第12章 癒しの力 文学

第 12 章 癒しの力
文学
1. 差別 用語
2. 文学にあらわれた差別問題
3. 障害者を主題にした作品
4.「はっきり見えてきた」水野源三
5.「愛、深き淵より」 星野富弘 6.「大江光の音楽」 7. 詩集「傷める葦を折ることなく」 ちびくろさんぼ・原本
文学にあらわれた差別用語を点検し、削除又は改正、あるいは本そのものの
絶版を求める運動がある。またこれに対して「言葉狩り」だという批判がある。
文学の中で障害者はどのように描かれてきただろうか。それを差別だと言う前
に、この文学が成り立っている社会と歴史総体の中に生きた障害者をとらえた
いと思う。はじめに指摘された差別用語を見よう。つぎに、差別文学とされたホッ
トな話題の問題が何であるかを理解したい。そして、障害者を主題にした作品
を三つ取り上げよう。
1. 差別 用語
ひごろ何気なく使っている言葉に障害者を傷つける言葉があり、指摘されて
初めて自覚することがある。時には激しい糾弾によって認識することになる。
「差
別用語」または「不適切語」「不快用語」をめぐる問題は障害者自身による解放
運動によって社会的な検討課題となっている。放送界では「言い替え集」など
を発行して対象療法的なとりくみをしたが、それだけでは解決できない。問題
は差別の実態がなくなってはいないということである。
言葉それ自体としての「差別語」なるものは、存在しないということは、差
別解放を担ってきた松本治一郎氏によっても明確にされている。それにもかか
わらず、差別「発言」問題は起こっている。言葉の問題だけでなく、差別の実
態が指摘されているのである。
以下は「差別用語の基礎知識」を参考にした。
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第 12 章 癒しの力・文学
障害者差別表現 「気違い」
「気違いに刃物」
「狂人に刃物」
「狂気の犯行」
「野放しの精神異常者」
「色
気違い」「これら言葉によって治療は停滞し、家族は萎縮し、回復期にある患者
にショックを与え、ひいては異常な状態をおこす一因ともなりかねないという
事実が医学的に存在する」
身体障害者に関する表現
「めくら」「つんぼ」「おし」「つんぼ桟敷」「めくら判」「あきめくら」
「片手落ち」「目がつぶれるほど本が読みたい」 盲人協会からの抗議、全国視力
障害者協議会、
法律の「不快用語」 「不具」「廃疾」「つんぼ」「めくら」「おし」
長野県信濃町が 1980 年 10 月、自分も障害者の議員が町議会で「福祉の時代に
ふさわしい用語に改正できないか」と質問、これを受けて町当局が給与条例の「不
具廃疾者」のことばを削除した。同町議会は「用語改正の意見書」を全会一致
で採択、国と県に対して、そのことばを法律、条例で使わないよう要望したこ
とから、各都道府県議会や福祉団体が用語改正に取り組み出すなど、全国に波
紋を広げた。
「不具」「廃疾」→「障害」
「つんぼ」→「耳が聞こえない者」→「ろう」
「めくら」→「目が見えない者」
「おし」→「口が聞けない者」
「白痴」→「精神の発育の遅れた者」
「身体の障害」「傷病」「高度障害」「重度心身障害者」「精神薄弱者」
「重度の精神薄弱者」
聖書 「おし」
「かたわ」
「つんぼ」
「気違い」
「こびと」
「せむし」
「びっこ」
「貧乏人」
「不具」
「不具者」の 10 の語が用いられていた 30 箇所を言いかえる改訂を行った。1984
年2月
差別語を考えるガイドブック 仏教における差別語を検討している。「座禅ができないかたわやきちがいは悟
れない」という項目に障害者を排除してきた歴史を記している。めくら、つんば、
ちんば、めくら蛇におじず、つんぼ桟敷さじき、めあき千人、めくら千人、あき
めくら、めくらめっぽう、めくら判をあげている。仏教が生み出した差別理論
は「因果」と深い関係にある「業」として説かれ、
「親の因果が子に報い」とか「こ
んなことになるとは、宿業としかおもえない」などという言い方がされた。そ
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第 12 章 癒しの力・文学
れは奈良・平安期の景戒という薬師寺の僧が編纂した「日本霊異記」という仏
教説話に集成された。
もともと、
「因果」や「業」は、社会現象などを説明するための原理ではなく、
宗教の立場において、自らを主体的に省みるときの原理、もしくは仏道修行を
する際に、必然的に介在することがらなのです・・・・ところが、これが勧善
懲悪といった通俗的な価値判断と結びついて、世間的な意味での「善因果、悪
因果」という図式を固定化させた」という。」
古典芸能「落語」の中の差別語 三遊亭夢楽
古典落語が 500 種類あり、その中で講演される話は 300 あるといわれる。その
中の 100 種類のなかから障害者を話題にしたものについて。
こたつ
「あんまの炬燵」「いわれ座頭」「三人片輪」「せむし茶屋」「三人旅」のなかで、
どもり、唖など差別語はほとんどにでてくるという。また差別問題をのぞいた
ら落語はなりたたないともいう。(「用語と差別を考えるシンポジウム実行委員
会」)
ことわざのなかの差別語
「障害者と差別表現」(生瀬克己著)には 190 のことわざが抜き出されている。
そのなかから主なものを記す。
「愛してみればめっかちにも愛がある」「朝でた ちんばにはおいつかぬ」「あほ
につける薬はない」「あほの一つおぼえ」「あほは風邪ひかぬ」「生まれもつかぬ
つんぼ
片端」「気違いに刃物」「聾の早合点」「馬鹿正直」「盲に道を教わる」
その他の差別表現
「チビ」「デブ」「チビッ子」「落ちこぼれ」→「立ちおくれ」
人の身体的特徴についての蔑称的表現はさける
文学作品と差別表現
「ピノキオ」問題 「びっこのきつねとめくらのねこのこじき」がやってきまし
た。日本の「ピノキオ退治」に対して、イタリヤで抗議声明が出され、イタリ
ヤ大使館も憤慨しているそうである。
区別と差別
「区別」ということと「差別」とは違うものです。区別とは、人種や民族や男
女の性、あるいは国籍などのように、たんに生まれつきのちがいを示すものです。
職業や仕事それ自体の違いも区別です。ところが、その区別がある特定の人々
に精神的にあるいは経済的に、すなわち物心両面の生活上に、苦しみや不利益
をもたらすことが「差別」になります。すなわちこのたんなる「区別」にすぎ
ないものが、ある特定の人々を社会からのけもの扱いにしたり、その人々をみ
さげたり、あるいはいやしめたり、そのしあわせを奪ったりするようなことに
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第 12 章 癒しの力・文学
なるのが「差別」であるといってよいでしょう。 (「差別と部落」)
2. 文学にあらわれた差別
「てんかん」記述をめぐって 「無人警察」筒井康隆 「日本てんかん協会」(高橋哲郎会長)は昨年 7 月記者会見し、1994 年度版高校
教科書「国語1」
(角川書店)に採用された筒井康隆氏の小説「無人警察」が、
「て
んかんに対する差別を助長する」と教科書からの作品の削除などを求めた。
筒井氏の作品「無人警察」で「差別を助長する」と指摘された個所
「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波測定機
で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作を起こす前に病院
へ収容されるのである」
「わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪い
ことをした覚えもないのだ。このロボットは、何か悪いことをした人間が、自
分の罪を気にしていると、その思考波が乱れるから、それをいちはやくキャッ
チして、そいつを警察へ連れてゆくという話だった」
議論の経緯 用語規制めぐり論争
日本てんかん協会の要求に対し角川書店は教科書からの削除を拒否。筒井氏
は「覚書」で「自分はブラック・ユーモアの文学的伝統を守ろうとしている」
と反論した。筒井氏は「断筆宣言」を 9 月発売の月刊誌「噂うわさ)真相」で発表。
断筆の理由を、「糾弾への抗議」「自由に小説が書けない社会的状況」「そうした
風潮を是認する気配が、言論媒体に見られる傾向への抗議」と述べた。
日本てんかん協会は、 10 月末のテレビ朝日の「朝まで生テレビ」で「抗議文の
中に、文庫、全集の回収まで求める表現があったのは勇み足」とわびた。
同協会は、「教科書が使用されると、てんかんの症状を持つ人の人権が侵害さ
れる」と日弁連人権擁護委に人権侵害救済を申し立てている。
断筆宣言後、筒井氏を批判、支持する論調がそれぞれ登場。作家の大江健三
郎氏は「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくの
が作家ではないか」(読売新聞)と評している。
一方で週刊文春が「『言葉狩り』への疑問を検証」するシリーズを始めるなど、
週刊誌による用語規制批判の動きが起きている。
断筆宣言その後 筒井康隆氏インタビュー 朝日新聞 (1994.2.24)
小説の中のてんかんについての記述が「差別を助長する」として抗議を受け
た作家の筒井康隆氏が、「あたしゃ、キれました。プッツンします」と断筆宣言
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第 12 章 癒しの力・文学
して 5 カ月余り。文壇に波紋を広げただけでなく、メディア側にも「言葉狩り
と自主規制をやめよ」との問題提起をした。宣言の意味するところは何だった
のか。メディアと差別表現の関係はどうあるべきなのか。
――まず、当事者のてんかん協会の人となぜ話し合わなかったのですか?
僕のところに言いに来てくれればよかったんだが、彼らはまず、記者会見し
て新聞に発表してしまった。
――それでも、昨年 10 月のテレビで同席するまでの間に会う機会はあったと
思います。てんかん協会だけが問題じゃない。今までこういうことはいっぱい
あった。てんかん協会の抗議はたまたまそのきっかけにすぎない。
――一つひとつできる限り誠実に対応するのが表現者としての責務では。
それはそちらからの注文であって、僕にはメディアに注文がある。僕らに直
接対決させて下さい。対決の場でも、どなるとか腕力で相手を屈伏させないな
どのルールができていればいいのですが。そうじゃないんですよ、今まで。
――雑誌で、表現の自由に悪影響を与えてきた団体として部落解放同盟のこ
とを名指しされていますが……。
そう思います。解放同盟も今は反省してるんではないですか。
――解放同盟から糾弾されたことはあるのですか。
はい。かつて士農工商何とか(SF作家と自己卑下した、とテレビで語って
いる)と言ったときに、電話がかかってきて「話をつけましょう」と言われま
した。私は「謝れ」ということだと理解しました。
――電話も一度だけで、しつような抗議や糾弾はなかった?
そうです。
――ではなぜ、糾弾の内容を知っているのですか。
人の話を聞いて。書いたものを読んで。
○だれにも差別意識
――表現の自由は、権力の介入や操作に対してであって、弱者を傷つけるも
のであってはならないと思う。傷つけられた人々の声にマスコミが耳を傾けて
きた結果があなたの言う自主規制であり、言い換えというものになった。話し
あって自分の表現を変えていくということがあってもいいのでは。
えーっ。それがいけないんじゃないですか。言葉だけで傷つくというのが
……。これは差別的表現を使っているけれど、われわれを傷つける意図で使っ
ているのではない、と判断できるのが知性でしょう。
文学の方では、ほんとうに差別的な人間が相手を差別する意図をもって差別
的なことを書く自由があるかどうか。僕はあると思う。
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第 12 章 癒しの力・文学
――「断筆宣言」の中で「炭鉱のカナリアとしての作家」「小説が、タブーな
き言語の聖域となることを」と書いている。作家は特権階級ですか。前衛ですか。
作家は皆そう思っているんじゃないですか。また、そう思ってなきゃね。
――ブラックユーモアを「人種差別をし、身体障害者に悪辣(あくらつ)な
いたずらをしかけ、死体を弄(もてあそ)び、精神異常者を嘲(あざけ)り笑
い……」などと説明していますが……。
差別意識はだれにでもある。なければもう人間ではなくなってしまうところ
もある。人よりもえらくなろうというのも差別意識だし……。
てんかん協会の人も僕の作品の他のブラックな差別的なものは、おもしろい
と、喜んで読んでいるんです。人間は他人のいたみは絶対わからないというの
も真実だと思う。
○問題提起になった
――やはり新聞としては「つんぼ」とか「めくら」とか言われて傷つく人が
いる限り、なかなか書けない。
言い換えがだめなんですよ。目の不自由な人と言われて怒るあんまさんもい
る。書き換えていったらきりがない。だれが何に傷つくかわからないもの。め
くらはめくらでいいですよ。
――言い換えを全部なしにしていいのですか。
自主規制の本(いわゆる言い換え集)は撤回した方がいいんじゃないですか。
――言論人として弱者や被差別者を守る責任は?
作家は言論人ではありません。作家にはそういう社会的責任はない。社会人と
してはありますよ。作家はそんなもんもっとったらたいへんです。芸術家であ
ることは無責任にもつながるわけですよ。
――やはりてんかん協会が抗議した時点で会うべきだったのでは……。
てんかん協会と水面下でコソコソ話し合うより、断筆宣言した方が問題提起
になったんじゃないですか。
(聞き手 本田雅和)
作家と差別表現 部落差別を描き続けてきた作家・土方鉄氏に聞く
朝日新聞 (1994.2.25)
京都の被差別部落に生まれ、部落差別を部落の内部から描き続けてきた作家
の土方鉄氏(67)に「作家と差別表現」について聞いた。
私は、小説「無人警察」そのものは差別でもなんでもないと思っている。た
だ日本人のもっているてんかんに対する知識のなさなどを考えると、教科書と
して使われることに疑問を感じる一人だ。どんな教材をもってきても対応でき
る教師というのはごくわずかだ。表現の自由と人権は決して対立しない。人権
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第 12 章 癒しの力・文学
を守るために表現の自由があるのに、筒井さんは対立的にとらえている。その
表現が差別にあたるかどうかについても、作家の潜在的な意図など判断できな
い。作品は作家から独立したものであり、活字となったもので批評や判断は行
われるのだ。
彼は教科書にこの小説を載せるため、つまり文部省の検定をパスするために
数十カ所の修正を受け入れたが、ほとんどは句読点や漢字をかなに直したもの
だとテレビで釈明している。しかし、こういう修正も、もの書きにとっては非
常に大切な文体が変わるということだ。それをのんでいて、メディアの言い換
えを批判している。
私も言葉の言い換えには基本的には反対だ。言葉は消えても差別は潜在化す
る。水平社宣言でも「エタである事を誇り得る時が来た」といっている。部落
解放同盟は、「部落」が差別語だとか、言い換えを要求したことは一度もない。
たとえば「めくら」という表現も、本来ならそれが堂々と使える社会でなけ
ればならない。「エタ」のように元来差別語として生まれたものと、「めくら」
のように歴史の中で言葉が差別的に使われるようになったものは違う。
一律的な言い換えや自主規制のための言い換え集は、トラブルを避けるため
のことなかれ主義で差別を温存する。新聞社などのメディアが差別に対しどう
取り組んできたか、その歴史などをきちんと記録した記者ハンドブックこそ、
作るべきです。(談)
てんかんを持つ人
「日本には、人口の 1 パーセント弱、およそ 100 万人がてんかんをもつといわ
れている。・・・日本てんかん協会の会員は 1993 年末現在、7000 数百人いる。
・・・てんかんは慢性疾患ではあるが、それ自体はごく短時間の発作を生じるだ
けで、人格的にはなんら問題はない。薬を飲みつづけることで、発作は抑制さ
れ普通の生活ができる。」(「ことばと差別」)
十分な解明がなされているとはいえないが、てんかんについて分かってきた
ことは、慢性の脳障害で、大脳ニューロンの過剰な発射の結果発作がおこる。
その診断は、臨床発作の確認と、てんかん性の突発性異常波が脳波の検査によっ
ておこなわれる。そして治療は、発作の抑制だけでなく、心理的側面、社会生
活の指導、職業、リハビリテーションなどを含む包括的治療でなければならない。
(「今日の治療指針」1990)
てんかんの子供をもつ親は、子供の病気そのものを心配するよりも、この病
気にたいする偏見の目で子供が差別されることの方が恐ろしいという。現に、
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第 12 章 癒しの力・文学
小さいときから薬を飲み、運動をひかえて、てんかんを克服し、成人していく
人は少なくない。「無人警察」のなかでてんかんの患者がブラックユーモアの題
材としてとりあげられ、しかも、てんかんについて、それが大脳ニューロンの
過剰な働きであることが判明し、薬で発作を抑制できるようになった最近の情
報に対する無知から、筒井氏のかたくなな態度となり、「言葉狩り」へと問題を
歪曲して行った過程をみることができる。現に苦しんでいる人がいるとき、そ
れをブラックユーモアの主人公にするというのはどうだろうか。共感、共苦が
ないところで語られる言葉は、差別語になりやすい。てんかん協会が主張する
ように、問題の解決はてんかんという病気の正しい理解と、患者の苦しみを分
かち合う方向で、論じられることではないだろうか。
ピノキオ ゼペットじいさんが作った人形ピノキオは、人間の子供のように放したり動
くことが出来る。ある日、家を離れて過ちも犯し、危険な目にもあうが、その
たびに美しい仙女ファータが見守っていてくれる。からだの弱ったゼペットじ
いさんに再会してピノキオは過去を反省し、ゼペットのために恩返しをする。
その報いとしてある朝、人形のピノキオは人間の子供に生まれ変わる。これが
ピノキオ物語の概要である。
1976 年、名古屋の一市民が小学館にたいして「むこうからびっこのきつねと
めくらのねこのこじきがやってきました」といった表現を障害者差別を助長す
るものだと抗議した。小学館は「びっこ」「めくら」の表現について問題性を認
め回収するが「ピノキオ」そのものが「差別文学」だとする意見には慎重に検
討したいと回答した。
これに対し名古屋で「『障害者』差別の出版物を赦さない―まず、ピノキオを
洗う会」が発足した。この事が新聞に報道され「ピノキオ」問題が世間に知ら
れるようになった。名古屋市立図書館は閲覧と貸し出しの中止を要求される前
に、自発的に閲覧不可とした。長崎では公開質問をうけて、県立図書館、学校
図書室で貸し出しを中止すると回答した。
これらのやりとりにたいして、回収や絶版、また閲覧や貸し出し禁止の処置
をしたとして、障害者差別をなくすことにどのような貢献をするのかという論
議が起こった。
「ピノキオ」は 1880 年代にイタリヤの子供新聞に「あるあやつり人形のおは
なし」として連載され 15 回ぐらいで終わろうとしたが、子ども達の抗議を受け
た作者が、その続きを「ピノキオの冒険」という題で書きつづけたといわれる。
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第 12 章 癒しの力・文学
作者コロディは当時のイタリアの独立と統一のために闘った革命家であり、こ
の作品も大衆の立場で書かれている」(「差別用語の基礎知識」177)。 また日
本の「ピノキオ退治」に対して、イタリアで抗議声明が出され、イタリア大使
館も憤慨したといわれる。
もし「びっこ」「めくら」という用語を差別的だとする場合、その障害を持つ
当事者がこうむっている差別を示して抗議することによって訂正することは、
一つの方法であり、聖書の用語が訂正された例を見ることが出来る。
もっと内容的にうそをつくと「鼻がのびる」とか「遊びすぎてロバになる」
と言った点を因果応報の刑罰思想として批判しているのかと思われるのだが、
この点に関しても、人は過ちを犯しその結果ひどい目にあうということから教
訓を得ることはあるわけで、その「むくいや刑罰として、障害を人為的に与え
たり動物にすることは、それ自体障害者差別をしたことにはならない」(「ちび
くろサンボとピノキオ」184)。回収や絶版また貸し出し禁止という処置は、む
しろ秘密主義を導入することになるのであって、問題の解決に反する。むしろ、
問題文書の問題点を示して考えてもらうように、テキストとして公開すること
こそ望ましいのではないだろうか。
ちびくろさんぼ ひとりでジャングルにでかれ 4 匹の虎をだしぬいた「ちびくろサンボ」はイ
ギリスからインドにわたった一婦人バナマンが 37 歳の時、6 歳と 3 歳の自分の
娘達を喜ばせたいと思って創作され、イギリスで発行された。イギリスでは日
陰もの扱いされ、アメリカでは非難の的になったが、日本では愛され岩波版で
は 37 年間に 120 万部を売り上げたのであるが、「黒人差別をなくす会」からこ
の本に抗議する手紙を受け取った岩波書店は絶版を決定した。これによって「ち
びくろサンボ」は 1988 年「東京で死んだ」。(「さよならサンボ」)
原作は虎がいるインドを舞台としサンボは恵まれた家庭で高い背もたれのつ
いた椅子に座って白いクロスのかかったテーブルに座っているのに、貧しい家
庭に移しかえられ、話の舞台はアメリカに移され、いつしかサンボ達はアメリ
カ黒人になってしまった。1950 年代のニューヨークのハーレム地区で黒人の子
ども達は「ちびくろサンボ」絵本が大好きだった。所が 1972 年には多くの図書
館から姿を消していた。(「さよならサンボ」)バナマンと同じ様に 9 歳までイン
ドで暮らしたエリザベス・ヘイは「ちびくろサンボ」絶版の事情を調査し日本
にも差別問題があることを知って被差別部落と在日朝鮮人が居住する地区を訪
ねたが、「わたしの見た所、日本の『ちびくろサンボ』問題に関する論争は、そ
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第 12 章 癒しの力・文学
の問題が及ぶ限りの多様な実際面を理解し、社会全体が討論して、積極的な模
索を重ねた上に生まれた、広汎な社会的合意を基盤として討論がなされている
ようにおもえなかった。また・・・日本人は、突然絶版にし、出版リストから
の削除を宣言するとか、学校や公共の図書館からの追放を強要するというよう
に、いったいに極端な反応を示す傾向がある」と言っている(「さよならサンボ」)。
その文学的価値が例えば民族や障害者差別からの解放にとりくむ運動の中で、
根こそぎ否定されることになる。もし、歴史的に問題があるのであれば、問題
を指摘し、問題から学ぶためにも、抹殺してしまうのはよくないのではないだ
ろうか。「さよならサンボ」はこの意味で本書の誕生から、アメリカでの評価、
日本での受け止め方を明らかにし、他民族の共存を指向している。このような
学び方こそ正しい歴史学習とおもわれる。
3. 障害者を主題にした文学
文学にでてくる最初の障害者は日本の国つくり神話のなかにでてくる。イザ
ナキノ命とイザナミの命との間に生まれた子が障害児で 3 年間歩けないために
葦の船に乗せて捨てたという。性交の時女が先にさそったことが原因と指摘し
ている解釈もある。以下、現代語訳でこの部分を読んでみよう。
古事記 そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖
な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は
「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましよう」と
仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああなんとすば
らしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が「ああなんと素晴ら
しい少女だろう」と言い、それぞれ言い終わって後、男神は女神に告げて、
「女
が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しか聖婚の場所で結婚し
ひるこ
て、 不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に
淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。 ひるこ
蛭子とは、書記には蛭児と記し、3 年たっても脚の立たない子、障害児を指し
ている。女がさきに言葉をかけたのを良くないとしたのは、「婦唱夫随」によっ
て不祥の子が生まれたとする説がある。ところが、本来は、イザナキ・イザナ
ミ二神は兄妹であって、二上の結婚は兄妹結婚説話の系譜をひくものであろう
という説もある。兄妹結婚によって、不具の子が生まれたとする説話は、中国
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第 12 章 癒しの力・文学
南部から東南アジアにかけて広く分布する。次に老人に関する江戸時代の伝承
楢山の話へと進もう。
楢山節考 おりんは 69 歳。70 歳になると楢山まいりに行き、そこに遺棄される定めの年
を迎える。食べ物にことかく貧困の村で、生き延びるために老人たちはやむを
えず犠牲になっていた。その年が近づいているのに、なんでもかめる歯を恥ず
かしいこととおもわれた。子ども達は祭りの時にうたう「楢山節」をもじって、
「ねっこのおりんやん納戸の隅で 鬼の歯を 33 本揃えた」と、33 本の歯をもっ
たおりんのことをはやした。おりんは「歯の抜けたきれいなお年寄りになりた
かった。それでこっそりと歯の欠けるように火打ち石で叩いてこわそうとして
いたのである。」彼女はまた、石臼のかどにがーんと歯をぶっつけた。口が飛ん
でいったとおもうほど痛かったが、歯が二本欠けただけだった。その年が近づ
くと「おばあやんは、いつ山にいくのか」と催促した。
息子、辰平は雪の楢山に老母を背負い登っていく。残酷な掟にしばられた極
限の生を描く。背板に乗せられた母が道々小枝を折っている。息子はそれを目
印にまた戻ってくるのではないかと言うと、母は「いや、お前が帰る道を間違
わないように小枝を折っている」という問答を印象深く記憶しているのだが、
本書に見つけることができなかった。映画の台詞だったかもしれない。古事記
の蛭子を棄児とすれば、本書は江戸時代の棄老をテーマとしている。次に、海
外で健闘している日本人女性、米山ふみ子さんの話を聞こう。
過ぎ越しの祭り
著者米山ふみ子は、ユダヤ系アメリカ人と結婚し、二人の子供をもった。そ
の一人は狂暴性の発作を起こす障害をもっている。その子ケンを施設に入れる
までの話。
ユダヤ人の「過ぎ越しの祭り」は日本のお盆のように必ず一族が集まり、そ
こでしきたり通りの務めをはたさなければならない。子供の障害がどんなに大
変であるか理解しない親族の中で、苦悩する。
ケンを施設に入れる一週間前のことだった。あの狭いトイレの中で手を洗
おうとしたわたしの髪をケンが大きな手で鷲づかみにした。わたしは脳震盪
を起こすのじゃないかと危惧した。ナチの収容所に入れられた人々は皆こう
いう仕打ちを受けたのだろうか。頭が半分はカバー出来そうな大きな手で、
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第 12 章 癒しの力・文学
思い切り力を入れて頭髪を引っ掴むので、私は前のめりにケンの胸に倒れか
かり、頭の天辺が彼の胸元にいった。その途端、がぶっと、あの子はわたし
の頭に噛ついたのだった。幸い頭髪の多いわたしは頭に傷をつけられること
はなかったが、息も絶えだえにもがき、小さい声で「放してっ」と哀願し
た。わたしには引き放す力はとうていなかったし、そうすればそうとうの髪
を失うことになっただろう。こういう発作が起こっている時、あの子は何か
が襲っていると思うのだろうか。眼が釣り上がり、歯を食いしばって、逼迫
した形相になる。・・・結局、わたし一人で何もかもやっている。買い物の
事から、学校の事から、この子の世話。何も歯向かわない子供なら、世話を
して疲れはしても神経は疲れない。このように狂暴性のある大きな男の子の
世話は、元来、男の人の仕事である。だが、夫は心臓を痛めたので何も出来
なくなってしまったのだ。・・・世間の人はどうしてあの子を何処にも入れ
ないのだろうと、わたしが馬鹿のように思っている。・・・・
第 94 回芥川賞授賞作は本書であった。海外に出ていく日本人が多くなった。
異文化のなかでどのような経験をしているのだろうか。海外で、子どもの障害
者をもつ女性の経験をよくあらわしている作品に芥川賞が送られた意味は大き
い。
「障害者の」文学と呼ぶのは内容的にもたいへんおこがましい。障害者なの
にとか、障害者だからかけるというような受け取り方ではなく、「文学作品」と
して触れることが礼儀だろう。テキストに触れてすすめていこう。 4. はっきり見えてきた 水野源三
自分の力ではうごけない生きられないと
気づいた瞬間に
私をしっかりささえていてくださった
キリストの愛の御腕が
はっきり見えて来た
小学校 4 年生の時、この町に赤痢が流行し、感染した水野さんは高熱のため
に脳性小児マヒとなり、四肢の自由を奪われ、声がでなくなった。キリスト教
に触れたのは小児マヒになって間もなくのこと、町の教会の宮尾牧師から 1950
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第 12 章 癒しの力・文学
年に受洗した。水野さんは教会にいけない。東京で会社づとめをしている五つ
違いの長兄が、源三さんのかわりに、礼拝に出席し、牧師から聞いた話を、弟
に伝えたという。重症の子を思う母うめじさんは、後に源三さんともども熱心
な信者となった。源三さんは筆を握る力がなく、声もでなかった。このような
源三さんの才能を引き出したのは母うめじさんの愛に満ちた工夫によっている。
彼女は、ある日、源三さんがまばたきで自分の意志を伝えていることに気づいた。
そこで、50 音の文字盤を源三さんに示し、指先をずらし目配せによって文字を
書く方法を考案した。水野さんの詩は文字どおり母との共同作業によって生ま
れた。
5. 愛、深き淵より 星野富弘
二番目に言いたいことしか
人には言えない
一番言いたいことが
言えないもどかしさに耐えられないから
絵を描くのかもしれない
うたをうたうのかもしれない
それが言えるような気がして
人が恋しいのかも知れない
黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜきれいに咲けるのだろう
私は
大勢の人の愛の中にいて
なぜみにくいことばかり
考えるのだろう
(はなしょうぶ)
神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ペンペン草の実を見ていたら
そんな日が
228
第 12 章 癒しの力・文学
本当に来るような気がした
洗礼を受けた日
ガラスごしにさし込む冬の陽が、シクラメンの花びらの重なりに柔らかな影
をつくっていた。ベッドが部屋の隅に寄せられ、その上に真白なシーツがかけ
られてあった。私はガウンのそでに片腕だけを通して(ひじと肩の関節がかた
くなってしまい、両袖を通して着ることができなかった)新しい車椅子でその
病室にはいった。教会に行けない私の洗礼式のために婦長さんが用意してくれ
た病室だった。
「おめでとう」 教会の人たちの明るい顔が、次々と部屋にはいってきた。
牧師の祈りのあとみんなで讃美歌を歌い、私は「父なる神とキリストと聖霊を
信ずる」と信仰の告白をした。私のひたいに牧師の手によって三滴の水がつけ
られ、私が神の言葉に従って、この地上での道を天国の故郷に帰れるその日まで、
神の愛によって力強く歩んで行くことができるよう祈ってくれた。
人がどんな気持ちでながめようと、さくらはさくらの色を少しも変えやしな
いし、散りかけたものは、一秒だって待つわけではなかった。悲しみの目でみ
ようと、酒をのみながらみようと、たとえその枝で首をつる人がいたとしても、
ぶらさがっている人の横で、さくらはあいかわらず、美しく咲きつづけること
だろう。私は動けないでいる。おそらくこれからも、ずっと死ぬまで動けない
だろう。そして、動けないことを悲しみながら一生を終えても、このめぐって
くる季節に、何の変化があるだろうか。だとしたら、この摂理のなかで、自分
の体をかなしむ
動ける人が
動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように動けない者が
動けないでいるのに
忍耐など必要だろうか
そう気づいた時
私の体をギリギリに縛りつけていた
「忍耐」という刺のはえた縄が
“フッ”と解けたような気がした
229
第 12 章 癒しの力・文学
私は自分の足で歩いている頃、車椅子のひとを見て気の毒にと思った。みて
はいけないものをみてしまったような気持ちになったこともあった。私はなん
とひとりよがりな高慢な気持ちをもっていたのだろう。
車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもこんなにもうれし
いというのに。初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて初めて曲が
れたときのような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらっ
た時のような・・・・。
でも今、廊下を歩きながら私を横目でみていった人は、私の心がゴムまりの
ようにはずんでいるのを多分知らないだろう。健康なときの私のように、憐れ
みの目で、車椅子の私をみて通ったのではないだろうか。
幸せってなんだろう。
喜びってなんだろう。
ほんの少しだけわかったような気がした。それはどんな境遇の中にも、どん
な悲惨な状態の中にもあるということが。そしてそれは一般に不幸と言われて
いるような事態の中でも決して小さくなったりはしないということが。病気や
けがは、本来、幸、不幸の生活はもっていないのではないだろうか。病気やけ
がに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入感や生きる姿勢のあり
方ではないだろうか。
母
私が入院する前の母は、昼は畑に四つんばいになって土をかきまわし、夜は
うす暗い電灯のしたで金がないと泣きごとを言いながら内職をしていた、私に
とってあまり魅力のない母だった。私がけがをしたとき、話を聞いただけで貧
血をおこし、気管切開の手術のあとをみてへなへなと座りこむ母だった。
母が世間一般にいう強いひとなら、私をおいて家へ帰り、私のために自分の
すべてを犠牲にするようなことはしないで、もっと別な方法を考えたかもしれ
ない。しかし母には私をおきざりにできない弱さがあった。そのどうにもなら
ない弱さが、いまの母を支えているもっとも強い力ではないだろうか。
木は自分で動きまわることはできない
神様に与えられたその場所で
精一杯に枝をはり
ゆるされた高さまで一生懸命伸びようとしている
そんな木を
友だちのように思う
230
第 12 章 癒しの力・文学
母の手は
菊の花ににている
かたくにぎりしめ
それでいてやらわかな
母の手は
菊の花ににている
よろこびが集まったよりも
悲しみがあつまった方が
しあわせに近いような気がする
強い者が集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
(「愛、深き淵より」)
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛が近いような気がする
本当のことなら
多くの言葉はいらない
野の草が
風にゆれるように
小さなしぐさにも
輝きがある
おまえを大切に摘んでゆく人がいた
臭いといわれ きらわれ者のおまえだったけれど
道の隅で 歩く人の足許を見上げ
ひつそりと生きていた
いつかおまえを必要とする人が
現れるのを待っていたかのように
お前の花 白い十字架に似ていた (「四季抄」「風の旅」)
星野富弘さんは昭和 21 年 4 月 24 日生まれ。群馬大学を卒業して、中学の体操
の先生をしていた。放課後のクラブ活動の指導中、マット運動で 4 番目の頸椎
231
第 12 章 癒しの力・文学
を損傷した。それ以来寝たきりの生活となった。大学をでて教師になって、二
ケ月の時だった。長いベットの生活のなかで、口に筆を加えて、花を書き、詩
をつくり、何冊も本を出して、ひろく知られるようになった。その最初の本が「愛、
深き淵より」と言う名前で、「深き淵より、神に呼ばわる」という旧約聖書の詩
編からとられている。
この中で、膀胱結石になり、手術をする話がある。整形外科から泌尿器科の
病棟に移動し、手術前の質問をうけた。生年月日、職業、けがをした日、そし
て「特別な宗教をおもちですか」という最後の質問があった。「キリスト教です」
と応えてしまった。教会にいったことはなく、聖書も半分も読んでいないのに、
「宗教は何か」と問われて「別にありません」とはどうしても言えなかった。私
は自分がどこに向かっていくのか、何に向かっていけばよいか分からなかった。
その不安がまったく知らない人のいる泌尿器科に移ってさらに大きくなり、お
しつぶされそうになりながら、私は心のより所を求めていた。そんな私の耳も
とを時々、風のようにささやいていくことばがあった。
「労する者、重荷を負う者、
我に来たれ」。それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架に書かれて
あった言葉だった
不思議なほどに覚えていたその言葉を、おそるおそる開いた聖書の中に見つ
けたとき、私がまだ健康でなにも知らないで飛び回っていた頃から、すでに、
私にこの言葉を与えてくれていた、神様のこころを知ったような気がした。
・・・・
この言葉に従ってみたいと思った。クリスチャンと言える資格は何も持ってい
ない私だけれど、「来い」というこの人の近くに行きたいと思った。
手術が終わって、泌尿器科から整形外科の病棟に移動した時のこと。
夜になると廊下で誰かが話しているのが聞こえることがあり、その話に私の
名がよく出てくるようになった。それは看護さんの声だったり、医師の声だっ
たり、でも、いつも同じようなことを繰り返して言っていた。「星野さんどうし
てまたもどってきちゃったのでしょう。あの人ここに戻ってきてもしようがな
いのに。ベットが空くのを待っている人がたくさんいるのよ。ああいう人めい
わくだなぁ・・・」。話し声は毎夜聞こえた。わたしはその度にからだをちぢめ
て耳をふさぎたくなった。が気を取りなおして、おちついてみると、それは私
にはまったく関係のない話だったり、水道の音だったり、物音一つしていない
時もあった。その夜、その話し声の中で、私は明日こそ先生に、私がここにい
るのは迷惑なのか聞いてみよう、もし迷惑なら他の病院に移させてもらおうと
決心しながら、一生懸命眠ろうとした。しかし、翌日の回診の時になると、先
生は力強く励ましてくれるし、看護婦さんはいつも優しいことばをかけながら
床ずれの治療をしてくれるのである。私は昨夜のとりこし苦労からの決心がば
232
第 12 章 癒しの力・文学
かばかしくなってしまうのだが、夜になるとまた同じ声が聞こえてきてしまう
のであった。
母も同じ心配をしていたらしく、看護婦さんに聞いたらしい。すると、看護
婦さんはこう言ってくれた。「たしかにそういう話も出たことはあったが、それ
は星野さんの体の状態が良くなった時のことで、今はまだここにいたほうがよ
いでしょう。こういう所は他の個人病院とは違って、本人がいくら入院したい
といっても、その必要がなければ絶対に入院できないのです。前のベットに戻
れたというのは、この科で受け入れてくれたということです。先生が退院しな
さいというまで、安心して入院していなさい」といわれた。(同書 115-122)
ここには生死の境をさまよう心の経験が記されている。境界領域とは現実と
妄想された世界の境界のことである。妄想の世界で被害感情が強くなる。そこ
からまた現実に引き戻されるのである。深刻な危機をふりかえり、その自分を
対象として見、また自分の経験とするために時間が必要であった。そして、一
つの視点をもって見渡す世界が生まれ、新しい世界があらわされている。その
視点でしか見えない世界である。
6. 大江光の音楽
まず光さんの音楽を聞いてみよう。 「人気のワルツ」 光君はフルートの音がとても好きです。それに小泉浩氏に演奏
していただけるのが楽しみで、心はずんで作曲した作品。お母様がお気に入り
というので、こんな楽しい題名になりました。「 森のバラード」 「ノクターン」
「バースデー・ワルツ」 仲良しの妹さんのお誕生日にプレゼントした作品。
まとまった一曲の作品としては、初めてのもの、自分で書いた五線紙をまるく
巻いて、赤いリボンを結んでピアノの上においてありました。 「アベ・マリヤ」
「ブルクミューラーの OP.25 の練習曲」のなかのアベ・マリヤを練習している頃、
同じ題名を五線紙に書いて、「僕のアベ・マリヤです」といいながら作った作品、
他。 わが光の音楽 大江健三郎
光には誕生した際に、頭部に異常がありました。その手術がおこなわれて、初
めて光は確実にこの地上で生きることになった、というのが正しいのです。手
術の後も、長らくお世話になった、森安信雄博士がお亡くなりになった時、光は、
「Mのレクイエム」という曲を書きました。それは家族があらためてショックを
受けるほど、澄明で鋭い悲しみにみちた音楽でした。光の作り出した音楽をつ
うじて、もっと深くまで、かれの心の奥行きをはかることができると感じます。
233
第 12 章 癒しの力・文学
光が自分でも音楽を作り出すようになったのは、田村久美子先生からピアノ
を教わりはじめたのがきっかけでした。障害が肉体の動作にも影響をあたえて
いる光に、久美子先生は指の練習にこだわることはされませんでした。様ざま
な工夫をあみだすことで、光が和音をえらびメロディーをこしらえてゆく方向
にみちびいてくださったのでした。そしてある日、僕と妻はモヤシのようにひょ
ろ長い音譜で光が書いた最初の曲を、不思議な思いで眼にしていたのでした。
久美子先生と光の授業を、すこし離れて本を読みながら聞いていると、光がか
れのいちばん良い人間的な素質を、生き生きと確信をこめてあらわしているよ
うに感じます。そしていつか積みかさなっていた光の曲を、久美子先生や、お
なじく励ましてくださる音楽家たちの演奏で聴くたびに、光の内面世界の豊か
さに驚くのです。それは音楽をつうじてでなければ光が生涯ついに表現しえな
かったはずのものであり、僕や妻、かれの弟妹も、決して受けとめることはなかっ
たはずです。僕は信仰を持たない人間ですが、恩寵(グレイス)ということを
音楽に見いだすといわずにはいられません。この言葉を、品の良さ(グレイス)
とも、感謝の祈り(グレイス)ともとらえたい思いで、僕は光の音楽と、その
背後にある、現世の自分達を超えたものに耳を澄ませているのです。
・・・・光は福祉作業所に働きに行きますし、その行き帰りにバスや電車に乗っ
たり、送り迎えの家族と買物をしたりする楽しみもあるわけです。・・・
しかし、かれの生活の中心にあるのは、まさに作曲する事であり、それに関わっ
ての田村久美子先生のレッスンです。音楽を聴くことも、作曲を頂点とする光
のいちばん大切な生活の一環をなしているというべきであろうと思います。
・・・
僕は光にとって作曲することこそ、その生きる上での習慣をなしていると思い
ます。知能に障害のある―知的にはいつまでも子供のままの―息子について、
誇張した言い方と聞こえるかも知れませんが、僕にはかれの作曲の仕事ぶりと
その作品に、光の人格があらわれていると感じるのです。
光がもし作曲をしなかったならば、僕や家族はかれの内面にある、いちばん
奥の箱にしまわれている繊細なものを、ずっと知らないままでいたことでしょ
う。それを表現する手段―和音やメロディーの作り方―をあたえ、表現するよ
うに励まし、そのようにして表現されたものをピアノなりフルートなりで実際
に耳に聞こえるかたちにして人につなぐ。
その過程をつうじて、光の心のうちに―魂のうちに、とさえいいたい思いです
が―あるものを、僕らの共通の世界に呼び出してくださった人たちに対して、
日々感謝を深めています。
234
第 12 章 癒しの力・文学
◇田村久美子
大江光君が音楽を創るようになってから、10 年以上の日々が過ぎようとして
います。光君は、幼い頃から、雪が降るのを眺めたり、小鳥の声を聞いたりす
るとき、それが音になって聞こえていたのだと私には思われます。
そして、成長するにしたがって、歓びや悲しみ、家族や友だちへの想い、いつ
も聴いている音楽作品に対しての思いさえ、こころの中の音を組み立てて表現
したいと思うようになっていたようです。あまり話をしない彼に取って、音楽
はたしかに言葉なのです。
ある時、お母様と国語の勉強中、接続詞がうまく選べない、ということがあ
りました。ちょうど居合わせた私は、ふと思いついて、和音の進行にあてはめ
て説明してみますと、ぴったり彼の気持ちに合った納得がいって、大喜びした
ことがあります。
私にとってそれは、大切な発見でした。最近では、私にとつて、彼と音とを使っ
て音楽を通して話をするのは、ごく自然で、むしろ日常的なことになっています。
しかし、レッスンをはじめたばかりの頃のことを思いかえしますと、それは素
晴らしく大きな事件だったのです。
・・・・その頃から光君はレッスンをたいへん楽しみにしてくれて、私が伺う時
間になると、玄関に時間を合わせた目覚まし時計とスリッパを持って待ってい
てくれたのです。彼の期待に応えるために、何をしたらよいのでしょうか?
私はそれまで勉強してきたつもりの「音楽」というものをほうり出して、光君
と音で話をするように、音の世界を、もういちどはじめから、光君と一緒にの
ぞいてみるようになっていったのだと思います。
7. 島崎光正 神様
あなたは私から父を奪われました。母を奪われました。
妹弟もお与えになりません。
そのうえ、足の自由をうばわれました。
松葉杖をお貸しになり、私はようやく路を歩きます。
電柱と電柱の間が遠く、なかなか早く進めません。
物を落としても楽に拾えません。
乳のにおいをしりません。母の手をしりません。・・・・
(「虹のたてごと」229 頁)
235
第 12 章 癒しの力・文学
ふうきん
汗をかいて訪ねてくれた友達と
たくさん話を交わすため
足の立たないわたくしは
這いずりながら先へ立つ
わたくしの部屋はあちらです・・・
畳を這えば
さらさら音の立つのだが
嬉しい日の音楽でなくて何であらう
わたくしは膝で風琴を鳴らし
ともだちの前をせっせと這ってゆく
頬
母よ
あなたは私と別れる時
永いあひだ頬をすり寄せ
かなしみたまふたといふ
まだいとけなかった私は
ただニコニコと笑っていただけに相違ない・・・
それから幾星霜
山河(やまかは)すらに相(すがた)をあらため
私の歳もはたちを遥かに越えた
煙草の脂を知った指と目見のうるほひと
ああ、今こそあなたを偲ぶのに草に振る雨よりはこまかくはげしいのだ
母よ
たしかにこの頬に触れたまふたのか
枕の蕎麦殻をきしませて眼覚めくる
暁のをりをり
この頬にほのぼの母を知る心地する。
早苗といふは、わがははそはのおん名なり。
顔知らず生別れし母のみ名なれば
われはいたくなつかしみ
学舎に漢字を覚ゆるや
236
第 12 章 癒しの力・文学
火箸もて灰に記せり。
早苗、
早苗、
囲炉裏の火はしばしば消えかかり
おどろきて掻きくべしかな。
早苗は五月そよく陸稲の苗。
彼の淡雪しのび萌えゆるなずなの芽。
母よ、
うつし身は遠く去りたまへど
そのおん名、羽衣のごとさづけたまへり。
伽羅(きゃら)の香りにぞます。
杖 N兄に
神様
あなたは私の足をこんなにお作りになりました
まるで曲がった松の根っこのようです
何かの瘤のようです
近所の子供がよく訊ねます
火傷(やけど)したのかい?いたずらしたのかい?
いやいやと、私は何時も彼らに申します
神様、あなたがお作りになったのだと答える以外に方法が、
ありません
私は悲しうこざいます
けれども、あなたは松葉杖をお貸しになり
私はそれを頼りに歩きます
杖は私を運びます、人より遅く
けれども路の上野人を運びます
村の音楽会にも出かけます
友との別れには送ります
この杖は私にだけさずけたもうた
私にだけ、だから名札をつけません
237
第 12 章 癒しの力・文学
悲しみ多き日にこそ
悲しみ苦しみ多き今こそ
私は主に願った。
暗い真夜中を
主は光の矢となりて導きたもうた
眠りについた家々の窓は固く閉じ
囀りうたう小鳥もなく
私に 何の見えるものがあったろう
何の聞こえるものがあったろう。
死の沼は無気味に湛え、笛を
島崎光正
1919 年生まれ。長野県塩尻市片丘(東筑摩郡片丘村)出身
日本現代詩人会会員。第一回黎明賞受賞。NCC障害者と教会問題委員会委員長。
詩集「故園」、
「冬の旅」
「分水嶺」
「虹のたてごと」
「随想集「心を結ぶ人生論」
「か
らたちの小さな刺」「神の家族―障害者と教会」(共著)
キリスト教雑誌「信徒の友」に投稿詩の欄があって、毎月送られてくる作
品を編者であった故島崎光正氏は読む。作品の中に「身体になんらかのハンディ
を持ちながらも信仰の立場から詩を綴っている何人かの作者」がいることに気
づき、また編者島崎氏自身障害をもっていることから、広く紹介しようという
ことで、「虹のたてごと」は生まれた。詩は文学である限り、たとえ身障者であ
ろうとなかろうと文学の次元において論じられるべきだとする姿勢が貫かれて
いてよい。本詩集には 20 人が取り上げられている。交通事故による障害から筋
ジストロフィー、脳性小児マヒなど、障害はさまざまである。その中から 7 人
の作品をとりあげ、その後に作者の障害とその生活史を紹介をしよう。
秋に 吉沢裕
ああ
私は今朝も目覚めてしまった
夕べの祈りに
あれ程 死を願って
眠りに就いたのに
238
第 12 章 癒しの力・文学
再び目覚めてしまうとは
何ということか!
そんな私の心の痛みを溶かしたような
モーニング・ミストの中に
寂しい晩秋の陽が浸み
心を刺し通す
自分の意志では もう
どうすることもできない
暗い一日が また始まる
寂しき目覚めの
秋の日の朝は
自己嫌悪をもてあまし
絶望の淵に立って
私の人生も秋に来たら
どう自分を始末するか
心を吹きぬける
冷たい風の中で
ただそればかりを考える
悲しみとも
憤りともつかない
激しい感情が胸中を逆流して
無情と非情の中で
私はかたく目を閉じ
時間は
わびしい独りの詩を生むのみ
詩 腐肉の塊まりの中に
かろうじて人間の型を保っている
醜い私です。
けれど
239
第 12 章 癒しの力・文学
そのような肉体の美醜を越えて
今、私は、
美しい詩をひとつ
神様を讃美する
美しい詩をひとつ書きたい。
受傷して三年余
泥人形のような私を
世間の目の中で
守っている家族。
社会の荷物になっているだけの
私の魂の救いを目指している神。
今、私は
この神様の好意に信頼して
生きている。
動きのとれない
病んだ肉体でも
世俗の思いは断ち切れず
祈れとの御言葉に背いています。
祈る言葉は肉体以上に醜く
私の顔は
道化の笑いをしています。
ああ主よ
生涯にわたるであろう
この罪業を
私の弱さをを許し給え
主よ、祈る者として下さい。
福音の戦士として下さい。
吉沢裕
1942 年生まれ、日本大学卒、横浜銀行在職中、人工スキー場開きに出かけ自動
車事故で 33 メートルの谷底に転落。脊椎損傷のため身障者となる。その後、不
動産業に必要な資格や、簿記の資格を取って社会復帰への歩みを試みている。
高校時代に洗礼を受け鎌倉教会会員。
240
第 12 章 癒しの力・文学
無題 石川正一
たとえぼくに明日はなくとも
たとえ短い道のりを歩もうとも
生命は一つしかないのだ
だからなにかをしないではいられない
一生けんめい心を忙しく働かせて
心のあかしをすること
それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている
釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている。
陶器をやきあげる釜の火は美しい
良い作品を生みだそうと
精一杯もえているからだ
そして 真けんに生きる人間の姿も また美しい
くいのない人生をおくろうと
精一杯もえているからだ
完全にもえつきること
それを目指して 生きて行きたい
人間の心なんて
積み木みたいなものなんだね
ちょっとさわれば
すぐくずれてしまう
だから神様の根を
心の中にたくさん
はらしておかなくてはならない
・・・・
石川正一
1955 年生まれ、幼稚園入園のころから筋ジストロフィーの兆候があらわれ、現
在車椅子の生活を送っている。著書に「たとえぼくに明日はなくとも」(立風書
房)日野台教会会員。筋ジストロフィーとは「筋肉に栄養がいきわたらないた
めにおこる一種の奇病である。足から次第に痩せ衰えていき、やがて全身の筋
肉が萎縮し身動きできなくなってしまう。最初におとずれる症状は、なんとな
く歩行に困難をおぼえ、転びやすくなることだ。腹をつきだし、背中を伸ばし、
241
第 12 章 癒しの力・文学
腰で重心をとるようにして歩きはじめる。さらに進行が深まると、歩くことが
不可能となり、手を上にあげることさえ出来ず、そして車椅子に乗るか、寝た
きりの生活になってしまう、だが、それだけではない、そのほとんどの患者が、
15 歳から 20 歳までの間に、死を迎えるのだ。この病気は、病気の型によって相
違があり、現代医学ではいまだに回復のための治療法が発見されていない」
(「たとえぼくに明日はなくとも」)
悪魔よ 岡井久子
悪魔よお前は私を
生まれた時から病という獄の中にとじこめてしまった
悪魔よ お前は五年前から
私の足に足かせを 手には手錠をはめてしまった
悪魔よ お前は一年前から
私をベットという独房へと投げこんでしまった
しかし悪魔よ
お前は私の思いに足かせをはめることができるだろうか
私の心に手錠をはめることができるだろうか
私の魂に猿ぐつわをはめることができるだろうか
私の思いは遠く彼方にとび
私の心に詩や歌が作りだされ
私の魂はつくり主である神を讃美する
悪魔よお前が
私を苦しめるほど
神は私の傍近くにいられる
ヨブの涙 秋風にサラサラと
なっていたジュズコ玉
242
第 12 章 癒しの力・文学
243
第 12 章 癒しの力・文学
ボケット一杯むじゃきに
つみとったジュズコ玉
その学名が「ラクリマヨビ」
「ヨブの涙」とは
秋草はサラサラと
私の胸にささやく
「幸いも神より受くるなら
禍いをも受くべし」
そのむかし苦難の中で祈った
ヨブを思い出せと
岡井久子 1929 年生、脳性マヒの上に、成長後てんかんおよび筋ジストロ
フィーを併発。平塚十全病院入院療養中。詩集「ヨブの涙」(聖文舎)
平塚の中流家庭の 3 人兄姉の末っ子。方々の病院や加持祈祷の場をめぐって
いたが、病名がわかり、父親が勤めていた病院の院長の紹介で慶応病院の前田
博士に出会う。手術後退院。小学校の通学に風がわりの障害児は仲間にぐるり
と囲まれ、「いざり」「びっこ」「かたわ」「おばけの足」と呼ばれ、決して本名
で呼ばれたことはなかったと回想する。突如として母親が亡くなり小学校は 4
年間で中断した。戦争が終わり、新聞で見た千葉のベテスダ・ホームを希望し
入所。婦人だけを対象にした身障者の収容施設である。そこで住み込みの外人
宣教師に導かれて西千葉教会の木下牧師より受洗。父親に先立たれたあと、多
摩全生園に住むらい患者の一人と親子と呼び交わす交わりをもつようになった。
80 歳をすぎたこの方は「父となってほしい」と申し出た岡井さんの申し出に快
く応じ「娘よ」と呼び交わしつつ、彼女に力強い支えとなっている。文通以外
に一度も見たことはないのに。代表作「悪魔よ」は彼女の病気を受け入れる前に、
それを悪魔の試みとし、ついにこれにうち克った福音の自由を歌い上げている。
生きることをはばむものとして前に立ちはだかるものを悪魔として捕らえたの
は、彼女の自然である。「ヨブの涙」は秋風に鳴り、ポケットにつみとったジュ
ズコ玉の学名の原語の意味が「ヨブの涙」であったことに感銘したことを綴っ
ている。本章の冒頭に「ジュズ珠」の絵を掲載している。
星 山田可人
星はながめているだけで いいものだよ
いくら手をのばしても とどきっこないもの
244
第 12 章 癒しの力・文学
もし星の役に たちたいと思ったら
じっとながめていることだよ それが一番いいことだよ
花だっておなじだよ ただながめているだけでいいんだ
もし花の役に たちたいと思ったら
毎日じょろに水をくんで 花にかけてやることだよ
それが一番いいことだ お金なんていらないよ
こんど生まれる時は
こんど生まれる時は 花にうまれたい
あんまりきれいな花で なくてもいい
だれの手も わずらわせないような そんな花に 生まれてきたい
山田可人
1956 年生、脳性小児麻痺。長崎県カトリックの重症心身障害児施設「みさかえ
の園」「彼は、障害からぺんを握れないために、これらの作品を頭の中であらか
じめ推敲の上暗記し、口伝えに保母さんからノートに記してもらうのである。
そのさいにも、言語障害を伴う彼は、決して滑らかというわけにはいかないが、
それらのハンディを克服しながら詩を誕生させている」
自分へ 服部弘
このさびしさを だれにわかって もらえるか
いや神さまだけは わかってくれる
わたしはまい日 そうおもって しんぱいなく しごとにはげんでいる
父のびょうき
とんでいけない このぼくは
いのってやるしか ないけれど
心は帰宅しています
今夜もほしは ひかっている
ほしよ 父とともに いて下さい
こえの中
245
第 12 章 癒しの力・文学
わたしは今 こえの中にいる
せいかたいと わたしたちのこえの中に 立っている
わたしはしずかに 目をつぶる
一人の人が 目のうらを すうっと とおっていった
それはだれなのか またはたして人間か
それもわからん
246
第 12 章 癒しの力・文学