日A_17 日清戦争と朝鮮(なぜ日本と清は戦争したか) 教P76-78 資P234-235 重要! 1876:朝鮮に いやな無 理を押しつけた日朝修好条規 壬午(じんご)軍乱 ①背景:1876(明治 9)年締結の[1 日朝修好条規 ]は朝鮮を清国から切りはなして「独 立国」とし、朝鮮にとって不平等な内容の条約。清国は朝鮮に対する宗主権は自らにあ ると考えていた。 ソウシュケン:他国を支配・管理する権力 ②経過:朝鮮に渡った日本商人の買い占めで朝鮮民衆の生活が圧迫されると、開国を認 めた[2 閔氏 ]に対し、[3 大院君 ]の人気が高まった。1882 年、軍隊が反政府暴動 を起こし日本大使館を襲撃する[4 壬午軍乱 派兵し対立。日本は[5 済物浦 ]が起こり、日清両国はただちに朝鮮に ]条約で、公使館護衛の軍隊駐留を朝鮮に認めさせた。 1882:クーデタで 人は恥 かく壬午の変 甲申(こうしん)事変 ①鮮国内の対立:明治維新にならい急激な近代化をめざす[6 金玉均 清国との協調をはかろうとする[2 閔氏 ]らの開化派と、 ]政権が対立。 ②経過:1884 年。開化派が日本公使館や日本軍とともにクーデタを起こすが、清国軍に より鎮圧される([7 甲申事変 [8 天津条約 ])。日清両国間の軍事的緊張関係は高まったが、翌年の ]で事態は収拾。1889 年の凶作で朝鮮社会の疲弊は深刻化し、一部地 方機関は日本への穀物輸出禁止を命じる[9 防穀令 ]を出したが、日本政府は撤回と 1884:甲申事変で人は走って クーデタを 損害賠償を要求。 1885:天津で いややごり押し 李鴻章 甲午(こうご)農民戦争と日清戦争 ①開戦:1894 年、朝鮮で大規模な農民反乱([10 甲午農民戦争 ])が拡大。朝鮮政府の 要請で清国が出兵すると日本軍も大規模な軍を派遣し、両国の対立は深まった。日本は 漢城の朝鮮王宮を占拠し、宣戦布告を待たずに豊島沖で清国艦隊と交戦。[11 日清戦争 ]がはじまり、朝鮮半烏は戦場となった。 ②講和条約:日本国内で対立していた政府と議会は開戦によって提携し、民衆も勝利の 情報に熱狂。戦争を支持。列国の干渉をおそれた政府は 1895 年、[12 下関条約 締結。内容は、(1)[13 朝鮮 ]の独立。(2)[14 遼東 ]半島 ]を および台湾・澎湖諸島の割 譲. (3)賠償金 2 億両(約 3 億 1000 万円)、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開港。(5)最恵国 待遇の付与、など。 ③戦後の東アジア:列強はあいついで中国に進出し、鉄道敷設などの権利を獲得。 極東をねらうロシアは、ドイツ・フランスとともに[14 遼東 この[15 三国干渉 ]半島返還を日本に要求。 ]を日本は受け入れたが、軍事力増強に力を入れ、国民の間にもロシ アへの敵意が高まった。朝鮮ではロシアの影響力が強まった。日本公使は[3 大院君 を擁してクーデタを画策し、 1895 年 Q 三国干渉後、遼東半島の利権は? 教科書 p89 の地図【列強の中国侵略】参照。 1898 年、ロシアが清国から遼東半島の旅順・大連を租借。 がしんしょうたん 言葉 ]を起こしたので、朝鮮の抗 1894:朝鮮で 日本一躍 清破る 日義兵運動は全国に拡大した。 → [16 閔妃暗殺事件 ] 重要! 臥薪嘗胆:三国干渉後、「臥薪嘗胆」が盛んに使われた。「たきぎの上に寝て身を苦しめ、苦い熊の 肝を舐めて、悔しさを思い出し,いつかは敵を討つ」という意味。政府はこの言葉を利用し軍事費を増大。 <図解>資料集 P234 日清戦争①参照 1875 年 江華島 事件:日本による朝鮮の開国要求 1882 年 壬午 軍乱:反日的クーデタ 1884 年 甲申 事変:親日派の独立党のクーデタ 1885 年 天津 条約:清国との関係打開 1889 年 防穀令 1894 年 甲午 1894 年日清 事件:防穀令を巡る日朝の紛争 農民戦争:悪政と侵略への抵抗 戦争 1895 年 三国 干渉 1895 年 閔妃 殺害事件 チェック 重要:必ずチェックせよ □壬午軍乱 □甲申事変 □金玉均 □閔氏 ( )群 年 □天津条約 □大院君 組 □防穀令 □伊藤博文 番 氏名: □甲午農民戦争 □李鴻章 □日清戦争 □三国干渉 □臥薪嘗胆 日A_18V 日清戦争後の政治と社会 P80-81 藩閥と政党の接近 ①初期議会 超然主義をとる藩閥政府と、地租軽減な どを求める民党が対立。政府は予算が成立せず。民党 は政策が実現できない状況。一部で両者の接近が始ま る。日清戦争で政党は戦争遂行に協力。 ②戦後の議会 政府と政党が歩み寄り、政府は超然主 義を放棄。第 2 次伊藤博文に[1 自由党 が入閣。第 2 次松方正義内閣に[2 進歩党 ]の板垣退助 ]の大隈重 信が入閣。 ③最初の政党内閣 1898 (明治 31)年成立の第 3 次伊藤内閣は政党と提携しない超然内閣 として成立し、軍備拡張などのための地租増徴案を議会に提出。反発した[1 ]と「2 ] が合同して[3 憲政党]を結成し、大隈を首相とする初の政党内閣である[4 隈板内閣 ] が誕生したが、内部対立で 4 か月で崩壊。 ④第 2 次山県有朋内閣 憲政党の協力で地租増徽案成立。政党の力が官僚や軍部に伸び るのを防ぐため、文官任用令を改正し、[5 軍部大臣現役武官制 ⑤立憲政友会 ]を定めた。 憲政党は超然主義にこだわる山県と決別し、政党に融和的な伊藤に接近。 藩閥勢力の一部と憲政党が合流して 1900 年、伊藤を総裁とする[6 結成、伊藤を首班とする第 4 次伊藤博文内閣成立。 立憲政友会 ]を 重要! 国民意識の確立 ①新聞の隆盛 日清戦争の戦勝報道・講和条約締結、三国干渉といった出来事は、[7 国民]としての意識の形成に決定的な影響を与えた。新聞は遠い戦地の戦局を報じ、社 会の支持を得て部数をのばした。 ②国家主義[8 排外主義的 ]的な風潮が強まり、文学や美術・教育では中国の影響 が批判された。紀元節や天長節など国家の祭日には学校で儀礼がおこなわれ、修身教育 によって[9 天皇]への忠誠心が強調された。 1903 年には教科書が検定から国定へ。 ③国権論 民党も軍拡予算に賛成するようになり。ジャーナリストのなかにも海外膨張 を唱える者が出て、[10 国権]の拡張を主張する論調が多くなった。 Q 第 2 次山県内閣の施策。 ・[1軍備拡張 ]などのための地租増徴案の成立。 ・選挙法改正。選挙資格を直接国税[2 ・[3 文官任用 ・1900 年[4 ・1900 年[5 10 ]円以上に下げ、選挙権を拡大。 ]の改正。行政機関と官僚機構への政党勢力の進出を防ぐ。 治安警察法 ]制定。社会運動を取り締まる。 軍部大臣現役武官制 ]制定。陸海軍大臣は現役の大・中将にかぎる。 し も の せき こう し 日清講和条約( 下 関条約) かんしょう さ えつ 189 5( 明治 28 )年 4月 23日 1895(明治28)年4月17日調印 三 国干 渉 ―ロシ ア公 使使 の勧 告 へい か これ ここ その したが っ かか り ょ う とう ゆう めい む じつ か んこ く >>カ桂太郎→サ西園寺公望→カ桂太郎→西園寺公望(→桂太郎) ろ こく あやう あた た ほう こ 澎湖列島 重要! 桂園 (けいえん)時代 1901-1913:カ→サ→カ→サ 露国皇帝陛下ノ政府ハ、日本ヨリ清国ニ向テ求メタル講和条件ヲ査閲スルニ、其要求ニ係ル 遼 東半島 しょう がい ヲ日本ニテ所有スルコトハ、常ニ清国ノ都ヲ 危 クスルノミナラス、之ト同時ニ朝鮮国ノ独立ヲ有名無実 なが ゆう ぎ トナスモノニシテ、右ハ将来永ク極東永久ノ平和ニ対シ 障 害ヲ与フルモノト認ム。 随 テ露国政府ハ、 き 台湾 雪やコンコ♪ <<明治の総理大臣:順番に覚えよう!>> か さね ほう 遼東半島 日 本 国 皇 帝 陛 下 ノ 政 府 ニ 向 テ 、 重 テ 其 ノ 誠 実 ナ ル 友 誼 ヲ 表 セ ン カ 為 メ 、茲 に ニ 日 本 国 政 府 ニ 勧 告 ス ル ニ 、 遼 東半 島ヲ 確然領 有ス ル事 ヲ放 棄棄 スヘキ コト ヲ以 テス 。 重要! 場所チェック 内閣制度成立~初期議会~ 1885-1901 年:イ→ク→ヤ→マ→イ→マ→イ→オ→ヤ→イ >>イ伊藤博文→ク黒田清隆→ヤ山県有朋→マ松方正義→イ伊藤博文→マ松方正義→ イ伊藤博文→オ大隈重信→ヤ山県有朋→イ伊藤博文→ 必ず覚えよ! 日 A_19 v イ 伊藤博文 ① 長州 ク ___清隆 重要! 欧化 政策 1885-1888 1 答えは教科書 P214 を見てください 明治の内閣総理大臣 _枢密_院の設置 薩摩 _明治__憲法発布 2 _超然_主義 ヤ ___有朋① 長州 _教育__勅語発布 3 マ ___正義① 薩摩 _大津事件 4 イ 伊藤___② _日清戦争 5 マ 松方___② __金本位制を実現 6 イ 伊藤___③ 自由党・進歩党=_憲政 党 7 オ ___重信① 憲政党 _隈板_内閣 8 ヤ 山県___② _軍部大臣_現役武官制 9 _治安_警察法 イ _____④ _立憲_政友会が基礎 10 カ ___太郎①陸軍・長州 陸軍、1902 年_日英_同盟 11 _日露___戦争、_ポーツマス__条約 サ___公望① 政友会 _南満州鉄道_株式会社創立 12 カ 桂___② _大逆_事件 13 1910 年韓国併合 サ 西園寺___② _明治_天皇没(大正へ) 14 1911-1912(大正元年) _陸軍2個師団増設問題で陸軍と対立 Q 明治の内閣総理大臣に関して 1、4回総理大臣になった人 ( 伊藤博文 2、最初に政党内閣を組閣した人(大隈重信 3,最長の在任期間の人 年 組 番 ( 氏名: 桂太郎 ) ) 重要! 憲政党を中心とした最初の政党内閣) 日 A_20 産業革命の時代 教 P82 図表 244 産業革命 貨本主義の発展 日清戦争後、[1 紡績業 ]を中心に機械制大工業が発展、企業勃興。 政府は賠償金で得た金貨を兌換準備にあて、 1897(明治 30)年[2 貿易が促進されて外国資本導入の道も開かれた。日本は[3 世界の資本主義のなかに組みこまれた。 注:industrial revolution「18 技術革新による産業・経 金本位制 ]を確立。 産業革命 ]の時代をむかえ、 殖産興業政策「鉱工業・軽 工業」 」世紀後半英国か ↓ 官営→民間へ払い下げ 済・社会の大変革。 日清戦争前後「 軽 」工業中心 ↓ 軽工業の進展 ①紡績業 日露戦争前後「 重 」工業中心 綿糸輸出税と綿花輸入税が撤廃され、中国・朝鮮への綿糸輸出が急増。 1897 年には綿糸の輸出高が輸入高を上まわり、日本は[4 綿糸輸出国 ]になったが、外国綿花に依存したので国内の綿作は衰退。 ←この木製力織機の発明者は「 豊田佐吉 1867-1930 」 豊田佐吉は、発明家・実業家で現在のトヨタグループの創始者 この力織機で儲けた利益でトヨタ自動車を設立した ②製糸業 日清戦争のころをさかいに、[5 器械製糸 重要なので覚えよう! ]が座繰製糸を上まわった。家 内工業も残存。 ?「機械」でなく「器械」と書く理由? 1887 年前後、蒸気を動力とする[6 ③織物業 力織機 ]の使用開始。 1901 年、日清戦争の賠償金の一部をあてて官営の[7 八幡製鐵所 ①重工業部門 ]が完 成。鉄鉱石は国内産以外に清国の大冶鉄山から輸入。重化学工業、軍事工業の基礎が固 まった。?なぜ、福岡に作られたか? ?なぜ「鉄」ではなく「鐵」か? ⑤輸送 1901 年、[8 青森 鉄は金偏に失うでげんがわるい! ]から長崎まで幹線鉄道が完成。海運も発達し、船舶が大型 化、海外航路が開かれた。 社会問題の発生 ①労働争議 資本主義の発展にともない、工場で働く人々が激増。大半は繊維産業で、 多くは女性であり、低賃金・長時間の労働を強いられた。 1894 年、[9 大阪天満紡績 ]工女のストライキをかわきりに、各地で労働争議が起きた。 ②政府の対応 1900 年、第 2 次山県有朋内閣は[10 治安警察法 り締まりを強化。高野房太郎や片山濳が[11 労働組合期成 会 ]を制定して運動の取 ]を結成し、労働組合 の考え方や社会主義思想を紹介。最初の社会主義政党である社会民主党が結成されたが、 [10 ]により即日解散となった。 ③ 社会問題 栃木県の[12 足尾銅山 選出代議士[13 田中正造 ]で鉱毒事件が起き、大きな社会問題に。栃木県 ]は被害農民とともに鉱毒防止・被害民救済を要求する運動 を起こし、警察と衝突した。 「 八幡 」製鉄所 やはたせいてつしょ 明治 34 年(1901)日本初の銑鋼一貫操業を開始した「 官営 」 製鉄所。昭和 9 年(1934) 半官半民の日本製鉄となり、第二次大戦後、過度経済力集中排除法などに基づき八幡製 鉄・富士製鉄など 4 社に分割、昭和 45 年(1970)に富士製鉄と合併して新日本製鉄とな り、2012 年に新日本製鐵と住友金属工業が合併して「 「 田中正造 新日鐵住金 」となる。 」政治家。足尾鉱毒事件の指導者。栃木県生。 重要! 名主の家に生まれ、領主六角家の失政を糾弾して追放されて以来、 国事に奔走する。明治十二年「栃木新聞」を創刊、自由民権運動に 参加。1890 年の第一回「 衆議 」院議員当選、足尾鉱毒問題で、 政府と古河財閥に対して被害農民の側にたって半生をかけて闘う。 明治 34 年には代議士を辞し天皇に直訴する。次いで谷中村の遊水 池化に反対。晩年は治水事業に尽力。大正 2 年(1913)歿、73 才。 「 足尾鉱毒 」事件 重要! 明治中期、足尾銅山の廃液が原因となって起きた公害事件。汚染した[渡良瀬」川流 域の被害農民らの再三の請願や、田中正造の天皇への直訴で、政治・社会問題となった が、政府の弾圧と切り崩し策で運動は衰退した。日本[公害 」運動の原点とされる。 Q グラフは、日清戦争 前後の綿糸生産高・輸入高の推移をあらわしたものである。下の表および教科書 p.82 の グラフを参考にして、輸出高の推移を書きいれ、グラフを完成させよ。 答えは教科書 P82 → □金本位制 □豊田佐吉 みんな 重要です! □田中正造 □器械製糸 □片山潜 □足尾造山 □八幡製鐵 日A_21V 日露戦争へ(北清事変と日英同盟を経てロシアと開戦) 教科書P88~91 図表P238 列強の中国進出 1840-42 年アヘン戦争:英のアヘン密輸に清が抗議 英と清の戦争 1856-40 年アロー戦争:英のアロー号の清の臨検に抗議 清と英仏連合軍の戦争。 1894-95 年 日清戦争:朝鮮の支配権を廻る、日清の戦争 →下関条約:賠償金、朝鮮の独立承認、領土の割譲、4 市の開市 重要!提出のプリントには必ず色分けしておくこと 19 世紀末、世界は{帝国 列強の中国分割 }主義の段階に入り、アフリカ・太平洋諸 島に続きアジアでも列強による植民地化の動きが強まった。日清戦争後、列強は対日賠 償金に喘ぐ清に借款を与えるのと引き替えに利権を得て、 { 中国分割 }をおこなった。 ②各国のおもな租借地 ドイツ… {山東 }半島の膠州湾 ロシア… { 遼東 }半島の旅順・大連 イギリス‥・ 威海衛と{九竜 }半島 フランス… 広州 { }湾 アメリカ… 中国分割に加わらず、{門戸開放}・ 機会均等を提案。 北清事変 ①清国の排外運動 列強の中国分割が進展すると、清 国では「扶清滅洋」をかかげる{ }が勢力を拡大し、1900(明 義和団 治 33) 年 に 北 京 の 各 国 大 使 館 を 包 囲({ 義和団 }事件})。清国政府 もこれを支持して各国に宣戦布告。 ②列強の出兵 日本・露・英・米等 8カ国出兵、北京占領、清は降伏。 1901 年、{北京 }議定書で多額の賠償金の支払い や北京への駐兵権等承認。中国の半植民地化進行。 日英同盟 ・北清事変の間にロシアが満州を占領したことは、日本・イギリスの脅威に。 ・日本は{ 交換 韓国}に対する影響力を失うことを恐れた。元老の伊藤らが唱えた{満韓 }論に基づく日露協商論に対し、{ 桂 }太郎内閣は、イギリス、と軍事同盟を 結んでロシアをおさえる日英同盟論を主張し、 1902 年に{日英同盟 }協約締結。 日露戦争開戦と人々の生活 ①開戦 日本とロシアは{朝鮮 }・満州の権をめぐる交渉中も、互い開戦準備を進め た。1904 年、日本艦隊が仁川(インチョン)港・旅順港を奇襲攻撃し、宣戦布告前に開戦。 2 ・比較 開戦時 面積(km ) 人口(人) 41 万 日本 歳入(億) 常備兵力(人) 軍艦排水量(t) 4600 万 2.5 ロシア 2300 万(56 倍 1 億 3000 万(2.8 倍) ②経過 20 万 26 万 20(8 倍) 300 万(15 倍 51 万(2 倍) 1905 年1月{旅順}占領、3月{奉天}会戦、5月{日本海}海戦に日本は辛 勝するが、戦争継続不可能。米大統領{セオドア・ルーズベルト}に戦争終結の調停依頼。 重要! ↑{ 旅順} {バルチック}艦隊航跡→ ③ロシアの状況 軍事力には余裕があったが、政府による労働者虐殺事件 {血の日曜日}事件」が発生。全国でゼネ・スト発生、産業麻痺、戦争継続は困難に。 }で講和条約調印。小村寿太郎 VS{ウィッテ 君し死にたもうこと勿れ 作者名:与謝野晶子 ああをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば }・{ 親のなさけはまさりしも 旅順 親は刃をにぎらせて (2){ 韓国 人を殺せとをしへしや ②内容(1)日本の{ 人を殺して死ねよとて二 ①講和 1905 年、米の{ポーツマス 十四までをそだてしや 作者名: 大塚楠緒子 お百度詣 ふたあし国を思へども ひとあし踏みて夫思ひ 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや‥ 願い事を祈願するため に寺社の入口から本堂・ 本殿まで百回往復する参 り。 ポーツマス条約と民衆 } }における独占的支配権を認める。 大連 }租借権、南満州鉄道利権を日本へ。 }の北緯 50 度以南を日本に割譲。 (3)賠償金は支払わない{樺太 (4)沿海州沿岸の漁業権を日本に与える。 ④講和反対運動 家・ { 賠償金 }のないことが伝えられると、財界・政治 国権主義者ら反発。戦争の犠牲と重税に耐えてきた民衆の不満爆発。 1905 年東京で{ 日比谷焼き討ち }事件が起こると{ 桂 }内閣は{戒厳 }令で鎮圧。 ⑤日清戦争との比較 教科書 P91 → 戦費は外債7億、内債6億 増税3億 2000 万で賄われた 戦死者 軍事費(億) 兵力動員(人) 日清 1.4 万人 18.3 108.9 万人 日露 8.5 万人 2.3 24.1 万人 戒厳令:戦時・内乱などの非常時に際し車隊に行政・司法(裁判)の権限を認める法令。 教 P114,127 1 回 1905 年日比谷焼打事件 2 回{関東大震災 } 3 回{二・二六 }事件
© Copyright 2024 ExpyDoc