三位一体の主日(マタイ 28:16-20)

主 日 の 福 音 15/05/31(No.771)
三 位 一 体 の 主 日 (マ タ イ 28:16-20)
司祭修道者信徒がみ摂理に信頼して生きる
今 週 は 三 位 一 体 の 主 日 で す 。父 と 子 と 聖 霊 の 三 位 は 一 体 で あ り 、同
じ思い、同じ働き、同じ栄光に満ちておられます。父と子と聖霊の働き
が唯一なので、どの時代の人も、どの国の人も、三位一体の神を信じる
こ と が で き る の で す 。わ た し た ち は 、三 位 一 体 の 神 を 信 じ て い る こ と を 、
どのように証しすることができるでしょうか。
月 曜 日 か ら 金 曜 日 ま で 長 崎 に い ま し た 。月 曜 日 は 、西 日 本 の 司 祭 た
ち が 90 人 集 ま っ て 教 区 対 抗 ソ フ ト ボ ー ル 大 会 で し た 。わ た し は 長 崎 教 区
チームに出たのですが、福岡教区と対戦した第一試合、福岡教区の同級
生ピッチャーの球をまったく捉えることができず、3打席連続ピッチャ
ーフライ。次の試合からは一切使ってもらえませんでした。
大 会 は 非 常 に 熱 の 入 っ た 好 プ レ ー の 連 続 で し た 。面 白 い プ レ ー も あ
りました。高松教区・広島教区連合チームが、長崎教区チームと対戦し
ていた時のことです。わたしは第一試合で大ブレーキだったのでベンチ
に入れず、教区報の写真を撮っていたのですが、高松教区・広島教区連
合チームが、長崎教区チームのピッチャーの足元を狙えということで、
バントを仕掛けてきました。
ル ー ル 上 、ス ロ ー ピ ッ チ の 試 合 で バ ン ト は 禁 止 な の で す が 、他 に 長
崎教区チームに付け入る隙がないと判断したのでしょう。しかも1イニ
ングに3人バントを仕掛けてきたのです。狙いは的中、2人まではバン
トで出塁できました。
味 を し め た か 、3 人 目 の 打 者 で あ る 高 松 教 区 司 教 さ ま も バ ン ト し て
走り出したのですが、足が絡まって半分も行かないうちにドラム缶のよ
うに転がってしまいました。ちなみに、足元を狙われた長崎教区のピッ
チャーとは、今年浜串小教区の黙想会に招いた先輩です。
火 曜 日 か ら 金 曜 日 は 、教 区 司 祭 の 黙 想 会 で し た 。イ エ ズ ス 会 の 大 木
神父さまが黙想指導をしてくださいました。エリート校である栄光学園
とか広島学院で教鞭をとり、その後ネパールで教育者として、さらに障
害者の育ての親として長く献身した方です。ネパールで働くようになっ
たころには、栄光学園や広島学院での教え子たちが社会のあらゆる面で
活躍していて、大木神父さまを全面的に支えてくれたそうです。
た と え ば 、 ネ パ ー ル の 学 校 教 育 に 20 年 間 使 用 し た 校 舎 が 老 朽 化 し
て 使 え な く な り 、1 千 万 円 の 費 用 を 工 面 し な け れ ば な ら な く な り ま し た 。
大木神父さまは1日で工面して帰って来ると告げて首都カトマンズに向
かいます。みんなはそんなことできるはずがないと思っていましたが、
カトマンズに駐在する日本大使はなんと栄光学園の教え子だったのです。
すぐ日本政府の支援を取り付けてお金の目処がついたそうです。生涯の
すべてが、神さまの摂理を感じる体験だったと言っていました。
わ た し は 今 年 の 黙 想 会 の 中 で 、神 さ ま の 摂 理 を 深 く 信 じ る 司 祭 と し
て生きるようにという教えを学んで帰りました。どんな場面でも、神さ
まの摂理の中にある。それを信じて生きる司祭でなければならないとい
うことです。摂理に信頼して行動するなら、きっと神さまが先に立って
道 を 開 い て く だ さ る 。こ の 信 念 に 揺 ら ぎ の な い 司 祭 で あ れ と 、89 歳 の 大
木神父さまは教えていたのだと思いました。
今 週 与 え ら れ た 福 音 朗 読 は 、弟 子 た ち に 対 し 、宣 教 し て す べ て の 民
をわたしの弟子に招くようにと命じています。これは、弟子たちが信じ
たことを証しし、同じ信仰に招くということです。一人ひとりが信じる
ものを信じればよいというのではなく、明確に、父と子と聖霊を信じる
ように証を立てる必要があります。
ど の よ う に し て 、証 を 立 て れ ば よ い の で し ょ う か 。証 を 立 て る の は
三 者 で す 。司 祭 、修 道 者 、信 徒 で す 。三 位 一 体 の 神 が 唯 一 で あ る よ う に 、
そのように司祭、修道者、信徒の三者が唯一の証を立てるならば、わた
したちの証はより説得力を持つはずです。
ど の よ う に 証 を 立 て る の で し ょ う か 。司 祭 、修 道 者 、信 徒 は そ れ ぞ
れ置かれている場所が違っていて、同じ行動を起こすことは困難です。
それでいて、三者が唯一の証を立てることは可能でしょうか。
ど の よ う な 道 で あ れ ば 、三 者 が 唯 一 の 証 を 立 て る こ と が で き る で し
ょうか。黙想会で学んできたことをここで活かしたいと思います。神さ
まのみ摂理に全面的に信頼して生きること、これならば三者は唯一の証
を立てることが可能です。司祭も、修道者も、信徒も、神さまの計らい
はわたしたちを導くのに十分であると確信し、少しも疑いなく生きるこ
とです。
神 さ ま は 、ど ん な 場 面 を も 御 手 の 中 に 治 め て お ら れ る 。だ か ら わ た
したちは心配せず、置かれた場所で精いっぱい生きよう。この基本姿勢
を崩さないなら、キリストを知らないまま生きている人々もわたしたち
の生き方を見て「どこに、あなたたちの生き方の基本があるのですか。
なぜ司祭も修道者も信徒も、同じ生き方を貫くことができるのですか。
その生き方はわたしにも可能でしょうか」このように考える人が現れる
に違いありません。
御父御子聖霊の三位一体の神は、わたしたちが唯一の証を立てて、
父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、だれもが生き方の基本に取り入
れることができる唯一の道に人々を招くよう常に助けをくださいます。
「 世 の 終 わ り ま で 、 い つ も あ な た が た と 共 に い る 」 ( 28・ 20) と 仰 っ た
イエスに信頼を寄せましょう。わたしたち三者が、唯一の生き方を証し
することで、三位一体の神がおられることを人々に示すことができるよ
うに、力と勇気を願いましょう。
キ リ ス ト の 聖 体 (マ ル コ 14:12-16,22-26)