ネガからポジへ 子どもの見方が変わるとき ―子どもの表現と教育実践を

ネガからポジへ
子どもの見方が変わるとき
―子どもの表現と教育実践を読み解きながら考えるー
片岡洋子さん(千葉大学教授)
3月8日、30年ぶりに関東ブロック主催の春一番教研が開かれました。その講演の内容を抜粋して紹介しま
すのでどうぞお読みください。講演者の片岡先生は、千葉大学で教育学を教えており、教科研のメンバー・雑誌
「教育」副編集長として、少女の育ち、性暴力、人の育ちにかかわる現場の声を取り上げていらっしゃる方です。
0 川崎の事件を考える
今日のお話の準備をしている間に、川崎の事件が起きました。私はこの2週間ぐらいずっとこのことを考え続
けていたのですが、私が今日話したいこととつながると思うので、レジュメの0として、まずは川崎の事件の話
からすることにしました。
この事件の報道と社会の受け止めが、私はどうも今までとは違うな、と感じています。まずは被害者のお母さ
んのメッセージがありました。亡くなった遼太さんが5歳の時に、父親が漁師をしたいという事で家族は島に移
住するんですね。ところがその後離婚し、母親は島では仕事がなかなかないわけです。それで、川崎の祖父母を
頼って引っ越してきます。母親はずっと介護の仕事をしていた、朝早くから夜遅くまで働いていて、子どもが不
登校になったことは知っていたけれど、昼間どうしていたかは知らなかったというんですね。5人の子どもをシ
ングルマザーとして育てていた、下に小さい子たちもいて、遼太さんのことをそこまで見るゆとりがない生活。
遼太さんも、13歳で自我が出てきており、親に心配かけたくないからとあまり話さなくなっていた。母親は、
「私はこれ以上どうしたらよかったのでしょう」と。ここに母子家庭の困難さがあり、多くの人たちからの共感
があります。この事件の背景には子どもの貧困があるわけです。
加害者は弱い子たちの集まり、社会からサポートされなかった子たち
加害者の子どもたちの集団も、所謂ヤンキーとして恐れられていたわけではなく、主犯の子の母親はアジア人、
この子たちはハーフ軍団と呼ばれていたそうです。在日外国人の弱い子たちの集まりです。学校教育からも福祉
からもサポートされていない子たちなんですね。報道でもこの問題を見る時に、この子たちがどんな生活をして
いたのか、川崎区というのがどういう地域なのか、主犯の子たちのグル-プが社会から孤立していること、それ
を社会がどうして放置していたのかという取り上げ方になっています。これは今までの加害者のプライバシーを
いたずらに暴露する報道とは違う取り上げ方だと思うんです。スクールソーシャルワーカーという人が川崎には
7人配置されているのですが、なぜ学校がスクールソーシャルワーカーに連絡しなかったのか、学校が出来なけ
れば教育委員会がなぜ連携を取らなかったのか、という風に視点が行っています。川崎市というのは子どもの権
利条例のある市です。それなのに、子どものニーズに合った対応が活用されなかったのはどうしてなのか検証し
ていく必要があるということなんですね。
スクールソーシャルワーカーの役割の大きさ
1994年に大河内君がいじめで自殺した後、大河内君のお父さんが、
「おじさんにいじめの苦しみを教えて」
と呼びかけ関わるという事がありました。この時に初めてスクールカウンセラーができます。その後、阪神淡路
大震災、地下鉄サリン事件とあり、いじめ報道が一切姿を消します。それから16年たち、3.11の震災が起
きるわけです。この時に、全国の40数県から被災地に、スクールカウンセラーが派遣されたことが子どもたち
を救う上で一番助かったというんですね。
それからスクールカウンセラーとは別に、スクールソーシャルワーカーの役割も大きいです。これは2008
年に文科省がいきなり始めたんです。1年だけ国庫負担でやり、その後は地方自治体の予算でやりなさい、と。
実はこれは大阪が最も進んでいて、大阪では2005年に始めているんですね。それで、スクールソーシャルワ
ーカーの有効性が十分証明されていました。どんな人がなれるかというと、一応精神福祉士の資格がある人で、
現場での教育経験があるとなおいいのですが、実際は手探りですから、警察上がりの人や、校長上がりなんてい
う人もいたりするわけです。千葉県は県で6人、川崎市は7人、新宿区は2人、区によっては二つの区合わせて
複数配置というところもあり、まあ、東京は割に多く配置されています。やはり、その子自身が問題ではなく、
その子にどんなサポートが必要か、という事が一番大事だということなんです。
被災して家、親を失い、バラバラの子どもたちには、生活のサポートが必要です。その子はどんな子か、とい
うより、どんなケアが必要か、となると、家庭訪問が必要になってくる。学校の先生にはそこまで手が回りませ
ん。だからスクールソーシャルワーカーが必要になってくる、家庭訪問をして初めて母親が鬱であったりするこ
とがわかる、そこで医療機関につなげるという事が必要になります。生活保護をもらっているのだけれど、母親
が心の病で、その申請をきちんとできなくなっている、子どもの食事の世話が出来なくなっているということも
あるわけで、いろんな機関につなぎ、ケアする必要があるのです。
被災地の仮設住宅の子どもたちなどは、子どもの部屋というのはありません。そうすると親のけんかが聞こえ
たり、親の性生活が見えてしまうという問題もあります。つまり子どもの話を聞くだけじゃすまないんですね。
生活自体への支援が必要になってくるわけです。
川崎の事件を救うためにも、そういうケアが必要だったのではないでしょうか。あの17,8歳の子どもたち
のために、地域のいろんな支援員につないでいくべきだったのでは、と思うのです。
そして、あの子たちの特徴として、人とのつながりに色濃く暴力があると思います。17歳の無職の少年と1
7歳の職人の少年は、18歳の少年の暴力の恐怖にコントロールされていました。何か言ったら仕返しをされる
と。だからその支配から逃れてからしか、安心して本当の事が語れない。
1、いじめじゃない、いじり?―親しい関係と暴力―
私の大学の学生が書いてくれたことから紹介していきましょう。
「いじり」の経験を持つC男さん
「僕が参加していたことは、何人かで一人の服を教室など人目のあるところで脱がせたり、テープでぐるぐる巻
きに手を縛ってベランダに監禁したり、振り子の要領で投げ飛ばしたりといった具合である。今考えると明らか
にいじめだと思う。非常に反省している。しかし、当時は面白半分でやっていた。そして、そんなにひどいこと
をしているとも思わなかった。また、そのことで、友人関係が壊れるという事もなく、普通に仲良くしていた。
」
「いじられ役だった」D男さん
「小・中学校時代、私はいじられ役で、授業・休み時間関係なくいじられていました。自分でもそのキャラクタ
ーは認識していましたし、トータルで見れば楽しい学校生活でした。担任の先生も、小学生の時に一度クラスの
男子に注意したことはありましたが、中学生のときは注意することもなかったので、先生たちは『いじり』とい
う認識をしていたのだと思います。ただ、その中でも嫌だなと感じることはあり、露骨に態度に出している時も
ありました。最も記憶に残っているのは、中学生の時の文化祭で、勝手に好きな子に告白されたことでした。先
生はこの事実を知らないので、何もありませんでした。普段は『いじり』であっても、ときに『いじめ』である
場合もあり、またそのことに限って先生が把握できないこともあると思います。・・・・いじられ役でも学校生
活を楽しんできた私は、教師となって生徒たちを見ているとき、『いじり』であるという判断をくだしがちにな
り、
『いじめ』の発見が遅れるのではないかと思います。自分が経験したようなことであれば、
『あれはいじりだ
し、本人も嫌がるものではないだろう』などと判断してしまうような気がします。
」
D男さんが一番嫌だったのは、好きな子に勝手に告白されたことなんですね。子どもは何が嫌だったのか、が
興味深いです。
親しい関係といじめ・暴力
「いじり」でつながる「友達関係」はなぜ作られてしまうのでしょうか。そこでつくられる友達関係の親しさ
は、夫婦間や恋人同士の間で起こるドメスティックバイオレンスと類似しているのではないかと私は思います。
「あるこども」という映画があるのですが、そこでは、10代で彼女を妊娠させ、職につかず窃盗を繰り返す少
年が出てきます。彼は、生まれた赤ん坊をお金になると言って売ってしまい、彼女が怒ると反省し、赤ん坊を取
り返しに行きます。が、過去の窃盗がわかって刑務所に入れられ、彼女が面会に行く、という映画です。この映
画を見た時に信田さよ子さんが、彼らの愛し合い方が、非常に子どもっぽく、暴力的なのが気になった、という
ことを言いました。親しい中に暴力が入り込んでいる。
暴力とお金だけの関係に安心する少女たち
次の雑誌「教育」の5月号は女子の生きづらさをテーマにしていて、「難民高校生」を書いた仁藤夢乃さんの
インタビューが掲載されますが、少女たちがいかに暴力でつながっているかが語られています。合意のないセッ
クスも、薬物も売春も、お金でつながっていることで安心するというんですね。売春で稼いだお金でホストに入
れあげるのも、金さえ払えば優しくしてもらえるという安心感だと言います。そこにはこの子たちに事情がある、
という風に、仁藤さんは言います。そして、JKビジネスで少女をひっかけようとしている大人たちが、本当に
よく彼女たちの話を聞いてくれ、そして、取り込んでいく、ということに対して、そういう、子どもを食い物に
するのでない大人が、この子たちの話を聞かなければいけない、という使命感で、少女たちの話を聞いていると
いうのです。
デートDVはなぜ起こりやすいか
今は、中学生や高校生でも、男女の親しい友達関係がある中で、
「つきあう」という特定の男女関係になると、
友達関係とは違う親密さを作ろうとします。中学生の場合は、肉体関係にまで進む子はそれほど多くはないです
から、普通に友達として仲良くしているのと、付き合うことの違いをどう作るか、となっていきます。そこで、
友達ではありえないようなぞんざいな言葉遣いや、無理な要求をし合う関係が特別に親しい関係の証になるので
す。たとえば、お前呼ばわりする、高価なプレゼントをし合う、他の友達との約束があっても急に断るなど優先
的な付き合いをする、携帯メールを見せ合って秘密を持たない。それが高校生になると肉体関係も伴うようにな
り、完全にDVになる。
束縛し合う関係をつくろうとする点においては女性が男性を支配することも往々にしておこります。つまり好
きならいう事を聞け、暴力を受け入れろという関係。いやだと思っても我慢することが相手への好意の証のよう
になっているのです。これは高学年の女子同士にも見られる関係です。
恋人同士の関係だけではなく、仲のいい関係を維持するために相手が喜ぶ、面白がるなら我慢する、そのよう
なことが仲のいい友達グループで起こってしまうのではないでしょうか。親しくなるというのはそういう事だ、
相手に嫌だと言ったら関係が壊れてしまう、そういう気遣いが、親しい関係の中での暴力に気付かないという点
で、DVと似ています。
これはなぜなのでしょう。彼らが人間関係を豊かにする時間が減っているせいもあり、居場所のない寂しさが
高じているのかもしれません、
川崎の事件でも、遼太さんは殺される1か月前に18歳の少年からひどい暴力を受けています。それに対し、
大勢の他の子どもたちが抗議し、18歳の少年に謝れ、と言った、遼太さんがみんなに信頼されていることにむ
かついた、と言っているそうです。遼太さんは万引きを断った、でももしかしたら18歳の少年は万引きを強要
されても断れずに手を染めてしまったのかもしれません。万引きを断れた遼太さんは皆に好かれていたのに、自
分の周りにいる人たちは自分の暴力を恐れているだけ、そのさみしさが、殺意へ向かわせたのかもしれません。
佐瀬稔さんが言っていたのですが、以前名古屋のアベック襲撃事件について、なぜ彼らが殺意を持ったのかと
いうと、アベックの男性が女性を必死で守ろう、助けようとしていたからむかついたというんですね。暴力でし
か繋がれない彼らが、そうではない人を大事にする関係に飢えていて、許せなかったのだろうと。
2 暴力とは何か
では暴力とはなんでしょう。森田ゆりさんは、「暴力とは人が自分や他人の心とからだを深く傷つける事」と
言っています。そして、誰からの暴力か、どれくらいの期間かにかかわらず、暴力被害者に共通する三つの心の
状態があるとしています。
一つ目は、恐怖と強い不安を感じること。恐怖や不安によって、それまでできていたことができなくなったり、
暴力をふるう相手の言うなりになったりしてしまう。
二つ目は、無力化に陥ること、何をしてもどうせだめだ、自分には何もできないと自信をうばってしまう。
三つ目は、行動の選択肢をせばめられること。もっとほかにできることはないかと自由に発想を広げることが
できなくなり、自分にできることはこれしかないと限定してしまう。時には復讐という選択肢以外に考えられな
くなる。
3 暴力をふるう子どもたちをどう見たらいいのか
暴力を振るってしまう子どもは、暴力によらずに自分の要求を伝えることを学ぶ機会を保障されてこなかった
のかもしれません。また、別の場や関係においては暴力の被害者で、だれにも心を寄せてもらっていないことも
あると思うのです。あるいは、暴力がくせになっていることも。悲しみを悲しみとして自覚し表現することがで
きずに、怒りに転嫁させる、見捨てられ、孤立してしまう事への不安から、見捨ててほしくない人を暴力でひき
つけようとしているのかもしれません。こういう視点で、18歳の子どもがなぜあれほど怖がられているほどの
暴力をふるっていたのかを見る必要があります。
4 すねて、いじけて、暴れる子どもたちに寄り添う援助者たち
ここからいくつかの事例を紹介したいと思います。
多動傾向のギャオス君と同じ風景を見てみる教師
これは小学校の大江みち先生の実践です。ギャオス君(もちろんあだ名ですが)はみんなとともに行動するこ
とができず、
「うるせーくそばあ」と暴れ、気に入らないことがあると掃除用のロッカーの上に乗っかってしま
います。途方に暮れた大江先生は自分もロッカーの上に乗ってみます。すると違う風景が見えます。ああ、こん
な風に見えてて、ギャオス君はどんなことを思っていたのだろう、と思いをはせるわけです。すると、その様子
を他の子どもたちに見つかってしまいます。
「先生どうしてそんなところに乗ってるの?」
「いつもギャオスが乗
ってるからここからどんな風景が見えるのかな、何を思っているのかな、と思って」。すると子どもたちも次々
と登って来るのです。そして「ギャオスはね」
、とその子のことを皆が話し出します。そのあたりから子どもた
ちのギャオス君への声かけが変わってきます。するとギャオス君が変わってくるんですね。ロッカーの上は危な
いので、大江先生はギャオス君のクールダウンの場所を作ります。そのことで彼は少しずつ落ち着いていきます。
ところが学年が変わり担任が変わると「ギャオスだけ甘やかすのは指導ではない、皆と同じことをさせよう、
そうしなければだめだ」という事で強制し始め、彼は学校中を逃げ回り、走り回ってしまいます。彼は居場所を
なくしてしまったんですね。
攻撃するタクの安心を支える学童保育指導員
学童に、タク君という子どもがいて、暴力と指導員の拒絶で手を焼いていました。でも指導員は分析するうち
に、タク君がある言葉を言うと、急に怒り出すという事に気が付きます。それは「ちょっと待って」。これは私
たちがよく使いう言葉ですよね、ところがタク君にとっては見捨てられると感じる言葉なのです。タク君には、
双子の重度四肢障害児の弟がいるのです。お母さんはその弟に手がかかるので、いつもタク君には「ちょっと待
って」と言って我慢をさせてきたというのです。だからタク君はそれを言われると、我慢が出来ない。「弟はか
わいい、でも俺だって!」となるわけですね。ダンプの運転手をして頑張っているお母さんにその話をすると、
お母さんは泣き出してしまいます。
「今日も学校の先生にタクが暴力をふるって困ったと言われた」と。指導員
は、「お母さんもつらかったんだね」という事で共感しながら彼を見守っていきます。お父さんもタクをびしっ
とさせなきゃ、と気負ってきつい指導をしていたのですが、指導員が「お父さん、タクは優しい子だから大丈夫
だよ」というと、対応が変わっていくのです。
自己形成史を綴り、もう一度生き直す高校生を支える教師
困難校の高校の先生は、現場の困難な現実に苦闘していましたが、ある時弁護士さんたちと生徒で作っている
「もがれた翼」という劇を見ます。その中に、
「心の傷」という言葉が出てきて、もしかしたらうちの生徒もみ
んな心の傷を抱えているのでは?と考え、これまでの人生、どうして来たのかという自己形成史を、社会科の授
業の中で書かせます。自分の物語を描き出させるんですね。その中で、子どもたちの見方が変わっていったと言
います。
そんな彼と憲法9条をどう教えよう、という話をした時に、私は「9条よりむしろ25条じゃないの?彼らの
生活そのものが25条じゃない!?」と言ったことがあります。まさに目の前の生徒達とどうやって授業をする
かが大事だと思うのです。その後彼は25条を生きた現実のものとしてとらえさせる実践を展開していきます。
5 子ども理解と子どもの発達援助
田中孝彦さんが、子ども理解のための本を編んでいく過程で 共有されてきたことを3つにまとめました。
①個々の子どもが生活と内面の表現を通して自己を形作っていく過程に、実践的に伴奏すること
②子どもを理解することと、子どもを理解しようとする親・援助職・教師たちが自らの生き方や専門性を問い直
すことの不可分な関連性
③それらのおとなたちの相互援助・相互理解の関係を作り出す必要性を含んだ、子ども理解という課題の塾大差
についての認識
人間が人生を「物語る」ことを通して「自己」を構成するという事実、それに関心を向けた人間発達の援助と
いう仕事という認識が大事だと思うんですね。
6 東日本大震災 被災地の子どもたちの発信から
私は今日この講演を終えて12時半にすぐに出かけなければならないのですが、それは福島の相馬高校の演劇
部の子たちとのトークショーに出るためです。
相馬高校演劇部はたった7人、役者は3人の芝居で、2011年3月11日以降の高校生の実感として、「今
伝えたいこと(仮)
」という芝居をつくります。この(仮」はずっと取りません。台本をその時々の思いで常に
作り変えていくからです。彼女たち自身のモヤモヤ、怒り、不安などを言葉にしていますから、稚拙だし、思い
込みや偏見も含んでいます。
その中のセリフに、
「もし将来結婚して子どもに障がいがあったら、みんな私たちのせいにされる」というの
があるのですが、ここに障がい者団体が反応します。障がい者だったらいけないのか、と。それを聞いて彼女た
ちは、自分たちのセリフがどんな影響をおよぼすか考え及ばなかった、と言うのです。結局このセリフは「もし
結婚して無事に子どもが生まれなかったら」という風に書き換えます。議論の中で、震災があろうとなかろうと、
一定の割合で障がい者はこの世に存在する、そうした人たちを受け入れる社会かどうかが問われているんだとい
う事も学びます。また彼女たちは全国でこの劇の上演活動をし、福島の現実を知らせる中で、初めて沖縄、広島、
長崎、水俣に行きます。そして「福島の事を知ってよと言っていた私たちが、沖縄や水俣のことを何も知らなか
った。
」と気づき、学び始めるのです。
3.11があったからと言って、東京の高校生が被災地の事は学んでも、水俣を学ぶでしょうか?彼女たちは
自分の現実を目の前にして、学ばざるをえなかった、引き受けざるを得なかったことが学びの出発点になってい
るのですね。私は、
「濃密な高校生活だったね。
」と声をかけました。震災後健康のことなども考え相馬高校を辞
めようと考えたこともある演劇部の顧問の先生は、演劇部の生徒たちに「僕を教師であり続けさせてくれている
のは君たちだ」と言いました。それぐらい重い現実を前にしているわけです。
辛いことを乗り越えて成長する可能性を支える仕事
心の傷という事で、PTSDという言葉がありますが、同時に、PTGという言葉があるのを知っていますか?
P・ポスト、T・トラウマティク、までは同じですが、G・グロース 日本語で言うと「心的外傷後成長」です
が、私は本当に合点がいく言葉だと思っています。震災後の子どもたちが健気に頑張る姿を見て、大人たちがつ
らいのに無理して頑張っているんじゃないか、と心配したという事がありましたが、実は頑張る子たちは心の底
から頑張ろうと思っていた、という事があるんですね。つまり人は何か辛い事があったらダメになるだけではな
く、それを乗り越えて成長していく可能性があるという事、私たちの仕事はそれを支えていく事だということな
んですね。
(おわり)
参考
*教育科学研究会編「いじめと向き合う」旬報社
*講座「教育実践と教育学の再生」第1巻 田中孝彦・片岡洋子・山崎隆夫編著「子どもの生活世界と子ども理
解」かもがわ出版