21 世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ1~ 今日から「テモテへの手紙第一」の学びに入ります。今回は1章1節と2節です。 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真 実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(1~2節) 別名「エペソ人への手紙第二」 この箇所には、手紙の差出人と受取人が出てきます。パウロとテモテです。日本語の順番とギリシャ語の順番は違うので、1節は 冒頭に「パウロ」、2節は冒頭が「テモテ」となっています。パウロもテモテも、今で言う牧師のような立場で、パウロが先輩、テ モテが後輩ですから、牧師同士の手紙のやり取りがテモテへの手紙なのですが、それだけではないのです。実はこれは「エペソ人へ の手紙第二」と名づけてもいい手紙です。この手紙は、おそらくエペソ教会の礼拝で読まれたのです。テモテ牧師を引き合いに出し ながら、パウロがエペソ教会に伝えたいことが書かれています。パウロとテモテのやり取りを、教会が見守る、そこから教会は教え られ、正される、そういうことが意図されています。21 世紀の私たちは、そのようなやり取りのさらに外側からこの手紙を学びま す。 テモテとエペソ教会の現状 テモテがこの手紙を受け取ったとき、彼はとっても苦しい立場にいたということを覚えておくことがこの手紙を読むときに大切な ことです。パウロは自分の子どものように大切なテモテが、孤軍奮闘している、そういう状況で彼のため、教会のためにこの手紙を 書いているのです。テモテは教会の中で、軽んじられていました。自分より年上の先生と言われる人たちが、たくさん教会の中には いたのです。その先生たちが正しい教えを説いていれば、まだよかったのですが、そうではなかった、まことしやかに、間違った教 えを言う先生たちでエペソ教会は振り回されていました。 ユートピア幻想と教会のユニークさ 教会をユートピア、理想の世界のように思う人は多くいます。この世の煩わしさを逃れて、教会に逃げてくる人々はよく「教会は そんなことないですよね?」と言う。けれども、半分正解で、半分不正解です。教会はユートピアではありません。教会は、外側か らも内側からも攻撃を受け、外からは迫害、中からは分裂や争い、間違った教え、そういうものと戦わなくてはいけない、そういう 意味では教会の外にある組織と大して変わりません。企業も、学校も、家庭も、そして自分自身さえも、外と中に戦いがあります。 自分をだめにするものは、外からも中からもくるのです。 けれども、教会には特別なものがある。それは、勝利の約束であり、確かな救いです。あの企業が立ち行くか、あの家族が立ち行 くか、それは誰にもわからないけれど、教会が立ち行くかどうかははっきりしている。なぜなら、教会は、神の恵みと、あわれみと 平安が注がれているからです。そして、この恵み、あわれみ、平安を注ぐために、神さまは人を用いられます。 どういうことかといえば、恵み、あわれみ、平安の源は、神ご自身です。この神とは、旧約聖書に啓示されてきた方(一節の「救 い主なる神」はそのことを暗示し、強調している)で、この世界の救いをモットーとしている愛の方です。そしてこれから先の未来 において、必ず再臨され、今の悪い世界に解決をもたらしてくださる、キリスト・イエスです。この方に結びついた人をとおして、 その人をパイプにして、この世界に住む人々に、恵み、あわれみ、平安がやってくるのです。教会は、神の恵み、あわれみ、平安を 受けて、内外の戦いに勝利し、この世界全体にまで、恵み、あわれみ、平安を届けるよう召されています。勝利を広げるのです。 すでにかなえられたと信じて さて、恵み、あわれみ、平安を祈った祈りは、叶ったでしょうか。当然です。けれども、ポイントはこの祈りの受け取り手にあり ます。神は必ず、この祈りに応えてくださるけれども、恵み、あわれみ、平安を受け取り損ねることが人間にはあります。テモテに は、この祈りの言葉をまっすぐに受け止めて、そしてそれがすでに与えられていると信じて生きることが求められました。私たち も、互いに恵み、あわれみ、平安を祈りましょう。そして、すでにかなえられたと信じて歩むのです。 C ○ Masayuki Hara 2015
© Copyright 2024 ExpyDoc