フォルカー・ツォッツのペツォルト像批判 鼓 澄治/倉敷 仏教文化学、宗教

フォルカー・ツォッツのペツォルト像批判
鼓 澄治/倉敷
仏教文化学、宗教学の分野で強い影響を与えているというオーストリアの
哲学者フォルカー・ツォッツ Volker Zotz(1956-) のペツォルト像をその著書
『至福の島にて』(Auf den glückseligen Inseln, 2000, S. 186-193、副題:
「ド
イツ文化の中の仏教」) から紹介し、最後に評者の批判を付け加える。
まず、ブルーノ・ペツォルトの略歴を次のように紹介している。
ペツォルトは、哲学、心理学、経済学の研究の後、ジャーナリス
ト、著述家として活躍した。ペツォルトは、十年にわたって、ドイ
ツの雑誌や新聞の通信員としてヨーロッパで活躍し、皇帝ヴィル
ヘルム二世の植民地政策で東アジアに赴き、そこで 1908 年から
「北洋徳華日報 Tagblatt für Nord China」1 を編集した。ピアニス
トで歌姫であったノルウェー人の妻ハンカ・シェルデルプ Hanka
Schjelderup が東京の音楽学校に招かれた 1910 年、ペツォルトは
妻に従って来日した。第一次世界大戦のため新聞の通信員ができ
なくなるまで、日本から「ケルン新聞 Kölnische Zeitung」に寄稿
した。その後、日本の大学でドイツ語を教えた。
また、ペツォルトが仏教に関心を抱くようになった契機については、次の
ように述べている。
京都に近い天台宗の本拠地比叡山を訪れたことで、仏教がペツォ
ルトの関心の的となった。
ペツォルトに 20 年にわたって毎週 2 回仏教を教授した花山信勝 (1898-1995)
によれば、
「比叡山の山王祭を観られ、それが動機となって、天台宗の歴史と
教理と実践とに興味をもたれ・
・
・」2 という。
しかし、
「比叡山の山王祭を観られ、それが動機となって・
・
・」というのは、
花山信勝の誤解で、比叡山の山王祭ではなく、比叡山の傳教大師千百年大遠
忌3 というべきであると思われる。
澤田嗣郎:
「ブルーノ・ペツォルトと比叡山」4 によれば、ペツォルトは 1917
年 (大正 6 年) 信州の善光寺に参詣後、仏教特に天台宗に興味を持ち始め、1920
1 澤田嗣郎氏の指摘によれば、D・シャウベッカー:
「ブルーノ・ペツォルト」(「ペツォルト
の世界」第 3 号 39 頁) に「北洋獨華日報」とあるのは誤りで、「北洋徳華日報」が正しいとい
う。実際、澤田氏の蒐集した資料 (Tageblatt für Nord-China, 1914 Juli den 21, Dienstag,
Tientsin) では、「北洋徳華日報 Pei-Yang, Te-Hua Ji-Pao」となっている。
2 Tendai Buddhism collection of the writings by Bruno Petzold, 1979, あとがき参照。
3 澤田嗣郎氏 (談) によれば、山王祭は、毎年 4 月 12 日より 14 日まで行われる日吉大社の
例大祭であり、傳教大師千百年大遠忌は 1921 年 (大正 10 年)3 月 16 日より 4 月 4 日まで催さ
れたが、その時期太湖汽船坂本港及び開通したばかりの江若鉄道叡山駅に 3 月初めより大きい
五色の吹き流しが立てられ、山麓上坂本の家々では戸口に高張提灯を立て、参詣者を迎えて法要
を祝っていたから、その状況を聞いて「山王祭」と誤解したと思われるという。
4 「ペツォルトの世界」第 3 号参照。
1
年 (大正 9 年) 同寺にて僧侶となり徳勝5 を授けられた。また、1921 年 (大正
10 年)「傳教大師千百年大遠忌」中に初めて比叡山に登り、傳教大師の霊績に
参拝した。大正 13 年には比叡山全体、日吉神社を参詣、大正 14 年には比叡
山の諸法筵・儀式を調査、大正 15 年には京都の天台宗の主だった寺院をも訪
ね、巨細にわたって調査、さらには吉野修験道の研究にも手を伸ばした。
また、D・シャウベッカー:
「ブルーノ・ペツォルト」6 でも、同様の指摘が
見られる。すなわち、「彼が真剣に仏教研究に取り組むのは 1917 年に長野県
の善光寺を訪れてからです。彼は天台宗に対して特別な関心をいだき、同宗
の開祖伝教大師の教えを研究したいと望んで、その意思を同宗のしかるべき
人々に何らかの形で開陳したのです。」
要するに、ペツォルトは、1917 年に善光寺を訪れたのを機に、仏教、特に
天台宗に興味を抱き、その後、1920 年には徳勝として天台宗の僧侶になり、
1921 年に初めて比叡山を訪れるなどして、仏教研究を推し進めたのである。
ツォッツは、ペツォルトがかくも仏教研究に専念した理由を控えめながら
次のように推測している。
もし、ペツォルトが日本で座礁したドイツ人として、仏教によっ
て祖国ドイツの哲学や文化の中で愛したものすべてが活力を与え
られるという仏教観を形作ったと言うならば、それはおそらく過
度の単純化であろう。
ここで、
「日本で座礁した」とは、妻に従って来日し、ヒューマニストで反
戦家であったがゆえに、ドイツに帰れなくなったということを指している。
ツォッツは、ペツォルトの仏教観が状況に強いられた面があるのではないか
という。
ツォッツは、ペツォルトの立場を「ユーラシア・ヒューマニズム」と呼ぶ。
ペツォルトが、大乗仏教、特に天台宗の意義を、対立者の統合に見出し、東
西、つまりアジアの文化とヨーロッパの文化を結合することを可能にするも
のとして高く評価したという点に着目してのことである。
さらにペツォルトの努力は、「第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の政
治的傾向を背景に、東西の文化的摩擦の可能性を除去するという要請」に答
え、
「仏教の教えとヨーロッパの教説の内面的親和性と構造的類似性とをアジ
アとヨーロッパの架け橋として理解しよう」するものであったという。それ
ゆえに、
「ペツォルトの仏教研究は主として、西洋の思惟と仏教の思惟の対応
一致を明らかにする」ものとなったという。具体例を挙げれば、天台の三つ
の真理とシェリングのポテンツ論7 、天台の四つの原理とフィヒテの五つの世
界観8 、ゲーテの神・自然という概念と『華厳経』の教説等々である。
5 澤田嗣郎氏によれば、徳勝は、おそらく「ドイツの勝れた人」という意味であろうという。
6 「ペツォルトの世界」第
3 号 47 頁参照。
7 智顗とシェリング:
「ペツォルトの世界」第
8 智顗とフィヒテ:
「ペツォルトの世界」第
5 号参照。
2 号参照。
2
しかし、西洋の思惟と仏教の思惟の対応一致を明らかにするペツォルトの
方法にはディレンマがあるという。
内容の対応一致は、当初の疎遠なものの理解の助けとなるはずで
あったが、最終的にはそれぞれの固有なものへのまなざしを遮っ
てしまう。
さらに、エドワード・コンゼ (Edward Conze 1904-1979) を援用して、ペ
ツォルトの比較という方法は、仏教の中に西洋の内容を投影した理解となり
かねないとして、次のように批判する。
たとえ、その手続きが仏教的思惟を西洋哲学に対して参究資格の
あるものにするのに役立つとしても、それは、ヨーロッパの哲学
者が仏教的なものに関心を抱くようにするための誠実なやり方で
はないし、目的に沿うものでもない・
・
・。実際、よく知っている
内容を仏教の原典や主題の中に投影する危険を過小評価すること
はできない。
また、ペツォルトが、仏教の教えとヨーロッパの教説の内面的親和性を広
範に指摘できたのは、ペツォルトに仏典に対する言語学的基礎がなく、西洋
の翻訳に頼ったせいであるとして、次のように言う。
仏典の言語学的基礎には関わらないとするペツォルトの姿勢のお
かげで、ペツォルトは、ヨーロッパで教育を受けた解釈者たちの
仏教理解に変更を加えるという危険にさらされることはなかった。
これらの解釈者たちの用語やヨーロッパの思考形式の使用が広く
ペツォルトの意に沿っていたからこそ、ペツォルトは細部にまで
広範な親和性を見出すことができたのである。
このように、ツォッツは、ペツォルトを批判した後、最後に、ペツォルト
の不変の歴史的意義として次の二点を指摘する。つまり、ドイツ文化の最も
価値あるものとアジアの文化の頂点とが一致することを解明したペツォルト
のユーラシア・ヒューマニズムの意義は、一つは、当時のドイツ文化の民族
主義的・純血主義的解釈に反対したという文化的・政治的意義、もう一つは、
ヨーロッパ人として仏教にヨーロッパ文化と同等の権利を認めたという思想
的・歴史的意義であると主張する。
以上がツォッツのペツォルト像の要点である。
しかし、このようなペツォルト像は、ペツォルトの業績を適正に評価した
ものであろうか。評者は、ツォッツはブルーノ・ペツォルトの宗教的・哲学的
意義を十分には捉えていないと考える。ツォッツは、ペツォルトの歴史的意
義を認めているが、それは二次的・副次的意義であって、第一に認めなけれ
ばならないのは、宗教的・哲学的意義である。
3
ツォッツは、ペツォルトの信念として、次のようなペツォルト自身の言葉
を引用している。
人類のあらゆる精神的力を調̇和̇にもたらす必要があるということ、
そして、全世界の政治家にも学者にも、また労働者にも農民にも、
人類は一つであり、もし精̇神̇的̇一̇元̇性̇を忘れるならば、滅亡する
ということを理解させる必要があるということ9
この引用の中で評者が注目したいのは、傍点を付した「調和」と「人類の
精神的一元性」という二つの表現である。
ツォッツは、「人類の精神的一元性 ihre spirituelle Einheit」というペツォ
ルトの言葉をどのように理解しているのであろうか。ペツォルトの言う「人
類の精神的一元性」は、例えば、ペツォルトが智顗とシェリングを比較しな
がら述べた次のような言葉によく表現されているといえよう。すなわち、
両者とも、・
・
・われわれの中にある神的生命からのみ神的生命は
その絶対的実在性において十全に理解されうると信じている。こ
の神的生命を持っているのはわれわれの通常の精神である。しか
し、われわれはそれをその表面上で求めてはならない。というの
は、そこを支配しているのは浅薄な通常の意識でしかないからで
ある。しかし、われわれがわれわれの精神の奥深くを看破するな
らば、全世界を照明することができる神的な内なる光をきっと見
出すであろう。10
ペツォルトの言う「人類の精神的一元性」とは、哲学的に言えば「絶対的
実在論 absoluter Realismus」であり、宗教学的に言えば、「万有在神論 Pa-
nentheismus」である。ペツォルトは、この立場を天台学、ウパニシャッド、
シェリングなど東西のさまざまな宗教や哲学に共通する最も深いものとして
見出している。
それでは、ペツォルトが人類の精神的一元性として見出した絶対的実在論・
万有在神論とはどのようなものであろうか。ペツォルトは、天台学やゲーテ
に見出される万有在神論を次のように説明している。
万有が神の内にある (万有在神) 論では、神は世界に内在すると同
時に世界を超越し、神は世界の内に住んでいるがしかし同時に世
界を超え出てもいる、— 神ないし仏陀ないし絶対者は、それ故に
事実としての事物の、すなわち宇宙の総体ないし全体なのではな
い。11
9 傍点は評者
(鼓)。
Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre,1982, S.380.
「ペツォルトの世界」第 4 号 11 頁参照。
11 Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.287
10 Die
4
同じことをまた、天台学とヨーガを比較しながら、ウパニシャッドに見出
される汎神論について次のように述べている。
この汎神論は、狭い限定された意味での汎神論、つまり最高の実
在を単に事物の総体と解しその超越性を否定する汎神論ではなく、
神は世界を含みしかも世界を超越している、それ故に世界より大
きいとする万有在神論である。12
そして、この万有在神論は、汎神論ではあるが、
「この世の豊かで多様な絢
爛たる生を空虚な夢とか芝居ないし影絵芝居にしてしまう抽象的一元論・
・
・で
はなく、時間的なものと永遠なものとを相互に調和にもたらす汎神論」13 で
あるという。
確かに、ツォッツはペツォルトが『ゲーテと大乗仏教』の中で、万有在神
論を両者の究極的立場として明らかにしたことを認めているが、この万有在
神論は、ゲーテや大乗仏教に限らず、東西のさまざまの宗教・哲学の一元性
を具体的に表現するものであると解することができる。
次に「調和」というペツォルトの表現について確認しておきたい。
確かにペツォルトは、主著の die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre の副題
に「比較研究 eine komparative Untersuchung」と記し、本文でも「比較宗教
の立場から vom religionsvergleichenden Standpunkt aus」といい、「すでに
知られた思想と比較対照する zusammenhalten」14 と述べているが、そもそ
も比較という方法は、より根本的な事柄についての洞察なしには成り立たな
いし、より根本的なことを明らかにするという態度がなければ成立しない。
もしそれがないならば、ツォッツがいうように、固有なものか共通のものか、
どちらを重視するかというディレンマに陥るであろうし、二つの固有なもの
相互のいずれか一方に傾いた結合、これをツォッツは投影 Projizieren とか分
極化 Polarisierung と呼んでいるが、に堕してしまうであろう。
東洋と西洋を結合するとか架橋するとかは、ペツォルトの立場ではない。ペ
ツォルトの立場は、人類の精神的一元性の立場であり、世界の一元性の立場
である。ペツォルトは、この「人類の精神的一元性」の立場から、
「人類のあ
らゆる精神的力を調和にもたらすこと」を追求したのである。「結合・架橋」
ではなく、「調和」を求めたのである。「結合・架橋」が異なるものの同一性
を主張する立場であるとすれば、
「調和」は、異なるものの無対立性・無差別
性を主張する立場である。天台の言葉で言えば、円融である。
以上において、評者が指摘しておきたかったことは、次の三点である。
1. ツォッツは、ペツォルトの歴史的意義しか認めていないが、第一に認め
られなければならないのは、宗教的・哲学的意義である。
12 Die
Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.328.
「天台学とヨーガ」
:
「ペツォルトの世界」第 6 号??頁参照。
13 Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.328.
「天台学とヨーガ」
:
「ペツォルトの世界」第 6 号??頁参照。
14 Die Quintessenz der T’ien-T’ai-Lehre, S.138
5
2. 宗教的・哲学的意義の第一は、東西という異なるものの同一性を主張す
る結合・架橋ではなく、異なるものの無対立性・無差別性を主張する調
和の立場である。
3. 宗教的・哲学的意義の第二は、ペツォルトが人類の精神的一元性として
絶対的実在論・万有在神論を提示したことである。
6