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福音のヒント 聖家族 (2014/12/28 ルカ 2 章 22-40 節)
教会暦と聖書の流れ
降誕祭の後、一年の最後の主日は聖家族の祝日です。朗読箇所は、3年周期でいろいろな
箇所が読まれることになっています。A年はマタイ福音書からイエスの家族のエジプトへ
の避難の話(マタイ2章13-15,19-23節)が、C年にはルカ福音書からイエスが神殿で迷子にな
る12歳のときのエピソード(ルカ2章41-52節)が読まれます。今年(B年)は誕生から40日目の
「幼子イエスの神殿での奉献」の場面です。伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖
家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範とされてきましたが、教会の暦の中では、降誕
祭の余韻として、イエスの幼・少年時代の出来事を味わう日になっているのです。
福音のヒント
(1) この箇所の直前、ルカ2章21節には、「八日たって
割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これ
は、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。
割礼は、男子の包皮を切り取る儀式ですが、ユダヤ人にとっ
ては、これによって神の民の一員となることを表す儀式でし
た。旧約聖書には次の規定がありました。
「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)
れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮
に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三
日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、
聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レ
ビ記12章2-4節)。
ですから、22節の「モーセの律法に定められた彼らの清め
の期間が過ぎたとき」とは誕生から40日後ということになり
ます。ところで、この「彼らの清め」の「彼ら」とは誰か、
という問題があります。普通に考えれば産婦であるマリアの
ことですが、なぜ複数形なのでしょうか。ここには、「マリ
アの清め」と「イエスの奉献」という二つのことが同時に考
えられているからでしょうか。
(2) 23節「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」は、出エジプト記13
章2節などからの引用です。この「聖別される」は、直訳では「聖なる者と呼ばれる」です。
「山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽をいけにえとして献げる」は、レビ記12章6-8節に
基づいています。このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」で
すが、
「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」として鳩だけのいけにえが認めていまし
た(12章8節)。ということは、マリアとヨセフは貧しかったということになるでしょうか。
とにかく、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということが何度も
繰り返され、強調されています。
(3) シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされています。「慰められる
こと」はギリシア語で「パラクレーシスparaklesis」と言い、元の意味は「そばに(助けを)
呼ぶこと」です。ここでの「慰め」とは、メシア(救い主)の到来を意味しています。シメ
オンは幼子を見て、「主が遣わすメシア」だと確信しました。そして、28-31節で神を賛美
し、33-35節でイエスの家族を祝福します。実はこの「賛美する」と「祝福する」は、ギリ
シア語では同じ「エウロゲオーeulogeo」です。もともとは「よい言葉を言う」ことを意味
しますが、それが神に向かえば「賛美」となり、人に向かえば「祝福」となるのです。
救いの光を強調する賛美の言葉に続いて、マリアに向かって語られた言葉は、幼子イエ
スの将来について厳しい面を告げています。「倒したり立ち上がらせたり」というのは石
のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅(すみ)の石」(イザヤ28章16節)でも、
ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8章14節)になってしまうのです。そし
てつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。このイエスの受難に母マリ
アがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣(つるぎ)で心を
刺し貫かれます」という言葉の意味でしょう(ヨハネ福音書はイエスの十字架のかたわらに
立つマリアの姿を伝えています。ヨハネ19章25-27節)。
(4) アンナは女預言者と呼ばれています。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望
んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉は
ギリシア語の「リュトローシスlytrosis」で「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。身
寄りのない「やもめ」は初代教会の中でも、祈りに専念する役割を与えられ、保護されて
いました。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈り
を続けます」
「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であっ
た人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親
切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、
あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」(Ⅰテモテ5章5,9-10節)。アンナはこの
ようなやもめたちの原型であり、理想像でもあると言えるでしょう。
(5) シメオンやアンナが高齢者として描かれているのは、救いを待ち続けた旧約の長
い時代を感じさせ、その完成の時を印象づけます。また、きょうの箇所で「主の律法で定
められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計
画を感じさせる表現でしょう。ルカ福音書はこの物語を伝えながら、イエスによる待望の
成就、神の計画の実現、救いの時代の到来を表現しようとしているのです。
同時に、このシメオンやアンナの姿にわたしたち自身を重ね合わせてみることもできる
でしょう。29-31節のシメオンの言葉は、「シメオンの賛歌」と言われて、教会の祈りの「寝
る前の祈り」で唱えられています。シメオンの祈りは、イエスとの出会いの中で「安らか
に(平和のうちに)」憩うことを願うわたしたち自身の祈りでもあるのです。わたしたちの
人生の歩みの中にも、やはり聖霊の導きがあるのではないでしょうか。その導きによって
こそ、シメオンやアンナのようにイエスに出会う喜びを味わうことができるのです。