田潤、其獲 得
- 稲実 、(中略)得 其穎 、
二
一
二
一
レ
二
一
レ
二
一
充 春秋相嘗祭料 。天下君民作佃、同令 引漑 、其田実我田実如 同、有 谷谷 水、従 源颯颯、決 下
- 全国 」というも
(9)
のであった。これについて、大神の御田=神田は共同体の農作を支える象徴的な特別な田地であると規定したうえ
で、「御田」の象徴的性格が国家的規模にまで拡大された観念とみる向きもある。確かに大神の御田を神聖で清浄な
水で灌漑されるべきことが説かれているが、「山河奉寄本記」を引く形での『神代記』の主眼は、国家の農の保障は
住吉大神への祭祀とその神領に依拠するとの主張である。
下鈴鹿・上豊浦・下豊浦「四処郊原四万頃之田」について、『神代記』はこの大溝は大神が掘らせたものとする。『日
、つまり古市大溝によって灌漑される上鈴鹿・
『日本書紀』仁徳十四年条の「感玖の大溝」(『神代記』では「紺口溝」)
本書紀』の認識では仁徳朝前後に池の造営、茨田屯倉設定などが集中しており、いわゆる前期ミヤケとされる一連の
開発記事であるが、その嚆矢は崇神六十二年条のいわゆる狭山池と依網池の記事である。ここには「農天下之大本
レ
レ
(
(
也。民所 恃以 生也」と『漢書』文帝紀が引かれ、天下の農の基盤が崇神天皇から仁徳天皇の治世に築かれたという
のが『日本書紀』の歴史認識である。
『神代記』はその『日本書紀』の前期ミヤケ記事を換骨奪胎する形で、石川錦織許呂志が預となった山々の四至に
錦織、石川、上鈴鹿・下鈴鹿、狭山、倭川などの地名を巧みに織り込むことで、崇神朝から仁徳朝にかけられている
開発地域、つまり狭山池・依網池、茨田屯倉、古市大溝などによる灌漑・治水をすべて大神のなせる業として説明す
るのである。これらによる天下の豊穣こそが大神の「本願」であるとし、神領である山河・御田の本縁譚として石
川・針魚川からの引水を位置づける。天皇の国土統治と天下の豊穣は、大神の御田を灌漑することによってこそ保障
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されるというのが『神代記』が主張する論理である。『神代記』の山河・御田の由緒にかつての共同体的神田、神聖
な神田の性格を読み取ることは転倒した読解ではなかろうか。
な お、『 神 代 記 』 本 文 は『 日 本 書 紀 』 神 功 皇 后 摂 政 元 年 条 の 住 吉 大 社 鎮 座 伝 承 部 分 に 二 四 行 分 の 記 事 を 挿 入 し て
たもみのすくね
い る。 そ れ は 津 守 氏 の 遠 祖・ 手 揉 足 尼 を し て 住 吉 大 社 を 奉 斎 す る 神 主 と し た こ と、 そ の 際、 住 吉 大 神 の 鎮 座 地・
ぬなくらのながおかのたまでのを
レ
二
渟名椋長岡玉出峡の地を領していた手揉足尼に替地を賜うところを手揉足尼が返上したので、大神が「若雖 有 手
一
レ
レ
二
一
揉足尼等子孫過罪 、不 被 為 見決 」と宣し、この勅旨を誤ることがあれば天下国家に災いが生じることを盟約し
いこまのかんなびやま
た と い う も の で あ る。 ま た 神 功 皇 后 が 供 料 と し て「 御 手 物 」 の ほ か 魚 塩 地 を 奉 寄 し、 大 神 が 錦 織・ 石 川 と と も に
胆駒甘南備山等からの供物と荷前・錦刀島の物をもって斎祀ることを要求した。この部分は元来の住吉大神鎮座伝承
に対して『神代記』撰述の動機にかかわる津守氏の政治的要求を付加したものであり、大神祭祀にまつわる魚塩地、
荷前の地を神領と主張することを主眼とし、本来的な鎮座伝承にはなかった部分である。胆駒甘南備山、石川錦織許
呂志の山河とも密接になっている。
以上、『神代記』における神領たることの由緒・縁起の語りの特徴は、天下の豊穣を「本願」とし熊襲・新羅国の
征討など対外的統治行為をも保障する住吉大神に対して、神話的な存在である天皇たち (垂仁・仲哀天皇、神功皇后ら)
が神領を寄せ奉り、神聖な祭祀を行ってきた (そのための荷前料を保障する)という点にある。
天皇による大神への神領寄進は、大神の「本願」が発端となっている。大神による「本願」とは八世紀以降に見え
る「勅施入」とも異なる論理であると同時に、天皇の「本願」ではなく、神の「本願」とする点は、杣のテリトリー
(
(
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拡大・荘園化にあたって聖武天皇らによる「本願勅施入文」を後に偽作した東大寺領黒田荘、及び根幹寺領を「本願
施入田畠」と称して不輸免を獲得した興福寺領などとも異なる論理構造をとる。しかし、『神代記』の場合における
(1
大神の「本願」→天皇の寄進による神領の形成と、天皇の「本願」文言 (一一世紀に偽作した例)→勅施入 (八世紀に実
例がある)→寺領荘園の特権化 (一一世紀の不輸免獲得)という論理は似た性格をもつ。
『神代記』には「後代験」「石壺」「杖立」などテリトリーの明示を窺わせる文言が見えるものの、公験等を挙げて
国庁・太政官に領有を認めさせようとする荘園制的な要素が見えないことも特徴である。神領の主張は、一一世紀初
頭以降に進展する寺社領の荘園化とは異なる論理といえる。
社領の進展は神封、神田が荘園化したり、御厨・御薗が社領荘園化するのが一般である。住吉社領は八世紀に神郡
を形成した伊勢・鹿島・香取・安房・出雲・紀伊名草 (日前・国懸)
・宗形とも異なる展開をし、また多くの社領荘園
を形成した伊勢・石清水・賀茂、それに春日社とも異なっているのである。
、船瀬、杣山・河、荷前・浜・魚塩地、御厨、島々等が列記され
『神代記』には神領たる封戸、山河、御田 (神田)
ているが、それらが荘園であることを主張しているのではなく、神話的天皇ないし豪族から寄進されて以来の神領で
あり、供神料の地であると主張している。なぜなら、『神代記』は大宝二年に定めた「神代記」を天平三年に解し申
し、延暦八年に郡判・職判を得たという古態をとっているからであって、荘園制的要素が見えないのは当然ではあ
る。しかし、神領の由緒を大神の「本願」と太古の昔の天皇たちによって寄進されたと主張するような神話的世界観
そのものを歴史的に相対化し、そうした神領認識が歴史的にどのように形成されたのかが問われなければならないで
あろう。
三、神領の領有形態
それでは『神代記』が主張する神領の領有形態はどのようなものであり、その歴史性はどのように評価しうるであ
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ろうか。
『神代記』では神封 (神戸)については「烟」数と田積数 (「代」ないし町・段・歩)記載、「御田」・神田については
同じく田積数 (「代」ないし町・段・歩)が記載されるが、それ以外の神領については四至が記載されている。『神代記』
が奥書の通り大宝二年作成、解文としての成立が天平三年と延暦八年だとすると同時期に神領・寺領を記述した『皇
大神宮儀式帳』(延暦二三年の解、以下『儀式帳』と記す)
、『法隆寺伽藍縁起流記資財帳』(天平一九年、以下、『資財帳』と
記す)と比較してみることが参考となる。
『儀式帳』は「御坐地」を「伊鈴河上之大山中」とし、四至を載せる。それは「山遠這 (遥ヵ)阻廻。又近南西北
河廻」と五十鈴川の源流の深山幽谷であることを表すに過ぎない。さらに「神堺」として東西南北の四至を挙げ、山
名を列挙して「山堺」、島名を列挙して「海堺」としている。西限については伊勢国飯高下樋小川をもって「神之遠
堺 」、 飯 野 郡 礒 部 河 を も っ て「 神 之 近 堺 」 と し て お り、 具 体 的 な 山 々 と 河 川 に よ っ て「 神 堺 」 を 遠 近 で 表 示 し て い
る。伊勢神宮の神領は律令制下では神郡とされているので、神領の四至は郡境となる自然地形を示せば事足りるので
あり、北限については「海限」とするのみである。神嘗祭に供奉するために度会郡の百姓が進める雑御贄は、志摩国
と伊勢国の「神堺島村々」で魚介類を採取するとあり、採取地は「神堺」の島々、村々とあるだけである。これらの
採取地は延長六 (九二八)年を初見とする神宮領御厨の前身と考えられ、元来、御厨は贄人の居住地に過ぎず土地支
配は別個であったのを、それが四至を画定した荘園化していくのは延久の荘園整理令以降である。
『儀式帳』よりやや時期が早いが
伊勢神宮領は神郡なので、住吉社領と直接比較する上では条件が違う面がある。
八世紀中頃に寺院の資財帳が作成されている。そのなかの『資財帳』では、寺田・陸地 (薗地)は町・段・歩ないし
代による田積記載、寺封は所在郡郷と個数が記載される。このほかの寺領に「山林丘嶋等」「海」がある。「山」「丘」
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の四至
限 北
神領となった由来と特性
住道郷
住道郷
大坂・音穂野公田・ 垂仁天皇が大神の願いにより奉寄。「我が田、山に潔浄き水を錦織・
陀那波多乃男神女 石川・針魚川よりひいて榊黒木を以て我を祀れ。覬覦ある時はかく
神・吾嬬坂・川合・ の如く斎れ」と石川錦織許呂志に預ける。
狭山・槙田・大村・
斑・熊野谷
玉 井・ 倭 川・ 比 太
岑道
饒速日山
大神の本誓(石船の永遠性)により、垂仁・仲哀天皇が奉寄
川岸
堺大路
川辺郡公田
大神が教えて造る
「昔」;神功皇后が奉寄。
「元」;山に住む土蛛を軍大神が征伐し杣地として領掌。
公田併羽束国堺 上に同じ
浜は神功皇后が奉寄。三韓の調貢を吾君川より運漕した。
公田
公田
神功皇后の御世、熊襲討伐の際に(大神が)神の集いに遅れる。
(神功皇后が?)神の集うことを祈り、この浜を奉寄。
阿知万西峯・堀越・ 舟木連の遠祖がその領地を神功皇后の御世に大神に奉寄、造宮料
栗造・瀧河・粟作・ に。乙丑年に国宰頭が大神の御跡を尋ね(再度)奉寄。舟木連が神
子奈位
山を斎護、公民が闖入したため祟り、重ねて旧跡の四至を定め奉寄。
大路
大路
は 箇 所 数 (「 地 」)と 具 体
的な四至が記載され、例
えば河内国の「深日松尾
山壱地」、「摂津国雄伴郡
宇治郷宇奈五丘壱地」は
東西南北それぞれの峰・
路・谷・野の固有地名を
挙 げ る。 山・ 丘 は「 一
地」ごとに列記され、周
辺地形から明瞭に区別し
うる地形なのであろう。
「大和国三地」のなかに
は四至の地標として墓・
坂路・栗林・百姓家・百
姓田が挙げられている。
播磨国印南郡から飾磨郡
にかけて存在する「嶋林
十六地」は四至ではな
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垂仁・神功皇后の時に大神を鎮め祀る→神意により(皇后カ)神地
奉定。津守遠祖仕奉。
神功皇后が奉饗時に浜を奉定。皇后が誓約「寄せ奉る吾が山・河・
海種種物等、もし妨誤の人あらば天地の災い、天下凶乱れむ」
10
『神代記』
限 東
限 南
限 西
□ ( 駅カ ) 道
墨江
海棹及限
駅路
朴津水門
海棹及限
大和国季道・葛木 木伊国伊都県道側、河内泉上鈴鹿・下
高小道・忍海刀自 併せて大河
鈴 鹿・ 雄 浜・ 日 禰
家・宇智道
野公田・志努田公
田・三輪里道
地 目
忌垣内
境内
石川錦織許呂志の山
八咫烏の峰
倭岑
胆駒神南備山
美曾道・竹川
胆駒川・龍田公田 賀志支利坂・山門 母木里公田・鳥坂
川・ 白 木 坂・ 江 比
須墓
高瀬・大庭
大江
鞆淵
大路
神崎
海棹及限
能勢国公田
我孫併公田
為奈河・公田
長瀬船瀬
開口水門姫神社
豊島郡城辺山
川辺郡為奈山(坂根山)
為奈川併公田
荷前・幣帛浜
荷前一処;料戸島
山より錦刀島の南
まで。
荷前一処;宇治川
より針間の宇刀川
まで。
幣帛浜;三国川の
尻より吾君川の尻
に至る難波浦。
荷前・幣帛浜の姫神社
頭無江
神前審神浜
江尻
播磨国賀茂郡椅鹿山
公田
御子代国堺山
海
川
郡堺
為奈河
阿知万西岑・心坂・ 奈 波・ 加 佐・ 小 童
油 位・ 比 介 坂・ 阿 寺・ 五 山 大 路・ 布
井大路・布久呂布 久呂布山登跡
山
大久保尻限
海棹及際
明石郡魚次浜
賀胡郡阿閉津浜
余郷
猪 子 坂・ 牛 屋 坂・
辛国太乎利・須須
保 利 道・ 多 可・ 木
庭・乎布埼
歌見江尻限
海棹及
大湖尻
り
Chiikishi Kenkyu
を
く「 … 山 」「 … 乎 利 」 な
どと個別に列記される。
さらに「海弐渚」を領有
し て い た と し、 こ れ は
「在播磨国印南郡与飾磨
郡間」という。『儀式帳』
の「神堺島村々」と共通
する海浜の領有形態とし
て注目される。
以上を『神代記』と比
較 す る と、 封 戸、 神 田
( 御 田 )の 領 有 形 態 に は
相 異 点 は な い が、 山 河、
荷前・浜についてはその
四至記載に差異が認めら
れ る。『 儀 式 帳 』 の 場 合
は郡堺となる自然地形に
よって四至が示されると
11
公田
ともに、「神之遠堺」「神之近堺」と表現されるように帯状の広がりをもった神堺であった。『資財帳』は山林丘嶋を
「一地」ごとに数え挙げ、その四至は周辺地形から明瞭に区別しうる自然地形で示される場合と、墓・坂路・栗林・
百姓家・百姓田など詳細な土地標目の場合がある。『資財帳』は『神代記』が石川錦織許呂志の山や播磨国賀茂郡椅
鹿山についてその四至を坂・道・公田・家・村などの小地名まで挙げていることと似通っているが、法隆寺のそれは
「一地」ごとに指し示される山林丘嶋が墓・坂路・栗林・百姓家・百姓田などに景観的にも囲まれていたものと考え
られる。『神代記』が広大な神領を明示すべく長い稜線上に多くの地目を挙げていることとは相当な違いがある。
『儀式帳』『資財帳』と比較してその領有形態が大きく異なり、記載内容の歴史的段階を考察する手がかりになり
あ へ つ
なつぎ
そうなのは『神代記』の浜・荷前である。賀胡郡阿閉津浜と明石郡魚次浜の四至記載は『資財帳』『儀式帳』が示す
八~九世紀段階の海浜の領有と顕著な違いがある。『資財帳』に見る法隆寺領の海浜は「海弐渚」とあり、隣接する
「播磨国印南郡与飾磨郡間」の間の海浜に二箇所存在したらしい。「渚」と表記された法隆寺が領有する「海」は漁業
や製塩に用益された浜であった。八~九世紀段階の浜の領有は『儀式帳』にあるように神宮に雑御贄を供奉する海浜
の「百姓」つまり漁民らが住む「神堺島村々」こそが浜・渚の実態であったであろう。浜は一定のテリトリーを有す
(
(
るため、九世紀末の貞観寺領備後国深津荘では「浜六町」と町単位で面積が把握されるが、それは深津荘九五町のう
ち山が八九町を占めているうちの一部分であったに過ぎない。『神代記』の賀胡郡阿閉津浜・明石郡魚次浜のように
浜を四至で画する事例が増えて来るのは一一世紀前半である。
そうした中で比較的早い四至記載を有し、住吉神領と同じく供神料採取地としての浜を神領とする事例に延喜二二
年 (九二二)の「和泉国大鳥神社流記帳」がある。「四季御贄料」を採取する「浜二浦」が挙げられ、そのうちの「高
磯浦」には「限東公田、限南日下刀堺、限西海、限北小溝」と四至が画されている。この事例は和泉国大鳥郡の高脚
12
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(1
(
(
海との関連で論じられる場合がある。和泉の高脚海は飛鳥浄御原令制が施行される直前の持統三年 (六八九)に禁漁
区とされた。同時に摂津の武庫海「一千歩内」も禁漁区とされたことから、高脚海も四至や距離で画されるような一
定の範囲が指定されたと思われる。海浜の領有形態から見て、一〇世紀初頭において「高磯浦」の四至は「限西海」
とあって、西に広がる高脚海の地先の水面は浦の領域には入っていないことが確認できる。これ以前の浜のテリト
リーを示す町段歩記載においても地先の水面は漁労の用益上には含んだであろうと想定されるが領域的には含まれて
いない。
これに対して『神代記』の神領においては、海浜に接する四至記載に本社境内二箇所を含めて開口水門姫神社境
内、明石郡魚次浜、賀胡郡阿閉津浜の五箇所に「海棹及限」とある。棹・杵 (カシ)とは水深の浅い場所で利用する
(
(
船具、及び港湾施設としての河岸のことで、四至記載において「棹立」「海棹立」などと表記される。棹立の水深の
て
調を運んだことに由来するとされる「荷前」二箇所及び「幣帛浜」は、それぞれ一箇所が料戸島山より錦刀島の南ま
一方、『神代記』には大神への荷前としての幣帛浜も神領として挙げられている。朝鮮半島の三韓より貢上された
み
『神代記』が主張する神領の海水域の領有形態が中世の荘園制的な領有に近く、少なくとも他の文献上先駆的な表
現であることに注意したい。
ようになったことを意味している。
などの語が庄園関係文書の四至記載に見えるようになることは、海民の共同体的労働の水域が荘園制的に編成される
起」、保延三年 (一一三七)の「待賢門院庁下文案」などであり、鎌倉期以降、更に事例が増える。「棹立」「海棹立」
が四至記載に見えるようになるのは、『住吉大社神代記』を早い例として、一一世紀半ば編纂と見られる「薗城寺縁
水域は磯場、藻場、船揚などの作業場として使用される、海民の労働対象の場であるという。「棹立」「海棹立」の語
(1
Chiikishi Kenkyu
13
(1
う
づ
あ
ぎ
で、もう一処が宇治川より針間の宇刀川までの浜を指すらしく、「幣帛浜」が三国川の尻より吾君川の尻に至る難波
浦だという。二つの河川河口部を指して二地点の間の海浜を表示している。これは『神代記』には「周沙麼芳魚塩地
領本縁」の項として見える、『日本書紀』では仲哀天皇による熊襲平定の部分、仲哀天皇八年条に周防沙麼浦を「魚
みはこ
みなべ
二
一
二
一
二
一
二
一
塩地」として岡県主より天皇に献上された箇所に類似している。「自 穴門 至 向津大済 為 東門 、以 名籠屋大済 為
一
二
一
二
一
二
一
二
一
西門 。限 没利嶋・阿閉嶋 為御筥、割柴嶋為 御甌 、以 逆見海 為 塩地 」とあり、大分県宇佐の東南の港津から福岡
(
(
県北九州市の港津まで、山口県下関沖合いの島嶼部、福岡県洞海湾内、北九州市若松区の海上という広大な水域・海
浜を天皇への供御のための「魚塩地」としている。
あぎのわたり
二
大神の荷前・幣帛浜の地は料戸島山・錦刀島については不明だが、「宇治川」は神戸市内の宇治川、「針間宇刀川」
は『播磨国風土記』揖保郡条に「宇頭川」と見える揖保川を指す。「幣帛浜」の「三国川尻」は現・神崎川の当時の
河口部、「吾君川尻」は、やはり『播磨国風土記』賀古郡条において、景行天皇が渡った摂津の高瀬済を「朕君済」
と呼んだことに因む淀川河口 (かつての中津川)のことらしく、淀川諸流の河口部一帯を「難波浦」と呼んでいる。難
波浦一帯及び神戸市内から揖保川河口までを荷前の地と主張している『神代記』のこの部分の記述は、『播磨国風土
記』を前提にしている点が濃厚であるとともに、『日本書紀』の「魚塩地」と同様に二地点間を指す形でかなり広大
な海浜・海域を神領と主張している。これは天皇から大神に献上された供御の地を神話的に語ったものであり、同じ
『神代記』でも賀胡郡阿閉津浜、明石郡魚次浜の領有形態とは異質である。宇治川より針間の宇刀川までの荷前浜は
明らかに阿閉津浜、魚次浜と重複するはずであり、二地点によって区切られる荷前・幣帛浜と、東西南北の四至を有
する海浜とは相互に排他的とはならない領有であることを意味している。排他的というよりも前者については石川錦
織許呂志の山々、胆駒神南備山等とともに榊黒木等の清浄な供物を以て大神を祭祀することが天皇の統治を保障する
14
No.115, Oct.,2015
(1
との文言に重点があり、神領としての由緒の相異が認められよう。
『神代記』の神領に関する記述・由来譚においては、供御料ゆえの神聖性を保障することは求められても、伐採・
そま
採取、用水権、交通の排除など排他的領有に関する記述は一例を除いて見られない。豊島郡城辺山条には、杣山とし
て神功皇后によって寄進されたのち、土蛛がこの山で人民を「略盗」したため「軍大神」たる住吉大神がこれを誅伐
し、改めて「吾杣地」として領掌したことが語られるが、あくまで神話的な由緒であって排他的領有の実質を示すも
のとは見做せない。同じく為奈河・木津河条において、神威によって今に至るまで「不浄物」をこの川に入れないこ
とが語られるのみである。
排他的領有を記す『神代記』中の唯一の記述が播磨国賀茂郡椅鹿山に関する記述で、船木連が斎き護る御神山に公
民が闖入したため、大神が祟って山を焼亡し、その後重ねて「宰頭伎田臣麻、助道守臣壱夫、御目代大伴濯田連麻呂
等」が旧跡の四至を定め寄せ奉ったというものである。恐らく「船木等本記」に拠った記述と考えられ、「乙丑年」
の出来事と伝える。播磨国司「道守臣」は『播磨国風土記』に近江朝に「此国之宰」だったとあり、三等官制と思し
き官制と併せて「乙丑年」は天智四年 (六六五)の可能性がある。
それでは神領ゆえに一般農民の用益や居住をも排除する排他的領有がなされた段階とは歴史的にどのような段階で
あろうか。神領の領有形態を一般的に俯瞰してみたい。
四、宗教的聖地の排他的占有
律令制施行当初の段階においては、広域にわたる排他的独占は雑令の山河藪沢の「公私共利」原則によって排除さ
れていた。その起点は山川藪沢に関する太政官符が繰り返し挙げる「乙亥年」、つまり天武四年 (六七五)に部曲廃止
Chiikishi Kenkyu
15
とセットで行われた有勢者の「所賜山沢嶋浦、林野陂池」の収公 (「前後並除焉」)である。同条の「諸寺等所賜」に
は神領も含んだであろうが、この前後に王土たる「山沢嶋浦、林野陂池」が寺社などに賜与されたというより、実質
的には山河藪沢に「公私共利」の原則が適用されたのだと考えられる。
レ
二
一
レ
二
一
二
一
二
一
二
- 庸調 者聴。自余非 禁処
養老雑令国内条、「凡国内有 出 銅鉄 処、官未 採者、聴 百姓私採 。若納 銅鉄 、折 充
者、山川藪沢之利、公私共之」の法理は、①官による特定の経済的対象の占有 (銅鉄など)を除いて、山野河海から
の利益、用益については「公私共利」が認められており、山野河海は公私ともに排他的領有の対象とはされないのが
(
(
原則である。②神または王権の特殊な権利に根ざす排他的領有が実現される禁処に限って「公私共利」が認められな
い、となろう。
八世紀段階の宗教的聖地としての神領の実態を探る上で、『常陸国風土記』香島郡条を参照することができる。
二
一
二
一
二
一
郡東二三里 高松浜。 大海之流差砂貝 積成 高丘 。 松林自生椎柴交雑 既如 山野 。 東南 松下出泉。 可 八九歩 二
一
二
一
レ
レ
二
一
清淳太好。 慶雲元年 国司采女朝臣 率 鍛佐備大麻呂等 採 若松浜之鉄 以造 剣之。 自 此以南 至 軽野里若松浜 之
二
一
一
レ
二
レ
一
レ
レ
レ
間 可 三十余里 。 此皆松山。 伏令・伏神 毎年掘之。 其若松浦 即 常陸下総二国之堺 安是湖之所 有沙鉄、造 剣
二
大利。 然為 香島之神山 不 得 輙入 伐 松穿 鉄也。
それによれば神社 (鹿島神宮)の周囲の浜 (海岸部)には、高松浜から若松浜までの三十余里にわたって松山が広
がっていたとされ、毎年「伏令」・「伏神」(サルノコシカケ科のブクリョウという薬種)を掘り出していたという。常陸
国と下総国の堺である当時の利根川の河口部・安是湖及び「若松浦」(河口側に湾入した入り江か)では砂鉄が採取でき
るのだが、「香島之神山」であるゆえ松の伐採と砂鉄の採取はできないとされている。同条によれば、慶雲元年に国
司采女朝臣に率いられた鍛冶によって「若松浜」の砂鉄から剣を造ったという。
一
16
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(1
『風土記』の記事は「若松浜」と「若松浦」が書き分けられているようであり、松山が広がる浜での松の伐採と砂
鉄採取は「香島之神山」であるゆえにできないというのは理解できる。しかし『風土記』の記事は「其若松浦、即常
レ
レ
二
一
レ
二
レ
一
レ
陸・下総二国之堺。安是湖之所 有沙鉄、造 剣大利。然為 香島之神山 、不 得 輙入伐 松穿 鉄也。」とあるので、河
口部や入り江の水面からの砂鉄採取ともとれるが、水面と神山との関係が捉えにくい。「穿鉄」とあるので、やはり
海浜の松山からの砂鉄採取 (及び松伐採)ができないという意味にとるべきであろう。慶雲元年の剣製作は、
『風土記』
の記事を忠実に読めば「若松浜」からの砂鉄採取なので、一回的例外的に砂鉄採取を神社から許可されたものととれ
る。
しかし、三十里にわたる松山からは毎年ブクリョウという薬種の採取は行われているのである。『風土記』によれ
ば神社の「周匝」は神社に仕える占部氏の居所となり、「東西臨海」し、下総国海上郡軽野里以南を割きとって神郡
としたのであるから、常陸国・下総国の堺の松林は神領的一帯であったといえよう。
(
(
ブクリョウは『延喜式』の常陸国の年料雑薬の中に見えるので、三十里にわたる神宮周辺の松山は官の薬草採取地
( (
として非排他的に用益されたと考えられ、「若松浜」 「若松浦」は「香島之神山」たるゆえ、香島社の排他的独占
が行われたのであろう。
≒
によって松山一帯の官による採取の上に「公私共利」が適用され、「若松浜」 「若松浦」に関しては「香島之神山」
られないとの法理間の関係がやや不明確になっているが、『常陸国風土記』の「香島之神山」をめぐっては①の法理
挿入したことによって雑令国内条は①山野河海についての「公私共利」原則と②の禁処に限って「公私共利」が認め
日本令が模倣した唐令の当該条には「禁処」の限定句がなく、唐の令文は『塩鉄論』以来の伝統を反映してか、古
代中国では銅鉄採取地に関する官の優位性を明文化することに主眼があったと見られる。日本令が「禁処」の語句を
≒
Chiikishi Kenkyu
17
(1
(1
として②の法理によって禁処となっていたと理解できる。
(
(
(
(
(2
・承和年間 (八三四~八四八)
・嘉祥年間 (八四八~
王 権 の 禁 処 (「 禁 野 」)に つ い て は 天 長 年 間 ( 八 二 四 ~ 八 三 四 )
( (
八五一)にかけて増加傾向にある。禁処においては王侯の獲物を損じることを禁止しながらも農民の生業 (=「民利」)
ほかにも寺社などの宗教的聖地については排他的領有が認められていた例としては、九世紀に石上社の「神山」、
( (
春日大神の「神山」において焼畑や狩猟伐木が禁止されている。
(1
(
(2
(
(2
領有し四至を確定していった動向は九世紀後半以降に顕著となっていくと考えられる。
(
らない。山野における農民・土浪人らの経済活動が活発化し、それを受けて寺社が山野を宗教的聖地として排他的に
表記・表現の要素が認められても、それを利用して後世に神領の広大であることを主張した可能性を考えなければな
排除したというのは、七世紀後半段階の状況を描いたものとしては早熟に過ぎるであろう。「船木等本記」に古態の
(
清浄性が語られているにすぎない。唯一例外となる播磨国賀茂郡椅鹿山において、公民が神領で経済活動したことを
このように見てくると、七世紀後半ごろより確立してくる山川藪沢の「公私共利」原則下にあって、『神代記』の
神領においては香島社の「神山」のような特殊な神領としての具体性が見えず、ほとんどが神話的な由緒と神聖性・
民から地子を勘するようになったという。
採材以外の百姓田地への妨遏を禁じている。この官符によれば元興寺などは仁和年間 (八八五~八八九)より山内の農
あろう。寛平八年 (八九六)四月二日太政官符 (『類聚三代格』)では東大寺など諸寺院の広大な採材木の山中において、
うになる。これは院宮王臣家と結託した土浪人などの「預人」が山野での経済活動を活発化させていることが背景で
れなかったであろう。元慶年間 (八七七~八八五)になると禁処の「預人」が威勢を仮託した民業妨害が指弾されるよ
を失わせることは繰り返し禁じられており、「神山」においても元来供御料の採取以外の用益や百姓の居住は禁じら
(2
18
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(2
五、住吉大神信仰の展開と住吉社領荘園
第三章で荷前・幣帛浜のように河口部や港津の二地点間で海浜を区切る神領が『日本書紀』的な神話の語りと共通
し、荘園制的な四至記載と異なること、また『神代記』においては『播磨国風土記』の記述を前提にしているらしい
上
二
二
二
一
一
二
一
一
二
二
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一
一
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レ
一
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レ
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二
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一
二
一
一
一
二
二
二
下
二
一
一
ことを指摘した。本節では四至記載を有する海浜の神領について『播磨国風土記』との関連性を検討する。『神代記』
から関連史料を掲げる。
一、明石郡魚次浜一処。
四至。(東限大久保尻。南限海棹及際。西限歌見江尻限。北限大路。)
二
右、自 巻向玉木宮大八島国所知食活目天皇 、橿日宮気帯長足姫皇后御世、此二御世、平 伏
- 熊襲并新羅国 訖賜、還上賜、大
レ
神奉 鎮 於木国藤代峯 。時、荒振神令 誅服 賜、宍背鳴矢射立為 堺。我欲 居住 処、如 向 大屋 。渡 住
- 於針間国 。切 大藤
レ
浮 海、盟宣賜、斯藤流着処、将鎮 祀
- 我 、宣時、流 着
- 此浜浦 。故、号 藤江 。自 明石川内上神手山・下神手山 、至 于大
一
見小岸 、為 悉神地 奉 寄
- 定 。其時、意弥那宜多命児、大御田足尼、津守宿禰遠祖、奉 仕。是時、船司・津司、初任賜支。
又、処処舟木姓賜支。
一、賀胡郡阿閉津浜一処。
四至。(東限余郷。南限海棹及。西限大湖尻。北限大路。)
二
右、同皇后御世、大神平 伏
- 熊襲二国、従 新羅国 還上賜時、似 鹿児 、満 海上 浮漕来。見人皆奇異、云 彼何物 、問 似 鹿
一
児 物 也。近寄来 着
- 於筑志埼 見、数十人、有 角着 鹿皮 着 衣・袴 。梶取・水手人、大神舟漕持来也。故、其地号 鹿児浜 。
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19
レ
二
一
二
一
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一
二
一
二
二
一
二
一
二
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二
一
一
皇后、奉 饗 大神 、以 酒塩 、入 於魚 奉賜時、号 阿閉浜 、奉 寄
- 定 賜支。其時、同奉 仕
- 津守宿禰遠祖 賜支。皇后、合掌
レ
誓宣、奉 寄吾山・河・海種種等、若有 妨誤之人 者、蒙 天地災 、遇 痛患 、絶 滅
- 子孫 、天下凶乱矣。
明石郡魚次浜、賀胡郡阿閉津浜は四至記載を有する神領たる海浜で、その海水域の領有形態は古代的な「浜」の領
有ではなく中世の荘園制的なそれである。しかるに阿閉津浜が神領となった由緒は、熊襲・新羅征討譚に因むとと
レ
二
一
二
一
もに、「有 角着 鹿皮 着 衣袴 」した人が海上を浮かびながら鹿子水門に入って行ったという『日本書紀』応神天皇
十三年九月条「一云」の鹿子水門の地名起源説話を下敷きにしている。但し『神代記』の当該部分の文章はそれが筑
紫埼の話であるかのように文脈が混乱している。明石郡魚次浜については、大神が一端は「木国藤代峯」に鎮座した
二
一
にほつひめのみこと
のが「斯藤流着処、将鎮 祀
- 我 」という大神の意思によって魚次浜に大神を祀ることとなった、故に「藤江」の地
おきながたらしひめのみこと
名となったとの地名起源伝承を語っている。後者は明らかに『播磨国風土記』逸文の「爾保都比売命」の伝承 (『釈
日本紀』所引)と対照している。住吉大神と密接な息長帯日女命が新羅を征討するに際し、爾保都比売命を祀り赤土
(
(
(丹)で船を艤装したことによって征討勝利が保障された。ゆえにこの神を紀伊国伊都郡筒川の藤代の峯に鎮座させ
(
(2
(
(2
の長歌に「名寸隅の船瀬」(『万葉集』九三五、以下『万』と略記)と歌われ、「名寸隅 (ナキスミ)
」は魚次 (ナツキ・ナス
名類聚抄』)であり、聖武天皇が行幸した「播磨国印南野邑美頓宮」が所在した地である。この時随行した笠朝臣金村
(
瀬戸川の旧河口部であろう。明石川の河口とされる「大見小岸」は明石郡邑美郷 (『播磨国風土記』託賀郡賀眉里条、『倭
おおみ
魚次浜の東限とされる「大久保尻」は「大久保川尻」の意であり、現・明石市大久保を流れる大久保川の河口部で
( (
あろう。そのすぐ東部に藤江が位置している。西限の「歌見江尻」は同じく市内の二見に比定でき、「江尻」は現・
地名起源伝承であったと推定することができる。
(
たという。この逸文は『神代記』と対照させることによって、欠落している同風土記明石郡条のおそらく「藤江」の
(2
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No.115, Oct.,2015
(2
キ)浜のことである。
「名寸隅の船瀬」は天長九年 (八三二)五月一一日・貞観九 (八六七)年三月二七日太政官符に
は「魚住船瀬」、延喜一四 (九一四)年の「三善清行意見封事」には「魚住泊」とある。九世紀に入る頃より「ナキス
ミ」→「ナスミ」へと音変化したらしく、「魚住 (ナスミ)
」の文字によって後世は「ウヲスミ」と訓まれたものとい
える。
(
(
魚住泊推定地は一〇世紀初頭の加工材が発掘されたことにより、大久保町西江井島の赤根川河口であることがわ
かった。赤根川遺跡からは製塩土器が大量に発掘され、八世紀中葉から九世紀前葉に操業していた窯跡も見つかっ
た。前掲の「名寸隅の船瀬」を詠った万葉歌には「藻塩やきつつ」「塩焼くと」と製塩の風景も詠みこまれている。
レ
二
一
二
一
二
一
二
一
『神代記』では「奉 饗 大神 、以 酒塩 、入 於魚 奉賜時、号 阿閉浜 」とあり、魚次浜ではなく阿閉浜を製塩の地と
するが、魚次浜でも製塩を行っていたのである。
魚次浜の四至は北限を「大路」とし、山陽道以南を浜の領域としている。しかし、明石川中流域にある「上神手
山・下神手山」、つまりこの地域のシンボル的な自然地形である雄岡山・雌岡山を挙げ、ここから海岸部の邑美郷ま
二
一
二
一
でを「為 悉神地 奉 寄
- 定 」と記述している。これは山陽道以南という四至を大幅にはみ出しており、『神代記』は
明石川の中下流域全体、かなり広域を神領と主張していることになる。
『東大寺要録』天平二〇年 (七四八)太政官符には「明石郡築 (垂)水郷塩山地三百六町」と見える。垂水郷は郡の
東端に位置し、魚住泊、赤根川遺跡が所在する魚次浜の地、邑美郷が郡西端に位置するのと対極である。『倭名類聚
抄』の郷名には邑美郷、葛江郷、明石郷、住吉郷、垂水郷の名称が見えるのだが、住吉大社が魚次浜たる邑美郷から
(
(
さらに広域に明石川流域までを神領としていたとの記述には疑問が生じる。八世紀に垂水郷内の塩山を東大寺が領し
ていたが、明石郡内の製塩は邑美郷の赤根遺跡をもって終焉したらしいところから、垂水郷の東大寺塩山は九世紀に
(3
Chiikishi Kenkyu
21
(2
入って退転したのではないか。『倭名類聚抄』には住吉郷の郷名が挙げられるが、同書は一〇世紀前半の成立で所載
(
(
の郡郷は九世紀末から一〇世紀初頭の郡郷を反映したものである。住吉郷の八世紀段階における文献的痕跡は希薄で
ある。住吉郷が八世紀には未成立で後次的に成立したことも考えられ、明石郡内の「魚塩地」たる住吉社領の実態も
当初からのものではなかった可能性がある。『神代記』は津守宿禰氏の遠祖が「船司・津司」に任じられたとして、
魚住泊との関わりを強調しているのも、魚住泊への影響力を通じてこの地域の海浜を支配下に置いたという認識が背
景にあるのではないだろうか。
魚次浜が中世荘園制的な四至を持ちながら、それを越える広範囲の神領たる由緒を語っていることの下敷きは『播
磨国風土記』にあるといえよう。明石川の「上神手山・下神手山」(雄岡山・雌岡山)の流域から「大見小岸」、つま
か お り た の た に
り赤根川から瀬戸川河口を結ぶ沿岸部を指し示す地理認識は、『播磨国風土記』賀古郡鴨波里船引原条と密接な関係
がある。「印南大津江」(加古川河口)から加古川を遡上し、船を「賀意理多之谷」を曳いて「赤石郡林潮」へ通わせ
(
(
るとある。林潮は明石川西岸の入り江付近、葛江郷の辺りである。理由は「神前村」の沖合の通船が困難であるから
二
一
二
一
二
一
二
一
一
一
二
「魚塩地」など、さらに供御のための容器「御坏」・鍋 (甌)
「御筥」「食具等物」などをセットにするのが供御に関す
の語彙で説明している。供御を饗する行為「阿閉」とともに、供御料たる食料品・海産物を「魚次・魚住」「江魚」
二
とは異なるが揖保郡においても「奈閉落処、即号 魚戸津 」(揖保郡大家里条)とあり、「魚戸津 (ナヘツ)
」を鍋 (甌)
一
御食 、故号 阿閇村 。又、捕 江魚 為 御坏物 、故号 御坏江 」(賀古郡冒頭条)と地名起源の形で地名を記す。賀古郡
二
『神代記』の賀胡郡阿閉津浜条も『播磨国風土記』を前提にしているといえる。『日本書紀』にも天皇への供御の地
を「阿閉嶋」「御甌」(仲哀天皇八年条)と表現しているが、『風土記』も阿閉津浜比定地に関して「到 阿閇津 供 進
-
であり、これは後世、播磨灘の寄港地として魚住泊の修築を必要としたことに相当する。
(3
22
No.115, Oct.,2015
(3
る共通のモティーフとなっている。その点からすれば、『風土記』は播磨国明石郡・賀古郡のみならず、揖保郡にも
供御の地を伝えていることになる。
わか
『神代記』はこれら住吉大神への供御の地を主として神功皇后によって寄進されたとしている。神功皇后伝承は住
吉大神信仰と密接であって、『播磨国風土記』には八世紀段階における播磨地域への住吉大神信仰の展開が窺える。
賀茂郡河内里条には明確に「住吉大神」が見え、同郡端鹿里条でこの村において「菓子」を班った「神」も住吉大神
と解釈しえる。端鹿里は『神代記』の「椅鹿山」の領地田畠・杣山地と関連づけられる。『神代記』が「大神宮所在
九箇処」として摂津国住吉大社に次いで「賀茂郡住吉酒見社」を挙げていることの前史は、『風土記』に見る賀茂郡
への住吉大神信仰の浸透に求められる。
賀茂郡以外では、印南郡大国里伊保山条、飾磨郡因達里条、揖保郡の大田里言挙阜条、石海里宇須伎津・宇頭川・
伊都村の諸条、同郡浦上里御津条、荻原里条に神功皇后伝承が見られる。住吉大神と明示するものと、住吉大神系の
神功皇后の伝承とに書き分けられているとも見られる。神功皇后=息長帯比売が息長氏系の名を持つこと、住吉社を
奉斎する津守氏が尾張氏系の同族系譜をもつことから、とりわけ神功皇后伝承の地域的浸透は六世紀前半の継体大王
(
(
の時代の動向と密接である。住吉津が「大津」、つまり王権の国家的港湾として機能し、その守護神として奉斎され
しかま
た段階は五世紀に始まると見られるところから、住吉大神信仰及び神功皇后伝承の地域的浸透を五世紀段階と六世紀
ゆめさき
段階とで区別して検討していく必要がある。
、揖保川河口の網干・
神功皇后伝承関連の『風土記』の記事は夢前川・市川河口部の後の飾磨津 (飾磨郡因達里条)
岩見・御津 (石海里宇須伎津・宇頭川・伊都村条、浦上里御津条、荻原里条)などの港湾が六世紀ごろよりこの地域の中枢
となっていたことを示している。王権の軍神・航海神である住吉大神信仰を受容することでこれらの港湾が王権に
Chiikishi Kenkyu
23
(3
(補注1)
よって編成され始めたことを示すものである。賀茂郡への住吉信仰の浸透も播磨レベルでのこうした動向によって理
解でき る 。
このように見てくると『神代記』は住吉大神信仰の影響が広がる播磨各地のうち、賀茂郡と明石郡、賀古郡を取捨
選択して神領と主張していることになる。『風土記』に見るように明らかに八世紀段階までに住吉大神信仰・神功皇
后伝承が浸透し、しかも住吉大神が加護する船舶・港湾の伝承を有する印南郡、飾磨郡、揖保郡の地を『神代記』は
神領とは認識していない。「宇治川」(神戸市内)から「針間宇刀川」(揖保川)までを荷前の地とする領域には入るか
も知れないが、少なくとも四至を記載する神領としては載せなかったのである。これは六世紀から八世紀の段階で播
磨地域の枢要の港湾として実際に機能していた揖保川河口の諸津や播磨国衙の国津である飾磨津に対しては、住吉社
がこの地域を神領と主張しえなかったと考えることができるのではないか。
あわわのさと
『 神 代 記 』 の 賀 胡 郡 阿 閉 津 浜 の 四 至 は「 東 限 余 郷 」「 西 限 大 湖 尻 」 と さ れ、「 大 湖 尻 」 は 加 古 川 河 口 の 入 り 江 や ラ
グーンであろう。「余郷」は余戸郷ないし余部郷の意であるが、『播磨国風土記』賀古郡条には余戸郷は所載されてい
ない。『倭名類聚抄』東急本には余戸郷が見え、高山寺本には余戸郷は欠落している。『風土記』所載の鴨波里は『倭
名類聚抄』ではいずれの写本とも見えなくなり、代って共に住吉郷を載せる。これは阿閇村付近に比定されるかつて
の鴨波里が住吉郷に転じ、併せて新たに余戸郷が分出・再編されたと見られる。この変化は前述のように九世紀末ま
でに起こったと思われる。つまり阿閉津浜の四至は九世紀末以降の記述であると考えられる。『神代記』は『風土記』
の影響を前提にしつつも、特定の時代の神領認識を記載していると見ることができる。
レ
レ
□
住吉社の神領に関する史料として『続左丞抄』第三所収の「住吉神領年紀」が知られている。しかし年紀不詳で、
たかむこのしょう
「垂仁天皇御宇被 奉 寄所々 高向庄 (但小山
知行)」などと神話的な天皇の治世に荘園が寄せられたとするような
24
No.115, Oct.,2015
(
(
二
一
ご
く
だ
時代性が疑われる面がある。「鎌倉故右大将家時被 寄進 所」や「後白河院」などの記述から一三世紀に入ってから
こんづとののみその
以降の知見が加わっている。この中から『神代記』と対比しうる神領を採り上げると、高向庄御供田 (丹下・矢田部)
ひ
え
お の は ら
いかすり
(以上、垂仁天皇御宇)
、武庫別宮、醤殿御薗、幣帛嶋・六ヶ嶋、中津川、大河庄、小嶋御厨、開口別宮、魚住庄、阿閇
庄、久米庄、吉井庄、東條別宮、北條別宮、比延庄、小野原 (以上、神功皇后御宇)
、座摩別宮 (仁徳天皇御宇)
、渋川村
(後白河院御時)となる。
『神代記』の石川錦織許呂志の山に含まれる河内、和泉の所領や摂津の山野・幣帛嶋も若干
(
(
見えるが、荘園名はほとんどが播磨の神領となっている。「播磨国賀茂郡椅鹿山」領に包摂されるのが久米庄、吉井
(
する明石郡魚次浜、賀古郡阿閉津浜は個別に住吉社領として荘園化されたと見られる。
庄、東條別宮、北條別宮、比延庄、小野原であり、賀茂郡、多可郡、丹波多紀郡に広がる。『神代記』が神領と記載
(3
和泉
摂津
小野原
小嶋(日根郡)
矢田部(住吉郡のものは追記。百済郡にも)、幣嶋・醤殿(村)(西成郡)、武庫(武庫郡)、中津川(?)
:
丹波
中津川(佐用郡)、魚住・末光・江井・八木・加良(明石郡)、阿閉・石光・長束・二子・山上・大沢・二俣(賀古郡)、
』が引く神領から「住吉神領年紀」と対応するものを挙げれば
播磨
(
さらに後世の史料『住吉松葉大記
(3
:
:
:
比延(多可郡)、久米・鴨川・三草・大河(賀茂郡)
となる。同書所引正平九 (一三五四)年「造営金銅金物用途注進状」には以下の荘園所領を挙げ、負担額を詳細に記
している。やはり『神代記』と対応する所領名のみ挙げると、
摂津
小島御厨
麻田御園、武庫別宮、中津川、河尻、醤殿、座摩社、生魂社、矢田部、桑津村、開口社(ほかに諸職があるが省略)
: :
和泉
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(3
丹波
小野原庄
:
播磨
:
(補注2)
吉井庄、久米庄、比延庄、大川庄、三草庄、鴨川一色、魚住庄―江井村・八木村・加良一色・末光一色、阿閉庄―今里
村・長束村・山上一色・中野一色・石光一色・大沢一色・二俣一色・長束一色・二子一色
となり、播磨の阿閉荘、魚住荘については村・一色などの荘園内地名が詳細に挙げられているのが特徴であ る 。「注
(
(
進状」の記載は建長五 (一二五三)年の造営時を嚆矢とするという。
魚住荘については一六世紀の『幻雲文集』に船木範保という人物が治暦二 (一〇六六)年に因幡国から住吉太神宮
下司職として播磨に入り、「魚住庄江井・八木・末光三邑」を賜ったとある。後世の史料であるが、「注進状」の魚住
庄を構成する江井村・八木村・末光一色と一致することが注目される。『住吉松葉大記』所引の魚住庄と阿閉庄の荘
園地名は現在の明石市、加古川市に広がり、加古川市内には「一色」地名が散在する。稲美町の蛸草 (天満大池の東
部)
、加古川右岸の志方町大沢など沿岸部だけでなく内陸部にも広がりを見せる。「一色」地名は官物ないし雑役のい
ずれかを免除された荘園領主直属地を意味したようである。
以上、『神代記』の神領の中でも播磨国のそれについては『播磨国風土記』の住吉大神信仰の広がりと地理認識を
前提としながらも、荘園公領制下の荘園地名と濃厚に対応しているといえよう。
六、総括、及び住吉大神の歌神化と部類神
『神代記』の神領認識の歴史性についてこれまで論じてきたことを総括するとともに、関連する『神代記』の年代
観について言及する。
『神代記』は『日本書紀』に依拠しながらこれを換骨奪胎して、住吉社独自の神話世界 (住吉大神と歴代天皇との関
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係、神領の由緒と広がり)を述べたものである。神領の由緒を語る中で、大神が天下の豊穣と対外的統治の成功を「本
願」とするとともに、統治行為は天皇の御意に委ねながらも、天皇から大神に寄せ奉られた神領を保障することを要
求している。これは所領たることの根拠を天皇による現実的な勅施入に求める八世紀段階のものとは異なった神話的
な論理であるとともに、天皇ないし大神の「本願」を根拠に挙げる点は、天皇の「本願」文言を採用した九世紀以降
の荘園文書と似た面ももつ。
神領の広がり、具体的な四至は八世紀の伊勢神宮の『儀式帳』、寺院の「資財帳」のようなピンポイントの地目を
表示したものとは異なっており、特にその浜の領域表示のあり方は一一世紀前半代の荘園文書と共通する。更に『神
代記』が浜の地先水面の領有を含む四至記載を持つことはかなり早い例と認められ、中世荘園制的な海浜の編成を反
映している可能性が高い。
『神代記』には祭祀や神・天皇の事績にもとづく『日本書紀』と同様の由緒の語り方をする魚塩地・荷前や、土毛・
土産を産する山河としての神領がある一方、荘園につながる神領がある。播磨国の神領は、『播磨国風土記』を前提
にしつつも、荘園公領制につながる神領を選別して載せている。それらの地は八世紀の他の領主支配が退転した後に
住吉社と関係を形成したと見られる。また四至記載に見える郡郷は九世紀末から一〇世紀以降のそれであり、神領の
排他的領有の主張は九世紀後半以降の山野領有をめぐる動向を反映したものである。
さて、神領関連以外の『神代記』の年代観を窺わせる記述として、住吉大神と広田大神が睦まじく「御風俗和歌」
を交わし合うものがある。それは「広田社御祭時神宴歌也」という。これは住吉大神・広田神の歌神化と関連してい
よう。住吉社歌合は大治三 (一一二八)年に開催され、その主催者・藤原敦頼 (一〇九〇~一一七九年)は住吉神を和歌
神として信仰していたという。広田社でも同年に歌合が行われている。住吉神の歌神化はもう少し時代を遡るであろ
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うが、『土佐日記』の中で紀貫之が住吉明神に海上安全を祈願した際には、未だ和歌の神という意識は見られない。
長元八年 (一〇三五)
、藤原頼通邸で歌合を行った際、勝利した人々が住吉社に御礼参りをしている。『栄花物語』で
は上東門院・後三条院が住吉参詣した際、神前で和歌の奉納があったとされる。一一世紀に入るころには貴族社会に
(
(
住吉神を歌神とする認識が広まっているといえよう。その背景には住吉社神主・津守国基の活動が背景にあったこと
が指摘される。
歌神化、歌合の観点から住吉大神と広田大神が浮上している現象とともに、『神代記』の住吉社を筆頭とする「大
神 宮 九 箇 所 」 と 部 類 神・ 子 神 に 注 目 さ れ る。 九 社 に は 播 磨 国 賀 茂 郡 住 吉 酒 見 社 が 入 り、『 日 本 書 紀 』 に は 見 え な い
「大唐国一処。住吉大神社」までが挙げられるなど、独自の序列・認識が窺える。次いで部類神の筆頭には「当国広
田大神」が挙げられ、子神には「阿閉神。魚次神。田蓑島神。開速口姫神。錦刀島神。」など神領との対応関係が見
られる。この神々のなかには生田神・長田神が見えない。『日本書紀』の住吉大神鎮座伝承及び『神代記』の該当条
には広田神とともに生田神、長田神が同列の形で鎮座した由緒が語られながら、神領との対応、歌神化を経た『神代
記』の認識としては生田神、長田神の地位が低下しているのである。
神階授与と奉幣記事を通じて摂津国諸社の序列・動向を見ると、住吉社が筆頭であるのは自明として、貞観元年
(八五九)の時点で広田社が正三位、生田・長田社が従四位下とやや開いていた。貞観一〇年に摂津国大地震があり、
広田・生田社二社に従一位が贈られているがこれは震源などの影響であろう。その後の動向を奉幣記事に見ると、寛
平六 (八九四)年の新羅賊来寇にともない住吉・広田を含む一一社に奉幣が行われて以来、天慶年間には東西兵乱・
南 海 凶 賊 に 際 し て 必 ず 住 吉・ 広 田 社 を 含 む 一 一 社、 一 二 社、 一 三 社 に 奉 幣 が 行 わ れ て い る。 こ れ は 後 の 一 一 社 制、
二二社制につながるものであるが、一〇世紀に入るころには住吉・広田社と生田・長田社の地位は隔絶していたとい
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える。
『神代記』は九世紀後半から一〇世紀に入るころの諸動向を踏まえ、神領の一部には一一世紀前半の荘園制の要素
を反映していると見られる面がある。今回、『神代記』の歴史性を評価しようとしたが、このテキストが文字通り当
該の時代の神話テキストであることを鑑み、その信仰面の歴史的展開を掘り下げることは今後の課題としたい。
〔注〕
(1)田中卓『田中卓著作集七 住吉大社神代記の研究』(国書刊行会、一九八五年。初出は住吉大社神代記刊行会刊、一九五一
年)
(2)西宮一民「住吉大社神代記の仮名遣」(『日本上代の文章と表記』風間書房、一九七〇年)
(3)坂本太郎「『住吉大社神代記』について」(『坂本太郎著作集第四巻 風土記と万葉集』吉川弘文館、一九八八年)
(4)西宮氏、前掲注(2)著書。
(5)谷戸美穂子「『住吉大社神代記』の神話世界」(『古代文学』三七、一九九八年)、同「『住吉大社神代記』神と地を領る縁起」
(『古代文学』四二、二〇〇三年)。
(6)西岡虎之助「初期荘園における土地占有形態」(『荘園史の研究 上巻』岩波書店、一九六六年)
(7)戸田芳実「山野の貴族的領有と中世初期の村落」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九六七年)
(8)笹川尚紀「船木氏小論」(『地方史研究』六三巻第一号、二〇一三年)
)荒井秀規氏は律令制以前の大王(記紀においては天皇と表記される)が国造制的土地所有を通じて全国土を支配していたと
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(9)三谷芳幸『律令国家と土地支配』(吉川弘文館、二〇一三年)一五八頁。
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する国土観を〔治天下型王土観念〕と規定し、それは体制内に「私」を措定しないアンジッヒ(即自)な王土思想とする。そ
して、八世紀から九世紀の墾田政策の展開を通じてフュアジッヒ(対自)な中世的王土思想である〔公私統合型王土概念〕が
九世紀後半ごろ成立するとする。「律令国家の地方支配と国土観」(『歴史学研究』八五九号、二〇〇九年)。『日本書紀』の国
土支配の歴史認識とはそうしたアンジッヒな〔治天下型王土観念〕をかつて実在した天皇による国土支配として過去に投影し
たものといえる。後述する『日本書紀』における「魚塩地」献上譚も、土豪・地方豪族=国造の土地所有を通じた〔治天下型
王土観念〕の主張である。
)このような「本願」文言は「河内国観心寺縁起資財帳」(元慶七年九月一五日)など九世紀後半ごろより散見され、東大寺
領黒田荘では一一世紀初頭ごろより「本願勅施入文」を使った荘園化運動が見られる。興福寺については「興福寺大和国雑役
免坪付帳」(延久二年九月二十日)。
)「貞観寺田地目録帳」(貞観一四年三月九日)
)森田喜久男『日本古代の王権と山野河海』(吉川弘文館、二〇〇九年)
)保立道久「中世前期の漁業と庄園制」(『歴史評論』三七六号、一九八一年)
)岩波古典文学大系『日本書紀 上』(岩波書店、一九六七年)補注による。
)神領(・寺領)の形成とは実際の歴史的過程としては天皇の処分に付される所領が寺社に施入される(八世紀以降の勅施
入)過程と見るべきであろう。その実質は禁処に見られる王権所領を寺社へ施入することであったと考えられる。神話的な歴
代天皇から大神に寄せ奉られた山河、御田(神田)、杣山・河、荷前・浜が神領となったという由緒の語りは始原において全
国土を天皇が領有したという観念的な土地公有観、〔治天下型王土概念〕にほかならない。『神代記』の語る由緒は寺社縁起的
なそれであって、神領化の主張は歴史過程によって相対化されなければならない。
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)勝浦令子「古代における禁猟区政策」(『古代史論叢 下巻』一九七八年、吉川弘文館)
)亀田隆之「古代における山林原野の問題」(『続日本古代史論集 下巻』一九七二年、吉川弘文館)
)戸田芳実、前掲注(7)論文。
)『日本三代実録』貞観九年三月二十五日条。
)
『続日本後紀』承和八年三月一日条。
)著書)。
)『日本三代実録』元慶六年十二月二十一日条。森田喜久男氏はその背景に「蔵人所猟野」・禁処の御厨化を指摘する(森田
氏前掲注(
)『加西市史 第一巻』(加西市、二〇〇八年。該当部分は中林隆之氏執筆)は、八世紀の東大寺大仏殿造営のための「山作
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所」が播磨国賀茂郡端鹿郷周辺に存在した可能性があり、当地の杣山と東大寺との関係が終焉した後に住吉社との関係が形成
されたと指摘する。
)丸山幸彦氏は材木類の規格化を規定した貞観七(八六五)年九月一五日太政官符(『日本三代実録』)から、丹波・播磨・
摂津の「山の世界」において開発が進行し、それを規制対象にするのは九世紀後半の動向であるとし、椅鹿山における住吉社
の所領化をその時期としている。『古代東大寺庄園の研究』(渓水社、二〇〇一年)
)紀伊国伊都郡の藤代の峯を含む紀ノ川流域から伊勢に抜ける中央構造線一帯は、「赤土」つまり朱色塗料の材料である丹
沙(硫化水銀)の産地であった。平城宮跡出土木簡に「朋(明)郡葛江里 丹人部由毛万呂俵」(『平城宮跡発掘調査出土木
簡概報』七)があり、明石郡葛江(藤江)里と紀伊国産の丹との関わりを示唆している。爾保都比売命の神名はこの丹に関
わることは確実であろう。坂江渉「軍船の出陣と明石のミナト」(『風土記からみる古代の播磨』神戸新聞総合出版センター、
二〇〇七年)
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(
)逸文に「万葉集集釈」所引の「藤江浦」に関するものがあるが、「住吉大明神」の語が見えることから、これは風土記から
の引用とは認めがたい。
) 鎌 谷 木 三 次「 住 吉 大 社 神 代 記 に 見 え る 明 石 郡・ 加 古 郡 に 於 け る 摂 津 住 吉 神 社 の 神 領 地 に 就 い て 」(『 兵 庫 史 学 』 六 五 号、
一九七四年)
)『続日本紀』神亀三年十月条。
)『明石の古代』(二〇一三年、発掘された明石の歴史展実行委員会)
)注( )前掲。
)『日本歴史地名大系』(平凡社)や『角川日本地名辞典』は『釈日本紀』所引の『播磨国風土記』逸文、
「明石駅家駒手御井」
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条の歌謡「住吉の大倉」を明石市大蔵谷にあてることにより当地を住吉郷に比定するが、同歌謡の「住吉の大倉」は摂津国住
吉郡の現・住吉大社の地に比定して何ら問題はない。『倭名類従抄』の「高山寺本」は住吉郷を含め五郷を所載し、「東急本」
がこれに神戸郷を加えて六郷(神戸郷が重複する)を所載するところからも、住吉郷の比定地については更なる検討が必要で
ある。
)「賀意理多之谷」は草谷川説と曇川説があるが、曇川は分水嶺に位置する天満大池(伝承では孝徳朝の築堤)を中継して、
雌岡山付近を水源とする手中流(手中池)と通じており、明石川水系につながっている。実際に船を曳き越したかどうかは不
明だが、『神代記』と『風土記』の水系認識は合致している。
)岡田精司「古代の難波と住吉の神」(『日本古代の政治と制度』一九八五年、続群書類従完成会)
)『続左丞相』は壬生官務家の文書集で、元禄年間に書写したものが伝本である。天暦二(九四八)年から元禄七(一六九四)
年のものが納められており、史料の上限は一〇世紀半ばと考えられる。
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)久米庄、吉井庄、比延庄等については文永二(一二七四)年の「住吉神領杣山四至并造替役差定書」(大川瀬住吉神社文書)
に多くの地名とともに記載があり、『神代記』の「播磨国賀茂郡椅鹿山」領との関連を議論しうるところであるが、中世にお
ける播州御嶽山清水寺、真言宗朝光寺などと住吉社との関係についての本格的な検討を要するので、本稿では割愛する。『神
代記』の椅鹿山領の詳細な四至記載が中世の庄園内地名と対応する点のみ確認しておくことにとどめる。
)一七世紀から一八世紀にかけて住吉社社家から出た梅園惟朝の自筆稿本。『大阪市史史料第六三輯 住吉松葉大記(下)』
(大阪市史編纂所、二〇〇四年)
)『続群書類従』第一三輯上、文筆部。
)寺川眞知夫「住吉明神説話について」(『説話論集 第十六集 説話の中の善悪諸神』清文堂、二〇〇七年)。なお、九~
一二世紀の住吉社の動向と津守国基については大村拓生「平安時代の摂津国衙・住吉社・渡辺党」(『難波宮から大坂へ』和泉
書院、二〇〇六年)
(補注1)六世紀ごろの播磨の動向については、拙稿「『播磨国風土記』にみる六―七世紀、播磨の地域社会構造」(『歴史科学』
二二〇号・二二一号合併号、二〇一五年)で論じた。
(補注2)これについては大村拓生氏のご教示を得た。
付記 本稿は科研費基盤研究(C)「古代西摂・東播における地域編成の重層性」(課題番号一五K〇二八四七)の成果である。
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