生きざま、死にざま 波乱の人生を歩んだ人物をピックアップしてみました。 Cardano (75才 1501-1576)イタリア 名医として、後に数学者として名をなす。攻撃的性格とギャンブル好きが災いした人 生。Tartaglia との秘密の約束を破り、彼が考えた3次方程式の根の計算法を本に書 いてしまったことで批判される。しかし、無理数の存在や確率の概念にもっとも早く気 づいた人物とされている。キリストの星占いを数値評価して投獄される。長男は妻を 毒殺しようとした罪で死刑。次男は親に勝るギャンブル狂で財産のすべてを失う。父 親がしたように、自ら死の日を予告し、食を絶って死す。 Giordano Bruno (52才 1548-1600) イタリア ポーランドの天文学者コペルニクスの信奉者。空間は無限に広がり、すべてが相対 的な関係にあるとした。焚刑の最期をとげる。 Galilei (78才 1564-1642) イタリア 異端者の死刑囚監房にて死す。家族の墓に入れず。350年後、教会はガリレオの理 論を受け入れるが、「教会が異端者としてガリレオを裁いたこと」は認めず。 Pascal (39才 1623-1662) フランス いつも頭痛と胃痛を訴えていた。胃潰瘍で死す。30才のとき、自然科学から足を洗 い、病床の中でキリスト教の研究に集中。このときの膨大な走り書きは、後世になっ て「パンセ(人間は考える葦である)」として編集される。 Euler (76才 1707-1783)ドイツ→ロシア→ドイツ→ロシア 目を酷使し失明。オイラーはプロイセン王国が誕生した直後に生まれ、ロシア帝国が 誕生した直後にペテルスブルグから招かれる(20才)。オイラーの父はベルヌーイの 息子と、本人はベルヌーイの孫と親交をもつ。時代は産業革命前夜、ロシアで地図作 成、電気機械工学、造船、工学教育に携わり、帝国に貢献する。34才でベルリンに 戻るが、地図作成での眼精疲労に起因する視野狭窄が発現。ベルリンの25年間、 視野狭窄の中で膨大な論文と著書を書く。59才で、再びペテルスブルグに戻り、数 年後に失明。オイラーの著作の半分は、息子や友人のロシア科学者の協力によって、 失明後になされた。数論や微分幾何や変分法などの研究も多く、“数理工学者の偉 大なる父”である。世はバッハの時代、オイラーも作曲したが「音楽的数学、数学的音 楽、奇怪!」との評価だったらしい。聴いてみたい! Bessel (62才 1784-1846) ドイツ→ロシア 14才で学校を中退して農場のデッチになる。天文に興味をもち20才のときハレー彗 星の軌道計算をして認められる。以降、天文台の無給助手から台長になる。高等教 育を一切受けなかったが、ガウスによって学位を贈られ大学教授となる。 Abel (27才 1802-1829) ノルウェー 貧困と不運! 大酒のみの父は死んで借金を残し、一家を養うことに。パリ・アカデミ ーに投稿した論文(5次方程式は加減乗除と根号で解けないという証明)が行方不明 に。数学会の大御所ガウスに手紙を送り、認めてもらおうとしたがそっけない返事。ガ ウスの死後、アーベルの手紙がガウスの引き出しから未開封で見つかったという逸 話がある。フィアンセのもとへソリで行く途中、結核が悪化し死す。死後、コーシーが 多くの数学メモを収集して出版。楕円関数論を見てガウス感嘆する。ルジャンドルは 論文が埋もれていた件を知り憤慨する。 Galois (21才 1811-1832) フランス フランス革命後の反動に反対して、決闘死。直前に方程式論(アーベルの結果を含む 根の体系化)を遺言として書き、友人に送る。死後15年に公表される。ガロアの有限 拡大体は、現代の I T 技術で広く実用されている誤り訂正符号、暗号、擬似ランダム 系列などの基礎になっている。 Boole (49才 1815-1864) イングランド → アイルランド 両親は靴職人。ギリシャ語、ラテン語など、語学に興味をもつ。数学にも興味をもつが 特別な教育を受けず、19才でアイルランドの学校設立に関わり、教育と経営に参加。 暇を見つけてケンブリッジに行き、ラプラスやラグランジェの論文を読んで独学する。 27才のとき、はじめて数学の論文(微分方程式の代数的解法)を書きド・モルガンに 送り、Royal Medal を受賞。41才でブール代数を発表。これが後に数理論理学へとつ ながる。冷たい雨の中、学校まで歩き、濡れたまま講義し、そのまま歩いて帰宅。発 熱し急死す。 Mendel(62才 1822-1884) オーストリア 修道院で植物学を学ぶ。ウィーン大学へ留学して多くを学ぶ。教員採用試験に2度チ ャレンジしたが失敗。1866年のメンデルの法則の論文は難解で理解されないまま、 1868年より修道院長になり職務に専念。論文は、死後(1900年)になって評価され た。 Riemann(40才 1826-1866)ドイツ ゲッチンゲン大学でデデキントの5年先輩。肺を患い、健康の不安を抱える。後に療 養を兼ねてイタリアに移り、そこでリーマンの影響を受けた数学者が排出する。内向 的で心気症。デデキントが健康を気遣い、いろいろと世話をやく。 Dedekind (85才 1831-1916) ドイツ 一生独身。カントールの良き相談相手。デデキントが居なければカントールは挫折し たかも? Cantor (73才 1845-1918) ロシア → ドイツ 欝病となり、精神病院にて心臓発作。整数論者クロネッカーにいじめられた一生。 Hilbert (71才 1862-1943) ロシア → ドイツ 「数学者は結婚すべからず」が口癖。結婚した弟子(アッカーマン:述語論理の無矛盾 性を証明)を左遷するほど。ところが、本人は結婚していて息子が一人。自己矛盾! ヒルベルト・プログラム(数学そのものを“言明”によって体系化しようとする試み:超数 学)は現代数学への巨大プロジェクト。多くの数学者を育てた。 Russel (98才 1872-1970) イングランド 伯爵の次男坊。父の遺産は2万ポンド。4回結婚し、他にも複数の女性関係あり。50 才の時点で、2万ポンドは別れた妻や女の慰謝料で消える。反戦運動を続ける。孫娘 はベトナム戦争に反対して焼身自殺。78才のときノーベル文学賞。受賞理由は著書 「Marriage and Morals」! 賞金は1万ポンド。受賞後3番目の妻と離婚して4度目の 結婚。慰謝料は1.1万ポンド。兄が死に、伯爵と莫大な借金と兄の妻の扶養を継ぐ。 金と女に翻弄された長い一生! きっちりと慰謝料を払ったことはノーベル賞に値す る! 集合論とヒルベルト・プログラムの土台を揺るがすパラドックスはあまりにも有 名。本人も、パラドックスの公正さに疑問をもち、その階層構造を模索する(タイプ理 論)。 Brauwer (85才 1881-1966) オランダ 謹厳実直+天才的ひらめき! 排中律に疑義を唱え、ヒルベルトを悩ます。交通事故 死。 Wittgenstein (62才 1889-1951) オーストリア 小学校教師のとき生徒を殴打して引責辞職する。以後、ケインズの世話でケンブリッ ジ大学へ行き、言語哲学を拓く。生涯独身。 Neumann (54才 1903-1957) ハンガリー → アメリカ 幼少から英才教育を受けたユダヤ人。量子力学からコンピュータまで、とてつもなく広 い研究成果を残す。モルゲンシュタンと共に作り上げたゲーム理論は、最近になって、 ナッシュらによってミクロ経済学として開花した。晩年は癌に犯され、研究への執念と 死の恐怖の狭間で心理的に破綻する。 Godel (72才 1906-1978) チェコ → アメリカ ヒルベルト・プログラムを完成させようとしたが、そのような試みが不完全に終わること を証明してしまう。プリンストンにてアインシュタイン、モルゲンシュタン、ノイマンの世 話になる。菜食主義者。脅迫症、拒食症にて餓死。 Turing (42才 1912-1954) イングランド 40才のとき、少年との homosexual で逮捕される。刑務所または発情ホルモンの一年 間の注射。後者を選ぶ。電気分解の実験指導中に急死。かじられたりんごからシアン 化合物が発見される。そういえば、Leonard de Vinci も homosexual!
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